ドン・キホーテ

驢馬男



 うちの高校にはシガナオヤがいる。漢字は滋賀直矢。親が乱心したとしか思えない。よりによって暗夜行路。なら山手線の電車に撥ねられて後養生に城崎温泉へ出かけて鼠の串刺しを見るような奴かというとそうでもない。ただ暗くはある。やはり身に合わない名前を背負わされるべきじゃなかったんだろう。
 俺は一年五組で奴は二組だった。校内ではそれなりに有名人だったみたいだが、俺はその手の話に大して興味がなかったから、一年も夏になるまで知らなかった。
初めに滋賀の存在を知ったのは図書室の貸出名簿だった。貴重な昼休を仕事に捧げる図書委員はまずおらず、そうなるとパソコンもスキャナも使えないので旧時代な名簿に名前を書いて本を借りるしかない。直前の欄にいつも滋賀の彫刻刀で彫りつけたような名前があることに気付くまで、そう時間はかからなかった。名簿には俺の名前と滋賀が交互に並んだ。やたら長いライトノベルのタイトルと「砂の女」「悪霊」「異邦人」が交互に並んだ。
 滋賀直矢を視認したのは衣替えがあってしばらく経ってからだ。
 昼休後に着替えて体育館へ移動しているときだった。くだらない話をしながら歩いていると紗々氣がいきなり声を潜めた。
「おいあれ例のシガナオヤ」
「は?」
 前から二宮金次郎スタイルで本を食い入るように読みながら生徒が歩いて来ていた。とにかくパンチはあった。髪は痛み放題で、電気ショックを受けたみたいになってるのを無理やり一つに束ねている。ばっさり垂れた前髪に隠れて顔は見えない。俺たちは黙って廊下側に寄る。すれ違うとき、滋賀がぶつぶつ何かを呟き続けているのが聴こえた。俺たちは黙りこくったまま廊下を曲がって、階段を下りる段になってようやくげらげら笑った。とにかく俺を除く紗々氣と青瑠璃は笑っていた。俺はうわーと思っていた。あれが例のシガナオヤか。
「やば」
「きっつ」
「眼鏡お前知り合いだったりせんの?」
はあ?「なんでよ」
「だって読書友達じゃん」
 はあ?俺は青瑠璃のNIKEの体操シューズ袋を奪って手摺りの向こうに放った。「守備範囲が全然違えよ」
 馬鹿野郎とわめいて青瑠璃は手摺りから身を乗り出す。ここは四階と三階の間、うまくいけば一階まで落ちただろう。
 滋賀と同じ分類で括られるなんて不名誉なことには耐えられないので、俺は当分図書室には行かない。

 それから色々あって、具体的には中間試験があったり青瑠璃が同じクラスの玉簾真珠のことを好きになったり期末試験があったりしたが、滋賀は俺の毎日にほとんど絡んでこなかった。貸し出し名簿には相変わらず眼鏡橋と滋賀が交互に並んで、時々爆発した髪を一つに縛った滋賀が廊下を徘徊するのを目撃するだけで、それもすぐに日常の一部に溶けた。
 物語が動くのは、夏も終わりに近づいてからだ。
 俺は塾から帰るところで、夕焼け色の町のなか自転車を漕いでいた。熔けた金属みたいな凄まじい夕日だった。前庭だった草の海から覗く朽ちかけたお化け屋敷は染まって禍々しく見えた。度胸試しで探検していた小学生の頃は虚勢を張っていても本気で怖かったし、いまでも町で一番不気味な廃屋はここだと思っている。
 庭の奥の方で草がざわっと揺れた。中に何か生き物がいる揺れ方だった。俺は無意識にブレーキを握り、草が何かに押されて折れている一帯の辺りに目を凝らしていた。また草が大きくしなって揺れる。野良犬か猫か、もしくは。俺は昔流行った噂を思い出している。ここで大学生の女の人殺されたって知ってる?凝視しすぎて目の奥が痛くなってくる。自分の息の音がうるさい、と思ったがそれが草叢の方から聞こえてくることに気付いた。荒い息とそれに混じった短い悲鳴。俺の身体は勝手に自転車のストッパーを蹴って停める。草を掻き分けて、むっと青臭い庭に一歩踏み込む。ざわざわ草の鳴る音・息・声に近づいていく。草が足と腕を打つ。バッタが跳ねる。視界は夕日の赤とオレンジと金で、草が風でうねるのに合わせて揺れている。俺は息を吸うと揺れ動く草を勢いよく両手で掻き分けた。
 地面にうずくまった滋賀が目を見開いてこっちを見上げていた。

