パン男

日輪花助




彼らが食べている時に、イエスはパンを取り、祝福して割き、弟子たちに与えて言った、「取って食べよ。これは私の身体だ」。     (マタ26:26)


一
 アンパンマンというのはやなせたかしが描いた頭部がパンの生命体で愛と勇気だけが友達で顔が濡れるとヘロヘロになり取り換えれば復活する。自分の顔面を引き千切って空腹なカバ等に「僕の顔をお食べ」差し出す。下須もそのくらいのことは知っていた。
 最近東福山に出没する妖怪パン男は、高架下で雨をしのいでいるホームレスにハンカチを差し出す。「これをお食べ」受け取ったハンカチはぐっしょりと重量があり、暗い高架下では黒っぽく濡れていることしか分からず、錆の匂いがする。この世で最も嬉しくないチューインガムのお裾分け。
「パン男の正体ってゲス君やろ」
 そう声を掛けられるまで、下須はパン男について知らなかった。
「違うけど」
 一言喋っただけでどもって口の端が引き攣る。右頬に残った、糸がほつれ皺が寄ったような痕がクラスで口裂けと呼ばれていることも下須は知っていた。
「いやそんなマジんなって否定せんでも冗談やから。でも正直、ゲス君そういうことやりそう感半端ないよ」
 安上が言って別府とか嶋とかが笑った。放課後の教室にはもう下須とサッカー部の三人しか残っていなかった。下須は机の上で腕を組む格好で、下に開いた参考書を少しでも目立たなくしようとしていた。気付くなと念じる。祈りはしない。下須は祈る対象のいかなる神も信じてはいなかった。
「ゲス君まじ楽しそうに子猫とか水に漬けてそうやもん」
「熟女のブラジャー盗ってそう」
「むしろ子猫食ってそう」
 はは、と一拍遅れて苦笑しようとしたが歪んだ陰気な笑みになったのが、自分でも分かった。
「いやなにその笑い。意味深すぎやろ」
「ゲス君将来ぜったいヤバいやつになるって」
 頭がカスカスの喋り声がうっとおしかった。さっさと玉でも蹴りに行け、と思いながら、相変わらず下須は陰気な薄笑いの残滓を口の端に貼り付けていた。サッカー部ABCの頭上にもくもくフキダシが膨らみ、交番の掲示板に貼られた指名手配犯の顔写真が連想されて浮かんだ。
「おー、何してんのサッカー部。日田先生探してたよ」
 声とともに教室のドアがガラッと開いた。
「ヤバ。サボっとんのバレたら外周プラス五やん」
 掛けていた机からがたがた降りると安上と別府と嶋はスパイク袋を振り回しながら「王子、日田にチクんなよ」教室から走って出て行った。王子は教室の扉に手を掛けたままそれを見送って、それから下須の方に向き直る。
 八王子有路の口角は特に力を籠めずともいつも微笑む形に上がっている。勉強ができ、特に数学は黒板に書かれた難関高校レベルの問題を涼しい顔して解いてみせた。部活は入っていない代わりに生徒会で副会長を務め、スポーツもそつなく何でもこなす。名実ともに王子。
 むしろ聖者か、と思った。王子は下須みたいなクラスのヤバいやつ枠にまで分け隔てなく接する。飢えている者がいればスニッカーズを差し出し、独りの者がいれば笑って声を掛ける。自分では飢えたことも一人になったこともないような種類の人間。
「何読んでるの」
 王子は笑って訊いた。王子ゆえにいきなり下民の読んでるものを尋ねても自然だった。下須は本を覆うように組んだ腕を退けず答えた。
「参考書」
「勉強?凄いね」
 学年トップが何を、と思った。馬鹿にしているのかと盗み見た王子の表情からは、しかし微塵もそれが感じられなかった。純粋な賞賛と尊敬。下須は黙って親指のささくれをいじった。話を広げるのは得意じゃなかった。さっさとどこか行ってくれないかと思った。王子にとってこっちは縁石とか路側帯とかそんなレベルの、存在していても存在を忘れるようなどうでもいいものだろう。
 別にそれで満足だった。平民でも側溝でも構わない。
「筑前煮の勉強?」
 下須は反射で顔を上げる。参考書の端を掴む指先は、白くなるくらい力が入っていた。ページが縒れる。
「は?」
 王子は小さく首を傾げて、天真爛漫そのものの顔で下須を見返した。下須は口の右端が勝手に引き攣るのを感じた。
 玉座など必要ないし王子の身分もどうでもいい。ただ、自分の持ち物が奪われることだけは防がなくてはならない。剣を手に取って返り血を頬に浴びることになろうとも。それが下須が十五年の人生で掴んだ真理だった。
「ごめん、見えちゃったから気になって。料理好きなの?」
「それって八王子君に何か関係ある」
 顔が赤いことも甘噛みしたことも自分で分かっていた。頭の中は熱くて真っ白だった。今後こいつが何らかの害を自分に及ぼすなら、ここで処分をつけておかなくてはならない。何も奪わせてはならない。この世は闘技場であり高校は闘技場であり一年五組の教室はたった今より闘技場になった。下須は腰が引けたまま両手で出刃包丁を構えて戦う姿勢だった。これなら王子だろうが魔王だろうが負ける気はしない。王子は牙を剥く野良猫に向ける微苦笑を浮かべ、武器も盾も構えないまま平然としていた。
「僕、料理はてんで駄目なんだ」
 お前には料理番の小隊が付くんだろうこの王侯貴族が、と思った。下須は中学三年にあがって一か月経ってようやく、自分が八王子有路を嫌悪していたことに気付いた。飢えも凍えも知らない人間が高い所から手を差し伸べるのを嫌悪していたことに気付いた。
 要求は一体何だ。「俺に料理作れって?」
「惜しい」
 王子は敵意を、包丁の鋭い切っ先を向けられたまま笑って下須の机に歩み寄る。下須は身が引けるのを感じた。なぜこれまで誰もこいつのことを不気味に思わなかったのか、理解に苦しむ。
「知りたいんだ、肉の臭みってどう取るのか、筋を切って柔らかくするにはどうすればいいのか」
 机を挟んだ距離で王子と向かい合うのは初めてだった。王子の伏せた睫毛は王子の名に恥じず長くて傾きかけた日を弾いて光っていて、下須の首筋を鳥肌が駆け上った。自分が前にしているのはクラスメイトでも王子でもなく何か得体の知れないものだ。
「教えて、それで?」
 王子はにっこり笑って答えた。
「振舞ってあげるよ、料理」
 いや。下須は全身汗だくになっていた。この流れどう考えても
「あんたパン男なの」
 そうとしか考えられなかった。数学の問題を解くのと同じ涼しい顔のまま雨合羽を着て街灯の点滅する裏路地に潜み、人を殺し、解体し、血をハンカチに染みこませてホームレスに「これをお食べ」差し出す。王子は数秒虚を突かれたような顔をした後、吹きだした。
「違う違う。下須君のイメージがどんなだか知らないけど、僕そんなサイコパスじゃないから」
 制服シャツの袖のボタンを外し、手早く肘まで捲くって見せる。二の腕の所に小さい四角形の絆創膏が貼ってあるのが見えた。周りの皮膚に薄く青紫の靄のような痣が浮いている。
「あれ僕の血」
 何の捻りもなく思い切りサイコパスだろと、汗が急速に冷えていくのを感じながら下須は思った。
「大丈夫、うち両親も兄も医者で環境だけは整ってるから。注射も正しい知識得てから実践したし、新品の注射器使ったし、僕病気持っていないから」
 下須はしばらく絶句した。
「何で」
 それがようやく口から出てきた言葉だった。何が目的でそんなことをする。
「僕、神は信じていないけど、物語としての新約聖書は好きなんだ。聖体拝領、知ってる?」
 知らなかった。下須は宗教にも地理にも政治にも全く興味がなかった。
「信徒はキリストの血に見立てて葡萄酒を飲み、肉に見立ててパンを食べる。比喩的なのは認めるけど結局そういうことなんだ。最上の慈悲は、赦しは、祝福は、自分の身体を食べ物として差し出すこと。それを食べられること、食べること」
 王子は聖歌隊の少年のような表情をして語る。その口から紡がれる話はしかし滅茶苦茶に破綻している。
「それから、幸福な王子の童話も好きだった。自分から宝石が外されて金の塗装が剥がれていく王子の幸福を、ほとんど自分のことみたいに感じた。こうありたいと思った。それが理由」
 下須は頷きもしなかった。全く微塵も理解できない。できれば関わりたくもない。
「でも俺、自分の勉強で忙しいから」
 幸福な王子の話で燕はどうなったんだったか、思い出せなかった。冬が来て寒さで像の足元で死んだんだったような気がする。確証はない。
「調理師専門?」王子の伏せた目は下須の腕の下で開かれた調理の教本を見つめている。「五月のうちから勉強するなんてよっぽど意欲あるんだね」
 頭のおかしいパン男に自分の将来どうこうを口にされたくはなかった。幸福な王子は初め全部持ってた所からだんだん自分の意思で手放していく話だ。下須には最初から何もなかった。結局王子がいかれていようがいまいが理解し合えることはない。
「見合った額は出すよ」
 王子は言った。目は笑っていなかった。
「時給千二百円。塾講師だと考えれば妥当な給金だと思う。これは宝石とか金とは違う、労働の対価だ」
 友情でもなんでもなく、同級生をただ家庭科教師として雇う気か。さすが王子は発想から平民とは違うと思った。答えなど決まっている。口を開きかけ、そこで固まった。断ってそれでどうなる。王命を拒絶すればその先に待つのは刑場だ。王子は襟元に付いた埃を払うより簡単に下須から全て奪っていくだろう。
 ただ簡単な料理を教えるだけののアルバイトだと思うことにした。パン男に料理を教えるというのが何を指すのかは考えないことにした。机の中を探ると、指先に皺が寄った紙が触れた。そのままぐしゃぐしゃになった学年通信を引っ張り出し、軽く伸ばし、白紙の裏面を向けて王子に差し出す。王子はふっと表情を緩めて受け取り、胸ポケットからペンを抜き取って文章を書いて寄越した。
 私八王子有路は、調理技術の指導の対価として下須佑太に給料を支払うことを誓います。令和五年五月二十一日 一年五組八王子有路
「成立?」
 下須は黙って文面に目を通すと、折りたたんでポケットにしまう。そのまま返事もせず参考書に目を落とした。みりん大匙2、酒大匙2、?油大匙3。どうせ今更隠しても仕方ない。

