ラベリング 八坂千里 五分程前、このエレベーターは停止した。一、二階に書店、三階にはCDショップ、地下に喫茶店を擁したこの古びた小さなビルは、これまた古臭い四人乗り程度のエレベーターを腹に抱えていた。毎度乗るたびにいつか止まるのではないかと心配していたが、ついにその日が来たらしい。一緒に乗っていた若い女性客はうろたえている。俺は、冷静にすべての階のボタンを押し、次に非常ボタンを押した。階層ボタンの上のスピーカーから、「どうなさいましたか」と感情の載らない声が聞こえる。停止したエレベーターが再び動き出す気配はない。 「エレベーターが止まってしまいまして」 「分かりました。少々お待ちください」 程なくして、再びスピーカーが震えた。どうやら、機械設備のトラブルらしく、小一時間ほどそのまま待つように言われた。 俺には、暇があるとCDショップを回り、気になったものがあればジャンルを問わずに買うという癖があった。自宅からほど近いこのCDショップには特によく出入りしている。今回も例にもれず購入したCDを鞄にしまい、古ビルを後にするところであった。今日は休日のため、この後の予定はないものの、自分の意志とは別に拘束される時間は、けっしてワクワクさせるようなものではなかった。しかも今は真夏だ。エアコンまで壊れてはいなかったのは、不幸中の幸いだろう。ふ、と溜息とも言えぬほどの小さな息を吐く。 「よかったら、開くまで話しませんか?」 不意に、女性客に声をかけられた。短くそろえた黒髪にはウェーブがかかっており、この小汚い箱の中で唯一艶めいている。レモンイエローのノースリーブのワンピースを着て、途中で脱いだのか、白い薄手のカーディガンを手に持っていた。少し早い残菊の色目だからか、それとも彼女の肌が透き通るように白いためか、どことなく水辺のほとりのような涼しさを思わせた。運悪く同じエレベーターに乗り合わせた彼女は、暇を持て余したのか、それとも俺と二人無言であることに耐えきれそうになかったのか。どちらにせよ、手持無沙汰だった俺はその申し出をありがたく受け入れることにした。 「僕でよければ」 やったーと彼女は可愛らしく笑う。つられて俺もふにゃりと笑った。その顔がどう見えているのかは考えたくない。 「お買物ですか?」 「えぇ、まぁ」 「何か気になる物はありました?」 「そうですね、特にめぼしい物は何も。一枚だけ、懐かしいアルバムを見つけたので、それくらいかな」 「へぇ、そうなんですか。懐かしいものって、つい手を伸ばしちゃいますよね。何を買われたのか、聞いてもいいですか?」 「ええと、そうですね。わかんないかもしれないけど、筋肉少女帯の『エリーゼのために』です」 「あ、いいですね!『戦え! 何を? 人生を!』とか大好きです」 「本当ですか」 思わず前のめりになりそうになるのを、ぎりぎりで抑える。そのアルバムを手にした時、丁度同じ曲が俺の頭に流れていた。目の前の彼女は、そんな俺の様子に気づいていないのか、そのまま話し続ける。 「いいなぁ。私もCDショップ寄れば良かったですね。本屋さんにしか行くつもりなかったから」 「本、お好きなんですか」 「はい。最近は五木寛之にはまっていて」 「『さらばモスクワ愚連隊』いいですよね」 「そうなんです!お兄さんも読まれるんですか?」 「えぇ」 「他にはどなたを?」 「円城塔とか」 「『文字禍』好きです。発想が良いですよね!」 「あと、安部公房」 「『箱男』は強烈でしたね」 「筒井康隆」 「『旅のラゴス』がお気に入りです」 無言で俺は右手を差し出した。彼女は少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔になり、私の手を握った。俺たちは良い友人になれる。なんとなく、そう感じた。 エレベーターの扉が開いたころには、二人はすっかり打ち解けていた。思ったよりも早く開いたような気がしていたが、時計を見ると一時間半以上そこにいたようだ。彼女と別れるのは惜しかったが、今後の約束をするのは躊躇われた。もしかすると彼女は、俺に気を遣っていただけなのかもしれなかった。俺は身長が一八七センチある。昔から小さい子供には怖がられたし、目が合っただけで「睨んだ」と勘違いした同級生もいた。エレベーターという密室空間で、高身長の、しかもおそらく年上の男性と一緒に過ごすというのは、彼女にとっては恐怖になりえたはずだ。意気投合したと思っていたのは、おじさんの恥ずかしい勘違いかもしれない。ビルの出口まで、お互いに無言で進んでいく。 「あの、この後って予定あります?」 「へ?」 驚いて彼女の方を見ると、きまりが悪そうにスカートの裾を触っていた。 「いや、その、もしよければなんですけど、もう少しお話できないかなって。......だめですかね?」 眉を八の字にし、小首をかしげる彼女を見て、ふわりと身体が浮くような気持ちになった。何も言わない俺を見て勘違いしたのか、彼女は両手をパッと顔の前に出し、違う違うというように振りだした。 「あ、えぇと、だめなら大丈夫です。すみません。ちょっと聞いてみただけなので。お気になさらず。本当に。では、失礼しますね」 「ちょっと待って」 その場を去ろうとする彼女の腕を、焦ってつかんでしまった。エアコンで冷えた肌が、俺の熱い掌の中にある。俺は血の気が引いた。彼女も俺の右手を見て、固まっている。慌てて手を離し、言葉を紡いだ。 「そうじゃなくて、えっと、嬉しいです。僕も同じことを考えていたので」 彼女は目を大きく開くと、俺の方へ向き直った。俺は頭をかきながら下手くそな笑みを浮かべる。 「よかったら、この後ご飯でもどうですか」 「もちろん!」 今日一番の笑顔を見せる彼女が、三十路を過ぎた自分には眩しかった。 その後、俺たちは一度別れ、十九時半に近くの駅で待ち合わせることにした。ここ数年は仕事にかかりきりで、自分から女性を食事に誘うことなどめったになかった。あっても、それは仕事上の付き合いでしかない。また、それ以上に、趣味の合う友人を見つけられたことに浮足立ってもいた。もともと外に出る格好をしてはいたのだが、いつもより髪を撫でつけて、服に皺やほこりがついてないか入念にチェックした。そわそわと時計を確認しながら、どうやら少しばかり緊張している自分に、一人苦笑した。 彼女は、待ち合わせ時間の五分ほど前にやってきた。昼間と同じワンピースと、今度は袖の通されたカーディガン。すっと伸びた背筋と、黄色と白の淡い組み合わせは涼しげで、夜の駅の中でも目についた。待っている間も、スマホを見ているわけでもなく、周りを流動する人の群れを観察しているようだ。やがて、俺に気がつくと花が咲くように笑った。月並みな表現しか持ち合わせていない自分が歯がゆい。 「こんばんは!」 「こんばんは」 「さっそく行きましょうか」 彼女に歩幅を合わせて、ゆっくりと歩き出した。 「へぇ~、常盤さんって出版社で働いてらっしゃるんですね」 「大したものじゃありませんよ」 「またまた~! 倍率高いって聞きますよ。どういうことをするんですか? 作家さんに原稿をもらいに行くとか?」 「いや、僕は営業部なので」 「そうなんだ! かっこいいですね」 ウーロン茶を片手に無邪気に笑う。お世辞でも悪い気はしない。彼女は年上の扱いをよくわかっているようだった。 「藤咲さんも、この辺にお住まいなんですか?」 「いえ、私は旅行で来ているので」 「そうなんだ。旅行中にエレベーターが止まるなんて災難でしたね」 「でも、そのおかげで常盤さんと知り合えましたから」 左耳に髪をかけながら、彼女は目を伏せてプルコギを口に運んだ。咀嚼する様子から目が離せない。 「いつお帰りになるんです?」 「明日です」 連絡先を聞かなくては。緊張感が走った。今を逃すと、一生後悔するかもしれない。けれど、僕が意を決して口を開くよりも、彼女の声が耳に届く方が早かった。 「来週からまた授業があるので」 「......学生さんでしたか」 「はい。大学が始まっちゃいます」 その後、割り勘にしようとする彼女をいなしながら支払いを済ませた。店から出る時、彼女に連絡先を交換しないかと聞かれたが、俺はこれを断った。「今後もし、もう一度会うことがあったら、その時は」とか何とか言って、まっすぐに家へ帰った。一人きりの自室に、俺の足音だけが聞こえる。去り際に小さく手を振ってくれた彼女の姿をかき消すように、ビールを流し込んだ。ほろ苦さがじんわりと口内に広がった。 それからしばらく、彼女を思い出すことはなかった。仕事の方も順調で忙しく、ひと回り下の女の子のことを考えている余裕などはなかった。数か月程経ったある日、俺は関西にあるオフィスに出張することになった。お得意先へのプレゼンに助っ人が必要になったそうだ。俺を推してくれた人は、以前教育係としてお世話になった人で、その時の頑張りを覚えてくれていたそうだ。昔から人前で話すことだけは褒められた。それが買われて営業部の所属となったのだが。そのプレゼンも無事に終わり、飲み会も二件目まで参加してしまえば、あとはすることがない。しかも今日は金曜日だ。せっかくなので、近くで飲み直すことにした。 そういえば。ふとある人の顔が浮かんだ。藤咲だ。彼女が住んでいるのは、確かこの辺りではなかっただろうか。県名を聞きはしたものの、詳しい地名などは聞かなかった。どうしても会いたいというわけではなかったが、思い出すと無性に気になってしまい、結局大学のある都市まで足を運ぶことにした。駅前をうろついてみても、わけもなく駅中のエレベーターに乗ってみても、黒く艶めくセミロングを探してしまう。けれど、そこに彼女はいない。それはそうだ。そもそも、県内の大学はそこだけではない。しかも、時計の針はもうすぐ二十三時を指そうとしている。こんな時間に外を出歩いているとも限らない。我にかえった俺は、深く息を吐くと、適当に近くのコンビニに入った。煙草が吸いたい気分だった。コンビニでウィンストンと安いライターを買うと、特にあてもなく建物を眺める。ふと、ある看板が目に留まった。近くのビルの二階にバーがあるらしい。なんとはなしに、その看板の示す先へ、俺は向かうことにした。 そこはオーセンティックバーだった。薄暗い店内に人はまばらで、品の良いジャズバンドの演奏が、ゆったりとした時間の流れを感じさせた。こんな日に飲むにはもってこいだ。カウンターの手前から二番目の席に黙って腰かける。バーテンダーにジン・トニックを注文して、それが届くのを待った。 「お待たせいたしました。ジン・トニックでございます」 顔を上げた俺は、店員の顔を見て息をのんだ。 「藤咲さん」 肩まで伸びた髪を、今日は後ろでまとめていたため、一瞬誰だかわからなかった。目を見開いたままの俺に、彼女は海外の店員のように片目を瞑って見せる。 