 誇大妄想、パラノイア。俺は最近南米のマジックリアリズム小説にはまっている。ドノソ、ピンチョン、ボルヘス。
 アルビノ、鬼子、邪眼、義眼、痣、白狐、御祓い。滋賀の話を端的に纏めればこんな感じになる。ありがとう、と茫然と言った滋賀は、一層茫然とした俺に手を差し出されもせず自力で立ち上がる。学ランから草切れがぱらぱら落ちた。
「おかげで...危ない所だった」
 滋賀の顔をまともに正面から見たのは初めてだった。学校では常に俯き加減なせいで顔が前髪に隠れる。まともに喋った声も初めて聞いた。こんなにしっかり声が出せたのだということがまず驚きだった。おかげで割とまともな人間に見える。それなのに、背筋をずっと悪寒が這い回っている。生々しすぎるから、実際潜り込んだバッタが這っているのかもしれない。
「君、眼鏡橋タクト君だよね。何度か学校ですれ違ったことがあるんだけど。やけに光背が派手な子がいるなと思ったから、覚えてた」
 滋賀はどろどろした夕焼けを背に立って微笑む。その瞳の中で狂気が渦巻いているのが見えた気がした。学校の廊下の果てに滋賀の奇行を見て笑うのと、一メートルの距離に立ってその純粋な妄想の暴風にさらされるのとは全く別だ。俺はずり落ちてきたメガネを押し上げる。
「僕は硝子川セセリ。改めてどうもありがとう、眼鏡橋君」
 滋賀はそう言って笑った。
 もう少し丁寧に説明すると、滋賀は代々霊力を用いることを家業とする家に生まれた。母親は当代きっての巫女だったが、滋賀を生んで死んだ。六人いた兄姉もばたばた死んでいき、白い髪と赤い目のせいで親族から忌み嫌われた滋賀だけが残った。祖父母は滋賀を座敷牢に閉じ込めようとしたが結局死に、滋賀は幽閉状態から解放されたと同時に孤独になった。滋賀の力の水源は左目にあり、右目は八歳の時にその力に食われてしまったため義眼だ。右目を閉じれば、滋賀には現世の風景と重なって幽世が二重写しに見える。滋賀の背中には奇妙な紋章の形の痣があり、ある日酒に酔った父親に酒瓶で殴られた際それが見つかってしまう。母親の背中にあった痣とまったく同じ形のそれを見て父親は恐怖に駆られ、滋賀をそのまま酒瓶の割れた切っ先で刺し殺そうとするが、頭を抱えて倒れた滋賀の背中の痣から飛び出した白いキツネに喉笛を噛み千切られて絶命する。
 それから滋賀は平穏な生活を求めながら硝子川家の守り神であるキツネとともに妖を討伐し続けている。
概ねこういった趣旨のことをお化け屋敷の前の草原で語った。宙を見上げて時折確認するように尋ねたり小さく笑ったりする。
「あれ、眼鏡橋君にはおキツネ様、見えてないの」
 見えねえよ。
「...不思議だ。光背は見たこと無いくらいの装飾なのに。実際さっきもムカデの妖を打ち払ったし、力はあるはずなんだけどな」滋賀は宙を見上げて微笑む。「おキツネ様も、興味深いって言ってる」
 まじか。
「俺そろそろ行かないと」
 辺りはいつの間にか光よりも影の方が濃くなっている。そう、と滋賀はあっさり言う。
「まあ、学校が始まればすぐまた会えるね」
「学校で話すのはまずいだろ」つい語気が強くなった。「俺らが二人でいるとほら、強めの幽霊とか寄ってくる」
 こいつと同類だと誤解されるのだけは御免だった。。

