眠り王子 白内十色 青い、空。 練馬美和は空を見上げている。買い物の帰りの住宅街、筆の先で人撫でしたような薄い雲が浮いている。 流れるのは光。それはいのちのための神の音楽だ。 リズムと生について練馬は考えている。繰り返される波、心臓の鼓動、アスファルトを叩く足音。いのちは淡々と続くものだ。普通人には希薄な生きていることの実感は、しかし現実の土台となり、確かに足元にある。 はたまた、背負う荷、引く足枷、迫ってくる夜。有るものはいのちの輝きだけではない、その重さも必ずついてくる。それを知ることを決意と呼ぶ。 人には錯覚がある。このリズムは永劫に続くという途方もない勘違いを、大切に抱えている。けれど生とは錯覚なのだから、今は青い空を見るべきなのだろう。 「おーい? 探偵さん? 探偵さーん! 美和さん!」 名を呼ばれたので練馬が右を向くと、赤島もえのくりくりとした瞳がこちらを向いている。もえは平仮名、判断の難しい名前だが男の子だ。押しかけ探偵助手という特異な立ち位置で練馬のそばにいる。 「目が完全に飛んでましたよ、もう。また空想界にジャンプ中でしたか? それともSFちっくに衛星から犯罪データベースでもダウンロードしてました?」 「ごめんごめん、ちょっと荷物について考えていて」 「荷物って! 買い物は全部僕に持たせているじゃないですか。自分はそのちっちゃなトートバッグだけで」 「お金は全部私が出したよ」 もえは膨れ上がった買い物袋を持ち上げて抗議してみせる。袋の隙間から韮の緑色が見えて、それは現実に下ろされた錨だった。 練馬美和は探偵だ。小説におけるいわゆる探偵、事件に横から口を出して推理を行い、解決する探偵の仕事をするときもあれば、世間に言うところの探偵、不倫調査などの人のプライバシーを暴く系の役目を担うときもある、そんな人間だ。 隣を歩いているもえは練馬の小説的探偵像に惹かれて探偵事務所にやってきた。「名探偵になりたい」、そんな漠然とした夢みたいな望みを掲げてやってきて、何でもするので働かせてくださいと言って居座った。練馬は彼に現実を見せて諦めさせることが、何とかしてできないかと日々考えている。 「二か月ですか? 探偵さんのところで働くのは。でも、探偵さんが何を考えているかよくわかりません」 「子供に分かってたまるものかって、大人ぶって言うこともできるけど、残念なことに大したことじゃない。事務所に帰ったら日記代わりに教えてあげるね。餃子を食べながら」 買い物袋には前述の韮に加えて豚挽肉、餃子の皮、チーズ、ソーセージなど餃子に必要なものが詰め込まれている。皮にチーズなどを入れるのは赤島もえの実家の流儀なのだそうだ。珍妙に思えるが悪い味がするとは想定しがたい。 けれど当該餃子セットの放つ日常風味は一つの甲高い声にかき消されてしまう。 「きゃああああああああああ!」 悲鳴。口を開ける非日常。 もえの手から韮が滑り落ちて。 「誰か! 誰か!」 女性が、玄関から飛び出してくる。 恐怖の根源から、少しでも遠く、離れたいのだろう。 恐ろしいものが、あたかも玄関まで追ってくるとでもいうように。小柄な体格の女性だ。 「その女性をお願い。私が見てくる」 もえに恐慌状態の女性を任せて、練馬は玄関から中に入る。知らない家に、土足で。探偵とはそもそも人の心に無遠慮に踏み入る生き物だ。緊急事態という旗印と生来の傲慢さのため。それでなくては得られないものだってあるのだから。 家の持ち主はあまり片づけをしないのだろう。書籍の散乱した廊下を抜けて、リビングと思われる場所にたどり着く。中央にガラスのはめ込まれたテーブルの向こう、緑色のソファに男が上を向いて倒れている。だらんと下げられた手はすでに青白く、生気がない。 「大丈夫ですか?」 そして、練馬はその顔を見た。 その、顔には、 その顔にあるのは、苦しみだけだった。 唇は限界までゆがめられ、大きく開かれた口からは血が一筋垂れている。目は天井に張り付いた悪魔を見続けていて、目線を通じて今も悪魔から恐怖が注がれ続けているかのようだ。