「どうぞ、ごゆっくり」 そう言うなり、カウンターの奥へ入って行ってしまった。ウインクされたことに気がつくまでたっぷり五秒を要した。空席を一つ挟んで右隣の客に声をかけられる。 「なんだい、あんたカオルちゃんの知り合いかい?」 「カオルちゃん?」 「さっきの店員だよ。べっぴんだよな」 グラスを揺らしながら教えてくれる彼は、常連客だろうか。おおかた五十代というところだ。おでこの付け根が少々後ろに下がり始めている。既に酔っているのか、顔は赤らんでいた。 「恋人はいるのか聞いても、デートのお誘いをしても、うまいことはぐらかされちまうんだよ。な、あんたも気になるんだろ?」 「いやぁ、そういうわけでは」 「飯田さん、飲みすぎですよ」 ドキリとしたところへ止めに入ってくれたのは、年配のバーテンダーだった。グレイヘアーをオールバックにして、丸く細い黒縁眼鏡をかけている。ここの店主だろうか。客は舌打ちをすると、カウンターの方へ直って酒を煽った。助かった。俺はそこでようやくジン・トニックに口をつけた。炭酸が喉を刺激する。この一杯でホテルに戻ろう。酔いの醒めた頭で、そう考えた。 階段を下りて、ビルの裏に入る。埃まみれで薄汚れた壁にもたれると、さっき買った煙草を取り出して火をつけた。ライターの音が室外機とアスファルトの隙間に吸い込まれていく。ゆっくりと煙を肺に入れ込んで、深く息を吐く。見上げた空は随分と狭く、雲に覆われて星は見えなかった。ひたすらに頭の中を空っぽにして、足元に転がった空き缶を見やる。踏みつけられたのか、蹴られたのか。大きくへこみ、中身がこぼれている。腹を殴られ、血反吐を吐く人間を思い浮かべていると、声がかかった。 「一本、くれません?」 彼女だった。カーキ色のMA-1に、黒いスウェット、下は黒いスキニーにグレイのスニーカー。先程結わえていた髪は、ほどかれている。この暗い夜の中に溶けていなくなりそうだ、と俺は思った。無表情のまま、黙って一本手渡す。ついでにライターも渡そうとすると、 「えぇ。火ぃつけてくれないんですか」 とおどけた口調で言われたので、そのままポケットにしまい込んだ。嘘です、嘘です! と慌てる彼女が面白くて、頬が緩みそうになる。引っ込めた手を再び出してやると、彼女はそれを受け取り、おぼつかない手つきでライターをカチカチ鳴らした。紫煙が二本、空へと伸びる。 「吸うの意外ですね」 「俺が?」 「はい。でも、なんか似合います」 「そうかい」 車が通りすぎる音の合間に、互いの息遣いが聞こえた。もう飽きたのか、藤咲は煙草から完全に口を離し、指先で弄んでいる。俺は短くなった吸い殻を捨て、足で火を踏み消した。彼女の手から、所在なさげにしている煙草を取り上げる。 「君には似合ってないよ」 時折近くを通り過ぎる車のヘッドライトが目に刺さる。逆光で見えにくいが、彼女が一拍おいてへらりと笑ったのが分かった。 「コーヒー、飲みたくないですか」 藤咲に連れられ、自販機のある公園まで歩いた。冷たい月明りが俺たちを照らしている。缶コーヒーを片手に、ベンチに腰かけた。二人の間には、人一人余裕で入りそうな隙間が空いている。 「偶然ですか?」 「何が」 「今日、お店にいらっしゃったこと」 「......こっちの台詞だよ」 ちらりと、彼女を盗み見た。ブラックコーヒーを両手で包むように持ち、前かがみに肘をつきながら飲んでいる。その目がこちらを向きそうになったので、慌てて視線をそらす。何もやましいことはないのに、ドギマギしている自分に嫌気がさした。誤魔化すように話し始める。 「仕事で近くまで来てね。せっかくだから、ふらふらと歩いてたんだ。あまりこちらに来ることもないし。時間も時間だから観光する場所なんかなかったけれど。もう帰ろうかな、と思っている時、バーの看板が見えて」 「入ったら私がいた、というわけですね」 「まあね」 コーヒーを一口飲む。やにが占拠していた口内を、黒い液体が流れていく。熱いものが喉を伝っていく感覚がした。 「私も、初めてあのお店に入った時はそんな感じでした。なんとなく看板が目について、入って飲んでたらアルバイト募集してるっていうから。雰囲気も良かったし、悪くないかなって」 「うん。様になってたよ」 「ほんとですか? 嬉しいなぁ」 「お世辞だけどね」 「酷い!」 彼女はけらけらと笑った。二、三他愛のない話を続ける。最近またシャ乱Qのシングルを聴いている話をした辺りで、彼女は何かを思い出したかのようにスマホを取り出した。 「そういえば、連絡先、交換してくださる約束ですよね」 俺は一瞬フリーズした。確かに、前回自分はそんなようなことを言った気がする。二度と会うことはないと思っていたから。けれど、出会ってしまった。しかも、認めたくはないが、自分も少し会いたいと思ってしまった。交換してもいいのだろうか。俺は三十過ぎのおじさんで、この子は大学生だ。一回り以上年が違う。 「あ、ごめんなさい。迷惑でしたか......?」 彼女は、いつかのように小首をかしげた。 「そうじゃない。迷惑ってわけじゃないんだけれど......君はいいの?こんなよく知らないおじさんに連絡先を教えちゃって」 少し不用心ではないだろうか。どう見えているか知らないが、親切そうにしていたって、危ないやつはいるものだ。この子はそれがあまり分かっていないのではないか。俺のこれは余計なお世話などではないはずだ。彼女は、そんな僕をみて、少しむっとした表情をした。 「『知らないおじさん』じゃなくて、常盤さんだから交換したいんですけど」 「その『常盤さん』が『知らないおじさん』だって話なんだけど」 「えぇ~? 難しいなぁ」 彼女はわざと頭の悪そうな声を出した。しばらく考えこむ様子を見せた後、俺の顔を覗き込むような格好になった。街灯に照らされて、少し下がった眉尻が見える。肩のあたりでそろえられた髪が揺れた。かすかにシャンプーの香りが届く。 「だめですか?」 末恐ろしい。いままで彼女はどうやって生きてきたのだろう。詳しく聞きたい気持ちと聞いてはいけない予感がせめぎ合った。俺は溜息をつく。 「......いいよ」 それを聞くなり、彼女はやった~! と無邪気に笑った。もうどうにでもなればいい。俺は観念して、残りのコーヒーをグイっと飲み干した。 東京に戻ってからしばらく、彼女から連絡が来ることはなかった。もちろん、俺からも連絡しなかった。そうでなくても、俺は仕事に、彼女は大学やバイトで忙しいはずで、ちょっとやそっとで会えないような相手のことを考える隙はないはずだった。連絡先を交換したのも、若い女の子特有の気分か何かなのかもしれない。あの子の趣味はどうやら一世代前のものが多いようなので、近くの友人とは話が合わないということも考えられる。そこに、ひょいと俺が現れてしまい、話が出来る友人が出来そうだと舞い上がったのかもしれない。どちらにせよ、そう長くは続かないだろう。そう思うと、肩の力が抜けた。俺は知らない間に、あの子に随分と振り回されているようだ。しばらく出張もないことだし、それほど気にする必要もなさそうに思える。彼女に出会う以前と同じように、俺は仕事に集中した。 「......で、でもその子の彼氏は友達だって言い張るんですって。どう思いますか? 」 ぶつかり合うグラスの音。甲高い笑い声。揚げ物とビールの匂い。その全てが混ざり合う。学生時代は安い居酒屋へ飲みに行ったりもしていたが、こんなに騒がしかっただろうか。何もかもシャットダウンして家に帰ってしまいたい。 「先輩、聞いてます?」 後輩の声で我にかえる。彼女はむすっとした顔で俺を見ていた。 「あぁ、ごめん。ぼーっとしてた」 「もう、酷いですよぉ。酔っちゃったんですか?」 「酔ってるのは新島さんのほうでしょ。ほら、水飲んで、水」 空になった彼女のグラスに水を注ぐ。もうすっかり顔の赤い彼女は、重たそうな瞼を何とか持ち上げながらそれを煽った。今日は新島さんに頼まれて、仕事のことで相談を受けていた。彼女は広告営業で、書店に対して営業をしている俺とは仕事内容が異なるのだが、その部署の先輩に俺に聞くよう言われたらしい。最初は人と会話するときに気を付けていることなどごく基本的な話や、厄介な取引先に当たった場合の対処の仕方やなんかを話していた。それが、いつの間にかプライベートの話になってしまっている。 「常盤先輩だったら、彼女がいるのに仕事先の女の人と食事に行ったりします?」 ついに自分の方までボールが来てしまった。どう打ち返したものだか。 「そうだね。打合せとか、何か理由があるなら行くけれど、そういうのがないなら行かないかな。心配させたくもないし」 「ですよねー」 満足そうににんまり笑っている。うまい事ヒットしたようだ。 「携帯はどうですか?見せてって言われたら見せます?」 「うーん。言ってくれたら見せるけど、俺が見たいって言うことはないだろうな」 「っぽいですね。私なら見せたくないけど、でも彼氏のは見たいかもなー。じゃあ、勝手に見られちゃうのは?」 「勝手に見られるのは嫌だなぁ。でも、それだけ不安にさせてるってことなら、しょうがない気もするね」 「じゃあ、気づいても怒らないんですか?」 「『見ないでよ、エッチ!』くらいは言うかもだけど、強くは怒らないかな。勘違いさせるようなことしなきゃいい話だもの」 「いいなぁ。常盤先輩の彼女さんはきっと幸せ者ですね」 「どうだろうね」 一瞬、昔の嫌な記憶が蘇った。栗色の癖っ毛。ワインレッドの口紅。かき消すように、残っていただし巻き卵を放り込む。なぜだか、左手の辺りに視線を感じた。 「もうそろそろお開きにしない? 明日も仕事だし」 「そうですね」 新島さんは目を伏せたままグラスの水を流し込んだ。伝票をもって立ち上がる。彼女には半分より少し少なめの金額を伝え、残りは俺が払った。店を出ると、一瞬で顔に当たる空気が冷たくなる。まるでそこに透明な膜があるかのようだ。 「あの、常盤先輩」 「何?」 駅の手前で呼び止められた。振り向くと新島さんは肩にかけた鞄を両手で握りしめている。 「また、お誘いしてもいいですか?」 若干声が震えている気がする。俺は浅く息をついた。 「また相談があったらね」 軽く手を振って前を向く。ここからは、俺と彼女は反対方向だ。俺は、振り返らずに歩いた。帰り道、広告営業をしている同期に連絡をした。 「新島さん、仕事について困っていることがあるらしい。今日相談された。何かあれば助けてやってほしい」 送信してすぐに既読がついた。おそらく同僚もスマホを眺めていたのだろう。そのまま歩いていると、ピロンと通知が鳴る。 「わかった。でもなんでお前? 俺に言いにくかったのかな......?」 「そんなことないと思うよ」 スマホをポケットにしまい、歩くことに専念した。曇っていて、月は見えなかった。 年末も間近にせまり、春頃の販促フェアの企画を吟味している頃、彼女からのメッセージは届いた。 