海棠によせて

あいかわあいか



 ぽかぽか陽気の春(しゅん)昼(ちゅう)、古色(こしょく)然(ぜん)とした武家屋敷の縁側(えんがわ)。少女、白玉玲(はくぎょくれい)はだらしなく漢服を開(はだ)けさせ、猫のようにぐるり背中を丸めて横になり、うとうと如何(いか)にも気分よさそうに微睡(まどろ)んでいた。屋敷は万物を停滞せしめんとする春の陽気に包まれ、漢服少女はわずかに栗色のまじった黒の長髪が縁側の板に散らばるのもお構いなし。口元をだらり無防備に開けて春のおひるねを満喫していた。
 やがて、熟睡少女は床板にひっつけていた頭から響く、みしみしと杉の床板を軋ませる足音に華胥(おひるね)から現(うつつ)へと呼び戻された。よっぽど聞き慣れた従者の足音であった。音の主の足運びに合わせ、チリンチリンと鈴の音が縁側に響いた。従者の服の裾(すそ)に付けられた鈴が、両の足の動きに合わせて軽やかに跳ねた。......そしてちょうど、玉玲が床に猫のごとく丸まった姿勢のまま、眠たげに眼(まなこ)を細く開けたとき、
「なあ、ご主人」と、少女にとってあまりに聞き馴(な)れた、少し低く、それでいて澄んだ男声が耳に届いた。声の主は白玉玲に仕える従者の青年、  なまえを周(しゅう)啓(けい)徳(とく)といった。
 彼は武家屋敷の縁側に背を丸めていた玉玲の傍らに膝をつき、相変わらずうとうと眠そうに床板に臥す主人の姿を俯瞰して莞爾(にこり)と微笑むと、主に対する敬意の感じられない、それこそ縁側で涼んでいる飼い猫でもあやすかのような声色で、「起きてくださいよ、ご主人」と続けた。
 ぽかぽか春眠を妨げられた玉玲は、むっと眉を八の字に歪めると、細い腕を縁側についてゆっくりと身体を起こし、漢服の襟や裾を正して床にべたん座すと、
「喃(のう)、啓(けい)徳(とく)や」
と、不満げに、如何にも六つかしそうな表情をして口をとがらせた。......とはいえ玉玲の容貌は齢十四の少女のそれであった。旧家の令嬢として育てられ、礼儀作法や処世術に関しては幼少より叩き込まれその頭脳は多少の老獪さを含んでいることを斟酌したとしても、一五〇にやや届かない程度の背丈しかないその小さな体躯で以て、身長一九〇にして筋骨隆々たる従者青年の肉体を前に胸を張ったとしても威厳もない。事情を知らぬ第三者からはせいぜい『小さな女の子がいとこのお兄さんに吠えているよ。かわいいね』程度にしか見えないだろう。現に、従者の青年、周啓徳は少女の尖った声に対し、むしろ嬉しそうに目を細めると、飄々とした態度を崩すことなく、「はい何でしょう、ご主人」と、馴れ馴れしい態度で答えた。
 漢服少女は従者の態度に「うむり」と小さく首肯すると、当人的には威厳ありそうに背筋を立てて、啓徳に向かって口を切った。この主人に対する敬意を微塵も見せぬ従者に文句を言って膺懲せんとの面持ちであった。
「喃、妾(わたし)はこの通り縁側(えんがわ)でぬくぬく昼寝をしていた身なのだが」と嫌味気に告げた。じとり細い眼で従者青年をにらむ。春昼ぽかぽか陽気に照らされた日本家屋の雨戸も障子も電灯もじとり、と従者に視線を向けた。電灯がチカ、チカと怪しく明滅した。しかし従者は驚く様子もなく莞爾と微笑むと、「はあ、なるほど。それは相すみません」と膝をついたまま、玉玲の小さな背中へと、さながら飼い猫を撫でるかのような手つきで指を這わせた。首の根っこをとんとんと撫でる、男らしいゴツゴツした指の感触に、玉玲は目を細めた。こうすれば主人が安心することを知っているかのような態度だ。本当に腹が立つ。
「......ん、御前はそれを承知(しょうち)して主人(わたし)へと声を掛けたのだ。よほど重要で切迫した要件があるのだろうな? ほれ云うてみるがいい」