二
 下須は料理人になりたかった。なると決めていた。決めたのは七歳の時で、その時点では次の数時間を生き延びることが遠い将来の話より先決だった。下須はそれを暗い五畳半のアパートの部屋でテレビの光を浴びながらたった一人で決めた。
 王子は包丁を逆手に握った。
 下須は暗澹たる気分になった。授業初回にして早くも今後に暗雲が垂れ込める。
「包丁持ったことは」
「鉗子ならあるよ」
 王子は逆手に包丁を構えたまま言った。下須は肩にどっと疲労がのしかかってくるのを感じながら、自分でもラックから一丁抜き取る。王子の家は三十階建て駅前マンションの十五階角部屋だった。ダイニングキッチンは広く向かいは一面ガラス張りになっていて戸棚にはスパイスの壜が並んでいて包丁はシェフナイフから出刃包丁まで揃っている。機器も材料も整然と完璧に並んでいて、ただモデルルームみたいに使用された形跡だけがない。
「基本はこう」
 親指と人差し指の間に柄がくるようにしっかり握ってみせる。王子が包丁を回して持ち替えるのを確認する。
「で、こう」
 見えないまな板の上の見えないキュウリを右手で押さえて刃を引いて切った。王子の前には本物のまな板と縦半分のキュウリがあり、下須に倣ってそれの端を切り落とす。少しぎこちなかったが、それが八王子家こと王宮のキッチンで委縮している自分の完全な模倣なことに気付いて下須はぞっとした。
 下須が肩の力を抜くと、王子はさくさくキュウリを切り始めた。
 金太郎飴の要領で半円型のキュウリが生まれていく。端までいって刃に貼り付いた分を指先で軽く触れ落とす。厚みは総じて均等で欠けたり斜めになったりしたものは一つもない。
「それが半月切り。次は短冊切り」
 下須がざっくり手本を見せるだけで王子は勝手に吸収した。半月のキュウリと短冊のハムと薄切りの玉葱が小皿に、角切りのジャガイモが小鍋に盛りあがる。
「下須君教えるの上手いな」
 王子は洗った手を布巾で拭いながら言った。下須は黙っていた。自分などいなくとも王子なら独学でここまでやれたんじゃないかと思った。
「料理は誰かからちゃんと習いたかったんだ」
 思考を読んだみたいに王子は言う。「うちは父親も母親も小さい頃から忙しくて、食べ物は栄養だけは考えられてたけど弁当とか出来合いばかりだった」
 下須にとって弁当とはスーパーで割引シールが重ね貼りされた廃棄すれすれのものだった。王子にとっては違うだろう。天満屋の地下の重箱風弁当箱に入ったやつを指すのだろう。考えながら下須は黙っていた。
「家庭科も座学でなんとか持ち直したけど実技の点は散々だった。ほんと、こんなまともに料理するのは初めてだ」
 楽しい、と小皿に目を落として王子は言った。下須は黙っていた。
「多分下須君こういうこと言われるの嫌がるだろうけど」王子は苦笑する。「料理人って凄い良い夢だと思う」
 黙ってろ何も知らないくせに。料理を楽しいと思ったことはなかったし、誰かの笑顔が見たいと思ったこともなかった。そもそも自分以外の人間が飢えて死のうがどうでも良かった。それら全てを口に出さずに飲み下して下須は黙っていた。
「これ、食べる?」
 王子が生野菜とハムを盛った皿を指して訊く。いや、と下須は目を合わせないまま答えた。どうせならポテトサラダにしようと思って、した。王子の家の広すぎて寒々しいダイニングテーブルで向かい合って食べた。中央に飾られた頸が長い薄青の花瓶は空だった。王子がぽつぽつ喋って下須はほとんど喋らなかった。ポテトサラダは少し塩が薄かったが、それでも味がないわけじゃなかった。下須は味がしないというのがどんなだか知っていた。
 下須が七歳の冬から八歳の初夏にかけて、何を食べようがまったく味がしなかった。
 帰り際、玄関まで見送りにきた王子から茶封筒を渡された。
「今日はありがとう。またよろしく」
 下須は目視できないくらいに微かな会釈を返して高級ホテルじみた廊下へ出た。エレベーターの箱の中で段々点灯していく数字を見上げながら、自分は一体何をしているのだろうと思った。割のいいアルバイトにしては歪すぎる。今日が前菜で次がスープでポワソン、ソルベを挟んだとしてその次回にはもう主菜ヴィアンドに突入する。デゼールの頃には王子はもういないだろう。残るのはアンパンマンの胴体、聖遺物、メッキも剥がれた無惨な銅像だけだろう。
 お互い様かと思った。王子が下民である自分のことなど何も知らないのと同じく、自分だって王子が何者なのか全く知らない。さっき向かい合ってポテトサラダを食べた相手は得体のしれない怪物だ。食人願望ならぬ被食人願望。
 下須は考えることをやめた。どうせ理解できないんなら考えるだけカロリーの無駄だと思った。