「近々東京に行くんですけど、会いませんか?」 仕事から帰宅してだらだらとネットサーフィンをしていた俺は、通知画面だけで文面を確認し、とりあえず既読を付けずにスマホを置いた。これはどうしたものか。なんとなくスマホと距離をおいてベットに腰かける。すっかり忘れているものと思っていたが、そうでもないようだ。逡巡したのち、俺は十五分ほどおいてから短く「いいよ」とだけ返した。立ち上がってベランダに出る。冷たい風が頬を叩き、体の芯から冷える感覚がした。すっかり夜は冷え込むようになっている。今年は関東でも大雪になるそうだ。そうなれば、ニュース番組ではキャスターたちが、長靴での滑りにくい歩き方を大真面目にお知らせするのだろう。雪国出身の自分から見ると、なんだかおかしな光景だ。近くのコンビニでも、クリスマスケーキの予約開始を知らせるポスターが随分前から貼られている。気の早い店では電飾まで施されているほどだ。まさか。そこで一つの可能性が頭をよぎる。クリスマスを一緒に過ごそうなどと言い出しはしないだろうな。それはまずい。部屋に戻り、メッセージを付け足す。 「タイミングが合えばね」 鞄から手帳を取り出し、イブと当日の予定を確認した。十二月二十五日は重要な会議があるので、二十四日は残業をすることになるだろう。二十六日は忘年会なので、その準備もある。ほっと息をつく。決定的なことは避けたかった。彼女のことは嫌いではないし、こんなことを考えるなんて自意識過剰な気もするけれど、一応の線引きはしておくべきだろう。五分ほどして返事が返ってくる。 「二十七日なんですけど、大丈夫そうですか?」 見事に何の予定もない日だった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。キャップを空けながらスマホを操作した。 「その日なら今のところ大丈夫」 今度はすぐに既読がつき、簡単なメッセージと可愛らしいスタンプが返ってきた。自分も無難なスタンプを送り返す。二口ほど飲んだミネラルウォーターを冷蔵庫に戻すと、その日はいつもより早めに入眠した。 池袋駅東口を出てすぐに振り返ると、大きな掌の中に母子が収まっている像がある。俺たちはその前で落ち合うことになっていた。待ち合わせは二十時。地下一階にある梟の像の前には俺のように誰かを待っている人々が多くいたが、母子像の前にはほとんどいなかった。それもそのはず、外気温は三度、天候は曇り。今年はホワイトクリスマスにこそならなかったものの、気象予報士は近々雪になるだろうと告げていた。吐く息は白い。コートのポケットに忍ばせたカイロを手で揉んだ。近くの喫茶店や本屋など、屋内を提案すればよかった。池袋駅で待ち合わせようという話になった時、寒さのことなど一切考慮せず、ネット検索で上の方に出てきた記事を参考に場所を決めてしまったのがいけなかった。彼女も彼女で西口公園に集合しようなどと言っていたので、しょうがなかったとも言える。若い女の子をあそこで待たせたくはなかった。 「常盤さん」 後ろから声が聞こえて振り返る。今日はリクルートスーツにベージュのコートを羽織っていた。ストッキングは履いているのだろうが、ひざ丈のスカートとパンプスが寒々しい。 「また先を越されちゃいましたね」 「十年早いよ」 へへへと笑うと、彼女はわざとらしく二の腕をさすった。 「ここ寒いんで、早く駅に入っちゃいましょ」 「あ、戻るの?」 「駅から直で入れるとこなんですよ」 そういえば、行きたいところがあると言っていた。俺も早く温まりたかったので、彼女についてその場を後にした。 池袋駅の西側にある、駅と直結のビルの四階にそれはあった。本屋さんと喫茶店をかけ合わせたようなお店で、店内は六つのエリアに分かれている。シンプルでありながら隅々までのこだわりを感じさせる内装で、落ち着いた雰囲気の場所だった。藤咲さんは、まっすぐ入口の左手に向かう。「シークレットな本屋さん」という名前のスペースだった。棚にある本にはすべてカバーがかけられ、書籍の表紙はおろか、タイトルも作者もわからないようになっている。簡単な紹介文と値段だけが記載されていた。 「ここに来たかったんです」 「なるほどね」 題名をあえて隠して本を売る書茶房。噂には聞いていたが、実際に来るのは初めてだ。付き添いで来るぐらいの気持ちだったが、実際の本棚を目にしてからは、自分の気分に会いそうな本を探すのに夢中になってしまった。それぞれレジを済ませると、奥にあるラウンジに向かった。フカフカのソファーに向かい合って腰を下ろす。 「今日インターンに行ってきたんですよ」 「ああ、それでスーツなんだ」 「そうです、そうです。それで、せっかくだしちょこっとだけ観光しようかなって」 本当は西口公園も見てみたかったんですけどね、などと言いながらコーヒーをすする。大学生だということは知っていても、学年や年齢は知らないことを思い出した。就活を始めるということは三年生だろうか。インターンシップはうちの会社でも行われているが、今年は俺の担当ではないので頭になかった。 「こっちで就職するの?」 「うーん。そう決めたわけじゃないんですけど、本社がこっちにあるので。できれば関西で働きたいですけどね」 「ご実家そっちのほうだったっけ」 「そうなんです。まぁ、それにインターンは数行っといたほうがいいかなって」 「それも大事だね」 「それにしても、クリスマスが終わると一気に年末感出ますよね」 「そうだね。でも、ハロウィン終わってすぐのクリスマスへの移り変わり方は毎年ちょっと笑っちゃうな。切り替え早っ! って」 「百円ショップとかまさにそうですよね」 「年末は紅白とか見るの?」 「見ますよ! 椎名林檎とか出ますからね」 「あぁ、聴いてそうだよね、あなた」 「どういう意味なんですかそれ」 ひとしきり談笑し、自然と会話が止まったところで、ずっと気になっていた疑問を口にした。 「なんで俺を呼んだの?」 この場所なら、特別一人だと来にくいということもなさそうだ。わざわざおじさんを誘う必要はないように思える。そんな風に考えてしまう俺はひねくれているだろうか。藤咲は背中を丸め、両手で包み込むようにカップを持っている。机の上を見たままで、彼女は答えた。 「最初は一人で来ようと思ったんですけど、思い出したんですよ。おばあちゃんが、『遠くにおる友達とは会える時に会っとけ』って言ってたの」 コーヒーの湯気は、もうほとんど見えなくなっている。液面で俺の顔が揺れた。 「俺はお友達というわけか」 「え、違うんですか?」 さも当然のように言ってのける。頭が痛い。そこまで大した意味はないのかもしれない。俺はわざととぼけてみせた。 「いや、もう大親友」 「それは言いすぎ」 笑った顔を見てほっとする。俺は何と返してほしかったのだろう。こんなことははっきりさせなくていい。そう思った。 それ以来、関西に出張がある際は、彼女のいるあのバーによることにした。出張はそう頻繁にあるわけではないし、いつも二人で話すわけではなかったけれど、タイミングが合う時は食事に行くようになった。それでも、それ以外の時は全く連絡を交わすことはない。彼女が大学を卒業すれば、もう会うこともないのかもしれない。つかず離れずの関係性は心地よかったが、二人の結びつきはそれだけ薄く弱々しいものにも思えた。それならそれでいいと自分に言い聞かせつつ、寂しくなる自分に蓋をした。 二年後の三月、久しぶりに藤咲からメッセージが届いた。東京で就職が決まったそうだ。てっきり彼女は関西で就職するものと思っていたので、驚いた。俺は、少々迷いながらも、お祝いをさせてほしいと提案した。彼女からは、スヌーピーが躍るスタンプが返ってきた。自分から彼女を食事に誘ったのは、あのエレベーターで出会った日以来だった。 「久しぶりですね」 入社式を終えたころ、俺と藤咲は焼肉屋で会うことになった。もちろん、彼女の卒業と就職を祝うためである。 「東京の生活には慣れた?」 「全然ですよ。大学生の時も都市の人の多さに驚いたけど、もう別格。どこに格納されてるんだろうってくらい」 「格納って」 彼女は時々変わった表現をする。もっとも、彼女に限らず若い子はみんなそうなのかもしれないが。 彼女の勤め先は俺の働く会社とそう遠くなく、会おうと思えばいつでも会える距離にあるようだった。東京には行きたいところが色々ある、と彼女は目を輝かせていた。 「どこに行きたいの?」 「まずは、寄生虫博物館!」 「一個目そこなんだ」 「行ってみたいんですよぉ」 相変わらず選ぶ物が人と少しずれている。けれど、彼女のそんなところも俺にとっては好ましかった。 「そうだ、はい、これ」 おもむろに、用意していた紙袋を取り出す。ぱちくり瞬きをしている彼女にそれを手渡した。 「お祝いの品。つまらんこともないものですが」 「え、いいんですか。ありがとうございます! うわー、なんだろう」 「開けてみて」 中には、贈答用のチョコレートのような箱が入っている。そこに眠るのは、ボールペンだ。シルバーのペン先に、鈍く光る黒色の持ち手、端の方に掘られたK.Fのイニシャル。随分悩んだが、結局はちょっと良いボールペンを渡すというところに落ち着いた。形の残るものをあげるという所に多少不安はあったけれど、これならあっても困るということはないだろう。彼女は黙ってそれを見つめていた。 「やっぱりつまんなかった?」 「いいえ、とっても嬉しいです! ありがとうございます、用意してくださって」 「良かった」 彼女はすぐににっこり微笑んだ。ほっと安堵の息をもらす。 「大切にしますね」 「藤咲さん、ありがとう。ごめんね、急に頼んだのに」 「いいよ、このくらい。早く終わらせちゃおう」 私は同僚の内村くんの残業を手伝っていた。彼は優秀で仕事が早いので、同期の中では彼だけが特別に、ある企画の手伝いを任されていたのだ。そのプレゼンが直前に迫っていた。今日はそのための資料の用意が必要だったらしく、申し訳なさそうに私に手伝いを求めてきた。本当は帰りたかったが、先輩方も帰る中、一人で残業をする姿を見るのは忍びなく、同じ部署のよしみで手伝いを引き受けたのだった。今恩を売れば今後返してくれるかもしれないという打算が働かなかったとは言い切れない。 「やっと終わったー」 「お疲れさま。ほんとありがとう」 「いいってことよ」 小一時間ほどして、ようやく全員分の資料をまとめることができた。回した首がポキポキ音を立てる。オフィスに残っているのは、私たち二人だけだった。 「それで、この後なんだけどさ、よかったらご飯でもどう? お礼におごるよ」 提案を受け、一瞬動きが止まる。けれど、それを悟られないように、私は表情を作り直し、目の前で手を合わせた。 「ごめん。約束があるんだよね」 「そっか。じゃ、しょうがないね。