耳を澄ませて

植場



 思うに気配というものは、視覚によらない感覚で誰かの存在を感じ取ったときに生じるのでしょう。
 聞こえたということ自体に気付けないほどにかすかな物音。空気の揺らぎ。空間に残った体温。最近の研究では、人体が発するごく微弱な電気を肌で受け取る感覚が、気配の正体だという仮説もあるようですね。
 中でも、聴覚が果たす役割はかなり大きいのではないかと思えます。いくら注意を払っていても、音をまったく出さずに行動できる人はそういないでしょう。足音、呼吸音、床のきしむ音。そこにいるだけで、人間は実に多くの音を発します。

 私の実家には二階に子供部屋があり、私は多くの時間をそこで過ごしていたのですが、家族が家の中を動き回るのを感じる要因もまた、音でした。家という密閉空間は、私たちが想像する以上に、よく音を反響させます。静かにさえしていれば、玄関の扉が開く音から一階のトイレが流れる音まで、家の中で起きるほぼすべての生活音を聞き取ることができました。
 普段、そういった音は雑音として無意識のうちに処理されているものです。しかし、暇なとき、考え事をしたいとき、勉強に疲れてひと休憩するとき、私は家の中の物音に耳を澄ますのが好きでした。集中してみると、些細な音量の違いや、足音のリズム、「大きな物音を立てないよう気を遣っているな」というようなことから、その音の主を判別できるようになってくるのです。それが楽しかったのでしょう。
 最も容易に家族を判別できるのは、階段を上る音です。もしあなたの部屋が二階にあったなら、共感してくれるかもしれませんね。足音や軋み音の大きさはもちろん、段を踏むリズムには驚くほどに個性が現れます。私の家族の例で言えば、忙しなくテンポが速い足音は母、ゆっくりしていて軋み音が大きければ父、遠慮なくドタドタ音を鳴らすのは弟、という具合でした。もっとも、聞き分けられたからどうだ、ということもないのですが。
 いえ、なかった、と言うべきでしょうか。
 この特技のために、私は少し、怖い思いをした経験があるのです。それ以来、家の物音に耳を澄ますのも、やめてしまいました。

 私の家は、階段を上ると正面に廊下が伸びており、右手の壁に両親の寝室へと繋がる扉が、左手の手前側に弟の部屋、奥側に私の部屋があるという位置取りでした。
 ですから、より階段に近い部屋の弟は、私以上に、階段を上る音がよく聞こえる筈です。
 でも弟は、そんな音は一度も聞いたことがない、と言うのです。
 ──その、家族の中の誰のものでもない足音は、私にしか聞こえていないようでした。
 気のせい、私も最初はそう考えました。しかし、足音が聞こえる頻度はだんだん上がってきて、一日に一度必ず聞こえてくるようになると、流石に不気味に思わずにはいられません。家族には一笑に付されましたが、当時は「家の中にお化けがいる」と心底怯えていたのを記憶しています。
 なぜ「お化け」と思ったかと言えば、足音が聞こえてくるのが決まって深夜だったためでしょう。聞こえ始めたのは高校一年生のころで、私に夜更かしの習慣がついてしまった時期も同じくらいです。早寝していたから気付かなかっただけで、もしかするとずっと前から、夜中になると足音が鳴っていたのかもしれません。

 その足音はとてもゆっくりとしていて、でも父のものとは違い、階段を大きく軋ませはしません。一段一段慎重に、なにかを確かめるように、上ってくるのです。足音を立てまいとしているのかと感じさせるほど、それは静かな音でした。ですが、先程も言った通り、いくら気を付けても、完全に音を消すなどできません。私の耳はいつもその足音を鋭敏に捉えました。
 階段を上りきると、まるで音の主が消えたかのように、足音は途絶えます。始まってから消えるまで、二十秒くらいでしょうか。その間、私は気が気ではありませんでした。不安、なんです。
 それが廊下に立っているかもしれないこと、ではなく。
 足音が私の部屋の扉の前まで続くかもしれないことが。
 そしてそれは、実際に起こりました。

 その日は中々寝付けなくて、深夜何時だったでしょうか、ベッドに横になってぼうっとしていました。家族はみんな既に寝ています。家の中はとても静かで、ときどき起きる家鳴りの音がよく響いていたのを憶えています。

 ぎしっ。
 ぎしっ。

 まただ、と思いました。慣れとは不思議なもので、どんなに怖い出来事でも、何度も経験すれば平気で過ごせるようになります。そのころには、音が鳴る回数すら記憶してしまっていました。あと十二段。
 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 相変わらず、軋み音を厭うような静かな足取りです。音と音との間隔は、測ったわけではありませんが毎回きっちりと同じで、機械的な印象さえ感じました。

