四季 ビガレ 仁木(にき)有機(ゆうき)の場合 あの日、彼女はドラムを叩いていた。ナンバーガールの『透明少女』を、命を燃やして叩いていた。大学祭のチープな舞台の上で、彼女だけが輝いていた。僕はその鮮やかに動く四肢と乳白色の頬に、ひと目惚れをした。 「ねえ、今日早めに閉めね?」 「え? いやヤバいでしょ」 「いいじゃん、店長いないんだし」 ハイボールをマドラーでかき混ぜながら、同僚たちの会話を盗み聞きしていた。 「早く上がってさ、カラオケとか行こうよ。前に行くって言ってくれたじゃん」 「いやそれは飲んでたから、今日は行かない」 「えー、ノリ悪ー」 ぴんぽーん。 厨房に呼び出し音が響く。 「仁木君、提供のついでに三卓さんオーダーよろしくー」 「あ、はい」 僕は言われた通り、ハイボール二杯を運び、三番テーブルに駆け付けた。 「ちょっと、さっきから遅いよ」 「大変申し訳ございません」 僕は平謝りをして、厨房に生ビールとレモンサワーの注文を通した。 厨房の暖簾をくぐると、同僚がさっきと同じ場所で同じような内容の話をしていた。 「俺、ダーツとか結構うまいよ。やったことある?」 「えー、ないかも」 「あ、じゃあダーツで決まりね? はいこれもう決定ね?」 「ちょっと待ってなんでそうなるのー」 男に誘われている女は一向に首を縦にふらないが、一方でさっきから向かい合ってお互いの指先を絡ませている。レモンサワーを作るためには、その絡み合う手の先にある冷蔵庫を開けなければならない。意を決してその取っ手を握ろうと手を伸ばした。 「うわ」 「あ、ごめん」 レモンサワーを作ることはできたが、ふたりから軽蔑の眼差しを受けてしまった。ちなみに、僕を「仁木君」と呼び「うわ」と声を上げた彼は、僕より三歳年下だ。 「んなこと気にするとかダサいっすよー」 いつか一度だけ出席したバイトの飲み会で、彼にそんなことを言われたのを思い出した。 その日の閉店時間は、彼の独断で一時間繰り上げられた。これがもし店長にバレたら、怒られるのは彼ではなく、バイトリーダーである僕だ。 出入口の施錠を済ませ、家路につく。彼らはダーツができるバーへと向かったらしい。 やるせない気持ちが腹の底へ溜まっていく。自分は彼らの視界に端から入っているはずもないのに、普段より少し帰り支度に時間をかけてしまった。さっき、手が絡み合う光景を見たときも、男女のなまめかしさを感じて高揚してしまっていた。 夜食を買いに入ったコンビニで、涙の代わりに小便を体外に排出する。吐き気を催すほどには自分を否定できない。 イヤホンで『透明少女』を聞く。 ラインの通知音で一瞬音楽が消える。 高屋(たかや)早(さ)彩(あや)からだった。 三年前に見た大学祭の舞台で、ドラムを叩いていた彼女。彼女の方から連絡があるということは、要件はひとつしかない。それを想起しただけで、下腹部に力が入ってしまう。 〈明日、?楽部だけど〉 僕は即座に参加の旨を返信した。 初めて「倶楽部」の誘いを受けた頃、僕は就活失敗したてのフリーターで、高屋早彩は銀行員だった。 唐突に彼女から連絡がきた驚きは、そのとき見つけた自分の部屋の天井の染みと一緒に、いまでもおぼえている。 共通の知人を辿って手に入れた彼女のラインのアイコンは、実家で飼っているらしかったゴールデンレトリバーで、ふたりのトーク画面は、僕からの一方的な好意で埋まっていた。その野性的だか無機質だか分からない画面に、彼女からの着信が記録されたという事実だけで僕は泣きそうになってしまい、電話に出るより先にその画面をスクショした。 「もしもし、仁木君?」彼女の声は落ち着いていた。 「はい、あの、に、仁木です」 「......」 「あ、す、すみません、急に」 「いや急なのはこっちだけど」 「あ、すみません」 「まあいいや、仁木君って、私のこと好きだよね?」 思ってもみなかった問いかけに、一瞬思考が停止した。 「え、黙らないでよ。好きだよね?」 「あ、はい! 好きです! なんかあの、すごく僕にとっては、なんて言うか、好きだってことが、鳥が空を飛ぶみたいな、そんな感じで。ちょっと黙ってしまいました、すみません! 好きです!」 「......飛ばない鳥もいるけど」 「そうでした! じゃああの、ダチョウのとき以外は、好きってことです!」 「ペンギンも」 「あそっか! あとヤンバルクイナとかもか!」 「それは知らない」 「あ、すみません」 このとき僕の瞳孔は、平時の何倍にも膨張していた。 「私のこと好きならさ、私とやりたい?」 「......は?」 「あ、興味ないならいいや、じゃ」 「え、いや、やりたいです!」 「......なにを?」 「いや、それは、僕に聞かれても」 「セックス」 「......あ」 「もう一回言おうか?」彼女はもう一度その四文字を言ってくれた。 あのとき、観衆の注目を浴びながら必死でドラムを叩いていた彼女が、僕に向かって、その四文字を言った。しかもその四文字のなかには、僕という存在が内包されていた。その事実だけで涙や汗や鼻血などが、一気に噴き出す。 「要件はそれだけ、じゃ」 そう言って、電話は切れた。僕はその日、どうやって風呂に入り、布団に潜って、次の日の朝を迎えたのかおぼえていない。 日時と場所は後日伝えられ、僕と彼女はセックスをすることになった。 待ち合わせたホテルの部屋は思っていたよりも簡素で、気品すら感じられた。セックスをする部屋というのはもっといかがわしいものかと思っていたが、これがラブホテルではなく一般的なビジネスホテルだと知らされたときは、無知を悟られまいと取り繕った。しかしそれより意外だったのは、部屋にもうひとり男がいたことだった。 「由井(ゆい)さん、同じ銀行の先輩。私のセフレ」 そう紹介された男は、僕よりも二つか三つしか違わないはずなのに、分不相応な大人びた雰囲気を醸し、その健康的な身体をグレーのスーツで留めるかのように着こなしていた。なによりも印象的だったのは、目だった。決して大きくはないひと重の瞳は、こちらを見透かしてくるような自信を湛えている。ただでさえこの状況に狼狽えている僕は、思わずあとずさりをしてしまう。 「......なんでいるの?」 「彼が言い出しっぺだから」 由井は微笑んで軽く手を上げた。 えっとね、と言った高屋早彩の口から、いまに至るまでの経緯が語られた。高屋早彩と由井の関係のこと、ある日由井から間男的役割がほしいと提案があったこと、それに高屋早彩がちょうどいい奴がいると言って僕の名前を挙げたこと。 要するに僕は、ふたりの性的興奮を増幅させるための道具として招かれたのだということを、淡々と説明された。 高屋早彩がひとしきり話し終えたあとで「なんかごめんね」と困り顔で手を合わせる由井の小さな目の奥に、僕は狂気を見た気がした。 それからはとくになにも語られず、いつの間にか部屋の照明は落とされ、僕はしわひとつないダブルベッドへ誘われた。 ベッドの上で初めて触れた高屋早彩の肌は、温かかった。 好きだと思った。ずっと触れていたいと思った。 その日僕は、ぐちゃぐちゃな感情のまま、童貞を卒業した。 そしてこうしてひそやかに集まることを、僕たちは「倶楽部」と呼び、時間を経るごとに「倶楽部」は日常の一部に溶け込んでいった。僕はいつからか、ぐちゃぐちゃな感情に見てみぬふりをするようになった。 「倶楽部」が数か月続いた頃、僕たちは四人になった。四人目は、中務(なかつか)いち花(か)という女性だった。 中務さんは、僕がバイトを掛け持ちしている地下駐車場の受付で知り合ったひとだ。彼女は僕より三つ下で、身長が低くて、金髪をゆるく巻いている。居酒屋のひとたちとは違って見えないバリアがなくて、すごく話しやすかった。 地下駐車場の受付は基本的に暇なので、中務さんのようなひとはありがたい存在だと思って気楽に話していたら、ある日、つい「倶楽部」のことも口から滑らせてしまった。 「じゃあ仁木さんはただの特殊プレイの一環ってことっすか」 こういう遠慮のなさも、彼女の魅力と言えた。 「うん、そうだね。基本的に僕からなにかすることはない」 「それってただのラブドールじゃないっすか」 中務さんは頭の回転が速い。その的確な喩えと無邪気な口ぶりが相まって、僕の痛い所にちくちく刺さる。「僕は男だけどね」という弱々しい反論も、彼女に届く前に地面に落ちた。 「へー、すごい興味あります」 そう言って中務さんは、僕とシフトが被るたびに「倶楽部」のことを尋ねてきた。そしてついに「私も行っていいですか?」と言い出した。さすがにそれは変な話だと思ったが、その場で「他のふたりに聞いてみるよ」と言ってしまった手前、一応確認したところ「別にいいよ」と言われてしまった。その頃にはもう、みんなそういう感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。現に僕も、「見るだけ」と言っていた中務さんが服を脱ぎ始めたとき、その事実をすんなりと受け入れてしまっていた。 いや、そもそもおかしいのは、服を着て平然と外を出歩いているこの世界の方なのかもしれない。性欲なんてまるで持ち合わせていないようなふりをして、いざ服を脱いだら、あるいは脱げそうな文脈の匂いを感じ取ったら、そんな不文律はなかったかのようにことを進める。そんな大きな矛盾を抱えた世界では、歪みが生まれるのも当然だ。僕は中務さんの胸のなかで言い訳のようにそんなことを考えた。 「カウンターキッチンなんてやめておけばよかったよ」 ペットボトルの水を飲みながら、由井が不満げに言う。「倶楽部」で集まる前に人数分の水を買っていくのが、僕のルーティンになっていた。由井が足を組むのにバスローブがはだけるのを、もう片方の手でなおしている。 行為のあとは、みんながなるべく関係ない話をしようとする。今日もそれは変わらないみたいだ。 中務さんがシャワーを浴びている。音の些細な変化で、水流を身体に当てていることがなんとなく分かった。 「なんで? 民子さんが喜ぶからって、息巻いてたのに」 民子さん、というのは由井の配偶者だ。