6年越し、センチメンタル

源いなり



 あの日は確か一月の中頃であった。水道で汚れたパレットや筆を洗っていると、手がかじかんで真っ赤になったのを覚えている。そんな時期だ。
 日光を浴びてきらめく水たまりを見ていると、「そういえば昔、あんなことがあったよなぁ」と、当時のことを思い出すのだ。

      ※

「私、人の気持ちがわかるんだよね」
 私の正面で画材をいじっていた京香が、そう呟いて、にっこりと微笑む。
 突然おかしなことを言いだすので、つい手の動きを止めてしまった。ゆっくりと息をのみ、手に持っていた筆をパレットの上に置く。
「わかるって、どういうことよ」
「うーん。正確には〝視える〟かな。人の気持ちが色付きのオーラとして、周囲に漂って視えるのよ」京香はよどみなく答えた。
 私は、『正気か?』と動きそうになる口をきゅっと抑えた。だが、目が見開くのは止められない。
「へえ、そうなんだ。...じゃあさ、今の先生の気持ち、当ててみてよ」
 私は、部活の顧問のほうを、ばれないように小さく指さした。顧問は、教壇で作業をしながらチイ子の話に耳を傾けている。
 私の言葉を受けて、京香は顧問のほうをじっくりと観察し始めた。
「ふむ。先生の周りには緑色のオーラが漂ってる。ビリジアンってやつだね。『ただでさえ疲れているのに、チイ子の長話を聞かされてウンザリ』ってとこかな」と言って得意顔。
 そんなことは私にだってわかる。ただでさえチイ子の話は長いのだ。それを一仕事終えた後でつらつらと聞かされている。先生にとっては溜まったものではないだろう。普段からお世辞にも明るいとはいえない先生の顔はいつも以上に沈んでいて、激しく疲れているのがわかる(生徒をぞんざいに扱えないから、先生って大変な仕事だよなーと思う)。
「ふーん、なるほどね」
「先生と対照的にチイ子は晴れ晴れとした黄色いオーラ。先生と補色の関係になってるね。見てて面白いや。...どう、すごいでしょ」京香はしたり顔。
「すごいじゃん。京香ってそんな能力持ってたんだ。やばいやばい、私の心も見えちゃうじゃん!」と私は京香を大袈裟に褒めてやった。もしかしたら、わざとらしく映ったかもしれない。
 全く馬鹿馬鹿しい。私は、こいつの話を信じるほどのおバカさんではない。
 おそらくこいつは、病に侵されているのだ。私たちの年齢時に発症しやすいといわれる、厄介な流行り病。きっとそうに違いない。
 なんと哀れなことだろう。早く病気が治るといいな、と心の中で念じてやった。その時、鼻から微かに息が漏れた。

「その子の言うこと、あんまり信じない方がいいわよ」
 京香とのやり取りをそのままおかあさんに伝えると、想像以上に辛辣な回答が返ってきた。それがなんとも愉快で、思わず笑いがこみ上げる。
「だよねぇ。絶対あいつ中二病だよ。笑えるね」
「それもあるかもしれないけど......」
 そう呟いて、おかあさんはじわりと眉を寄せた。
「どういうこと?」
「いや、ね? あの子の親御さん、怪しい宗教にはまっているらしいから」
「しゅーきょー」
 宗教というのは、社会科の授業で習った世界三大宗教やヒンドゥー教のことなのだろうか。それにはまるとはどういうことなのか。はまっていて、何がいけないのだろう。おかあさんの言葉の意味が正直よくわからない。
「そう。可哀想な子なんだからね。それなりに気遣ってあげなさい」
 おかあさんは、下を向いて高速で洗い物を片付けている。その手つきからは、時間に追われた主婦だけが持つ必死さが伝わってきた。
 これ以上は無駄話に付き合ってもらえない。そう判断したため、そっとキッチンを離れた。
 あいつが、可哀想な子か......

