鮎

スニラ


 
 ジジイはその時、視線をなるべく動き出した車窓の流れるビルから離さずにして、体を強張らせていた。
 目の前に、少年が座っている。
 自分が結婚をし、子を成していたならば。そしてその子が産んだ子、つまり自身に孫がいたならば。前方に存在する白いシャツに肩から喰われたような少年、その子ぐらいの年頃だろうと思った。
 電車が揺れると、そのイガグリ頭も揺れた。

 車窓、その外には大きな川が映る。初夏の煌めく太陽が電車の中にも入り込んでいた。座る彼の透き通るシャツは、もうセピア色に朽ちた思い出を無理やり掘り起こしてくる。しかしそこには化石だけ。生きた記憶はない。
 もう何がどれの記憶だったか、色鮮やかな思い出も混ざってしまえば、ドブの色。
 ジジイは再び川を見た。先日の大雨のせいか、まさにドブ色をしていた。自然と溜めていた息が漏れる。はぁ、と吐ききった後に、それが何を意味させるかに気づいて、急いで口を押さえた。
 しかし、もう遅かった。
 少年は上目遣いでこちらを見ていた。口を押さえた時に思わず下を向いたために、バッチリ目が合ってしまった。
 老人は優先者席の前に立っていた。いつもの立ち位置は若い二人組の女に取られていたからだ。
 少年はかすかに首を動かしながら周囲を見渡して、
「良ければどうぞ」
 と、言う。
 それは少年にとって、言わされたとしか思いようがない言葉ではなかっただろうか。

 少年は立ち上がり、自ら老人と目を合わせ、一瞬で逸らした。
 二人は今、空いた優先者席の前で対峙している。
 ジジイは思った。確かに、自分は優先席の前に立った。しかしそれはただ入り口に近いという理由の他なかった。老いた体幹を考慮した上で、肩が外れそうになるつり革ではなく、手すりに捕まりたかっただけだった。
 決して、席を譲って欲しいわけではない。
 ジジイは、ああ、と声を発した。しかし次の言葉がすぐには出てこない。
 少年は沈黙の中、体をスライドし、老人の横に立った。学校指定のセカンドバッグを、まるで幼子がぬいぐるみを抱くようにして、小さく空いた緑の席を手で指した。人が座るための整備が完璧になされてしまい、あとは誰かがそこに座るだけだった。そう、ジジイと決まった訳ではない。電車の中はハイエナだらけである。こうしてジジイが固まっている間にも、イヤホンをした彼やミニスカートの彼女に盗られる可能性が上がっている。ジジイはそれだけは避けねばならんと思った。
 観念して、体を隙間にねじ込む。
「ありがとう」
少年の優しい心と勇気に感謝を伝えた。そのまま、すくすくとまっすぐと育って欲しいと感じながら、手を祈るように組む。自分の手の甲は茶色いシミが取れない。青暗い血管は、今にもシワで弛んだ弱い皮膚を突き抜けてこぼれ落ちてしまいそうだった。七十四歳。老いた。
 それはいい。ジジイは思う。それはいいのだ、しかし。ジジイはなおも紺色のバッグを胸に抱いて、目の前で吊り革に体を預ける少年に祈りをこめた。
 少年よ、目の前から消えてくれ!
 無言の祈りを捧げても、少年はドア上の液晶ディスプレイを眺め続けるだけだった。
 無情にも車掌が電車の到着を知らせる。
「カワハラ?、カワハラ?」
 滑らかな停車にも慣性は働く。一様に揺れた乗客の多くがそのまま車内に残るが、ジジイは別だった。ジジイは手すりを支えにして立ち上がり、立ちはだかる少年の前もドアもすり抜けた。

 ジジイは気まずかった。少年は一体どう思っているか。せっかく席を譲ったのに、善意を一駅分しか提供できなかった少年は、自身の行動をうら恥ずかしく思ってないだろうか。一駅分の時間すら若者の席を奪う自分に、突き刺すような目線は向けられていないだろうか。
 老いとは鈍くなることである。ジジイはそういうものだと思っていた。実際、鈍くなったのだ。足は上がらないし、耳も遠い。一駅分の距離も歩けなくなった。体は、歳を重ねるごとに動かなくなっている。
 しかしどうだろう。精神は歳を重なるごとに敏感になっている。決して若々しくありたいとは言わないが、ジジイにとって目まぐるしく変わる社会に一人取り残されるのだけは嫌だった。若かりし頃、死ぬときは一人、と心通わせる安寧を突っぱねたジジイである、孤独に自身を守り続けなければならなかった。ジジイはもう、誰にも嫌われてはならなかった。

