坂本怖い

酒之好太郎


 
 この世で一番怖いものはと訊かれたら、俺は坂本だと即答する。
 
 俺が通っていた小学校には文化週間というわけの分からない週間があり、生徒たちは文化と触れ合うことを強要された。体育館に詰め込まれた俺たちは、ステージに座布団を敷いてぽつりと正座した無名の落語家の落語を聞いた。饅頭が怖いという男の話だった。俺には笑いのツボがさっぱり分からず、体育座りの膝に顔をうずめて爆睡していたから、男が饅頭を恐れた理由を知らない。
 ただ、気持ちは少し分かる。
 昔ドラえもんに、増殖する栗饅頭のエピソードがあった。いつも通りドラえもんが秘密道具をちらつかせ、いつも通りのび太が欲望まみれになって道具を乱用し、危機に陥る。有名なエピソードだから聞いたことあるやつも多いと思う、だったら四文読み飛ばしてくれ。その回では、垂らしたものを倍々に増やす薬が登場した。のび太はその薬を栗饅頭に垂らした。食べ物→増やす、このシンプルさがのび太的思考回路だ。結果、栗饅頭がネズミ算式に増殖しだし、ドラえもんは地球が栗饅頭に覆い尽くされるのを避けるため、宇宙に不法投棄した。
 幼い俺は夜ベッドに横たわり、暗い天井を見上げながら宇宙に思いをはせた。赤い火星や青い水星やわっか付きの土星をじわじわと浸食していく薄茶の波。銀河を覆い、ゆっくりとその淵を拡大しつつある栗饅頭の大海。
 俺にとって恐怖の本質とは、自分には理解できないものだ。例えば栗饅頭コスモ。自分の日常を決定的に破壊してしまうもののことだ。
 そういう点では、坂本の右に出るものはいない。
 
 栗饅頭を怖がっていた俺も今や大学生となった。
 本命だった関東の大学にはあっさり落ちた。それでも、なんとしてでも家は出たかったから地方の公立に潜り込んだ。俺に弱小中華料理店を継がせようとしている親父は怒鳴り母さんは泣き落としにかかったが、俺は荒れて抵抗した。うちに金がないのは知ってる。店の経営が厳しいのも知ってる。でも、俺の人生を生贄にする気はない。冷血と呼びたきゃ呼べ。
 結局、ある夜親父が夢をみたことで決着がついた。夢には五年前に死んだじいちゃんが出てきて、侑人の好きにさせてやれ、と言って煙になって消えた。
 そういうわけで、俺は実家からの脱出に成功した。ありがとうじいちゃん。じいちゃんが幽霊だったのかただの親父の夢だったのか分からないけど。もし幽霊だったとして、今となってはもう、いい幽霊だったのか悪い幽霊だったのかも分からないけど。
 晴れて大学生となった俺は、テニスサークルに入った。
 うちの大学にはテニス部があり、こっちは本気で活動していて、地方大会でそこそこの成績を残したりしている。俺が入ったテニサー~花鳥球月~はそれとは別物で、飲みサー、ヤりサー、とにかく悪名高い。承知の上で入部した。大学生なんて遊ぶもんだろと思った。どうせ受験には失敗してるも同然だし、将来は真っ暗だ。店を継がせようとする親父の説教と母さんのむせび泣きを考えただけでどっと疲れる。が、屈してあの実家に縛り付けられるのも気が狂いそうなくらい嫌だ。今度はじいちゃんも加勢してくれないだろう。
 将来から目をそらすには、今派手に遊ぶしかない。
 新歓の飲み会でレモンコーラハイのメガジョッキを飲んで、俺はふらふらになった。それまで肝試し程度しか酒を飲んだことがなかった。頭がぼんやりして、目の奥がじわっと熱くなって、その後の飲み会中ずっとだらしなくへらへら笑っていた。
 それからの記憶はずっと曖昧だ。
 気が付くと、近くの席に座っていた男女四人で仲良くなっていた。きっかけも覚えていないが、多分杉浦が話しかけてきたんだろう。俺は気を利かせられるような状態じゃなかった。杉浦が向かいの席の女子二人組になれなれしく声をかけるのを見ながらげらげら笑っていた。女子二人も上気した顔で笑っていた。これってめちゃくちゃ大学生っぽくないか、と俺は思った。
 別れ際に連絡先を交換するくらいの理性は残っていた。
 
 ときどき俺は運命論について考える。
 今更考えても手遅れだし、ばかな俺の頭じゃ容量不足だし、過去のへべれけになっていた俺をぶん殴ってやることもできないけど、考えずにはいられない。夜、一人ベッドに横になり、俺は栗饅頭の心配をしていた子供の頃みたいに天井を見上げている。
 ときどき俺は自分がすでに死んで幽霊になっている可能性について考える。
 
 そろそろ、俺が住む寮の話をしよう。
 築四十年、四階建て。道に落ちたガムの色のコンクリートの外壁には致命的なヒビが入っていて、かなり頼りないパテで埋められたあとだけが白い。元はプレートでもあったのが剥がれ落ちたのか、若葉寮の跡だけが辛うじて読める。
 部屋番号は四〇九。二人部屋。一回生だから条件は悪い。年代物のエアコンがあっても夏は蒸す。備え付けのベッドは体育用マットみたいに硬く、体育用マットみたいな染みがあり、体育用マットみたいな匂いがする。
 部屋は狭くはないが、二分するとなると話は別だ。俺には四つ上の姉がいるが、さすがに部屋は分けられていた。誰かと相部屋をした経験はない。
 俺は三月中旬に寮へやって来た。その時点では同室が誰なのか分からなかった。気が合わないやつが来ると面倒だなとは思った。どうせ誰が来たって嫌なんだから当たりはずれは無いだろうとも思った。
 俺より二日遅れて入居したルームメイトは、何往復もして大量の段ボール箱を運びこんだ。
 部屋の左半分がどんどん箱に浸食されていくのを、俺はベッドで携帯をつつきながら眺めていた。ルームメイトは首にかけたタオルで額をぬぐいながら、黙々と作業した。それから軍手を外し、リュックサックから小ぶりな白い包みを取り出して俺の目の前に立った。俺は手元の液晶画面から目を上げた。差し出された包みの白い紙には、リボン結びののしが印刷されていた。
 タオル、とルームメイトは言った。メガネが汗で少し曇っていた。
 引っ越しの挨拶です。坂本義彦といいます。これから宜しくお願い致します。
 俺は目だけで軽く会釈して包みを受け取った。
 
 すでにお察しの通り、坂本は俺と合うタイプの人間じゃなかった。対極と言ってもいい。俺たちの部屋を見ればそれは一目瞭然だ。
 部屋は見えない境界線で真っ二つに分断されている。右半分、俺のスペースはがらんとして片付いている。俺はこう見えてけっこうまめに掃除をするし、物を増やさない。その対比もあってか坂本の棲む左半分は密度が高く見える。いわゆる汚部屋とは違うけど、いかんせん荷物が多いから収拾が付かなくなっている。
 坂本はオタクだ。
 本棚には分厚い本やファイルがぎっちり詰まっていて、壁はピンで留められた毒々しい色のポスターで覆われている。床には未開封の段ボールが積まれ、目覚めの時を待っている。机の上に溢れた紙や本をなんとか端に寄せてつくったスペースにパソコンを置き、坂本は夜な夜なそこでキーボードを叩いたりファイルを繰ったりしている。
 坂本の本棚の上にアニメのフィギュアは飾られていない。坂本の机の目の前に貼られたポスターに美少女や戦艦の絵は描かれていない。坂本のパソコン壁紙はただのデフォルトの青色だ。
 坂本は、心霊オタクだ。
 本人から聞いたわけではない。ただ、ファイルの背表紙の手書き文字やポスターの不穏な絵柄を見れば嫌でも分かる。アニメ美少女より貞子にムラムラくる質らしい。別に、俺にとってはどちらも大した差がない。
 坂本との同居生活は、それなりにうまくいっていた。俺たちは互いに干渉しようとせず、多分お互いに興味が無かった。俺はバイトとサークル活動という名の遊びで忙しかったし、坂本はいつも机に着いて背中を丸め、作業に没頭していた。俺がバイトで夜遅く帰ってきても、坂本はまだパソコンの青白い光を浴びて亡霊のようにキーボードを叩いていたりした。なんとなく経済学部に入った俺とは違って、坂本は文学部に入り民俗学かなにかをやっていたらしく、つまり割と本格的なオタクだった。もし高校までで出会っていれば、関わりあうこともなかったようなタイプだ。汚れたメガネレンズや体育の時間のぎこちない動きなんかが、クラス中でひそひそ笑われていたようなタイプだ。俺は笑っていた側の人間だった。
 慣れれば、俺たちは互いの存在をほぼ完璧に忘れられるようになった。
 かといって、無視しあっていたわけでもない。同室とあってはそうはいかない。傍から眺めるぶんには坂本みたいな人種は面白い。一緒にいて周りから同類だと思われない限りは。時々俺は坂本に話しかけてみたし、坂本も丁寧に応じた。他人行儀と言われればそれまでだけど、結局のところ俺たちは他人だった。
 たとえば、坂本に怖い話を聞かせろとせがんでみたことがある。たぶん俺は酔っていた。坂本は黙って段ボールの一つを漁り、DVDケースをいくつか取り出した。「実録!恐怖映像」とか、「映ってしまった...」とかいうタイトルだった。日本人形が血の涙を流すジャケットといい、タイトルのフォントといい、下手したらコンビニにでも売ってそうな匂いがすごかった。
 俺のノートパソコンは外付けのプレイヤーが無いとDVDを再生できず、そんなもの買う余裕は無く、だからDVDは借りたまま返した。
 他にも、坂本が花粉症で苦しんでいた時期に、俺がティッシュを恵んでやったこともある。ポケットティッシュ配りのバイトにはノルマがあり、俺は大量のティッシュをポケットに隠して持ち帰っていたから、いくらでもあった。粗悪な品で、水に溶けるどころか強く鼻をかんだだけで繊維が粉塵となって舞い上がる。ティッシュを受け取った坂本に礼を言われて、俺の良心はほんの少し痛んだ。
 数少ない心温まる思い出。
 それから俺は、坂本に外出の報告をするようになった。
 はじめは、外泊するから他の友達が訪ねて来たらそう伝えてくれ、と頼んだだけだった。坂本はいつも通りキーボードを打ちながら分かったと答え、俺は微かな疼きを感じた。優越感。日々ブルーライトを浴びつづけるだけの坂本に、充実した俺のスケジュールをさらりと報告する快感。
 日差しがきつい時期になっても生白いままの坂本に、日焼け止めは塗りつつ適度に焼けた俺は、その日の予定を律儀に伝えた。飲み会、キャンプ、海、花火、ライブ。分かった以外の返事が返ってきたことは無かったが、俺は満足だった。
 坂本をどこかへ連れ出そうと試みたことは一度も無かった。
 