僕は高屋早彩がその名前を気軽に呼ぶたびに、鳥肌が立つ。 「民子は馬鹿みたいに喜んでるよ、料理しながらでも俺と会話できるからって」 「そのひとのことが嫌いなんですか」 僕はベッドの周りに散乱した抜け殻を拾って、デニムに足を通した。 「民子が嫌いというか」由井が半笑いで言う。「自分の時間をさ、邪魔されたくないんだよ。家に帰って、シャワーを浴びて、そのままソファでビール」 「あと読書」 高屋早彩が勝手に付け加えた。彼女の由井に対する馴れ馴れしい口調は、単なる距離感の近さだけからくるものではないように思う。 「そう、読書。なるべくひと月で三冊、いや二冊は読みたいんだけど。家に帰ってまで誰かの話を聞かなきゃならないとなると」 由井は大袈裟に溜息をつくようなジェスチャーをした。 「いろんな社長の話聞くだけで一日終わり、なんてこともあるからね、私たちは」 高屋早彩の言う「私たち」というのは銀行員、という意味だろうけど、やけにその部分を強調したように聞こえた。いや、考え過ぎだ、多分。 「仁木君はいま、なにしてるの?」由井が尋ねる。 言いながら水を飲み干したときにぐいっと上がった顎の先端が、尖って見えて怖かった。 僕がいまなにもしていないことなんて、分かってるくせに。 「いまは居酒屋と駐車場のバイトを掛け持ちしてます。それ以外は、まあ、音楽聞いたり本を読んだり」 「へえ、本読むんだ、初耳。どんなの?」 僕はしまった、と思った。由井が読書を自らの大切なアイデンティティにしていることはついさっき聞いたはずなのに、そんな相手に「本を読んだり」なんて口走ってしまった。こちらが少しでも相手にとって「センスのない」作家の名前を口にすれば、一瞬で嘲笑されるに決まっている。これはそういう人間のそういう欲を満たすための質問だ。 由井はあの小さな目で僕をじっと見ている。猛禽類が獲物を睨むような目。僕は頭のなかの本棚から、急いで「センスのある」作家を探す。そして会話として不自然な間が生じる寸前で、言葉を発した。 「大江健三郎、とか」 「ふうん、良いね。大江健三郎」 耐えた、と思った。由井がすぐに目を逸らしたところを見るに、彼は大江健三郎の本をあまり読んだことがない。かく言う僕も、大学時代に数冊読んだことがある程度だが、なんとか狩られずに済んだ。 「すみません、お待たせしました」 一糸まとわぬ姿に肩にバスタオルをかけただけの中務さんが、シャワールームから現れる。さっきから三人で押しつけ合っていた気まずさが、ふっと解消されたような気がする。 「すぐに服着ますね」 中務さんが服を着たら解散、ということになっていた。 雲ひとつない、月のよく見える夜空。僕は腕を広げる。さらりと涼しげな風が身体を通り抜けて心地よい。 川沿いに舗装された道を歩く。 「花筏、って言うらしいですよ」 欄干に手を添えて川を見下ろしながら、中務さんが言う。「倶楽部」のあとにバイトのシフトが被っているときは、よく一緒に歩いた。 「ああ、桜が」 川には大量の散った桜の花びらが流されていて、確かに折り重なったそれらは筏のように見えなくもなかった。ときどき、一枚、また一枚とその流れに合流するものもあった。 「じゃあ、ちょうど一年くらいだ」 「ん、なにがですか?」 「これに誘われてから」 「そうなんですね」 「うん」 僕たちは少し黙った。風が吹いて川の流れが少し速まる。 「私、散った桜の方が好きなんですよね」 中務さんが声の調を上げて話題を変えた。僕がなにを考えていたのか分かったのかもしれない。頭の回転の速い中務さんなりの気づかいだと受け取って、僕も続く。 「なんで?」 「咲いてるときの桜って、なんかおこがましいって、思いません?」僕は否定とも肯定ともとられないように、曖昧にうなずいた。 「桜があんなにちやほやされてるの、私はあんまりピンときてないんですよね。だって、たまたま綺麗な色の花が咲くだけじゃないですか。偶然持って生まれたもののおかげで、写真撮られたりテレビで特集されたり。あんなのって、周りの木が緑の葉っぱのままでいてあげてるおかげですからね。それなのにいつでも主役は自分、みたいな顔して、他の木には目もくれないで。なんか偉そうで、嫌いです」 想像力が豊かなひとだ。良い意味ではない。彼女と同じ年齢の頃の僕はそんなことを考えただろうかと思案して、いや十代のときでさえも思いつかないと思った。けれども、少なからず興味はあった。 「それで散った桜が好きってことは、ざまあみろ、ってこと?」 「いや、そこまでは思わないですね。ただ単純に、そっちの方が儚いから、ですかね」 それなら咲いている桜に浮かれている連中とさほど変わらないのではないかと思ったが、とくに口には出さなかった。 また少し黙って、また中務さんが口を開いた。 「まだ高屋さんのこと好きなんですか?」 まさかそんなことを聞かれるとは思っていなくて、驚いて彼女の顔を見たが、彼女は真っすぐ前を見ていた。 僕は考えたふりをして「うん」と答えた。夜空に鳥が飛んでいる。 「ふうん、そっか。まあ、どっかの女優さんみたいに可愛いですもんね」 そう言われて、僕は一瞬戸惑った。僕は高屋早彩のことを「好きだ」と思ったことはあっても、「可愛い」と思ったことはなかったからだ。でも確かに言われてみれば、とても可愛い。あれ、僕は彼女が可愛いから好きになったんだっけ。 記憶が遠くに飛んでいく。 「いや、彼女が生きてたから好きになったんだ」 そうだ。あのドラムを叩く高屋早彩を見たとき、彼女は懸命に生きていると思った。なんの根拠もなく、直感的に。僕はその姿に恋をしたんだ。あれからどんなことがあっても彼女を好きでい続けられたのは、彼女が単に生きていたからだ。 僕はそんな大事なことに今更気付いて、胸の奥が熱くなった。 高屋早彩に似ているという女優の名前を思い出そうとしていた中務さんは、きょとんとした顔をしている。 「あ、ごめん。勝手に喋って」 そう言うと中務さんは笑った。 「いや喋っただけで謝らないでくださいよ、そんなにいやな奴に見えますか、私?」 「ごめん、そういうわけじゃなくて」 「いいですよ。とにかく、好きってことですね」 中務さんは笑って再び前に向き直った。そのとき、彼女はとても小さな声で「気持ち悪い」と言った。恐らく僕の耳には届けるはずではなかったその声は、僕に届いてしまって、さっきは高揚していた胸の奥がちくりと痛んだ。 ふたりは黙った。今日は沈黙が長く感じる。 僕はさっきと同じことをまた考えていた。 やっぱり「倶楽部」なんて、早く抜けなければ。 * 中務いち花の場合 仁木さんは、よく宙を見つめている。なにか考えごとをしているのかもしれないし、なにも考えていないのかもしれない。 仁木さんと初めて出会ったのは、彼がバイトしている居酒屋だった。恐らく彼の方はそんなことおぼえていないだろうけど。 私が彼をおぼえていたのは、私がそのとき読んでいた小説の主人公にとても似ていたからだった。似ている、というのは、私が小説を読んでいて勝手に想像していた主人公の姿ととても近かったという意味なので、厳密には似ていない、かもしれない。年下であろう他の店員にこき使われているのを見て、小説の方だったらありえないな、と思ったのを記憶している。 小説で主人公は、最終的に世界を救った。悪をひれ伏す強さではなく、全てを包み込む優しさで。そんなの綺麗ごとだと思ったけど、その優しさに惹かれてしまっていたことも、また事実だった。 次に出会ったのは、地下駐車場受付のバイト初日。「行けば分かるから」と言われて向かった先に、制服を着た彼がいて、驚いた。バイトを掛け持ちしていたんだ、という驚きではない。 私は胸を高鳴らせた。世界の救世主が、目の前でバイトの業務内容を説明している。小説での彼の雄姿がフラッシュバックする。どのページでも彼は、私に優しく微笑みかけてくれていた。その彼と、目の前の彼が、視界のなかで重なっていく。そのとき脳は「これは錯覚だ」とアラームを出していたけど、ときすでに遅く、私は仁木さんのことを好きになってしまっていた。 仁木さんは、よく宙を見つめている。なにか考えごとをしているのかもしれないし、なにも考えていないのかもしれない。そのときの横顔が好きだ。 シフトが被ったときには質問攻めにし、「倶楽部」にも行きたいと言ってみた。そう言ったとき、仁木さんが困った顔で心配してみせてくれただけで、私は嬉しいと思ってしまった。ほんの少しだけでいいから、私のことを考えていてほしかった。 「まだ高屋さんのこと好きなんですか?」 分かり切っていることを尋ねてみた。仁木さんは「うん」と答えた。 「ふうん。そっか。まあ、どっかの女優さんみたいに可愛いですもんね」 高屋さんは可愛い。背が高くて、髪がつやつやで、いつもお洒落な気配を纏っている、まさに高嶺の花って感じで、ガサツな私にはないものをたくさん持っている。胸のちくちくした感じを誤魔化すために、適当に口走った、高屋さんに似ている女優を探すふりをする。 「いや、彼女が生きてたから好きになったんだ」 仁木さんが突然叫んだ。私はふり返って唖然とする。 「あ、ごめん。勝手に喋って」彼が恥ずかしそうに俯いた。私は苦笑いする。 前に向き直り、いまの叫びの意味を理解しようとするが、やめる。意味は分からないけど、どうせ、そういうことなのだろう。 「いや喋っただけで謝らないでくださいよ、そんなにいやな奴に見えますか、私?」 「ごめん、そういうわけじゃなくて」 「いいですよ。とにかく、好きってことですね」 そうだ。仁木さんは高屋さんのことが好きだ。でもなんでだろう。絶対に叶うはずないのに。高屋さんはとても可愛くて、仁木さんみたいなひとを好きになるはずないのに。仁木さんもそれは分かっていて、でもいまの関係のままでいればセックスだけはできるから、なにも言わずにだらだらと続けているんだろう。ああ、 「気持ち悪い」 思わず声が出た。仁木さんに聞こえたかもしれないと思って一瞬冷や汗をかく。いや、聞かれても別にいいか。 強い風が吹いて、桜の花びらが舞った。 