 図書室では案外滋賀に会わない。名簿を見て、多分滋賀が滋賀でいる間は接触してこないのだとふと思いついた。
 滋賀とまともに喋るのは週に一回くらいで、硝子川セセリとしてお化け屋敷の縁側に腰掛けて俺を待っている。やがて硝子川が僕っ娘なことや白狐の尻尾が九本あることを知る。
 どこからどこまで妄想なのかと訊かれれば、多分初めから終わりまでだろうと答える。
 滋賀は少なくとも外見は男で髪は痛んだ茶色で目は黒だ。
 別に好きにすればいい。趣味嗜好はそいつの自由だし、それを表にさらして笑い物になるのも自分の責任で、外野が口を挟む問題じゃない。それでもじきに傍観していられなくなってくる。俺が奴の舞台に組み込まれ始める。
「僕が目になる」
 滋賀は縁側に座ってずっと俺の方へ身を乗り出し言う。
「僕が見て、君が切る。二人ならきっと黒蛇も打ち払えるよ」
 滋賀はジャンプのコミック一巻を一週間で演じるくらいのスパンで生きている。中ボスや日常編なら一週間で一区切りで、大きめのボスには数週間かける。今のところは白狐因縁の相手らしき黒蛇の脅威に備えている。
 俺は翌週からお化け屋敷を迂回して帰宅するようにする。もっとはやくそうしておくべきだった。これまで好奇心に流されてきたがここらが潮時だ。俺は図書室へ行くのをやめる。紗々氣が玉簾真珠に告白される。体育大会の部活対抗リレーで俺は帰宅部のアンカーを走り三位になる。青瑠璃が自転車乗ってて坂道で転んで保健室に運ばれた後救急車のサイレンが学校のグラウンドで止まる。
 俺の平穏が戻ってくる。
 滋賀≒硝子川は俺の日常から対岸にいるみたいに遠くなる。いつも通り鬱々と廊下を歩き、宙を見上げて一人で何か言っては笑い、それからある日左目に眼帯をしてくる。翌週、恐らく黒蛇編が終わる頃には学ランの袖から覗く手首にきつく包帯が巻かれている。
 一度だけ自転車を押して遠くからお化け屋敷の様子を見に行った。草叢にいる滋賀は逆光で黒い影法師に見えた。影法師は一人剣を振り回して草叢に潜む狼と戦っていた。滋賀は木刀くらいの太さ長さの角材を振り回し雑草と戦っていた。一太刀ごとに草の飛沫が散る。大きく振りかぶった隙に脇ががら空きになり、そこに見えない狼が飛び掛かって食らいつく。影はがくりと膝をつく。
 
俺は自転車を押して家に帰った。

 次の日滋賀が登校していたか、腹部に包帯を巻いていたかは確認していない。気が付くと滋賀は髪をほどいてばさっと広げていた。これまで猫背だったのが針金でも通したようにやけに姿勢よく歩く。もう宙を見上げることも独り言を言って笑うこともない。つまり硝子川は死んだのか、と思ったが、そういう訳でもないらしい。また別の日には髪を括った硝子川が宙を見上げてぼそぼそ喋っているのを目撃する。
 俺は仮説を立てる。滋賀の中に硝子川セセリに加え新しいキャラクターが形成されたのだ。時刻は深夜で俺は勉強机の蛍光灯だけで大江健三郎を読んでいて、でも目が文字を上滑りするだけだから本を閉じる。眼鏡を外し目薬を差して、仰向いたまま身体から力を抜いた。
 滋賀の物語に足りないのは深度だ。「傷と表裏一体の能力を抱えた主人公の放浪と戦いと再生」、どこかで聞いたようなストーリーの中から気に入った部分を切り取ってくっつけたスクラップ。あの薄い物語の中を生きている限り、滋賀は現実の厚みの中では息ができない。世界の数が増えようが人格の数が増えようがそれは変わらない。
 知ったことか。
 硝子川セセリは架空の傷だらけになっていく。眼帯と頬のガーゼと松葉杖。背筋が伸びた方のもう一人は恐らく洋風ファンタジー系の世界の住人で、品がありそうな仕草や歩き方からすると皇族か高官だろう。指で宙に文字を書き何らかの呪文を唱えている。
そして、硝子川と魔法使いに続く第三の人物が登場する。白狐かと思ったが、顎を上げ風に鼻面をかざすような仕草はもっと犬に近く見える。廊下の窓に映った自分に向かって牙を剥いている。通り過ぎていく生徒たちは数メートル遠ざかってから声を潜めて笑う。俺はそもそも近寄らない。あいつら全員、遠巻きに物陰に隠れてしか滋賀を見た事がないんだろう。目の前に立ってもろにあの妄想の濁流に飲まれたことがないんだろう。
三人の登場人物たちの上に日に日に設定が積み重なり塔を造っていく。空箱みたいにどれほど集まろうと重みは増さず、ただ嵩だけが崩れそうなくらい増えていく。今や滋賀はアルビノで金髪で魔法使いで尻尾が生えていて奇跡の子で顔半分に痣があってオッドアイで猫耳で霊視体質で天文学者で呪われた皇子で銀長髪で人狼で僕っ娘で義手で孤児で殺人鬼(シリアルキラー)で蛇だ。それでも俺が下りた舞台の上で、全部目まぐるしく演じ切ってみせる。世界がト書きの重みで軋み始めるのが聴こえる。滋賀はいよいよ狂気の竜巻じみてくる。水道から直に水を飲んで顎から雫を滴らせて犬のように頭を振ったと思えば、宙を見上げて一人で作戦会議を始める。職員室前のケースに飾られたトロフィーに向かって印を結んでいた数秒後には髪を勢いよくほどき天体の距離から運命を導き出す数式を地面に指で書き始める。ほとんど速着替えの手品の要領で滋賀は転がるように配役を変えていく。舞台はぐるぐる回って回って回って回る。