 啓徳はこの気難し屋のガキの言動などいつものことと、まるで意に介するそぶりを見せず、相変わらずやる気なく飄々とした態度で、「はあ」と適当に相槌(あいづち)を打ってから、穏やかな様子で口を切った。
「菓子が焼けました。ご主人」
「なるほど」
 玉玲は嘆息、納得した。堂々と張った胸はそのままに「......なるほど、よっぽどに重要なことだ」と神妙な態度で頷いた。少女の態度をみて啓徳は安心したような笑みを浮かべると、すっと手を差し出した。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」
「無論だとも。......喃(のう)、手、借りるぞ」
 啓徳は主人の言葉に、何でもないように「はい」と答えると、彼女の纏った漢服の袖より覗く、白魚のごとく細く華奢な指先に、自らの掌を重ねた。啓徳の手はゴツゴツとして男らしく、少女のふにふにのそれとは似ても似つかない。玉玲は手の甲の上におおいかぶさる男の手の感覚に、安心感から少し口元を緩めかけ......きっと毅然たる表情を作り直した。(もはや少女に威厳などないが、)せめて屋敷の主として、従者の一挙手一投足にまでいちいち意識してやるまい、とそのようなことを考えたのであった。
 啓徳の指をたよりに玉玲が立ち上がった。チリンチリン、と啓徳の服の裾につけられた鈴の音が、少女の身体を支えようとする従者青年の膝の動きに合わせて響いた。玉玲は春昼の漆黒の闇をゆっくりと立ち上がり、啓徳の指先に導かれるまま、一歩とまた一歩と拙い足取りで廊下を歩きはじめた。
 白玉玲は戦災孤児であり、盲人であった。彼女は中国浙江省の裕福な家に生まれた。しかし戦争で故郷の村を焼かれ、逃げていく途中で栄養失調となり、眼の角膜を土中の細菌に侵され、光を永遠に失った。また彼女はほんとうの足もその時になくしてしまった。
 玉玲が板張りの縁側を進むたびに、下半身から、ぐじゅり、ぐじゅり。と粘液を纏った肉がこすれ合う音が、廊下に響いた。まるで、解体した豚の内臓を作業台の上でひっくり返すかのような、生々しい肉の音色。それがいまの少女の足音だった。
 玉玲は白い顔をわずかに赤らめて、啓徳の視線から逃れるように顔をそむけた。ぐじゅり、ぐじゅり。歩くたびに内臓の肉がこすれ合う音が響く。何秒か沈黙の中で歩を進め、少女は啓徳に対し、にへら、と自嘲(じちょう)気(げ)な笑みを浮かべると「まったく、無様な躰(からだ)よな」とため息をついた。
 「目も見えぬ。走ることもできぬ。そのうえ醜悪(みにく)くて、見世物としても三流ときた」
 そう、玉玲は笑って見せた。彼女の肉体はおよそ人のそれではない。赤黒い巨大なウミウシに人間の上半身を取り付けた、とでも形容することができるだろうか。少女の上半身はかろうじて人(ひと)の形(かたち)を保っているものの、腰から下は粘液に塗れ、ぐじゅり、と蠢く巨大な肉の塊に呑まれていた。紫の血管の浮きだした粘液滴る生肉の袋は、『怪物』白玉玲の一本足であり、また今となっては、ほんとうの身体でもあった。
 玉玲は啓徳に手をひかれ、内蔵の足を、内側までみっちりと「器官」で満たされた、むきだしの臓器をずずずと音をたて引きずりながら、ゆっくりと日本家屋の内縁を歩いていった。