大学の講義で井伏鱒二についての話を聞き流していたとき。二通のラインが届いた。顔だけはそのままにして、手癖でスマホを開く。 〈「倶楽部」をやめます。勝手にごめんなさい。〉 〈昼休み一瞬会える?〉 一つは仁木さんから、もう一つは彼氏の洋介からだった。 仁木さんが「倶楽部」を抜けるらしい。それなりに驚いた。ずるい、とも少し思った。初期設定のままの彼のアイコンは、液晶の上の言葉に隠された思いをこちらが覗こうとすることを拒んでいるみたいだ。講義中だというのに頭を抱える格好になって、結局〈了解しました いままでありがとうございました〉とありきたりな返事をした。 一方、洋介が昼休みに会おうとする理由と言えば、ひとつしかなかった。無意識に溜息が出る。しかしこちらは既読を付けてからノータイムで〈いいよ〉と返信する。気付けば、講義は梶井基次郎の話題に移っていた。 「いちちゃん、いちちゃん」 私のことを「いちちゃん」と呼ぶのはこの世で洋介だけだ。語呂が気持ち悪くて、私はあまり気に入っていない。 洋介と会う場所は、一号館の四階の奥にある男子トイレだ。普段講義で使用されるのは主に一階から三階までなので、その階はひとの往来が少なく、こと切れた蛍光灯がそのままになっているせいか昼間でも薄暗い。 外では蝉がわんさか鳴いている。窓から見える夏の景色が、目を細めるほどに眩しい。その眩しさに、いまの自分の姿とのギャップを感じ、眩暈を起こしそうになる。 「いちちゃん、気持ちいいよ」 洋介が、私の頭を撫でる。彼は私より一つ年上で、そのたった一つが、こういうふうに見下ろされているとき、とても大きなもののように思える。 「......あっつい」 天井を見上げて、洋介がこぼす。狭く閉ざされた男子トイレの個室は、湿気がこもって異常なまでに蒸し暑い。彼の顎から垂れた汗の水滴が、私のつむじに落ちる。 あまりの暑さに、一瞬気が緩んだ。 「あ痛、歯立てんな」 洋介の声から、一気に温度が失われた。さっきは頭を撫でてくれていた右手で、ぎゅっと髪の毛を掴まれる。 だめだ。私はこれをされると洋介に逆らえなくなる。 うんざりするほど感じられていた蒸し暑さが、ふっといなくなる。 私は即座に彼の顔色を窺い、顎にかける力を調節する。 洋介と目が合う。彼は夏の日差しの逆光のなかで、にっこりと笑った。 「いちちゃんはまだ子どもだから、俺が教育してあげるね」 私の左頬は、いつの間にか涙で濡れていた。彼はそれを見て、射精した。 感覚のなかで暑さが蘇る。洋介がまた私の頭を撫でる。入念にアイロンをかけて巻いた髪なんてお構いなしに。 ああ、仁木さんに会いたい。 強い風が吹いて、桜の花びらが舞った、あの日。 少し長い沈黙のあと、私がふり返ると、仁木さんはまたあの顔をしていた。私の好きな横顔。そういうとき、仁木さんは、高屋さんのことを考えている、多分。 「高屋さんのこと考えてるんですか?」って聞いたら「いや違うよ」って答えると思うけど、それはきっと、仁木さんのなかで高屋さんって存在が、たとえば、花はいつか枯れてしまうみたいに当たり前のものになっていて、もう自分ではそのことに気付けないでいるからだろう。 私はやっぱりその顔が好きだ。好きなひとが好きなひとのことを思っている顔が好き。心の底から高屋さんが羨ましい。 そう思っていたら、いつの間にか口走っていた。 「バイト、サボろっか」 私は仁木さんの手を取って走り出した。 仁木さんを、私のものにしたい。私だけのものにしたい。私のことだけを考えていてほしい。高屋さんのことなんて考えないでほしい。叫んでしまいそうになる勢いで、私は走った。 向かい風がびゅんびゅん強くなる。散った桜の花びらが、ふたりの身体に当たってほどけていく。 「ちょっと待って、どこ行くの」腕を引っ張られている仁木さんが叫ぶ。 「分かんないです」 「分かんないって、じゃあ、なにするの」 「セックス」 「え」 「嘘、キス。キスだけでいい」 そう言って私は仁木さんを路地裏に連れ込んで、半ば強引にキスした。さっき「え」って言った仁木さんの、少しいやそうな顔を思いながら。 しばらくして唇を離す。仁木さんは咳き込んで顔を逸らしたけど、私はじっと彼の目を見ていた。 「こんなに近いの、初めてですね」 「そうだね。僕からなにかすることはないから」 「ですね」 「えっ、なんで泣くの」 「泣いてません」 「泣いて」 「泣いてません」 「そっか」 「ごめんなさい」 「なにが」 「わがままで」 「あっ、いや」 「こんな生意気なガキに」 「そんなことは」 「仁木さんはいつも優しくしてくれて」 「ちょっと待って!」 仁木さんはそう言って身体を離した。その言葉や手のひらの感触は決して強くなくて、私をなだめるように、柔らかいものだった。 「僕はその、中務さんのことガキ、なんて思ったことはないよ。中務さんは天真爛漫で、話しているだけで楽しくなるし、頭の回転も速いから、むしろ年上の僕が感心するっていうか」 言い終わって、ようやく仁木さんが目を合わせてくれた。そして恐る恐る、というのが見て伝わるくらい震わせながら、私の頭に手を乗せた。 「だから中務さんは、自分で思ってるより大人だよ」 仁木さんが頭をゆっくり撫でてくれる。それはとてもぎこちなかったけど、世界で一番温かかった。 私は、いつか仁木さんは目の前からいなくなってしまうのだろうな、と思った。なにか根拠があったわけじゃない。ただの直感。でも、私よりも仁木さんのことを観察しているひとは、現時点ではこの世界にいないだろうから、自分で自分を信じる。私は「ありがとうございます」と、それだけ伝えた。 「あっ」仁木さんの携帯のアラームが鳴った。「バイト、始まっちゃった」 私はそれを聞いて、顔を上げて笑った。 「やっぱ行きますか! いまからならギリなんとかなるでしょ!」 「えっ、でもこっからだと走っても十五分は」 「今度アイス奢るんで! ほら、行きましょう!」 私たちは走り出した。さっきとは違って、手は握らない。仁木さんが笑っているのが見えて、ほっとした。こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。 * 由井啓(けい)の場合 帰宅するなり、鞄とスーツを寝室に放り投げ、すぐに脱衣所に向かう。シャツのボタンを素早く開け、肌着や靴下とまとめて洗濯機に詰め込む。 シャワーのバルブをひねると、四十二度の熱湯が髪についたワックスを溶かす。身体の中心から心地良い熱が全身を巡り始め、筋肉が弛緩していくのが分かる。 温まった身体を真っ白なバスタオルで包み、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開け、缶ビールを一本、取り出す。大きな液晶テレビの置かれたリビングへ移動し、タンクトップにトランクス姿で、テーブルに文庫本を置き、ソファに座る。 かしゅっ。 銀色に光り輝く缶が、泡を噴き出すと同時に叫ぶ。 これぞまさに、至福の時間だ。 「ねえちょっと、脱衣所びしょびしょなんだけど」 聞こえるはずのない声が聞こえて、心臓が跳ねる。ふり返ると、白を基調としたカウンターキッチンの向こう側に、妻の民子がいた。 「今日、遅くなるって」 「友達の子どもが熱出て保育園に迎えに行くからって、途中でお開きになったの」彼女の声は機嫌が良いようには聞こえない。 「あ、そうなんだ」顔色を窺うように、口角を上げて答える。 「もしかして、私がいなくてラッキー、って思ってた? それでご機嫌でお風呂入って、ビール飲んで。だから脱衣所、あんななの」 「いや、そういうわけじゃ」 表情を取り繕う。私の頭のなかで、鬼の居ぬ間に、という言葉が浮かんだ。 民子は大袈裟に溜息をつき、ネギが飛び出した買い物袋を片手に冷蔵庫の扉を開けた。 「というかそれ、良いやつじゃん。どうせ大して変わらないんだから、安い方を買ってって、いつも」袋の中身を手早く冷蔵庫に移しながら、私が手にしている缶を睨む。 「いや、変わらないって、そんな」 ばんっ、と冷蔵庫を閉める音で発言を遮られる。 うかつだった。私がいまやるべきなのは、束の間の幸福の喪失を嘆くことではなく、なるべく妻を刺激せずにこの場を収めることに他ならないのだ。とうに身体の火照りは冷めてしまっている。 民子は、巨大怪獣が口から光線を放射する直前のように、すうっと息を吸ってカウンターキッチンを指差した。 「これだって、啓さんがほしいって言ったから高いお金出して作ったのに。全然使ってないじゃない。そういう啓さんの無駄づかいを、私が言わないで誰が言ってくれるの」 彼女はこの一軒家に住み始めて以来、口論になりかけるとすぐにこの話題を引き合いに出す。これを言われると、私は黙って背中をちぢこめる他ない。 「ごめん、これからは気を付けるよ」と言って、私は持っていた缶ビールを音を立てずに、大事そうに飲んだ。 キッチンから醤油とみりんの香りが漂ってくる。今日の夕飯はカレイの煮付けらしい。 私は魚が嫌いだが、料理を作ってもらっている手前、いや、それ以外の理由もあるだろうが、民子にそれを伝えたことはない。 私は民子に頭が上がらない。この事実を、私と民子以外では、誰も知らない。 半年ほど前に、高屋や仁木にカウンターキッチンの話をしたことを思い出す。どうしてその記憶に中務はいないのだろうと思ったが、おぼえていないということは大した理由ではない。 ビジネスホテルの一室にいた私たちは、それぞれ腰の辺りに気怠さを携えながら、あってもなくても変わらないような、味気のない会話を交わしていた。 確か、引っ越しの話だった。高屋かはたまたその友人かが、引っ越しの際に業者とトラブルになったというようなことを話していた。私はそれを聞いて、水を飲みバスローブの乱れを整えながら、カウンターキッチンのことを考えていた。 自分が家を建てたときに所望した、唯一のこだわりだ。料理をしていても会話ができる、朗らかな家庭を築きたいと思い、キッチンはカウンター式が良いと業者に伝えた。