三
「ゲス君挙動不審すぎて。絶対なんかヤバいことに手染めてるやろ」
 稲葉の声が木曜の教室に響く。下須は口を引き攣らせて笑う。視界の隅、教壇に立って王子とその従者が黒板を消しているのが見える。王子の笑う口が見える。
 結局重要なのはヤバいやつかどうかじゃなくてヤバいやつに見えるかどうかだけであり、王子は王子の身分故にそもそも疑われない。あそこで黒板消し持ってる奴が真のパン男だと暴露したところで、下須の方を信じる人間はいないだろう。
 別に構わない。どうせあと一年そこらでクラスは替わる。肘の下、参考書の中でフライパンを模したキャラクターが口から吹きだしをもくもく吐いている。蕪の蒸し煮は煮崩れしないよう注意しましょう。教室の雑音はどうでもよかった。昨日のドラマもネットの誰かもどうでもよかった。こいつらは放牧されてる羊みたいにのんきに草食って笑ってて、まだ草原地帯が農場なことを知らない。世界が闘技場なことを知らない。
 料理教室は毎週水曜日の放課後に八王子家のだだっ広いダイニングキッチンで開講される。
「言われてた食材は準備したけど」
 白いテーブルの天板にトマトやセロリやニンジンや玉葱がごろごろ並んだ。あらかじめメールで送っておいた材料は一式揃っていて調味料も棚にある。そしてドレッシング類用のガラスの小鉢の中に赤黒い液体が浅く溜まっている。照明を弾く粘度や色味からそれが何なのかは分かった。分かりたくなかったのは、それがなぜここにあるのかだった。
「台湾とか沖縄とか豚の血を使ったスープがあるらしいね」
 王子はあっけらかんと言う。猪血湯、確かに間違ってはいない。
「あれは血液を固めたスープだから」凝固したタンパク質などミネストローネには合わないないから今回血は使わない。というかこれはそもそも王子の血だから使わない。
「だからそれ」
 王子は隣の水が入った碗を指した。「血液凝固を防ぎたいんだよね?それ生理用食塩水」
 採ったばかりだから新鮮。王子は左腕に右手を当てて言う。
「本気で」
 その後に何と続ける気だったのか飛んで下須は言葉に詰まる。
「僕のこと狂人だって?」王子は屈託なく笑った。「でも、だから表には出していないよ」
 実際その通りだった。王子がパン男なことは下須しか知らず、そしてそれが下須の口からしか漏れない限り事実として広まることはない。別に広める気もなかった。下須は自分のテリトリーが侵されない限り基本あらゆることがどうでも良かった。
 食材を前に無駄話をしている間にも時計の秒針は回り続け、一時間換算千二百円の給料が発生し続ける。そもそも料理教室の目的は「これ」だったはずだ。王子の一部の調理法を教えること。それを分かって話を受けたから仕方ない。下須は疲労のような諦めを感じながら、調理手順のどこに赤い液体を加えるか考え始める。
 下須自身にカニバリズムの忌避感はさしてなかった。
 かといって惹かれることもない。人間が人間を食べた歴史は確かに存在するし、遭難だの戦争だのいった状況がそこへと追い込むのは理解可能だった。完璧に理解できた。他人であれば、そして死んでいればそれは動物性たんぱく質の塊だ。
 それでもわざわざ食べたいとは思わない。人肉よりよほどましな味の食べ物がそこら中に溢れている中で、硬くて臭くて可食部の少ないそれを選ぶのはあらゆる面において効率が悪い。
 結局王子は食べさせたいだけで相手のことなどどうでもいいのだろう。王侯貴族の思考回路。施しをすることに快楽を覚えているだけなのだろう。下須はそれ以上考えるのをやめた。ことこの問題に関しては考えたくなかった。
 血液を三十ミリリットル含んだミネストローネはトマトとコンソメの味がした。