 また、かろうじて少女の上半身は人の形を保っているとは述べたもの、その白い肌はつねに汗腺から噴き出す透明な粘液にべっとりとまみれていた。幼く愛らしい顔も、染み一つない玉肌も、常にどろどろの粘膜によって覆われ、身に着けた漢服はぐっしょりと濡れて肌にまとわりついていた。若干栗色の混じった窈窕(ようちょう)たる黒髪も、粘液によって常に、雨に濡れたかのように滴っていた。啓徳は慈しむように少女の黒髪を優しく撫でるが、そのたびにニチリと銀色の粘液の橋が、少女の髪と従者の指先の間に架かり玉玲の羞恥を掻き立てた。しかし、このゴツゴツとした指先にがしり頭を抱えられると安堵してしまう。単純者め。玉玲は自嘲の表情を浮かべた。斯様(かよう)なる肉膿の怪物となり果ててもなお、少女の失われた視力が戻ることはなかった。
 ......白玉玲(わたし)はこれからも暗闇の中を、満足に動かすことのできない無用で醜悪な肉袋(からだ)を引きずって、永遠に生き続けることになるだろう。その事実が怖くないかと問われれば嘘になる。たった一つのかけ違いさえあれば、この死ねない怪物は、永遠の苦痛の中に生きることになるのだ。そうでなくとも、どのような慰めがあったとしても、生きていくという行為そのものが苦痛であるという事実に、やがてこの賢い頭は気づいてしまうだろう。しかし、玉玲は敢えてこれら事実を掘り下げて考えてやろうなどという思考は有していなかった。思うに、世の中の人間は如何(どう)もならないことに沈思黙考し、気分を落ち込ませることが好きらしいが、如何(どう)にもならないことにくよくよするよりかは、酒か肉か菓子のことでも考えている方がよほどに健全であるとの哲学であった。
 しかしやはり、従者青年が少女の怪物然とした肉袋(からだ)をどう考えているのかは、少女にとっても気にするところであった。暗闇の中、ちらりと啓徳の方を一瞥する。彼は相変わらずつかみどころのない態度で、ちらりと少女の姿をじっと眺め「はあ」と相槌を打つと、何でもないかのような口調で言った。
「俺は好きですけれどね、ご主人の肉体(からだ)」
「......阿房(あほ)抜(ぬ)かせ。嬉しくもないわ」
 玉玲は「はっ」とばかにするように返した。無言のまま手をひかれて、少女は廊下を歩いていった。ずずず、と肉の塊が板張りの廊下を引きずる音が、春中のぽかぽか陽気に照らされた静かな内縁(ないえん)にこだました。
 啓徳はエスコートするかのように恭しい態度で障子戸を開け、主人を居間へと案内した。居間は二人が普段食事をする場所であった。畳を外しフローリング張りにした(畳だと少女の体と擦れるので)八畳間の中央には一畳くらいのサイズのある、それなりに大きな炬燵が安置されていた。もう季節は春ということで炬燵用布団は撤去されているものの、ヒーターが薄型なのでオフシーズンは座敷机として使える便利なアイテムだ。啓徳は少女を机のすぐ傍に設置された特製の座椅子へと導いた。座椅子に玉玲が坐し下半身の力をゆるめると、中に水を入れたビニル袋を机の上に置いたときみたいに、内臓の詰まった下半身の肉袋がべちゃりと放射状に広がった。啓徳は少女の髪の先を慈しむように撫でると、粘液に膝が濡れることも厭わずに、そのまま少女のすぐ隣に腰かけた。
 二人の生まれ育った中国浙江省では、床に座る習慣はほとんど失われていた。人外の怪物となり果て、もはや椅子にすわることが不可能な肉体となったあとも、玉玲はやはり直接床に座ることに対する躊躇があった。......だからやはりあの悪魔の発明(こたつ)がすべてわるい。少女たちが金沢港へと密航して間もない頃、交流のあった漁協のお偉いさんから当時は北陸地方でしか知られていなかった炬燵に蜜柑の背徳を教えられたのが運の尽き。玉玲はあっさりと快楽堕ちさせられてしまい、気づけばそのずんぐりむっくり肉ウミウシの身体的形質も相まって、床上生活がデフォなように矯正されてしまったのである。
 玉玲は、耐水性・耐腐食性があってグランドピアノの重量(およそ玉玲の下半身部分(強調)の体重)が圧し掛かっても大丈夫な特注強靭座椅子にゆったりと腰かけると、小さく息を吐いた。
