歌界

白内十色



 五月十八日、人工衛星の打ち上げ失敗の記事を読んだ。科学者が落ち着いた表情で会見をする。新聞には煽情的な見出しと、失敗の原因はまだ調査中、という結晶質な情報が書かれている。
 一日の始まり、朝に必ず三十分。それは私が新聞を読むときに決めているルールだ。三十分は、もちろん正確なそれではない。体調次第で、読まない日もある。紙に触れて世間のことを知る時間を持っておきたいと思うのは、人という種に対しての漠然とした同族意識を大切にしているのかもしれない。同じ人間が、違うことをしているということ。人という構造の持つ可能性の幅広さを私は面白く感じている。
 政治のことはあまり興味がないけれど、一通りは目を通すようにしている。どこか遠くで今も戦争をしているが、私の生活にかかわることはしばらくはないだろう。
 最も興味を引くのは主に技術的なニュースだ。どこかの市で発明された、少し気の利いた道具の話を好んで読んでいる。最近は人工衛星の失敗の他に、時たまGPSが不調になることがあるらしい。あまり信用しないこと、と書かれている。一度心から信じたものが裏切ると考えることは難しいものだ。朝食を食べ、新聞を読んだ後は会社に向かう。会社までの道は完全に覚えているので、GPSは必要ない。
 五月二十五日、人工衛星の失敗の原因はまだ分からない。電話線が切断されるみたいに、いきなりすべての通信が途絶えたのだという。打ち上げられたロケットとその中の人工衛星も、机から落ちたおはじきみたいに行方不明で、地上に落ちてきた様子はない。今もスペースデブリとして漂っているかもしれない、と説明がある。
 国際欄では、ケニアが消失している。国民の全てからの連絡が途絶え、残ったのは自動で信号を発信していると思われる電波塔などからの情報だけだ。この記事は最初は小さな枠をしか取っていなかったが、すぐに一面トップに来るようになる。誰もこの現象について詳しく知らない。遠くから何かで覗いてみると民家は見えるが人影はない。入ろうとした人は帰ってこない。
 五月三十日には消失している区域はアフリカ全土になる。つまり、アフリカ大陸の全ての区域からの連絡が、その外側までやってこない。国連は緊急事態宣言を出し、日本もそれを追うように宣言を出す。あらゆる資金的、技術的な支援を惜しまないと総理が言う。数十か国のドローンがアフリカへ向けて飛んでいくが、何一つとして情報を得られない。このころには私も不安になって、新聞を読む時間が五十分に増える。どれだけ詳しく見ても、書いていることは同じだ。何も分からないということだけが分かっている。
 人工衛星を用いて宇宙から様子を偵察してはどうか? というアイデアはJAXAによって不可能だとの宣言が出る。なぜなら全ての人工衛星が地球上からの指令を受け付けない状態にあるのだという。GPSが不安定ながらも動いているのは、自動で発信される情報だからだ。メンテナンスのための指示を宇宙に送っても、それを受け取っている様子はない。地球はまた、地球の外との繋がりを失ってしまった。孤独に感じる人もいるだろう。
 人工衛星の機能不全は、国防にかかわる問題なので大国が伏せていたのだそうだ。自分勝手だな、と感じる一方、もちろん自分の国の金で打ち上げたのだから、勝手にして良いだろうとも考える。しかしそう、誰もがなりふり構っていない。会社も昨日までは活動していたが、今日は来なくていいということになった。
 六月二日、会社に行かない日々は退屈だが、その退屈はかけがえのないものだった。書店に行くと読む本があることに気づいたのが休みの一日目、寝ているだけでも楽しいと感じたのが二日目、三日目の今日は散歩をすることにした。新聞はヨーロッパの一部の消失を伝えている。政府機能は崩壊寸前で、首都圏には暴徒も溢れているらしい。