あるいは、人の身では受け止めることのできない苦痛を体にため込んだ結果、弾けて開いた穴が、その瞳であり、口だった。 そして死体の横、テーブルの上には、一枚の紙が置かれている。よくあるメモ帳のようだ。乱暴な文字で、文章が書かれている。 『姫のキスで目を覚ます』 おそらくは死者が、何かの目的でこの世に残した遺言。一見して意味の分からないそれは、死と恐怖の渦巻くこの現場において、異彩を放っていた。 古畑健助刑事が現場に着くと、顔なじみの探偵が手を振ってパトカーを出迎えた。探偵練馬と言えば古畑の署では知らないものはいない有名人だ。事件の話をどこからかぎつけたのかやってきて真実を告げて去っていく、警察官としては少々頭の痛い存在だが、犯罪捜査には大きく貢献しているので文句を言うわけにはいかない。 赤を基調としたワンピースに長い髪と、「大人の女性」のような装いだが、靴はぺたっとしたスニーカだ。総じて美人だと言える。ただし、その表情から笑顔が消えていることに古畑は気づいた。 玄関の石段に二人の人間が座り込んでいる。一人は三十歳ほどの女性で、頭を抱えて震えている。もう一人は十代と思われる少年で、その女性の方を見てどうすべきか、対応に困っている様子だった。 「彼女、死体を見たから怖がっちゃって。家に入るのも怖がるから折衷案で玄関にいるってわけ」 探偵が女性の背中をさすりながら言う。一度吐いた方が楽になるかもしれない。しかし、吐け、とは勧め辛い。パトカーに新品の水のペットボトルが積んであるので、女性に手渡す。 「ありがとうございます」 か細い声が女性から上がる。お名前は? と聞くと瀬河春奈です、と返ってくる。この家の表札と同じ苗字だ。上品な、質のいい服が激しく走ったのかやや乱れている。手には品のいいネイルがなされている。対して、探偵はネイルをしていない。 「練馬さん、お久しぶりです。以前の事件ではお世話になりました」 「かなり前のことね。会わずに済んだ方が良い、と思っているんじゃない? その方が話が簡単だから」 「今回は発見者のうち一人ですから、そういうわけにはいきません。ところで、その少年は?」 「彼は赤島もえ。押しかけ探偵助手よ。気にしないでちょうだい」 「あなたが助手とは......。解剖台にコウモリ傘ですよ」 「鬼に金棒、とはいかなさそうね。私も人間です。まぁ、気まぐれかな。仕事があるのでは?」 「ええ、もちろん」 三人の発見者の事情聴取を同僚の刑事に任せて、古畑は屋内に入る。もちろん、警察への貢献が見られる探偵だからといって容疑の圏外になるわけではない。それは重々気をつけなければならないところである。 部屋の内装、インテリアなどは、一見して非常にシンプルなものが多い。テーブルやデスクライト、時計などを見ても、装飾性の薄いデザインのものが選ばれていて、色も白色か淡いグリーンで統一されている。ただ、読書家だったのだろう。本の所有量は多く、リビングに二つ大き目の本棚があり、それに入りきらなかった本がそこら中に積んである。背表紙を見るに幅広いジャンルの本を読んでいるようであるが、その中でも推理小説と詩集が多いように思われた。 死者が倒れているソファからテーブルを挟んだ反対側にも白いソファがあり、その上側には一枚の絵がかかっている。これも、シンプルな抽象画だ。大ぶりな窓には鍵がかかっている。 被害者の恐ろしい形相をあまり見ないようにして、脈を測る。当然、生きてはいない。それくらいのことは探偵が確認しているだろう。テーブルの上のメッセージ(姫のキスで目を覚ます)は重要な証拠であると思われたので、古畑はそれを丁寧に回収した。また、テーブルの上にはガラスのコップが置かれており、中に液体が入っていたと思われる痕跡が残っている。メッセージを書かれたのに使われたと思われるペンはその横だ。 死んでいるのはこの家の主である瀬河大河だと思われた。検死の結果を待たなければ確定はできないが、入り口で怯えていた瀬河春奈(瀬河大河の妻である)の証言が得られたためである。 キッチンのシンクは綺麗で、皿の類は残されていない。食器棚があり、その中にシンプルな皿が入っている。