結果的にそんな家庭が築けているとはとても言い難いのだが、もはやその設備を手に入れただけで満足していたところもあったので、それも含めて笑い話にしようと、私は舌の上で言葉を温めていた。 そして、高屋たちの話題が途切れたタイミングで、私はそれを空気中に放り出した。 「カウンターキッチンなんてやめておけばよかったよ」 口から出たのは、用意していたものと正反対の言葉だった。高屋と仁木がこちらを見る。 私は心底うんざりし、口の端を歪ませる。 「なんで? 民子さんが喜ぶからって、息巻いてたのに」 高屋が余裕そうな表情で、若々しい唇を動かす。 私はぎょっとした。民子が喜ぶと思ってカウンターキッチンを設えた、私がそんなことを言ったのか。そんな事実もなければ、その発言自体も記憶にないのに、口は立て板に水を流すように勝手に喋り続ける。 「民子は馬鹿みたいに喜んでるよ、料理しながらでも俺と会話できるからって」 違うな。それを望んだのは私だ。 「そのひとのことが嫌いなんですか」 仁木が、床に落ちた服を拾いながら尋ねた。その目に軽蔑の感情が滲んでいるのが分かる。 違うんだよ。 それでも私の口は止まらなかった。 「民子が嫌いというか」勝手に半笑いの演出まで付け加えられる。「自分の時間をさ、邪魔されたくないんだよ。家に帰って、シャワーを浴びて、そのままソファでビール」 ここまで言って、もうだめだ、と思った。 それ以降はもう、車の後部座席に乗せられているように、進められる会話に身を任せることにした。意識が遠く離れていく感覚に襲われる。 あるときから、自分の意思にかかわらず虚勢を張るようになった。 本当に言いたいことを言う前に、それとは関係のない別のことが割り込んでくる。そしてそれは大抵、自分をより強く大きく見せようとするものだった。まるで、自分の弱みや恥ずかしさを必死で守ろうとしているようだった。 いつしかそうやって虚勢を張るたびに、喉の辺りに強烈な苦みを覚えるようになった。 そのときも、とてつもなく苦かった。苦みから逃れるためにすぐにでも会話を終えたいのに、仁木の趣味なんかを聞いている。多分、読んでいる本がどうとか好きな作家がどうとかで、いわゆるマウントを取りたいのだろう。仁木の目には軽蔑と同じくらい、畏怖の色も見える。 私が虚勢を張り続けた結果、由井啓という人物は「自信に満ち溢れている」という印象で纏われるようになった。この印象によって私は、近付きがたく思われるか魅力的に思われるかのどちらかだった。たとえば、仁木などは前者で、民子は後者だった。 民子と合コンで出会った当初は、自信とそれに伴って表れる余裕を持ったように見える私に、彼女は目を輝かせたらしい。そのまま私たちは順調に交際を重ね、結婚に至った。しかしどれだけ良質な催眠も、長い時間を共に過ごすと効果が薄れるようで、次第に私の化けの皮は剥がれ、彼女は目の輝きを失い、いまでは立場が逆転した。 自宅では虚勢を張らずに済むものの、そこにはまた別の息苦しさが転がっていた。 気付くと、目の前に全裸の中務が立っていた。 「すぐに服着ますね」 彼女がそう言うと、私たちは帰り支度を始めた。 ビジネスホテルから近くの駐車場まで歩いている途中、桜の花びらが舞っていたのが見えた。 車のハンドルを握り、運転席から先ほどまで私たちがセックスをしていた建物を見上げる。 「倶楽部」は、私があの喉の苦さから逃れるために、高屋に提案したものだ。 不倫に飽き足らず、寝取られる行為に手を染めた私は、無我夢中に身体を貪ることでしか解放されなくなった。 それはとても虚しいことで、虚しさでしか満たされない快感があった。 薄暗い寝室で、身体を重ね合わせた民子の髪から、秋の匂いがした。 季節には、それぞれ匂いがある。具体的になにから香っている、と言い切ることはできないが、感覚的に、外を歩いていてその季節の訪れを感じることがある。 テラスのあるカフェで友人とランチをしたと言っていた民子の身体には、秋の空気がすっかり染みついたのだろう。 季節の匂い。 確か、夏の匂いが一段と濃い日だった。仁木から〈「倶楽部」をやめます。〉というメッセージが送られたのは。 笑えてしまうほど日差しが強くて、熱を頭ごなしに押し付けられているようだった。 私はそのとき、仁木がいなくなることで自分にもたらされる状況を想像して苛立ったが、その苛立ちは夏の暑さのせいにして誤魔化した。 「無理そう?」 民子の声ではっと我に返る。 「あ......」 いつの間にか意識を遠くの方へ飛ばしていた。そのせいか、下半身が元気を失っている。 「ごめん、今日は」歯の間から漏れこぼすように声を発する。 「今日も、だけどね」民子は私から視線を外し、身体をぐるりと返した。布団を肩に引き寄せてスマホをいじり始めたら、もう終わりの合図だ。 私も民子に背を向けるようにベッドの縁に座り、パジャマのボタンを留める。 民子とはしばらくしていない。と言うよりも、できない。 彼女との行為では、私は解放されないのだ。 これは決して、彼女になにかを求めているわけではない。むしろ原因は彼女ではなく、自分にある。と思っている。 彼女だって、自らの欲求以外の部分でも、両親や義父母からの見えない期待に焦りをおぼえていることだろう。 早くなんとかしたいと思っている。私だってその思いは同じだ。 しかし行為に至ろうとするとどうしても、高屋や、仁木のことを思い出してしまって、目の前で行われていることに集中できないのだ。夏の日差しやビジネスホテル、シャワーの音などが、頭のなかで数珠つなぎのように湧いては消え、湧いては消える。 ああ、「倶楽部」があれば。 あの欲望の泥沼に浸かっている間だけは、なにも考えずにいられた。誰かへの申し訳なさや、他人にどう見られているかを気にしないでいられる唯一の場所が。 仁木がいなくなるとやはり「倶楽部」は自然消滅した。彼は未だ音信不通らしい。 心のなかで舌打ちをする。 それは突然姿を消した仁木に対してであり、未だ潜在的に下劣な関係に縋っている自分に対してでもあった。 布団に潜り、眠れないのを分かっていながら無理やり目を閉じた。 瞼の裏に現れるいくつもの面倒ごとに、私は吐き気を催した。 銀行員の午後は、忙しいときとそうでないときの差が激しい。大抵、お客様との打ち合わせの数に左右される。多ければ昼休みはないに等しいし、少なければ事務作業をこなせるどころか、プライベートな時間にあてる余裕すらある。 今日は急遽午後の予定が二件もキャンセルされてしまったため、ぽっかりと時間が空いた。棚から牡丹餅、と心を躍らせ、ひとまず数日分溜めていた雑務を終わらせたあと、こっそり自分用のパソコンを取り出し、インターネットのまとめサイトを閲覧する。業務中に暇を持て余したときによくやることだった。自分にとって毒にも薬にもならない情報を羅列してくれている誰かが集まっていると思うと、なぜか胸の内が凪ぐのだ。 しかしそれもひとしきり見終えると、突然手持ち無沙汰になってしまう。どうしたものかと思っていたら、たったいま営業から戻ってきた新山を見つけて、思わず席を立ってしまう。 「よお。戻り?」 「ああ、そのまま帰ろうかとも思ったけど、まだ少しやることあるから」 新山と私は同期だ。同じ支店に同期がいるというのは、うちの支店の数と行員数からすると少し珍しかった。入行直後の研修以来、同期のなかでは最も親しくしている。 「戻ってきてくれて良かった。暇してたから」 「暇って」新山は各行員のスケジュールが記されるホワイトボードに目をやった。「午後は佐々木さんとじゃなかったっけ?」 「お孫さんの誕生日だって、後日になった」 「へー、社長はどこもお気楽だな。俺だって子どもの誕生日に有休、取りたいよ」 「あれ、何歳だっけ?」 「んー、もうすぐ一歳。可愛いんだよ、見る?」 「いや、いい」 私は手をふって恐らくスマホを取り出そうとしていた新山を制した。 「そっちは、子ども作らないの」新山が笑顔で尋ねる。 「いまはまだいいかな。ほら夫婦の時間、楽しみたいし」 喉の奥がじんと苦くなった。「なるほどね」と、新山はなにに納得したのか分からないが呟いた。 「てか、なにそれ」 私は彼が手に持っていたパンフレットのようなものを指差した。銀行では見慣れない色のものだった。 「あーこれ。これはほら、石川さんの」 石川さん、とは私たちの間では有名な、少しくせのあるお客様のことだ。銀行員のことをなんでも屋だと思っているらしく、窓口や営業で相談を承るたびに、野菜が高騰しているからなんとかしてくれとか、カーペットを洗濯するにはどうすればよいかとか、とにかくなんでも頼ってくるようなひとだった。 「まあ旦那さんに先立たれてひとり暮らしみたいだし、仕方ないけど」 新山は笑いながら言った。 石川さんを担当する行員は、噂に違わずあちこちにふり回されるようだが、彼らが石川さんのことを悪く言うのは聞いたことがない。銀行員の仕事はお客様への慈善活動のようでもあるから、行員である以上頼られていやな気はしないのだろう。 「それで、これは?」私は改めて、新山が大きな手で掴んでいる色とりどりのものを指す。 「熱海旅行のパンフレット」 彼から手渡されたその表紙には、でかでかと真っ赤なフォントで「熱海」と書かれていた。 「石川さん、今度の年末にお孫さんと旅行に行くことになったらしくて。それで一緒に行先を考えてほしいって言うから、ひとつの提案として、とりあえず」 「とりあえず、熱海」 「そう、熱海」 ふうん、と言って私は開いたパンフレットをなに気なく眺めていた。 もしかしたら見えざる力に導かれていたのかもしれない。 視線は自然に、右下の、商店街の写真に止まっていた。 私は、それから目が離せないでいた。 「どうしたんだ、そんなにじっくり見て」 「いや、別になにもない」 嘘をついた。しかしこれは喉が苦くなるような類いのものではない。その代わり、動悸が激しくなる。 掲載されていた写真はかなり画質が悪かったが、直感的に分かった。 その写真には、仁木が写っていた。 写真の端の方に写る店の、カウンターの内側に立っていた。