また明日」 「うん。また明日」 内村くんと別れて家路につく。本当は約束などしていなかった。空を見上げる。雲の端が月にかかっていた。 私には叔父がいる。母親の年の離れた弟で、私は重敏くんと呼んでいた。親戚の集まりなどがあるときは台所で忙しくしている母の代わりに遊んでくれていた。私は叔父によく懐いた。小学生の頃、友達に好きな子はいるのかと尋ねられて、 「重敏くん!」 と言ったらしい。低学年の間はそれで許されたが、高学年になってくるとそれは通用しなくなっていった。 「そうじゃなくて、クラスの子で好きな人いないの?」 「叔父さんが本気で好きってこと? きも」 「言いたくないからそう言ってるだけだよね」 自分が重敏くんを好きな気持ちと、同級生が聞きたがっている「好き」はどうやら違うらしい、とそのときようやく気がついた。けれど、私は同じ学年の男の子たちに興味はなかった。大人で博識な重敏くんと比べると、どうしても子供っぽいとしか思えず、友達以上の好きを感じることはなかった。 中学生の頃、仲が良かった男子に告白されたことがあった。放課後の教室でいつものように男女数人で喋っていたとき、自然と何人かが席を外し、二人きりになった。なんとなくいつもと違う空気感に私が戸惑っていると、緊張した面持ちで「好きだ」と言われた。何と言っていいかわからず、「ありがとう」とだけ返すと、その男の子は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。次の日から、私は彼の「彼女」になっていた。後から聞くと、友人はみな彼が私を好きだと知っていて、わざと二人きりにしたのだそうだ。私の知らないところで、自分に関わる決定がなされていたという事実に薄気味悪さを感じた。その後、一ヶ月ほどして彼とは別れた。 「お前、本当は俺のこと好きじゃないだろ」 確かに彼のことは好きだった。でも、それは友達としての好きであって、彼の言う「好き」とはやっぱり違うのだった。その一件があってから、私はその子と距離を置くようになった。クラスメイトの恋バナについて行けず、恋愛小説や恋愛映画を試してみたりもした。作品としては楽しめるが、他の女子のようにキュンキュンする、共感するといった感情はなく、自分とは別の世界の出来事であるかのように感じていた。恋愛に関して、私と友人との間には見えない壁があるかのようだった。 アロマンティック・アセクシャルという言葉を知ったのは、高校に入ってからだった。高校生になってからも、度々重敏くんとお茶していたので、恋人はいないのか、と心配されたのだ。 「俺は構わんが、おじさんとばかりいていいのか?」 中学生の頃の話と、恋愛する気になれないことを重敏くんに話した。一つずつ言葉にしていくと、思っていたより自分が不安を感じていたことに気づいた。最後の方は震える手を叔父に悟られないように握りしめて隠していた。静かに話を聞いてくれていた重敏くんは、私が話し終わると、少し考えてから性的指向の話をしてくれた。「アロマンティック・アセクシャル」というラベルが自分に当てはまるかはよくわからなかったが、恋愛感情のない人もいるのだと知って安心した。なにより、重敏くんもそういう意味で人を好きになることがないとわかったのは大きかった。より一層、私の心は彼に支えられることとなった。 そんな彼も、私が大学生二年の頃に婚約者ができた。その話を聞いた時はかなりショックを受けたが、本人曰く、 「立場上あの家と結びつきがあると都合が良かったんでな。政略結婚ってやつだ」 ということらしい。合理主義の重敏くんらしくてほっとした。けれど、その時から私は重敏くんではなく「叔父さん」と呼ぶようになった。会う回数もだんだん減らしていった。叔父さんが忙しかったのもあるけれど、奥さんに遠慮する気持ちもあったのかもしれない。 そんな時に出会ったのが、常盤さんだった。多分、私は無意識のうちに「第二の叔父さん」を求めていた。常盤さんは叔父とは全く似ていなかったけれど、なんとなく近いものを感じた。それは大人ゆえの落ち着きとか、自分には手を出して来なさそうという安心感から来るものだと考えている。連絡先を交換してもらえなかった時はもう二度と会えないかと思ったので、バーで再会したときは嬉しかった。その日の一週間前、叔父は婚約者と正式に籍を入れていた。何かが変わるかもと吸った煙草は、苦くておいしいと思えなかった。それ以来煙草は吸ってない。 大学を卒業する時、叔父は私に万年筆を贈ってくれた。黒を基調としたデザインに、シルバーのペン先。重みがあり、太い持ち手の端には、S.Fと刻まれている。恩師からのプレゼントだそうだ。 「いただいていいんですか、そんな大切なもの」 「いいんだよ。俺は苗字が変わるんでな。お前が使ってくれ」 日常的に万年筆を使うことはなかったが、私はそれをお守りとしていつも持ち歩いた。叔父がついてくれているようで、心強かった。 だから、常盤さんからそっくりなデザインのボールペンを貰ったときは驚いた。同時に、不思議な繋がりを感じた。実際は偶然なのだろうけれど。常盤さんに貰ったペンは、無くしたくなくて家で使うことにした。 常盤さんは面白い人だ。この間一緒に歩いていた時、子供連れの親子が前を歩いていた。抱きかかえられた男の子と目が合うと、常盤さんは笑顔で手を振った。男の子も嬉しそうに振り返す。しばらく行先が同じだったので、何度もそれを繰り返していた。 「気に入られちゃったな」 なんて笑いながら。電車やなんかでも、赤ちゃんと目が合うと変顔をしてしまうらしい。 「ほら、目が合うと何か反応しなくちゃいけない気がするじゃない? 赤ちゃん相手に会釈も違うしさ」 その理屈はよくわからなかったが、ようはサービス精神が旺盛ということなのだろう。 信号待ちをしているとき、無言で拳を二つ私の前に出してきたことがあった。どうやら選べということらしい。向かって右側を指さすと、そちらの手を開く。中には何も入っていなかった。 「じゃあ、こっちは? 」 と反対側の手を指すと、同じようにその手を開く。中には何も入っていない。なんなんだ、と拍子抜けしていると、無言のまま掌を広げて待てのポーズ。その手で私が最初に指定した手を指さすと、握り直して意味ありげに振る。表情も手つきも、まるで手品師のようだ。私がその手に注目していることを確認し、拳を開いた。でも、中にはやっぱり何も入っていない。 「なんですかそれ」 こらえきれずに笑ってしまう。それを見て、常盤さんは満足げに微笑んでいた。 常盤さんは感情を素直に表す人だ。もうすぐ誕生日だということをちらっと聞いた時、普段お世話になっているお礼の印に、ちょっとしたお菓子を送った。近くのケーキ屋さんで買ったクッキーなのだが、常盤さんはすごく喜んでくれた。 「えー、いいの? ありがとう。嬉しいなぁ。用意してくれたんだ。こういうクッキーが一番おいしいよね。え、つまらないものですが? 気にしなくていいよ、そんなの。準備してくれたって事実だけで嬉しいもの」 常盤さんは実家が貧乏だったようで、誕生日プレゼントを両親に貰ったことがないのだという。誕生日ケーキも用意できず、代わりにドーナツにロウソクを置いていたそうだ。 「ドーナツの真ん中に穴があるでしょ?そこにロウソクを置くのよ。これがまた上手いこと置けないんだな。しかも、そのロウソクときたら仏壇に供えるやつでね。ほら、あの白いやつ。あれをひょいッと取って来てね、新品のやつを。で、置くわけ。でも、直径小さいからなかなか置けなくて、倒れちゃうのよ、何回も。火ぃ点けるのに危ないから、最終的にこう、父親が持って、それを俺が吹き消すの。もったいないからっつって、翌日それが供えられたりね。これが仏教かって......何の話だっけ?」 とにかく、常盤さんは幼少期の経験から、人に誕生日を祝われるとすごく嬉しいのだそうだ。私にはない感覚だ。面白い。 「よかったら、カオルちゃんの誕生日もお祝いさせてね」 いつの間にか、常盤さんから「カオルちゃん」と呼ばれるようになっていた。それだけ私に心を開いてくれているようで、単純に嬉しい。けれど、私が「つとむさん」と呼ぶのは違うような気がして、ずっと常盤さんのまま変えずにいた。 「藤咲さん、あの人って彼氏?」 入社して半年、ようやく仕事にも慣れてきた。同僚ともそこそこに打ち解け、ランチを一緒にとる友人もいる。今日は最近新しくできたというパスタのお店に来ていた。 「あ、それ私も気になる」 「どの人?」 「ほら、この間会社の近くまで迎えに来てた人! あの後二人でご飯食べに行ったんでしょ?」 「あぁ、常盤さんか」 カルボナーラをフォークに巻き付けながらその時の記憶を引っ張り出す。一度だけ、偶然会社の近くまで来たというので、出口付近まで迎えに来てもらったことがあった。その時のことを言っているのだろう。 「内村くんの誘いを断ったってのも聞いたよー。『約束があって......』って彼のことじゃないの? 内村くん、『振られた』って嘆いてたよ」 「行ったけど。でも、彼氏じゃない」 「え、そうなの? でも絶対気があるって! そうじゃなきゃあんなことしないもん」 「そうだよね。可愛らしくかけよって行くとこ見てたんだから」 「そんなことしてないよ」 ベーコンにフォークを刺す手に力が入った。彼女らに私たちの一体何が分かるというのか。 「結構かっこいい人だったよね」 「うんうん。実は昨日スーパーで見かけてさ。見たことある顔だけど誰だったかなぁ、と思ってたら、目が合って。笑って会釈してくれた」 「それ、困ってたんじゃないの?」 「いや、優しさだって」 私をよそに談笑は進む。男と女が二人でいるとすぐに話がそちらに向かう。私はこれが昔から苦手だった。そういう人たちもいる、と割り切れるようになったのは大人になったのか、諦めが上手になったのか。私に恋愛感情がないことを、叔父以外の誰かに知ってもらおうとは思わなかった。私が知っている。それで十分だと思っていた。ただ、常盤さんとの関係を恋仲で片付けられるのはどうも納得がいかなかった。 とはいえ、常盤さんにわざわざ同僚の目につく場所まで来てもらったのは、そう勘違いしてもらうためでもあった。内村くんに仕事と関係のない話を振られることはなくなり、ついでに恋人の有無を尋ねられることも無くなった。内村くんは明るくて話も面白い人だったけれど、中学生の時付き合っていた男の子のことを思い出してしまい、どうもダメだった。自意識過剰なのかもしれないとは思ったが、それでも男性を警戒する気持ちを抑えることは出来なかった。 恋愛関係になることを拒むと、それまでの仲はなかったことになる。これは私が学生の時に学んだことだ。どうせそうなってしまうなら、最初から仲良くならなければいい。もちろん、仲良くなる男性が皆自分に好意を向けるわけじゃないことは理解していた。