事件が起こった日、俺は実際その場にいて目撃したわけじゃないけど、それ同然だった。何が起こるか薄々予感していたのに何もせず、遠くからただ見ていた。
十月十日月曜日午後四時半、帰りのホームルームの最中に滋賀直矢は一年二組の教室で暴れた。怪我人は担任を含めて三人出た。ここまでが事実だ。
滋賀はいきなり唸り声を上げたかと思うと机に上がり、四つん這いの体勢で頭を仰け反らせて遠吠えをし、向かいの席の生徒に飛び掛かった。口の端から涎が糸を引く。怪我人一はうわあと叫ぶと椅子ごと後ろに倒れて後頭部を打った。ぼたぼた唾液を滴らせながら身体を起こした滋賀は茫然と教卓を見つめ、それから右手で右目を覆って何か呟くと立ち上がる。滋賀は机の横で倒れていた松葉杖を拾い上げると、剣のように握り教卓へ向かって歩き出す。
担任は、滋賀から杖を取り上げる際に肩と手首を軽く殴られた。杖をもぎ取られ腕を掴まれながら滋賀は身をよじって教室を振り向き、指を鉄砲の形にして呪文を唱え、バンと撃つまねをするとそのまま教師の腕の中で失神した。怪我人三は極度の緊張の中で自分の爪で指のささくれを千切りごくわずかに血が出た。ここまでが目撃談だ。
チャイムが鳴る。俺のクラスはなあなあで号令を流して椅子を引き机を下げ部活仲間に叫び友人に怒鳴る喧騒に飲み込まれる。遠くの方から悲鳴と怒号が聞こえたが、よくあることだから気にもしなかった。

歪みは溜まり切ったあげくぱんと弾けて消えた。
滋賀は学校に来なくなった。図書室の名簿には俺の名前だけが並び続けている。滋賀の名前は次第に雑談の中でも挙がらなくなっていく。滋賀という同じ経験をしたせいか二組の結束感は高まり文化祭の合唱で金を獲る。五組の方では青瑠璃がもう一度玉簾真珠に告白しもう一度フラれる。俺は英検準二級に受かる。紗々氣の書いた俳句がおーいお茶俳句大賞で入選して茶のパッケージに印刷される。それから、二組の担任が五組の俺を訪ねてくる。
「君、滋賀の家分かるか」
「いや」
「いつもは僕が行くんだが今日は会議が入っていて、代わりにプリント持って行ってくれないか」
 いや「なぜ俺」
「君たち二人とも、よく図書室にいただろう。少しは喋ったことくらいあったんじゃないのか」
 だから本読んでるからって言って守備範囲が全然違うんだって。俺は思うが既に二組担任はおらず俺の手にはプリントが入った茶封筒が残されている。