皿やカップはどれも二つずつあるようで、瀬河夫妻の物であると推定された。子供はいなかったようだ。皿の種類は少なく、食器棚にはかなりスペースが残されている。冷蔵庫もほとんど空で、あまり自炊をしないタイプだと思われた。 二階は寝室と書斎となっており、どちらにも大量の本が置かれている。寝室には大型のベッドが一つのみ配置されており、一緒のベッドで寝ていたか、別居していたかのどちらかなのだろう。 二階の窓も、一応確認したところ、しっかりと鍵がかかっている。寝室にも抽象画が飾られており、その下に金庫が一台配置されていた。 全ての部屋を一通り見たので、後は鑑識に任せることにして、古畑は警察署に帰り、瀬河春奈及び探偵一行の事情聴取に加わることにする。 「まぁ、自殺でしょう」 警察署から支給された弁当を食べている探偵と赤島もえに、古畑は言った。本来ならば容疑者に警察の見立てを明かすことなどもってのほかだが、あまりに事態が明白であるため、大丈夫だろうとの判断だった。 「自殺でしょうね」 探偵も頷く。白米の上に載っている固い梅干をかじっている。 「え? そうなんですか?」 赤島もえだけが、きょろきょろと二人を交互に見まわしている。 「だって、人が死んでいるんですよ? そんな簡単に決めちゃっていいんですか?」 探偵が肩をすくめる。まだ、子供だから許してあげて、と言いたげな目線を古畑に向ける。 「あのね、もえ君。世の中には複雑な事件ばかりじゃないの。もえ君が本で読んだような、トリックがある事件ばかりじゃない。探偵だって、スーパースターじゃないし、犯人もそんなに複雑なことは考えてない。これは、普通に人が自殺しただけだよ。多分、毒でも飲んだんじゃないかな」 「でも、現場には書置きがあったんでしょう? 姫がどうとか。それには必ず意味があるはずです。死者が犯人の存在を伝えるために書き残した、いわゆるダイイング・メッセージじゃないんですか? 尋常の事件ではないと証明するに十分なそれは証拠です。自殺する人は普通遺書を書くものです。意味深なメッセージじゃありません」 「『姫のキスで目を覚ます』。眠り姫の童話の逆バージョンだね。眠り王子といったらいいのか。それの意味はまだ分からないけど、誰かに向けた符丁のようなものなんじゃないかな。意味を知っている人には分かる、というような。あと、ダイイング・メッセージというと、刺された被害者が死にながら書き残したものだったりするけど、これは毒を飲む前に書かれたものかもしれない。それは、意味が分からないだけの遺書だよ」 「でも」 なおも食い縋る赤島もえに古畑は言う。 「そこまでだ、坊主。憧れで物を言うのはやめるんだな。現場の鍵は瀬河春奈が出てきた玄関を除いてすべて閉まっていた。お好きな言葉でいうなら密室ってやつだ。鍵にトリックを仕掛けるような隙間はない。現代的なものだ。密室状態で人が死んでいるというのは普通は自殺だ。他の誰かには殺せないからな」 「それは嘘。古畑さん」探偵が言う。 「死因は多分毒だから、何かに毒を仕込んでいたら部屋に入れなくても殺せるよ。それに、瀬河春奈が何かしなかったとも限らない」 「だがな、瀬河家の冷蔵庫にはほとんど食料が入っていなかった。仕込める物は限られている。それにテーブルの上にはコップが一つ、ときた。十中八九それで毒を飲んだんだろう」 「コップの内側に毒を塗っていればいいんですよ!」 赤島もえが言う。議論は停滞し、部屋を沈黙が支配した。 そのとき、扉をノックするものがいる。現場の鑑識を行っていた者だ。 「古畑さん、死因と死亡時刻が出ましたよ。聞きますか? 探偵もいますけれど」 「ここでいい。聞こう。α-シュラーゲン、どうだ?」 古畑はある薬品の名前を言った。 「正解です。死因はα-シュラーゲンの摂取で間違いないですね。こいつは死亡時刻がはっきりわかります。時刻は十三時プラスマイナス十分、瀬河春奈が家から出てきた二時間前です。また、横に置いてあったコップからもα-シュラーゲンの反応が見つかりました」 古畑が資料を受け取ると、一礼をして去っていく。 