勝手を差し伸べて ビガレ 一 祭り 職場には吸えるところがなくて、最寄りのコンビニの灰皿を借りている。しかしそれだけでは申し訳なくなって、毎回何かおまけを買って帰るので、それで安月給はすぐに飛んでいってしまう。 「あ、あと、九十五番、お願いします」 高校生らしきアルバイトの女の子が、ふり返って「九十五」の数字を必死で探す。少しして、瑠(る)衣(い)の目の前に見慣れた小さい箱が差し出された。 「あの、年齢確認のボタン、押してください」 ぼうっとしていて、レジ横のタッチパネルのことが視界から外れていた。言われた通りに、液晶の四角いボタンを押す。瑠衣はこの一連の行為が嫌いだった。 レジ袋を通勤用の鞄につめて、家路についた。 カーキ色の鉄の扉をひねって開ける。小さな玄関には秀(しゅう)平(へい)の革靴が見えて、ごま油の匂いがする。 「おかえり」 秀平はヨギボに寝そべって、ツムツムをしていた。この姿を見ると瑠衣は、安心と不安がないまぜになったような気持ちになる。 「お風呂は?」 瑠衣はつけっぱなしのテレビを消した。 「まだ、一緒に入ろうよ」 「いいけど、じゃあ、その前に吸っていい?」 瑠衣はスーツの胸ポケットからたばこの箱とライターだけ出して、あとはハンガーにかけた。台所の換気扇の下に、両足をぴたっとつける。 「あ、そこで吸うの、もうやめてほしい。さっき掃除したから」 背中から秀平の声が飛んでくる。瑠衣は部屋を見回した。もともとそんなに散らかっていなかったのに、部屋はさらに綺麗になっている。埃一つない。瑠衣は生活感のある部屋の方が落ち着いて好きだった。 「じゃあ外行ってくる」 鍵を取って玄関まで向かう。すると後ろから秀平が近付いてきて、瑠衣を抱いた。隙間風の吹いていた瑠衣の心が少し期待して、顔を横に向ける。 「ツムツムのハート送って」 秀平が笑って言った。 瑠衣は分かった、と言って、カーキの扉から外に出た。 家のすぐ近くには海があって、それを見ながらたばこを吸う。夕方が水平線の端っこでなんとか持ちこたえている。 真っ暗な空に白い煙が撒き散らされて、まるで冬みたいだった。肺の動きに合わせて火種が膨らんだり縮んだりする。煙を吐き出す唇が乾く。 砂浜を歩いていると、木琴の音が聞こえた。ポケットの携帯が震えている。電話は瑠衣の母からだった。 「あんた、帰らんの」 「なんで」 「三回忌、おじいちゃんの」 「うそ、もう三年」 「ばか、三回忌は二年やん」 「なんだそれ」 「で、どうするん」 母の声が、瑠衣の右耳から左耳へ通り抜けていく。 瑠衣にとって祖父の三回忌のことは正直どうでもよくて、それよりも地元に帰らなくてはならないということの方が気がかりだった。 無機質に流れていく電話の声に、瑠衣はううんと、曖昧な返事をして、吸い殻を捨てた。 家に戻って、秀平に「来月ちょっと空けるかも」と言い、さっきの分まで舌をからめてキスをした。 法事は思っていたよりもすぐに終わった。瑠衣は黒のジャケットを脱いでブラウスになり、二年ぶりの実家の庭に出た。家のなかで、母だけが忙しなく動いている。 池の淵でしゃがんで、雑草を触ってみる。指の上で横に流すと切れて血が出てしまいそうな葉を、つまんで引っ張る。ぷちっと音を立てて、ちぎれてしまった。 「瑠衣、ちょっと来てー」 母の声がして、台所へ向かう。 「少しは手伝って」母が皿を洗いながら言う。 「はいはい」瑠衣も腕をまくってシンクの桶に手を突っ込む。 「どう、最近は」 「どうって、別に変わらんよ」ぶっきらぼうな母の物言いにつられて瑠衣も方言が出てしまう。 「あれは、あの、せんべい全部食べた子」 「秀平?」 一度彼を実家に連れてきたとき、秀平は出されたせんべいを一人で全部食べてしまった。母はそれが強く印象に残ったみたいで、それ以来事あるごとにその話を持ち出す。 「遠慮とかせんのかね、普通」 「ええやん、許してあげてや」 「するん、結婚」母の眉が動いたのが分かった。 「ううん、分からん」 母がへえ、と言った。さらに、まあ結婚だけが幸せじゃないもんね、と続けた。 瑠衣は息を吸って、窓の向こうの青くさい山々を見た。話題を変えるために、言葉を発する。 「変わらんね、このへんも」 「そうよ、ⅠHにしたいってお父さんに言っとるのに」 「いや台所の話やなくて」 母は瑠衣が窓を見ているのに気づいて、ああ、と言った。 「まあ、出ていくばっかで誰も入ってこんから。あ、ほら、あそこの神社の神主さんも、あんたが高校生のときのままやし。あ、そうや」 蛇口のきゅっと締まる音がする。 「お祭り、もうすぐよ」 母は冷蔵庫にかけてあるカレンダーを見た。 お祭り、と聞いて瑠衣の身体は少し強張った。 頭のなかには、その景色や匂いや音やそれら周辺の様々なことが浮かび、心臓が親指でぐっと押されたみたいに沈んだ。 庭から風が入ってくる。カレンダーがはらはらとめくれていく。 六時。あしたば公園の東口で。 「ひがし」の意味も分からなかった頃から、それは瑠衣たちにとってのおまじないだった。 「やっほ、おまたせ」 「うい」 「大丈夫、今来たとこ」 六月の第三土曜日のその時間に、そこで待っていれば、瑠衣は敏(さとし)と吏(り)恵(え)と会うことができた。 「見てこれ」瑠衣は小さな手さげ袋からあるものを取り出し、目の前にかざす。 「え、やばい見たくない」 「携帯やん」 「敏! 言わんでって」 「なんで」 「見たくないものは言うのもだめ」 「え、もしかして、吏恵まだ買ってもらってないん」敏がいたずらっぽい表情で笑う。 瑠衣と敏と吏恵は、あしたば公園から坂を下ってまた上ったところの神社で行われるお祭りに、毎年必ず三人で行っていた。それは、高校に上がっても同じだった。 「ええやん、今日の写真は私と敏がいっぱい撮って、吏恵が携帯買ってもらったらそのとき送るから」 「別に写真が、いや写真も撮りたいけど、一番はみんなと連絡取れんのが嫌」吏恵が頬を膨らせて言う。 「そんな、俺と瑠衣が大したこと話すわけないやろ」 「そうよ」 「あ、ほら二対一になった。携帯持っとる同盟やん」 「何それ」瑠衣と敏は顔を見合わせて笑った。 三人を繋いだのは「夏うまれさんチーム」だった。 小学校の一年一組で、春や秋や冬がわらわら集まっているなかで「夏うまれさん」は瑠衣と敏と吏恵だけだった。 そのときから三人は幼馴染になり、中学も高校も同じところへ通った。 瑠衣は、そのお祭りが好きだった。それは、三人でいれたからだった。 青からオレンジに変わる空も、下駄が石畳を叩く音も、おいしくないのに値段の高い食べ物の匂いも好きだったけど、何より三人でいれることが好きだった。 「俺も瑠衣のにすればよかった」敏が横目で瑠衣を見た。 「ええよ、一口あげようか」瑠衣がいちごとカスタードの入ったクレープを差し出した。 「口つけた?」 「つけたけど、ええよ」 「ありがと、じゃあ俺のもあげるわ」 「いや、ツナマヨはいらんわ」 「待って、めっちゃおもろい」二人のやり取りを見ていた、瑠衣より少し背の低い吏恵が、声を上げて笑った。 吏恵が笑うと、大体瑠衣も敏も笑った。吏恵はよく笑うから、つまり三人でいると、大体みんなで笑っていた。 大体笑っているというのは、それはかなり幸せというものに近いことなんじゃないかと、瑠衣は思ったことがあった。 だけど当然、そういう時間は永遠ではなかった。 皆で笑ったり話したりして時間の過ぎるのを忘れていると、気付かないうちにお祭りは夜の闇のなかに包まれた。 そうすると、どこからともなくお祭りが解体されていく音が聞こえ始めて、あんなに楽しかった時間は突然遠くの方へ行ってしまうように感じられた。 瑠衣はこれが嫌いだった。お祭りを楽しみにするとき、このままお祭りなんて来なければいいのにと思うくらいだった。 これは瑠衣だけではなくて敏も吏恵もそう思っているはずなのに、あしたば公園まで歩く間には誰も何も話すことはなく、最後にじゃあねとだけ言って、三方に散り散りになっていくのだった。 「今日の体育さ、うち生理って言って休んだやん。あれ、?なんよね」 全体朝礼の最中だというのに、彩(あや)音(ね)が隣から話しかけてきた。瑠衣は三角座りの身体を彼女の方に傾ける。声を潜めているせいで、少し聞き取りづらい。 「彩音ちゃん、ずっと休んでない? 補講になるんやないん」 彩音はふと笑った。 「最初からそれ狙いよ。男子の前で水着になるより、夏休みに来て一人で二十五メートル泳ぐ方がよっぽどましやろ。それで部活もさぼれるし」 敏と吏恵とは、同じ高校と言っても流石にクラスまでは一緒になれなくて、瑠衣は同じクラスの彩音と仲良くしていた。彼女は、瑠衣がそれまでにあまり関わったことのないタイプの子だった。 確かに高校生にもなって男子と合同で水泳の授業を受けるというのは抵抗があったが、瑠衣には教師に嘘をついてまでそれを回避するという考えは思いつかなかった。 