 夏も熟しきった頃の夕方だった。
 俺はいつも通りベッドに腰かけて携帯をいじっていた。坂本がキーボードを鍵打する音と、外でセミがカナカナ鳴く声だけがしていた。しばらくして、俺はふと思い出したかのように切り出した。自慢は自慢ったらしく言わないのが原則だ。
「そういえば、今日の夜でかける」
 どこに、と色のない声で一応坂本が訊いてきた。俺は携帯の画面をスクロールしながら、軽く目を上げて様子を伺う。
「肝試しに行く」
 キーボードの音は途切れない。
「桂冠荘」
 そう言えば反応があるだろうと踏んでいたが、坂本は何も言わずキーボードを叩き続けた。おかしい。桂冠荘は市内の廃ホテルで、マイナーだがその筋の人間には有名なんだと杉浦は言っていた。ちゃんと自殺者も出ているらしい。ちゃんとの意味がよく分からなかったが、犬でいう血統書みたいなものだろうと思った。
 俺が、聴こえなかったんじゃないかと思ってもう一度言おうか迷いだした頃だった。タイプ音は唐突にエンターキーの強打で途切れた。坂本は椅子を回して振りむいた。
「死ぬぞ。」
 俺は坂本の青白くむくんだ顔を見つめてあっけに取られた。
 
「なるほど」
 ようやく俺の口から声が出る。友人と遊びに出かける上に坂本のテリトリーである心霊スポットに行こうとしている俺への理不尽な嫉妬か。ネガティブなことを言って俺の気分を沈ませてやろうという作戦か。もしくは、坂本は本気で心霊狂なのか。となると話は別だ、できるだけ刺激したくない。
「わかった。用心する」
 瞬時に俺は坂本の助言を素直に聞き入れる良い友人と化す。坂本はメガネの奥の暗い目で俺を見る。
「どうせ信じないだろうが一応忠告しておく」
 反応に困る俺に構わず、坂本はずり落ちてきたメガネを手の甲で押し上げる。
「データによれば、桂冠荘に立ち入った人間の死亡率は六割を超える。遊び半分の場合は七割弱。」
 俺は数秒絶句した後、思わず笑った。そんな馬鹿話を真面目に口にされると笑うしかない。デマにしても、もう少しリアルな数字を使ったほうが信憑性が増すんじゃないかと思う。
 坂本は表情を崩さなかった。自分の話を馬鹿にされ、笑われるのには慣れているようだった。
「馬場は一挙手一投足ごとに墓穴を掘っている。黙ってくれ。」
 坂本は黒縁メガネを外して眉間をずんぐりした指で揉んだ。ひどく疲れて見えた。
「ホラー映画を見たことは」
「ある。巨乳が殺人鬼に追いかけられるみたいなやつ」もれなく際どく服が破れるようなやつだ。坂本は何も言わなかったが、気分を害したような気がした。
「そういう映画を思い浮かべて欲しい。映画の冒頭、軽薄なサークル仲間がいわく付きのホテルに肝試しに行く。ふざけたり騒いだりする。エスカレートすると落書き、器物破損、故人の中傷等をする。結果、次のシーンではどうなると思う。」
「そいつらが死ぬ」何者かに襲われ、怯えきったバカな男女は高すぎるツケを払う羽目になる。映画冒頭のありがちなパターン。「でもそれは映画の話だ」
「今ので馬場が死ぬ確率は八割に上がった。君が死の危険を頭ごなしに否定すればするほど、君は死に近づいている。黙ってくれ。」
 珍しく饒舌な坂本に圧されて俺は黙る。しばらく考えた結果、
「なら、どうすればいい」
 訊いた。下手なことを言って地雷を踏み抜き、坂本に黙れと怒鳴られるのを回避しようと試みた。オタクは専門について尋ねられたり助言を求められると気分を良くするだろうという偏見も少しあった。
「どうとは」
「いや、魔除けの呪文とかお札とかないのかと思って」
 言いながら自分でも、地雷を踏み抜いたのを感じていた。もともと薄かった坂本の表情が完全に無になった。
「ない。」
「なら仕方ない」
 友人に付き合い悪いやつ認定されるくらいなら、俺は幽霊に呪われた果ての死を選ぶ。結局大学生ってそんなもんだろと思う。「死にに行ってくる」
 坂本は愚かな人間を見る目で俺を見る。親父と母さんと親戚一同の目を思いだす。
「...僕も同行する。」
「なんでそうなる」
「肝試しに行った挙げ句死ぬのは本人の自己責任だから、勝手にすればいい。だが、同室の人間に死なれるのは僕の職業意識的に我慢ならない。」
 言いながら坂本は、本棚からファイルを一冊抜き出しばらばらめくり始める。
「準備する。時間になったら声をかける」
 俺はしばらく絶句し、それからマジかと言った。返事はなかった。
 
 なぜ同行を拒否しなかったのか分からない。坂本と俺たちテニスサークルの男女4人は水と油で、どこまで行っても交わることのない人種だった。坂本は恐ろしく空気を白けさせかねない。幽霊より、地獄みたいな空気の方がよっぽど怖い。
 むしろ、坂本という異星人を連れて行けば笑いのネタになるんじゃないかとは少し考えた。坂本がいれば死亡確率80%でも安心だ、なんてことは考えなかった。それだけは断じてない。
 とにかく、俺が携帯をつついていると、のそりと影が落ちた。見上げると身支度を終えた坂本が「時間だ」と言う。
「なんだその格好」
 坂本はカーキのシャツにカーキのジーンズ、分厚いメガネという服装のせいで日本兵みたいに見えた。登山用並に厳ついリュックを背負っている。
「装備は命運を分ける。少々念を入れすぎなくらいでちょうどいい。」
 遅れるぞと坂本が言う。時計を見ると、もう8時半だ。
 
