考察

小波悠



「つまりね、君。タイムマシンで過去や未来を変えるなんてことは不可能なのだよ」 
 私の目前に座る男はそう話し始めた。時刻は25時を過ぎており、話題も尽きた頃だった。彼は三か月程前に隣室の305号室に越してきたのだが、年齢が近いこともあり、今ではこうして部屋で酒を飲む仲になっている。男は続ける。
「例えばAという男が石に躓いて転んだとしよう。君は未来のAであるA'がタイムマシンを持っていれば過去に戻って自分自身の転倒を防げると思うかい?」
 そりゃあ、可能ではないのかい?
「実はね、不可能なのだよ。もしA'がAの転倒を防げたのなら、A'も未来から来た自分のはたらきによって転ばなかったはずだろ?そうするとAが転倒したという事実が無くなり、矛盾が生じてしまうじゃないか」
 男はベビーチーズの銀紙を剥きながら得意気な表情を浮かべる。部屋には一種異様な熱気が漂っていた。
「未来から過去に干渉しようが既に観測された事実は変化しないということだ」
 ウン。
「同様に未来の事実を観測してしまえば、過去で何をしようが同じ結果に辿り着くということになるね」
 ウンウン。
「つまり、過去も未来も一通りしか存在しない。全ての物事は予め決定されているのだ」
 ウン。自らの打つ単調な相槌に嫌気が差す。
「人間、地球、宇宙の営みはビッグバンの惰性でしかないのだよ」
 その男の理屈には妙な説得力があったが、納得してはいけない気がした。未来というものは過去の結果の積み重ねだ。それに、過去の選択によって未来は変わるはずだ。
「人間の自己決定かい?そんなのあってないようなものだよ。我々の行動だけでなく、思考までもが予め決定されているのだからね」
 そこまで話した男の口元には微笑が浮かんでいた。寒色の照明が男の赤い横顔を怪しく照らしている。
「私はね、この三か月で62回、あなたの殺害を試みたのですよ。まあ、見てのとおり全て失敗しましたがね」
 殺害。物騒な言葉である。どうもお互い飲みすぎたらしい。
「あなたは2093年に95歳で死亡した記録があります。そのため、あなたは70年後まで死ぬことはない、死ぬことはできないのです。たとえ今、私が63回目を試してみても何らかの不可抗力によって失敗するでしょうね。つまり、我々の考察に間違いは無かったのですよ」
 一体この男は何を言っているのか。男は立ち上がり、おぼつかない足取りで玄関へ向かう。
「私はここらで失礼しますよ。もうお会いすることはありませんが、あなたとのお話、なかなか楽しめました。ああ、あなたもお察しの通り私は未来から来たのですよ」

 ガチャン。
 扉が閉まり、足音が遠のいていく。
 ヴーン。
 静まりかえった部屋に冷蔵庫の唸り声だけが響く。空になったグラスを見つめる。そうか。今まで私に意思などというものはなかったのだ。そして、これからも。グラスや空き缶を両手に抱え、台所へ向かう。そうすると、私は誰か、いや何かに操られ続けていたということか。スポンジに泡を含ませる。私自身の力で成し遂げたものは何一つ無かったということか。入念にグラスの底を擦る。もう私はこの力に抗うことはできないのだ。蛇口を捻る。冷たい。いや、違う。グラスが指先から離れ、床で砕ける。これではダメだ。人間の意志は、もっと尊いものであるべきなのだ。砕けたガラスを足の裏で感じる。私は私の意志で歩いているのだ。一歩を踏み出す度に床の軋みが部屋に響く。あの時の恋心を、あの時に抱いた気持ちを否定されてなるものか。窓ガラスに映った私が語りかける。私は宇宙の真理を理解したのだ。もう後戻りはできない。その責任を果たさなければならぬ。窓のサッシが指先から熱を奪う。私は今、この宇宙の支配者と闘うことを宣言する。これは宇宙の代表者としての宣戦布告である。窓を開け、ベランダへ出る。たった今、私は自由を手に入れたのだ。初めての自由。サイズの合わないスリッパが小指を圧迫する。冷たい夜風が優しく肌を撫でる。私の身体は、私の思考は他の何ものにも支配されることはないのだ。そう、今こうして手すりに足を掛け、身投げを決意した私は私だけのものなのだ。


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