 公園は行き場のない大人のたまり場になっている。駅の広場の石段には若者が多いし、川の近くの草地にはレジャーシートを敷いた家族連れが寝転がっていたりする。
 私はあてどなく歩く。

 そして、彼女に出会う。

 彼女は透明感すら感じさせる水色に髪を染めていて、レモン・スライスの髪留めを右に差していた。髪型はショートボブといっていいだろう。道の向こうから歩いてきた彼女は私を見て、笑顔を見せた。
 彼女が歩いてくる。私はすれ違おうとして道を開けるが、それに立ちはだかるようにして彼女が動く。
 つやつやとした唇が開かれる。
「貴方だったのね」
 私には何のことか分からない。探されるようなことをした覚えもない。女は私の手を引いてどこかへと連れようとする。私は逆らえず、そしてその手の柔らかさに怯えている。間接照明のような柔らかさだ。
 彼女は門の前で立ち止まる。その門の色といったら、血赤色の友人、群青の従兄弟、そして萌葱の墓穴に住む同居人といった色合いだった。どの色にも似て、そして異なる不思議な扉。彼女がそれを開くと黒い暗闇だけが口を開けている。
 私を見つめてにこりと微笑んで見せる。
「入りなさい」
 彼女が言う。私は抵抗する。彼女の手を振り払う私を、理解できないといった目で彼女は見る。説明が欲しいと私は言う。どうして私なのか、どこへ連れようとしているのか。
 彼女の笑顔は魅力的で、同時に冷淡だ。
「低次元の存在に説明する意味はありません」
 説明がなければ入らない、と私は言う。殺して解体して持っていっても問題はありません。後生だから、理由だけでも教えてくれ。人間という生き物は、理由がなければ苦しいものなのだ。彼女はため息をつく。とても美しく。このため息に、アインシュタインの論文一つほどの価値があるだろう。
「これは気まぐれです。一度しか説明しません」
 彼女は話し始める。それは非常に高度に成長した文明の話。否、私たちの文明が劣っているのだ。私たちの文明はその高度文明から生まれた。
 高度な文明にも歌がある。言葉を美しく並べた詩がある。彼らは詩を愛でながら、私たち人類には理解できないほど高度な文化を育んでいた。
 あるとき、彼らのうちの一人が革命的なことを言い出した。この世に存在する可能性のある全ての歌を作るのはどうか? その理由は人類には計り知れない。特に大きなプロジェクトではなく、彼らの中でもささやかな量のリソースのみを使用して行われたようである。それほどまでに、彼らの文明は果てしない発展を遂げていた。
 五億ある彼らの使用する文字、その組み合わせの全てを彼らは計算した。文字数も、考えうる限りの全て、一文字から無限文字までの全ての歌を作り出した。
「そんな馬鹿な。全ての歌っていうことは、無限大じゃないか。無限大を作ることは出来ない」
「無限大なんていう概念はとうの昔に制圧されて久しい。無限に物事が膨れ上がるなら、その一つ一つを無限に小さくするまでのこと」
 彼らは宇宙を一つ作り、その中に作り出した歌の全てを詰め込んだ。宇宙空間に漂う細かな歌の微粒子は、やがて相互作用を繰り返し、まとまり、離れ、人類によって「物質」と呼ばれるものへと成長してゆく。
 私たちの体、そしてその周囲の全てのものを構成しているのは、数億、いやそれをはるかに上回る量の圧縮された歌なのだ。
「じゃあ、貴女は例えばどんな歌なんだ?」
「無数にあると言ったでしょう。その辺から借りてきたから同一コピーがどこかにいる。強いて一つを抜き出して訳すのならば、このようになる」
『
	今夜、天が泣く
	堕ちる星を見上げる君は笑っているのか?