 待ち合わせ場所の草むらに行くと、俺以外の三人は既に集まっていた。おせえぞと、遠くで杉浦が叫んでいる。暗くてシルエットは識別できない。
「お前、早くも憑かれてんじゃん」
 顔が見える距離まで近づいたところで、杉浦の第一声がこれだった。そのやや固い薄笑いが全てを物語っている。変な誤解を与えないうちに、俺は坂本を指して言う。
「こちら俺と寮で同室の坂本義彦君」
 坂本はごく軽く会釈する。
「よろしく」で、なぜお前のルームメイトがここにいるんだ、と杉浦が目で言う。今すぐ坂本を帰らせようかと俺は半ば本気で考える。もうどうにでもなれ。
「坂本は心霊スポットに詳しくて、歩く本当にあった怖い話と呼ばれてるんだ」
「で、連れて来たわけ?」
 笑う杉浦の声にはまだ棘がある。一方、女子の一人は食いついてくる。
「へー。じゃ、坂本くんって霊感あるんだ?」
「あるある。幽霊とか、4Kハイビジョンかってくらい見えるよ、なあ坂本」
 坂本に口を開く暇を与えず俺は言う。女子二人がけらけら笑ったので俺はほっと息をつく。
 茶髪の男が杉浦で、俺と同じく経済学部。ショートカットの女がキョーコ、心理学部。髪が長い女がナイちん看護学部だからナイチンゲール。坂本にもそのくらいの説明はしてある。
「まあいいや。さっさと行こうぜ」
 杉浦は顎で背後を指した。草むらと化したこの元駐車場の向こうに景観荘はある。いかにもな雰囲気の洋風廃ホテルが闇に紛れて見えた。バルコニーの唐草フェンスは折れていて、暗い屋根の出窓が目玉の外れた眼窩に、どっしりした両開きの扉が獲物を待ち構える口みたいに見える。なんとなく静かになった瞬間、ぬるい風が吹いて雑草が騒めくように鳴った。錆びた風見鶏が軋む。ちょっと演出が効きすぎてる。
「明かりは」
 坂本が言った。喋るはずない石像が喋ったみたいに全員一瞬ぎくりとする。
「あー、俺ライト持って来た。」
 杉浦が言ってポケットから取り出したのは、ボールペン型ライトだった。坂本は沈黙する。ほら、と杉浦は無邪気に言ってボタンを押す。光が蛍のように儚く細く灯った。さすがーとキョーコは笑う。坂本はリュックをごそごそ掻き回す。しばらくしてペットボトルくらいの筒を引っ張り出す。
「一応僕も、強力なやつ持って来た。」
 坂本がスイッチを押すと、大型懐中電灯の白い光の帯が闇を切り裂いた。全員沈黙する。
「すげ」
 杉浦がぽつりと言う。
「中くらいのならあと3本ある。」
「やるじゃん、さかもっちゃん。貸してくれ」
 杉浦はそういうところは変な見栄が無く、素直に大型懐中電灯を坂本の手からもぎ取った。坂本と女子二人は中型を一本づつ持つ。お前これ、と杉浦にボールペン型ライトを押し付けられた俺を見て、ナイちんが笑う。俺はなぜかどっと疲れを感じる。憑かれてるのかもしれない。
 
 近くで見る廃ホテルは、ちょっとくどいくらい雰囲気があった。ダサい太字フォントの桂冠荘の看板は風雨にさらされたせいで、学祭の安いお化け屋敷感満載だった。目みたいな屋根の二つの出窓をはじめ、全ての窓に板が打ち付けられている。ポーチに続く階段の手摺りにはもともと黄色い(STOP立ち入り禁止KEEPOUT)テープが張り渡してあったらしく、でも今はだらりと緩くたわんでいる。杉浦の懐中電灯の明かりはホテルをぐるりと舐めて、玄関扉で止まる。腐食しかけた木の扉には、水垢じみたものがびっしり貼り付いている。
「うわ、あれお札じゃない?」
 キョーコが言って、俺の腕にしがみつく。確かに水垢の表面には、掠れてもう読めない墨字と朱色が見える。
「なんかすげえ。」
 あの杉浦でさえ呟く。俺でさえ、ちょっとぞくぞくする。
「行ってみようぜ。幽霊見えるかも」
 杉浦はバツ印を作っていた黄色いテープを踏んでポーチに上がる。その後ろにお互い掴まり合ったキョーコとナイちんが続いた。俺は立ち尽くす坂本に小声で訊く。
「なあこれ大丈夫か」
 そこはかとなく嫌な予感がした。ホラー映画なら、惨劇を予期させる不気味な不協和音が鳴るところだ。坂本は相変わらずぶすっとした顔で俺を見る。
「全く大丈夫ではない。が、もうどうしようもない。ここで引き止めれば杉浦君たちは逆に意地でも入ろうとするだろう。引き止めなければ、このままただ入っていく。」
 なら、入らないという選択肢は無いわけか。俺は軽い絶望を感じる。心霊現象とか信じていないけど、それでも。
「ちなみに俺、ホラー映画あんま好きじゃねんだけど」
「ちなみに僕は霊感が全く無い。」
 坂本は言って、懐中電灯で扉の方を指した。がたんと音がして、杉浦がドア開いたぞと報告を叫ぶ。そのまま扉の奥に口を開けた闇へ滑りこんで消えた。はやく行こうと坂本が諦観の滲んだ声で言う。
「はぐれるとまずい」
 
 というわけで、俺たちは桂冠荘の中に侵入した。言い訳するつもりはない。俺は安いホラー映画の冒頭10分で犬死にする馬鹿大学生と同レベルでしかない。
 扉を潜るとそこはホテルのロビーだった。絨毯はほとんど擦り切れて染みだらけの床板が露出していたしシャンデリアは骨格だけになっていたが、営業当時はそれなりに洒落たホテルだったんじゃないかと思った。受付カウンターの方でキョーコとナイちんが引き出しを漁っていて、杉浦はクソ熱いからと懐中電灯を切って、二階の階段の方を偵察している。空気が黴っぽい。俺の小さいライトは壁の落書きの一部を照らす。M・R。ケータ参上。RYUTAROU。sex。いろんな筆跡のいろんな署名や猥語がある。近づいてみると、そのどれもの右下に日付が入っていることに気づいた。すべて同じ事務的な文字で、ボールペンで刻みつけるように書いてある。
 1999.7.28没。2018.9.2没。2005.7.7没。2010.3.16没。
 背後でずるずる重いものを引きずる音がした。カウンターの方でキョーコの小さい悲鳴が響く。弾かれたように振り返りライトを向ける。
 四人分の懐中電灯に照らされて、中腰でなにかを引きずるシルエットが見えた。坂本だった。力士のように腰を落として、大理石の傘立てを黙々と入口扉の方に引いていく。
「何してんのお前」
 杉浦の声は少し上擦っていた。坂本は作業を止めない。
「ホラーゲームをプレイしたことは?」
 平坦な声で坂本が訊いた。はあ、と杉浦は絶句するが、坂本は気にせず続ける。
「逃げゲーにしろ謎解きにしろ、ドアは閉まるのが普遍の鉄則だ。閉じ込められるところからすべての惨劇は始まる。」
 傘立てを扉の間にがっちり噛ませた。上に人ひとりがすり抜けられる程度の隙間ができる。
「だからって、そこまでしなくても」
 ナイちんが小さく笑った。引き攣ったような響きが残った。幽霊に対する恐怖ではなく、坂本が本気で危ない人間かもしれないという恐怖だ。半開きの扉を背に、坂本は感情の読めない無表情のままだ。肩を竦めるとメガネが光を弾いた。
「甘い。そのままだと僕らは皆死ぬ」
「馬場、さかもっちゃんはそうなのか」
 杉浦が自分の頭を懐中電灯でくるくる指してみせる。俺は返事に詰まる。坂本は気にもとめずにリュックの中身を漁る。引っ張り出すと金属の輪が触れ合って鳴った。四つの手錠だった。
「坂本、なにする気だ」
「これで全員の手を留める。絶対にはぐれないようにする。ホラー映画において一人になるということは、死ぬということと同義だ。」
 坂本はいつものように淡々と俺に説明する。
「今のところ幽霊よりお前の方が怖いよ」
 女子二人もカウンター裏でドン引きしている。坂本はホールに向かって一歩踏み出す。手錠を掴んだ右手を俺たちの方へ突き出す。
「過剰なくらいの対策をとらないと太刀打ちできない。僕は普段は運命論者ではないが、ホラー空間の中では別だ。ホラー的磁場の中では、常に物事が最悪な方向へ転がるように強力な引力が働いている。慢心イコール死だ。」
「馬場何とかしろ」
「落ち着け坂本」
 坂本は醒めきった目を俺に向ける。俺は必死にすかすかの頭から言葉を絞りだす。 
「お前の言うことは何となく理解できる。ホラー映画ではいつも狂人やホームレスが、意味不明に思えてじつは真実だったり伏線だったりすることを口にする。今のお前がその役だ。お前の言うことを馬鹿にすれば、それだけ死のリスクが上がることも分かってる。とにかく一旦落ち着け。」
 自分でも何を言ってるのか分からなくなったが、早口で言い切った。坂本は珍しく口を半開きにしてしばらく黙った。
 「そ」
 ばん、と凄い破裂音が言葉を切した。
 坂本の背後で、扉に挟まっていた傘立てが木っ端みじんに砕けた。大理石だぞおい。あっけにとられた俺の脳の一部が呟く外からの月明かりが無くなり、女子の悲鳴が上がる。ホールの壁や天井を動揺した懐中電灯の明かりがぐるぐる這った。畜生、と暗い中で坂本が悪態をつくのが聞こえた。
「杉浦、懐中電灯つけろ」
 おれの怒鳴り声に応えて、ひときわ強い光が天井まで真っすぐ伸びた。手探りで壁を伝い、ボールペンライトの明かりを頼りに光の元へ向かった。四人分のライトの白い帯が、階段の一点を照らす。誰もいない床に大型懐中電灯がぽつりと立っていた。
 