「へえ、あれがα-シュラーゲン」 「なんですか? それ」 探偵一行の発言。 「α-シュラーゲンっていうのはな、最近巷で流行っている毒物だ。非常に毒性が高く、ミリグラムどころかマイクロ単位でも体内に入ったら即ズドン。心臓の血管が連鎖的に壊死して大穴が開くって代物だ。その危険性から、ついたあだ名が『飲む銃弾』。厄介なのは無味無臭であるということ、まぁこれは薄い酸味がするとの推測もあるから何とも言えんが、そしてそれ以上に製造が容易すぎるということだ。家庭でもそれなりの設備を整えたら作れちまう」 「そんな怖いものがあるんですね。知りませんでした」 「いまは流行り始めだからまだ少ないが、そのうちもっと使われるようになる。何せ製造コストが安すぎる。すぐに規制と製造のいたちごっこが始まるだろう。お前の親戚もこれで死ぬかもしれん」 「古畑さん、脅しすぎ。でも、その『飲む銃弾』、私が聞いていたのと少し違うようだけれど」 探偵が言う。古畑は探偵に向き直って答える。 「そうですね。情報統制が厳重に敷かれているが、ネットの裏側を少し潜ればα-シュラーゲンの情報を入手するのは容易い。ただ、そこには一つ間違いがあります。誰が仕掛けたのか、悪意のある嘘が」 「あぁ、なるほど」 「言い出したのはよほど性格のねじ曲がったやつでしょう。α-シュラーゲンを服用して死んだ人間は、安らかな死を迎える、と言われています。痛みのない、安楽な死。だから、α-シュラーゲンの製法を紹介しているサイトには『自殺におすすめ!』なんて書かれていたりする。だが実際はあの死にざまというわけで。心臓に穴が開くような劇物が楽に死なせてくれるわけがない。苦しんで苦しみぬいた末に死ぬことになります」 「私も知らなかった。警察庁で公開したら?」 「今回みたいな自殺者は減るかもしれません。その代わりに、α-シュラーゲンの存在を公に認めることになってしまう。規制法が十分じゃない状態でそれは時期尚早です」 自殺に向かいそうなもののメンタルケアをした方が、自殺者を減らすためにはよっぽど効果があるだろう。 「つまり、自殺者が使いやすいα-シュラーゲンを使った自殺、ということになるのかな。楽に死ねると思っていたのなら可愛そうだけれどもう命がないわけだし言葉は届かない」 探偵がまとめる。 「そうなります。今問題となるのは毒物の入手経路です。瀬河大河と関係の深かった人物を順繰りに当たらせていますが、今のところどこからα-シュラーゲンを入手したか、あるいはどこで製造したか、明らかになっていません」 「そう」 探偵は小さく呟いて食事を再開する。ゆっくりと箸を口に運んでいるがある時からその動きが止まり、箸が机の上に置かれる。目が古畑の頭の少し上を見つめたまま固定され、ピントも定まらなくなる。 「探偵さん?」 赤島もえが肩を控えめにゆすると、探偵はまばたきと共に視線を古畑に合わせた。 「α-シュラーゲンの入手だけど、一つ推測がある。おせっかいかもしれないけれど、聞く?」 探偵が言う。 「聞きましょう」古畑は答える。 「警察を待っている間、家の中を少し見て回っていたの。一回にキッチンがあったね」 「ええ、ありました」 「食器棚を見た? 妙に物が少なかった」 「ええ、それは、自炊をしないからでは?」 古畑は探偵に促されて現場の写真を取り出す。今頃はその食器も鑑識に運び出されて、毒物が付着していないか調べられているだろう。 「自炊をしなくても、食器棚が空いているのはおかしいの。あの家には本が多かった。床にまで積みあがっているくらいにね。その積みあがっている本を、どうして食器棚の中に入れなかったのかな? 普通、場所が空いていたら少しくらい不自然でも、使おうとすると思う。だから、そうしたくなかった理由があると考えられる」 探偵は現場写真の、キッチンの画像を指さした。床には、僅かだが何かで擦られたような跡が残っている。 「多分、食器棚を軽くしたかった。食器を除けることで、大の大人が頑張れば動かせるんじゃないかな。そして、その下には隠し部屋があると思う。そこで、例の薬物を製造していた。