「そんなわけないわ!」
 キッチンから立ち去った後、そのままの足取りで自室に入った。バチン、と部屋の電気をつけた後、大きなピカチュウのぬいぐるみを鷲掴みにする。そして、それを思いっきりベッドに投げつけた。不慣れなピッチングフォームで投げられたピカチュウはマットレスの上で一回バウンドし、少し転がってから壁にあたって、静止した。
 おかあさんは京香のことを可哀想だと言っていたが、私はどうしてもそう思えない。
 あいつは成績優秀でスポーツ万能。美人とまではいかないものの、気さくな性格で男子からの人気が高い。そのくせ女子の友達も多い。クラスの代表を務め、先生からの信頼も厚い。まさに非の打ちどころのない少女なのだ。
 おまけに京香は、うちの部活の部長を務めている。私から部長の座を奪って。
 もともとの部長候補は私であった。部の初期メンバーで一番しっかりしていたのが私だったからだ。先生も先輩も、みんなそれで納得してくれていた。私にライバル意識を飛ばしてくるチイ子でさえ、「あたしらの代の部長は鈴だよね」と言ってくれた。それが嬉しくて、私自身も部長になる気が満々であった。なのに、京香がうちの部に入部してから急に状況が変わった。
 京香は二年の四月に途中入部してきた。新参者であるはずの京香は積極的に他の部員と関わりを持ち、みるみるうちに部に適応していった。
 そして、京香には勉強や運動だけでなく、絵の才能もあった。先に入部していた私やチイ子より断然描くのが上手で、顧問を大いに喜ばせた。それが理由なのだろうか、実際に部長に選ばれたのは京香だったのだ。心のどこかで可能性を危惧していた。それでもショックは計り知れないものであった。
 悔しい気持ちでいっぱいだった。腹立たしくて、部室に行くのが億劫になった。なのに、先輩が急に私に対して謝り始めて、さらに心が揺さぶられた。「私は鈴ちゃんのほうがいいと思ったんだけどね、京香ちゃんのほうがいいって先生が」、「鈴ちゃんにはしっかり京香ちゃんを補佐してほしいな。あなたにしかできないことだよ」とか。どうせならそっとしておいてほしかった。
 閑話休題。おかあさんの指摘は間違っている。京香は〝可哀想〟という言葉とは無縁の存在だ。

 部室の窓から外を覗くと、分厚い鼠色の雲が空を覆っていた。今にも雨が降り出しそうだ。それが今の私の状況を表しているかのようで、思わずため息をつく。
 私は迷っていた。次のコンクールに出す作品の背景色についてだ。画用紙に広く塗った青色を濃く塗り直すべきか、そのままの色でいくか。そもそも色自体を変えたほうがいいのかもしれない。しかし、すでに薄く青を塗っているため変更の余地はない。
 どうするべきか......。
 眉間にしわを寄せて、ウンウンと唸り声をあげること二十分。頭を使うことにウンザリして、大きく背伸びをした。なんとなく周りを見渡してみる。すると、京香と愛理の姿があった。二人はおしゃべりに講じている。内容はよく聴き取れない。だが、愛理が真剣に京香の話を聞いていることはわかった。いったい京香は何を話しているんだろう。
 二人のところへ足を運んでみよう、と席を立った。

