「鬼才の姫、鬼となり果てること。

弓川あずさ



 稀代の陰陽師、安倍晴明。彼を語るうえで必ずと言っていいほど登場する人物がいる。その名は、蘆屋道満。晴明との術比べはいくつものパターンが存在し、中には一時的にだが晴明に勝利するものも存在する。道摩法師とも呼ばれる彼は、官僚としてではなく、民間でその術を行使したという。彼の朝廷に仕えることなく晴明と渡り合うその生き方は、確かな実力に裏打ちされた自由気ままなものだったのではないだろうか。晴明の伝説には悪役として登場することも多く、実在さえも疑わしい彼のことを、まことしやかに話そうと思う。


 残暑の厳しい年であった。あまりの暑さに都では先日、雨乞いの儀式が執り行われたほどである。そしてその暑さはここ播磨国でも例外ではなかった。
「暑い......」
 玉のように額に汗を浮かべながら、男が呟いた。男は、都のさる屋敷の召使であった。彼がこんな場所まで遠出を、それも途中から徒歩ですることになったのは、とある男に会うためであった。
 気が付けば、彼は目的の場所である寺の前にいた。しかし、彼は入ることをためらった。なぜならその寺の門は立派だが古めかしく、生垣もあまり手入れされているようには見えなかったため、破れ寺のように思えたからだ。
「こちらは道摩法師の住まいであるが、何か御用か」
「あなや!?」
突然、男の背後から声がかけられる。驚き声を上げた男が、恐る恐る後ろを振り向くと、そこには切れ長の目をした顔の良い童がいた。身形はそこまでよくはないが、それを補って有り余るほどの美しさがあった。しばし圧倒されていた男は、やっとのことで気を持ち直す。
「その通りだが、お前は何者だ」
「おれは道摩法師の弟子だ。すぐに呼んでくるからそこで待っておけ」
童はぶっきらぼうに答え、寺に入るために男の横を通り抜けようとした。
「その必要は無いよ」
 門の中から声が聞こえる。ほどなくして、僧衣を着た浅黒く日焼けした男がゆっくりと出てきた。そう、この男こそ、道摩法師こと蘆屋道満である。
「はるばるようこそ、都のかた。ささ、中へ」
 にこにことしていたが、その声には有無を言わせぬものがあるように都の男は感じたのだった。

 寺の中は意外にも小綺麗であった、といっても庭などは貴族からすれば眉を顰めるものであったかもしれない。茶碗で水を一杯飲み干し、一息ついた男は道満と対峙させられていた。道満は余裕ある態度で話し始める。
「先ほどは弟子が失礼しました。ところで、この道摩法師になにやら用があるとか」
緊張した面持ちで男は答えた。
「私は、藤原友平様に仕える武麻呂と申しまして、この度は道摩法師様に友平様のご息女をお助けいただきたく参りました」
「ああ、最近話題の『鬼才の姫』である紀子様のことでしたか」
「な!?」
 武麻呂は茶碗を倒しかける。慌てて抑える武麻呂を気にせずに道満は続ける。
「そんなことよりも、あなたたちは先に他の陰陽師に頼った後にここに来ましたね。晴明殿は雨乞いの儀で忙しく、かといってほかの宮廷の陰陽師に頼ろうにも醜聞が漏れるのが怖い。身近なところで適当な野良陰陽師を捕まえて解決しようとしましたな。で、失敗した」
武麻呂は「どうしてそこまで知っているのか」と恐怖した。
「まさか、先にこちらに来なかったことで気分を害されたのか」
道満はきょとん、とするがすぐに得心がいったのかにこりとする。
「いえいえ、そんなことはございません。他の野良陰陽師に対する面子などすぐ取り戻せます。それよりも、早くこちらにいらっしゃっていたならば、手遅れとなる前になんとかできましたのに、それが残念でならないのですよ」
 不憫なものを見るような顔で道満は言った。武麻呂の顔がさっと青くなる。
「それは、姫様はもう助からない......と?」
「まあ、私の見立ての通りならば。ですがまだわかりません。きちんとしたご依頼であれば、できる限りのことはしてさしあげましょう」
 すると、武麻呂は道満に縋りつく。
「お願いいたします!どうか、どうか姫様をあの鬼の手からお救いください!」
武麻呂が見ていないところで、道満はにやっ、とした笑みを浮かべて答える。
「よろしい。それでは詳しくお話をお聞かせください」


 それは、数年ほど前のことであった。藤原友平が娘、紀子は才といえる才がなく、見た目にも特筆するものがなかったために、家からは軽んじられていたという。しかしある時から、めきめきと詩や雅楽の才を発揮するようになった。本来女がするものではない管楽にまで手を出したことには少し眉をひそめたが、喜んだ両親は、娘のために縁談をとって応援しようとするが、肝心の娘が乗り気ではない。やってくる男たちも、帰るときには何かを恐れて喋ろうとしない。なにやら娘の部屋を夜な夜な訪れるものがいるらしい。そこで家人を使って調べさせることにした。夜、三日月が照らす中でこっそりと生垣に隠れながら家人たちが見たものは。