四
 カーテンを引いた部屋はまだ午後の早いうちから薄青暗い。
 何かの気配を察知して、リビングの水槽の中で透き通った魚がゆらりと泳ぐ。廊下の奥から錠が回る音と玄関ドアが引き開けられる音が響き、薄いノイズのような外の空気が流れ込み、それからドアが閉じて世界はまた遮断される。ただいまとも言わず帰ってきた少年は、ダイニングテーブルに指定鞄を置くとキッチンに入る。大理石のカウンター越しにリビングを眺め、ネクタイの結び目に指を掛けて緩めた。
 薄青い部屋は聖堂のように静かで聖堂のように冷えている。
 少年の目元は流れた前髪に隠れて見えない。そのまましばらく立ち尽くした後、掛けた指をゆっくり引き下ろすようにしてネクタイを解いた。布が擦れる音だけがしていた。蛇の死骸のようなそれを右手で左手首に巻き付ける。酷く緩かったので一旦ほどいて、一方の端を噛んで引きながらきつく何重にも巻きなおした。少年は確かめるように眇めて左手の指を軽く握って開く。はやくも縛り目の下で縒れた皮膚が青紫に鬱血し始めている。
 注射器は医療器具、包丁は調理器具、道具は目的に合わせて使い分けなければならない。それがここ二週間で学んだことの一つだった。
 まな板を用意しラックから包丁を抜き取る。柄が人差し指と親指の間にくるように右手で握って、左手は静かにまな板に置いた。人差し指の上を軽く刃先で引く。痕も残らない。刃は数秒逡巡した後、薬指の第一関節と第二関節の間をさっきより強くなぞる。一直線に薄赤く血が滲む。
 少年は制服のポケットから真っ白いハンカチを取り出すと、片手で手早く畳んで口にくわえた。深呼吸をするように華奢な肩が緩やかに上下する。数回。静かで薄暗くて独りだった。砥がれた包丁の刃は垂直に左手薬指の上に乗っている。少年は柄を握り直すと肩を入れ、刃を前に傾け、押し込んで引いた。