 老人はドアをすり抜ける瞬間、その視線を少年に向けないようにして、背中で電車を見送る。
 その時ニコリと笑顔を向ければ、手を振って礼を示せば。それができなかった。ジジイの古びた競争時代の遺物がそうさせなかった。苔むした「男のプライド」というものは、もう彼を奮わせることなく、ただただ孤独を促した。それにはどうにも気づけないものだ。彼もまた、逃れられるはずもなく、年相応に老いていた。


 ジジイは病院の帰りだった。電車を一駅だけ乗った先に、かかりつけのそれはある。そこでもらう血圧の薬をもう何年も飲み続けている。
 帰りにジジイは、「お大事に」と若い看護婦に言われたので、「もう私も長くないね」と俯き気味に答えると、「そんなことないですよ、しっかりおくすり飲んでくださいね」とガッツポーズを返された。その時は、ハハハと笑ったが、思い返せば年寄りが笑えないジョークを言ってしまったなと反省していた。
 そういう日の道すがら、魚屋があった。
 ぼんやりと歩いていたのだろう、行き慣れた道を歩いていると思っていたのに、いつの間にか知らない場所に来ていた。来た道を戻るか、と思いもしたが、よく見るとその魚屋、アジが安い。懐事情に関わる時だけは、少し若さが戻ってくる気がする。生死と関わるからか。
 よくよく考えれば、いつも同じ「スーパーハナヤス」で、同じ三百二十七円のウインナーと百円の納豆と、その時安くて日持ちしそうな物ばかり買っている。魚なんて、高くって日持ちしなくて、調理が面倒ときたもんだから、売り場を見ることすらしなかった。
 魚か。
 魚屋の向かいの建物の陰から、目を細めて手製の商品棚を眺める。駅前の狭く古い住宅街とシャッターを背景に自転車が通る商店通り。その隙間にある近道を、曲がって曲がって、まっすぐ行けば大概すんなりと二車線の大通りにでる。しかし曲がる道を間違えたのだろう、商店通りをずっと越えたところに出るはずが、商店通りの中程の横道のどれかから草の根のように繋がているであろう場所に出ていた。
 水色のざるに乗ったアジ。木札には値段。一尾百円。足と自転車、どちらかを移動のすべとしている者しかその存在に気づくことはないだろう。自動車に乗った人げんはスーパーハナヤスに行けばいい。魚もなんでも、あるのだから。
 オレンジ味のフーセンガム色のひさしテントの屋根は商品棚の半分しか日差しを遮れていない。
 ジジイは、暑さを感じにくくなった、と言ってもまだ四季を忘れてはいなかった。かんかん照りとまではいかなくとも、夏の始まりらしい日差しが魚には毒だろう。しかしこの魚屋、大きな発泡スチロールに細かい氷をぎっちり入れて、その中に魚入りのザルを埋めるように並べている。それだけで売り物になるくらいまだまだ新鮮なままなのだろう。ジジイはそう思った。
 商品棚の端から端まで眺めると、商品の三分の一は干物である。それもそこまで多くない。干物もいいなぁ、と思うが、艶めく氷と青魚のギラギラした腹を見ていると、やはり生の魚を買いたくなる。決めた。アジを一尾、買おう。
 ジジイは青魚に体と目線を定める。ザッ、ザッ、ザッ。砂埃が舞う......ような気がする。まるで喧嘩に向かう輩の動き。一瞬、視界の右が揺らぎ、気づけば前方で紫の髪をした図体のでかいババアが、店の者に声をかけている。辺りをその手カバー付きの自転車を活用して占領していた。
「アッラ?安いわねぇ」
 ババアは一鳴きした。魚屋の笑顔は、見知った顔を見つけたと言っていて、ジジイからもチラリと見えた。ババアは透けたハンカチで形だけ汗を拭き取り、パタパタとその萎んだクリームパンのような手で顔を仰いだ。そして、時間が自分の物だと言わんばかりに終わりない話をし始める。
 暑い。今は何が旬なの? のらりくらりしてるは、うちのは。ハマダイ? 知らない魚、......まぁ......高いのねぇ。そうなのよねぇ。嫌になっちゃうわねぇ。
 ジジイはその間、ババアの少し後ろから、整列した魚を見ていた。橋まで三度返って見た。字の形、値段、魚の肌、青い肌、赤い肌。魚の目、魚の眼。じっくりと何を買うのか考えているかのように、何度も見た。
「じゃあ、このアジ、もらおうかしらねぇ」
「安いから、全部頂いちゃうわねぇ」
 ぜんぶ? 全部と言っただろうか。老人はまず自分の耳を疑った。ババアが颯爽と自転車に飛び乗り去った後、まだまだ自分の耳が役に立てることが分かった。魚屋がジジイに笑顔を向ける。
「お客さん、お待たせしました」
 幹肌のような頬が衰えを感じさせるが、健康的な白い歯が眩しい。なんとなしに、ジジイは入れ歯を舌で触った。少し、揺らいでいる。
 ジジイはこの時、買いたい物などなかった。強いていうなら常温より少し冷たい水が欲しかった。背中が、熱い。
「今日のね、目玉はハマダイでね! ......まあちょっとね、値が張りはしますがね、もうそれは?美味い! なかなか食べられない珍味ですよ!」
 魚屋は、先ほどまでアジが収まっていたカゴを自然に取り上げて裏のカゴの山に重ねた。アジなど、初めから売っていませんでしたよ、というような顔で、魚屋はハマダイとかいう魚を勧めてくる。悠々自適の年金暮らしに見えるのか、頭付きの魚を捌く能力やツテがあるように見えるのか、ただ、痴呆の老人に見えるのか。
 キロ二千円の魚だ。魚の姿そのままのこの高級魚をどう調理するのだろうか。金などない。調理に長けた同居人など更にない。誰も、いない。
「いやね、ジジイには大きな魚は食べきれないから」
 それはジジイ最高出力の反射。笑って言った。
「こっちの、鮎にしとくよ」
「一尾」
 ジジイに買わないという選択肢はなかった。安売りにだけ興味を示す老人にはなれなかった。
 ジジイは角の折れた千円を渡して、じゃり銭を受け取る。
「ありがとうございます」
 重くなった懐がどこか申し訳なく、情けなかった。