――上手くなったなあ、姫よ。
――いえ、あなたに比べればまだまだ拙いものでございます。
 鬼であった。巨大で、赤銅のような色の身体をしたそれが、姫と話していたのだった。鬼は笑いながら姫の才覚をほめ続けた。そこで姫は笛を取り出し、吹き始める。月のかげ、虫の声、それらと入り混じったその音は家人たちも聞き惚れる程のものであった。しばらくして、鬼が言った。それはどことなく不安げな声色であった。
――しかし良かったのか、姫よ。縁談を断るなどして。
――親は呆れ果てていました。でも、私は気にしておりません。それに、あなたとの約束があります。
にかっ、と姫が笑う。その瞬間であった。姫の口が裂け、犬歯が伸びる。額の皮が破れ、角が覗く。家人たちは『あなや!』と叫びそうになるがこらえた。次の瞬間には、姫は人間の姿へと戻っていた。そして姫は続けた。
――親や家人たちを見返した暁には鬼となり、あなたのものになると。
 がさり、と家人の一人が音を立てた。ぎろり、と鬼の目が生垣のほうを向く。ひいっ、と家人たちは逃げ出した。
 仰天した両親たちである。それを聞いた彼らは道満の言った通り、野良の陰陽師を雇って鬼を調伏させようとした。しかしながら、返り討ちになったその陰陽師は無残な姿となってしまったのだった。


 以上が、武麻呂の語る顛末であった。道満はにこにことしながらこれを聞いていた。それを横では弟子が呆れたように見ていた。
「いやはや、大変なことになっておりますなあ」
顎を撫でながら道満は言う。
「お願い申し上げます。姫は鬼に騙されているのです。あの鬼さえどうにかすれば、姫は良い縁談を見つけられるでしょうに!」
涙を流しながら、武麻呂は語る。
「とにもかくにも、鬼をどうにかしてほしいと。やってみせましょう。ですが、姫は相当な対価をお支払いになっているご様子。残念ながら長く生きることはできますまい」
「あなや!」
武麻呂は伏せてむせび泣く。
「そう泣きなさるな、武麻呂殿。せめて地獄などには落ちぬようにして差し上げましょうぞ」
「道摩法師様、よろしくお願いします、よろしくお願いします......」
 武麻呂がひとしきり頼んだ後、道満は告げた。
「よくわかりましたよ、武麻呂殿。それでは、まずは一度お帰りくだされ。それと先に私の弟子を連れて行ってはもらえませぬか。おい、こっちへ」
茶碗などを片付けていた弟子は道満の声に従ってやってくる。
「これは蛇丸という名でして。少々人への礼儀はなっておりませんが頼りにはなるでしょう」
じっ、と弟子こと蛇丸は、武麻呂を見つめた。武麻呂は不安そうに道満に問いかける。
「道摩法師様、あなた様が直接調伏してはくださらぬのですか」
 にこにこと道満は答える。
「安心しなされ。私もいくつか準備することがありますのでね、あとからすぐに参りますので。それに、あなたたちが用意したどこぞの名も知れない陰陽師よりよっぽど頼りになりますよ」
 そうして蛇丸を連れて武麻呂は屋敷へ戻ることになったのであった。

本当に大丈夫なのか、待たせていた牛車の中で蛇丸を見ながら武麻呂は思っていた。時はすでに黄昏時である。
「お前、また俺のことを馬鹿にしていただろう」
 いつの間にか蛇丸の鋭い目がこちらを向いていた。
「聞いただけでも気分の悪い話だった。お前もそのひとりだ」
 それを聞いて武麻呂はむっ、とした。何か言い返そうとしたとき、牛車が止まる。
「静かにしろ」
 蛇丸はそう言った後、何かを呟いて武麻呂に渡すそれは何かが書かれた札であった。
「お前の話に出てきた鬼だ。おそらく追ってきたんだろう。どうにかごまかすから一言も喋るな。それを持っている限りは相手にもお前のことは気づかれない」
そう言って蛇丸は牛車の外に出て行った。がたがたと震えながら武麻呂が縮こまっていると、蛇丸と何者かの声が聞こえてくる。何を話しているのかはわからないが、足音が牛車に近づいてくることは分かった。牛車の簾が捲られる。そのとき武麻呂は見てしまった、鬼が中を覗き込んでいることを。蛇丸の言葉を思い出しながら必死にこらえる。鬼のギラギラとした眼球と鋭くとがった犬歯がひどく印象に残った。しばらくして鬼は去っていった。
――お前の言葉に嘘はなかった。申し訳ない。
 そう鬼が蛇丸に言ったのが聞こえた。鬼の気配が去ると、何事もなかったように蛇丸が入ってきた。
「もういいぞ」
 そう言われて、武麻呂は大きく息を吐いた。
「どうした、文句は言わないのか」
 蛇丸の実力を認めざるを得なかった。しばらくして、屋敷へたどり着いた。