けれど、やっぱりどこかで無理が生じる。高校生の時、隣の席の瀬端くんと仲が良くなった。同じ深夜アニメを見ており、意気投合したのだ。それから、一、二回一緒に帰ることがあった。数日後、友人から 「カオルちゃん、瀬端と付き合ってんの?」 と訊かれた。付き合っていないと返すと、 「でも一緒に帰ってたじゃん」 と不思議そうな顔をされた。私は驚いた。ただ一緒に道を歩くだけで、恋人のように見えるらしい。彼とは、私は一切そんなつもりはなかった。 「なっちゃんと私も一緒に帰るじゃん。私たちは付き合ってるように見えるの?」 「いや、それはないでしょ。女同士なんだから」 どうやらそういうものらしい。その後、男子と二人で帰るということはなかった。男子のと距離を意識的に一定に保つようになったのは、その頃からだったと思う。 そんな私が常盤さんにだけは心を許していたのは、年上だからということもあるけれど、一番は彼が恋愛色を見せないようにしていたからだろう。彼は好きなタイプを聞かなかった。好きな芸能人を聞かなかった。少しでも身体が触れることはなかった。二件目以降に誘うことはなかった。おそらく、自分がおじさんであることに引け目を感じていたのだと思う。フレンドリーである一方で、こちらから近づこうとしても、簡単には届かせない雰囲気を醸し出していた。私にはそれがありがたかった。彼との間にある、居心地の良い関係性を失いたくはなかったからだ。 けれど、常盤さんが私を「カオルちゃん」と呼ぶようになってから、明らかな変化があった。距離感が近くなったのだ。物理的ではなく、心理的に。髪を切ったり、メイクを変えたりしたら、すぐに気づいてくれた。 「なんか雰囲気違うね? いや、可愛いよ。キュート。よく似合ってる」 私が仕事でミスをした時には、優しく話を聞いてくれた。 「それは良くなかったね。難しいよね、仕事。でも、今回へました分、今後気を付けたらいいんだよ。大丈夫、大丈夫。偉い人も昔はみんなへっぽこなミスしてるんだから。......多分」 冗談っぽい口調に隠した好意に、気づかない私ではなかった。けれど、彼は決定的なことは言わない。年齢がネックなのか、単に臆病なのか。あるいは、娘や妹のように思ってくれいるだけなのか、私にはわからなかった。どうあれ、彼から今の関係をがらりと崩すことはなさそうだった。あくまでも、慎重に、ゆっくりと歩を進めている。私はそれに気づいていながら、何もしなかった。そのつもりがないことを知られれば、彼はいなくなってしまう気がした。確信に触れてしまったが最後、確実に二人の関係は変わってしまう。どちらに転ぶにしたって。 上京してから、初めて冬の気配がし始めた。十一月の中頃、私と常盤さんは仕事帰りにラーメンを食べに来ている。この頃は一、二ヵ月に一回程度会うようになっていた。彼から誘われることもたまにはあったが、大抵は私から誘っていた。担々麺を平らげ、餃子をつついていた常盤さんが、思い出したように口を開く。 「来月は忙しくて後半まで会えないと思う。下手したら年明けになるかも」 「え、そうなんですか」 残念さを前面に出した私の顔を見て、常盤さんは苦笑した。 「早めに決めとけば空けられると思うけど」 「じゃあ、そうしましょ!」 スマホのカレンダーを見ながら、都合の悪い曜日・日にちを互いに言っていく。思いのほか噛み合わず、二十五日と二十六日しか余らなかった。常盤さんが私を方をうかがう。 「俺はどっちでもいいけど、あなたどう?」 正直どちらでもよかった。私は腕を組んでうなる。 「うーん。二十五日かな」 年末も近いことだし、どちらかと言えば早い方がいいだろう。何気なく言ったが、常盤さんは少し意外そうだった。 「え、いいの?」 「何がですか」 「クリスマス、俺と過ごして」 クリスマス。そうか、クリスマス。完全に抜けていた。どうしよう。咄嗟に不機嫌そうな顔を作る。 「嫌なんです?」 「違う違う!嫌じゃないよ。そうじゃなくて、俺と過ごしちゃっていいのって」 常盤さんは両手を振って弁明した。必死な常盤さんの姿がおかしくて、声を上げて笑ってしまう。 「じゃあ、二十六日にしましょう」 「あぁ、オッケー。空けとくよ」 手を下ろし、そう言った常盤さんの声は少し寂しそうだった。私は、彼と目を合わせないように味噌ラーメンの汁を蓮華ですくった。 十二月二十六日は曇りで、星は一つも見えなかった。もとより、夜も明るい東京で星を拝むのは難しいのだが。冷たいナイフのような風が吹き抜けた。 「うわ、さっびぃ」 常盤さんはコートのポケットに両手をつっこみ、マフラーに顔をうずめた。大げさなくらい首をすくめている。 「うわ、常盤さんジャミラみたいですよ」 「オギャー」 「なんですか、それ」 「今わの際に万国旗を汚すジャミラ」 「いや、わからんわ」 冬の時期、有楽町駅前の東京交通会館から大手町仲通りまでは、街路樹を用いてイルミネーションが行われている。クリスマスは過ぎたけれど、「せっかくだから」という常盤さんの提案に乗って、駅から歩いてきた。 「いやぁ、クリスマス過ぎると急に年末感が出るよね」 「それ去年も言ってましたよ」 「そうだっけ」 「うわ、老化ですか。怖いなぁ」 「もう僕おじいちゃんだからね」 すっかり馴染んだこの応酬も、つい一、二年前にはなかったものだ。このシャンパンゴールドの絢爛も、常盤さんがいなかったら、私は見に来ることはなかっただろう。眩い光の並木に目を細めた。 「多分来年も言うんでしょうね、そうやって」 「来年」という言葉を聞いて、なぜだか俺は心臓が痛くなった。彼女にとって何気ない一言だったのだろうが、彼女が見る来年に俺っもいるのらしい。俺は、それがどうしようもなく嬉しかった。思いがけず、温かいものがこみ上げる。あぁ、俺は本当にこの人のことが、 「好きだな」 「え?」 はっとして口を押さえる。感極まって、ポロっと口に出してしまった。どうやって誤魔化すべきか迷っていると、カオルは怪訝な目で俺を見た。 「なんでタイピング練習?」 「違う! それは寿司打。俺は好きだって......!」 言い終わった瞬間、しまったと思った。彼女と目が合う。俺が立ち止まると、彼女も一歩前で止まった。左手で顔を覆い、うなだれる。完全にやってしまった。彼女の顔が見られない。言うつもりはなかった。少なくとも、こんなにかっこ悪い言い方をするつもりは。カオルは何も言わないでいる。ただ、つむじの辺りに視線を感じた。もう、こうなったら腹をくくるしかない。呼吸を整えると、覚悟を決めて顔を上げた。彼女の目をまっすぐ見る。 「あなたが好きです。付き合ってください」 心臓はどくどくと脈打っていた。一方で、体は芯から冷たくなっていくのを感じた。彼女の唇が音を漏らすまでの数秒間が、やけに長く感じた。 ついにこの日が来てしまった。常盤さんの真剣な瞳を見て、ある直観が頭をよぎった。断ったら二度と会わない気だ、この人。なぜだかわからないが、根拠のないその予想は一瞬間に頭の中を占拠し、私は恐ろしくなった。この人との縁を失いたくなかった。 「はい」 気づけば、私の唇はそう発音していた。一拍遅れて、常盤さんの目が見開かれる。 「本当に?」 固まった筋肉を無理やり動かして口角を上げた。私はいつものように笑えているだろうか。 「もう一回言わせるんですか?」 わざとらしく首を傾げると、彼はぎこちない笑顔を作ってみせた。 「いや。ははは」 その日、どうやって家まで帰ったか、私は覚えていない。気がつくと朝だった。昨日のことは夢だったろうか、と期待するも、スマホの通知にそれはうち砕かれる。 「昨日はありがとう。改めて、よろしく」 迷いに迷って、結局「こちらこそ!」と返した。スマホをベットに放り投げる。何が「!」だ。深く息をついた。 ずるい。私はずるい。ベットの中で考える。私は告白を断らなかった。自分に嫌気がさす。相手に同じ気持ちを返せやしないのに。わかっていながら、好意があるふりをした。答えるつもりのない感情を、相手には持ち続けてほしいだなんて、わがままな考えが自分の中にある。それがたまらなく嫌だった。 「あー、酷いやつだな、あたしは」 何も考えないように、目をつむった。 付き合ってからしばらくは、特に大きな変化はなかった。常盤さんも私も、態度を変えることはしなかった。付き合うまでと同じように、少しずつ変化は訪れた。常盤さんから「会おう」と言われる頻度が増えた。自然と会う回数は増え、互いの家に招くようになり、合鍵を交換した。二、三週間に一度はどちらかの家に泊まるようになった。私の家には、常盤さんのものが増えていった。歯ブラシ、着替え、読み止しの本、飲み切れなかったお酒、エトセトラ、エトセトラ。私の生活のどこを見ても常盤さんの影がちらついた。 「カオルちゃんも俺んちに荷物置いといたらいいのよ。どうせまた来るんだし」 私の家に物を増やすたび、常盤さんはそう言った。私は笑って誤魔化すことしかできなかった。 「恋人」になってから、常盤さんは新たな一面を見せるようになった。彼の家には生活の跡がありありと見えた。パソコン周りのコードはぐちゃぐちゃで、四角い角を丸く掃くタイプであることがうかがわれた。それと、顔を洗うのがへたくそだ。朝洗面所から帰ってくる彼のスウェットには、いつも湖の模様が出来ている。ほかにも、氷の入った麦茶をマグカップで飲んでいたり、左右違う柄の靴下を平気で履いていたりもした。お酒に酔ってふにゃふにゃになる姿も、付き合う以前は見たことのないものだった。居酒屋の個室でハイボールを飲んでいた時、とろけるような目で話してくれたことがある。 「俺、告白した時さ、すげぇ焦ったんだよね。あそこで言うつもりなかったから。なんなら、一生言わないつもりだったのに、ついぽろーっと喋っちゃって......。もし断られたら、もう二度と飯とか誘ってくれなくなるでしょ」 そんなことはない。私はずっと変わらない。きっと、いなくなるのはあなたの方だ。 「だから、OKって返ってきたとき、泣きそうだった。一緒にいてくれてありがとね」 そう言って目を細める常盤さんの眼差しは優しくて、心臓が締め付けられる思いだった。私はアルコールと一緒に言葉を呑み込むしかなかった。 時折、彼の瞳に情熱がこもるのを感じた。それは、一緒に見ていたテレビをすっと消した時、食事中に目が合った時、残業で遅くなった私に、先に家に来ていた彼が「おかえり」と迎え入れる時、色々だった。そんな時、私はいつもその熱に気づかないふりをした。それを知っているのかいないのか、彼も何も言わなかった。 一度だけ、私が明確に彼を拒んだことがあった。金曜日の夜、その日は私の家で常盤さんがご飯を作ってくれた。肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、豆腐と油揚げの味噌汁、白ごはん。