 俺は滋賀のことを何も知らない。

 だが流石に予想くらいは当てる。というかここ以外にあてが無いから外せばどうにもならなかった。
凄惨なくらいの夕焼けに照らされたお化け屋敷の縁側に人影は座っている。俺は自転車のストッパ―を蹴って停める。痛み切った髪は一つに束ねられ風に弄られていて、光に透けるとほとんど金色に見えた。学ランではなくパーカーだったが馴染み過ぎて私服感は全くない。頭を垂れ、両手はポケットの中に突っ込んでいる。髪を括る位置が硝子川にしては低すぎるから、これは多分人狼の非変身時だろう。俺が前かごの茶封筒を掴んで草を掻き分け踏み出しても滋賀は俯いたまま顔を上げない。俺が目の前に立って影が落ちても俯いたまま顔を上げない。
「滋賀直矢はどこにいる」
 俺は訊く。反応が返って来ず、待った。やがて滋賀は静かに立ち上がり、俺を避けて歩き出す。庭を横切ると錆びて蝶番の壊れた門をくぐって外に出た。こっちを待つ様子も振り返る様子もない。俺も草の海を渡ると、自転車を押してその背中を追った。

 普通の一軒家だった。
 ベージュで屋根はオレンジがかった茶色で駐車場のコンクリートの隙間には芝が生えていて表札は黒い石にSHIGAだった。滋賀はポケットから出した鍵でドアを開けると中に入っていく。俺は自転車を停めると勝手に閉まりかけたドアの取っ手を掴む。靴を脱いだ滋賀は入ってすぐの階段を上っていく。俺はお邪魔しますと暗い廊下の奥に声をかけて、スニーカーを脱いだ。
 靴箱の上には鍵を入れる用のシリコンのトレーとレシートに包まれた小銭と紙粘土でできた写真立てがある。埋め込まれニスを塗られた貝殻が家族写真を縁取っている。父親と母親とピースした女の子とそれより幼い、今よりずっと黒っぽい髪の滋賀。俺は目を逸らして階段を上がる。上の方からドアの開閉が聴こえた。
 何となく隅から薄暗い影が染み出して見える滋賀の部屋のドア。俺はノックもせずにノブを引く。コンソメと饐えた服と埃の匂いがした。
 途方もない混沌に備えていたから、案外整頓されているのに逆に拍子抜けする。ゴミ箱からプリングルスの筒がはみ出てその中にもゴミが一杯に詰め込まれているし、明らかに何度か着たシャツが雑に畳まれて無造作にあるし、床に陰毛が落ちているがそれは一般的高校生の部屋の汚さの範疇から外れていない。滋賀はニトリのみたいなベッドに座って俯いている。右手で髪を束ねていたゴムを外し、虫を払うように頭を二三度振る。そのまま両手で髪を掻き回し暴風に吹かれたようになってから、その前髪の嵐の中から目だけ上げて俺を見た。
 多分俺は今初めて滋賀に会っている。
「お前に会わないといけなかった」
 俺は言って紙封筒を差し出す。「これは滋賀直矢宛のプリント類」
 滋賀はどこか深海に沈んででもいるみたいに鈍い反応で、それでも一応受け取った。
「麦茶いれてくる」
 この世の終わりみたいに言って立ち上がり、立ったままの俺の前をすり抜けて部屋を出て行く。俺は一人残される。
残されてすることなんて一つしかないだろう。俺は部屋の奥へ歩いていく。紺のカーテンは完全に引かれて日光を遮断している。その窓に付けるようにニトリ風の勉強机と、それを挟んでボックス型の本棚がある。やけに長いタイトルの異世界シリーズものと剣と魔法系ファンタジーと軽いスペースオペラと妖怪退治。俺の前には滋賀を構成した要素が切り貼りされる前のそのままの姿である。
 これを全部窓から投げ捨ててやればいいのか。
 滋賀が俺をここに一人にしたからには、俺が部屋を探ることくらいは見越しているはずだった。むしろ滋賀が俺に探らせようとしているとも言える。俺は自分からのこのこ滋賀の用意した舞台に上がりに来た馬鹿だ。そのくらいは自分で分かっている。
 問題は滋賀が俺に何の役を振ったかだ。
 机の上にはキャンパスの大学ノートが置かれている。使い込まれた表紙には彫刻刀で彫りつけたような字で設定ノートと書かれている。明らかな作為、小道具係がスポットの当たる位置を考えて置いたとしか思えない。それでも俺は手を伸ばす。ここで退けるなら、もっと前の段階で後ずさっていた。舞台裏の時点で引き返していた。もうスポットの中に踏み出した後、手遅れだ。
 一ページ目は白紙だった。めくるとびっしり書き込まれた文字が見開きを覆いつくしていた。漢字と仮名でできた濃淡は、言葉として意味に変換されるより先に俺の指先から背筋へ鳥肌を駆け上らせる。