五
 下須は好き嫌いをしない。
 野菜だろうが青魚だろうが、出されたものは平らげる。下須が返却する給食の皿にはいつもゴマ一粒残っていなかった。舐めたようにきれいだが、実際舐めていたのは八歳の夏までで、教室中の轟々たる絶叫と非難を受けて(ぎゃーせんせーしもす君がきたないことしとるー)止めた。
 まずかろうが苦かろうが臭かろうが切羽詰まれば大抵の物は食べられる。飲み下せず、えづいて吐き出した吐瀉物でさえその気になれば床から?き集めて口にできる。実際八歳の頃、クラスが皆レクのドッヂでグラウンドに出て行った昼休憩の教室で、下須は給食の残飯が入ったバケツを見下ろし立っていた。鯖の煮汁とゆかり和えのつゆと味噌汁の汚濁に浮かんだ米の丘陵と鯖の骨の枯木立。担任教師に声を掛けられていなかったら、バケツに手を伸ばしていただろう。しかし担任教師は「下須くん?」声をかけて、下須ははっと我に返った。担任はピンクのプラスチックフレームの眼鏡の奥から下須を推し量るようにじっと見ていた。
 その頃から、叔母は下須に文明人としての食事作法を教え込み始めた。
 実際にはそれは叔母ではなく、もっと遠縁らしかったが何と呼ぶのか下須は知らなかったから、そう呼んでいた。叔父も叔母もその子供姉弟もデパートのマネキンみたいに善人だった。なのに下須はただ、礼儀程度にスプーンを握ってガパオライスを犬食いしようとした瞬間、叔母に腕をきつく掴まれたことだけ鮮明に覚えている。
「そんなのサルしかせんよ」
 その頃の記憶は叔母の一言と、あとは食って吐いていたことばかり鮮明で後は汚濁のなかに沈んでいる。濁った忘却の沼と、そこから突き出した断片的なエピソードの枯木立。
 最近残飯の量が減ったなと、七年の間隙を飛び越えて現在中学三年今週の給食当番の下須はぼんやり考える。目の前にあるバケツには、浅い味噌汁の水溜まりがあるだけで底が見えている。食べ残しが減ったのはここ一か月のことで、原因が何なのかは分かっていた。
 東福山駅近辺の塾に通っている中学二年生Yさんの体験談:夕食を取らず十時まで塾で勉強して、暗い道を駅まで歩きながらカロリーメイト(メープル)を齧っていた。背後からゆっくりした靴音が聞こえるのには気づいていた。だから歩調を速めた。後ろの足音はテンポを保ったまま、速くはならなかった。街灯で陰気に明るい駅の階段前まで来て、Yさんは背後を振り返った。暗い通りには誰もいなくて、ただ、電柱の影の輪郭が一瞬動いたように見えた。何かがその円柱型の影に身を潜めたように見えた。ざあっと風が吹き、線路側のフェンスに背の高い雑草が触れ合って大勢がさざめき笑うように鳴った。
 ちょっとしか見えなかったけど、その人影には頭が付いてなかったみたいだったとYさんは語った。
 恐怖に駆られ、駅舎に駆け込もうと上り階段に向き直ったYさんはそのまま硬直した。無人の階段を、上からボールが転がり落ちてきていた。ちょうど幼い子供が抱えて転がして遊ぶくらいの大きさで、しかし柔らかく弾むでもなく、段を落ちるたびに重く鈍い音を立てる。形が微妙に歪なせいかゆっくりと回転がかかり、だがまっすぐYさんの方へ落ちてくる。
 それが薄暗がりから街灯の明かりの範囲にごとんと落下した瞬間、Yさんの金縛りは解けた。
 ボールが縦に転がって、裏側になってた方が見えたんです。Yさんは後に語った。転がるにつれて、下唇と剥きだしの歯茎と上唇と潰れた鼻と目が順番に見えました。
 都市伝説は伝播する。パン男は子供から子供、学校から学校へと伝染し分裂し増殖しある種は独自の進化を遂げる。
 カロリーメイトを立ち食いしてるとパン男に追いかけられる。フルーツ味を食べているとパン男は怒って左手でその子供の首を絞めて右手を腹に突っ込み胃を引き千切って食う。チーズ味だと逆に逃げていく。晩を食べずに塾に行くと狙われる。明光義塾生だと狙われる。空腹だと狙われる。好き嫌いをする子供の頭を食う。食べ残しをすると殺される。
 しょーもなと笑いながら皆ニンジンひとかけら残さず食べるようになったのは、隣の笠岡で小学生ばかり狙ったストーカー事件が多発していたせいもあった。あとは、ほとんど原型をとどめていないが、パン男に妙なリアリティがあったせいだった。実際リアルだから仕方がない。
 王子は今もパン男としての活動を続けているのか、それとも噂が一人歩きしているだけなのか、下須は知らなかった。訊かなかったから知らなかった。深入りはしない。興味もない。そもそも雇用関係にあるだけであって、友人なんて論外だった。
「でも本人に電話で訊いたら、お前しか家知らんって言いよったで」
 ネアンデルタール人似の担任はそう言って、プリント類を挟んだ王子の連絡帳を下須に押し付けるように渡した。受け取るつもりはなかった。ただ担任が手を放すから受け止めただけだった。「頼んだ」言いながら担任は既に下須から顔を背け、教室を駆け出て行く生徒の一人に怒鳴っていた。「おい佐古お前、三者懇のプリント今日締め切りやぞ」「あ、さーせーん」
 教卓の後ろで誰かが黒板消しをクリーナーにかけていて粉塵が戦場のように舞っていた。下須は王子の連絡帳を手に、放課後の掃除が始まった教室の喧騒のなか立ち尽くしていた。
 水曜日とはいえ、王子が学校を休んでいる時点で料理教室も休講だろうと思った。ヴェルディッキオ東福山一五七号室のドアは冷たく閉じていた。自分はなぜこんな所にいるのだろうと下須は数秒本気で見失った。ともかくさっさとここから離れようと、郵便受けに連絡帳を突っ込む。静まり返った廊下に紙が擦れる音が予想以上に大きく響いて、それから空気にノイズが走った。空間の内と外が接続されるノイズだった。下須は呼吸を止める。
「下須君?」
 インターホンが王子の声で喋った。
 さっさと帰るつもりだったのに、なぜ家に上がることになったのか分からなかった。気が付くと下須は八王子家リビングの機能美ソファに座っている。普段ならもっと警戒しているはずだった。「ハーゲンダッツ食べる?」キッチンから王子が訊く。首を横に振ったはずだった。気が付くと下須の手にはアイスのカップとスプーンがある。脳のどこか遠くの方から警鐘の微かな響きが聴こえてきていた。落ち着いて考えなくてはならないのに、頭が回らない。下須の視線を追って、王子は自分の左手に目を落とし、微笑んだ。
「これ?」
 左手の人差し指は包帯できつく巻いた上からテープで留めてあった。じっと見ていると青い眩暈がした。とにかく、ガーゼに包まれた指の長さが欠けていないことまでは確認した。下須の手の中で、溶けかけたアイスクリームのカップが歪んだ。
「痛みのことを想定してなかった」
 王子の顔に浮かんでいるのは照れの苦笑にしか見えなかった。それが酷く異様に見えた。
「ごめん」
 下須は黙っていた。目の前の生物が何を謝っているのか分からなかった。王子は沈黙を何か誤解したのか自嘲気味に小さく笑った。
「幸福な王子だの何だの言っておいて、いざとなったらちょっとした痛みにも耐えられないとか」片手で目元を覆う。「最低だ」
「いや」痛覚を持った一般的な人間なんだからそれが普通だろう。むしろぶちぶち四肢を千切って配られるほうが困る。思っただけで口にはしなかった。そんなことをいくら喋ろうが、王子には届かない。ことこの問題に関しては王子の思考は下須と同じ回路を持っていなかった。
「...麻酔は」だから代わりにそう訊いた。
「そんな簡単に持ち出せるようなもんでもないよ。市販の痛み止めじゃ話にならない。キツいやつを一気に摂取したら今度は別の問題が出てくる」
 王子は目元を覆ったまま微笑んだ口で言う。下須は無表情のまま
「それは契約内容外」言った。王子の笑みが深くなった。
「下須君って察しがいいよね」
 察しが良いのと空気を読めるのとは全く別だと、幾度となく場の空気を凍結させてきた下須は知っていた。だから普段は、何か察しようが、自分からは喋らず気配を殺している。王子といる間は、向こうの方がとんでもない化け物だからそういったことを気にする必要がなかった。気が楽とかいうのとは別の話だ。
「手伝ってほしいって言おうとしてたのに、誘う前からフラれちゃったな」
「はじめから料理を教えるっていう話だった。八王子君を調理するのはおれの仕事じゃない」
 これ以上引きずり込まれては堪らない。さっさと南に飛んで行ってしまいたかった。銅像の王子と心中する趣味はない。
「もちろん、下須君が何か罪悪感や刑罰を負うことだけはない。全部僕の我が儘だ、それに伴うものは背負う。
...どっちにしろ、手伝ってくれようがくれまいが、僕は僕のすべきことをする」苦笑した。「とか言ったって、君の気が変わったりはしないんだろうな」
「なんでおれだったの」
 下須は訊いた。料理教室はどうせ口実だろう。実際の目的は、講師じゃなく王子を調理してくれる猟師を探すことだったはずで、だとすれば自分なんかより良い人間が他にいたはずだ。王子の優しさに救われた人間が。その思想を理解する人間が。
 王子は虚を突かれた顔をした。
「気づいてなかった?僕と下須君って、似てると思ってたんだけど」
「は」と思った。声に出ていたかもしれない。下民と王子、貧乏人と金持ち、血統書付きと野良犬、似ている?どこが。飢えも知らない人間が、自分の気色悪い欲求を慈善事業みたいに語るなと思った。脳の細かい血管が沸騰して弾けて古い記憶が噴出する。
 下須は八歳の頃、何を食べても味がしなかった。体重は十八キロしかなかった。記憶が頭の奥から染み出てくるのを押し込めようと、毎日食べ物を詰め込み続けた。叔母が作る暖かくて栄養バランスが整っていて塩味が薄い夕食だけじゃ栓をするには足りなかった。他人の家の自分の部屋で真夜中に汗でずぶ濡れになって目を覚ましては、足音を殺して階段を下りた。
 暗いキッチンにしゃがみ込んで冷蔵庫の明かりを浴び、食べ物を手あたり次第掴んで口に詰め込み続ける下須の背後で階段が軋んだ。振り返るとパチリと電灯が付き、煌々と照らされた下須を見つめ、白い顔をした叔母が立ち尽くしていた。下須は口いっぱいの冷えた米とベーコンと味噌とピーナツバターと小松菜の混合物を無理やり飲み下すと、そのまま奥のシンクに駆け込んで全部嘔吐した。
 八王子家の無機質ソファに沈み込んで天上を仰ぎ、頭蓋の底から過去が込み上げてくるのを感じていた。その記憶を、下須はハーゲンダッツの蓋を開けカップを口に当てて傾け、重たいクリーム状に溶けたそれで流し込んだ。どろっとした半液体が喉を焼いてゆっくり伝って落ちていく。胃で脂っこいあぶくが弾けて胸がむかついた。そのままガタリとソファを立ち、淡いフローラルの香りがするトイレに駆け込んで全部嘔吐した。