あくびをする彩音をちらりと見る。彼女のことは好きだが、たまにどこか引いて見てしまうこともあった。 「彼氏が生徒会長やったら、ちょっと嫌やな」 彩音が突拍子もなく、小さな声で言った。体育館の壇上では生徒会長が校内の美化活動について雄弁をふるっている。 「なんで?」瑠衣は教師にお喋りが聞こえていないか注意しながら尋ねた。 「今は生徒会長でも、いずれは生徒会長じゃなくなるやん、当たり前やけど。でもいつかそうなったときにも、俺は昔生徒会長やったんやぞって、ずっと偉ぶってそうで、嫌。ていうか、そういう人じゃないと、生徒会長なんてなろうと思わんやろ」 「うーん、そんなことないと思うけど」瑠衣は彩音の理論に巻き込まれないように首をかしげた。 「それならまだ、副会長の方がちょうどいいかな」 二人の目線が生徒会長の少し左にそれる。 そこには会長以外の生徒会役員が立っていて、そのなかに副会長に就任したばかりの敏がいた。 彩音に副会長がいい、と言われて、瑠衣はなぜか嬉しくなっていた。 中学で野球部を卒業して高校でバドミントン部に入った敏の、まだ伸び切らない髪の毛の輪郭を目でなぞった。 その日、瑠衣と敏は二人で下校していた。期末考査から一週間が経ち、英語で赤点を取った吏恵だけ補講の対象になっていた。 敏の家の前で別れ、瑠衣が家に着いたあと、携帯に〈今日家に誰もおらんけど来る?〉という敏からのメッセージが入っていた。 日差しがつむじに刺さるような暑い日だったが、瑠衣はすぐに買ったばかりのTシャツに着替え、家を出て、近道のひまわり畑を通り過ぎていき、チャイムも押さず敏の家におじゃました。冷房の効いたリビングのフローリングが、裸足に心地良かった。 二階から下りてきた敏は黄色のTシャツ姿になっていた。髪の毛はもうすっかり伸びて、毛虫みたいだった眉毛もすっきり整えられている。 瑠衣は敏のそういうところが少しずつ変わっていくのを見るたび、鼻の頭のあたりがくすぐったくなるのを感じていた。 「アイス食べていい?」 もう何年も前から、敏の家の冷蔵庫を自由にするのに躊躇しなくなった。パピコを片方ちぎって取り出す。 「勝手にクーラーつけてええん?」 「ええやろ。こんだけ暑かったら」 敏の両親は共働きで、家には大体どっちかしかいないか、どっちもいなかった。 瑠衣はソファに座って、茶色くて冷たい塊を吸い出す。人工的な冷気をまとった部屋の匂いは、夏のなかでも好きな方の匂いだった。 いつの間にかどこかに行っていた敏がリビングへ戻ってきたので、瑠衣は「ごみ、ここでいい?」と尋ねて、パピコの殻をごみ箱にすとんと落とした。 「ちょっと来て」 敏がリビングと庭を繋ぐ戸を開けて、手招きする。瑠衣が近付くと、敏は手元に何か持っていた。 「何それ」サッシの上に座る敏を、瑠衣が覗き込む。 「たばこ、父さんの」 「え、それどうするん」 「吸ってみん?」 「は、嫌やし」 「ええやん、ちょっとくらい」 「いやよ、てかなんで」 「なんでとかは、ないけどさ」敏が不器用にソフトケースを開き、なかから一本、白いたばこを取り出した。 なんしよん、やめときって、と敏を制止しながら瑠衣は、この上なく胸を高鳴らせていた。 今、世界に二人だけの秘密がつくられつつある。 敏がたばこを吸おうとしている。瑠衣がそれを見つめている。 これは誰かに知られてしまえば二人とも悪者になってしまう、とてもよくないことだ。 世界で二人以外の誰にも知られてはいけない、よくないこと。 よくないことなのに、それを二人だけで留めておくという共犯関係が、これまでの幼馴染とは違った、別の甘さをもたらしてくれるような気がした。 瑠衣はそれに、とてつもなく興奮した。 敏がたばこの前にライターをかまえる。 「俺、吸い方知っとんよね」 そう言って、フィルターを咥えた。かちっというライターの音がして、しばらくすると、たばこの先端が赤くなって、煙が上がった。煙が夏の青い空に浮かんでいく。ふと開け放たれた窓から風が侵入してきて、それは瑠衣の身体を火照らせた。 「言うなよ、誰にも」 敏は瑠衣の方をふり返って、そう笑った。 この秘密は、瑠衣にとってはただの秘密なんかではなかった。瑠衣は、敏も同じようなことを思ってくれていたらいいのに、と思っていた。 敏がたばこを差し出した。 瑠衣はたばこよりも、敏のあんまり見えなくなったおでこやしゅっとした眉毛に目を奪われていた。心臓がどくっどくっと一回一回丁寧に血液を身体に送り込んでいるようだった。 幸せは、こっちだった、と思った。 瑠衣がたばこを咥えると、敏がライターをかざしてくれた。ほら吸って吸って、と言われ、その通りにすると、突然息苦しさに襲われ、思わずむせてしまった。それを見て、敏が笑った。敏が笑うので、瑠衣も笑った。 幸せは、こっちだった。 幸せとは何人で集まってつくるものではなくて、二人きりでつくるものなのかもしれない。その方が分かりやすい、と思った。 十六歳の瑠衣は何かを分かった気になって、たばこを吸った。吸い終わる頃には、息苦しさはなくなっていた。 「ねえ羽(は)柴(しば)くんと矢(や)村(むら)さんって、付き合っとるらしいよ」 その衝撃的なニュースが飛び込んできたとき、瑠衣は触っていたミシンを止めて、隣の席から発せられる音に神経を集中させた。だけど、その話題は彼女たちにとっては大して興味のないものだったみたいで、すぐに別の話に切り替わった。 今は家庭科の授業中で、それぞれで作業を進める時間なので皆思い思いにお喋りしている。瑠衣と彩音もそうだった。彩音は前の席の椅子をひっくり返して瑠衣と話していたが、さっきの声は彼女の耳にも入ったらしく、会話を止めていた。 「え、羽柴くんと矢村さんって、瑠衣と仲良い、あの?」 瑠衣は何も言わなかった。 「瑠衣、知っとった?」 瑠衣は敏と吏恵が付き合っているという話を、全く知らなかった。一瞬、別の羽柴くんと矢村さんのことかと思ったけど、この学校に敏以外に羽柴という苗字はいないし、吏恵以外に矢村はいなかった。そうやって改めて意味を理解したとき、そんなの嘘だという気持ちを、本当かもしれないという気持ちが侵食した。 目の前では彩音が瑠衣の返答を待っている。 そのとき、彩音の、明るい性格で友達の多いことが頭を過った。 そう思った瞬間に「そうよ、付き合っとる」という言葉が、瑠衣の口からこぼれていた。 「え、マジ? いつから?」 「六月の頭、くらいから」言葉はどんどんこぼれていく。 「めっちゃ最近やん、え、勝手でごめんやけど」彩音はそう前置きして、声を小さくした。「瑠衣って羽柴くんのこと好きなんかと思っとった」 それを聞いた瑠衣は、突き飛ばすように笑った。 「そんなわけないやん。私、敏のこと、てかあの二人、ちょっと嫌いやし」瑠衣の表情は飄々としている。 「え、そうなん。なんで」彩音がゴシップを手に入れた記者みたいに、にやけ顔を瑠衣に近づける。その表情が、瑠衣の心を大きくさせ、その大きく膨れ上がったところから、ぴゅっと言葉が飛び出した。 「やっとるんよ、学校で。あの二人」 「は、やっとるって、あれ?」 「そう、それ」 「マジ、やば」 「やばいやろ。やけえさ、嫌いなんよ」 瑠衣は、彩音の反応を待った。 「マジで気持ち悪い。うちも嫌いかも」 このとき瑠衣のなかで、何か大きな境界線をまたいでしまったような気がした。 瑠衣はミシンを再開させた。さっき中途半端なところでミシンを止めたせいで、黄色のキルト生地に赤い糸の、途中から汚くなった線が描かれている。針が生地を貫くたび、身体のなかのどこか分からないところが痛んで、その痛みは夜中に布団に入っても続いたけど、それはもう、そういうものだと思うしかなかった。 二人が付き合っているということと、学校でやっているという噂は、一瞬で広まった。ぐるっと回って瑠衣のもとへ返ってくる頃には、瑠衣も知らない卑猥な尾ひれまでついていた。 その噂と一緒に、「瑠衣がかわいそう」という言葉も、よく聞こえるようになった。 女子のなかの、とくに優しい子たちにとっては、瑠衣は幼馴染に除け者にされて傷ついた悲劇のヒロインのような存在になっていて、反対に敏と吏恵は幼馴染をよそにお盛んになった悪者になっていた。 「かわいそう」とセットで敏と吏恵の悪口を言う彼女らの優しさに乗じて、瑠衣も二人を避け、次第に悪口にも参加するようになった。 「普通さ、まず私に伝えん? 言ってくれれば、素直に喜べたのにさ」 「てか、小学校から一緒なのに今更付き合うとかって、そもそも気持ち悪くない?」 「そういう関係のところに、やりたいとか、そういうの持ち込めるのって、めっちゃ気持ち悪い」 何を言っても肯定してくれる人たちにまじって、そんなふうに二人のことを罵倒した。