 
 アスファルトの裂け目から背の高いカヤが飛び出している。隣人は、今はいない。老人の家は酷く静かだった。手を離したドアの金具が鳴く音の後、鍵を閉める振動が伝わる。それに続く音はない。
 ワンルームの小さな部屋にはテーブルと床に直置きの小さなテレビと、起毛布地の表面が固まった座椅子だけが浮島のように存在している。透明の袋に入れられたゴミたちと入れられもしなかったゴミの成り損ないの海が広がっていた。ジジイは茶色いシミの広がるテーブルに、手に提げていた薬の袋を放る。
 
 びぢ。

 ジジイは止まる。そう、魚を買っていた。テーブルの近くに膝をついて、薬の袋よりも不快な憂いを帯びた半透明を覗く。溶けた氷で濡れた体は、買った時よりも暗く見えた。ガラス玉の目玉を引っ付けたままのそれは、命とも物とも言い切れない様が途端に面倒に思えて、訳を理解しないままに冷蔵庫の片隅に追いやってしまいたくなった。ウジが湧くかカビが生えるかしたら、ようやく諦めてゴミ箱に捨てる未来も、ジジイが若ければあったのだろうが、ジジイはジジイであるため、目先の面倒な工程を無視して、鮎を鷲掴みした。そして台所に向かい、まな板も引かずにステンレスの流し台に置く。もう魚グリルは何年も前から黒くなって使えない。グリルで焼いた魚は美味かった。出しっぱなしのフライパンに火をかける。魚は焼けば美味い。朱色の炎がフライパンを包む。
「すみませんおじさん」
 冷蔵庫がむいーっという稼動音をうるさく響かせている。老人には聞こえない。
「おじさん」
「焼くは待って」
「塩をやめて」
「おじさん!」
 ジジイは鮎の体を握る手を止めた。フライパンから数センチのところだった。
「聞こえているか」
 ジジイは鮎を置いて玄関へ歩いていく。ちょっと待ってね、と換気扇の方に向かって大きな声をかけた。換気扇羽根の形にを朧げに拾った影が壁にかかっている。それからドアを押して、外を確認しても、誰もいない。
 首を傾げながら返ってきたジジイは、ため息をつきながら再び鮎を握りしめる。顔には塩が付かないように気を使った。潤んだ白目と深い黒目がこちらを見ているからだった。死んでいると分かっていても、目に塩を付けるのは気が引けた。
「鮎が話しかけててて」
 ジジイはその声の主と思われる方をしっかりと見る。その瞳は美しいが、生きてはいない。
「おねがいします」
「焼かないで、煮るして」
 鮎はそう言った。小さな口が動いているわけではない、黄色と黄色い緑の腹も動いていない。親指で上顎を開いても、ギザギザした歯があるだけだった。
「おねがい」
 声は音の波として伝わっているのではない、とジジイは思った。しかし声はしっかり分かる。頭の裏側から耳に言葉が落ちてきているようだった。