 見出しは「白狐のお宿の幽玄な日々」。硝子川セセリの生年月日から箸で料理を突き刺す癖まで詳細に書かれている。敵として襲来するガマガエルやら狸やらの外見と攻撃パターンから、戦闘時に硝子川が負った傷の程度まで緻密に書きこまれている。設定書というより小説に近い。世界観の描写にのめり込み過ぎて登場人物が破綻してはいるが、分類としては小説だ。また一枚ページをめくって、それから撤回する。眼鏡橋タクト。俺の名前が目に飛び込んでくる。小説というよりこれは日記か。名前の周囲の文章を目が勝手に追う。
 燃えるように夕日が赤い。
 硝子川セセリはムカデの化け物に圧し掛かられる格好になり、そのぎちぎち目の前で噛み合わされる顎に妖刀を噛ませて危ういところで止めている。しだいに押されていき、覚悟して目を閉じる。ふっとその重みが消え風が吹いた。薄く目を開けると、ムカデの首から頭がスッパリ無くなっていて、一拍置いて薄赤い粘液が噴出する。その身体がごろりと倒れると後ろに立っているのは眼鏡橋タクトだった。眼鏡のレンズに飛沫が散っている。眼鏡橋はしばらく肩で息をした後、赤い粘りまみれになった右手で硝子川の手首を掴むと引っ張り起こす。草の中でまだ激しくのたくっているムカデの胴体に目を落として訊く。「...これは?」
 これは一体何だ。
 そこには俺ではない俺がいる。俺は硝子川の話を気の無い風に聞きさっさと帰ったようでいて、硝子川が妖に襲われピンチに陥ると現れて飄々と敵を短刀で切る。「俺目悪いんだよ」眼鏡橋は言う。「だからお前代わりに見ろ。俺が切るから」ページをめくる。セルゲイ・タルシャンの同僚かつライバルであるグラスブリッジは、いつも王宮の書庫で書物を読んでいる。かつては王都の孤児院でともに子供時代を過ごしたが、今ではセルゲイと言葉を交わすことはほとんどない。ページをめくる。狼男のロウは狼男ハンターのジンに付け狙われ、やがて嵐の夜に裏路地に追い詰められる。月が厚い雨雲に覆われて見えないせいで人間の姿のまま濡れ鼠になっているロウに、ジンは銃口を構えるが、数秒の沈黙の後静かに撃鉄を戻して立ち去る。俺の首筋には汗が滲んでいる。
「現実に何の意味があると思う」
 振り返ると麦茶のグラスを二つ持った滋賀が立っている。
「現実は」俺の頭はろくに回っていない。滋賀の目は俺を刺し留めて離さない。「現実だろ」
 現実は現実で、それ以外は全て劣化コピーに過ぎないから。ただそれが現実であるということに意味がある。滋賀は、硝子川以下略はただ目を逸らしているだけだ。宙に浮かんだ透明な白いキツネを視ることで、現実を見ないようにしているだけだ。
「純粋に現実を見ることができる人間なんていない」
 滋賀はグラスの麦茶の水面に目を落として言う。「僕達は自分の人生をどこまで行っても一人称で語ることしかできない。主語を変えようが人称を変えようが、根本は覆らない。一人称で語る限り、世界はフィクションの域から逃れられない。後はただ程度の問題でしかない。眼鏡橋君も本を読むなら分かるはず」
 だから「お前と俺を同じ読書で括るな」
 滋賀は小さく首を傾げる。「だって、純文学だろうが娯楽文学だろうがフィクションであることには変わりない。なら、現実っぽさに留まってる必要がどこにある?」
 滋賀はこれまでになく淡々と話す。その分抑圧された狂気が内側で静かに渦巻いているのが分かる。
「例えば醜い容姿に生まれたとして、純文学だと金閣寺に火をつけるくらいしか選択肢がない。異世界モノならリセットボタンがあるのに。結局どうあがいても虚構から逃れられないなら、わざわざ現実らしさを装うなんて意味がない。行き着く所まで行ってしまったほうがいい」
「それが」滋賀が硝子川を、セルゲイを、人狼を創り出し演じることで現実に引きずり出した「理由か」
 滋賀は硝子川セセリの顔で笑った。
「『自分』じゃなければ誰でも良かった」
 頭が痛い。俺は差し出された麦茶のグラスを受け取ると、茫然としたまま見つめ、それからゆっくり傾ける。これは現実か?グラスが傾いても水面は地面と平行を保ったままで、やがて縁から筋になって流れカーペットに染みを作った。グラスは逆さになり、雫が黒く麦茶を吸った繊維に垂れる。自分が他人の家で麦茶をぶちまけていることも全部、酷く現実味がなかった。帰りのホームルーム最中に一年二組で暴れた人狼に見えていた世界が、少し垣間見えたような気がした。フィクションだと割り切ってしまえば、現実は小説より奇になり得る。文字通り何だって可能になる。ぐずぐずに濡れたカーペットを見て滋賀は少し笑った。