「ご主人、何(ど)うかしました?」
 玉玲のため息に、啓徳は彼女の肩をポンポンと優しく叩くと、懐いている犬みたいに少女の傍に寄った。玉玲はそんな従者の様子にどこか気まずげな表情を浮かべるも、内心ではまんざらでもなさそうな様子で、でもやはり躊躇するような態度で、ためらいながら口を切った。玉玲自身が驚くほどに口の中が乾いていたので、一度口を開いてまた閉じてから。目を伏せて「喃」と言葉を紡いだ。
「............感謝はしておるよ。啓徳。本当に。
 ......どれだけ威張って見せたところで妾(わたし)はしょせんおぞましい肉腫(にくしゅ)の怪物にすぎぬ。目も見えない。足も使えない。本来であれば、誰からもも嘲られ、踏みにじられるだけの脂肪のかたまり。......もしお前が妾(わたし)に対して愛想をつかすようなことがあればどうだろう。妾(わたし)は『死にたくない』『助けてくれ』生き汚くも、お前に『捨てないでくれ』と命乞いをして哀願するだろうよ......。何せ、妾(わたし)という肉袋(からだ)はお前なしには生きることも。ましてや死ぬことすら叶わないのだからな。殺傷与奪を握られている。お前がわたしのライフラインなのだから勝手にいなくなっては困るのだよ
 ............いや、すまん。嘘をついた。調子に乗った。見栄を張った。許してくれ。正直な話、この肉袋(からだ)がどうなろうと妾(わたし)は執着せん。......仮にお前に見捨てられて、首に鉄輪を嵌められ要石にでも繋がれれば、妾(わたし)は餓死することもできず永遠の苦痛を生きさせられるのかもしれぬ。しかし......この莫迦の頭では、そんな未来の苦しみなど想像もできない。
 ......いまの妾(わたし)には『お前に見捨てられるのではないか』という想像の方がよほどに恐ろしいよ。......はは、本当に無様だ。はじめはいくら肉体が異形になり果てようとも、たとえ畜生のごとき地を這うものとなったとしても、せめて心だけは高潔に白玉玲(わたし)でありたいと思っていたものだ。ゆえに、そんなつもりは、お前に絆されてやるようなつもりは毫もなかった。......啓徳よ、お前のことは単なる従者として、奴隷として、妾(わたし)の手足として便利に使ってきたはずだった。......だというのに、まるで蚕のようだ。数十年にわたって、お前が甲斐甲斐しくも妾(わたし)に餌を与え続けたせいで、妾(わたし)はもはやお前に飼育される以外の生き方を忘れてしまった。
 ......ああ、認めるよ、妾(わたし)はもうどうしようもなくお前に依存している。もし冷たい声をして何かを命じられれば、この卑しき脂肪のかたまりは、三つ指ついて『ご主人(啓徳)? ご主人(啓徳)?』と猫のごとき声を出し、無様にも地を這い従うだろうよ。今だって捨てられるのが怖くて仕方がない。......すべてはお前のせいだ。お前が悪いのだ」
 玉玲の言葉に、啓徳は「......はあ」と小さく答えた。しかし玉玲は、彼がぐっと顎に力を込めて苛立たしげに奥歯を噛みしめているのを知っていた。随分と耳が痛そうな様子で、彼は己のこめかみを押さえている。......ざまあみろ。少女はそれでも言葉を続けた。
「しかしだな。一度は死に、白玉楼(てん)へ至った妾(わたし)の魂を、この肉の袋に閉じ込めたのもまた貴様だ。
 ......妾(わたし)の屍肉をこの衆目に晒せぬおぞましき怪物に仕立て上げて蘇生(いきかえ)らせ、それをいいことに寝食や娯楽に至るまで徹底的に管理して飼育し、もはや不可逆的になるまで依存させ、妾(わたし)のことを奴隷同然になるまでに調教したのだ。喃(のう)、啓徳や。お前はさぞやいい気分だろうよ。しかしお前に妾(わたし)の心がわかるか? かつてこの世界に絶望し、やっとの思いで死という安息にたどり着いたにも関わらず、お前の我儘でこの物質の牢獄に連れ戻され、永遠に生き続けねばならなくなった妾(わたし)の気持ちが。
