いつかどうせ思い出す

六宮



「彼氏できたんだって、怜奈」
 人は死ぬ直前、息を吸うそうだ。そしてその息を吐くことはない。この時の私が、まさにそんな感じだった。
「へぇ」
思っていたよりも随分と冷たい声が出たことに、少し驚いた。
「うわ、めっちゃ興味ないじゃん」
「いや、あるある。むっちゃ暑いな、お茶飲んでいいい?」
「いいけども」
  下の階でトランペットが和音を合わせている。伸びやかなファーストの音を下から支えるのは、五度下の音を奏でるサードだ。私の意識は、その二人の音を際立たせるセカンドに向いていた。
「噂をすればじゃん」
「ここのペットのハモリいいよな」
「わかる。この曲、怜奈が下パートって聞いてもったいな~と思ったけど、案外合うよな」
「上手いやつが絶対ファースト向きってわけでもないしね」
 怜奈は高音域も軽々吹きこなすため、ファーストを頼まれがちだ。けれど、私は知っている。彼女が、本当はハモリパートの方が好きなことを。この曲もトランペットの高音が印象的だが、彼女のお気に入りは副旋律だ。木管楽器が奏でるメロディに花を添える役割。
 右手に持ったワンタッチ式の水筒を床に置く。管にたまった蒸留水を流すと、楽器を構え直した。
「ほら、次んとこやろ」
「おっけ」
 合奏が始まるまであと三十分。それまでに合わせたい箇所はいくつもある。メトロノームを鳴らして、合図を待つ。テンポに合わせて息を吸った。
  
(彼氏できたんだって、怜奈)
 千紗の言葉が頭の中を木霊する。好きにすればいい。関係のない事だ。そう自分に言い聞かせながら家路を急ぐ。意味もなく早歩きしてしまう自分がいた。なぜだろう。あの時、心臓を握りつぶされそうな思いがしたのは。その感覚を確かめるように、何度も反芻する。
(彼氏できたんだって)
 空の端に夕暮れが残っている。茜色から淡いブルーを経由して濃紺へと続く色合いは、何度見ても飽きない。時折冷ややかな風が頬を撫でるのが心地よい。明るい時間が長くなった。じきに夏が来る。
 結局、怜奈の相手が誰なのか聞きそびれた。知ったところで私に損も得もないのだけれど。正直、彼女は彼氏を作らないと思っていた。だって頭が良かったから。
  高校に入って、自分よりも勉強のできる人に初めて出会った。それが怜奈だった。彼女はピアノも弾けた。ピアノは私が幼少期に諦めたものだ。彼女は背が高かった。私より一センチだけ。

  夕食を食べ終えて浸かったお風呂の中でも、怜奈の顔がちらついた。彼女と私は似ていると思っていた。だから、不意に別の人間である事実を突き付けられて驚いたのだろうか。
(できたんだって)
 勢いよくバスタブから出て、取っ手をひねる。いつもより水流が強いシャワーを、頭からかぶった。
(彼氏......)
 こうでもしないと、雑念は消えてくれなそうだった。なんで、どうして。
(......怜奈)

 次の日、珍しく朝練に参加することにした。ひとりでトロンボーンを吹きたい気分だった。いつもより丁寧に基礎練習に取り組む。音の始め、終わり方。響き、ピッチ、余韻。いくらでも上達する余地はある。
  窓の下に、ちらちら登校する生徒が見え始めた。そろそろ楽器を片付けようかと思った瞬間、視界の端に一組の男女が映った。怜奈だ。隣にいるのは、同じクラスの村田君だろうか。ぱっとしない、人はよさそうだけど冴えない印象の男の子だった。けれど、楽しそうに笑う怜奈の顔は、確かに彼に向けられたものだ。

 ガッ
 思わず自身の太ももを殴った。今私は何を思った? 心臓の奥が冷たい。それでも全身が脈打っている。目頭が熱くなった。ゆっくりと息を整えなければ。もうすぐ授業が始まる。けれど、足がうごかない。

「......なんであいつなの?」

 それが答えだと認めたくなかった。


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