 杉浦が消えた。
 カウンターに寄り掛かってキョーコが泣いている。それをナイちんがなだめつつ泣いている。時々二人そろって非難がましい目でこっちを見る。坂本は気にもとめずに懐中電灯の明かりでファイルを読んでいる。まいったなと俺は思う。女子の理不尽な視線――お前らが杉浦を殺したと糾弾するような視線は痛いが、人と離れたくはない。闇の中になにがいるか分からない。
 スマホは死んだ。真っ暗い画面のままうんともすんとも言わず、いくら電源ボタンとホームボタンを長押ししても白い林檎は浮かび上がらない。ナイちんのもキョーコのも同じくだった。坂本は当たり前だと言わんばかりに横目で俺の奮戦を見て何も言わなかった。
 とりあえず扉を確認してみようと思った。ただ暴風で閉まっただけかもしれない。本気でそう考えたわけじゃないが、希望にはついすがりたくなるから仕方ない。ざり、と靴底が砂粒と化した傘立てを踏んだ。蹴飛ばした傘立ての破片が転がって扉に当たった。
「無駄だ」
 声に振り返ると、坂本が猛然とファイルをめくっている。
「無駄だとしても試したくなるのが人情だろ」
「今まで、幾千幾万のホラー作品においてドアノブをがちゃがちゃさせ『開かない』、ドアに体当たりをして『開かない』と言うシーンが繰り返されてきた。お決まりのパターン、乗せられるのは勘弁だ」
「あのね」
 ばちんと強烈なビンタみたいな声が空気を叩いた。キョーコがきつい目を上げ坂本を睨んでいる。「コージが死んだの。なんでそんなわけ分からない映画の話なんか」
 そこまで言って感極まって、目から滴がぼろぼろ落ちた。ナイちんがその頭を抱き留めてこっちを睨んだ。まいった。これじゃ俺が人でなしみたいだ。
 杉浦が消えて悲しくないわけではない。死んだとは限らない、などとほざいて杉浦の死体発見フラグを打ち立てたいわけでもない。ただ、困惑の方が上回っていて、もう杉浦と学食食えないんだなとか思ってみてもいまいち実感がわかないだけだ。
「杉浦君のことは非常に残念だが、今は悼んでいる暇がない」
 坂本が全く残念じゃなさそうな声で言った。キョーコのむせび泣く声が大きくなった。俺はナイちんの無言の非難から目を逸らす。
「で、ここからの作戦は」
「無い。今、館内見取り図を見てみたが、脱出するなら三階防火扉を爆破して飛び降りるか裏の従業員通用口しかなさそうだ。」
「行ったところで、扉が閉まってるんじゃないか」
 俺は大理石を粉砕し誇らしげにも見える玄関扉に目をやって言う。
「否定はできない。鍵は探すしかない、ここにはないから」
 坂本は受付カウンター後ろの壁の、もとは鍵か掛かっていたらしいフックに目を上げて言う。続く言葉は女子の手前飲みこんだらしい。ここに留まったっていずれ死ぬ。
「僕達は既に、ホラー的磁場のなかにいる。ここで求められるのはただホラー的展開だけだ。ずっとここにいれば、画が退屈になる。それをなんとかするために何らかの心霊現象が起き、犠牲が生じる。」
 正直坂本が何を言っているのか半分くらいしか分からなかったが、なんとか脳を回転させる。
「でも、動けばそのジバの思うつぼなんじゃないか。台本通りに動けば」
「正直、何をしようが僕達は磁場の中にいる以上台本に踊らされているとも言える。良く言えば、これより悪化することは無い。」
 悪く言えば、ここがどん底だ。俺の気分はどっと落ち込む。
「...手錠は、もういいのか」
「したところで、あまり意味がなさそうだ。」坂本は閉じた扉に目をやる。「このホテル内では、ホラー的展開を引き起こすことが何よりも優先される。そのためには物理法則さえも捩曲げられる。手錠ごとき、どうにでも壊されかねない。せめて各々離れないように気をつけるしか」
「冗談じゃない」
 キョーコが坂本を遮って怒鳴った。
「あんたたちみたいなサイコと一緒にいられない。頭がおかしくなる。二人でそこでずっとわけ分かんない話してれば?私は」
 坂本はしゃがみ込むと落ちていた旅行者ガイドかなにかを拾い上げ、運動音痴のドッヂボールのフォームで投げた。ばん、とキョーコの頭を掠めて壁に激突する。キョーコは身を竦め、マスカラが溶けてパンダになった目を見開き坂本を凝視する。「失礼」坂本は言う。
「だが、それ以上口にしたら貴方は確実に死ぬ。誰であれ、単独行動をしようとした者は真っ先に死ぬ。」
「その前にあんたに殺されるわよ」
 キョーコは囁き声で言った。
「私はあんたと行動するなんて嫌」
「キョーコ?」
 抱き留めていたキョーコに腕を振りほどかれ、ナイちんが小さく声を上げた。
「私はひ――」
「妙なことを尋ねたいんだが」
 キョーコの言葉を坂本が大きな声で遮る。
「一人で」
「ふと気になったんだが、貴方はそれを」
「一人で逃げるから――」
「それを、自分の意思で口にしているのか。」
 それとも何かに言わされているのか。
「ほっといて」
 キョーコは父親に反抗する思春期の娘みたいな声で怒鳴った。
 その瞬間、すべての懐中電灯が一、二度瞬いて消えた。
 坂本が悪態をつく声が聞こえた。ナイちんの悲鳴。俺はキョーコを呼ぶ。ナイちんが懐中電灯をばんばん叩いて復旧させ、闇の中にその先だけ丸く浮かび上がった。円の中に、白目を剥いたキョーコが見えた。
 その後ろに男が立っていた。
 髪は薄くなり細いメガネをかけ安物の燕尾服を着た、白い顔の中年男だった。ナイちんが絶叫して明かりを取り落とし、再びすべてが闇に沈んだ。
 ナイちんの喚き声と転倒するような音がする。俺は懐中電灯をぶんぶん振って復旧させる。ほぼ同時に坂本の大型懐中電灯も点いた。カウンター裏を照らすと、そこにはもう誰もいなかった。
「キョーコ?」
 呼ぶ。ナイちんのすすり泣く声しか聞こえない。床に倒れたままのナイちんを助け起こす。
「キョーコ」
 ナイちんが細い声で呼ぶ。カウンター裏の床には携帯と懐中電灯が転がっているだけだ。
「誰なの、さっきの」
「さあ。誰だろうな、幽霊社員って感じだったけど」
 俺は意見を求めるように坂本を見る。坂本は仏頂面で応える。
「さっきのとは」
「キョーコの後ろにいた男に決まってるだろ」まさか、と俺は思う。「お前、見えなかったのか」
「言っただろう、僕には霊感が全く無いと。」
「俺だって無いけど」
「馬場の霊感がゼロだとすると僕のはマイナス五十くらいなんだ。」
「キョーコお」
 俺はよしよしとナイちんをなだめる。
「馬場こそ、ホラー映画苦手なんじゃなかったのか」
「苦手だ。おもしろさがさっぱり分からん」だから、エロシーンが無いホラーは観ない。
「だれ、あれ」
 ナイちんがしゃくりあげる合間に繰り返す。坂本は分厚いファイルをばらばらめくる。
「男で社員風、年は?」
「俺の親父よりちょい上くらい」
「なら、ここの元オーナーだろう。十二年前に浴場のサウナで両手首を切って死んでる。壁にペンキで一言、「団体さま八〇〇名のご予約です」と書き遺したらしいが意味は不明、真偽も不明。享年五十六。妻とは四年前に離婚、娘二人の親権は妻が握った。肝臓の持病で通院歴あり。自宅で飼っていた猫の死体が発見され、オーナーの死とほぼ時期を同じくして毒餌を食わされていたことが判明。という噂だ。元従業員とかいう人間がネットに書き込みを残しており、当時オーナーの奇行が目立っていたと証言したが、これも真実かは怪しい。なんでも昼食にタッパーに詰めた花壇の土を食ってたとか、ダクトを匍匐前進することで館内を移動していたとか。」
 不謹慎な例えをすれば、早口の坂本は珍種を発見したポケモン博士に似ている。坂本にファイルを見せられ、そこに貼られた粗い新聞の切り抜き写真を確認し、俺は頷く。
「こいつだ、間違いない。」
「でもそいつ、死んでるんでしょ」
 ナイちんが涙声で言い、何をいまさらと俺は思う。坂本は表情を変えずメガネを押し上げる。
「死んでいる。十二年前に。定石どおりを打つなら、オーナーが死んだサウナへ行ってみれば話が展開するだろう。」
「そこに行けば、浩二とキョーコがいるってこと?」
 ナイちんがぐずりながら訊く。坂本は答えない。醒めた目は、行ったところで二人の死体が見つかるだけだとはっきり物語っている。その瞬間、俺は少しだけ胸に痛みを感じる。杉浦が回転寿司をおごってくれた時の尊大な笑顔とか、キョーコが腕に絡みついてきた時の生温かさとかを思いだす。軽い痛み、せいぜい四か月ぶんの痛みだ。あいつら死んだのか。
 いや、そんなわけないだろ。
 俺は自分でも制御できない謎の感情の波に押し流されて、気付けば声に出している。
「いやいや、ちょっと待て。常識的に考えて、やっぱ幽霊に殺されるとかありえないって。おばけなんてないんだから。嘘なんだから。なんかどっか隠れてんだろ二人とも。さっきの男?あああれは幻だよ、病は気からだからな。ちょっと敏感になってるだけだ。杉浦、面白くない。いい加減出てこい。置いて帰るぞ。」
「馬場」
「坂本!落ち着けって!」
「馬場、落ち着け。お前は台本にのせられているだけだ。正気に返れ。これ以上のフラグは致死量だ。」
 俺はそれでも暗い階段の上に懐中電灯を向けて、上階にいるであろう杉浦とキョーコを呼び続け、とうとう坂本が電灯の柄で俺の側頭部を殴った。がつん。
 俺を突き動かしていた大波が一瞬にして凪いだ。俺は親父にも殴られたことのない側頭部に片手をあて、茫然として坂本を見つめた。その、いつもと全く同じ無表情を見つめた。憑き物が落ちた気分っていうのは、こういうのを言うんだろう。
「お前、自分が正気だと思ってんの」
 俺の口が勝手に動いた。廃ホテルに閉じ込められた挙句知り合いが二人消え、それでも平然とした坂本の眉間が、理解不能と言う風に少し曇る。こいつヤバくないか、と今更思った。
 