 ............よくも余計なことをしてくれた。妾(わたし)はお前のことを決してゆるしはしない」
「......そうですかい」
「ああ」
 少女の言葉が終わり、部屋には沈黙が満ちた。ややあって、玉玲は少し気まずそうに、白魚のように華奢な指先をくるくると眼前で回し、ちらりと啓徳の方を一瞥した。そして、彼が少女の言葉に沈思しているのもお構いなしに、傍若無人お嬢様然とした気丈たる態度で口を開いた。
「......喃(のう)。早(はよ)う寄越(よこ)せ。妾(わたし)は菓子を待っているぞ」
「はい。ただいま」
 啓徳は炬燵机の上、白い丸皿に盛られた菓子をフォークで刺すと、ゆっくりと少女の口元へと運んでやった。少女は彼に菓子を食べさせられるときの『妾(わたし)はこいつを使ってやっている』という感覚は決して嫌いではなかった。......尤も、その実としては『飼育され、給餌されている』であることは十も承知であった。お前も絆され妾(わたし)から逃げ出せないならそれで結構。
 濃厚なバター(450グラム1000円)の強烈な香りが鼻孔をくすぐった。フォークで与えられた、柔らかい黄金色の塊を、しっかりと風味を味わいながら噛み潰し、ごくりと嚥下すると頬がぱっと明るくなった。我ながら分かりやすいと自嘲するも、旨いものは旨いのだから致し方あるまい。
「これはラスクか?」
 玉玲の言葉に啓徳は頷いた。
「はい。このあいだ倉敷のロハーズで買った、食パンの消費期限が近づいていたので」
「ロマンスもない」
「やっぱり、いりますかね?」
「情趣のない男だ」
「はあ」
 玉玲はちらりと啓徳を覗き、おかわりを所望した。このような無様な姿となって、なおよかった点があるとすれば、いくら食べても太らないということだろうか、なんて冗談が少女の脳裏をよぎる。少女の下半身を構成する謎の器官の群れはその実、超ハイスペック消化管としての役割も果たしているらしい。すなわち、摂取したものは何であっても新器官を増築し、もしくは肉体を維持する原料・エネルギーとして百パーセント利用可能なのである。とはいえ医者より「ドラえもんですね」言われたのはまだむっとする。玉玲としては、いっさい太らないし、排泄行為も不要なのは大変に素晴らしいことだと思っているが、数年前、バリウムを飲んだときにそれをあっさり消化吸収して、なんか緑色の炎を吐く能力を獲得してしまったときばかりは、どうしたものかと真剣に悩んでしまった。もしかしたらその気になれば陽子収束弾(プロトンビーム)も撃てるかもしれない。しかしいくらメリットがあるといっても、上半身は柳の如き線の細さであるのに対し総重量はおよそグランドピアノ一台分に相当する、この複雑怪奇な怪物の身体の代償なのだから素直に喜ぶことはできない。......もちろん言うまでもないが、妾(わたし)の身体が重いのは上半身ではなく、下半身についた巨大な肉の塊がその原因である。本当に。
 まあそれでも、こんなに旨いものを『ダイエット』『食事制限』などとは無縁のまま、躊躇なく食えるのだから悪くない。玉玲はむしゃむしゃと、啓徳お手製のラスクに舌鼓を打ち、莞爾と笑って見せた。
「......しかし旨いの。普通のパン、普通のバター、普
の上白糖。すべてが凡庸普通尋常のはずなのに、どうしてこうも組み合わせるだけで小宇宙が広がるのか」
「ご主人は好みがわかりやすくて助かります」
