白昼夢

眠る蝶



 これは、私が幼少の頃の話。 わたしは幼稚園の遠足で、ある場所を訪れていた。もうどこかもよく思い出せないが、確か美術館か博物館のような場所だった気がする。 
 わたしが展示物を見ながら少し立ち止まっている間に、一緒に回っていたはずのみんながいなくなっていた。周りをみまわしてみても人影がない。よく知らない場所で一人ぼっちになってしまい急に心細くなってきた。あたりはしんとしている。みんなと一緒にいたときには気づかなかったけれど、なぜかこの場所全体から人がいる気配が全く感じられない。だれかいないだろうかと探し回っていると、人影が角を曲がっていくのが見えた。すでにかなり歩き回っていたので、やっとだれかいたと思い人影を追いかける。しかし、角を曲がるとそこにはだれもおらず、ただ静かな空気が満ちていた。
 やっと見つけたと思った人影を見失ってしまい、わたしは少し泣きそうになってきていた。周りをみまわしてみてもさっきの人影は見つからない。もう疲れてしまってその場にしゃがみこんでいると、背後から肩をたたかれた。足音も気配もしなかったのでびっくりして声を上げる。けれど、やっとだれか見つけたと思い安堵しながら振り返った。
 そうして振り返った視線の先にはナニカがいた。ソレの体は淡く紫色に発光していて、球体に枯れ枝のような手足がついた奇妙なかたちをしていた。わたしは突然の出来事に頭が追い付いていなかった。しかし、思考よりも先に本能で理解させられた。コレは出会ってはいけないモノだと。恐怖で震える体にむちを打つ。わたしはすぐに走りだした。アレとは逆の方向に逃げながら後ろを振り返る。アレはわたしのことを追いかけてくるような様子はない。ただまるで手招きするかのように手をこちらに伸ばして、口だけしかない顔を歪ませて嗤っていた。
 わたしは走りながらだれかいないのか必死で探した。相変わらず人の気配はない。そのまま走っているとトイレを見つけた。とにかく隠れてやりすごそうと思って、個室に飛び込んですぐに鍵を閉めた。乱れた呼吸を急いで整えながらできるだけ息をひそめる。少し落ち着くと恐怖を思い出した体が震えだす。ニタニタと愉しむように嗤うアノ口元が思い出される。触れれば吸い込まれて何処までも落ちていきそうなアノ体が思い出される。どこまでも伸びて追いかけてくるのではないかと錯覚させるアノ手が思い出される。アレは追ってきてはないだろうか。今この瞬間にも扉の上から覗き込んでくるのではないか。そう考えると、わたしはぎゅっと目をつむって小さくなっていることしかできなかった。
 どれくらい時間がたっただろうか。一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた静寂は「×××、どこにいるの。」というわたしを呼ぶ声によって破られた。
 こんこんこん。「×××、ここにいるの?」扉をノックする音と共に聞こえるのは間違いなくおかあさんの声だ。聞きなれたいつものおかあさんの声。わたしは目を開けて顔を上げる。不安と恐怖で押しつぶされそうな中、唐突に与えられた日常に安心する。「×××、いるなら鍵を開けて。」続くおかあさんの声に従ってわたしは鍵を開ける。開いた扉の先には裂けそうなくらい口の端をあげたアイツが立っていた。
 そこで、目が覚めた。じっとりと嫌な汗をかいていて心臓の鼓動も早い。それが夢だったことを認識するのには少し時間がかかった。私の視界にはアイツはおらずうすぼんやりと部屋の輪郭が映っている。そのまま部屋を見回していつもの自分の部屋であることを確認してやっと自分が夢を見ていたことを確信して安心した。時計を確認すると午前二時だった。汗をかいたせいかひどくのどの渇きを感じた。水を飲むために起き上って台所へと向かう。あれは夢だったのだと頭では理解していてもアレに触れられた肩にまだ感触が残っているような気がして気分が悪かった。
 台所につくとコップを出して水を注ぐ。それを飲みながら何となく振り返った時、私は自分の目を疑った。視線の先にはアレがいた。数舜前には確かにそこには何もいなかったはずなのに。目のないソレと目が合った。私は混乱しながらも夢の中と同じように、逃げようとして振り返った。しかし、それはできなかった。振り返った先にはソレが口の端を歪めて嗤っていた。
 そこで、目が覚めた。じっとりと嫌な汗をかいていて心臓の鼓動も早い。それが夢だったことを認識するのには少し時間がかかった。私の視界にはアイツはおらずうすぼんやりと部屋の輪郭が映っている。そのまま部屋を見回して自分の部屋であることを確認した。時計を見ると午前二時だった。喉はひどく乾いていたが、私は布団の中から出ることはできなかった。この状況はあまりに夢の中と酷似しすぎていた。いや、さっきまでのことが本当に夢だったのかすらわたしにはもうわからない。ただ、今ここから動くとまたアレと出会ってしまうのではないかという圧倒的な恐怖だけが私を支配していた。わたしはいま夢の世界にいるのか、それとも現実世界にいるのかわからないまま布団の中の小さな世界に閉じこもることしかできなかった。
 どうやら、私はいつのまにか眠ってしまっていたようだった。目が覚めて時計を確認すると午前七時だった。視界の中の自分の部屋はいつもと全く変わらない様子だ。アレは何だったのか。ただの悪夢の産物だったのだろうか。私は確信が持てなかった。きっと悪い夢を見ていただけだとそう思いたかったが、振り返るとアレが嗤っているのではないかと思うと恐ろしかった。私は本当に現実世界にいるのだろうか。夢と現実との境界が曖昧だった。
 それ以来わたしの生活の中にはアレが何度も現れた。いや、違う私はアレが出てくる夢を何度も見るようになっただけだ。そのはずだ。きっと、そのはずなのだ。


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