そのときは間違いなく、それが正解だった。 そしていつしか、敏と吏恵を学校で見ることはなくなった。 瑠衣は高校を卒業したあと東京の大学へ進学、就職し、地元にはあまり帰らなかった。 たばこを吸う瑠衣の前を救急車が通った。田舎の空は高くて、筆で書いたみたいな雲が揺れている。 田舎の良いところと言えば、どこでも吸えるところくらいだ。ラフな格好で携帯をいじっていた瑠衣に、ときおり道ゆく人が話しかけた。 「あら、瑠衣ちゃん」瑠衣が顔を上げると、吏恵の親戚のおばちゃんだった。小さい頃に何度か遊んでもらったことがあった。「大きくなったねえ。帰って来とるんかね」 瑠衣はあいさつをして、はいそうなんです、と返事をした。おばちゃんの目元のしわがやけにはっきり見えた。 「ええ、そうかね。それよりあんた、たばこなんか吸うたらいけんわあね、女の子が。誰に教わったんかね」 瑠衣は愛想笑いを浮かべて、その質問には答えず、そしてなんとなく、吏恵って今何してますか、と尋ねた。 「吏恵なら、ずっとこっちにおるよ。あれ、瑠衣ちゃん、知らんの。あの子なら、ほら」 おばちゃんは瑠衣の知らない吏恵のことを全部話してくれた。 瑠衣は聞き終えたところで、へえそうなんですかと言って、たばこが短くなっていたのに気づかなかったせいで火傷した人差し指をさすって家へ戻った。 庭の木々にとまっている蝉の声のカーテンをすり抜け、縁側に座布団を敷く。足の爪を切った。おでこに汗がじわじわ湧く。 実家やその周辺にいると、そこで過ごしていた自分や他人の姿が景色に重なって思い出されてしまう。 親指の爪がぱちんと鳴って、庭の外へ飛んでいった。 あまりにも軽く、でも確かに重みを持って落ちたそれは、結婚式で投げられるブーケみたいだった。 二人が結婚していたと聞いて、瑠衣はむかついた。 思い出のせいで幸せに生きられないのは自分だけなんて、考えたくなかった。 やっぱり地元なんて帰ってくるんじゃなかった。 遠くの方が騒がしいのを感じる。カレンダーを見た。 六月の第三土曜日。 瑠衣は無意識におまじないを思い出す。爪の短くなった足をサンダルに通して、家を出た。 何度も通った道なのに、それはすごく遠く感じた。 公園に辿り着く。ベンチに座って、ソフトケースのなかの最後の一本を吸う。 煙が、上へ上へと昇っていく。 それは空を覆うようにして、雨雲になる。 瑠衣は西口のベンチにいて、東口にいた二人の男女が、手のひらを上に向けて不安そうに空を見ている。 祭り囃子が、どんどん大きくなっていく。 二人は瑠衣の方を指差して、何か話していた。 二 カブトムシ 確か、小学生の頃の記憶だと思う。そのときはそれの名前が何だったのか分からなかったけど、今になってみると、それは「違和感」と呼んだのが正しい気がした。 男子たちが教室の中央に集まって、身を寄せ合っている。誰かが少しでも離れれば嬉しさが噴き出してしまうのを押し込めるみたいに、もぞもぞと一つの物体になっていた。彼らをそうさせていたのは、虫かごに入ったカブトムシだった。 教室の入口に立っている陽(よう)一(いち)は、ひたすらそこに立っていた。 スマホをいじるにいじれなくて、それは部屋全体が暗くて明かりが目立ってしまうのと、そもそもそんなことをすれば白けてしまうような雰囲気だったからだ。仕方なくドリンクバーで淹れた不健康な色のメロンソーダを一口飲む。 液晶に〈さくらんぼ/大塚 愛〉と表示される。 「えー! これ、だれー?」ソファの端に座る男子が叫ぶ。 「はーい、私でーす」 陽一の隣に座っていた花(か)恋(れん)が、手を挙げて立ち上がった。周りから歓声が上がる。 「おー? 花恋が歌うってことはー?」 「陽一も歌うっしょー!」 歓声に気圧された陽一は、身体を押され、立たされ、液晶の前に放り出された。手に持っていたメロンソーダがこぼれそうになる。 「よっ、美男美女!」「お似合い夫婦!」男女入りまじった野次があちこちから飛んでくる。花恋はまんざらでもなさそうだ。コの字型のソファに並ぶその顔たちは、異様なほどにお互いの距離が近い。 スピーカーからポップなイントロが流れる。レーザーのような虹色の照明が飛び交って目に痛い。「もう一回!」の合いの手が部屋をはちきれんばかりに満たす。 店を出ると、もうとっくに日は沈んでいて、知らないうちに雨が降っていたのかアスファルトが濡れて光っていた。そのときも彼らは、カラオケの床みたいにべたべたとくっついていた。 花恋も同じように笑いながら、他の女子が陽一に寄りつかないようしっかりと腕組みをキープしていた。 「陽一、楽しかったよな!」という男子の声が、集団のどこかから聞こえる。だけど陽一の身体は、どこかへ逃げ出したいという気持ちで満たされていた。 陽一は花恋の腕をほどき、「あれ、どうしたの」という声をよそに、ごめん体調悪い、と言って店の前から離れた。 「明日の朝練、無理すんなよー」同じサッカー部の男子の呼びかけに左手を軽く上げて応じ、鞄の紐を握って歩いた。 古いアパートの一階の部屋の、くすんだチャイムを押す。なかから人の気配が聞こえたあと、鈍い音を立てて鉄製のドアが開いた。 「来るなら言ってよ」訪問者を確認した家主は、低い声で言った。 「ごめん、どうしても会いたくなって」陽一の声は健やかだった。 「酒くさ」そう言った奨(しょう)太(た)は、突然の訪問に迷惑そうに眉をひそめつつも、口の端を上げたり上げなかったりもぞもぞさせていた。「泊まるの?」 「いい?」陽一は少し上目遣いをして「だめって言われてもそのつもりで来ちゃったけど」とわざといたずらっぽい言い方をした。 「いいけど」奨太は溢れるのを抑えきれなかったみたいに唾を飛ばして笑った。「汚いよ、部屋」 「大丈夫だよ。いつものことだし」 「じゃあ、どうぞ」 奨太の勿体ぶったような言い方に目を合わせて笑い、陽一はドアと奨太の隙間に身体を滑り込ませた。確かに台所や廊下にはカップラーメンの容器や空になったペットボトルなんかが散乱していたが、一人暮らしの男子高校生の部屋なんてこんなもんだろう、と陽一は思った。 それから二人は、いつものように一緒に風呂に入った。奨太と身体を縮こめながら入る浴槽のお湯の温かさに、陽一は魂まで溶け込んでしまうような心地良さを感じていた。 それから、二人で洗面台の前に並んで歯を磨き、身体を重ねてから、同じベッドで眠った。ワンルームに置かれた奨太のベッドは固くて、首が痛かった。 翌朝目を覚ました陽一は、奨太の、離れた目と丸くて低い鼻ののった顔を少し撫で、起こさないように部屋を出た。 二日続けて着ている制服は、しわが目立っていて、普段より汗くさいような気もする。ざっ、ざっと靴を地面に擦りながら、サッカー部が朝練をしているグラウンドと校舎の間を歩く。 「おはよっ」 つけていたイヤホンの線のたるみに力が加わって、弾け飛ぶ。 「昨日、体調大丈夫だった? 朝練は?」 花恋が、陽一の右腕を剥いでそこに身体をくっつけた。 「んー、今日は休んだ」 陽一は周りの視線を少し気にしながら、なるべく自然に目の焦点を自分の足元に集中させた。グラウンドの方から「ラスト一周」というかけ声が聞こえた。 花恋は、気付くともう自分の話を始めていた。スタバの新作や昨日見たインスタのストーリーや、友人同士の別れ話の進捗なんかを話している。陽一は何となく、放課後の部活もさぼってしまおうかと考えていた。 「ねえ、聞いてる?」 「うん、だからそれは、良(りょう)哉(や)が悪いんでしょ」 「そう、だけどそれ美(み)玲(れい)に言ったら怒るじゃん。ほんと、私はどうしたらいいの」 彼女は大体いつも人間関係のことで悩んでいた。そのことでたまに気を病みさえしていることも、陽一は知っていた。そしてそれを、心のどこかで羨ましいと思っていた。 そんなことで、と頭のなかで言いかけて、ぐっと押し戻した。 並んで歩く二人を、何人かの友人が声をかけながら抜かしていった。 「あ、陽一、昨日大丈夫だった?」 「花恋ちゃんおはよー、あれ、ちょっと前髪いじった?」 「カラオケの動画、携帯に送っといたから、元気になったら見といて」 そうやって言われるたび、花恋は笑顔で応じ、一拍遅れて、陽一も反応した。 口元の右端だけ上げながら、陽一は昨晩見た光景を思い出していた。 カラオケで、誰かが何かの曲を歌っていたときにソファの角で気付かれないようにキスしていた男女。気付かれていないのではなくて、皆気付いていないふりをしていた二人。そしてきっとそれを、男女で分かれたあとでそれぞれからかわれた二人。 今日の空は昨晩と違って、湿度なんて忘れたみたいに晴れている。 「いつからそういう感じだったの?」「抜け駆けすんなよ」と言われながら、まんざらでもない二人。 