前に「豚肉でしか肉じゃがを作ったことがない」と言っていた彼が、今回牛肉を使っていたのは、私の好みに合わせてくれたのだろう。 「めっちゃおいしい」 「そりゃよかった」 「手際いいですよね」 「一人暮らしも長いですから」 皿洗いは私が担当した。どちらかが手料理を振舞う時は、自然といつも振舞われた方が皿を洗うことになっていた。テレビでは、雛段芸人が司会に弄ばれ、抗議の声をあげているところだった。お茶の間に笑い声が響く。皿を洗い終わり、流し台下の収納スペースに取り付けたタオルで手を拭いていた時、すっと視界に二本の腕が入り込んだ。 「......動けないんですけど」 「知ってる」 常盤さんに背後から抱きしめられた。右腕は私の両腕の前に、左腕は腰に巻き付いている。私の顔のすぐ横に彼の頭があった。首元に息がかかる。彼とは二十センチ以上身長が違うため、私はすっぽりと彼の中に収まってしまった。彼の顔を見ると、彼もまた私を見ていた。ゆっくりと顔が近づく。 「え」 私は咄嗟にそれを避けてしまった。驚いた彼と目が合う。体の温度が下がるのを感じた。 こつん おでこに向かって軽く頭突きをする。私を捕まえていた腕が緩んだ。その隙に私はその場を離れた。 「トイレ行ってくるね」 キスをよけた瞬間の、常盤さんの傷ついた表情が、寝る前になっても頭を離れなかった。それ以来、彼から私に触れられることはなかった。手が少し当たるだけでも、ピクッと反応するようになった。そんな彼を見て、私は申し訳ないと思いつつも、自分から何か行動することはなかった。 常盤さんは優しいから、私がしてほしくないことは一切しなかった。私はそれに甘えていた。付き合い始めて数か月が経っても、私たちは同じ布団で眠らなかった。彼は、私をとても大切にしてくれた。何でもないように、普段通り過ごす常盤さんの目に熱が潜むのを感じるたび、私は彼に対して罪悪感を抱えていた。徐々に、私は不誠実なのではないか、と責めるようになっていった。それでも、彼と二度と会えなくなるのは嫌だった。なかなか寝付けず、夜中に目を覚ますことが増えていく。顔色は青くなり、目元が腫れることもあった。それらを隠すために、私はメイクを厚くせざるをえなかった。何をするにも疲れやすくなり、活字を読むのが辛くなった。以前好きだった音楽もただのノイズにしか聞こえなくなり、「忙しい」と嘘をついてデートを断り始めた。ただ唯一、仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済んで楽だった。進んで仕事を引き受け、残業をすることが増えていった。 最近、恋人の様子がおかしい。あんなに明るかった彼女は、俺といるときは疲れ切ったような表情をしている。口数が減り、目が合わなくなり、お誘いも断られるようになった。悩み事があるのかと尋ねても、作り笑いで首を横に振られるだけだった。 「大丈夫」 そう言われてしまうと、その言葉を信じるしかなかった。恋人の俺にも言えないことがあるのか、とどす黒い感情が腹の中に渦巻く。けれど、嫌われるのが怖くて深く踏み込むことはできなかった。仕事が忙しいのか、帰りが随分遅くなっているようだ。そんな彼女のために何かできないかと、俺は久しぶりに彼女の家に行った。浴槽に湯をはり、アスパラと鶏肉を炒める。もう随分と暖かくなってきたが、栄養が取れるように豚汁を作った。確か彼女の好物でもあったはずだ。しかし、料理が全て出来上がり、お風呂が沸いても彼女は帰ってこなかった。出来た料理にラップかけて、お椀によそってあったお味噌汁を鍋に戻す。玄関の扉が開く音がしたのは、二十三時を回ってからだった。 「ただいまぁ」 間延びした声が聞こえる。いつもの彼女らしくない。ゆっくりと玄関へ向かうと、眠たそうな目でふらふらと揺れている彼女がいた。 「おかえり。遅かったね」 「あれ、なんでぇ?」 首が座っていない。家に着いて緊張の糸が切れたのか、彼女はばたりと前に倒れこんだ。慌ててそれを受け止める。外気に交じってアルコールの匂いがした。そのまま彼女は寝てしまった。あまり強くないのにここまで飲むなんて。ここまでどうやって帰ってきたのか不思議なくらいだ。倒れこんだ拍子に、彼女の鞄が床に落ち、中身がばらまかれた。ひとまず彼女をベットまで連れていく。ジャケットを脱がせ、鑑の前にあったメイク落としで化粧をとってやる。よほど眠たいのか、その間に彼女が目を覚ますことはなかった。玄関に戻り、ぶちまけられた鞄の中身を拾う。何があって何がないのかよくわからなかったが、目につくものはすべて拾い上げた。その中に、見覚えのある黒いペンがあった。卒業祝いに俺が贈ったボールペンだ。彼女が毎日使うこの鞄に入っていたということは、それだけよく使ってくれているということだろうか。何気なくキャップを回す。すると、ペン先からインクが漏れた。慌てて辺りを見渡す。ミニテーブルの下にティッシュを見つけ、それを二枚取った。インクをぬぐおうとペン先を見ると、それはボールペンではなく、万年筆だった。軸を回してみると、S.Fの文字が目に入る。俺の知らないイニシャルだ。ファミリーネームがFということは、ご家族に貰ったものなのかもしれない。そう思って自分を落ち着けた。鞄に適当にしまい、彼女の部屋に置きに行く。何気なくパソコンのある机の上を見ると、ペン立ての中にも黒いペンが見えた。K.Fのイニシャルが光る。俺はそっとドアを閉めると、書置きを残して彼女の家を後にした。家路に着く俺の頭の中にあったのは、元カノの香蓮のことだった。 香蓮と付き合い始めたのは、大学生の時。同じサークルに所属していた彼女のことが、俺は気になっていた。美人だった香蓮はマドンナ的存在で、彼女が参加する飲み会には、サークルとは関係のないやつが交じったりもしていた。周りの連中が次々と玉砕していく中、臆病だった俺は下心を隠したまま、良き友人のポジションに収まった。ファミレスで彼氏との仲を相談されて、遅くまで話を聞いたこともあった。社会人一年目の秋、夜中に電話がかかってきた。彼氏と喧嘩して、同棲している家を飛び出してきたらしい。俺は香蓮の気が済むまでコンビニの前で話をした。翌週には俺たちが付き合うことになった。 相談を受けている時から薄々気づいていたが、香蓮は重い女性だった。恋人になってからは、他の女の子とご飯に行けなくなった。男女混合の飲み会も、断ることが多かった。時には、男友達との食事も女の子と会うのではないかと疑われた。けれど、俺にとってそれはさほど苦ではなかった。束縛されるのは、それだけ愛されているのだと考えていたから。行きたい場所があれば連れていき、欲しいものがあれば貯金を切り崩すこともあった。彼女を不安にさせないように、最善を尽くしたつもりた。俺は香蓮を愛していた。 けれど、付き合いだしてから三年ほど経った頃、たびたび彼女の帰りが遅くなることがあった。最初は気にしないようにしていたが、あまりにも遅い時間に帰ってくるので、ついに我慢ならなくなった。彼女に問いただすと、会社の同期に、俺との仲を相談していたらしい。その同期は男だった。浮気ではないと言ってはいたが、俺は許せなかった。散々喧嘩した挙句、彼女は出ていった。 「あんたは優しすぎるんだよ。重たいの!」 机の引き出しに隠していた指輪は、用済みになった。それ以降、俺に恋人はいないままだった。 朝起きると、スーツのままベットで寝ていた。メイクは落とされている。家に帰って来てからの記憶がなかった。机の上を見ると、男性らしい字でメモが残されていた。 「ご飯作っときました。メイクは落としたけど、お風呂の湯は抜いてないよ。頑張り過ぎは体に毒だからね ときわ」 台所に行くと、二人分の食事が用意されていた。私と食べるために、待っていてくれたのだろうか。豚汁を温め、ご飯をよそう。アスパラと鶏肉の炒め物は胡椒が効いていておいしかった。豚汁で、目覚め切っていない身体が温まる。具だくさんの味噌汁を口に運びながら、私は静かに泣いた。悲しくても、涙が唾液と混ざっても、彼の料理はおいしかった。彼に本当のことを話そう。初めてそう思った。 その週の木曜日、カオルから連絡があった。 「この間はありがとうございました。久しぶりにご飯に行きませんか?」 どこか他人行儀なその文言に、嫌な予感がした。 「オッケー。早めに仕事切り上げるね」 予感が的中しないことを、いるかどうかもわからない神様に祈った。 仕事を終え、指定された居酒屋の個室に入ると、彼女はもう先に来ていた。なんだか少しやつれているようにも見える。 「やぁ」 挨拶しつつ、彼女の前の席に座る。元気?とはとても聞けなかった。 「こんばんは」 微笑む顔が痛々しい。テーブルの上で重ねられた手を見ると、爪が薄紫色をしていた。目線に気づいたのか、彼女は爪を隠すように手を握る。 「今日は仕事いいの?」 「はい」 会話が続かない。必死に脳みそを回転させたが、ちょうどいい話題は見つからなかった。俺の手は所在なくおしぼりを弄ぶ。彼女が沈黙を破ったのは、注文したウーロン茶とビールが目の前に運ばれてきてからだった。 「常盤さん、私、話したいことがあるんです」 ひゅ、と息が止まる。顔の周りの空気が二度ほど下がった気がした。 「なぁに?」 茶化していい雰囲気ではないのに、わざとらしくとぼけたような言い方しかできない。そんな自分が嫌で仕方なかった。追手から身を隠す逃亡者のように息をひそめて、次の言葉を待った。そんな俺をまっすぐ見据え、彼女は口を開く。 「実は私、恋愛感情がわからないんです」 「え?」 その言葉は、俺が想像していたものと全く違っていた。 「どういうこと?」 彼女は堰を切ったように話し始めた。恋愛について、友人の話が理解できなかったこと。初めて付き合った男の子と上手くいかなかったこと。そして、叔父の存在に救われていたこと。 「だから、辛くって。あなたと同じ感情を返せないことが。あなたと一緒にいたい。でも、それは常盤さんが私に向ける感情とは別物なの。辛いんです、私」 予想外の告白に、俺は呆然とする。 「じゃあ、最近様子がおかしかったのは......」 「そのことでずっと悩んでいて、常盤さんには言えなくて。苦しかったんです。常盤さん、優しいから」 「......叔父さんの代わりだったんだ、俺は」 カオルは何も言わない。というより、言葉を探しているのかもしれなかった。返事を待たずに俺は続ける。 「男として見てなかったってこと? 」 一瞬目を泳がせてから、彼女は無言で頷いた。俺の頭は真っ白になる。 「なにそれ」 口がカラカラに乾いている。開いた口をどう動かせばいいか、わからなかった。 「じゃあ、今まで俺と過ごした時間はなんだったの? 付き合ってくれたのは? 俺のこと、なんとも思ってなかったのかよ」 「違う!」 下を向いていた彼女が、勢いよく顔を上げた。