これが私の推測です」 探偵はそう言って口を閉じた。古畑は今も現場にいる警官に連絡して、食器棚の下を探させるように言う。 「すごいや、探偵さん」 赤島もえが無邪気に言う。探偵は立ち上がり、バッグを手に取った。 「一つ貢献したことだし、そろそろ帰ってもいいかな。夜も遅いし、もえ君を実家に帰さないといけないから」 「あっ、ええ、そうですね。大丈夫です。いま、お持ちだった食材を取ってきますので」 古畑は別室の冷蔵庫から買い物袋を取ってきて赤島もえに渡すと、二人が帰宅するのを見送った。 彼に残された仕事は、煩雑な事件の後処理の仕事だけである。この事件であったことはすべて解明されたと、そう彼は考えた。 その後、古畑の業務は順調だった。瀬河大河および春奈の身辺はつつがなく調べ終わり、特に不審な人物は出てきていない。また、キッチンの食器棚の下からは探偵の言った通り、人ひとりが何とかくぐれるほどの大きさの隠し扉が見つかり、梯子を降りた先の隠し部屋では、α-シュラーゲンを製造した痕跡が見つかった。隠し扉を施工した業者によると、瀬河大河がこの家を建てた時には趣味であると説明したという。隠し部屋からは瀬河大河の日記が見つかり、自殺を考えるに至った経緯やα-シュラーゲンの製造方法を知るに至った過程などが書かれている。筆跡は本人のものと一致した。 瀬河大河の妻である瀬河春奈は、α-シュラーゲンの製造を夫が手掛けていたことについては何も知らなかったと答えている。その他の交友関係にあった人物も同様である。夫婦は結婚関係にあったが別の家を持ち普段は離れて暮らしていた。それは、瀬河大河が一人の時間を好んでいたことと、育てる子供を持つ予定がなかったことが影響している。別居という言葉が持つイメージに反して夫婦仲は良好で、お互いに深く愛し合っていたという証言が各所から得られた。お互いに合鍵を持ち合っていたようだ。瀬河春奈もことあるごとに亡き夫への愛を語り、「すぐにでも後を追いたい」、「なぜ一緒に連れていってくれなかったのか」、などの言葉を吐くようになる。古畑は彼女にカウンセラーを紹介した。 瀬河大河は精神的に弱い部分があったようで、他人に死にたいと漏らすことも多かった。このことは、古畑の今回の事件が自殺であるという印象を強めた。いつか死ぬかもしれないと思っていた、と周囲は口を揃えて言う。 瀬河家の財産は多く、それは瀬河大河の仕事である自営業が成功していることと、彼が両親から受け継いだ遺産のためである。瀬河大河が死んで得をする者といえば妻である春奈に他ならず、その線での取り調べも行われたが、有力な成果は得られなかった。 結局、警察内部の結論は単なる自殺というものに固まることになる。古畑は現場に残されていたメモ、「姫のキスで目を覚ます」についても聞き取りを行ったが、それに関係する物事を知っている人物は見つからなかった。当人の日記にも、該当する記述は存在しない。これ以上考えても無意味であると古畑は判断し、資料のバインダを閉じて、棚に収め、家へ帰ることにした。明日からは別の事務作業が彼を待っている。二度とこの資料を見返すことはないだろう。 古畑刑事が帰宅のため車を走らせているころ、練馬美和探偵と赤島もえは探偵事務所でシュウマイを作っていた。赤島もえの家庭はよく言えばおおらかで、先日も人の死ぬ事件に巻き込まれたばかりであるのに、彼が探偵事務所に入り浸ることを許していた。 シュウマイのレシピは非常に一般的なものだ。ただ、シュウマイといえばグリーンピースが乗っているようなイメージがあるが、赤島もえがそれを苦手としているため、今回は採用されていない。それに、一つ一つにグリーンピースを載せていくのは面倒である。 練馬探偵はどろどろとした浮気事件の捜査を終えたところなので、手が、ひいては心が汚れたように感じていたが、もえの要望に負けて具材を生地で包んでいる。手は汚れたなら、洗えばいい。心も、リセットが可能であると練馬は考えている。強いまばたきが彼女にとってリセットのトリガになっていて、瞬時に思考を切り替えることが可能だった。 