もしかして、店員として働いているのだろうか。 でも、どうして? 私は手がかりを探るために質問をした。 「これ、いつ発刊されたものか分かるか?」 「どうだろうな。あ、でも」 そう言って、新山は裏表紙を指差した。そこには熱海で開催予定のイベントが時系列順に一覧になっていた。 「今月のものから始まってるから、かなり最近のものじゃないか?」 最近のもの、ということは。私は頭のなかで順序立てて思考を巡らせていた。いや、本当はそんなものすっ飛ばしてとっくに答えに辿り着いていたのだが、その感覚的な答えを精査するように、論理をじっくり詰めていた。脳が思考の働きを急かす。遠くの方で新山がなにか言っているが、返事をする気力は起きない。 そして、ようやく追いついた。 仁木はいま、熱海にいるのか。 頭でそう呟いたとき、下半身が反応したのが分かった。 いや、決して仁木に興奮したのではない。 仁木という存在が、「倶楽部」につながったのだ。仁木が「倶楽部」にとって重要なピースだったことは、もはや認めざるを得なかった。 だからそれは、禁断症状と呼んでもいいかもしれない。 あの解放される感覚を思い出して、脳が快感を再現してしまった。そのせいだ。 私はいま、目の前にニンジンを吊るされた豚だ。目を血走らせ、垂涎し、もうニンジンのことしか考えられない、いまにも走り出してしまいそうな状態。 豚の尻尾の辺りでふと民子のことを考えた。しかしその思いに、私は「君を裏切っているのではない、むしろ君のためなんだ」と言い、尻尾から彼女をふり落とした。これが愚かな言い訳に過ぎないということは分かっている。 でも、もう一度だけ気持ちよくなりたい。 私はいつの間にか、スマホで熱海行きの新幹線のチケットを購入していた。 結果から言うと、やはり仁木は熱海にいた。 あの写真のまま、商店街の店の、カウンターの内側にいた。実際に見た情報を加えておくと、その店は饅頭屋だった。 週末の休日に新幹線に乗り込み、熱海へ降り立った私は、パンフレットを片手にまず商店街を目指した。辿り着いた頃には、そこは既に人ごみで賑わっていて、私はその合間を縫うように、アスファルトの上を歩いた。パンフレットの写真と重なる風景はないかと、扇風機のように首を右に左に動かしながら。 始めは気の遠くなるような作業になるのではないかと思っていたが、それらがシンクロする瞬間は、案外早くに訪れた。 それは商店街の入口から二十分ほど歩いたところにあった。年季の入った木造建築。入口の上に設えられた手彫りの看板は、「饅頭」という文字以外判別できない。そこに、茶色いエプロンをした仁木は立っていた。その働く姿は、もう何年も昔からここにいるような雰囲気を感じさせた。 そして私はいま、遠巻きに店員としての彼を見つめている。 傍から見れば不審なのは分かっている。しかし私には彼について気になっていることがあり、それが解消されるまではこの場を動けないと思っていた。 それは、パンフレットで彼を見たときからずっと引っかかっていたことだった。 彼の笑顔だ。 写真のなかで彼は笑っていた。そしていまも笑っている。私はこれまで、彼のこんな表情を見たことがなかった。 いや、「倶楽部」として会っていた際、彼が全く笑っていなかったわけではない。 しかし私の知っている笑顔と、いま目にしている笑顔とでは、大きななにかが違っている。気がするのだ。 カウンターの奥の扉が開いて、知らない誰かが顔を出した。仁木と同世代くらいの女性と、その腕に抱きかかえられた子どもだった。女性は身体を揺らして子どもをあやしながら、仁木を労うような様子を見せた。 私は妙に納得させられながら、一方で苛立ちをおぼえた。 「なるほど」口のなかで、あえて一文字ずつはっきりと、声を漏らした。 私がこれまで知っていた彼と、いまの彼とを分かつものは、「幸せ」か。 仁木の隣に立つ女性の腕で、子どもが泣き出す。仁木はその子どもの手を握りながら、泣き止むように顔を近付ける。しかし子どもは泣き止まず、仁木は困ったように女性と顔を見合わせた。 また、仁木が笑う。 その笑顔を見せられて、私は再び苛立った。 仁木と同じように笑うその女性は、彼の愛するひとだろうか。泣き続けながら自分の存在を高らかに宣言する子どもは、ふたりの愛の結晶だろうか。 仁木はせいぜい饅頭屋で、私は銀行員だ。 けれど仁木は、輝いている。 私はその輝きを見ながら、なぜか五年前の出来ごとを思い出していた。 「明治大学政治経済学部から参りました、早川美里です! 本日は、よろしくお願いいたします!」 私から四つ右の女性の、はつらつとした声が室内に響き渡る。 私は焦っていた。 「青山学院大学文学部から参りました、山本周平です! よろしくお願いいたします!」 三つ右の男性が面接官に促されて席に座った。 私は焦っていた。集団面接で自分の番が回ってくることに対してではない。 五年前、大学四年生の私は、内定を一つも取れていなかった。その事実に、焦っていた。 その日は第一志望である金融系企業の最終面接で、なんとか面接官に好印象を与えなければと意気込んでいたのだが、その数時間後の私は、公園のベンチで項垂れていた。 今日も駄目だろうな。 そんな思いが、頭を巡っていた。 面接官にはっきりとそう言われたわけではない。しかし、話をふられる頻度や目の動きで、なんとなく分かってしまうものだ。 その頃はそのような、面接に行っては項垂れる、という日々が続いていた。 「なんでだろうな。最終までは行くのにな」 当時同じゼミだった友人に、就職活動について相談したのをおぼえている。彼はそのとき内定をいくつかもらっていて、既に卒業論文の執筆に取り掛かっていた。 私は、とにかく面接が苦手だった。だから一次の書類選考やせいぜい二次選考までは通過することができても、最終選考となると合格に至らなかった。 「お前も早く内定決まって、どっか遊びに行きたいのになー」 そう言う彼の横顔は、自分よりも少し大人に見えた。 自分は彼の目にどう映っているのかと思い、心臓の拍動が速まる。 早く内定がほしい。早くこの生存競争から抜け出したい。 取り憑かれるような思いだった私は、彼に質問をした。確か、面接を上手く立ち回るためにはどうすればよいか、みたいな聞き方だった。 「んー」彼はマジックの種明かしをするみたいに、ゆっくりと口を開いた。「お前、面接官の質問に対して、全部正直に答えてないか?」 私は素直に頷く。 すると彼が笑って、指で私のおでこを弾いた。予想外の痛みに、私は戸惑う。 「お前、馬鹿だなあ」 彼は口の端を吊り上げて語り始めた。 「あのな、面接で百パー本当のこと話してる奴なんて、ひとりもいないんだよ。みんな少しずつ自分を大きく見せてんの」 その言葉の通り、彼は手を大きく広げた。 「自分はこんなに素晴らしい人間ですよって、アピールしてんの。それが、面接ってものなんだよ、分かる?」 彼は言い切ったあと、大きな溜息をついた。私はそれを呆然として聞いていた。 そのあとで恥ずかしそうに「いやまあ、ガクチカとかももちろん大事だけどな」と、大学で単位を落としまくっていた彼は、フォローを入れた。 単位を落としたことのなかった私は、彼に言われるまま、それからの面接では、自分という人間がいかに素晴らしいかをアピールするように話した。そのアピールのために不都合だと思われる部分は、あえて言わないようにした。 するとそれから一ヶ月もしない内に、選考を受けたとある銀行の最終選考通過、すなわち内定を知らせるメールが届いた。 私は狂喜乱舞した。そのことをアドバイスをくれた彼に報告すると、彼も同じように喜んでくれ、「ほら言っただろ」と私の肩を叩いた。 それから私たちはいろんなところへ行って、残りの大学生活を謳歌した。 キャンプ。合コン。海水浴。ドライブ。合コン。 私は女の子たちと酒を飲み交わしながら、一を十にしたような武勇伝を語った。それは私の心を、楽しさと気持ちよさでいっぱいに満たした。 その頃からだ。喉に苦みを感じるようになったのは。 それまで馬鹿正直に生きていた私にとって、自分を大きく見せ、他人に認められるというのは、劇薬だったらしい。喉の違和感に気付いた頃には、その薬は私の身体の一部になっていた。 面接官や目の前の女の子を喜ばせられる代わりに、本来の自分というものを見失った。 「いらっしゃいませー」という仁木の声で、視界が商店街に戻る。子どもは彼の腕に渡っている。 自分を失った私は、どんな社会にも迎合できるように自らの形を変容させ、銀行員という職に就いた。それは、ひとつの小さなピースが、大して欠けてもいないパズルに無理やりくっつこうとしているみたいだった。 仁木が店の前まできて、看板を見上げる。カウンターにいた女性があとをついてきた。「なに見てるの?」「いや、幸せだなって」「なにそれ」そんな会話が聞こえる。 いまの私は幸せだろうか。幸せだったとして、それは本当に自らでひとつずつ選び取ったものなのか。 そんなこと、喉が苦くなるよりずっと前から、考えなくなっていた。 ふと、店の前の仁木と、目が合う。 仁木の表情からさっと色が消える。彼は引きちぎるように子どもを自分の身から離した。 隣の女性が不安そうに子どもを受け取る。 仁木が、こちらへ近付いてくる。時折、饅頭屋の方をふり返っている。女性はもう客の対応に追われていた。 私は思わずあとずさりしそうになったが、足に釘が打たれたように、その場から動くことができなかった。 彼は、私から三メートルくらい離れたところで立ち止まった。 「そんな顔するなよ」 「なんの用ですか」 彼の視線が私を突く。 「変わったな」 「あなたは変わらないですね」 「どこが?」 「......目です」 私は曇った空を見上げ息を細く吐いた。息の線が、白みがかっていることに気付く。秋はもう姿を消そうとしている。 「用がないなら、帰ってください」 仁木の後ろを人々が右へ左へ横切って行く。彼らがなにを話し、なにで笑っているかは分からない。まるで知らない国のお祭りを、ぼんやり眺めているみたいだ。 