エフ・エフ

真心



 赤色の信号機が赤色の空にぽつんと浮かんでいる。光っているのは信号機に三つ取り付けられたライトのうちの一つ、赤色だ。赤色が点滅して、消える。次に点いたのはその隣、これも赤色をした優しい光。光が優しく見えるのは僕と信号機の間にうっすらと霧が挟まっているからかもしれない。人が血を流した時に流れた細胞が、重力に惹かれずに拡散して霧になったのだろう。赤い霧だ。それとも、涙かもしれない。涙と血の成分はほとんど同じだから。
 信号機は弾く金属板が三つしかないオルゴールがひっそりと回っていて、それぞれのライトを光らせているかのように、落ち着いたリズムで明滅を続けている。灯るライトは全てが赤色だ。色に微妙な違いなども観測できない。きっと、この世界では他の色に理由がなくて、赤いことだけに意味があるのだろう。点滅するリズムが可聴域を超えた音楽になって宇宙人の耳を楽しませている。僕は宇宙人の気持ちを理解しようと、耳を澄ませ、目を凝らす。
 信号機は月と同じ高さに浮かんでいる。もちろん、地上の僕の目から見て同じ高さ、ということだけれど。月では赤い目をしたウサギが餅をついている。作られている餅も、月の表面が赤いから、当然赤色だ。純粋な赤をこねて、より純粋な赤色へと近づこうとしている。そんな、ストイックな餅と我慢強いウサギなのだった。
 これは夢だろう、と僕は思いながらも地上に目を戻すと、そこには亀のような怪物がいる。車を十台重ねたよりもずっと大きい、とびきりのクリーチャ。色だって、倉庫から取り出してきたばかりの、とっておきの赤色だった。信号機も、三つすべてが光っている。なるほど、これでは通れない。貝柱を大きくしたみたいな太くて筋肉質な足、世界を背負っていてもおかしくないほどの甲羅、極めつけは赤色のしわでひび割れている老獪な顔で、口を開いてこれも僕には聞こえない歌を歌っている。
 僕はその怪物の名前を知っている。「赤色」というのだ。赤色の足音を響かせて、彼はこの世界の王者だった。天地が敬意を表するそれは皇帝だった。地面がひび割れるのは全てこの「赤色」を中心にするし、月でこねられている餅だって、彼のための物なのだ。
 僕は右手を上げ、そこに赤色のペンが握られていることを発見する。現実の欠片をこの世界に持ってきていることを僕は知る。僕は眠る前のことを覚えている。子供たちが解いた問題を採点するアルバイトをしていたのだ。決まった規則に従っているかどうかを、チェックして答案が型にはまるように修正のメッセージを入れる仕事だ。きちんとした答えが書けている子にはこのペンで大きくマルをする。よくできましたね! その途中で、きっと寝落ちてしまったのだろう。
 僕は目の前を歩く大亀にマルを書く。その大亀が、正しいと思えたからだ。手を大きく伸ばして弧を描くと、大亀をすっぽりと包むマルが書ける。大亀その名は「赤色」、君の歩みは遅いけれど、堂々と歩く。君の歩みはこの世界を回している。その偉大さには大きなマルがふさわしい。大亀はマルをもらって喜んだような遠吠えをする。
 僕は月のウサギにマルをする。君の赤い目はどこか遠くを見つめている。僕を見て、大亀を見て、この赤い大地すべてを見通している。大亀に献上するための素敵な餅を、夜を通してつき続ける。君なら本当に素敵な赤色を作れるだろう。おっと、彼の餅にマルをするのを忘れるところだった。餅はとんでもなく純粋な赤色だ。透き通っているようでも見通そうとすると果てがない。どこまでも続く永劫にして久遠の赤。正しい式はどれだけ変形しても正しいのだ。君たちには僕のペンの赤色を捧げよう。
 僕は空の信号機をマルで包む。君はこの世界にリズムを与えているエンジンなのじゃないか? それとも、理解されない音楽を奏で続ける孤独なピアニストなのかい? 君の正体がペース・メーカでもメトロノームでも何でもいい。僕は君の点滅に魅了された。君の在り方を素敵だと思う。君は正しいと思ったことをいつまでも続けることのできる信号機だ。僕はその姿勢を正しいと思い、君をマルのインクで彩ろう。
 僕はこの世界のあらゆるものにマルをつけて回った。この世界は僕の夢だ。現実のことを覚えているのだから。僕の作った赤い世界の全ては、僕にとって素晴らしく素敵で、気高いものだった。ペンのインクは尽きることがない。この世界はすぐにマルで満たされた。
 世界を見渡して、僕は最後までマルをつけられなかったものが一つだけあることに気づいた。それは、僕自身だ。ペンを前に突き出してコマをイメージしながら体を一周させると、僕の周りに大きなマルが描かれた。なんと素晴らしく偉大なマル! 僕はこの世界の全てを余すところなく肯定し、褒めたたえた。僕は正しい物事を正しいと言える人間だ。もちろんマルをつける必要がある。
 僕が僕にマルをつけたとたん、この世界の全てが歓喜の声を上げた。台地が脈打ち、大亀が頷き、月のウサギは遂に完成した餅を両手に掲げている。大亀の歌が、信号機のリズムが、僕には読み取れるようになる。それは僕のための賛歌、僕が僕であることを祝福する詩だった。
 そして、世界の全てが僕に吸い寄せられていく。餅が、月が、信号機が、大亀が、僕の胸の中へめがけて殺到してくる。形がひずみ、人間の体に収まるようなコンパクトな形になって、立体パズルを解いているように、それぞれの居場所を作って収まっていく。
 僕は胸の重さを感じる。けれどこれは、病的な重さではなく、むしろ今までかけていたものを取り戻した重さだ。僕の胸は今まで空っぽだったのだ。ようやく、必要な場所に戻ってきた大切の重さなのだ。
 僕は目覚める。机の上には採点途中のプリントが山積みになっているけれど、僕はそれをファイルに仕舞ってしまう。そして、立ち上がってカレンダーの今日にマルを書く。これは、今日の記念日だ。今日であることの幸福を忘れないため。窓の外から祭囃子が聞こえてくる。夏祭りだ。外で祭りだというのに友達がいないことを理由に家の中で採点バイトにかまけていたことを思い出す。
 僕は服を着替えて、祭りに出る。赤い提灯が空に舞い、非日常の空気が漂っている。僕は屋台の前で財布を取り出して、お金を払う。
買うのはもちろん決まっている。
真っ赤な真っ赤な、りんご飴。


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