練馬は愛情のもたらす負の面について考えている。愛しているから裏切られると憎しみ、あるいは愛ゆえに人を傷つける。一方通行の愛情、想いほどむなしいものはない。次第にシュウマイを作る手はゆっくりになり、もえに指摘されて思考を現実に戻した。 「探偵さん、僕はまだあの事件について納得がいっていないんです」 もえが言う。 「あの事件?」 「『姫のキスで目を覚ます』のことです。とぼけましたね?」 「あぁ、あのこと」 練馬は最後の挽肉を包みながら言う。もえがさっき包んだのは皮肉だな、と余計なことを考える。この後は蒸す工程に入るため、少し時間ができるだろう。それとも、食事中に話す方がいいだろうか。どちらにせよ、積極的に語りたい話ではない。 「どうやってごまかしたらいいかな。あくまでもそのことが気になる?」 蒸し器にシュウマイを移しながら言う。 「え? もしかして真相が分かっているんですか?」 「真相、というほどのことじゃないけど、何があったかは一応、ね。でも、気にしないほうがいいと思う」 しかしもえの目は元気である。練馬に分かったのなら自分に分からないはずがない、とそう考えていることが見て取れた。 「シュウマイを食べ終わるまで待って下さい。必ず、自分で答えにたどり着いてみせます」 「事件はパズルじゃない、不謹慎だよ」 「ごめんなさい。でも、自分で答えにたどり着きたいんです」 「分かったから偉いってものじゃないけど、仕方ないかな」 練馬は自分に対して甘い、と客観的に観測したが、ため息とともに諦めることにした。なんだかんだ言って、このもえという少年の明るさには助けられている部分もある。 「情報を一つ。古畑さんから聞いたんだけど、隠し部屋は確かにあって、その中から瀬河大河の日記が見つかったって。自殺したいって書かれていたらしいよ」 「そうですか......。え? ちゃんと情報仕入れているんじゃないですか。興味ないようなふりをしているくせに」 「万が一があったらいけないからね」 もえは黙りこくる。練馬はこの聡明な少年に、真実を伝えてもいいものかまだ悩んでいる。情操教育に悪そうだ。探偵などではなく、もっと健全な職業を目指す道もあるだろうに......。 シュウマイは美味だった。ただ、食事中の会話が少なかったのが練馬としては残念なところ。練馬から会話を振ってもほとんど上の空なのだ。自分は客観的に見たらこのように見えるのかもしれないと、練馬は日ごろの精神放出癖を反省するところだった。 「わかりません。探偵さん」 最後に、もえが言う。食事が終わるまでをタイムリミットと決めていたのだろう。それはある種のすがすがしさを伴った諦めだった。 「始めは、瀬河春奈による殺人だと考えていました。でも、そうではないということだけが分かります。自分の考えが間違っていたという理論だけが見つかる。至らないことを認めようと思います」 「そう。何を考えたかを一応、言ってみて」 練馬は答える。変な意地を張らないところは悪くない、と考えている。 「まず考えたのは、隠し部屋で見つかった遺書が偽造されたものではないかということです。瀬河春奈が犯人だった場合、毒を飲んで自殺したことにした方が都合はいいのは間違いがない。隠し部屋の存在は何らかの理由で知っていたと考え、毒にアクセスすることができる状態だとするならば、そこに遺書を配置することも可能かもしれません。でも、隠し部屋の上には重い食器棚が置かれていました」 「いい気づきだと思う。続けて」 練馬は促す。実際、この少年はよく考えているのだ。この事件に必要なことはほとんど見えていると言っていいはず。 「瀬河春奈は小柄な体格です。そもそも女性ですし、あの食器棚を動かすことはできなかったでしょう。彼女では遺書が偽造できたとしても、隠し部屋に入り、そこに偽の遺書を配置することはできなかった。厳密には、第三者が家に入り、二人がかりで食器棚を動かして、第三者はすぐに帰るという手順で遺書が配置できますが、そんな第三者が居るなら警察がマークしているはずですし、痕跡も残らないとは思いません。