 下須が七歳七か月の十一月、母親が死んだ。
 七歳七か月の下須は、母親が死んだことを知らなかった。世界は2LDKの広さしかなくて、玄関扉の内側にはつまみ式の錠に加えダイヤル式の錠が掛かって閉じていた。テレビの画面に映るのはどこか遥か遠くの世界だった。それは眩しかった。部屋に西日が差しても母親は帰ってこず、部屋は薄暗くなり、画面の向こうの世界はいよいよ眩しさを増した。
 冷蔵庫の中には小袋のワサビと?油と半分残った豆腐とチー鱈があった。
 戸棚の中にはたこ焼き粉と塩とおつまみナッツと即席味噌汁があった。
 勝手に何か食べると叱られるのは分かっていた。先々の叱責のことなど考えている余裕がなくなってから、豆腐チー鱈ナッツフリーズドライ味噌汁の順に口にした。たこ焼き粉のジッパーに手を掛けるころには、その「先々」が来ることなど考えられなくなっていた。
 母親が一晩帰って来ないことはよくあった。ただ、何日も帰って来ないのは初めてで、それはもう二度と帰っては来ないことを意味した。たこ焼き粉がなくなった。下須は小瓶に固まってこびりついた塩を爪で削って舐めた。酷く喉が渇いたが幸い水ならいくらでもあった。暗い部屋の中で、切り取ったように四角形に明るいテレビ画面の向こうには天国があった。飢えで霞んだ下須の視界にはエフェクトみたいな星がきらきら舞っていた。
 他の全ての感覚は膜を一層隔てたように遠のいたのに、飢餓感だけは鋭く胃を刺し、その針はだんだん伸びて下須の身体を内側から貫いた。
 そこに来ると記憶はほとんど真っ白になっている。浮かび上がってきそうになるたび過食と嘔吐を繰り返しているうちに、本当に忘却の中に沈んでしまった。
 ただ、母親が帰って来なくなって何度目の夜だったのか分からないが、とにかく暗い部屋で案の定テレビを見上げている記憶だけは残っていた。画面からは光輝が溢れていてほとんど天使が迎えに来たみたいだった。眼窩が窪んだ下須の目には、画面の向こうの厨房が映っていた。どこかの高級ホテルの厨房は無機質で金属的で清潔でほとんどSFの域だった。広いそこにたった一人白い服を着た女がいて、片手で火にかけたフライパンを揺すり、マグマのように泡立ったソースの上を肉が滑って音が爆ぜた。魔術だった。女は片手の親指で瓶の蓋を開け、中の金色の液体をフライパンに回し掛ける。ぼうっと青い炎が立ち昇る。下須は見入っていた。没頭したせいか、痛みを感じる器官が既に壊れていたのか分からないが、とにかく何もかもを忘れて見入っていた。
 誰だか知らないタレントが仔牛のフランベ~木苺とダークチョコレートソース~をナイフで一欠け切り取って口に運んで咀嚼している間下須が噛みしめて味わっていたのは血の味だった。

 明転。
 気が付くと下須は白い部屋の白いベッドに寝ていて腕から管が伸びていて、手元に大きなリモコンとボタンがあった。押すと扉が開いて白い服の人影が入って来た。目を開けていられなくて、薄く瞑りながら、自分はこれからフライパンに収まるサイズにカットされ、黄金の何かを掛けられ、大きな青い炎になって燃え上がるのだろうと思った。まだ調理師と医師の違いも分からなかった。
 下須の右頬の傷は深く、糸が抜けるまでに一か月半かかり、抜いた後も第二の唇のような醜悪な引き攣れが残った。

「大丈夫?」
 下須が洗面所で口元を洗って出てくると、キッチンカウンターに凭れた王子がそう訊いた。下須は制服の腕で口を拭いながら王子の顔をまじまじ見た。いつも通りの微笑み。異常だと思った。家を訪れたクラスメイトが溶けたアイスクリームを一気飲みして勝手にトイレに駆け込んで吐いて出てきた時の一般的な反応がどんなだか知らないが、とにかく王子は異常だと思った。
「辞めたい」
 下須が言うと王子はキッチンの大理石の天板に目を落とした。
「そう」
 静かに言う。何らかの搦め手が来ると身構えていた下須は拍子抜けした。
「ごめん、色々と迷惑掛けたかな」
王子は苦く笑った顔を上げて言い、下須はこの静けさこそが搦め手かもしれないと思い直した。掛かると思ってるなら読み違えている。
「何か不快に感じさせたなら全部、僕のエゴのせいだ。自分が周りから見れば気持ちの悪いことをしている自覚はあった。だから隠してたって、前も言ったっけ」
 水槽のような広くがらんとしたリビングダイニングに声がぽつぽつと落下していく。
「...自分にできる限りの人を救えっていうのが太平洋戦争で軍医としてミャンマーにいた曽祖父の教えで、そのまま祖父から父を経由して僕に伝わった。
 でも昔、学校で家系図を描く授業の時にふと思った。曽祖父が戦場で何人救ったのか分からないけど、それが結果的に他の何人もの死を招いたんじゃないかって。それで気になって遡ってみたら、祖母方の何代か先祖は戊辰戦争の時新政府側に付いて戦ったらしいことが分かった。戦争っていうのは殺すか殺されるかで、先祖が誰かを殺したおかげで自分が今生きてることも分かってる。でも家系図を眺めて、自分の上に積み重なった死者の数に圧し潰されそうになった。
 同じくらいの頃、父が患者の遺族に詰め寄られてるところを見ちゃったのも多分影響した。結局医者にできるのは命を救うことじゃなくて、延ばすことだけだ。だとしたら何ができるか考えた。自分が背負ってる負債を払うために、もっとシンプルな方法が欲しかった」
「どこが似てた」
 下須が訊くと王子は小首を傾げる。
「さっきおれとあんたが似てるって言った。どこが」
「ああ、それは、食べ方が」言葉を探すような王子の沈黙と下須の絶句が重なった。
「曾お爺さんは帰って来てから完全な菜食主義者になったんだけど、食事の後は皿が洗ったみたいにきれいなくらい残さず食べた。家族にも食べ残しは許さなかったらしい。それは祖父にも引き継がれて、さすがに折檻はなくなったらしいけど、結局父も強迫観念に駆られるみたいにきれいに食べる。下須君が給食を食べた後の皿が、それに似ていた」
 静寂。先に破ったのは下須だった。
「全然違う」
 王子の曽祖父は飢えを知っているのかもしれない。あるいは、と下須は口腔内、右頬の内側にある滑った引き攣れを舌でなぞった。あるいは人間を食べたことがあるのかもしれない。しかし自分と王子はまったく別だったし、これからも別だろう。永遠に分かりあえることはないだろう。それだけ伝えておきたかった。あとはもう言いたいことは一つしかなかった。
「帰る」

