カサンドラの戯言~奈落よりの腕~ 弓川あずさ 側江(そばえ)高校の食堂。昼休みも半分も過ぎ、生徒の数はまばらになっている。そんななか、私はそこに訪れていた。なんということはない、教室で弁当を食べた後にここで一服するのが私のマイブームなのだ。断じて、友達がいないというわけではない。目当ての品物を手に入れた私が席に座ろうとしたときに、それは起こった。机上に置こうとしたカップが倒れる。慌てて伸ばした手は虚しく空を切り、中に注がれた黒い液体が、白い天板に広がった。つまり、コーヒーをこぼした。私はため息をつく。「こういう時も仕事しろよ......」と、つい声が漏れてしまう。なぜなら私、木場(きば)幸来(さら)にはある能力があった。ただそれは、嫌な予感は常にするのにこんな些細なことには反応しない、扱いづらい予知能力であった。 そんなわけで、コーヒーをほとんど無駄にした挙句に机を拭く羽目になった私は、コップの中に少しだけ残ったそれをちびちびとすすっていた。そうしていると、数少ない食堂にいる生徒の会話が耳に入る。私が生涯かかわることのないであろう、バチバチにオシャレをした女子ふたりだった。 「ねえねえ、最近さあ、行方不明者が出てるって話聞いた?」 「まじで?確かにしばらく見かけない人とかいたけど......」 「警察もそろそろ動き出すって噂よ。でもこの事件、もっと変な噂があってさあ......」 「変な噂?」 「なんか、行方不明者は『影入道』って化け物に攫われたんだーって言ってる奴がいるらしいんだよねー」 聞いていたほうが鼻で笑ったのを感じた。 「なにそれウケる。いやウケちゃダメなんだけど。イマドキの高校生でそんなこと言う奴がいるとかちょっとヤバすぎでしょ」 それを受けて話したほうは怒るのかと思いきや、真剣なトーンで話し続けた。 「アタシも最初はそう思ったんだけどさー。それ言ってた奴も行方不明になっちゃったらしいうえに、他にも『影入道』だの言ってるのが居るっぽいのよね。そいつと全然関係ないのに。だから怖くてさー。まあ普通に人の仕業でもやばいし、しばらく遊びに行けなさそうって話をしたかったわけよ。」 「なんか思ってたよりヤバめじゃん。そりゃ遊びには行けんわ。私も控えとこー」 そこまでで私は聞くのをやめて席を立った。そして思った。 (初めて聞いたなそれ。全校集会とかあるんじゃないの?それにしても遊びか......カラオケとか、最近行ってないな......) そうして私は昼休みを終えたのだった。 「行方不明事件?あー、知ってるよ。今のところ六人くらいだったかなあ?でもこの学校、かなり生徒数多いしで確認とかの対応が遅れてるのかもねー」 というのが、帰り道で私の話を聞いた天野真昼の返答だった。彼女は高校に入ってからの私の友人で、なんか家は由緒あるところ、らしい。女の私から見ても、その長い黒髪も相まってかなりの美人だと思う。なんで癖毛でちんちくりんな私と友人なのか、いまだに疑問だ。それになぜか彼女とともにいると予知能力が治まることも不思議である。 「それよりさっちゃん。結構な頻度で話題に上がってたのに知らなかったの?」 呆れたような真昼の言葉。 「だって私、休み時間とか寝たり本読んでるし......」 ばつが悪くて言い訳をする。 「気を付けなよー。お兄さんに心配かけちゃうよ?」 「兄さんは関係ないじゃん」 「いやいや、もしさっちゃんが攫われたりしたら、血相を変えて日夜探し回ると思うよ?」 言われてみれば、ぐうの音も出ない。私には兄がいる。その兄、木場徹はたぶんシスコン、というやつなのだと私は思っている。父と母に頼まれてもいないのに、私を朝に起こしてくるし、家を出る時も忘れ物を確認してくるし、おまけに真昼とよく私のことで連絡をとりあってるみたいだし。こいつらは付き合ってるんじゃないかと私は疑っている。 「いや、真昼の場合でも同じだと思うけど?」 少し意趣返しをする。少しは惚気ているところを私に見せてはどうなのだ。 「え?うーん、どうかな?そこらへんはあまり私は心配されていないような......?」 なんだか思っていた反応と違ったので拍子抜けしてしまった。確かに兄はシスコンだと思うが、女性にそんな態度をとるような人間ではないはず......。そのときだった。 足元のマンホールから突然に湧き出て広がる黒い泥のようななにか。そこから突き出される、人間ひとり包み込めるような真っ黒い巨大な手のようなもの。それが私の身体を掴み、ぐしゃりと握り潰した。