 うちの高校にはシガナオヤがいる。
 俺は一度だけ会ったことがある。家に行って出された麦茶をカーペットにぶちまけて帰った。正直途中から記憶がぼやけていて、どう帰って来たんだか思い出せない。ただその夜風呂に入ってる最中になって急に現実味が襲い掛かって来て俺は溺死しかけた。何してんの俺。
 まじで何してんの。
 それ以降滋賀と仲良くなったりはしなかったし、滋賀と会うこと自体がそもそもなかった。硝子川セセリやセルゲイ・タルシャンは学校へ来るようになった。相変わらず遠巻きの冷笑と好奇の中心で狂気の渦潮になっている。
 一年二組の奴らもまだ、滋賀の狂気がどれほど危険か分かってはいない。あれがどんな風に他人を引きずり込みその現実を破壊するのかは知らない。あの日から俺に見える世界は写真みたいに鮮明なくせに薄っぺらい。テレビの映像みたいに動くくせに奥行がない。
小説みたいに一人称だ。
 滋賀は「自分」でなければだれでもいいと言った。
 だから常に役を演じていた。あれからずっと考えている。結局俺がたった一度会った滋賀は、本当に滋賀直矢本体だったのか。フィクションじみてさえいた過剰な狂気と妄想、あれも実は「パラノイア持ちサイコ」という役柄だったのか。考え続けていると気が狂うのでその辺で思考を止めて、俺は読みかけだった重力の虹に戻る。
 結局俺は自分の世界を自分の文章で綴ることしかできない。滋賀には白狐が見えて、俺には見えなかった。滋賀の言った通り人に見えている世界は多分それぞれ違う。だから人間は本を読む。相手の目から見える世界を少しでも覗くために本を読む。
 とか哲学的なことを考えている間に冬と春が過ぎて俺は二年になる。あれだけ考えたくせして、なぜだか知らないが、俺は結局あの路地を自転車を押して歩いている。塾も辞めたくせして例によって壮絶な夕日を浴びながら歩いている。滋賀直矢は周りのものを全て吸引し飲み込む渦だから仕方がない。今更舞台から降りるには手遅れだ。
 俺が半年かけて考えた哲学的な読書論は全部ゴミ屑だ。結局本は読みたいから読むわけで、それ以上の意味はいらない。崇高さはいらない。とてつもない偉人の人生だろうが同じ高校のヤバい奴だろうが、俺が惹きつけられるのならそれが俺に必要な物語なだけだ。

 草が夕日の光を弾いて靡いている。黒いシルエットが木の棒を振るって見えない敵と戦っている。硝子川セセリが妖刀を振るって巨大な甲虫と戦っている。甲虫の角の一突きが宙に浮かんだ九尾を弾き、キツネはケンと高い悲鳴を上げ吹き飛んで草叢に墜落する。硝子川がはっと振り向きできた隙をついて、甲虫は角で薙ぎ払った。硝子川は草叢に倒れる。腕を突いて上体を起こすが、後ずさる間もなく辺りに甲虫の大きな影が落ちる。二つの黒く艶々した感情のない瞳に硝子川の蒼白な顔が映っている。
 とつ、と良い音がして、甲虫の眉間に短刀が突き刺さる。瞳が一瞬で艶を失い白濁するのを硝子川は茫然と見上げている。甲虫の殻はゆっくりと崩壊し、軽い破片になって硝子川の上に、周囲に降り注ぐ。甲虫粉まみれになったまま目を見開いた硝子川の前に人影が立ち、夕日を遮った。右手が差し出される。
「ちなみに俺別に目悪くないから。これ伊達メガネだから」
 眼鏡橋タクトは言う。硝子川は数秒呆けた後で笑って手をとった。
「ようこそ」



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