目にした光景からそういうことが思い起こされると、陽一は自分の居心地はここにはないのではないかという思いに駆られることがあった。 ぴったりとくっついているはずの魂とその入れ物が、べりべりと剥がれていくような感覚に襲われた。 その感覚は、いつしか花恋や友人と一緒にいるときだけでなく、一人で音楽を聞いていたり街を歩いていたりするときにも陽一を包むようになり、さらにはこの空が繋ぐ世界中のどこへ行っても、それは追いかけてくるのではないかと思うようになった。 空に向かって息を吐いたら白く濁っていた季節が、唐突に恋しくなった。 奨太は、学校ではあまり陽一と話そうとしなかった。教室や廊下ですれ違っても、気まずそうに目をそらした。 一度だけ、朝の下駄箱で偶然鉢合わせたとき、陽一から「おはよう」と声をかけたことがあった。そしたら奨太は「学校ではあんまり俺に話しかけない方がいいんじゃないかな」と困った顔で言った。そのときの奨太の下がり切った眉の意味を、陽一はときどき考えることがあった。 「あー、ごめんちょっと、忘れ物した」前を歩く友人たちに、陽一はわざと聞かせるように言った。 「どこに?」 「部室」 「おー、早く戻ってこいよー」 陽一はたった今自分のスパイクでつけた足跡をそのまま辿って、部室へ戻っていった。本当は忘れ物などしていなくて、ただ部活に参加するのが億劫になっただけだった。 部室の扉を開け、奥のベンチに座る。普段部員でいるときには、あまり陽一に座る順番は回ってこないから、その分足を大きめに広げる。 イヤホンを耳にはめて音楽を再生した。エアコンなんて高級品はないから、セキュリティなどお構いなしに常時窓を開けて夏の暑苦しさを紛らわしている。少し落ち着いたら部活に戻ろうと思っていた。 ん、なんか聞こえる。 陽一は右耳のイヤホンを外した。 何度も聞き馴染んだ音にまじって、見知らぬ音がまじっている気がする。イヤホンの故障でないことを確認したくて、外の音に耳を澄ます。 これ、誰かの話し声だ。窓の外から聞こえている。 運動部の部室が並んだ棟の裏には水飲み場があって、そこから男子の笑い声が聞こえていた。 「お前に言ってねえわ」 そのはっきりとした文言のあとに、ぎゃははという声が続いた。多分、昨晩のカラオケで野次を飛ばしていた男子のうちの一人のものだった。 「なに、その顔」 また別の男子の声が聞こえた。何人かで話しているみたいだった。話している、というよりも、詰めている、みたいだった。 「もしかして自分に言われたと思ったの。いや、平(ひら)崎(さき)に彼女のこと聞くわけないじゃん」 笑い声がはじけた。 声のなかに、すごく知っている名前が聞こえた。 それは、ただ知っているとかではなくて、たとえば心のなかに自分専用の辞書があったとしたら、一ページ目に載っているような名前だった。 「俺が女だったら、平崎だけは無理かも」 「うわー、どうかな。でも確かに、ビジュだけだったら平崎はナシだな」 思春期ゆえの痛々しい言葉の危うさはもはや暴力のようで、そんな言葉が身長の高いところから低いところへ浴びせられている構図が、頭のなかに浮かんでくる。 陽一は、流れっぱなしの音楽も復帰しなければならない部活のことも、全部忘れていた。壁一つ隔てた向こうから発せられる声を、黙って聞いていた。 「俺だったら絶対嫌だわ、童貞のまま一生終わるとか」 「もうさ、あれじゃん。女と付き合うの、諦めたら?」 「あ! それアリ。平崎、男とヤれよ」 また男子たちが笑った。 その笑い声をかき分けるように、陽一は一人、別の声を待った。 「......やめてよ、気持ち悪い」 かすれた奨太の声を聞いて、陽一の身体は勝手に動き出した。 ばん、とドアの大きな音を立てて勢いよく、部室を飛び出した。 裏に回って、たむろしている男子たちのなかから奨太の腕を取って走った。背中に有象無象の声を聞きながら、校庭の隅まで突っ切った。 日陰になった校舎の壁に、奨太の身体を押しつける。 陽一の両手が沈む肩は全然痩せていなくて、汗で湿っていた。 陽一は、奨太に口づけをした。 固くて、唾液の乾いた匂いがする唇。 手のひらをゆっくりと頬に移す。優しく触れたそれは、にきびでざらざらしていた。 どん、と奨太が陽一を押しのけた。陽一の揺れた前髪が、二重の目にかかる。 「何してんだよ、誰かに見られたらどうすんだよ」 「うるさい」 陽一はもう一度、奨太に口づけした。 紫色のまどろみのなかに、二人分のタオルケットの塊が動く。 陽一は一人で起きて、水を飲み、カーテンを開ける。塊からはみ出た顔が眩しそうに歪んだ。 食パンをトースターに入れて、ダイヤルを回した。 「ねえ、今日バターとジャムにしちゃう?」 窓からじじじという音がして、奨太が身体を起こした。網戸にカナブンがつかまっている。 「え、ごめん、なんて」 「今日、バターとジャム乗っけようよ」 「なんか、大事な日とかだったっけ」 「いや特に、何もないけど」 「ふわあ」奨太があくびをする。 陽一は、彼の焦点の合っていない視線を越えて、網戸を開ける。大人しくしがんでいるカナブンを、そっと指に乗せた。テレビからはワイドショーで語る大人たちの声が流れている。 「じゃあ、カナブンの日にしよう」 奨太が、指先を見つめる陽一の方へ身を乗り出す。 「ほんとだ、カナブン、かわいい」 多様性について話している様子の真っ白なスタジオは別の世界のもののように感じられた。 「そうだよね」 二人は笑って、それからまたキスをした。 「何もなくても、バターとジャムができるようになれたらいいね」 陽一の言葉に奨太は口角を上げて、またタオルケットを被った。カナブンが指から外へ飛び立つ。 陽一がタオルケットからはみ出ている耳に触れた。 「昨日、あいつらのこと殴ってやればよかった」 「できないし、しなくていい」 奨太のくぐもった声が、弱々しく聞こえた。 宝箱みたいだった。二人には狭いベッドも、窓から差し込む朝日も、洗面台に並んだ歯ブラシも、トースターのちん、という音も、全部、宝箱みたいなこの部屋に永遠に保存しておきたいと思った。 そうすれば、奨太は奨太でいられるのに。 陽一はトーストを皿に乗せるついでに、うるさくなったテレビを消した。 ぱちん。 ビンタって、雷と逆なんだな。 赤くなる頬をさすって、陽一はそんなことを考えた。音がして、あとから痛みがやってくる。 涙目の花恋が、陽一を見ていた。陽一は視線をそらして、ぽつりと言葉を漏らした。 「何も言わないの」 「何から怒っていいのか分かんないから」 怒る? 怒るって、なんだろう。 下駄箱の前で行われていた二人のそれは、登校する生徒たちの視線をありったけに集めていた。花恋の後ろには、彼女の話によく現れる女子生徒の顔が並んでいる。 「全部聞くよ」 陽一がそう言うと、花恋は息を吸って、強く拳を握ったようだった。 「じゃあ、まず、騙してたこと。え、あのさ、私たちって、付き合ってたんだよね? 付き合ってて、学校行く前にお喋りしたり、買いもの行ったりしてたとき、私のことはどう思ってたの? どういう気持ちで、私と一緒にいたの?」 「それは、ごめん」 「謝っちゃだめじゃん。謝ったら、そういうことじゃん。そういうことになっちゃうじゃん」花恋が俯いたときに、とうとう涙がこぼれた。「え、てか、それは、ってどういうこと。これじゃないことは、悪いって思ってないってこと?」 陽一は何も言えなかった。何も言わない、ということをするしかなかった。 「ねえ、なんで、男とキスしてたの?」周りの声が揺らぐのが聞こえた。「ほんとは男とキスとかしたいの? 女とは、私とは、したくないの? ねえ、だからできなかったの?」 「ごめん」声と一緒に、全ての力が身体から抜け落ちるような感じがした。 「ごめんって、何が? 悪いと思ってないんだよね。じゃあなんで謝るの。ほんとは悪いと思ってるの? ねえ、いつから、私のこと好きじゃなかったの」 花恋の声が大きくなるたびに、陽一の声は小さくなっていく。 「俺が、生まれたときから」 「何それ。意味分かんない。分かるけど、絶対分かりたくない。世界のどっかの誰かならよかったけど、陽一のは、分かりたくない」 「ごめん」魂だけでも逃げ出したくなった。 「謝ってばっかじゃん」花恋の声はどんどん大きくなる。 視界の隅に映る廊下の窓から、夏の日差しが輝く。 「いやてか、なんでなの。なんで、平崎なの」 窓の外で大きな虫が飛んでいったような気がした。 「あんなの、全然じゃん。はっきり言って」 小学校の教室でのことが一瞬、過った。「違和感」だった。 「全然、ブスじゃん」 花恋が少しすっきりしたような表情になったのを、陽一は見逃さなかった。多分、何よりも言いたかったことなのだろう。 また顔をきゅっと引き締めた花恋は、女子の群れに戻った。群れからは「かわいそう、花恋」という声が上がっていた。 