架空の夢

つげろう



 高名な寺社仏閣の甍と空にほのぼのと曲線を描く山の緑が、どこからの視線も占有するさびしい古都の空気も、郊外を抜けて山道に入れば、陽の光の乏しい冷ややかさに、かけがえなく懐かしいものとして思い出されるのだった。僕は、こんな山奥に分け入る選択をした自分を非難しつつも、深く深くに一歩を踏み出し続けなければならなかったことを確かに認めていた。とにかく、僕は息苦しかった。僕を覆っていたもの、半透明な鈍色のぶよぶよとした膜のようなイメージのそれは、精神的にも、肉体的にもだが、時代や世間がどうというという事ではなく、僕の中から突然として湧いてきたものだ。特に、いっぱいに傾いたまま生えかけている親知らずが、象徴的に悪い想像を加速させている。親知らずはその突端だけが歯肉を突き破って外界に現れており、自身由来の、僕に固定されているものであることは確かなのだけれど、親知らずに舌先が触れる度、孵化寸前の寄生卵が脳裏に現れ、割れ、生まれたものは僕を追いかける。僕は嘆きながら祈るか、未熟な状態のときに卵を割ろうとやわらかな舌先で懸命につつくしかない。
 山道を抜けて集落に出ると、両脇に広がっている畑には腐った瓜だとかがごろんと転がっている。汁を垂らしている、その何者かにかじられた、黒に近いほど濃い緑の縁は、抵抗して力尽きる寸前の血のたぎりのように、かえって生への印象を強めるものだった。その光景は、僕の身体への嫌悪感をはやしたて、さっきよりも増して舌先が親知らずを包んでいる肉を激しく攻撃する。舌先がぼろぼろに削れてしまう前に、何か気を逸らすものを見つけなければならない。僕は、悪癖のために過剰に分泌されて行き場をなくし、口端を濡らすほどになってしまった唾を吐き出した。唾は孵化しかけた悪夢をいくらか包み込んで側溝の、泡が渦巻く桝に落ちていった。この側溝は遠くに見える、山を抱えた川に繋がっているのだろう。そして、田畑から垂れ流された農薬を豊富に飲み込むせいで、合流地点ではうろこのないフナが白くでっぷりとした腹を、曇り空に向けて浮かんでいるのだろう。僕は叫びたくなった。でも、叫んだとして誰かその声を聞き、叫び声以上の何かを、一瞬でも僕という他人のために捧げてくれるだろうか? この集落にはきっと、ねたきりの老人しかいないのに!
 僕は歩き続けた。側溝の終わり、つまりは田園を一点に集めるような陰を湛えた山の入り口、傍には神社があり、垣間見える社の側面に描かれた白馬に乗った狩衣姿の貴公子(ここらの氏神だろう)が僕の心をいくぶんか安らかなものにした。神社の向こうには屋敷があった。玄関先に何本も掲げられた"八十八歳"のしゃもじが この家の信頼された立場を語っていた。僕は遠くからこちらに迫ってくる懐かしさと抱き合い、溶け合った。
 十歳ぐらいの女の子が庭の石畳の上で無垢な歌を歌っている。彼女の足が落とされた白い紙のように、よろけたのをみたところで彼は自室から戻ってきた。僕は彼を知らなかったが、もうすでに彼を待っていた自分がいるのだから、逃げなかった自分がいるのだから、身動きできない訪問者になってしまったという事だろう。彼は、僕の目の前に薄紅色の風呂敷に包まれた箱を置き、白手袋を手にはめた。僕は何か繊細な物だろうと思い、唾が飛ばないように口を軽く締め、一瞬のうちに想像力で箱の中身を透視しようとした。解かれた風呂敷が包んでいたダークな色の木の箱を僕は訝しげに見てしまったのだろうか。彼はいれもので判断する愚かさよといった風に目を細めて笑う。しかし、開陳されたものに僕は呆れに少し友好を振りかけた笑みしか返せなかった。円盤だ。
 「円盤の窪んでいない方の滑らかな、白みがかったクリーム色の上にぼんやりと走っている茶色い螺旋は、きっとその時由来だと私は思う。もとは違う色だったか否か、知るのは南欧のとある国の少年二人、当時はだがね、と老いた名士だけ、いやもう亡くなっているだろう。とにかく、円盤が印象派の絵のようにほのぼのとした夕暮れの草の丘に実在していたのは事実なのだ......」