「抜かせ。貴様が妾(わたし)の何を知っている」
「酒か肉か甘いものを与えれば素直になりますね」
「よく知っておるな」
「今夜も晩酌しますかい?」
 啓徳の提案に、少女は暫く考え込むと、何か思いついたかのような口ぶりで。「そうだな」と切り出した。
「どうしました?」
 不思議そうに尋ねる啓徳に、言葉を続ける。
「なあ啓徳」
「はい」
「庭の海棠がよく咲いている」
「そうですね」
「今が見ごろだ。人を呼んで宴会をやりたい」
「なるほど」
「招待は任せた。まあ数人に声を掛ければ二・三人は来るのではないか」
「水曜の夜ならそんなものでしょう」
 宴会となれば準備しませんとね、と啓徳は立ち上がる。とりあえず近くのナカマルで食材を調達するところからはじめなければならない。早速段取りをはじめる従者の頼もしさに玉玲は莞爾として「......しかしよくもまあ」と口を切った。
「妾(わたし)の容貌を知りながら、それでも離れようともせずに宴会に誘えば来るかもしれない物好きの顔が、何人か思いついてしまうものだ。怖くはないのか。妾(わたし)ならきっと怖い」
と自らの肉袋(からだ)をちらりと覗いて、感慨深げに呟いた。啓徳は座椅子に腰掛ける玉玲の粘液でぬれた頭をぽんぽんと優しくたたくと、「ご主人の人柄では?」と。
「はは、まさか」
 玉玲はゴツゴツした啓徳の指の運びに心地よさげに目を細めると、少し嬉しそうな表情(かお)をして微笑んだ。
「しかし海棠の花ですか。俺も好きですよ、  ご主人が軽かったころを思い出します」
「ああ? はったおすぞ」
「いまのほうが魅力的ですよ」
「ああそうかい。......誰かのおかげで魅力的な肉袋(からだ)になってしまえて嬉しいよ」
 玉玲の皮肉に、啓徳はじっと沈黙した。やがて、従者は自らの服がぐっしょり濡れるのも厭わずに、主人の細い身体を背後からがしリ抱くと、独占欲を隠す様子もなく、ぐっと腕に力を籠めた。そして玉玲の耳元にそっと口を寄せると、まるで懴悔するかのような口調で、「......ええ、そうですね」と頷いた。

「俺がご主人を裏切ったんです」
 
 
白玉(はくぎょく)玲(れい)は中国浙江省(せっこうしょう)の生まれ。一九二八年二月六日。牡丹雪(ぼたゆき)の降りしきる晩に、杭州(こうしゅう)延安(えんあん)路(じ)の病院にてこの世に生を受けた。
 彼女の母、白(はく)春(しゅん)玲(れい)は杭州の老舗薬屋の末娘。街を歩けば五人中六人が振り返る雲鬢花顔で知れた窈窕であったが、生まれつき病弱にして、玉玲の産褥(さんじょく)に体調を崩し、そのまま還らぬ人となった。
 いっぽう彼女の父、白謇(はくけん)は浙?(せっかん)線(せん)(浙江省杭州と湖南省株(しゅ)洲(しゅう)を結ぶ鉄道路線)上の或村の名士。齢二十二にして上海で高等教育を受けた後、イギリス資本の貿易商社に就職した。白謇(はくけん)は使用人こそ多く用いていたが、娘玉(ぎょく)玲(れい)を男手一つにして、(玉玲曰く)立派に育て上げた。春玲の死後、彼のもとには多く縁談が寄せられたものの、亡妻への思いを断ち切ることができなかったのだろう。白謇(はくけん)は以後再婚することなく、生涯を寡夫のまま過ごした。幼少の玉玲は、貿易商社の仕事で中国大陸を飛び交う父の後ろを追いかけ各地を転々として過ごした。玉玲は杭州語を母語とするが、発音にやや上海語や北京語の響きが混じっているのはその影響である。もはや玉玲の記憶に遠いが、彼女を連れて韓国の釜(ぷ)山(さん)港や日本の神戸港を訪れたこともあったらしい。
 