もげる頭は、何が起こったのかわからない間抜けな顔をしていた。 というのが私の瞳に映し出された。私の身体はまだそんなことにはなっていない。予知能力が発動したのだ。私が死にかけたから。でも、わからない、わからない。理解ができない。自分の死ぬ姿は今まで何度も予知してきた。そりゃあグロいし、何度も何度も吐きそうになったけど、それは確かに予想できる死にざまだった。だけど、今のは、「人知を超えている」。唯一わかることは、何もしなければ死ぬということ。でも、まずは、 「真昼!あの通りまで走って!」 大切な友人の命を守るために精一杯の行動をする。その手を掴んで私は走り出す。 「さっちゃん!?......ああ、そういうこと」 真昼はその手を振りほどいた。彼女のスカートの裾が翻る。なぜ、という思いが胸を去来する。 「ごめんね。助けようとしてくれてたんだよね。でも、私は大丈夫だから。この先に神社があったでしょ。そこで待ってて。早く!」 真昼は私に背を向け、あふれ出す泥と天に向かって突きだす腕に対峙した。そんな彼女に対して情けないことに、私は走った。逃げたのだ。走った。走った。走った。そして、彼女に言われたとおりに神社へたどり着き、境内に倒れ伏した。怖い。動悸が落ち着かない。真昼が死んだらと思うと震えが止まらない。逃げた自分が許せない。でも、逃げるしかなかった。あそこで逃げる以外の行動は許さないと、何者かが訴えていた。 昔からそうだ。予知が発動すると、私の身体は私の自由ではなくなる。一度、予知に対して何もしようとしなかったことがある。悪寒が、吐き気が、そのほか様々な心身の不調が一気に襲い掛かってきた。逃れるには予知の示す危険を避けようとするしかなかった。それでも歯向かい続けると、身体がうまく動かなくなって自分の意志とは無関係に動かされた、私は死にはしなかったが、大怪我をした。あれから、私は予知の恩恵を享受する以外の選択はなくなった。 数十分が経っただろうか。私の上に聞きなれた声がかけられる。 「良かった。さっちゃんは無事だったみたいだね」 私は上半身を起こす。 「真昼......真昼こそ、生きてて良かった......」 涙が出てきた。そういえば、これまで真昼といて、予知が発動することなんてなかったのに、何故なのだろう。ふとそんな疑問がわいた。そんな私に真昼が声をかける。 「ごめんねさっちゃん。さっきのやつのこと、知っちゃったなら教えるしかないよね」 「ヘカトンケイル......」 「え?」 「さっきのやつ。なんかわかんないけど、直感的にその名前が浮かんだ。」 真昼は驚いた顔をして、私に問いかけた。 「さっちゃん、予知能力だけじゃなくてもしかして記憶が......?」 なぜ?訊きたいのは私だ。私は、「真昼に予知能力のことは話していない」。それに...... 「記憶って何?私、予知能力のこと、話したことなかったよね?説明してよ!全部!わかんないよ!ヘカトンケイルってなんだよ!どうやって生き延びたんだよ!本当に真昼なのかよ!」 混乱した私は、幼子のように捲し立てた。それを真昼はおろおろとした様子で見ていた。しばらくして、覚悟を決めた様子で話し出した。 「本当にごめん。そうだよね。混乱もするよね。とりあえず、私は本物。それは信じて」 「次に、さっちゃんの予知能力のことは、既に徹さんから教えられていたの。そのうえであなたを守ることを私は頼まれていた」 衝撃的な事実。兄が予知のことを真昼に話していた?いや、それよりも。 「それって、友達のふりをしてたってこと?」 私の口から、最低な言葉が飛び出す。 「それは違うよ!」 「頼まれたのは、あなたと仲良くなった後。友達を助けたいから、私はそれを引き受けたの」 ここで真昼はふう、と息を吐いた。 「それで、なんでそのことを頼まれたのかっていうと、うちがああいうのを専門とする家系だから」 「それって何かの冗談とかじゃなくて?ラノベか何かの設定?」 おそるおそる私は質問する。 「あれを見たでしょ。あれはまごうことなき現実。それにしても、直接門を開くタイプとは......、個人の作った結界だけじゃダメなわけだね」 真昼は参った、というジェスチャーをした。 「それで、ヘカトンケイル、ね。確かギリシア神話の奈落に閉じ込められた神の子だったはず。まさか影入道の正体がそれだとは思わなかったよ」 影入道、行方不明者、その言葉を聞いて、私の脳裏に不吉な予想がよぎった。 「じゃあ、行方不明になった人たちってもしかして......」 