六
 最近東福山に出没するパン男は、飢えた迷える仔羊たちに自身の肉を差し出す。「これをお食べ」それは油紙で包んだ一切れの肉だとも、ただの比喩で実際はアルミホイルで包んだ一切れのパンだとも言われる。その肉だかパンだかを口にすることで我々は主と一体となれるのだと信徒たちは言う。
 パン男が妖怪から救世主に昇格した要因には、笠岡で起こっていた連続児童誘拐殺人事件の犯人が捕まったこともひとつあった。あとはパン男の持つ催眠能力だか洗脳能力だかのせいだろうと下須は思った。
 噂によれば、パン男に配られた手作り感満載の歪なパンは疲労回復滋養強壮その他諸々の効能に優れた万能食らしい。少なくとも鉄分には優れているだろうと下須は思った。
「あのカルトの教祖ってゲス君やろ」
 放課後の教室で下須が参考書を読んでいると影が落ち、見上げるとA(安上)B(別府)C(嶋)がこっちを見下ろしてにやにや笑っている。
「違うけど」
 本気の声が出た。自分があのサイコと間違われるとは心外だった。こいつらはパン男の正体を知らない。そう思った途端下須の中で制御できない感情の波がうねって爆発した。勝手に右頬が痙攣して跳ねてから、それが笑いだと気付く。ABCの顔が本気で引き攣るのを見ながら下須はヒース・ロジャー版ジョーカーみたいに笑っていた。「あれ。し、正体」笑いで声が詰まる。「正体は、八王子だ」
「...お前」ドン引きの沈黙のあと、最初に我に返ったCが言った。「マジでヤバない?」
「ヤバい?」笑えた。おれが?「「あいつはパンに自分の体毛だか爪だか皮膚だか血だかを混ぜ込んで他人に食わせて喜んでる」
「いい加減やめとけ。名誉棄損で通報もんやぞ」
「つかそれやっとんの王子じゃなくてお前なんと違うん」
「本人に訊いてみれば」自分の笑顔がぞっとするような有様になっているのは分かっていたが気にならなかった。断崖絶壁から飛び降りたみたいに絶望的に爽快だった。
「もう関わらんとこ。はよ部活行こ。外周増やされるぞ」BがAの肩に手を掛けて言ったところで、教室の後ろの扉ががらりと開いた。
「また?サッカー部。そろそろ日田先生に殺されるよ」
 苦笑混じりの声が言う。扉に手を掛けて王子が立っていて、その微笑みは下須には向けられていなかった。
「あのさー」Aが言った。「王子ってパン男なん?」
「うん」躊躇も逡巡も違和感もない返事だった。
「マジ?」
「うん」
「なんで?」
「何でって?」王子は普段と全く変わらない仕草で小さく首を傾げた。「一人でもお腹空かせた人が減ればいいなと思った、とか」
 ABCは黙って、Cが「あー、なるほど」口を開いた。「王子ってゲスと仲いいわけ?」
「どうかな。そうありたいと思ってはいるけど」言って黒板の上に掛かった時計に目を上げる。「というか本当、部活行かなくて大丈夫?」
「だいじょぶじゃねーわ。行くわ。行くぞ」BはAとCを引きずって行く。王子は横にずれて道を譲った。
「王子さ、あんまゲスと一緒におらん方がええぞ。」
 Bに引きずられ教室を出て行きながら首をひねってAが言い残す。
「いつか食われるぞ」
「気を付ける」王子は笑ってABCを見送って、それから教室の方に向き直る。
 下須は黙っていた。特に言うべきこともなかった。王子は何か考えるように斜め下に視線を逸らしていて、それから言った。
「入ってもいい?」
 拍子抜けした。勝手にしろと思った。王子は後ろ手に扉を閉めて教室に入ってくると、下須の前の椅子に凭れて立った。
「何の用」
「別に」王子は苦笑する。「そんな身構えなくても、もう料理を教えてくれとか頼んだりしない。ただせっかくだし話したいと思って」
 下須には話すことなど何もなかった。だから机に開いた本に目を落として黙っていた。
「何読んでるの」
 無視した。
「進路変えたんだ?」
 下須は「中学生からの公務員講座」から暗い目を上げた。視線を受けて王子は平然と微笑んでいた。窓から緩い風が吹き込んで前髪が舞う。風向を見上げるように王子は窓の外へ顔を上げた。
「下須君、料理人に向いてると思うんだけどな」
 下須は返事をしなかった。心境の変化というほど大したことじゃない。ただ、自分は食いたいだけで食わせたいとは全く思わないことに気付いた。王子に気付かされたのだとは意地でも言わないが、あの歪な料理教室がきっかけだったのは否定できない。
 とにかく食えるようにしたかった。もう壁だのティッシュペーパーだの自分自身だのを食べる破目に陥らないように、二度と飢えることのないようにしたかった。何の知識もなかったが、公務員は安定の象徴な気がした。
「君がやってるレストランとか、行ってみたかった」
 王子は言う。客としてじゃなく食材として来る気だろうと思った。
「...別に、おれがいなくても代わりはいる」
 今やパン男は一部オカルト人間と妙な方向に救いを求める人間の崇敬の的になっている。幸福な王子の像は罪悪感さえ無いままに燕を操り死に至らしめる。他人を救うための王子の自殺に巻き込まれ、小さな燕は尊い犠牲としてあっさり死ぬ。一人くらいは、王子の思想を理解するかはともかく、解体を手伝ってくれる人間くらいは見つかるだろう。
「いや、下須君みたいな人間は他にいないよ」
 お前がそれを言うのかと下須は思った。
「僕はこれまで理解されたことはなかったし、これから先も多分ない」
「おれは」釘を刺しておこうと思った。「あんたの崇高な理念とか博愛とか献身とか一ミリも理解も共感もしていない」
「でも、それでも料理を教えてくれた。僕がすることへの緩やかな協力だと、僕には思えたけど」
「ただのアルバイトだとおれは思ってた」人間は、金さえ貰えれば多少のことはやる生き物だと、王子はまだ分かっていないのだろうかと思った。自分は無償の奉仕を捧げた燕ではない。飢え凍える人々に配給を配るボランティアでもない。金さえ積まれれば独裁国家の殺人鬼首相だろうがカルト教団の首領だろうが食わせてやるような料理人だった。料理人になるつもりだった。
「世界にパン男が必要だとは思わない?」
 正直まったく思わなかった。
「自分の身体を千切って周りに配るような、他人のために進んでまな板の上にあがるような犠牲は必要じゃない?」
「献血じゃ駄目なの」
 常々思っていたが訊きはしなかった疑問が口から転がり出た。虚を突かれたような王子の顔を見て、まさか今まで自分で考えなかったわけじゃないだろうと逆に動揺する。医者の家に生まれたなら、血やら網膜やら心臓やらを提供する選択肢の方が、自分を調理して食わせることより先に思い浮かぶはずだった。王子の見開いた目は下須の背中に鳥肌を立てた。貧血で倒れるんじゃないかと一瞬思った。
「なら」王子の顔はいつにも増して白く見えた。「パン男は何のために自分を食べさせたりしてるんだろう」
下須は数秒迷って結局口にした
「パン男の性癖だろ」
 言った瞬間、いつも何か失言しては周りの空気を凍らせる時と同じように、地雷の真上に踏み込んだのが分かった。というよりは一歩踏み出した先に地面がなくてそのまま身体が奈落に落下していくのが分かった。握った拳が汗で湿る。パン男に共感も理解もできないのは本当だし慣れ合うつもりもなかったが、かといってそいつの依って立つものを粉々に砕いてしまいたいわけじゃなかった。
 がらんとした教室の闘技場に下須は立ち尽くし、自分が胸に包丁を突き立てた王子の顔から血の気が引いていくのを茫然と眺めていた。
 空白の永遠が過ぎた。それから
「ならパン男は大衆の為に身を捧げた者でもなく、ただの変質者ってことになる」
 失血死した王子の死体が喋った。下須は黙っていて、それは肯定と同意だった。
「パン男は誰かのために犠牲になるわけじゃなくて、ただ自分の欲を満たすためだけに生きてることになる」
 下須は否定しなかった。実際そう思っていた。死体の口から乾いた笑いが漏れた。
「...軽蔑する?」
 下須は舌先で口腔の引き攣れをなぞった。これは自分の人生に残った噛み痕で、その欠落は今後どれだけ食っても消えることはない。
「別に」
 言うと王子は顔を上げた。
 動機が何であれ、自分を切り刻んで他人に食わせようとしている時点でとっくにヤバいやつではあったから、今更軽蔑もクソもなかった。むしろ
「そっちの方がまだいい」
 自己犠牲の美徳も博愛の精神も吐き気がする。自分を切り刻んでまで他人の飢えを癒そうとする人間など、存在すべきじゃないと思った。なぜなら奴らは飢えたことがないからだ。自分を食ったことがないからだ。それよりは歪んだマゾヒズムの方がよっぽどマシだと思った。
「そっちの方がまだ理解できる」
 それも欲の一種ではあるからだ。下須の身体のなかに残った口のような傷痕は、普段は医療用ホチキスできつく縫い留めてあるものの、時折些細なきっかけでぱくりと開いて下須を奈落に飲み込もうとする。暗くがらんとしたワンルームのマンションに、あの飢えで満ちた空間に突き落とそうとする。下須は自分の中の空洞に暴力的な食欲を飼っていて、王子の場合はそこに被食欲がとぐろを巻いているのだろうと思った。
「下須君ってやっぱ異常だよ」
 茫然としたまま王子が言って、どの口がそれをと下須は思った。
「だから友人にはなれないって言ってる」
 理解はできても共感はできない。というか王子が他者から完全な理解や共感を得ることは一生ないだろうと思った。
 アンパンマンにとって友達は愛と勇気だけで、つまり残りは全部、バタコもカバも天丼も彼にとっての被食者か捕食者でしかない。パン男であることは完全な孤独を意味する。
 王子は笑った。笑ったけど顔から血の気は引いたままで目に暗い影があって、下須がさっき刺した包丁の柄がブレザーの胸から突き立ったまま血の染みが黒く広がっていた。自分は確かに王子の一部分を殺したのだろうと下須は思った。そしてそれはもう息を吹き返すことはないのだろう。仕方ない。この世界は闘技場で調理場で自分が食われないためには相手を解体して食ってやるしかない。下須はそれを七歳七か月の頃から知っていた。
 時間的にも空間的にも遥か遠くなったあの狭いワンルームで、一人画面の向こうで燃え上がる青い炎を見つめていたころから知っていた。