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 夜更かしを両親に悟られないよう、ひっそりと階段を上り下りした経験は、誰しもあるのではないかと思います。かく言う私も同じです。
 誰かに気付かれないように、静かに階段を上っているのなら──一体、誰の聞き耳を憚っているのだろうか。うまく回らない頭で、そんなことを考えていました。
 今にして思えば。
 私、だったのでしょう。

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 最後の足音を聞き届けて、私は寝返りを打ちました。
 眠れない夜は、意識を手放すために思いつく限りの努力を試みるものです。ですから、ええ。足音を数えてしまったのも、単なる慰みだったのです。
 ぎしっ。

 とても静かでしたから、数え間違いはありません。
 その十五歩目は、それが階段を上りきって、廊下を進み始めたことを示していました。
 視線の先には部屋の扉があります。
 考えることは、ひとつです。

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 依然として、私は心の中で数を数え続けていました。
 私の部屋まで、何歩くらいだっけ?

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 弟の部屋を通り過ぎたのは確かです。きっと両親の部屋も目当てではないのだろうと、心のどこかで察していました。

 ぎしっ。

 最後の足音は、確かに、
 扉のすぐ向こうから聞こえました。
 目を閉じることはできませんでした。
 だって、このまま扉が開いて、それが部屋の中に入ってきたら。一晩中、部屋を歩き回る足音が響く中で、寝たふりをし続けなければならなくなったら。
 耐えられない。
 それの姿を直視するほうがましだ。そう思いました。
 ですから。

 こん、こん、こん。

 正確に三回、ノックの音が響いたときも。
 ドアノブが静かに回って、音ひとつ立てず、扉が開き始めた、その最中も──
 私は扉の向こう側の暗闇をじっと見つめていました。
 半開きになった扉の隙間から、ゆっくりと、








 そこで私は一時停止ボタンを押した。
 ──なんだ、これは?
 手の中にある、古びたレコーダーを見下ろす。こんなもの、私は持っていなかった。その筈だ。
思わず背後の扉を振り返った。扉は、閉まっている。

 私の両親は交通事故で二人ともいなくなった。先週のことだ。以来、目の回るような日々を過ごしている。煩雑な手続きと書類の束を、ひとりで相手にしなければならなかった。
 弟は仕事が忙しいらしい。薄情だとは思わない。せっかく就職に成功して、仕事が軌道に乗り始めた、その矢先のことだったのだ。就職祝いのパーティーからは半年も経っていない。電話口で何度も謝る弟の声は、微かに震えていた。
 そして、今日は──実家の整理に来たんだ。そうだ。
 持ち主がいなくなった以上、要るものと要らないものを仕分けして、適切な処分をしなければならない。流石に一日や二日で終わるとは思えなかったので、まずは手を付けやすいところをと、自分の子供部屋から始めることにしたのだ。
 引き出しの奥に、まるで隠すようにしまわれていた、見覚えのないレコーダーを見つけた。
 きっと誰もがそうするように、私は訝しみながら、再生ボタンを押した。──それで。
 なんだ、これは。
 数分の間、黙って聞いているしかなかった。
 誰かに語り聞かせるような口調だったからでもある。異常な内容のせいでもある。だが、なにより。
 その声は確かに、子供のころの私のものだった。
 だから最初は、日記代わりに録音したのを自分でも忘れてしまっていたのかと思った。だが、話の異様さが増していくうちに、絶対に違うと確信した。
 家の中の物音に耳を澄ます癖があったことや、足音で家族を判別できていたことは確かだ。でも決して、こんな恐ろしい体験はしていない。
 しかし、事実としてこのレコーダーは、私の部屋の引き出しから出てきたのだ。
 一体、誰が。なんのために。

 しばらくの逡巡の後、私は少しだけ早送りをして、続きを再生することにした。さっきの恐ろしい話の続きを聞きたくはない。だが、録音がまだ続くのなら、最後まで聞く必要がある。なぜか、そう感じた。
 であれば、話のオチと言うべきか、その部分だけ飛ばして続きを再生すればいい。怪談は苦手なのだ。
 一瞬だけ早送りボタンを押し、すぐに指を離す。それで再生が終わるなら、それでいい。むしろそうであってくれ、早くこの訳の分からない忌まわしいものをゴミ袋に詰めさせてくれと、強く願った。
 再生が通常の速度に戻る。
 思惑通り、先程の話は終わっているようだ。だが続きは、怪談じみた恐怖の体験談とはとても比にならない、極めて異様なものだった。
 