「サウナ、行かなきゃ」
 ナイちんはさっきからそればかりうわ言のように繰り返している。杉浦とキョーコを救出に行くという意志に突き動かされている。さすがテニサーのナイチンゲール、下手したら一人だけ生き残りそうな気がする。もちろんいいやつだってホラーの中だとどかどか死ぬが、死亡率は確実に下がる。若い、女、優しさと三拍子そろっては、ホラー的磁場もなかなか手が出せないらしい。
 ナイちんは俺とやることやっておいて一か月後に杉浦と付き合いだしたが、それは画面外のできごとだから関係ない。俺は多分ナイちんのことが本気で好きだったが、それも関係ない。ナイちんはキョーコにアドバイスして俺とくっつけようとわけの分からないことをやっていたが、評価の対象外だ。全部スクリーンには映らない。
「サウナ」
 ナイちんが涙まじりの熱っぽい声で言い、俺はほんの少しだけ杉浦に嫉妬する。
「そうしよう」
 坂本があっさり言った。こいつ今になって情に流されやがったか、と俺は思った。まさかな。坂本のことだ、泣き落とし程度に動じる人間じゃない。
 坂本理論でいけば、俺たちは今杉浦とキョーコを餌にしてサウナに誘いこまれている。のこのこ出向くのはジバの胃袋に自分からダイブしてやるのと同じだ。自殺行為だ。一体こいつはメガネの奥の死んだ目で何を見据えているのか。ナイちんの手前訊けるわけもなく、俺はそうしようと答える。我ながらのんきな声がでた。頭脳戦に向かない俺の頭は早くも職務放棄しようと考えている。なるようになれ戦法を採ろうとしている。
 俺たちはナイちんを挟んで縦に並び館内を移動する。坂本がマップを確認し、俺が前方を照らして、ナイちんはすすり泣き小さな物音に悲鳴を上げて雰囲気を盛り上げる。浴場は半分地下にある。
 暖簾が腐り落ちた入口をくぐり、湿っぽい脱衣所を抜けると階段が緩やかな螺旋を描いて下に延びている。奥は薄闇に沈んで見えない。ナイちんが呻く。無視して下ると、地面がタイル敷に変わった。正面にひびの入った大きなガラス戸があり、多分その向こうが浴場だ。一方廊下は右に枝別れしていて、俺はそっちに懐中電灯の明かりを向ける。廊下に貼られたパネルが浮かびあがる。「サウナ↓」。
 湿気た木材の匂いがする。黒ずんだサウナの扉の前で坂本は立ち止まり、俺たちの方を一瞬振り返った。それから勢いよく扉を引いた。溜めというか、そんなものが一切なくて俺の心臓は暴れる。それでも揺れる懐中電灯の照準をサウナ奥の闇に絞った。
 ナイちんが悲鳴を上げた。多分、さすがに俺も。
 タオル一枚を腰に巻いた杉浦が、木製の段に座って「よお」言った。
「杉浦」
「遅かったなお前ら。のぼせるとこだったわ」
 いつもみたいにへらへら言う。サウナはぞっとするような黴臭さがしてもちろん熱なんか来てなくて、むしろ湿ったように肌寒い。「団体さま八〇〇名のご予約です」は描かれてない代わりに、奥の木の壁が一部でかでか白いペンキで塗りつぶされている。ナイちんが震えるみたいにすすり泣いている。隣に立ってるだけでその振動が伝わる。
「もうまじで、心臓とまるから勝手にどっか行かないで。冗談じゃないし全然面白くないから」
 ナイちんは肺が痙攣してるみたいにしゃくり上げながら言う。両手首で目をガシガシ擦っていて、もはやマスカラっていうより薄めて掠れた墨汁。黒檀で目元を縁どったアマゾネス。
「悪かったって。いやせっかく肝試し来たんだしなんかイベントくらい起こさねえとと思って、ちょっと幹事魂が暴走した」
 杉浦はこんな状況のくせにちょっとすかした感じの苦笑いをしてみせる。「あのなあ、俺がお前置いてどっか行くわけないじゃん」
 ナイちんは両手で顔を覆ってヴヴヴヴーと唸るみたいに泣いている。俺は、俺はいつも通りの杉浦に安堵しつつその反動でキレて胸倉掴みかかって殴ったりしない。もしくは急に始まった恋愛パートにゲボ吐きそうになって杉浦との寿司屋のエピソードとか全部吹き飛んでこいつ死んでればよかったのにとか思ったりしない。俺はただナイちんの腕を掴んで後ろに引っ張る。アマゾネスがはっと顔を上げ振り返って、隈取りの奥から俺を見る。
「分かってんだろ」
 俺は言う。アマゾネスの目は縁どられたせいで白目と黒目がただ鮮やかで俺を凝視する。
 俺は蚊帳の外だったけど、蚊帳の外の外にいてほとんど存在感空気だった坂本が平然と懐中電灯を杉浦に向ける。その光の筋を杉浦の足元に向ける。バスタオルの裾が墨でも吸ったみたいに黒く濡れて、そのまま床に滴り影に溶けていた。足首(アキレス腱伸ばしの時ぼこっと飛び出る筋だから多分アキレス腱)に、ぱっくり切り込みが入ってそこから黒がどくどく流れ出していた。
 懐中電灯の明かりを弾いて、開いた傷口から伝う血の筋が光って見えた。
「あのさー、本日初対面の奴に直で懐中電灯当てんのって失礼だと思わんの?」杉浦は目だけ笑った形に細めて言う。足元の床はよく見れば影よりも濃い黒色で、ヒノキが吸いきれなかった水分が染み出して水溜まりになりつつある。
「やめなよ」
 ナイちんは杉浦から顔を背けるみたいにして俺だけを見る。そのくっきりした目を見てると世界がぐるぐる回り始める。ナイちんは不自然なくらい首をこっちに捩じって瞬きもせず俺を見つめる。目の周りを黒く塗って藪に潜んで槍を握って敵を見つめる部族の眼差し。
「杉浦君はここにいるのか。何か喋っているのか?」
 坂本は目の前に杉浦なんていないみたいに言う。懐中電灯で足元からなぞるように顔まで照らした。光の輪の中で杉浦の顔は血が抜けたみたいに真っ白に見えた。その口が開き声が言う。
「ナイ、そいつから離れろ。頭いかれてる」
「僕だって彼が救えるのならそうする。だがもう手遅れだ、君たちには見えてるのなら分かるだろう」
「馬場肩貸せ。とりあえず外出るぞ」
「ヴヴヴヴー」
 俺は何も言わない。ただ歯を食いしばって唸ってるナイちんの腕をしっかり掴んでいる。分かってるんだろ。別に口に出したくないから、全然言いたくないから言わせないでくれ。杉浦はまだ薄笑いを浮かべていて俺の胃はむかつく。奴の紫色した唇が動いて俺を呼ぶ。
「馬場」
「ナイちんを出してやれよ」俺は言う。ナイちんとついでに俺もこっから出してくれとは言わない。杉浦の口元から笑顔に似た強張りがすっと消え落ち、底光りのする目で俺を見つめている。一緒に寿司食いに行った相手に面と向かって、犠牲が出るのは仕方ないからせめてその量を減らそうぜと言える人間がどれだけいるだろう。お前はもう鬼に捕まったんだから諦めて、せめてお前まで鬼んなって誰か他の奴捕まえるのはやめてくれと言える人間がどれだけいるだろう。
「君も自分で分かっているはずだ」
 ここには坂本がいた。
 杉浦は壮絶な笑みを浮かべて坂本を見る。坂本の方は視線が杉浦の顔から微妙にずれた虚無を見ている。
「でも寂しいだろ?俺ずっとここで一人でサウナ入ってんの?永遠に?その間お前らが外で俺が知らん歌カラオケで歌ったりセックスしたり飯食ったりすんのってめっちゃ不公平じゃね」
 笑顔がふっと和らぐ。「ナイ、ここにいてよ」天井を見上げた。黒く腐食した天井の一部が酷くたわんで見えた。それが、上から黒く粘った液体が染み出しているんだと気づく。ぼたたっと垂れてきた。
「キョーコもここにいる。オレらずっと大学生のままで馬鹿やろうぜ」
 ナイちんは右手で鼻を拭ってぐすっと頷くと、左腕を掴んだ俺の手を振りほどいた。
「いいよ、いてあげる。家族でここにいよう」
 左手をそっと腹に、そのスリムでくびれた腹に当てた。真っ白だと思ってた杉浦の顔が、いっそ青くなる。
「は」
「やっぱ家族はみんな一緒にいないと。じゃないと私みたいにダメな子に育っちゃうもんね」
「いつの」
「一回穴開いてた時?それか切らして車でやった時」
 杉浦は完全に怖い話を聞いたガキの顔で硬直している。身体がふらつき、傾ぎ、それから段から滑り落ちどさっとうつ伏せに倒れて動かなくなった。静寂の質が違った。杉浦は土下座してるみたいにも見えた。ナイちんは黒い涙を流しながらそれを見つめていた。戦場のナイチンゲール。焼野原になって塹壕や溝にごろごろ死体が転がって横転した戦車とそこから這い出そうとした恰好の炭がくすぶっているなかで一人、立ち尽くしてる血まみれ白衣の聖女。ナイちんは下手に口を開かなければナイチンゲールだしジャンヌダルクだ。俺はなんもできないでいる。肩に手を置くことも言葉をかけることもできないまま突っ立っている。気が付くと、本当にいつ消えたんだか分からないが、杉浦の身体はどこにもない。生々しい黒い染みもどこにもなくて、ただ杉浦がいたはずの場所だけ木が真っ黒く腐っている。
「バカなやつ」ナイちんの口から呟きが漏れる。
「全くだ」
「うるさい」坂本を鋭く一喝し、ナイちんは静かに涙をぼろぼろ流し続けている。
 