そのような行動をとる理由もありません」 練馬が警察から聞いた情報でも、怪しい人物は発見されていない。瀬河春奈の周囲に愛人のような存在も確認されなかった。 「次に」もえは手をぱっと開いて前に出す。 「瀬河春奈がネイルをしているところを僕は見ました。彼女が家から飛び出してきた後のことです。つまり、彼女は手袋をしていない。これは様々な面で彼女が犯人であるということを否定します。毒の入っていたコップしかり、遺書しかりです。家の中で手袋を外したのかもしれませんが、そんな痕跡があれば警察が見つけているはずです。彼女は手袋を家の外に持ち出せなかった。僕たちが見ていたから確実です。手袋をしていないなら、当然室内で何か細工をしたなら指紋が残っていたはずです」 「そうだね。実際、聞いてみたけどそんな痕跡はなかったみたい」 練馬は頷く。 「自殺だとすると、何もかも丸く収まります。瀬河大河が毒を製造していた動機にしたって、自殺以外には考えられない。それが本当に正しいのかもしれません。ただ、瀬河大河が残したメッセージの謎が解けません。『姫のキスで目を覚ます』。これだけは、どれだけ考えてもわかりませんでした。誰か犯人が居て、その犯人のことを示しているのだとしても、犯行を行った犯人がメッセージを見つけたら、普通それを持ち去るはずです。瀬河春奈は死体を発見したときにそのメモを見ているでしょうから、彼女が犯人なら飲み込むなどして処理したはずです。しかし、自殺だとしてもそんなことを書く人がいるのでしょうか?」 もえはそこまで喋った後、天井のライトを見つめた。うわごとのように、『姫のキスで目を覚ます』とつぶやいている。 練馬は立ち上がって、紅茶を淹れることにした。以前何かの時にもらったクッキーが残っていたはず。なんだか無性に美味しいものが食べたくなったのだ。 「探偵さんは分かっているんですか? このメッセージの謎のこと」 キッチンへお湯を沸かしに行く探偵の背中にもえが言う。 「多分ね。でも、真実を調べるのは警察の役目。警察だって、タイム・トラベラじゃないからすべては分からない。私は断片的な情報から推測するだけしかない。それは、覚えておいてね」 事件に無関係な者が横から事件に口を出すことを、よく思わない人は多くいる。けれど、探偵は、とりわけ探偵の心の中の悪魔、悪徳を司る脳の灰色部位は、無責任に言葉を言えるからこそ気楽に捜査ができると考えている。よくないこと、しかしそれも探偵であった。今だって、人の死の話題の最中に紅茶を淹れようとしている。 お湯が沸き、紅茶ができるまでの無言の時間。練馬はクッキーの箱をテーブルに置く。もえが何も言わずに箱を裏返して、成分表示を見る。手持ち無沙汰なのだろう。 「あっ、この一枚はラムレーズンだ。これは探偵さんが食べてください」 探偵の前にクッキーが置かれる。もえには天敵が多い。ピラミッドの最下層にいるのだ。大人になってもお酒の相手にはならないかもしれない。古畑刑事の名が練馬の思考の中で荒野を彷徨うタンブルウィードのように通り過ぎ、練馬は無言でそれを却下した。 「ちょっと嫌な話になるけど、話すよ」 探偵は話し始める。 「この事件はね、さっきのもえ君の指摘の通り、自殺なんだ。目に見えるものがそのまま正しくて、裏を考える必要がない。警察も捜査しているだろうから、そこは間違いないよ。後は、『姫のキスで目を覚ます』のメッセージの謎を考えればいいだけ。そして、この事件は、ちょっとキャッチ―な言い方をするなら、殺人未遂(・・・・)なんだ」 「殺人未遂、ですか?」 もえは目を丸くする。練馬はひっそりと反省した。余計なことを言ったと感じたのだ。 「ちょっと考えてみてほしい。瀬河春奈が家に帰って、愛する旦那である瀬河大河がソファで倒れている。生きているか死んでいるかは、とっさには分からない。けれどテーブルにはメモがあって、『姫のキスで目を覚ます』と書かれている。この時、夫を愛する妻である瀬河春奈はどうするかな?」 探偵はもえの目を見る。まだ、愛や恋を知らないだろう澄んだ目だ。 「瀬河春奈は、メモの通りにキスをするだろう。それで目を覚ますって書いてあるんだからね。