「あれは、君の奥さんと子ども?」 「どうしてそんなこと聞くんですか」 「気になったから」 「......彼女は、未婚の母です。でもいつかは、僕が父親に、なれたらとは、思ってます」 言い終わってから、喋り過ぎたとでも言うように、彼は自分の口に手を当てた。 「ふうん、そうか」 ひとの往来が、冷たい風を運ぶ。落ち葉の束が、ふたりの足元に引っかかる。 「どうして、やめたんだ」 仁木から視線を外して尋ねる。 祭りの喧騒が激しいほど、その輪からはみ出している者たちの静けさが際立つ。 彼はすぐに問いかけの意味を理解し、真摯な目でこちらを貫いて言った。 「可哀想だったからです。自分も、あなたたちも」 私は言うべき言葉が見つからなかった。いや、もはやなにも言うことができなかった。これ以上なにか言おうとすると、もう口のなかまでせり上がってきている苦みが、全部溢れて出て行ってしまうと思った。 そのときだった。突風がびゅうっと吹いた。 私は思わず顔をしかめる。 身体は乱暴に押され、コートの襟が逆さまになる。ひとごみのなかから女性の短い叫び声が上がる。 視界の上の方の雲が、ぐんぐんと流れる。そして一瞬だけ、雲と雲が裂け、晴れ間が差した。その日差しは、夏の匂いがした。 鼻腔からの刺激が、神経を通って脳まで届く。 記憶が数珠状につながっていく。 熱を押し付けるような日差し。蝉の声。仁木からのメッセージ。「倶楽部」。ビジネスホテル。数々のセックス。虚勢から解放される、あの快感。 風が止む。 私と仁木との間には、「可哀想」という言葉以外なにも残っていなかった。他は全て、吹き飛んでしまった。 そうか。私は可哀想に見えていたのか。 あのときも、あのときも、あのときも、あのときも。 そう思うと、腹が立つ。腹が立って、どうしようもなくなる。腹が立ってどうしようもないのに、心は穏やかだ。 「君が羨ましいよ」 それが自分の声だと気付いたのは、仁木の驚いた表情を見てからだった。 「捨てることも、掴もうとすることも、自分で行動できる君が羨ましい」 私は短く息を吸った。 「いや、本当はもうずっと前からそう思っていた。あの可哀想な集団は、君なしには成り立たなかっただろうし、実際にそうなった。俺もそうなりたかった」 たとえどんなに可哀想でも、と付け加える。 「でも俺はそうなれない人間なんだ。そっち側の人間じゃないんだよ。そう思ってくれて構わなかったのに、そう思われるのは怖かった」 指示詞ばかりで自分でも途中からなにを言っているのか分からなかったが、仁木は黙って聞いていた。 「君を見て、いまの自分の人生がいかに自分のものじゃなかったかって、思ってしまった。誰かがならしてくれた道を、誰かの言いなりになることで通してもらえていた、そんな気がする。とくに、この数年は。そのことから目を逸らして、隠していた」 まるで幸せな人生を送っていたかのように。 上空から、私と仁木が見える。それはぐんぐん高くなって、ふたりの姿が小さくなっていく。もう見えないくらいに、小さくなる。 「でも、とっくに可哀想だと思われてたんだな。ムカつくけど、まあいいか。それなら、もうあの集団も必要ないな」 さっきまでは行き場をなくしていた言葉たちが、一斉に活発になったみたいに口から出てやまない。そう言えば、喉も苦くない。 「仁木君、ごめんな」 仁木はその言葉を聞くと、なにも言わず、踵を返した。その背中になにか声を掛けようかと思ったが、やめた。 身体が不思議な解放感で包まれている。まるでずっと背負っていた荷物を、ようやく肩から下ろしたような。 空は再び曇り、季節は秋に戻っている。 民子になにかお土産を買ってやろうと、商店街の奥へ進んだ。 * 高屋早彩の場合 ファンデーションで隠してるんだから察してよ。 「あれ、そんなところににきびあったっけ?」 はあ。 私は心のなかで溜息をついた。 恭子は、大学で知り合った頃からそういうところがあった。 始めは意地悪なひとだと思ったけど、五年にもなる付き合いで様子が変わらないところを見るに、ただ単に脳から発する言葉がなんのフィルターも通らないひとなんだな、と考えを改めるようになった。その無神経さが、時折自分にほしくもなる。 「ああ、うん。なんか、最近できた」 朝、洗面台の前でそれを見つけたときのことを思い出す。にきびなんて大学生の頃ぶりで、それなりにショックだった。 だからあまりそのことには触れられたくなかったのだけど、恭子はチーズインハンバーグにフォークを刺しながら、案の定、指摘した。 「ふうん、珍しいね。さあちゃんににきびなんて」 そうだね、と相槌を打ちながら、私はサラダうどんをすする。麺を吸い込んで尖った唇から、つゆが垂れる。 大学の入学式で「めっちゃ綺麗じゃない?」と突然話しかけられたことが、恭子と私の交流の始まりだった。ふたりの関係は大学卒業後も続き、私は銀行員、彼女は派遣社員として働き始めてからも、こうして定期的に食事をしている。場所は、大学時代にふたりでアルバイトをしていたファミレスだ。 付け合わせのトウモロコシを不器用に食べようとしている恭子の顔には、いくつかできものが見える。彼女の腕は私より二回りくらい太くて、色もそんなに白くない。 これは彼女に伝えたことはないが、大学で他の友人に「山野さんとはあんまり仲良くしない方がいいんじゃない?」と告げられたことがある。その理由はなんとなく分かったし、その友人たちを悪者だとは思わなかったけど、曖昧に返答してその場はやり過ごした。 「まあ、さあちゃんににきびの一つや二つできたところで、なんのマイナスにもならないけどね」 そんなことないよ、と私は語尾を下げ、たしなめるように言う。 「てかさ、それ、思われにきびってやつじゃない?」 思われにきび。 中学生の頃に、確かそんな言葉が教室で流行ったなと、懐かしい気持ちにトリップする。 「だってほら、どうなの。不倫のひととは」 恭子がにやりと白い歯を見せる。最近、彼女は会うたびにこの話題をふってくる。 「なんもないよ、いまは」 「えーっ、ふられたの」 「っていうか、自然消滅? 秋ぐらいから、全然会わなくなった。職場でも軽く無視されるときあるし」 私は視線をサラダうどんに移して言った。恭子はそれを聞いて、「えーっ、可哀想」と半ば大袈裟に反応した。そのオーバーリアクションが私へのリップサービスだとすればなんだか申し訳ない気持ちになったが、そう思ってくれること自体は少し嬉しかった。 「でも、今更やめてもって感じじゃないの? 奥さんにバレてなかったとしても、一回不倫しちゃった夫婦なんて、冷め切ってるでしょ」 彼女はそう付け加えて、フォークについたソースを舐めた。言っている内容は一般的な倫理観からは外れているかもしれないが、そうでもして目の前の会話に集中しようとしてくれるところが、私が彼女と交流を続けている要因でもあった。 その日は、いつも通りドリンクバーの分だけ私が奢って、駅の改札の前で恭子と別れた。 閉じられた電車の扉に体重を預け、スマホの内カメラで前髪をならす。無意識に、視線がある点に移る。 口の右端にできたにきび。 マスクをすれば隠れるか、とか下手に薬使うより皮膚科に行った方がいいよね、とかを思いながら、その思考の真んなかではある言葉がぷかぷか浮かんでいた。 思われにきび。 ふと、車内の景色に目をやる。 すぐ横の壁には、『結婚して幸せになろう!』という婚活アプリのポスターがある。乗客が読むスポーツ新聞では、芸能人の熱愛が大々的に報じられている。扉が開いて、高校生らしき男女カップルが乗車する。 世界は、恋愛で溢れている。 誰かを「思う」ことができないでいる私は、そんな世界で孤独になったような気分だ。 「好き」という感情が分からない。いわゆる、ひととして好き、という気持ちは分かるけど、見ているだけでドキドキするとか、気付くと頭で考えてしまっているとか、そういう類いの感情はいままで経験したことがない。これからもあるかは分からない。 身体が押しつぶされる。乗客量の多い駅にとまったため、サラリーマンの群れがなだれ込んできたのだ。 右も左もスーツに囲まれて身動きの取れない車内で、私は下半身に違和感をおぼえる。 触られている。 後ろからなので相手の顔は見えない。しかしこんな卑劣な行為に及ぶ時点で、見た目も中身も最悪で、これまでろくにまともな人間関係を築けたことのない、社会の最底辺ゴミ野郎なのだろう。いや、そうに違いない。 こんなふうに心のなかで相手を罵っても、泣き出してしまいそうになる気持ちは抑えられない。あー、最悪。 そんな最悪な気持ちは、これまでに何度も味わってきた。 水泳の授業でひそひそ話しながらこっちを見ていた男子たち。大学で卒論免除を条件にホテルに誘ってきた教授。セクハラを「冗談」のひと言で片付ける上司。それを笑って見過ごすおばさんたち。 そのどれも経験するたびに、泣きそうになるのを堪えてなんとかしてきた。泣いたら、負けみたいになるからだ(それでもこっちには負けか引き分けの選択肢しか用意されていない)。 原因には、私の見た目も影響しているのかもしれない。 私は他のひとより少し、いやかなり、容姿が優れているらしい。幼い頃から「可愛い」「綺麗」と言われた回数の多さは、この国特有の謙虚さを差し引いても、私にそう自覚させた。 容姿のおかげで良い思いをしたこともあったけど、その分、他のひとが経験しないであろういやな思いも十分してきたと思っている。これはどうせいやみと捉えられるだけなので、誰かに話したことはない。 そんな世界では、誰かを「好き」になんて、なるになれなかった。 満員電車のひとごみのなかで、ひとりと目が合った。私は息を呑む。 由井さんだ。 彼も私に気付いた様子で、そして、さらにはっとした表情をしたが、またすぐに目を逸らした。 多分いま、痴漢に気付いて、無視した。 由井さんは、私がやけになった時期に関係を持ったひとりだった。 そのころの私は、寂しかったのかなんなのか、自分から手近な男性にそういう関係を持ちかけたりしていた。