その表情は苦痛に歪んでいる。 「そうじゃない、そうじゃないんです。ただ、私は、私は......」 震えながら言う彼女は、今にも泣きそうだった。はっと我にかえる。 「ごめん、強い言い方して」 「いえ......大丈夫です。ごめんなさい、私こそ」 「ちょっと、頭冷やしてくるね」 そう言うなり俺は立ち上がり、店の外に出た。五月の初めだというのに、空気が生ぬるくて気持ちが悪かった。夜なのだからもっと冷えればよいのに、と何に対してかわからない怒りがわいてくる。それは、この状況を受け入れきれない自分への苛立ちでもあった。 暖簾をくぐり、店内に戻る。席に着くとき、真っ白な顔をした彼女と目が合った。安心させるように笑ったつもりだったが、口を動かしただけにしか見えなかったかもしれない。そわそわと足をゆすってしまう。自分から切り出さなければならない。大丈夫だよ。恋愛感情なんて無くても、俺はあなたを愛している。そう言わなければ。しかし、口を開くよりも早く、彼女の声が耳に届いた。 「別れましょう」 愕然とする。頭が回らない。彼女の視線が俺を貫いた。 「え、なんで」 戸惑う俺に彼女は淡々と告げる。 「今日で会うのは最後にしましょう」 「待ってよ、なんでそういうことになるわけ?」 「常盤さんは優しいから、私なんかに時間を使ってちゃいけない。あなたを幸せにできる人がきっといるはずなんです」 「俺が重いから? 付き合いきれなくなった?」 「あなたには幸せになってほしい。私では、あなたと幸せにはなれない」 「答えてよ、俺の質問に」 その口調に気圧されてか、彼女は動揺し、口ごもった。一瞬の隙をついて、反撃に出る。 「だいたい、なんで君がそんなこと決めるんだよ。さっき一緒にいたいって言ってくれたじゃん。一緒にいればいいでしょ。幸せだよ、俺。それがなんで、なんで別れることになるの。俺の幸せを否定しないでよ」 俺はなんでを繰り返した。どうにかして彼女を引き留めようと、理屈をこねくりまわす。よく回る舌が、こんなところで発揮されるのが辛かった。彼女は黙ってそれを聞いている。その目を見て、気がついた。彼女は俺ではなく、どこか遠くを見ているようだった。もう曲げる気はないだろう。目が熱くなる。俺は半ば泣きながら喋り続けた。 「ねぇ、他の誰よりもあなたを大切にするよ。幸せにできるかわからないけど、誰よりあなたのことを想ってるから......だから、俺といてよ」 後半の方は涙が抑えられなかった。いい歳したおじさんが、みっともなく別れを拒んでいる。俺はそれでもかまわなかった。彼女が考えを変えてくれるなら。 「ごめんなさい」 静かにそう告げると、彼女は五千円札と合鍵を置いて店を出ていった。追いかけることはしなかった。誰も手をつけなかった料理を胃の中に押し込んで、俺も帰宅した。曇っていて星も月も何も見えない夜だった。土砂降りになればいいのに。そう呟いても、どこからも返事は返ってこなかった。 その日から、彼女とは連絡が取れなくなった。俺も積極的にはメッセージを送らなかった。何をしてもダメだという気がした。幸い、やることは大いにあった。今まで以上に、俺は仕事に没頭した。家と職場を往復する日が続く。家にいると、何をしていてもカオルの顔がちらついた。彼女と付き合う前の俺は、どうやって生活していたのだろう。休日はどう過ごしていたのだろうか。それさえも思い出せなくなっていた。 十日ほど経ってから、俺はふと思い立って部屋の掃除を始めた。カオルとの思い出の品を片付けようと思ったのだ。彼女のために買ったマグカップ、箸、スリッパ、歯ブラシ。それらを見るたびに辛かった。ついでに部屋中を綺麗にしてやろう。俺はやけになっていた。そういえば、香蓮と別れたときもこんな風に大掃除をしたっけ。手始めにテレビの裏の埃を取っていると、当時の記憶が蘇った。あいつはテレビの後ろやベットと壁の間など、わかりにくいところにわざと口紅やヘアゴムを忍ばせていた。香蓮は俺を重いと罵ったが、あいつも大概だ。俺はカオルの痕跡を探した。脱衣所のかご、本棚、ベッドの下、枕の中。案の定、カオルは何も置いてはいなかった。それどころか、彼女が自分で俺の家に持ち込んだものは一つもなかった。あるのは、俺が彼女のために用意したものだけ。奥歯を噛みしめながら探し続ける。唯一見つかったのは、冷凍庫に残ったカップアイスだけだった。 「年中いつでもアイスはおいしいんだよ」 とか何とか言ってたっけ。カオルが家に来なくなってから、ずっとそのままにしていた。蓋を開けて、乱暴に中身をすくう。無表情でそれを口に入れた。口の中が甘ったるくて冷たい。嗚咽しながら、俺はアイスをかきこんだ。バニラの香りが一人の部屋に漂った。 五月の半ばは、夏を間近に感じる季節だ。気の早い蝉たちはもう鳴き出している。土から出たばかりの蝉たちは、コンクリートジャングルを見て何を思うのだろうか。そんなことを考えながら、私は駅構内のスターバックスでコーヒーを飲んでいた。結婚以来疎遠になっている叔父と、そこで一年ぶりに会う約束をしていた。 「やぁ。大きくなったな」 「お久しぶりです」 最後に会った時から、叔父はちっとも変わっていなかった。黒い無地のワイシャツに、グレーのスラックス。仕事中はオールバックにしている髪を、今は下ろしている。前髪が目に当たってうざったそうだ。六月にしては気温の高い中、シャツの袖はまくられることなく、きっちりボタンまで留められている。暑くないのかと聞くと、トレンチコートを着てこようかと思ったなどと返され、私は閉口した。軽い世間話が続く。母親が猫を飼いたいらしいこと、でも父親は動物嫌いで許してくれないこと。最近読んだ小説が面白くなくてびっくりしたこと、スイパラに行ってみたい話など、色々な話をした。結婚相手のことは、私も叔父も口に出さなかった。 「どうだ、仕事は上手くいっているか」 「えぇ、まあ」 「じゃあ、仕事以外のことだな。上手くいってないのは」 反射的に叔父の顔を見る。叔父はにやりと笑った。しまった。かまをかけられた。 「......お見通しですね」 「顔に書いてあるぞ」 相変わらず人の感情の機微に敏感な人だ。この人の前では隠し事ができない。昔からずっとそうだった。 「あぁ、別に話せってわけじゃない。言いたくないなら言うな。聞きたくない」 「......」 「いやぁ、今日はいい天気だなー」 「それはへたくそすぎるでしょ」 目を合わせて笑う。私は、叔父になら話してもいいと思った。ゆっくりと事の顛末を話す。熱くならないように、つとめて冷静に。自分のことも常盤さんのことも、誤解が少ないように客観的に言葉にした。 「そんなことしてたのか」 半ば呆れたような顔をする。目が合わせられず、コーヒーとカップの境に視線をやった。 「言ってくれればいつでも会ってやるのに......。まあでも、お前は俺に懐きすぎているきらいがあったからな。叔父離れは必要だと姉さんとも話してたんだが」 「え、なにそれ。初耳なんですけど」 「うん。初めて言った」 叔父は肘をつき、掌を口の前で合わせて拝むようなポーズで考えこんだ。シャーロキアンでもないくせに。出所のよくわからない毒を心の中で吐く。少しして叔父は手を離し、顎の下で指を組み直した。 「......別れる必要はあったか?」 「へ?」 「いや、ふと思ったんだがな。そいつはお前と同じ感情を返してほしがっていたのか?」 思ってもみない方向から言葉が飛んできて、一瞬固まってしまう。なんとか頭を回して、しどろもどろになりながら答えた。 「そりゃ、そうでしょ。付き合うってそういうことなんじゃないの?」 「まぁ、一般的にはな」 「相手から見て、自分と同じ感情を返してくれないってなったら、一緒にいられなくなるでしょ。私なんかより、自分と同じように愛してくれる人といた方がずっといいって」 「ほら、そこなんだよ」 「なにが?」 「お前、その彼氏とちゃんと話してないだろ」 「話したよ」 「じゃあ、お前が話を聞いてないんだ」 「なんでそんなことが言えるの?」 「お前の話の中には、『ときわさん』がこう思うはずだ、とか『普通はこうだ』なんてのは出てくるが、実際にそいつがどう思ってるのかは触れられていない」 言葉が出てこなかった。そんな私をよそに、叔父は淡々と話し続ける。 「彼のためとは言うが、そいつはお前と別れたくなさそうだったんだろ。頭の中のそいつの声はよく聞いてるみたいだが、現実にいる彼の言葉を聞いてやったか?」 私は呆然とした。叔父は、もうすっかり湯気のあがらなくなったコーヒーを、くいと飲みほした。 「まあ、お前のしたいようにすればいいさ。こうでないといけないなんてことはないんだから」 渋谷駅から大通りに沿って東側へ十分ほど歩くと、右手に新宿御苑が見える。大名屋敷の跡地に建てられたらしいが、詳しいことはわからない。ただ、広さが約一四四エーカーと聞いて、大学生の俺は「百エーカーの森って意外と狭いんだな」と思った。そんな新宿御苑の反対側へ進み、何個目かの角を右に曲がるとその店はある。カオルと出会う以前、よく顔を出していたバーだ。立地も雰囲気も変わっていなかったが、「open」の札は最近書き直された跡があった。 「いらっしゃい。ってあら、つとむちゃんじゃないの!」 「久しぶり、ママ」 俺より七つほど年上の彼が、ここの店主だ。馴染みのある顔を見て、ほっとする。知らない間に気が張っていたようだ。適当な席に座り、ハイボールを頼んだ。繁盛しているわけでもなく、閑古鳥が鳴くわけでもないこの店は居心地が良かった。よくここを訪ねていた当時のことを思い出しながら、一人静かに酒を飲む。他の客が帰るのを見届けてから、ママは俺に話しかけた。 「随分ご無沙汰だったじゃない?」 「まあね」 「元気にやってるの?」 「それなりに」 ママの目がどこを見ているのか、手に取るように分かった。今、俺は酷い顔をしている。カオルのことを相談するべきか迷っていると、ママはしびれを切らしたように言い放った。 「もう、さっさと話しちゃいなさい! どうせまた変な女につかまったんでしょ。聞いてあげるわよ」 カウンターに頬杖をついて、半目になるママ。その動きがコミカルで可笑しかった。 「付き合った彼女に、自分には恋愛感情がないって言われたんだ。俺のこと、そういう目で見てなかったって。同じ気持ちを返せなくて辛いんだって。で、別れようって言われた」 ママは、深いため息をもらす。 「なんでその子はあんたと付き合ったのか聞いた? 」 「聞いてない。でも、俺と一緒にいたいって気持ちは嘘じゃないって」 「私には理解できないわね」 ママはきっぱりとそう言い切った。二人して黙り込む。 「でも、いるわよねぇ、そういう子。流行りなのかしら」 「こういう子に相談されたりするの」 「しないわよ。そういう輩はここへは来ないでしょ。話にのぼることがあるの。