日常のいたずらの延長線上だと考えるんじゃないかな。でも、毒を飲んで死んだ人にキスなんかするとどうなるか。α-シュラーゲンは非常に毒性が強いから、少量でも体内に入ったら死に繋がる。瀬河春奈は死んでしまっていただろう。瀬河大河は、唇に毒を塗りたくるようにして摂取したかもしれない。その方が確実だからね」 もえがでも、と言う。探偵は手を振って彼の言葉を止めて、話を続ける。 「確かに現実はそうはならなかった。なぜなら、瀬河大河は毒の影響で苦しみながら死に、その顔はひどいものだったから。そんな状態の人にキスをしたい人なんていない。現に、瀬河春奈は逃げ出して、その結果生き残った。でも、ここで気をつけないといけないのは、ネット上にはα-シュラーゲンの性質について、大きな嘘が広まっているということ。この毒による死は痛みがなく、『安らかな死を迎える』なんて言われている。瀬河大河もこれを信じていたとするなら、どうかな? 彼は自分がまさに眠り王子のようにソファに横たわり、そこに瀬河春奈がキスをする光景を予想していた。これが目的としていたことは心中だね。彼は死ぬときに一人が寂しかった。むこうの同意がないから無理心中だ。愛する妻と一緒に旅立ちたかったんだろうね。死者の心情は想像するしかないし、縁の遠い感情だから推測するにしても不明瞭になるけれど。瀬河春奈がキスという、愛情を表明する行動をとることが原因で心中に連れそってくれる、ということも大事だった可能性がある。愛をもう一度確認したかったんだね」 もえがうつむく。彼がクッキーを一枚食べる分の沈黙があり、もえは口を開く。 「警察には、言うんですか?」 「言わないよ。余計なお世話」 練馬は答える。 「でも、このメッセージの謎は、気になっているはずです。春奈さんだってそうなんじゃないですか?」 練馬はティーカップを口に運ぶ。そして、ゆっくり首を横に振る。 「これくらい、誰か気の利いた人がいたら気が付くよ。気が付かなくても、何も現実には影響がないしね。警察に言う必要はなし。瀬河春奈に関しては、言わないほうが良い。そんなこと言ったら、彼女、死んじゃうよ。ただでさえ夫が死んで憔悴しているのに、その夫は自分を連れていこうとしていたなんて聞いたら。世の中、知らないほうが良いことっていうのがある」 「そうですか......」 もえが再びうつむく。練馬は彼の前にクッキーを置く。 「もっと食べなさい。幸い箱にはたくさんの種類がある。詰め合わせセットだから。人生、生きてればクッキーが食べられる。死んだほうが幸せなんて、思っちゃだめだ。愛情のためだからといって、死ぬ必要なんてない」 もえがうなずく。感受性の高さからか、少しうるんだ瞳で探偵を見る。 「探偵さん、抽象的な質問です。僕はこれから、そういった愛に出会うんですか? 殺す方と、殺される方、どちらかの愛です。そんな時、僕はどうしたらいいですか?」 練馬は空になったティーカップを見つめる。この質問は彼女にとっても難しいものだった。きっと、人にとって答えが違い、そしてそのどれもが正しい。死ぬこと、殺すことが正しいと言う人もいるだろう。 「人生は長い。それしか言えないな。人生っていうのは途方もなく長い。何が起こっても不思議じゃない。十年後には新しい技術が生まれて、そのせいで倫理観まで大きく変わるかもしれない。愛することも愛されることもあると思う。苦しい愛に幸せな愛、どちらもあるし、同時に苦しくて幸せなこともある。何が正しいか分からないことだって、しょっちゅうある。起こりうる全てのことが起こりうる。放っておいても時間の川は流れ続けて新しい物事を運んでくる。その途方もなさが生きているってことだよ」 もえはクッキーを齧る。 長い時間の連続が人生だとしても、この一瞬を切り取ったとしてもそれは人生だ、と練馬は思う。死の香りを嗅ぎながら食べるクッキーの味、それも等しく人生だ。 それを悪くない、と練馬は思う。 すべてが、人生。他人に関係のない自分だけの人生。 探偵はクッキーを口に運ぶ。
さわらび132へ戻る
さわらびへ戻る
戻る