	夜闇を切り裂け一時の光
	無限の旅をここで終え
	しかし彼らは無限である
	無限の生に、涙の日と笑顔の日があるために
	晴天の夜に流星を見よ
	ああ――
	堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。
』
「何?これ」
「この後堕ちる。が五十個続いて一つの歌。ダル・セーニョの連続。一つのみ続くものから、無限に堕ちると言い続けるものまで、全てがこの体に含まれている。残念なことにこの体にはこれ以上有意義な歌は見つけられなかった」
「ほとんどの歌が無意味じゃないか。何をしたいんだ。あなたたちは」
「深い意味はない。マイナな研究者の、片手間の実験に過ぎないんだから」
 私は逃げる。動きやすいスニーカを履いていることは幸いだった。彼女たちが私に何を求めているのかは知らないが、私が存在する理由がそんな無意味なことであるとは考えたくなかった。虚無からの一瞬の逃避は、無に帰らないという点において、創造的であるとすら言えるのではないか?
 長年の会社勤めで鈍った体に鞭を打ってコンクリートを蹴る。追うかと思われた女はしかし追ってこない。代わりに迫ってきたのは家屋の倒壊する轟音と、木々の枝が折れるほどの暴風だった。振り返るとハリネズミのような針を背負った怪獣が見える。
 拡声器でも使っているのだろうか? あの女の声がする。『この怪獣の歌は『ゲルニカ』。意味は分かる? これからこの街を更地にする。この街の外は既に更地だ』
 怪獣の一歩で家が一つ平らになる。無事だった家から飛び出して私に並んで怪獣から逃げる人が何人か現れる。公園にいた人たちは大丈夫だろうか? 走る以外にするべきことはない。たとえどの道を走っても虚無へ転落するとしても。
 その『境目』に気づいたのは私だけだったようだ。道の途中にある透明な膜。きっと、幸運かつ注意力があったのだと思う。パフェの一番上に乗っているチェリーほどの小さな輝き。気づけなかった人はみなその境目を通り過ぎてしまった。それはきっと、今や世界の果てなのだ。果ての向こうは、高度な存在が作ったみせかけのイミテーションだ。境目の向こうに行った人の体が、細い紐状のものに解体されてゆく。それは撚られた紐がまた別の紐を構成していたのだろう、次第に細い紐へと分解し、人は最後、眼には見えないナノ・ファイバーの雲になる。その最小単位が彼女の言う『歌』なのだろうか?
 私は立ち止まり、後ろからは怪獣の足音が聞こえる。目を凝らすと空に布を巻き取る巨大なロールが浮かんでいる。その奥にある機械は織機だろうか? 糸となった人間やそのほかの物質を集めて布を織っているようだ。エントロピー増大の法則により物事は秩序が失われる方向へと進行するが、つまり全ては完全に秩序だった世界から始まったのだ。今、世界は原初の布へと戻ろうとしている。
「貴方を探していた理由の説明がまだだったね」
 拡声器で女の声が聞こえる。
「もう、どうだっていいよ、そんなこと。この街の外は既に何もないのか? 宇宙も? 衛星からの信号は来ていたのはあなたたちのフェイク?」
 怪獣『ゲルニカ』が吠える。私はこれ以上逃げられない。怪獣にやっと相対する。
「そうだけど、何か? 一度始めたことは最後までやる性質なの。説明も、実験も。あなたは、あなたのある一部は、全ての歌を作り出してもなお、見つけられなかった歌なの。存在することだけは証明されている、歌えなかった歌」
 私は理解できない。たった一つの歌のために?