「消えたんだな」
「消えたよ」
 幽霊がというより杉浦が、消えたんだと改めて思った。自己中なところも無責任なところもただただ杉浦でしかなかった。
「僕はこれまで散々馬鹿にされてきた。幽霊なんている訳がないと言われ続けてきた。自分が続けてきたことを、やっと、証明できた」
 坂本は、俺には全く理解できない感動を静かに噛みしめて言う。もはや誰もおらず、段の座面と床に血溜まりみたいな黒い腐食の跡が残っただけのサウナを懐中電灯で照らして言う。聞こえてるか杉浦。お前が坂本義彦を感動させてるぞ。俺はいまさら勝手だけど少しだけ息が苦しくなる。胸が苦しくなる。
 杉浦の幽霊にも話は通じた。こっちを巻き込もうとはしてきたけど、それでも根っこは杉浦のままだったから、普段通りの杉浦の話通じなさ以上のもんはなかった。それに、奴が言っていたことも同意はしてやれないけど共感はできる。確かに俺だけ幽霊になってここに取り残されて外で杉浦とナイちんがいちゃつくのを想像し続けるより、ここで腕を掴んで引き留めてしまった方が早い。妊娠の件はクソだと思うけど正直怖くなるのも分かる。
 ナイちんは顔を覆って泣いてて、「バカ」雫が落ちるみたいに呟いて、交互に目元を拭う手の甲を黒い筋が伝ってて「子供とかウソに決まってんじゃん...」俺の背筋を巨大ムカデみたいに鳥肌が這い上ってくけど、それでもまあそれも女心?として何となく分かる。
 少なくとも、ここで茫然と感動する坂本よりは理解できる。
 坂本は生涯をかけて探し求めてきた遺跡を発見した爺さん考古学者みたいに見える。いやいや。お前は感動のままここで心霊現象の一部になって本望かもしれんけど、こっちのことはちゃんと外まで送り届けてくれよ。しっかりしてくれよ。
「はよ行こう」俺が言うと坂本はのそりと顔を上げた。
「...ああ」
いや「...ああ」じゃねえよ。頼むからしっかりしてくれよ。
「待って」ナイちんが俺を呼び止める。何を言う気なのかは正直もう分かってる。「キョーコ置いてけない」ほらね。
 ここまで来ると尊敬する。普通に尊敬する。これだけ色々見ておいて、まだキョーコを「助ける」という意思を持てるその看護魂にひたすら敬服。敬礼。
「大丈夫だって心配しなくても」あのキョーコがこっちをそのまま出してくれる訳がないだろう。出口に向かってれば、向こうの方から登場してくれるだろう。
「管理室で鍵を入手してから裏手に回って通用口を開けて出よう」やっと少し現世に戻って来たらしい坂本が言う。その過程でどれだけ犠牲が出るのかは、出ると思ってるのかは口調からは読み取れなかった。
 
 で、まあ実際色々出た。
 割ときつかったのは自分らみたいなあほ学生がわんさか出てきたことで、坂本みたいな奴こそいなかったものの、俺とか杉浦とかキョーコとか看護要素を抜いたナイちんみたいな奴らが俺たちを仲間に引き摺り込もうとしてくるのにはなかなかビビった。一歩踏み外せば、というかもう片足くらいは奴らの仲間に踏み込んでる訳で、自分もじきに新たなあほ学生を呪い殺す側に回るっていうのを突き付けられるとしんどい。
 あほ学生って言ったって、人が死んだ場所にずかずか踏み込んで遊ぶような奴らって言ったって、未来はあったはずだ。それが奪われるのは何だかなと一あほ学生としては思う。
 奴らがあほだったことは否定しない。俺があほなことは否定しない。でも、あほの罪はその罰に釣り合うくらいでかいもんだったのか。逃げ出せないようアキレス腱を切られた杉浦。眼球が無くなったツーブロック。首から上がどっか行った茶色いベストの制服の女子。延々出てくる奴らを見ながらそんなことを俺はぽつぽつ喋った。
「考えるな」
 坂本は淡々と言う。
「罪でも罰でもない。ただそういう展開に殺されたというだけだ」
 そうか、と俺は答える。
 これまで生きてきてこんなに哲学的なことを考えたのは初めてだった。哲学的なことを考えたの自体、記憶にある限り栗饅頭問題以来だった。やっとちょっとあほ脱却しかけてるのに、ここで俺の人生は終わるのか。
 あー「死にたくねえ」俺は言う。「死ぬとかいうワード出さんとって」即ナイちんの鋭い声が飛んできた。俺たちは襲い来る霊たちを、坂本に乗っかって見えないふり戦法とかナイちんの懇願戦法とかで雑に躱していく。ナイちんはけっこう遊んでるくせに髪を染めてないんだか染めてない風に染めてんだか、とにかくナチュラルで清楚な感じにしていて、一番質が悪いタイプの女だ。「お願い」が割と霊にも効く。
 あー「外出たらさ」俺は言う。坂本の丸い背中が、のっぺりした無関心を装ったまま全神経を剣山みたいにこっちに向けたのを感じながら平然と言う。「なんか料理作ってよ」
「料理ー?」ナイちんは全然乗り気じゃない感じに復唱する。「なんで料理」
「いや何となく」俺は坂本をできるだけ意識から遠ざけようとしながら言う。ナイちんと並んで歩調を合わせて歩きながら言う。「杉浦とはやってないことを俺としてよ」
 ナイちんはちょっとの間黙る。
「大分前、浩二と鍋パしたことあった」
 えー「なら何か別で」
 ナイちんはまたちょっと黙った。「...看病?」
 看病かよ。一瞬で俺は思い直す。いいじゃん看病。俺以外まだ味わってないナイチンゲールの看病。「氷食わせて氷」
「氷?」
「看病つったら氷じゃない?」
 俺が小さい頃、熱を出してベッドで朦朧としていると母さんが製氷機のアイスキューブをひとつ摘まんで口に入れてくれた。ガキの小さい口にはでかすぎたそれを、ごつごつ口内にぶつかりながら角が溶けていくそれを舐めてるのが好きだった。
 俺はへらへら笑いながら、自分の健気さにちょっと泣けてくる。坂本はなんも言わないでいてくれる。空気読むとかできたんだな。俺は自分でシャベルを振るって地面に穴を掘って自分の墓標を打ち立てる。
 自分が何をしてるのかくらいは分かっている。
 ナイちんの首にいつの間にか赤黒い手形が二つのツツジの花みたいにくっきり浮いている。本人には見えてないみたいだから俺は言わない。マッピング係の坂本を振り返ると、その肩からいつの間にか女の白い腕が回されている。俺は見なかったことにして暗い廊下の先を懐中電灯で切り裂く仕事に戻る。
「キョーコは、怒ってると思う?」
 しばらく経ってナイちんが訊く。
「怒ってはないだろ」俺たちのことを杉浦と同じベクトルで恨んではいるだろうけど、百パー恨んではいるだろうけど「怒ってはない」
 キョーコは私たちのことを殺すと思う?とは訊かれなかった。
 