 一九三五年。浙江省は一九二八年の上海クーデータ以降、南京国民政府の統治下で鉄道の敷設などが続けられ発展を遂げていた。その一方で、満州事変、第一次上海事変など大規模な軍事衝突が日中間で続いた。上海の日本軍を排除せよとの声が各地より響き、テロリズムが相次いだ。ひたひたと、しかし確実に日中戦争の足音は迫っていた。同年三月、玉玲の身に危険が及ぶことを危惧したのであろう。白謇(はくけん)は七歳の玉玲を自らの生家に疎開させることに決めた。彼自身、貿易商社の管理職という仕事柄、常に安全な場所にいるというわけにはいかない立場にあった。白謇(はくけん)は玉玲を連れて浙?線上にある故郷の村へと帰り、彼女に数名の使用人と屋敷を与えた。彼とて娘の自負心(プライド)の強さはよくよく理解しており「お前は立派に育ってくれた。家の留守を任せられるか?」と、少女に掛け合ったのである。その実は彼女を案じた疎開の提案であったが、そのような文脈ではこのむつかし屋は納得しないことを父は知っていた。ゆえに「仕事を任せる」という体をとったのである。少女は逡巡しつつも、きっと表情を硬く覚悟を決めた様子を見せて、家の留守番という任務を請け負った。玉玲七歳であった。
 こうして、白玉玲は村の旧家の小主人として、石造りの立派な邸宅に君臨することになった。今まで父にべったりだったこともあり、顔知る人のほとんどいない小さな村で、いきなり家の女主人として留守を任される心細さは、尋常ならざるものであっただろう。七歳の少女にとって広々とした石造りの邸宅はあまりに広大無機質で、数名の従者を使役する立場というものも、あまりに荷が重いと言わざるを得なかった。しかし彼女は生来(しょうらい)の自負心の高さから、不安がる様子をおくびにも出すことすら、決して自らに許さなかった。
 玉玲は使用人に対して、その女主人としての尊厳を保とうと、敢えて冷たい言葉を使って、気丈(きじょう)に振る舞って見せた。その様を一瞥(いちべつ)すれば、親に甘やかされて育った坊々(ぼんぼん)我儘娘が威張っているようにも見えるし、また実際、玉玲の言動の節に、寂しさの裏返しとしての八つ当たりとらえられるべき側面もあったことまでは否定できない。
 しかしやはり、父の家を己が手で守らねばならないと決意し、せめて気丈に振る舞おうとする少女の虚勢こそが、幼き玉玲の言動の核心であった。また、そのことを『大人』である白家の使用人たちが同情していたからこそ、「あの生意気なガキ」と思われることこそあれど、本格的な労使対立には至らなかったのであろう。
 後になって振り返れば、白玉玲が七歳で家を任されることになったのは単に疎開を彼女に納得させるための方便であり、父親白謇(はくけん)とて家の管理を完璧に任せるなどという重荷を彼女に追わせるつもりは毫もなかった。結局のところ、玉玲が一人空転していただけなのである。
 しかし早熟の天才少女は、割と無理をしながら、しょっちゅう知恵熱を出しながらも、うまくやってしまった。朝起きて、かつて父がやっていたように新聞を開き、(苦い酸っぱいと眉をひそめながら)ブラックコーヒーや紅茶を口元に運ぶ。きょうのタスクを使用人たちに割り振って、帳簿をつけ、夕方には村の婦人たちと井戸端会議に参加......。など、背伸びしながらも、不格好でありながらもしゃんと白家の女主人としてのロールを果たしていたのである。
 玉玲の数少ない楽しみは本を読むことであった。父白謇の熱心な教育の甲斐(かい)もあり、彼女は幼くして文字を読むことができた。弱冠七歳にして、甘えることのできる人が誰もいない境遇に置かれた玉玲は、なんとか立派な大人の仲間入りを果たそうと、寝る間も惜しんで知識の蒐集に励んだ。(......いや本当に妾(わたし)はそのような境遇だっただろうか。実際は女従者の姉御たちや隣家のホンおばさんにでも年相応に甘えればいいのに、無意味なプライドからそれを行えなかっただけではないだろうか)。幸か不幸か、白家の蔵に眠っていたあまりに膨大な本の群れは、彼女に上品な教養から下品な知識まで(どちらかといえば後者の比重が圧倒的に勝るのは秘密にしておく)、あらゆる情報を伝授した。