「やっほー」二人に軽いノリで話しかける。
「やっほー、鈴。」そう答えるのは愛理だ。
 愛理はうちの部で一番絵がうまいヤツだ。生粋の絵画オタクで、見るたびにいつも絵を描いている。
「何を話してるの?」
「京香氏から絵のアドバイスをもらってるんだ。これがマジで参考になるのよ。何故だか説得力があってね」
「へえ......」思わず顔が引きつる。
 部で一番絵がうまいはずの愛理が、京香の意見に素直に従おうとしている。
「へ、すごいじゃん。どんなこと?」
「私が描いてる絵、背景をオレンジで塗ったほうがいいらしい。背景を暖色で塗ると絵の題材が柔らかく見えて、作品全体が綺麗に仕上がるんだってさ」
 愛理の画用紙には、白いドレスを着た女性が大きく描かれている。背景はまだ真っ白だ。
「な、なるほどね?」
「そんなこと知ってる京香氏、流石すぎるでしょ」
「私が暖色好きなのもあるんだけどね」
 京香は顔をほんのり赤くして、照れくさそうに頭を掻いている。不愉快だ、と私の頭が訴える。
「鈴も京香氏に絵を見てもらったら?絶対にいいアドバイスもらえるって」
「えっ......」
「愛理ちゃんが言うなら仕方ない、鈴のも見てやろう」
 京香が軽快な足取りで、私の机に向かって歩き出す。これはまずい、と思った。
 机の上には私の画用紙。背景は青色。つまり寒色。暖色とは正反対。あいつの意見と真逆なのだ。絶対に何か言われるに違いない。そもそも、背景色以前に、絵自体がお世辞にも上手とはいえない。京香や愛理の作品に比べたら、きっとミジンコみたいな出来栄えだ。下手な絵、と思われるに違いない。
 見られたくない。批判されたくない。何も言われたくない。下手だって思われたくない。あいつに負けたくない。負けてることを知りたくない。
 そんな思いがこみ上げる。私の頭を支配する。
 止めなきゃ、と思った。気がつくと、京香の腕を強く掴み、後ろからぐいっと引っ張っていた。京香が小さくよろめく。
「ちょっと、鈴?」
 戸惑う京香に、私は怒鳴る。
「人の作品を偉そうに評価して楽しい? 何様? いい加減にしてよ。中二病の嘘つき女!」
 口から言葉が溢れ出た。汚い言葉だ。
 京香も愛理も、状況が理解できずにぽかんとしている。次第に、周りにいた他の部員や顧問もこちらの様子を見物し始めている。
 やばい、やっちゃった。
 かあっと顔に熱が広がり、それが全身に駆け巡った。その瞬間、私は慌てて教室から駆け出した。