大抵若い子だわ。『友達が恋バナしてくれないー』とか、『好きな人が恋愛しない人だったー』とか。しょうがないから諦めなさいって言うけどね」 では、付き合った人が恋をしない人だった場合はどうすればよいのだろう。 「やっぱり、どうしようもないのかな」 「そうねぇ。女の子は『彼のこと好きかわからなくなった』なんて言うこともあるけど、それとは違うわけでしょう?」 「そうだと思う」 俺はどこで間違ったのだろうか。最初から、カオルとも距離を保つべきだったのか。でも、近づいてきたのは彼女の方だ。 「俺が重たかったのかな......」 俺はカオルが大好きだし、これからもずっと一緒にいると思っていた。けれど、それが彼女にとって重荷だったのかもしれない。黙り込んでしまった俺を、ママが見つめる気配がする。ややあって、彼は俺の顔を覗き込んだ。 「ねぇ、あたしがあんたのこと好きっていったらどうする?」 「え」 突然のことに身体がこわばる。今、店内には俺とママしかいない。 「ばかね。例えばの話よ」 「あぁ、なんだ。びっくりした」 「で、どうすんの?」 「こ、断る。付き合いはしない」 「そうでしょうね。それはなんで?」 「好きじゃないから?」 「なんで疑問形なのよ。それで? その後はどうするわけ?」 「その後?」 「断った後よ。告白される前と同じように店に通える?」 「通えない。二度と来られなくなる」 「そうね。それが当然の反応だわ。じゃあ、あんたが入れる飲み屋がここしかないとしたら、どう?」 「......どういうこと?」 「いいから答えなさい。家で飲むのも禁止よ」 俺は想像力を働かせる。飲みはしたいが、気まずくて店内にはいられない。家でも飲めないとなると、禁酒するしかない。かといって、それができるかと言えば違う問題だった。答えを出せず、押し黙ってしまう。そんな俺を見て、ママは右の眉尻を上げた。 「っていうのが、あんたの彼女が置かれてる状況なんじゃないかしら」 「えぇ?」 いまいち話がつかめなかった。本当にそういうことだろうか。 「その子は馴染みの飲み屋をもっと増やすべきなのよ。あんたが気に病む必要はないわ」 穏やかに、母親のように彼は言い聞かせる。納得はいかなかったが、不思議と言葉は頭に入ってきた。 「じゃあ、もう二度と店主はその客に会えないの?」 ママは、困ったように天井のあたりを見つめた。そして、静かに返す。 「それは、あんたの頑張りしだいかしらね」 空になったグラスを回す。氷とグラスのぶつかる音が、店内に響いた。 自室で横になってからも、ママの言葉が頭を離れなかった。酔っているはずなのに、妙に眼が冴えて寝付けない。電気をつけ、本を読もうと棚に視線をやると、一冊の小説のタイトルが目に入った。一昨年の年末、カオルと行った池袋の書店で買った本だった。手に取り、パラパラと中をめくる。年末年始の帰省中に一度読んだきりだった内容が蘇ってくる。けっこう好きな話だった。もっと若い頃に出会っていたら、読書暦が変わっていたかもしれない。けれど、普段なら絶対に買わないタイトルのつけ方だとも思った。あの売り方でなかったら、一生読むことはなかっただろう。パタリと本を閉じ、棚に戻す。どうしてもカオルのことが思い出されて、集中できそうになかった。 読書は諦め、ベランダに出て煙草を吸うことにした。年に数回しか吸わない俺は、煙草を机の引き出しの中にしまっていた。手に当たった箱を振ると、残り数本分の重みしかない。また買っておかなくては。そう思ったところで、ライターが見当たらないことに気がついた。電気をつけてもう一度引き出しを開ける。一応、通勤に使う鞄の中やベッドの下まで探したが、どこにもなかった。 俺は電気を消し、再びベッドに寝転がった。きっと、カオルの家に置き忘れたのだ。そうだ、そんな気がする。別に、ライターぐらい、またコンビニで買ってもいい。暑くてよけていた毛布を上までかけ直す。けれどやっぱり寝つけはせず、諦めた俺は瞼を開けたまま、思考が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返すのに身を任せていた。 ピンポーン 六月になって最初の土曜日、自室でくつろいでいると、突然インターフォンがなった。気象庁の宣言通り、どうやら梅雨に入ったようで、外はざんざん降りの大雨だった。昼間なのに随分と暗い。こんな日に誰だろうか。宅配も頼んでいなければ、家に遊びに来るような友人もいない。両親も、いくら過保護だと言ったって、なんの相談もなしに娘の家を訪ねたりはしないだろう。思い当たる人物は一人しかいなかった。 ピンポーン また鳴った。どうしていいかわからず、居留守を決め込む。私は息を殺して訪問者が去るのを待った。 ピンポーン ピンポーン 四回目のチャイムが鳴り終わると、それ以降は何の音もしなくなった。雨音だけが耳に入る。諦めたのだろうか。恐る恐る立ち上がり、そっと音を立てないように玄関に近づいた。そして、ドアについた覗き穴から様子を伺おうとした時、つまみが音を立てて回った。 ガチャリ 外から施錠が解除される。驚いて後ずさると、ドアが開き、背の高い人物が現れた。 「はぁい」 常盤さんだった。いつか観た映画の敵役のように挨拶するなり、部屋の中に入ってくる。彼はこちらを向いたまま、後ろ手で鍵を閉めた。 「ダメじゃない、ちゃんとチェーンロックかけとかなきゃ。一人暮らしでしょ? 危ないよ」 「......なんで? 何で来たの?」 震えながら声を絞り出す私に、常盤さんはこともなげに返した。 「合鍵、返しに来たのよ」 言うなり、右手を前に差し出される。 「はい、どーぞ」 「あぁ......ごめん」 私はおずおずと両手を出した。彼に渡したままだった合鍵を手渡される。お揃いで買ったキーホルダーはつけっぱなしだった。呆けたようにその鍵を見つめる。頭上から、咳払いする音が聞こえた。 「悪いんだけどさ、ここに来るまでに濡れちゃって......タオル貸してくんない?」 言葉通り、彼はずぶ濡れだった。髪の毛からしずくがとめどなく滴っている。はじかれたように風呂場までタオルを取りに行った。戻ってくると、常盤さんは靴下を脱いでスリッパを履くところだった。 「ありがとう! できればあったかいお茶もほしいんだけど」 「えぇ?」 わざわざ持ってきたのだろう、見たことのない柄のスリッパだった。怪訝な顔の私を見て、眉尻を下げて笑う。 「すぐ帰るから、ね?」 ため息が出た。目の前で手を合わせ、可愛らしくお願いする彼は、本当に私より年上なのだろうか。 「一杯だけですよ」 諦めて部屋に入っていく。後ろから、自分のものより大きな足音が続いた。 二人分のほうじ茶を運んでくると、常盤さんはミニテーブルに向かい、胡坐をかいていた。迷いつつも、私はその向かい側に座る。 「ごめんね、急に。ちゃんと話がしたくって」 私は何も言わずにお茶をすすった。常盤さんはそんな私の様子をうかがっているようだった。マグカップの縁を指でなぞりながら尋ねる。 「カオルちゃんは、どうして俺と付き合ってくれたの?」 どうしても視線が泳いでしまう。慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口にしていく。 「お付き合いしないと、常盤さんが離れて行っちゃうと思ったから」 常盤さんは目を閉じた。眉間に皺が寄っている。そして静かにその目を開けると、穏やかに言葉を返した。 「確かに、あの時の俺はもしかしたらそうしてたかもしれない。少なくとも、それまでと同じ関係ではいられなかっただろうね」 「うん」 「それが怖かったんだ?」 私は無言でうなずいた。それを見た常盤さんは悲し気に笑ってみせる。 「俺のこと、全然好きじゃなかった?」 「そんなこと、ない。好きだった。人として」 「それは、友達を好きな気持ちと似てる?」 「......そうかもしんない」 言いながら、学生時代の友人のことを思い出してみた。みっちゃん、えみちゃん、まことくん......。でも、どれも少し違うような気がした。 「どっちかというと、家族みたいな感じの好きだった」 「そっかぁ」 常盤さんは優しくうなずいてくれる。私に向けていた視線を手元に落としてから、小さな子に語りかけるように話した。 「俺はね、カオルちゃんのこと、女の子として好きだったよ。もちろん今もだけど。手をつないだり、ハグをしたり、それ以上のことをしたいとも思った。......でも、それはしなくちゃいけないわけじゃなかったんだ。ただあなたと一緒にいられれば良かった。それで俺は幸せだった。同じ気持ちを返してくれるかどうかなんて、考えたこともなかったよ」 体の力が抜けていく。常盤さんの言葉は、しっとりと染み込むように私の中に入ってきた。 「カオルちゃんが一人で悩んで、苦しんでたこと、気づけなくてごめんね。わからなくて、躊躇ってたんだ。そこまで踏み込んでいいものかどうか。情けない話だよ、ほんと」 常盤さんは力なく笑うと、すっかり冷めたほうじ茶を一気に飲み干した。 「俺が言いたかったのはそんだけ。お邪魔しちゃってごめんね。ごちそーさま」 言いながら立ち上がり、常盤さんはそのまま部屋を出ていった。彼のいなくなった部屋は随分がらんとしていた。しばらく動けないでいると、またドアが開いた。彼が顔をのぞかせる。 「そうそう、俺の物とかあったら、捨てといてください。あと、ちゃんと鍵閉めなね」 パタリと扉が閉まると、今度こそ一人きりになった。冷たくなったマグカップは、もう私の指先を温めてはくれない。涙が出ないことが、何より悲しかった。 姿を見せない蝉の声が耳に張り付く。いつも同じ家の塀の上でくつろいでいる猫が、今日はいない。額に滲む汗をTシャツの袖でぬぐいながら、俺は影を選んで歩いていた。目指すのはCDショップ。通い過ぎて店の陳列を暗記してしまった場所。大通り脇の細い道を入り、二つ目の角を右に抜けるのが近道だ。くたびれた小さなビルの自動じゃないドアをくぐり、エレベーターに向かう。周りには俺以外の客は見えなかった。上矢印のボタンを押し、数字が小さくなるのを待つ。ポーンと音が鳴り、扉が開いた。誰もいないその箱に乗り込む。階層を指定して扉が閉まるのを待っていると、女性客が駆け寄ってくるのが見えた。俺は「開」のボタンを押す。その客が入り切るのを確認して、「閉」のボタンを押した。二人を乗せたエレベーターは、黙って上へ向かう。見るともなく斜め上を見つめていると、隣から声が聞こえた。 「よかったら、開くまでお話しませんか?」 そう言うと、女性は小さく微笑む。それは俺がこの世で一番好きな顔だった。 「短すぎるよ」 扉上のランプが、静かに「3」の数字を示していた。
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