それからは次第に生徒がばらばらになって、下駄箱の前には陽一がぽつんと残された。その周り三メートルくらいには、誰も近づかない。 怒るってことは、正しさがないと成り立たない。正しい人が、正しくない人を怒る。上から下へ、正しさが流れていく。 今は、何が正しかったのだろうか。 ポケットのなかで絡まったイヤホンコードを、陽一はずっといじっていた。 小学生の頃の記憶。 カブトムシの入った虫かごを、この世の幸せを全部固めたものみたいに大切にしていた男子たち。 誰かが「虫だ」と叫んだ。 薄く開いていた教室の窓の隙間から、カナブンが入っていた。 男子たちは逃げまどい、きゃーきゃー叫んだ。そのうちの一人が、虫かごを両腕で抱えている。 群れのなかからほうきを持った男子が現れた。 そいつは、ぶんぶん羽音を立てて飛ぶカナブンに狙いを定め、えいっと、はたき落とした。 彼らは歓声を上げ、再びカブトムシに夢中になった。 教室の入口に立っていた陽一は、はたかれ、床で震えているカナブンを拾って、校庭に埋めた。 掘り起こせるような柔らかい土は、誰も踏んでいないような隅っこにしかなかった。 それからいつか大きな雨が降って、カナブンの死骸はどこかへ流されてしまった。 三 アイスクリーム 二人の出会いは、蠅だった。 久(ひさし)の大学生ぶりが板についてきた頃、通学のために電車に乗ったとき、それまでお決まりの位置としていたところに、黒くて変わった形をした何かを背負った、知らない女性が立っていた。 久が仕方なくその隣に立ったので、二人は同じ方向、乗り込んだのと反対側のドアの方を見る形になった。 そのドアの外側に、蠅がとまっていた。 電車が走り出す。蠅は有刺鉄線みたいなその足を、必死にガラスにくっつけていた。 今にも吹き飛びそうなその様子に、久は思わず目を奪われた。 そしてふと隣の女性を見た。その女性も、じっと蠅を見ていた。 二人が息を潜めた空間は、電車のなかでそこだけ切り取られているみたいだった。 蠅は、一つ先の駅に着く前に飛ばされた。 飛ばされる瞬間、女性が、あ、と言った。久が少し見て、目を合わせると、照れくさそうに笑った。 そしてそんな日が三日続いた。 つまり、久の乗る電車にその女性が乗っていて、隣に久が立って、外に蠅がとまっていて、二人でそれを見つめるというのが、三日間連続した。 三日目に、とうとう久の方から話しかけた。 「それ、なんですか?」 バイオリンです、と彼女は答えた。 実はそのときにはもう、久にはそれがなんなのか聞かなくても分かっていて、その日から、そこは久にとってではなく、彼女にとってのお決まりの位置になった。 それからの生活のなかでの久の楽しみと言えば、通学電車で彼女と会うことだった。 彼女は、上(うえ)田(だ)環(たまき)といった。久と同じ大学に通っていて、セミロングの黒髪が印象的だった。 上田環は、久が毎朝電車に乗り込むときには必ずいつもの位置にいて、久はその隣に身体を置いた。どちらからともなく顔を見合わせ、少し笑って会釈をする。それから会話を交わすこともあれば、無言のまま大学の最寄り駅に到着してしまうこともあった。駅から大学までの道のりでは久は別の友人と合流したので、特に一緒になることはなかった。 久は、彼女のことが好きだった。だからその電車のなかの僅かな時間を、毎日待ち望んだ。 大学の構内や駅前で彼女を見かけることもあった。 彼女はよく白色の服を着て、紺のロングスカートを履いた。肘にさげられた小さなブランドのバッグは教科書なんて一冊も入らなそうで、ときどきそれがすごく目立った。 彼女は優しい人だった。彼女が電車で座席をおばあさんに譲っているところを見たことがあったからだった。 それから少しして、彼女にそのことを話すと、 「全然。大したことないよ」そう言って手を胸の前でふった。 彼女が席を立ち、ぎこちなくおばあさんに声をかけたあのとき、周りには空いている座席がたくさんあったことについては、特に言わなかった。 彼女はいつも一人だった。あまり友達はいないみたいだった。一度だけ、普段友達とどんな話をするのかと尋ねてみたことがあるけど、「えー、おぼえてないな、だって、何を話したかをおぼえてる友達なんて友達じゃないでしょ?」と言ってごまかされた。そう言った彼女の顔を久はおぼえていなかったので、それが強がりだったのかは判断しかねた。 彼女と電車で話していて、乗客から「あれ、テレビに出てる人じゃない?」というような声が聞こえることがあった。それは彼女のことを指していた。 彼女は大学に通いながらいわゆる芸能活動のような仕事もしていた。そういうときには大抵〈美人すぎる現役大学生バイオリニスト〉みたいな文言を名前の横にあてられていた。 実際にテレビに彼女が出演しているのを、久も見たことがあった。 「学校と音楽、両立大変じゃないの」 どうやら司会者らしい、グレーのスーツを着た知らないおじさんが、話と話の間を繋ぎながら彼女に話をふった。 「大変ですけど、そこは友人とかに助けてもらって、なんとかなってます」 他の出演者からえらいねー、という声が上がる。お行儀良く座る彼女は、ぎこちなく笑った。 久は携帯を取り出して、SNSのアプリを開く。リアルタイムの投稿を検索できるところに〈#上田環〉と打って、エンターを押す。 〈また出てる。ワタシ、この人嫌い。 #上田環〉 〈最近突然テレビで見るようになったけど、枕営業?(笑) どちらにせよ、この方が出ているからと言って番組を見る気にはなれないなぁ #上田環〉 〈こいつずっと清楚ぶってて痛い 友だちとかゼッタイいないだろw #上田環〉 いつもの光景に、久は携帯をベッドの方に投げる。使い古したマットレスに跳ねて、めんこみたいにひっくり返った。 司会者の「CMのあとは、環ちゃんの恋愛について深掘りしていきます!」という声が聞こえて、テレビの電源を落とした。 大学内で、彼女に変な噂が立ったことがあった。久がそれを初めて耳にしたのは、人もまばらな大学の食堂で試験勉強をしていたときだった。 「お前、上田環と仲良いの?」 突然肩を叩かれ、イヤホンをしていた久は驚いてコップの水をこぼした。 「うわあ、ごめんごめん。ちょっと、紙かなんかもらってくる」 そう言ってレジのおばちゃんのところへ走っていったのは、同じゼミの友人だった。 「マジでごめん。俺、床拭くから。はいこれ、服用のやつ」彼は大量のティッシュを持って帰ってきて、その半分を久に渡した。 拭き終わった彼は、久の隣に座り、リュックサックから取り出した赤色の炭酸飲料を一気に飲み干した。 「あ、そうだ。本題本題。ねえ、久って上田環と仲良くしてんの? サークルの後輩にお前と上田環が話してるの見たって言ってるやつがいたんだけど。え、もしかして、付き合ったりしてる?」 さっきより一つ増えた質問に、なるべく早く打ち消しておきたい方から答える。 「付き合ってない。仲良いのかは分からないけど、電車で会ったときに話したりはしてる」 付き合ってない、と言ったあとの、いつかは、みたいな感情が顔の表情からばれてしまわないように、久はなんとなく目をそらした。 「あー、そっか。いやまあ、それは最悪いいんだけど」そこまで言って、彼は声のボリュームを落とした。「あのことは、知ってる上で、ってこと?」 彼が周囲を気にかけながら発した、あのこと、というのに心当たりがなかった久は、眉をひそめて、どのこと? と尋ねた。 「え、やっぱり知らないんじゃん。参ったな」 勿体ぶるような真似をする彼に少し苛立ちをおぼえて、久は「なんだよ、教えろよ」と詰めるような口調で言った。 「あいつさ、パンツ売ってるよ」 彼は黒目をぐっと大きくして言った。 久は最初、言葉の意味が分からなかった。 「下着屋でバイトでもしてんの?」 分からないふりをして、ふざけてもみた。 「ばか、そんなわけないだろ。自分が履いたパンツを、裏アカでおっさん相手に売ってんの。やばいだろ、あんな真面目そうな見た目して。だから、そんなやつとつるむのなんかやめとけって、言いに来たんだけど」 久が分からないふりをしている間にも、その噂は次第に広まりつつあって、いつしか大学構内だけでなく、ネットでもちらほら見かけるようになった。 ネットではほとんどガセのように扱われていたけど、それでも鵜呑みにしている人がいないわけではなかった。上田環が有名になればなるほど、その噂はいつか公にされてしまうのではないか、という予感がした。 久はその噂を聞いたとき、なぜか、とても自然に、彼女が自分の使用済みの下着を年上の男性に売りつける場面を想像できてしまった。 そのなかの彼女は笑っていて、その笑顔は、彼女が電車の席を譲ったり、テレビで自分の話をしていたりするときに見るものと同じだった。 