「殺すだろう」
 坂本は天気の話でもするように言う。「少なくとも殺そうとはしてくるだろう。引き留めるというのはそういう意味だ」
 俺たちは女子トイレの洗面所にいて、両側にシンクが設置されてるせいで合わせ鏡になっててすこぶる嫌な予感がするので見ないよう顔を伏せて突っ立っている。汚い灰色の床には経血みたいな茶色の染みがある。ナイちんは一番奥の個室に入ってて、俺たちはその辺に落ちていたパイプと角材で琺瑯のシンクと壁をガンガン殴っている。人力音姫。反響でも消えない微かな水音が聴こえるからナイちんはまだ無事だ。
「何かあっても迷うな」
 坂本はガンガンの合間にぼそっと言う。ガンガンガンガン。ほとんど小学生の思い出くらい風化した、セピア色の今日だか昨日だかの夕暮れを思い出す。小学校の教室くらい遠い学生寮で坂本は、桂冠荘に入った学生の致死率は七割だと言った。
 5×0.7=3.5
「最悪」
 言いながら最悪そうな顔でナイちんが出てくる。何が最悪だったのかは訊かない。鏡から無理やり目を伏せたままの俺は、手前から二番目の個室ドアの下、十センチくらいの隙間から誰かの靴が見えるのに気付く。灰色に汚れたスニーカーはちょうど便座に座ってるくらいの間隔を開けてそこにある。足首が生えてるか見える前に目を引き剥がす。
「早よ行こう」俺はそれだけ言う。
 とにかく普通の心霊グラドルが体験する霊現象の十五倍くらい色々あって、俺たちはホテルの果ての管理室で鍵をゲットして反対の果ての通用口までサバイブする。ナイちんのレース袖は破れてキャミソールになったし全身痣だらけになったし、俺も血みどろでさらに足首捻って肘を錆釘で抉った。坂本は日本兵に磨きがかかっただけで後はほぼ無事だ。
 5-3.5=1.5
 そして俺たちは0.5に遭遇する。
 
「良かった」
 裏口前は小さな部屋兼踊り場みたいになっていて、そこの絨毯と一体化して黒い影が蹲っている。ショートの髪がばっさりかかった顔を上げてこっちを見る。
「待ってた。ホント、来てくれて良かった。私一人じゃ立てないからさ」
 キョーコのスカートはただの布みたいに皺が寄って床に広がっている。本当なら胴体の形をなぞって尻の形もなぞって裾は持ち上がって脚が生えてなきゃおかしいのに。ペルシャ絨毯のごてごてした装飾の中でも、散りまくった誰かの何かの染みの中でも、スカートとキョーコの周囲だけ巨大な花が開いたみたいに黒々濡れてるのが分かる。湿地はじわじわ周囲を侵食していく。スカートはただの布みたいに皺が寄って床に広がっている。スカートはただの布みたいに皺が寄って床に広がっている。
「肩貸してくれない」
 キョーコの目が俺を見て、言った。
「あー、やっぱ担架か何かあった方がいいかも?ついでにナイちんさ包帯的なの持ってない?」
 俺の方が先に石化から解けた。ナイちんの腕を掴んで引くと、力が抜けたみたいにぐにゃりと身体が倒れ込んできて、支える。
「キョーコ、それ」
「たぶん見た目ほど痛くないよ。ぜんぜん。なんかもう感覚ないし」キョーコの顔は陶器みたいに白い。生きてないみたいに白い。「ぜんぜん」
 キョーコの大きな瞳のなかで狂気がぐるぐる渦巻いている。多分崖っぷちにいて、自分の腰から下がどうなってるのかまともに認識した瞬間真っ逆さまに墜落するだろう。目から俺の目に、そのまま狂気が伝染していく。俺は脂汗をかいていて、すぐ隣に壁か柱か硬いものがあれば頭をそのまま打ち付けていただろう。でも今俺のすぐ隣にいるのはナイちんだった。その柔らかい重みがぐるぐるし始めた俺の頭を現実に引き戻す。
「動かさない方がいい。助け呼んでくるからここで」
 キョーコの目に呑まれて俺の言葉はそこでぶつ切れる。キョーコの目は、俺が言わなかった暗い考えの全部を見透かして深い深い穴になって俺を見ている。キョーコが落ちかけてる底なしの穴を俺も覗き込む。
 ナイちんの表情は髪に隠れて見えなくて、俺の腕にしがみついたその感覚だけが俺を繋ぎ留めている。いっそ気絶しててくれれば良かったけど、まだ俺を掴んで離さない。
「何がいるんだか知らないが」
 坂本がぼそっと言って、俺はそこに坂本がいたことを思い出す。坂本は眼鏡を押し上げリュックの紐を背負い直すと、一歩踏み出す。キョーコにではなく扉に向かって歩き出す。
「幽霊だろうが化け物だろうが見えなければいないのと同じだ。見ず聞かず歩けばいい。どうせ瀬尾響子さんがいるんだろう」
 坂本は見当違いの方向を懐中電灯で照らす。
「泣き落としだか同情を誘ってるのか、とにかく引き留めてくるのは道連れにしたいからで、つまり馬場や内藤さんに死んで欲しいという意味だ。それに応じて死んでやるほどの情があるのか」
「死ねなんて言ってない」
 キョーコの声が被るが、聴こえていない坂本は喋り続ける。
「何を言われても聞くな。瀬尾さんは友人の死を望むような人だったのか。そうじゃないなら、死の過程を通って別人になったんだと考えるべきだ。死者は救えない」
「言ってない。だって私、死んでない」
 坂本は見えないキョーコを探すように電灯を巡らす。光の帯が一瞬キョーコの顔を照らす。キョーコの見開いた目と坂本の眼鏡の奥の薄い目は噛み合わない。「罪悪感を覚えるようなことじゃない。いままで散々幽霊の前を通り過ぎてきたのと何も変わらない。不要な抵抗感に縛られているだけだ」
「助けてよナイちん」キョーコは泣いている。ナイちんは両手で顔を覆っている。「助けて。そいつ頭おかしいって。私のこと殺そうとしてんだよ。助けて」
「瀬尾さんがどんな姿をしているのか知らないが」坂本の眼鏡は白く月明りを弾いている。「生きてるように見えるか」
 ああ、と俺は思う。その一言でなぜか分かった。坂本は一度もキョーコを見ていない。見えないんじゃなくて目を向けるのを避けたのだ。坂本にも床に這いつくばっているキョーコのことは、涙と涎でぐしょぐしょになりながら目だけ狂気を湛えて瞬きもしないキョーコは見えている。
 キョーコは腕をついて身体を捻るように、坂本の方を向く。
「人殺し」
 眼鏡の奥で坂本の目は揺らぎもせず、ポケットをごそごそ探ってプレート付きの鍵を取り出す。
「人殺し」
 鍵は二回鍵穴にぶつかって三度目に刺さった。
「馬場、聞こえてるんでしょ。聞けよ。ナイちん」
 錆びついているらしく、鍵は何度もがちゃがちゃ鳴らしてやっと回る。鍵穴の奥で小さい金具が押し込まれる音が響く。鍵が開く音が響く。あっけない。B級映画じゃありえないくらいあっけなくて、B級映画じゃありえないくらい汚くて醜くてキツくてどうしようもない。坂本がこっちを振り返る。俺の脳内に一瞬、キョーコのサーモンピンクのネイルを塗った手に足首を掴まれる幻覚がぱっと映る。
 何があってもナイちんにばれちゃいけない。それだけは分かる。多分俺たちは割と詰んでいる。もしもあと一人か二人外へ出られたとして、まあ坂本はなんとかやっていく気もするけど、ナイちんは友人の霊を見殺しにした最悪感で少なくとも学生時代はめちゃくちゃになる。
 もしも、生きている友人を殺したことを知ってしまえば、多分人生全部がめちゃくちゃになる。
 俺は顔を両手に埋めたままのナイちんを抱えて、壁際に沿って迂回してドアまで歩く。ズッと這うような布が擦れる音がするのを無視する。キョーコが掠れた声で何か訴え続けているのも無視する。その声は釘みたいに一言一言俺の頭蓋骨に打ち込まれて、絶望と呪いの黒ひげ危機一髪みたいに俺の脳みそは爆発しそうになっている。
 幽霊の呪いならもうちょいマシだったかもしれないけど、そうじゃなかった。ドアまでは馬鹿みたいに遠かった。
「お願い」「置いてかんで」生きてるキョーコの縋る手に「殺してやる」亡霊の引き摺り込もうとする干乾びた手が混じってこっちへ伸びる。俺たちが辿り着くのを待って、坂本はドアノブを捻って押し開けた。
 埃っぽくて淀んだ空気に夜気が流れ込む。ぬるい雑草の匂いがした。めちゃくちゃ懐かしい気がした。裏庭は腰くらいの高さの雑草が生い茂っていて、奥に錆びたフェンスが見えて、その向こうから車が走る音が遠く聴こえた。坂本がドアを押さえている間に俺はナイちんを外へ押し出す。絨毯の上は振り返らなかった。外は夜なのに月で案外明るくて、振り返れば全部はっきり見えてしまうだろうから、見なかった。ナイちんは外へ出た二歩目で膝が崩れ草叢に倒れ込む。ぶわっと細かい虫が舞う。ただそれだけなのに全然実感がなくて、俺は数秒茫然とそれを見ていた。
 俺の足首を現実が強く掴んで引き戻し、がくりと身体が揺れた。とっさに振り返った坂本の手が離れ、俺と坂本とキョーコを内に残したままドアが勝手に勢いよく閉まる。俺の方はさっき未来予知みたいなの見てたから、握力の強さ以外にはそんな驚かなかった。誰に掴まれたのかも分かってる。
 回収。さっきフラグなら自分で打ち立てた。
「分かってたから」俺は坂本に言う。「仕方ない自分で選んだから。俺はここに残るわ。ナイちん病院に連れてってやって」
 俺の足首を締め付けていた力がふっと外れる。手はぱたりと落ち、キョーコは顔面を絨毯に押し付けて動かなくなる。死んだのか。死体が復活するのか、それとも死体そのものは何らかのホテルの排泄システムだか分解システムだかで消えて幽霊のキョーコがじきに誕生するのか。知らんけどまあ付き合ってやるよ。心中するほどの義理も未練もないけど、少なくともこれで人数的には悪くないはずだ。五分の三が生存じゃ多分終われない。最低半分は死なないと、このホラー映画は終わらない。
「そうか」坂本は無表情で言う。「なら君が出ろ」
「は」
 坂本は俺の知る限り自己犠牲・博愛・献身の精神から最も遠い。俺は数秒の間、坂本の口から出た短い言葉の意味が何も理解できない。
「なんで?」
「おそらく馬場が視点人物だからだ。平凡であり、愚かであり、案外周りをよく見ている。思考が全部一人称の語り垂れ流しみたいな、カメラ役にもってこいの人物だ」
 何言ってんのか本当に何も入ってこない。「なんで?」
「君は外に出て内藤さんが回復するところまで、結末まで見届けろ。いいな」
「でもそれだとお前死ぬぞ」
「分からない。僕には霊感があまりにも無いから、霊側としてもこちらへ干渉できない可能性がある」
 自分が言ってることに全く希望的観測を持ってなさそうに坂本は言う。いや、さすがに
「無理だって。だってそもそもここに連れて来たの俺だし」
 それだけの重荷を背負ってここから出ても、今後ずっと悪夢から醒めることは無いだろう。坂本は皮肉っぽくちょっと笑った。坂本が笑うのなんか初めて見るんじゃないかと思った。
「別に馬場のせいではない。恐らく、今日ここに来ることはずっと前から決まっていた。僕が小学生の頃いじめられて近所のいわく付きの廃墟に一人置き去りにされ、そのまま丸一晩そこで過ごし、その経験が培地となって心霊に惹かれるようになったのも、全部今日のためだった。だから馬場はあまり関係がない。これは僕の人生の清算の話だ」
 まあ死ぬと決まったわけではない、と坂本は変わらず全然思ってなさそうに言う。
「いいから早く行け。心配するならさっさと警察なり霊媒師なり連れて来てくれ、色々残っているうちに」
 俺はごめんって言えばよかったのか、ありがとうと言えばよかったのか、今でも分からない。
 俺は一人称語り垂れ流し男のくせに、自分の気持ちもろくに分かっていない。
 坂本はドアを開くと俺を押し出した。俺は坂本も一緒に連れて行こうとしてむっちりした腕を掴んだ。びくともしなかった。弾力が俺の指を弾いて、手が離れる。
「坂本」
 ドアが閉まる隙間から、坂本のいつもの無感動なオタク顔が見えた。その肩に、腕に、腰に、背後から有り得ない数の亡霊の手が伸ばされ千手観音みたいになるのが見えた。何か言おうと息を吸って身をよじった俺の目の前でドアは閉じる。
 ノブを掴んで捻って回した。中から鍵がかかっているみたいにがちゃがちゃ抵抗だけがあって、ドアは開かなかった。右足でドアを蹴りながらノブを引く。ドアは開かなかった。錠を壊そうとして何度も力任せにノブを引っ張った。ドアは開かなかった。
 