 武麻呂が蛇丸を連れて屋敷に戻って数日後、道満が到着した。
「ね?お役に立ったでしょう?」
 武麻呂をみて道満が最初に言ったのはその言葉だった。そして、兎にも角にも件の姫と会わせてほしいとのことで対面することになった。
 そして今、簾越しに道満は姫と話していた。万が一のため、周りには家人が控えている。また、蛇丸の姿も道満の傍にあった。
「お初にお目にかかります。私、播磨の道摩法師と呼ばれているものでございます。この度は鬼才の姫様のお目にかかることができて恐縮でございます」
 いつものようににこにこと話す道満。しかし、姫の反応はそっけないものだった。
「それはありがたいことでございます。されどわざわざそのような辺境から会いにいらっしゃるほどの者ではございません。お引き取りください。さもなくば、あの陰陽師と同じようになっていただきます」
そんな脅しをかけられ、むしろ道満は楽しくなったようだった。
「これはこれは、なんと恐ろしい」
「......ッ!馬鹿にしているのですか」
ぶわっ、と風が吹きすさぶ。捲れた襖の向こうの姫の姿は、鬼とそう変わらなかった。家人たちが逃げ出す。しかし、道満と蛇丸は動じることなくその場に残っていた。
しばらくして、家人たちが道満は喰われたのか、と戦々恐々としていた頃合いに、何事もない様子で二人が戻ってきた。
「道摩法師様、姫はどうなったのですか?」
 家人の一人が尋ねる。
「まあ落ち着きなさい。今回はなんとかなりましたが、次はなさそうですね。鬼に心を奪われてしまっている」
 家人たちがどよめく。奥方は泣き伏した。そんなことには目もくれず、道満は話し続ける。
「ですから、これを使います」
 そういって彼は、山鳥の尾を取り出した。
「『離別祭文』と言いまして、人の心を操る呪法でございます。あまり使いたくはなかったのですが、こうなっては仕方がない」
その言葉とは裏腹に道満はどこか楽しそうな様子であった。そういう訳で、その呪法が行われることになった。そしてその儀式は、滞りなく終了した。


後日のことである。儀式の後、姫は鬼になることはなくなった。近くに鬼の姿もなくなったという。しかしながら、詩を詠むことも雅楽を演奏することもなくなった。しばらくして、彼女は亡くなった。家中はたいそう悲しんだが、亡くなる前には天上の音色が聞こえ、御仏の姿を見たというものもいたため、せめて安らかに輪廻へ向かったと慰めあったという。
そんなことを伝え聞いて、自宅の寺で道満は月見酒をしながら大笑いしていた。
「聞いたかい蛇丸、あの藤原友平の家のこと」
「本当に趣味が悪いですね、わが師は」
酒を注ぎながら蛇丸は答えた。
「全部、師がやったことでしょう?俺が館に向かう時の鬼は師の式神でしたし、しばらく生きていたあの姫も式神による身代わり。姫はすでに鬼と駆け落ち済み。最後の御仏の姿の幻を見せるなど、特に罰当たりだ」
 注がれた酒をちびりと飲みながら道満は笑っていた。
「そもそも、人と鬼が想いあっているなんて面白いことがあるのに、わざわざ引き裂くほうが私は怖いよ。話を聞いてみたら、思った通りだったじゃないか」
 そうなのだ。最初は、鬼も下心から近づいたらしい。鬼の持つ技を与えることで姫のその才覚を目覚めさせる、しかしながらもちろん鬼の技であるため磨けば磨くほど鬼へと近づいていく。そのことに対して、最初は面白がっていた鬼はいつからか申し訳なさを感じるようになっていた。そこで、姫からその技を取り上げ、どこか遠くへ行こうと考えていたのである。慌てたのは姫のほうであった。姫のほうも最初は鬼を利用する気であった。その身が鬼へとなり果てることも、両親や家人たちへ怒りを思えばなんともなかった。そのうち、自分の才覚をここまで伸ばしてくれた鬼のことを慕うようになっていた。そんな折に家人の雇った野良陰陽師が現れたのである。彼は姫もろとも調伏し、自分の式にしようと企んでいた。しかしながら、ほの暗い欲望を持った彼は鬼となりかけていた姫によって食い殺されたのだった。というのが、道満たちが実際にふたりから聞いたことである。
「結局、あの呪法はどうしたのです」
ふと、気になったようで蛇丸が訊いた。そう、あれほど大仰な儀式をするためにわざわざ道満は山に入って山鳥をとってきたのだ。なにもしていないのなら割に合わない。道満はにやにやした。
「あれね。姫とあの家との縁を切った」
「......そんなことをして、問題ないのですか」
「人の世とのつながりを完全に切ったわけだし、今頃姫は本当の鬼となり果てたのではないかなあ」
いつの間にか、蛇丸も茶を飲んでいた。ぽつりとつぶやく。
「仲が続くと良いですね」
「さあ、どうだろう。鬼も人とそう変わらないからね。でも、姫のあの姿を気にしていないのなら、心配することはないんじゃないかな」
 また、ちびりと酒を飲む。今宵は、満月であった。どこからか笛の音が、聞こえるような気がした。


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