 以下、彼が語った話。
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 ある名士は異国の郊外の丘の上に小屋を拵え、夏、余生の事業である青少年教育の著作を執筆するのに励んでいた。朝から昼の間は、激しい陽の光と熟したゆたう知識の波をなんとかかきわけ、蔵書の棚にへばりついたり、猫を懐に入れ、ころがしたりしてペンを走らせていく。夕暮れになると小さい窓がオレンジに染まり、老身ながら肉体活動の開放を求め外へ飛び出さずにはいられない。夕日を浴びれば、終わりゆく一日のあわれに心の底が叩かれ、尽きたと思われた活力が声に宿る。低い調子であるが、朗々として絶え間ない昔風の船歌歌う声の主に、目的のない問答をふっかけようとしてか、二人の少年が互いの笑みを溢しつつ拾いつつ絡まりそうな無邪気な足取りで駆け上ってくる。丘の頂上の縁から飛び出した、ブルネット髪の少年二人に名士は母国の言葉で驚きを示したが、少年たちの言葉のとめどない流れに圧倒され、やれやれとベランダのチェアに腰掛ける。少年たちも相手が異国人だと解したのか地べたに腰をおろし、しゃべるのをやめる。二者間に湿った夕べの草の香が流れる。なにとなく虚しさを感じた名士は、神秘を見るような少年たちに再び溌溂とした幼い声の調べを取り戻してほしく思い、小屋に戻る。老人は知識と経験からあの世代の異国の使者に何を送ればよいか推測した。そして達した結論を片手に外へ出ると、同時に丘より見渡せる村の教会の晩鐘の響きが空を厚く覆った。鐘の音が沈みきると、音に合わせるようにあたりがほの暗くなる不思議を感じながら名士は二人を探した。少年たちは、分かちあった時間は異国の風の精が見せた一瞬のまぼろしと名士に思わせるほどに、丘には上っておらずただ迂回しただけのように、恐れなど微塵もない声色でじゃれ合いながら丘の麓より村へ向かおうとしていた。名士は髭濃い頬にえくぼをつくり暮れゆく空気に腕を振った。円盤は表面を光と影、様々な色形に変化させながら鈍い勾配の地面に沿って滑空する。そして、贈り物と自らで心得ているかのように優しく少年たちの間に着陸した。名士は若々しい掛け合いを想像しながら村へ背を向ける。床に就き見る一日の時間の名残が今からでも楽しみだとおもわれた。すると、その時、背後より光が俄かにあふれ、腕の先までを包んだ。驚くよりも先に惹かれるように振り向くと少年たちが白い影となって、遠近も分からない位置に立っていた。あっけにとられている名士の足元へ光の方から、一瞬、軌跡がひらめく。行く方をみると、シュルシュルと音を立て円盤が地面に平行に回転していた。回転は一定であったが、拾おうと指先で触れると垂直に立ち上がり、地面の芝を円状に縁どりながら縦回転し数メートル先でぱたと倒れ、停止した。名士は円盤を拾い上げ、村の方を見た。少年たちはもちろんいない。一度だけしか鳴らされない定刻の晩鐘が空気を揺らしはじめた。
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 彼は話を終えると円盤を持ち上げ、娘に声をかけた。僕の顔に戸惑いとなりを潜めていた興奮が明らかに現れ始めていただろう。小さいえくぼを作りながら彼は僕に微笑んだ。私は思わずチェアより立ち上がってしまった。彼も立ち上がった。世界が知らぬうちに、一瞬に、何回か逆さになったのではないかと思うほどの血のめぐりが僕を襲った。彼は優しく、紳士がステッキを扱うように腕を振った。円盤は庭へ向け空中を滑走していく。娘が振り向き笑顔になる、その瞬間である......。
 その瞬間、娘の薄暗い口腔内が外の光を受け入れてあきらかにその様子を外に晒した。生え変わり前の整然と並ぶ、小石のような歯に、僕は忘れかけていたものを思い出した。存在している奇跡と気持ちの悪さが再び僕を捕えた。
 


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