「死んでる。......と思う」 ほとんど断定する勢いで真昼は回答した。「そんな......」という声が私の口から洩れる。それから真昼はとんでもないことを言い出す。 「それでさ、たぶんあれはさっちゃんを狙ってるの」 「私を?なんで?」 だめだ、理解が追い付かない。なぜ私を? 「ごめん、それはまだ私からは言えない。とにかく、あいつを退ける方法について考えよう」 そう真昼が言うなら、そうなのだろう。こういうときの真昼は、たぶん聞いても教えてくれない。友達として付き合ってきて、分かっていることだ。私は無理やり自分を納得させ、話の続きを促した。 「あいつらのことは、こっちでは『魔物』って呼んでる」 「それでね、たぶんアイツは、ヘカトンケイルは『奈落』を繋げることによって顕現していると考えられるの」 「それがさっきのマンホールってわけ?」 確かに、マンホールには底があるとはいえ、覗いた分には中は奈落のように思えることもあるだろう。 「それだけじゃないよ。奈落を連想させるならどこでも繋げられるかもしれない。ひょっとすると押入れの中とか、果てはぼっとん便所とか......!」 「おちおち夜も眠れないじゃん......」 ぬっと突き出るあの腕を思い出し、呆然と私は呟く。 「夜......それだ!」 「え?」 真昼が私に指を向ける。そして言った。 「さっちゃんの寝巻、私にくれない?」 「え急に何きも」 突然の問題発言。私は自分の現在の境遇も忘れ、辛辣な言葉を吐いてしまった。友人とはいえ、だってキモイじゃん。 「そういうのじゃねえわボケ!自分の命懸かってるのわからんのか!」 真昼にガチギレされた。ここまでキレられるとは思っていなかった。理不尽だ。そのままこんこんと説教をされたあと、真昼から真意を教えられた。 「さっちゃんの身代わりとして、それを差し出すの。好都合なことに、ヘカトンケイルはその大量の頭まではこちらには出せていない。だからそれを利用するの」 なんだか不安だ。 「それで騙して、次はどうすんの?」 「大丈夫、次があるとしても、しばらく先になるだろうから。さっちゃんは安心して」 真昼はにこりと微笑んで、私の両頬を抓った。 「そんな不安そうな顔しないでよ」 手を放して立ち上がり、鳥居のほうに向かいながら、真昼はこちらを振り向いて言った。 「ほら、さっさと済ませよう。さっちゃんの日常を取り戻すために」 両親には真昼の家に泊まることを承諾させ、私は真昼とともに井戸の前で待機していた。兄は、特になにかおかしな様子はなかったが、「気をつけろ。何かあったら俺に電話しろ」とだけ言ってきた。そして今、井戸のすぐそばには私のパジャマを着たマネキンが倒れていた。満月が、それらすべてを照らしていた。 「ねえ、真昼。こういうのって藁人形とかそういうのを使うんじゃないの?」 と、たまらず疑問を口にする。真昼もその疑問は予想通りだったのか、苦い顔をしながら笑って言った。 「急なことだったからね、時間もお金もなかったから......。そもそも、このご時世にそういうものを造る余裕ってなかなか無いんだよ?」 「そうなんだ、ごめん......」 申し訳ない、と謝ったところで、それは再び現れた。 井戸の底から泥とともに黒い腕が現れる。月明かりに照らされたヘカトンケイルの腕は、よく見れば無数の腕が絡み合って、一本の腕を構成していた。それは乱暴に手探りで私のことを探していた。そして、ようやくマネキンに触れると、それををぐしゃりと掴み、ずるっと井戸の底へと引き込んで、消えた。後には、マネキンの砕けたパーツだけが散らばっていた。それは、予知で見た私の死にざまとそっくりで、私は「ああ、死ななくて良かった」と、ほっとしてその場に崩れ落ちたのだった。 あれから私は再び平穏な生活を取り戻した。さらわれた人々の行方は、残念なことにまだ分かっていない。その人たちのことを思うと、少し胸が苦しくなる。あの後、井戸を泥だらけにしてしまったことで真昼は家の人に色々と言われたらしい。それに、真昼からはまだ私の記憶がどーたらということについて教えてもらえていない。ただひとつ分かっていることは、私は戻れない場所に足を突っ込んでしまった、ということだ。きっとこれから私は、あんなふうに人知を超えた死にざまを見せられ続けるんだろう。願わくば、踏み入れた場所が、あの奈落の泥のように質の悪いものではないように祈ろう。
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