明後日の旅―生きては帰れない―

白内十色



 旅人は緑の広場に貼られた黄色の危険表示テープを革のグローブをした手でつまみ上げた。気温は北に向かうにつれて次第に寒くなっているようだ。北に向かっているという実感がそうさせているのかもしれない。空は和紙を幾重にも重ねたといった具合で、しかしこれは旅人の生まれた頃からずっと変わらない景色だった。旅人は晴れ間を見たことがない。昔は良かったと嘆く老人しか、知らない光景だろう。
「旅人さんかい? あいにく通行止めだよ。命が惜しくないなら行ってもいいが、責任は取らないからね」
 広場の端に簡易的に立てられたまま数十年の月日が過ぎたといったようなボロ小屋から筋肉質な男が現れて言う。小屋の横には薪の山が積んである。今では珍しくもなくなった、共同体から離れて生きている人の一人だろう。それとも、守るよう指示をした人間が居るのだろうか。
「北海道に行きたいのです。電車は止まっていると聞いたので、直接行こうかと」
 旅人が言うと、男は嬉しさと落胆のない混じった顔で首を振る。男の目線の先にはトンネルがある。トンネルは広場の端にぽっかりと穴をあけていて、深淵を見せている。
「あそこを通ってたのは、電車じゃなくて新幹線だ。電車のお化けみたいなやつだよ。うんと早くて、一日もかからずに目的地に着いちまう。世界のどこかじゃ動いてるのかね? 少なくともここじゃお役御免だ。みんな生きるのに必死なんだろうさ」
「青函トンネルっていうんですね? ここから先は」
「そうだ。よく知ってるな。北海道へと足でいく唯一の手段、青函トンネルだ。でももうあそこは通れないよ。旅人さん、帰りのアシは大丈夫かい?」
 旅人は脇に停めてあるウォークバイを少し叩く。
「ええ。補給があるならいただきたいですが」
 旅人の生まれる前に世界の一変する事件が起きたと言い伝えられている。その日から世界には『際害(さいがい)』と呼ばれる怪奇現象が発生するようになる。際害は様々な形式で現れ、命を奪い、インフラを破壊した。しかし奪われるものと対照的に僅かながら人類が得たものもある。それがアシと呼ばれる移動用の乗り物だった。旅人の所有しているウォークバイはその中でも特に空を飛ばないものを指す。
「少し見ていくか? トンネルに入らなきゃ安全なんだ」
「やっぱり、際害ですか?」
「ああ、くそったれのな」
 テープをくぐってトンネルへと近づいていくと、その内部の暗闇がどんどんその濃さを増すように思われた。
 男は石を拾ってトンネルの内部へと投げ入れる。青函トンネルを新幹線が走っていたころのレールは、まだ鉄を求める業者に剥がされていない。石がレールに当たったのだろう、硬質な音が内部で反響した。
「音がするだろう? 無機物はトンネルに入れるんだ。だが、生き物は入れない。入ると、消えちまうというのが正確か? 岩ネズミでも投げてみると分かるぜ」
 岩ネズミは甲殻を身に着けたネズミの変種だ。聞くところによると北海道から来ていた定期便がいつまでも来ないのだという。海も近年は際害の影響で危険極まりないため、実質的に北海道への出入りはこれで不可能になったことになる。
「そうですか、では、諦めます」
 旅人は淡白に言う。そしてすぐさまウォークバイにまたがってきた道を戻ろうとした。
「待ってくれ! 行かないでくれ!」
 旅人は振り返る。
「あんたが行ってしまったら俺は話し相手を失う。ずっとこのトンネルを見て生きてきたんだ、ここから先、他の場所に移る気もない。トンネルが通れない今、ここアオモリは日本の北の端だ。誰も来やしねぇ」
 男は手を振り回して訴えかける。それを見つめる旅人の目は冷たい。
「今まではあんたみたいな北海道に行こうとする奴、逆に北海道からこっちに来る奴が青函トンネルを渡っていた。そいつらと話す日々は楽しかった。もうおしまいなんだ、俺は。だからもう少しだけ、話し相手になってくれないか。気が触れたら俺は自分でトンネルの中に入っちまうかもしれねぇ。それが怖いんだ」
「僕はこの地に何の思い入れもありません。土地に縛られたあなたの生き方も理解できません」
「そんなことは言わないでくれ! 飯ならやる。燃料もだ。少しの間だけ話し相手になってくれ」
 旅人は鞄の中にある食糧を思い浮かべた後、しぶしぶ頷きました。
 その夜のことです。旅人はそう、堪えきれなかったのでしょう。このようなことを言いました。
「もしかして、青函トンネルから生還できないってことなんじゃあ?」
 次の日、男は首を吊った姿で見つかりました。
 旅人はため息をついた後、家の中に残された金目の物を全て持って旅を続けました。
おしまい


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