「バグか、勘違いか何かだろう? 全部作ったはずだ。フォア文を使って」
「作り出したはず。しかし私たちはその歌を手にできなかった。他のありとあらゆる無価値な歌を知ったにも拘らずね」
 私はもう逃げることをやめている。歩みは、怪獣に近づいてすらいる。それは、諦めが突き抜けたのかもしれないし、ある種の勇気であるかもしれない。私は無謀にも叫ぶ。
「私を差し出せば、この世界は元に戻るのか? 私は死んでもいい、世界を残してくれ」
 彼女はウィスキーに浮かぶ氷みたいに冷淡に、私に言う。
「あなたたちの世界に価値はありません」
 私は背後から黒い棒のようなもので刺される。心臓があったはずの場所から血と共に棒が突き出して、一瞬後には引き抜かれる。倒れた私を見下ろすのはショッキング・ピンクの髪をツインテールにした少女だ。
「君は?」
 と間抜けた声が出る。ゆっくりと傾く視界でツインテールが揺れている。
「私? 私の構成は今、全てが恋の歌。体の全部が、厳選した恋の歌の女の子。そして、あの女の妹になるよ」
 私を背後から刺したのだろう少女がカン高い声で私に言いながら、先ほどまで胸に刺さっていた黒い棒を操作している。青く透明なウィンドウが宙に浮かぶ。
「よくやった。見よう。どんな歌か」
「フン。姉さんは甘すぎる。無意味だよ、こんなの」
「無意味じゃないと実験なんてしない」
 いつの間にか水色の髪の女がここまで来ている。少女の出したウィンドウを覗き込んでいるようだ。
「解析開始」
 しばらくすると、ピーという音が鳴り響く。
 ウィンドウを数回タップした後、二人の女はげらげらと笑い始めた。
「ぷっ、あはは。馬鹿みたい」
「姉さん、みたいじゃなくて、馬鹿。ウケる」
「違いない。あなたも見なさい。自分の中にどんな歌が隠されていたか」
 私は死にかけて掠れる視界で、彼女たちが差し出したウィンドウを見た。私の中の歌、全てを作り出してなお見つけられなかった歌は、このようなものだった。
『

』
 私は黙る。女たちはまだくすくすと笑っている。
「可笑しいでしょう? 歌が存在しない、ということすらも歌だったってこと。空白そのものが歌なの」
「下位世界の住民には難しいんじゃない? 努力しなくてもいい、何も知らなくてもこの歌だけは知っている。ああ、面白い」
 私は心臓に空いた穴のせいで死のうとしている。そんな、大それた世界の大それた面白みのことはもはや私には伝わらない。私はディスプレイの中の空白だけを見つめている。
「この世界をシャットダウンしましょう。報告は、何もないを数え忘れていたとでも言うから」
「そう。早く帰ろう」
 女たちが去っていく。じきにこの場所も上空の織機に巻き取られて消滅するだろう。私は死ぬ。世界の終わりを見届けることになってしまった。そして、世界の虚無性を知るたった一人の人間だ。
 私は恨んだ。呪った。そして同時に誇らしくもあった。
 私の脳裏を全ての種類の感情が通り過ぎる。
 全ての過去と、起こりうるかもしれなかった未来のことを考える。
 私の居た世界のあまりの素晴らしさゆえに、私は言葉を紡ぐことができない。私はこの世界を好きだった。同時にとても嫌いでもあったが、やはり気に入っていたのだろう。
 私の口から、空白が漏れ出した。最後の吐息だ。
 空白とは、『』である。そしてこれは、歌だった。
 私から生まれた『』が二つ連結して『』『』になる。
 これも歌だ。
 『』に包まれた『『』』も生まれた。これも歌である。
 そして、空白と空白が呼びあい、結びつき、相互に関係を持ち合って、私の口から出た空白はその種類を増やしていく。
 『『』『』』が、『』『『』』が、『『』』『』が、『『『』』』が生まれる。空白は爆発的に種類を増やしていった。
 私の口は無限に空白を吐き出してゆく。私はこれが歌であることを知った。空白が空白を呼び、空白のために、空白で満たし、空白を知り、空白で繋がり、空白であった。
 空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、空白で、加えて空白だ。
 そして、生まれたのがこの文章を読んでいる君たちの住む世界だ。無限に膨れ上がった空白で出来た世界。無の吐息とその組み合わせだけで出来た世界だ。
 この世界は私が死のうとしているから、私の体感時間であと数秒で消えてしまう。その点については申し訳ないと思っているが、どうしようもない。
 君たちは君たちの世界をよりよく生きてほしい。


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