性的な興奮が「好き」という感情に結び付く、という話を聞いたからかもしれない。 彼は既婚者だったが、彼を選んだのは事故みたいなもので、偶然そこにいたから、という他ない。 彼を含め何人かと関係を持ったが、結局性的興奮は性的興奮でしかなく、むしろ、安易に満たされようとした自分の浅ましさを悔やんでその時期は終わった。 電車で私は由井さんをじっと見つめる。うつむいたまま、黒目だけ、彼の方に向ける。 「好き」という感情を知ることはできなかったが、由井さんに関しては、少し違った。 彼はホテルに行く前の、食事をしたり車を運転したりしていたときに、顔や声色からは身体で考えていることが漏れ出てしまわないようにしていたのに、血走る目やふくらむ鼻の穴は隠せないでいることがよくあった。私はそういう、余計な虚勢を張る様子を見るたび、どうしようもない愛おしさを抱いていた。 でもそれ以上のことは思わずに、奇妙な関係も含めて続けていたら、どういうわけかいつからか私と距離を取るようになり、最近は業務に関することでもまともに話せなくなっていた。 あーあ。マジでないな。 腰にまとわりつく掌の動きは、未だ忙しない。 いまになって、思われにきび、という身勝手な名前に笑えてしまう。 こんな思われ方をするくらいならこの容姿で生まれてこなければよかった、と考える頭の反対側で、にきびが早く良くなって元通りの綺麗な肌に戻ってほしい、と思う。自分のなかのまだらな感情に、ローズピンクのリップで塗られた下唇を噛む。 夕日と同じ方角に進む電車は、そのまま私を最寄り駅まで運んだ。 私は腹を立てていた。 大人数の予約をするなら直接下見にこいと電話口で告げた居酒屋の女店員にも、送別会の幹事に私を指名した上司にも、この時期に銀行をやめる由井さんにも。 スマホのマップに居酒屋を表示させながら、ビル街を何度も曲がる。灰色の風が、身体のなかで唯一露わになった耳を冷やす。 支店に膝掛け用の毛布を持参するようになった女性行員が過半数を占めた頃、由井さんはみんなの前で、十二月いっぱいで退職することを告げた。理由は「一身上の都合」と、ほとんどなにも言っていないようなものだった。 「いままでお世話になりました」と彼が頭を下げたとき、みんながほんの少しだけ私の方を見たような気がした。知られてしまっていたのかという不安が頭を過ったけど、彼は新人である私の教育係で、比較的仲が良かったことは周知だということを思い直して、みんなの視線はそういう意味だ、と自分に言い聞かせた。 彼に腹が立ったというのを、どうしてだろうと考えると、年末の忙しい時期に、というのもあるが、それよりも別の感情が、私の心の隅に引っかかっていたのだった。 仕事を辞めるなんて知らなかった。どうして事前に言ってくれなかったのだろう。 そんな思いは、考えごとをしながら歩く私の頭にかかる重力になって、私は足を踏み出すたびにうつむいていた。そしたらスマホが鳴って、いつの間にか目的地に到着していた。 店の入口の前に立って、ここの店員の電話での対応がひどかったことも、思い出す。 「大人数の予約だったら、一回店まできてもらってもいいですかねえ。こっちも色々都合とかあるんでえ」と間延びした口調で言うものだから、そんな店こっちから願い下げだ、と言いかけたけど、由井さんがリクエストしたらしい蟹料理がメニューにあって、かつ支店と私の使っている路線に近い居酒屋はここだけだったので、やむを得ず休日返上で訪れた。 私はロングコートのボタンを留め直し、引き戸を開いた。店内には、金髪の女性が立っていた。 「あ」 知ってる顔だ、という意味の「あ」がこぼれたと同時に、あっちも同じことを思ったのか、「うわ」と言った。 「え、あのきつい女って、高屋さんですか?」 「きついのは、こっちの台詞だよ。中務さん」 彼女とは夏以来の再会だった。入口の敷居から侵入する弱々しい光が、ふたりだけの店内の暗さを際立たせていた。 「いまは仕込みの時間なんで、私しかいないんですけど」 中務は厨房の奥へ引っ込んでしまって、声だけが聞こえる。それに遅れて、調理器具ががちゃがちゃ擦れる音が届く。 「私、そんなきつかった自覚ないんだけどなあ」 私の気がかりは厨房までは届かず、こっちもなにも言ってないような顔を作って、畳んだコートをテーブルに置いた。テーブルや椅子は黒の木目調で統一され、客を待ち構えるように整えられている。 入ってすぐ左のところに個室らしき引き戸が見えたのでそれを覗こうとすると、後ろから「あ、そう言えば」という声が聞こえ、ふり返る。厨房とホールの境目に立った中務が、腰にかけたタオルで手を拭っている。 「仁木さんって、いまなにしてるか知ってます?」 ニキサン。 仁木さん。 仁木。 「仁木さんって、あの仁木か」 耳から入ってきた言葉が、変換されて、意味を伴うまでに、すごく時間がかかった。 「え、忘れてたんすか」 「いや、そうではないんだけど、なんか、音とイメージがつながんなかった」 「じゃあ知らないってことですね」 「えっと、そうだね。知らない。あれ以降、連絡も取ってない」 突然彼から携帯にあの短文が届いたことを思い出す。確かあのときは、営業の合間にコンビニの真っ白なアイスを食べていた。その白さが、強烈に記憶に残っている。 私はテーブルたちと同様に黒いペンキで塗られた引き戸に手をかけながら「なんで知りたいの」と尋ねた。それは、ふたりきりの状況を考えれば中務が答えるべき質問だったのだろうけど、はっきりと彼女に向けて言ったつもりのものではなかった。だから、彼女がそれに答えずに「何人くらいになりそうですかね?」と聞いてきたときは、「十五、いや十六かな。二十はない」と素直に答えた。「じゃあ奥の個室くっつけちゃいますね」と彼女は言った。要件は終わったようだった。 外で強い風が吹いたのか、吸い込むような音とともに壁が揺れた。かすかに雨の音も交じっている。 「これくらいだったら電話でよかったじゃん」私は笑った。 「そうっすね、すいません」中務も笑った。 さっきから、店での彼女の声や話し方は電話口と少し違うと思っていたのだけど、このとき、初めて混ざり合った気がした。 雨風が弱まり、帰り支度をする私に、彼女が「何日でしたっけ?」と聞いた。 「えっとね、十六日。再来週の金曜」 「あー、金曜は別のバイト入れてるんでいないっすね」 「そっか、残念」言いながら私はほっとしていた。余計な気をつかわなくて済む。 「じゃあ、また」 「はい、また」 私たちはそう言い合って別れた。 思っていたよりも長居していたようで、店の外は既に日が沈み、街灯の明かりだけが濡れた歩道を照らしている。風は雨上がりの冷気をまとっている。 本当にまた、なんて日はあるのだろうか。 あったとして、彼女はどんな声で話すのだろうか。 私が店へ入ってお互いを見た瞬間、彼女の顔が強張ったのが分かった。 好きなひとの好きなひとが、ふいに自分の日常に現れることほど、苦しいことはないと、叫ぶような表情だった。 私とはもうなるべく関わりたくなかったのかもしれない。声や話し方が一瞬変わったのは、だからかな。 言葉や態度こそ強がっていたけど、それは、私にも伝わってしまっていた。 強がり。 考えごとというのは自分でも気付かないくらい静かに中身を変えていて、しばらくしてから、あれはじめはなにについて考えていたっけ、ということがよくある。 私は駅までのルートに足跡をつけながら、いつからか自分自身のことを考えていた。 私は、強がっているのだろうか。 由井さんの退職が前もって知らされなかったことを、心のなかで戸惑ったりはしたけど、表では、蠅が視界を横切ったときみたいに、なにも気にしていないようなふりをしている。 これは私にとっての強がりなのだろうか。それとも、本当になんとも思っていないのだろうか。 頭のなかで私と私が議論を戦わせている。その脳内会議の決着はすぐについてしまいそうなのに、別の場所からやってきたものが邪魔して終結しない。 それは、顔にできたにきびを、いっそ潰してしまおうとするひと差し指と親指を食い止めるなにかに似ていた。 「あの、酔っちゃう前にお金集めまーす」 ふたつがひとつになった個室の隅から発された私の叫びは、上座に届く前に卓の上の唐揚げに落ちた。仕方がないので、膝をついて立ち、ひとりずつ徴収していくことにする。 ふと、自分だけが座って酒を酌み交わす十六人を見下ろす形になる。アルコールへの耐性にかかわらず、みんな頬を赤らめて賑やかに笑っている。これでも普段のものよりはかなり人数は少ない。私が参加者を募る時点で、無理に出席する必要はないと強調した、しすぎてしまったせいで、こういう場が苦手なひとたちがほとんどいなくなってしまった。私を除いて。 「あ、上杉さん、お金、多いです。ひとり五千円なんで」 「え? いやいや、いいの、もらっときなって。高屋さんが幹事してくれたおかげで、こんな良い会になってるんだから」 「あー、えこひいきだー。私たちが幹事やってもそんなのしてくれないくせにー」 「当たり前だろー。そんときは俺、一円も出さないからなー」 「えーっ、なにそれひどーい」 どうしてだろう。こういうとき、楽しそうなのはあっちの方で、私と言えば錆びた笑顔を浮かべているのは。 ほんと、大丈夫ですから、と言って、私は上杉さんに余分なお金を返した。えぇ、いいのぉ、さすが、高屋さんは中身まで綺麗なんだねぇ、という間抜けな声は、もう聞こえてないふりをした。 「あの」 「あ、はいはい」 そのとき、由井さんと交わした会話はそれだけだった。束になった五千円札をチャック付きのクリアケースに入れて、ウーロンハイを飲み干し、あまり気付かれないように席を立った。 個室から店を出るときに、厨房をちらりと見る。いないのは分かっていたけど、中務の姿を確認しようとしていた。 暖房と外の冷気との境界線を、首元に感じる。気持ちがいい。でも少し寒い。マフラーを置いてきてしまった。 星は見えないが、月は白く輝いている。黒の方眼紙を切り抜いて、光にかざしているみたいだ。その白さに、仁木の存在を思い出す。 