 返事はしないまま、ジジイは水切りに伏せた雪平鍋をフライパンと入れ替える。シュッと水蒸気が立ったそれの中に、同じく水切りの上から取った茶碗を使ってみずを注いだ。一杯、二杯、三杯。水面が揺らぐ。それから厚いビニールを無理矢理引きちぎった中から湿気て塊になった塩を四つ入れた。
 くつくつと泡を吹き出すまでの間、鮎は喋り続ける。
「死んでいるけれど」
「きらきら」
「まぶしいまぶしいね」
「水の中で死にたいね」
「おねがい おねがい」
必死であった。この鮎は「必死」なのだから、当然必死に懇願するのだろうけれど。そうするしかないのだけれど。
 ジジイはそうかい、と独り言のように声をかけた。
「ごめんんさい」
 ジジイは鮎を掴んだ。
「おねがいね」
 鮎は口をぱくぱくと動かしているような気がした。だらりと重力にしなった体がゆっくりと湯に浸かる。
「らい」
「くらい くらい」
「ああ」
「ああ」
 地獄の釜のように湯が吹くので、火力を落とした。揺らぎあった湯気が黄色い体に被さり、色を奪っていく。一瞬の間に体の黄色い部分は白に、緑がかった部分は灰に。鮎は鍋の底に沈んだ。ジジイが先のかけた菜箸で体を返すと、タンパク質が透明を少し濁した。
 丸いボコが何度も水面に浮かんでは消えして、鮎がうまく見えない。
 もういいか。
 菜箸でつまんで引き上げると、鮎はすっかり「鮎の塩茹で」になっていた。くったりとした体はつまんだところからちぎれ落ちそうで、生臭かった。内臓もごと入れたのが良くなかったのだ。さらに塩もみもしなかった。ジジイは語りかけてくる鮎が恐ろしかったのだ。老いからきた幻聴であっても、それはそれでやはり、恐ろしかった。老人は、この魚をただの食材として見ていないフシがあった。
 しかしどうだろう、この茹だって乳白色の目玉。目玉をひん剥いて箸につままれているこいつは、老人の視覚を刺激し、記憶の中の食事の成功体験を呼び起こす。なんだかんだ旨いんじゃないだろうか。今まで、大体なんだかんだ上手くいったのだ。ジジイはそう思った。
 そのまま菜箸で平たい花柄の皿に置いた。びちゃ。置いた瞬間から鮎の体に含まれていた出汁となった液体が漏れ出して、皿全体に広がった。保温しっぱなしの炊飯器から、茶色句なった米を少しだけついで、鍋の中の汁を少しだけかけた。皿と茶碗、それらを両手に持ち、片足で散らかった床を薙ぐように払った。道をつくれば、あとは座椅子に座るだけだった。
 白いご飯。湯気立つ鮎。水道水。
 ジジイは鮎に箸を入れる。音はない。香りもない。
 口に運ぶ。十数回の咀嚼とそれに組み込まれた腕の動きで米をすする。鮎は苔の青臭さがあった。
「まぁまぁ」
それほど美味くなかった。白い身はほろほろと解けて、カルキの味がした。申し訳ないが、塩焼きの方が、きっとずっと美味かった。
 しかし、「美味しく食べてほしい」とはお願いされなかったのだから、鮎の願いは叶えただろう。
 ジジイの内臓はほこほこと温かくなった。




さわらび133へ戻る
さわらびへ戻る
戻る