「気まずい......」
 教室から抜け出した私は体育館横の廊下で、ひたすら床を眺めていた。先ほどから降り出した雨で、床はまばらに濡れていく。
 体育館内ではバレー部が熱心にサーブとレシーブを繰り返している。その衝撃音・掛け声は雨音に負けないくらい大きく、それらの音は私の小さな呟きを簡単にかき消す。
 どうすればいいのかわからなかった。京香や愛理にはひどい態度をとってしまったし、他の部員にも迷惑をかけてしまっただろう。絶対に変な奴だと思われている。それに今頃、チイ子あたりが私の悪口で会話に花を咲かせているに違いない。それが何より嫌だ。
 本当に、どうしよう......
 目尻から滴がこぼれかけた、その時。
「こんなところにいたんだ」
 声がした。聞き覚えのある、柔らかい声。
 ゆっくり顔を上げると、そこには今一番来てほしくない相手がいた。手のひらには黄色いハンカチが握られている。
「なんで、京香が来たの」
「部室に帰れなくて泣いてるんじゃないかと思ってさ」
「泣いてないし」
「そうかそうか、ならよかった」
 妙に上から目線なのが不快だ。だけど、何故だか心が安らいで、今になって涙が頬を伝った。京香がハンカチを渡してきたので、「ありがと」と言って、そっと涙を拭いた。
 京香はしばらく私の様子を窺いながらその背中を撫でていた。しかし、ふと体育館の中を覗くと、ぴたっと手の動きを止め、複雑そうな顔を見せ始めた。
「どうしたの」京香の顔を覗き込む。
「ああ、大丈夫だよ」
「嘘つけ」
「あはは。まあ、気づくよねえ」
 京香は気まずそうに頬を掻く。
「ねえ、鈴」
「どうしたの」
「あそこのバレー部の子たち、どう思う」
「急に何。どうって」唐突な質問で、頭上に疑問符が浮かんだ。
「率直な感想でいいから、教えてよ」京香は真剣な表情を向けてきた。
「はあ。...そうだな、とても仲よさそうに見えるし、みんな可愛いよね。特に、キャプテンの桃華ちゃんはとってもいい子。会ったらいつも話しかけてくれるし。理想的なリーダーだよね」
「ふうん」
 京香はわざとらしく唇を尖らせる。
「な、何よ」
「いやさ、みんなそう思ってるんだろうね。一般的な答えだと思う。でも、私には納得できない」
「なんでよ」
「私には視えるんだよ。彼女たちを覆う禍々しい色が。」そう吐き捨てた京香の眼には光が灯っていなくて、ぞくりとした。
 もう一度バレー部を見てみる。しかし、先ほどと同様に楽しく練習しているようにしか見えない。......だが、何故だか急に、彼女たちの笑顔がぎこちないものに視え始めた。さわやかに練習する、そんなフリをしているかのように思えてくる。
 コートの隅の方では、桃華が明るい笑顔で下級生の背中を叩いた。「ドンマイ」と、優しく励ましているのだと最初は思った。だが、下級生の体が大きくよろける。自力で体制を建て直し、小さな声で「すみません」と謝る。その声は若干震えている。今思えば、桃華が背中を叩く手には勢いがありすぎた。
 知りたくないことを、知ってしまった、ような気がする。吐き気を感じてしまいそうな気持ち悪さ。
 バレー部の子たちは、京香の眼にどのように映っているのだろう。もしかしたら、今空を覆っている雨雲よりも酷い色に視えているのかもしれない。
 こいつは、いつもこんな思いをしているのだろうか。視覚を通して、知りたくないこと、嫌なことまで全て悟ってしまうのか。
「ねえ、京香」
「今度は鈴から質問だね。何だい」
「なんで、私に色が視えることを教えたの?」
 京香が目を見開く。不意を突かれた表情。
 少しの間の後、彼女は口を開いた。
「なんでかって、そうだな。鈴なら、私のことをわかってくれるかな、って思ったからだよ」
 京香がまっすぐに私のほうを見て話すので、思わず顔を赤く染めてしまう。
「じゃ、じゃあさ、私のことはどう視えてるのっ」
 この質問に対しては即答だった。京香はにやっと笑って、こう言う。
「どう視えるかを詳しく言うつもりはない。けど、いつも私に怒ってるよね」
「怒ってないもん!」
「どうだか~」
 あははは、と声をあげて笑う京香。つられて私も笑ってしまう。二人の笑い声は体育館にも伝わって、隣の校舎まで響き渡る。
 思う存分笑った後で、私は京香と一緒に廊下を立ち去った。いつの間にか雨が止んで、空には光が差し込んでいた。水たまりに浮かぶ光の粒は、とても眩しかった。

 私にとって、京香はやっぱり憎らしいやつ。そして、人の気持ちがわかるとか仰る、おかしなやつだ。確かにあいつは病気なのかもしれない。可哀想な奴なのかもしれない。あいつの親はしゅーきょーにはまっているのかもしれない。だけど、私はあいつを......

      ※

 一月の寒さは厳しいもので、今日も凍てついた空気が私をいじめてくる。できることなら外に出たくない。しかも、昨日は稀に見る大雨で、道中にはたくさんの水たまりが残っている。こんな日に振袖で外を歩かされる身にもなってほしい。
 ......まあ、悪い気はしないんだけど。
 だって、今日は待ちに待った成人式なのだから。
 私の振袖はおかあさんのお下がり。赤を基調としていて、遠くから見てもよく目立つはずだ。
 着付けの際、だいたいの装飾品は揃っていたのだが、帯締めだけは見つからなかった。だから、帯締めだけは着物店から拝借することになった。何色か候補があるなかで、私はピンク色を選んだ。赤い振袖と合わせると可愛かったし、何より、私らしい色合いだと感じたからだ。
 あいつは元気だろうか。中学三年の夏に、あいつは突然引っ越すことになった。先生によると〝家庭の都合〟でのことらしい。それっきり会うことも、連絡を取ることもなくなってしまった。正直、今日の式に参加するかもわからない。むしろ会えるのは低確率だろう。
 だけど、あいつならたぶん来てくれる。何故って、あいつだからだ。
 私の振袖を視たら、暖色が好きなあいつは喜んでくれるのだろうか。そんな光景がうっすらと目に浮かぶ。
 期待に胸を膨らませながら、かつての学び舎の門をくぐった。


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