あの日、中務と会って話すまで、彼について思い出すことなんて一度もなかった。しかしいまはなぜか、ふとあるごとに彼のことを考えている。こういうとまるで彼に思いを寄せているみたいだが、もちろんそんなことはない。なにかを忘れている気がするのだ。彼について、私はなにかを忘れている。 「あの」 暗闇のなかから突然声がして、驚いてふり返ると、そこには、ベージュのダウンを着た女性が立っていた。 「あ、驚かせてしまったらすみません、あの、銀行の方ですか?」 私は、直感的に気付いた。気付いたけど、嘘をつくわけにはいかなくて、はいそうです、と答えた。 「やっぱり。あ、私、由井の妻です。普段から夫がお世話になっております」 やっぱりは、こっちのせりふだ。私はがんばって口角を上げる準備をする。 「今日は送別会なんて開いてもらって、本当にありがとうございます。夫も、すごく喜んでて」 いえいえ、なんて言いながら、この女性がカウンターキッチンで料理をしている姿を想像する。たしかに、「これにしてよかったねえ」なんて、鼻歌交じりに言ってそうな、平和な感じのひとだ。こんな時期にやめるなんてごめんなさいと、このひとが謝る必要のないことを謝っている。 「夫の迎えにきたんですけど、もう少し長引きそうですか?」 「ああ、そういうことなら、呼んできますよ」 「あ、大丈夫です」 「え、あ、そうですか」 「あなたとはもう、話してほしくないので」 突然、なにかが剥がれた音がした。べりりという音が、耳のなかで鳴った。でもまたすぐに、今度はぺたっという音がして、その場はなにもなかったみたいになった。 「しばらくここで待ってます」 目の前の彼女は、また少ししおらしい声になって、両手を腰の辺りの前で重ねた。私の口角は、氷が解けるみたいに、みるみる下がっていく。なにを思ったのか、私は彼女がつけていたブレスレットを見た。 「それ、綺麗ですね」 「あ、これですか? これ、お土産なんです、夫からの。熱海だったかな。この間、秋くらいに突然くれて」 「へえ、すてきなご夫婦ですね」 私はそう言って、店の引き戸を開けた。 そしたら、なかから顔を真っ赤にした由井さんが出てきて、私ではなくて、その向こうを見て、目をとろんとさせて、「ごめんおまたせ」と言って、私を通り過ぎた。彼がそんな情けない姿を露わにしているのは、見たことがなかった。私と、由井さんと、奥さんは、冬のはじっこで一直線上に並んだ。それはなんだか、すごく惨めで、私の頭のなかには、なぜか熱海、の文字が浮かんでいた。 ドリンクバーの分だけ余分に軽くなった財布から、一万円札を取り出す。買おうと思えばスーパーでも高級なワインを買うことができると知ったのは、今日の発見だ。 大きな瓶を袋詰め台にどん、と置いて、そばにささやかなおつまみを添え、ビニール袋で包む。 ファミレスを出て、スーパーへ入り、お酒売り場からレジに向かうまでの間、私の目の焦点は、実際に目で見ていたものにはなかった。額の裏に漂っていた、大学時代の夏の夜を、ずっと見ていた。 恭子とふたりで、最悪な飲み会から帰ったときだった。それは男女のセックスの前戯が公共の場まで滲み出たような集まりで、薄暗い部屋の、革張りの横に長いソファに、いくつものつがいが寄せ集められていた。当然私たちも、とくに私もその標的にされて、いろんな言葉や酒を浴びせられそうになったが、あれこれ適当に嘘をついて、ふたりでなんとか逃げ出したのだった。 私たちはなんだか心がむしゃくしゃして、身体を浄化しようと言って、コンビニで安い酒を買って、ひとり暮らしの私の家で飲み直した。 そのときの盛り上がりっぷりは半端なくて、その日の飲み会の悪口はもちろん、世のなかにありふれるいろんなことに、つたない怒りを投げつけまくった。 それですっきりした私たちは、そのまま眠ってしまった。ふたりして眠ったはずなのだけれど、夜中にまぶたのなかで起きたとき、私は、唇や、胸や、太ももや、股間を触られていることに気付いた。そのとき感じた掌の感触や、耳元で聞こえる息づかいに、私はいやだと体を起こすことができなくて、それは恭子のものだと分かっていたからだった。 恭子に、彼氏ができたらしい。 今日、ファミレスで食事をしていたときに、彼女がそう言った。 それを聞いたとき、私は、なんと言うか、心のなかを黒い鉛筆でぐしゃぐしゃっとかき回された気分になった。 あの夏の夜から私は、ファミレスでハンバーグを食べていたり、アイラインが下手だったり、美容脱毛しかしていなかったり、いつまでも派遣社員だったりした恭子を、馬鹿にしていたのかもしれない。 私はこんなに可哀想なのにとか、私はこんなに綺麗なのにとか、どうしてあなたにとか、そういう言葉が頭に浮かんだ。 スーパーで買った高級ワインは、それなりに美味しい。朝に化粧をしたときからリビングに置いたままの鏡に、顔が映る。にきびが白く膿んでいる。 私はとっくに「好き」という感情を知っていたのかもしれない。 だけどそれを認めてしまうと、みんなと同じになってしまうから。もしそれで失敗なんかしたら、私が特別ではなくなってしまうから。 私の可愛さは、私をこんなにまでさせてしまっていた。 いまなら痴漢でもなんでも、されてもなんとも思わないかもしれない。 私はチーズを歯でちぎって、それから由井さんの奥さんがつけていたブレスレットを思い出して、泣いた。 カーテンを開けて、冬の夜を部屋にめいっぱい取り込んで、声を押し殺して泣いた。 ひととして生まれ、自分以外の誰かと関わりながら生きている以上、人生のなかでいろんな物語が同時並行することは、誰しも避けられないと思う。それらは大抵、独立しながら出来ごとや感情に影響を及ぼすのだけれど、ときどき、そのどこかとどこかが重なり合う瞬間がある。それを、偶然といったり、大袈裟に奇跡と呼んでみたりする。少なくとも私の人生のなかで、ふらっと熱海へ行ったことと、仁木という存在とは、まったく交わらないものであるはずだった。ただ最近になって彼のことを考えるようになったことがその前兆であったとするならば、少しできすぎているくらいだ。 饅頭屋の店員としての彼は、噴き出しそうになってしまうくらい、幸せそうだった。 私は、彼について忘れていたことがあって、それを思い出せそうだったので、かりんとう饅頭を買うついでに「夜、駅前にきてよ」といった。彼はレシートに新しくなった電話番号を書いて渡した。 私は駅前のベンチで、首をせいいっぱいマフラーにうずめながら、アイスを食べていた。仁木からのメッセージを受け取ったときの、あの真っ白なアイス。その白さは、膿んでふくらんだにきびに似ていた。 辺りが黒く沈んだ頃、彼は現れた。店員のときのエプロンを脱いで、洒落たロングコートを羽織っていた。 「そんな服、持ってた、持ってましたっけ。あれ、敬語だった? ごめん忘れた」 「どっちでもいいよ」 彼の微笑みは、いまここにあるなによりも優しく見えた。 「座りなよ」私が言うと、彼は断ったので、私も立った。 「どうしたの」 「こっちの台詞だよ」 「え、あれ、いま私がしゃべった? あ、ごめん」 「なんか、大丈夫?」 「え、うん。全然大丈夫。大丈夫そうじゃない?」私は語尾を上げて聞いた。 「僕が知ってるときよりは」 「えー、あ、そう。そっか」私はまっすぐ前を見ている。 雨が降り始めた。肩にぱたっ、という音が鳴る。 「あー、あのさ、ちょっと聞きたいこと思い出して」 「うん、なに?」 「なんでさ、私のこと好きだったの」 彼の表情が一瞬たじろいだ。でもすぐに優しく笑った。 「生きてた、からかな」 「は? なにそれ」 「大学でさ、ドラムやってたの、おぼえてる?」 「え、私? うん、軽音で」 「大学祭のさ、やっすい舞台の上で、ドラム叩いてたんだよ、あなた」 「ああ、うん」 その頃は確か、ボーカルの男子の趣味で、ナンバーガールのコピーバンドをやっていたときだ。 「あれ、見たときさ、見てたんだけど、あなたのことひと目で好きになった。それはなんでかっていうと、すごく、生きてるなって思ったから。なんか、人生のいろんなことを考えるのをいったん全部やめて、目の前のドラムだけに集中して、めちゃくちゃ生きてた、あなた」 肩ではじけたしずくは、頭や足まで濡らすようになって、足元で水たまりを作って、それでもふたりはそこに居続けた。 「だからあなたのことずっと好きだった」 指先や唇がみるみる冷たくなるのが分かった。いまだったら、なにを言っても許されるんじゃないか、という気がした。 「ねえじゃあさ、いまでも私のこと好きかな」 彼の表情はさっきよりも曇った。今度はすぐにはかたちが元通りにならなかった。 「いまは、好きじゃない」 「だよね」 いまの私は、多分ドラムを叩けない。ナンバーガールの歌も、あんまりおぼえていない。 「じゃあ、あ、ごめん、最後の質問」 私と彼の間に、無数の水の粒が落ちていく。音を立てながら、何度も何度も。 「どうやったらひとをそんなに好きになれるのかな」 「幸せになることを、考えなければいいんじゃないかな」 彼が言ったとたん、ぴかっと目の前が光って、大きな音が鳴った。 「やばい、うちの近くだ」と彼が言うので「帰ってあげた方がいいんじゃない」と言うと、彼は頷いて、本当に帰ってしまった。私は彼が他になにかを伝えたりしないかと思って、その姿をずっと見ていたけど、そのまま雨のなかに消えてしまった。 びしょ濡れになった私は、急遽ビジネスホテルの部屋をとって、そこでシャワーを浴びた。浴室から出ると、携帯に〈うちじゃなかった〉という、仁木からのメッセージが届いていた。それから数分して、さらに〈いまは好きじゃないっていうのは、好きにならないようにしたから〉という文言が追加されていて、私はそれをすごくださいなと思った。 私は熱海から帰って、部屋でひとりナンバーガールの歌を聞きながら、アマゾンでドラムを探していた。でもそれは違うなと思って、すぐにやめた。
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