久はあくまでも忠告をしてくれた彼に「ありがとう」と言って別れ、それからそいつとはゼミ終わりの飲み会に行かないことにした。 ある日、彼女は炎上した。 久が目を覚まし、ルーティンのように携帯を起動しSNSを開くと、トレンドに〈#上田環〉の文字が入っていた。 恐る恐るタップすると、画面は彼女に対する批判や罵詈雑言でいっぱいになった。 色んな人が色んな立場で怒っていた。 なかには恐らく今回の件とは関係のない感情が入り込んでいるものもあった。 そのエネルギーは、当事者でない久さえ、身震いするほどだった。 しばらくそんなふうな文字の羅列が続いて、肝心の原因に辿り着いたのは、何度も画面をスクロールさせたあとだった。 そこには、ある動画が投稿されていた。どうやら彼女は昨晩、生放送のテレビ番組に出演していたみたいで、動画はその番組での彼女の発言を違法に切り抜いたものだった。 久は、ゆっくりと、しっかりと動画の再生ボタンを押した。 「―――――」 十数秒ほどの、上田環の発言。 その発言の直後映し出された他の出演者の表情は、何かを察したように固くなっていた。 正直、発言の内容は、拍子抜けするほど取るに足らないものだった。少なくとも久は、そう思った。 しかし彼女は炎上し続けた。 それからしばらくしたあと、例の「パンツ売り疑惑」が掘り起こされた。 するとそれを皮切りにしてか、彼女を燃やし尽くそうとする炎はさらに勢いを増した。もう、例の発言の是非は関係なくなっているみたいだった。 そして結局、彼女は人前に出る活動を一切やめることになった。 彼女の炎上を知った直後、久は呆然として身体が動かなかった。 だけど、自分にはやらなければならないことがあると、そう悟った。 久は走った。とにかく走った。風のように走り、ときどき風を追い越した。 普段は歩いて十五分かかる家からの最寄り駅に、ものの数分で辿り着き、自動改札をくぐった。 歩道橋を駆け上がり、また下りたタイミングで電車がホームに入る。久は足元の番号を確認して、電車に乗り込む。 いつもの位置に、上田環は立っていた。 久はその隣に立つ。 どちらからともなく顔を見合わせ、少し笑って会釈をした。 「久しぶりですね」 「あ、うん。そうだね、久しぶり」 彼女の目の下にはくまができているように見えた。 「暑いですね」 「そうだね、まだ、全然暑い」 「アイスとか、食べたくなりませんか?」 「それは、どうだろう。そんなことはないかも」 「え、暑いとき、熱いもの食べる派の人ですか?」 「いや、どっちでもない派。夏でも冬でも、アイス食べるしおでんも食べる」 冷房で冷たくなっていた鉄製の持ち手が、熱で温められる。電車の動きに合わせて、車窓の景色の流れがどんどん速くなっていく。 「最近、どうですか?」 「どうって?」 「いや、なんというか、体調、とか」 「全然。普通だよ。ほんと、なんにもない」 車輛のすれすれを通る木々の緑色が、線になって、一つの面になる。 しばらく二人は黙った。電車が揺れるのと冷房の音だけが、二人の間を行ったり来たりした。 揺れがだんだんおさまる。電車が駅に入る準備を始めた。そこはずっと前に、蠅が吹き飛んで彼女が、あ、と言った駅だった。 電車が動きを止める寸前、彼女が口を開いた。 「ごめん、全然大丈夫じゃないかも」 そう言った彼女の表情は、これまで見たことのない、柔らかいものだった。 その声を聞いた久は、彼女の手を握って、開いたドアから駅のホームに降り立った。 外は暑かった。熱気が顔にまとわりついた。改札を抜けても、駅前のロータリーへ出ても、蝉の声がうるさかった。 「暑いですね」 「うん、暑い」 久は彼女の手を離して、自動販売機でアイスを二つ買った。 「ミントとバニラ、どっちがいいですか」 「どっちでもいいよ」 久は彼女にミントを渡した。二人は土産屋の前のベンチに腰かけた。 久はしばらく黙ってアイスを食べていて、たまに「アイス美味しいですね」と言った。すると彼女も「やっぱり暑いときは冷たいものだね」と言った。 二人がアイスを食べ終わってから、目の前にバスが停車した。恐らくこれから観光地に向かうのであろう、大きな高速バスだった。排気や音がすごくて、熱気が濃さを増した。 ぶろろろろ。 周囲の音を全部かき消すくらいの轟音だった。 ぶろろろろ。 ポケットのなかで携帯が震えた。今日はゼミの日で、遅刻していることを責められているのかもしれない。 ぶろろろろ。 久の心臓の鼓動が速まった。 ぶろろろろ。 今なら何を話しても、この音にかき消されると思った。 「あなたは何を言ったんですか」 彼女が久の方を向いた。よく聞こえないようだった。 「あなたは本当にあんなことしてるんですか」 久は声のボリュームを上げることは特にしなかった。 「それであなたは、誰にとっての悪になったんですか」 声の届かない二人の距離が縮んでいく。 「少なくとも、僕はあなたのことずっと愛せます」 バスのエンジンが止まって、そこだけ彼女の耳に届いてしまった。 一瞬、この世から全ての音が消えた。 久はすぐに頬を赤らめた。こんなにも暑いというのに、背中からは冷たい汗が噴き出ている。 慌てて、アイスのゴミを捨てに行こうとした。そのとき、服の裾を引っ張られる感触があった。 久がふり返ると、そこには上目遣いでこちらを見ている彼女がいて、唇の動きだけで「ありがとう」と言った。 どろどろになったバニラアイスの塊が、久の手から落ちた。 電車の揺れに身体を任せながら、久はそんなことを考えていた。 そんなふうにできたら、そんな未来もあったのかもしれない。 しかし久が実際にしたことと言えば、通学の電車の時間を変えることくらいだった。 もう、しばらく彼女を見かけていないし、あいつとは普通に飲みに行くようになった。 車窓に、雨粒の描く線がぱたぱたと流れた。 四 夕立 亜(あ)子(こ)は香(か)澄(すみ)の一つ年下だった。 だけど、人生のどの時点で数えても、亜子は香澄より何十時間も多く、もしかすると何百時間も、勉強をしていたと思う。 香澄が高校三年生の夏に入院したとき、同じ病室の隣のベッドにいた亜子は、いつカーテンをめくっても小さな机に何冊もの参考書を広げて勉強をしていた。 病室で香澄が目を覚ますのは、大体、朝日が昇り切ったあとだった。 そのときにはもう夏休みの宿題をとうに終えていて、テレビでは高校生同士の野球しかやっていなくてつまらなかったので、香澄はカーテンを開けた。 「おはよう、亜子ちゃん」 亜子はやっぱり勉強をしていた。 「おはようございます」 香澄はそれまでに三度「敬語使わなくていいよ」と亜子に言ったのだが、そのたびに拒否されたのでもう半分諦めていた。 「今日は何してるの。え、積分? 高二で積分ってやるんだっけ」 「......うちの高校では」 二人は別の高校に通っていた。けれど、香澄は亜子のことを入院する前から知っていた。 「えー、やっぱ、頭いいんだね、亜子ちゃん」 「そんなことないです」 「いや、だって○○高でしょ、すごいじゃん。あれだよ、私の通ってた塾でそこ行けたの、ほんと、一人か二人くらいだよ」 「......」 亜子は、こんなふうに褒められると黙った。その代わりに、上がってしまいそうになる口角を抑えるように口元をもごもごさせて、頬を赤らめた。香澄にはそれがなぜか嬉しくて、面白がって亜子をよく褒めた。 「てか、ベッドの周り、すごく綺麗だね」 香澄は顔をきょろきょろ動かして言った。自分でも少しわざとらしいかと思ったが、亜子にはばれていないようだった。 「......汚いと、落ち着かないだけなんで」 「それを綺麗好きって言うんだよ。きっとさ、あれでしょ。焼き魚食べるのとか上手でしょ。骨だけ綺麗にお皿に残して。あとさあとさ、学校のロッカー。そこに教科書やら参考書やら並べるとき、背の順にしない? 私、ああいうのとか、調味料の向きとか、そういうのこだわれる人ってちょっと憧れるんだよね」 「......確かに、ロッカーとかは、そうかも」 亜子の勉強の手は止まっていた。さらに顔が赤くなって、銀縁の眼鏡が朝日を反射していた。 調子に乗った香澄がさらに亜子を褒めようとした途端、 「もう、もういいですから」 何かを察した亜子がそれを手で制した。確かに、もうお腹いっぱい、という表情をしている。 「ふーん、そっか」と口を尖らせた香澄は、所在なげに空を見つめてから「じゃあ、飲み物買ってくるけど、なんかいる?」と聞いた。 香澄と亜子は、香澄が松葉杖で亜子が車椅子だったので移動の自由が異なり、こういうことが何度かあった。もっぱら香澄からの提案だった。 「なんでもいいです。水でいいです」 「水ね。了解」香澄は空いている方の手に財布を持ち、病室を出た。 白いリノリウムの上に、杖の先端が擦れる音が響く。自分で言い出しておきながら、自動販売機までの道のりはそれなりに長かった。 