七
 それから中学校を卒業するまでの間、下須が王子と喋ることは一度もなかった。
 あの日最後に王子が言った一言を、しばらくの間下須は覚えていた。王子は西日を顔の右半分に浴びながら、カーテン越しの緩い風を受け普段通りの微笑みを浮かべて言った。
「下須君はやっぱり、料理人になるべきだと思う」その胸には相変わらず下須の包丁が突き立ったままだった。
「包丁の使い方がすごく綺麗だった」
 自分が何と返したかは覚えていない。
 クラスが同じせいで完全に関わらないことは不可能だった。どう工夫しようがその姿が視界に入る。どう意識を遮断しようがパン男の神話は耳に入る。
「王子は将来どうすんの」クラスの女子の誰かが訊いた。教室内で漏れ聞こえてきたいつかの会話だった。下須は窓際かつ隅の自分の席で突っ伏して寝ていた。「医者かな」王子が笑って答えるのを聞きながら突っ伏して寝ていた。
 中学を卒業して別の高校に進んだ。初めに王子の声を忘れた。次に目元から上に影が落ち微笑んだ口元も忘却の濃い霧に巻かれて消え、ただのぼやけたシルエットになり、さらさら風に吹かれて流れて消えた。名前を忘れる頃にはそのこと自体にも気づかなくなっていた。
 ただ、進路希望調査票の志望する職業欄には料理人と書いた。

八
 それから数年後、自分が都市圏に五店舗展開している本格創作アジアンフレンチの一店舗を任されていることを下須はまだ知らない。
 その二階兼住居のポストにハガキが一枚届くことを下須はまだ知らない。
 閉店作業やら翌日の準備やらを終えて午前二時に帰宅した下須は、役所や税務署や水道局からのピンクや緑や青の封筒に紛れたそれを霞む目を細めて一瞥し、すぐにポケットのレシートと一緒に屑籠に落とし、キッチンに入って冷蔵庫から軟水をグラスに注いで飲み干し、それからなぜか戻って来て拾い上げる。理由は下須にも誰にも分からない。ご来店お待ちしておりますの文言を胡散臭そうに睨んでハガキを裏に返し、それからパソコンを起動して検索タブに店名を打ち込みエンターキーを押すことを下須はまだ知らない。
 映し出されたサイトのトップには、SFじみた厨房の写真が載っている。冷たい金属の天板に軽く両手をついて、すらりとシェフらしき男が立っている。下須は暗い部屋でパソコン画面の眩しい明かりを浴びて茫然としている。男の白い袖口から覗く手首には包帯が巻かれ、左手の中指と小指は明らかに関節一つ欠けていて、頬には大判のガーゼが当てられている。

 嫌な色の滲む眼帯を付けた男がこちらを見つめ聖人のように微笑みかけていることを、下須はまだ知らない。



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