 ──と同じ気配を感じたので、私はその廃墟に入ることにしました。
 今、玄関の前にいます。
 このレコーダーは記録のために回しています。廃墟の中で見たものや感じたことを、逐一声に出して録音していきます。そのほうがいいと思うので。
 外見は、ごく普通の洋風の一軒家といった趣です。木造でしょうか。緑がかった屋根が目を引きます。
 ぎいいい。
 鍵は開いていますね。廃墟だけあって、やはり大きな音がします。近所の方に聞こえていないか心配です。
 ばたん。
 かちっ。
 日が沈んで薄暗くなってくる時間帯ですし、当然電気は付きませんから、ここからは懐中電灯を使います。靴は──土足のままでいいでしょう。
 靴箱の中には多くの靴が残ったままです。男性用の革靴、女性用のヒールやブーツ、シューズ、スニーカー......家族四人のものが雑然と入っている感じですね。
 がちゃっ。
 扉を開けると、すぐに広いリビングに繋がります。右手側の壁にテレビがあり、向かい合う位置にテーブルと椅子が置いてあります。カーテンやカーペットまでベージュと白色で統一された、落ち着いた色調です。今はすっかり寂れた雰囲気ですが。テーブルの向こうにはキッチンも見えますね。
 ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ。
 がらがら。
 食器もそのまま残っています。ある日突然、住人が消えてしまって、以来放置されているかのようです。箸もスプーンも、包丁も......たくさんあります。ホームレスなんかが侵入することを考えると、少し危険ですね。
 とりあえず、一階の探索を終えてから、二階に上ることにしましょう。リビングにはあと扉が三つあり、廊下と、納戸と、仏間にも通じているようです──


 どうやらその音声は、廃墟探索をしているつもりらしかった。声の主は一階を回り、室内の様子をくまなく実況していく。納戸、仏間、廊下、トイレ、洗面所。
 問題は。
 扉を開ける音、床が軋む音、引き出しを開ける音。
 そのすべてを、声の主が口で言っていることだ。
 そんな音は、実際には記録されていない。「ぎいいい」「がちゃっ」「ぎしっ」といった物音を、すべて人間の声で再現しているのだ。
 反対に、人が歩く上で必ず生じる、衣擦れといった雑音の類は、まったく聞こえない。いくら耳を澄ましても、奇妙な「探索」を続ける私の声が聞こえるだけだった。
 本当はその場から一歩も動いていないのではないか。
 床に座り込んだまま、頭の中で家を歩き回って、その様子を口から垂れ流しているのではないか。
 不気味な想像が私の脳裏に掠めた。
 それに。話の内容から推察できる、この家の間取りや内装は──

 ぎしっ。

 階段を上る足音──否、足音を真似る私の声が、鼓膜に飛び込んできた。
 一階には特になにもありませんでしたね。これから二階に移りたいと思います。二階には子供部屋と寝室がある筈です。一階になかったので。

 ぎしっ。

 あと、十二段。

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 私は心の中で数を数えていた。数えることができてしまった。十四段だ。
 私の実家の階段は、私が今いる家の階段は、十四段。

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。
 
 ゆっくりと、慎重に、一段一段、なにかを確かめるように。録音の中の私が聞いた足音も、こんな音だったのだろうか。
 
 ぎしっ。ぎしっ。ぎ──

 私は停止ボタンを押した。
 私の声で喋るそれが、階段を上りきる直前。駄目だ、と思った。これに、階段を上らせてはいけない。
 階段の正面には廊下が伸びている。右手側には両親の寝室、左手側の手前には弟の、奥には私の部屋がある。
 階段を上りきれば、きっとそれは、私のところに来る。弟の部屋と両親の寝室を無視して。そんな確信がある。
 もしそうなったら
 
 ぎしっ。
 
 ────。
 
 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。
 
 レコーダーに視線を落とす。一時停止したままだ。勝手に音声が再生される筈はない。
 口真似では、ない。

 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 それは既に階段を上りきって、廊下を歩いている。
 視線の先には扉がある。
 目が──離せない。
 ぎしっ。

 最後の足音は、確かに、扉のすぐ向こうから聞こえた。
 録音の中の私は、最後に何を見たのだろうか。
 なにか怖いものだったのか。それとも、全部ただの勘違いで、家族のうちの誰かがこっそり部屋を訪ねてきたという、それだけの話だったのか。
 どうでもいい。
 私が、今からそうなるのだから。
 ただ。
 扉の向こうに立っている誰かが、家族の中の誰でもないことは、私自身がよく知っていた。
 この足音は、私の家族の中の、誰のものでもない。
 だから。

 こん、こん、こん。

 正確に三回、ノックの音が響いたときも。
 ドアノブが静かに回って、音ひとつ立てず、扉が開き始めた、その最中も──
 私は扉の向こう側の暗闇をじっと見つめていた。
 半開きになった扉の隙間から、ゆっくりと、


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