途中、ナースセンターの横を通った。香澄は顔見知りの看護師にはにかみながら会釈をした。相手は香澄が杖をつく姿などなんとも思っていないと分かっていながら、まだどこか恥ずかしいという気持ちがあった。 看護師たちに顔を向けなくていいくらいまで通り過ぎたあたりで、香澄はいつかここで耳にしたことを思い出していた。 「かわいそうよね、小山内(おさない)さん」 赤と白の自動販売機が一つずつ設けられているスペースに到着する。香澄は五百ミリリットルの水を探した。 香澄は入院する前から亜子のことを知っていた。だから、隣のベッドが小山内亜子だと分かったときはかなり驚いた。 知り合いの知り合いの知り合い、くらいの感じだった。その、知り合いの知り合いの知り合いについて、知り合いから聞いた分には、亜子は看護師たちの言う通りかわいそうな子だった。 彼女は三姉妹の次女だった。 彼女の通う高校は確かにトップクラスに偏差値が高かったのだけど、実はそれは公立校のなかの話で、同じ学区には、それすら霞んでしまうような私立の名門校があった。三姉妹の長女はそこの生徒会長だった。 長女の優秀さはこの地域ではあまりにも有名で、校則違反をし尽くして高校を三日で退学になったヤスダ先輩に並ぶほどだった。 亜子はいつも長女と成績を比較され、その私立の高校も受験したのだけどだめで、妥協して今の高校に通うことになった。 三姉妹の三女は、やり投げの名手だった。全国大会に出場するたびに中学校の校舎やスーパーマーケットに垂れ幕が飾られて、この辺りに住む人たちは何度もその名前を目にした。おまけに学校の成績も優れていて、下手をすれば長女と同じところへ通えるかもしれないとのことだった。 病室に戻ると亜子はやっぱり勉強していて、ペットボトルを渡すと財布を取り出そうとしたので、それをやめさせて、香澄は一人でベッドに横になった。 その日は、カーテンの向こう側が静かだった。 亜子が勉強しているときはいつもそうなのだけど、人数が増えていた分、そのときは余計にその密度が高かった。 さっき香澄のベッドの前を通り過ぎた女の子は、身体は小さいのにがっしりしていて、鼻筋のあたりが亜子によく似ていた。 沈黙を破って声を発したのは、亜子よりも幼い声だった。 「帰ってこなくてもいいからね」 「なんでそんなこと言うの」香澄はその日では、初めて亜子の声を聞いた。 「お母さんもお姉ちゃんも、みんなそう言ってるから」 「光(ひかり)はどうなの?」 「どっちでもいい」 「どっちでも、って」 「どっちでもだけど、亜子ちゃんがいるとみんな機嫌悪くなるから、帰ってこない方がいい」 「はは、悲しい」 亜子の声は、それまでに香澄が聞いたことのないような、冗談っぽい調子だった。 「お母さん、お見舞い来ないの?」 「来ないよ」 直接見なくても、目を合わさずに会話する二人の様子が想像できた。 「高二の夏の大事な時期に怪我なんかしやがって、って言ってた」 「それは部活で」 「だからそれも」声が一瞬強くなった。「あれだけやめろって言ったのに、って」彼女にはまるでその「お母さん」が乗り移ったみたいだった。 それからまたしばらく無音になった。そして時計がちょうど十七時になったとき「はい、三十分」という声と、椅子を引きずる音がして、さっきの少女は病室から去っていった。 その日、香澄の好きだったバンドのボーカルが死んで、北海道で猫が一日駅長を務めた。夕食のあと、香澄は亜子に車掌の制服を着せられている猫の画像を見せてあげた。亜子は「可愛いですね」と言った。 医者に「退院までは予定よりもう少しかかりそうだね」と言われた頃から、香澄はそれまでよりも頻繁に亜子に話しかけるようになった。 もちろん亜子はいつ見ても勉強していたけど、嫌がる顔は見せなかった。 「せっかく海行こうと思ってたのにさー」お昼の二時あたりは特に退屈で、よく話し相手になってもらった。「高校最後の夏だってのに」 香澄の怪我は、テニス部の練習中に無理な姿勢でレシーブをしようとして足をねじったのが原因だった。こんなことなら秋まで粘らずに春の大会でさっぱり引退しておけばよかったと、何度も思った。そのことについて、亜子には特に話さなかった。 「お友達と行くんですか」 亜子は勉強しながらも返事をしてくれる。香澄は違うことをいっぺんにできないから、すごいと思っていた。 「いや、彼氏と。春には新しい水着買ってたのに、着る機会なくなっちゃった」 来年も今の体重キープできてたらいけるけどね、と笑う。 「ふうん、そうですか」 亜子の返事が急にそっけなくなったように感じた。いかにも、興味ないですよ、と言いたげだった。 「あ、今日は何してんの。うわあ、漢文か」香澄は口をへの字に曲げた。「その漢字の意味とか、もう全然おぼえてないなあ」 「そんなんで受験大丈夫なんですか」 それまで手元の問題集に集中していた亜子が、突然香澄の方を向いた。 あらためて顔を真正面から見ると、整った顔立ちをしている。亜子の声は、ガラス片を突き刺すようだった。 「いや、まあ、私、就職組だし。実はもう、ほとんど決まっててさ」香澄はあくまでへらへらしながら答えた。「いや、でもね、いくらなんでも全然身についてないのはやばいよね。社会に出ても、なんかの役に立つかもしんないのにね」 「そうですか」 たくさん喋った香澄に対して亜子はそれだけ言うと、また視線を下に落とした。 香澄が答えたとき、亜子の眼鏡の奥に、安堵したような表情を見た気がした。 うん、そうそう、と、香澄は口のなかに余っていた言葉をこぼして、そのまま携帯をいじった。カーテンは、特に閉めたりしなかった。 「なんかさー、やばいと思うんだよね」 香澄は病院の正面玄関のベンチに、同じテニス部の優(ゆう)と座っていた。 「何が?」 優は香澄と違って春には部活を引退していて、部の決まりだったショートヘアーをやめて、今はセミロングくらいになっている。 「亜子ちゃん。小山内亜子の、家族」 病室でも散々話したのに、別れ際になるとさらに話したいことが湧くのは、香澄たちの癖だった。優は、香澄に初めに亜子の話を聞かせた人だった。 「え、家族? あの、みんな優秀な? 会ったの?」 ベンチのところは正直冷房もあまり届いていなくて、お互いおでこに汗をかきながら話していた。 「会ったっていうか、亜子ちゃんと妹が、あのやり投げの、が話してるの聞いちゃっただけなんだけど」 香澄が腕で顔の汗を拭う。 「もう帰ってこなくていい、とか言われてて」 「誰が? 二番目が?」 「そう」香澄は二番目、という呼び方に少し引っかかった。「なんか、怪我のこと心配される感じも全然なかったし」 香澄の耳のなかにベッドで聞いた会話が流れた。 「あー、んー、まあ」 香澄が優の方を見た。優の反応は、香澄が思っていたのと少し違った。 「まあでも、なんていうかさ、ちょっと、仕方ないところもあるんじゃない? だってさ、流石にかわいそうじゃん。あんなにできた姉妹に挟まれたらさ、私だって、そう思われても仕方ないか、って思うと思うもん」 香澄は優の言葉を聞きながら、その後ろであやとりをしているおじいちゃんと孫を見ていた。あ、あれ、難しくて諦めた富士山だ、とかそんなことを考えた。 「ねえ香澄? 話聞いてる?」 「あ、ごめんごめん。そっか、そういう考え方もあるよね」 「んー、そうだと思うよ」 そのとき、病院の目の前の停留所にバスが入ろうとしていたのが見えた。 「でもね、なんか、してあげたいんだよね」 「あ、ごめん、バス来ちゃったから帰るね」 優はそう言って席を立った。香澄も「あ、うんうん、ごめん、また連絡する。今日はありがとう」と言って手をふった。 バスを見送って、またベンチに腰かける。 革張りのベンチの優が座っていたところは彼女のお尻のあとでくぼんでいて、言いたかったことはそこに置き去りにされてしまっていた。 亜子は夜も勉強していた。 面白いテレビのない木曜日は、亜子は香澄のお喋りに付き合わされた。 「もしうどん派とそば派に分かれなくちゃいけなくなったら、どっちにつく? 私、うどん」 「そば、ですかね」 「うわー、そばかー、じゃあもし戦うことになったら私たち敵同士だね」 亜子は漢文の勉強をしていた。あのときから亜子は、香澄と話しながら勉強をするときには必ず漢文の問題集を解いているような気がした。香澄は、もう亜子になんの教科をしているか聞かなくなった。 香澄があくびをしたとき、それまで気にしたことのなかった亜子のペンケースがふいに目に入った。留め具のところに、きらきらしたキーホルダーがついていた。 「何それ」 「それってどれですか」 「それだよ」 香澄がキーホルダーに触れると、亜子が「あ、あ、さわ、触らないで。あ、あわわ」と漫画みたいに慌てたので、香澄は思わず噴き出してしまった。 