 そこから先の話は本当あっけなくて、夢でも見てたみたいだった。
 俺が汗だくでドアをがんがんやってると、後ろから白い手がすっと伸びて、ノブを握り締めた俺の手の上にそっと重なった。ナイちんは黙ったままで、ただ俺は気圧されるみたいに一歩引く。ナイちんはごく軽い動作でドアノブを回して引いた。抵抗なんてうそみたいに滑らかにドアは開いた。奥は目が慣れてないせいかただの闇だった。キョーコも坂本も見えないただの闇だった。
 真っ暗闇の中に、小さな吹き出しが泡みたいにぽつりと浮かんだ。
「ナイ」
 ナイちんは俺の方を振り返ると笑った。馬鹿な話、今までで一番くらい綺麗だった。人間じゃないレベルで綺麗だった。
「ごめん、やっぱ私行かないと」
 ナイちんはするりとドア枠の奥の四角い闇に身体を滑り込ませ、髪の先まで闇に呑まれて消え、柑橘系のヘアオイルの匂いもぬるい風に吹かれて流れて消えた。草がざあざあ鳴った。
 
 俺はしばらくたった一人でドアの前に立ち尽くしていた。
 
 ときどき俺は運命論について考える。
 俺が桂冠荘に来たのは杉浦とナイちんとキョーコに出会ったからで、なんで出会ったかっていうと本州の大学に進学したからで、何で進学したかっていうとじいちゃんの幽霊が夢枕に立ってくれたからで、ここら辺で大体いつも、じいちゃんの霊は本当に良い霊だったのか問題にぶち当たる。とにかくこんな風に辿っていったらどこまで行くか分からない。それこそ坂本が言ったみたいに、俺が生まれたところまで遡るのかもしれない。
 だとしたら、俺は生まれた瞬間からホラー的磁場の中にいたのかもしれない。桂冠荘を出たって、そこもやっぱり磁場の中には変わりなくて、どこまで行ったって逃れることなんかできないのかもしれない。
 俺はベッドに横になって栗饅頭コスモを想像する代わりに、最近そんなことを考えている。
 目を瞑ると星もない夜空の下、生い茂った雑草の海に囲まれた桂冠荘が瞼の裏に浮かぶ。
 あれから一度も行ってない。あの後、友人と肝試しに行って他の奴らはみんないなくなって帰ってきたわけだから、警察その他から色々訊かれはした。俺は幽霊の部分を省いて、正直それが大部分占めてたから大変だったけど省いて、ただ友人が一人ずつ廃墟の中でいなくなっていく話をする。実際に現場を案内してくれと言われて、警察の車両で草ぼうぼうの駐車場までは行ったけど、車が止まった途端血が一筋鼻の孔から伝い落ちてそのまま蛇口の水レベルになって、俺は車に残った。窓から見えた桂冠荘の風見鶏は、小雨混じりの風に吹かれて軋みながら回るというより傾いでいた。
 ときどき俺は自分がすでに死んで幽霊になっている可能性について考える。
 結局栗饅頭を宇宙の果てに捨てたって、倍々に増殖し続けたそれは大波になっていつかこっちに追いつく。逃げきれることはない、いつか捕まる。
 坂本の荷物は親御さんか誰かがある程度引き取ったらしく、それでも全然片付いた感じがしないのはファイルやらDVDやらが引き取り手のないまま残されているせいだろう。俺は勝手にファイルを読み漁る。足首のキョーコに掴まれたところには手の形の赤黒い痣が残って三か月経っても消えない。
 坂本が手書きで残した、小学生から今までの心霊ノートを読み漁っても、全然坂本への理解が進んだりはしない。日本兵みたいな姿のまま、水に溶ける粗悪なティッシュで鼻かんで粉塵をまき散らす姿のまま、大理石の傘立てを引き摺る相撲取りみたいな姿のままだ。
 高校一年の時のノートをぱらぱら捲っている時だった。都市伝説の伝播についてまとめたページの隅にメモが残っていた。坂本自作の俳句だった。
 
 
  雪の華 
    さわれず溶けて 
         泣いている
 
 怖。
 
 最近ずっと一個の予感がある。きっといつかの夜、俺は目を覚ましてベッドの上で身体を起こし、薄暗い部屋を見つめてじっとしているだろう。それから布団を剥いでベッドから下り、寝間着の上からジャンパーを羽織って寮を抜け出すだろう。
 そして俺は桂冠荘の前に立っている。
 坂本の、人柄についてはさっぱり分からないままだが、心霊方面の知識に関しては相当のものだと残された資料から知った。訳わからん数式やグラフまで使ってホラー的磁場の探求をしていた。そんな坂本が霊の側に回ったら凄まじい脅威になるだろうなと思う。
 たぶん俺たちのこともじきに桂冠荘にまつわる怪談話に組み込まれていくんだろう。そしてまた俺みたいなあほ学生が扉からふらふら中に吸い込まれていって吸収される。
 坂本がそこにいれば、確実に最恐レベルのラスボスだろう。世界にどれだけあほな学生が溢れていて、やつらが大挙してツアー組んで押し寄せようが、後に残るのは死屍累々だろう。
 俺は今坂本が怖くてどうしようもない。
 自分が何をする気なのか、俺はまともに言葉にして説明できない。ただ行かないといけないことだけ分かっている。逃げられないから自分から飛び込むなんてあほの極致だと思うけど、どうしようもない。ただ死ぬだけだって分かっていても、俺はじきにそこへ向かうだろう。
 
 そして俺は桂冠荘の前に立っている。


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