亜子は力の抜けた香澄の手からペンケースごとひったくると、褒められたときよりもさらに顔を赤くして、何事もなかったように勉強を再開しようとした。 「いや、待って待って。ごめんごめん、そんなに触れられたくなかったとは思わなくて。もしかして大事なものだった?」 香澄は頬を緩めながらも、亜子の地雷を踏まないように聞いた。 あらためて見ると、それはパリの凱旋門だった。透明な素材でかたどられた、凱旋門のミニチュアだった。 「パリのお土産?」 香澄が聞くと、亜子はしばらく黙って、それでもしつこく顔を覗いていると、とうとう観念したように口を開いた。 「昔、家族でフランスに旅行に行ったんです。そのときは私まだ小さかったからあんまり記憶もないんですけど、通りのお土産屋で母親がこれを買ってくれたのは、すごくおぼえていて。それから、いつかまたフランスに行きたいと思って、取っておいてるんです」亜子はそこまでほとんど一息で言い切って、最後に「できれば家族みんなで」と早口で加えた。 香澄は、亜子史上最多文字数に驚きながら、これは運命だ、と人知れず感動していた。 「ねえ亜子ちゃん、今さ、実は私のいとこがフランスに留学してるの。それで今度、まだもう少し先だけど、一旦日本に帰ってくるのね。そのとき、フランスのお土産買ってくるように頼んでみるよ! ね、それ、すごくよくない?」 亜子の思い出と、いとこの現住地と、自分の亜子に対する思いが偶然的に重なったことに、香澄は身体を熱くさせていた。 予想外のことに亜子は目を丸くしていたが、すぐに「いやでも」と遠慮した。香澄はそんな亜子の手を握って、 「ううん、大丈夫。ほんと、ちょっと聞いてみるだけだから。お土産が一つ増えるくらい、大したことないよ。ね、そうしよう、それがいいよ」 香澄の圧に負けた亜子は、とうとう首を縦にふった。 その瞬間消灯の時間になって、そのときの香澄にはそれすら奇跡のように感じられて、亜子との約束に胸を高鳴らせて布団にもぐった。 見舞いに来てくれた彼氏を見送り、病室の引き戸を開けたとき、香澄はわっと顔をしかめた。 なんだ、この匂い。 デパートの入口で嗅ぐような、もたれた匂いが、部屋に充満していた。 鼻をつまみながら杖で歩こうとすると、亜子のベッドの前に女性が立っていたのが見えた。 その女性が香澄の方をちらっと見て会釈したので、香澄も会釈を返した。亜子の姿はカーテンで見えなかった。 香澄はベッドに入るとき、なぜかなるべく音を立てないようにして、背を向けるように横になった。 女性は制服を着ていて、つやのある髪を胸のあたりまで伸ばしていた。腰の位置がすごく高くて、手足は細く長かった。いつか部活終わりに優とお腹いっぱい食べた、ケンタッキーフライドチキンが思い出された。 傍らの丸椅子に置いてあったとげとげがついたバッグは、恐らく彼女のものなのだろう。顔はよく見えていなかったけど、もうすでにとんでもない美女で想像をしてしまっていた。 「なんか、言ったらどうなの」亜子よりも低い声が聞こえた。 ふり向きたかったけど、そんな勇気は出なかった。 「なんかって、なに」亜子の声は、少し震えているみたいだった。 ちっ、という舌打ちの音がした。 「そうやって、オウム返ししかできないの」 少しの間静かになって、また舌打ちが聞こえた。 「オウム返しの意味も分かんないのかよ」 二人の声はすごく小さくて普通なら聞き取れないくらいだったけど、香澄は神経を集中させて音を拾おうとした。 すると、一瞬、風のように声が流れた。 「むかつく」 その一秒後、ぼこっ、という音がして、香澄のベッドの前を女性がすごい速さで横切っていった。 病室を満たしていたあの匂いが、ぶわっと濃くなって、なくなった。ほんのちょっと見えた女性の顔は、想像していたほどではなかった。 その日は亜子の顔を見ることはなくて、翌日、彼女のおでこにはガーゼが貼られていた。ベッドの下で先端が赤くなったとげの一つを見つけたことは、香澄は誰にも言わなかった。 つまらないと思っていた高校生同士の野球大会が、いつの間にやら決勝を迎えていた。 その日は珍しく亜子は勉強をしていなくて、亜子の方のテレビで、二人してその行方を見守ることにした。 決勝戦、九回裏、一点ビハインド、ツーアウト満塁、逆転の可能性。意味は分からない。実況のアナウンサーの言葉を頭のなかで復唱する。でも見ている分には、球場はとてつもなく盛り上がっていて、その熱気が画面を通して伝わってくるみたいだった。 気付くと、香澄と亜子は釘づけだった。握った拳のなかに汗が滲んだ。 ピッチャーとバッターの顔が交互に映し出される。たっぷり日に焼けていて眉毛が伸びっぱなしの二人の顔はよく似ていたけど、その目つきは、全然違うように見えた。 観客席では応援団が必死になって声を張り上げたり楽器を鳴らしたりしている。 その音たちがほんの一瞬、全部聞こえなくなったとき、ふりかぶったピッチャーの手からボールが投げられた。 真っすぐの軌道を描いた球がキャッチャーのミットにおさまると思った次の瞬間、かん、という金属バットの音が球場を裂いた。 球は高く上がって、カメラが必死にその動きを追う。 打った。 実況の繰り返す叫びが鳴り響く。 バッターが死に物狂いで走る。 球の着地点には、ミットをかまえた球児が空を見上げていた。 これ、このままこの人がボール捕ったら、試合終わっちゃう。 素人の香澄でも分かったその高揚感が、画面に張り詰めた。そして、ボールが、ミットに、 ぽとん。 ボールは、球児のミットに跳ねて地面に落ちた。 実況や観客の歓声が爆発する。 ランナーがホームベースに走り込んだ。 画面の「3」の数字がくるっと回って「5」になる。 ベンチから球児たちが拳を上げて飛び出した。 反対のベンチでは球児たちが顔をくしゃくしゃにして泣いていた。 誰かの叫び声みたいなサイレンがうるさい。 香澄は呆然としていた。予想だにしなかったできごとに、動悸が上がっていた。 亜子の方を見る。 亜子はまだじっと画面を見つめている。 カメラは、一人の球児を映していた。彼は、他の球児たちよりもひどく泣いているみたいだった。しばらく経ってようやく、彼がさっき球を捕れなかった人だと分かった。 「かわいそう」 香澄は思わずこぼした。素直な感想だった。もう少し言えば、彼をあまり責めないであげてほしい、みたいな意味だった。 すると、亜子が香澄の方にぐるりと首を回した。 「その言葉、嫌いです」 それだけ言って、テレビを消した。まだ見たかったのに、と思ったけど、何も言えなかった。 亜子が勉強を始めようとしたので、香澄は自分のベッドに戻った。机に置いてあった小説を開いてみたが、身体の芯はまだ熱く、なかなか内容は頭に入らなかった。 リズムのぎこちない蝉の鳴き声が、そこらじゅうから聞こえたような気がした。 いとこが日本に戻ってくる前に、亜子は転院した。 一向に怪我が治らないことに腹を立てた母親が、病院に苦情を入れたらしかった。 三女に車椅子を押されながら亜子が病院を出ていくのを、香澄は病室の窓から見下ろしていた。車椅子はわざと段差のあるところを通った。 隣にはモデルのような体型の長女が歩いていて、彼女が亜子の怪我をしている方の足を蹴ったのが見えた。 しばらくしていとこが持ってきたフランス土産は、親戚が帰ったあとにごみ箱に捨てた。別に亜子は家族とフランスに行きたかっただけでフランスのものがほしかったわけではないと、考えれば分かることだった。 空いた隣のベッドには、両足を骨折したおじさんが入ってきて、香澄は毎晩獣のようないびきに悩まされた。 その年の夏は、最悪の夏だった。 彼氏が大学の友人に影響されて野球にはまり、夏になるとテレビのある香澄の家で甲子園の中継を見た。 洗濯ものを畳んだりそうめんを茹でたりしながらその光景を見るたび、香澄は亜子のことを思い出した。 あの夏から、彼女が嫌いだと言った言葉を、あまり使わなくなった。 彼女は今どうしているだろうと思うと、左足がかゆくなった。 でもいつかは彼女のことなんて記憶から薄れていき、このまま彼氏と同棲を始め、結婚し、たまに面倒ごとに悩みながら、また何事もなかったように生きていくのだろうと、一つ結びができるようになってから出すようにしたおでこの中身で考えた。 だけど、亜子は香澄の職場に新人として現れた。 香澄が社会人二年目の高卒なので、一個下の彼女もそういうことになる。 彼女は指定のつなぎを着せられて、工場長に言われるがまま「よろしくお願いします」と小さな声で言った。左足はもう治っていた。 拍手しながら、一瞬彼女と目が合った気がした。 ぴかっと空が光って、轟音が鳴った。突然降り始めた夕立が、夜勤を迎える香澄の身体をだるくさせた。
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