 こうして立派に令嬢然とした生活をしていたおかげで、白玉玲といえば、博学才穎(はくがくさいえい)なお嬢様、あと人が見ていないときに莞爾(にこり)とはにかむ様が非常に愛らしい。と、狭い村内でそれなりに評判になった。名士の娘という前提がモノを言ったのかもしれないが、隣家のおじさんから「野菜持って行きねぇ」、おばさんから「これ柿のおすそ分けだよ」と、お土産などを貰ってしまうくらいには農村の暮らしに溶け込み、可愛がられるようになった。玉玲の努力のたまものだろう。実はほんとうの彼女はひどい人見知りなので、だいぶ無理をしていた。
 しかし、生まれ持ってのプライドの高さ、父の家を任されていることによってのしかかる責任感、年齢とかけ離れたとまでは言えないがちょっとぬけた頭の回転、豊富な知識などから、玉玲はなかなか同世代の友人を作ることはできなかった。彼女は同世代の子供の頭の悪さや無教養をばかにしてしまうので「純粋理性批判(Kritik der reinen)」を知っているかしら?」「知らね」と会話を続けることができなくなり、また相手も堅苦しい内容しか話そうとせず、自然と知識マウントを取りにくるメスガキ玉玲とは距離を開けるのだった。
 ......この高慢ちきの少女が、相手の話を黙ってきいてやることこそ、本当に賢い会話なのだということを学習するのは、ずっと先のことであった。それまでは、大人たちからは礼儀正しく、本当にいい子だと可愛がられるのとは対照的に、同世代のガキどもとは順調に不仲を深めていった。具体的にはよく窓に生きた蛇を投げ込まれた。そのたびに玉玲(ヘビに対する恐怖はないが、ムカつきはする)が無駄にでかい庭師のハサミを掴んで、悪ガキどもをとっちめにいくのだった。......もしかすると彼らの仲は特筆するほどには悪くなかったのかも知れない。しかし、玉玲はガキどもとどうすれば仲良くなれるのか、当たり前の処世術すら発明できない痴愚であった。「当時の妾(わたし)やばすぎでしょ」、とようやく冷静に思えるようになるのは人間を辞めた後になってしまった。
 
 二月六日生まれの白玉玲が、九歳になって数か月が過ぎた秋の昼のこと。少女たちは例年の通りおそろしく蒸し暑い中国の夏をなんとか乗り切ったが、次はおそろしく冷たく乾燥した冬がすぐにやってくる。漢文学的な話をすれば秋は物悲しい季節なのかもしれないが、少女の暮らす農村ではむしろ、収穫の季節で食べ物はうまいし、お昼寝するのに快適だしで、あまりネガティブな印象はなかった。芋の食いすぎで少し腹が出たかもしれない、などと気にするのも毎年の事であった。
 さて、玉玲は庭に広がる景色を見て「壮観よな」と小さくつぶやいた。彼女の家の広々とした庭にはあちこちに茣蓙(ござ)が敷かれ、蔵書が所狭し並べられていた。夏のジメジメ湿気を乗り切った本たちを労うように、天日干しを行うのが秋の慣例であった。あまりに蔵書の数が多いので、何度かに分けて行ううちの、これはちょうどさいごの分にあたる。
 玉玲はこの天日干しという年中行事が決して嫌いではなかった。白家一族が何も考えず、代々にわたって蒐集し続けた本たち。その地層をひっくり返していくのは、何だか宝探しのようで、結構面白いのであった。去年はこのイベントの途中に『水滸伝』を見つけてしまい、それはもうえらいことになってしまった。あの本の発掘によって、この一年間でどれだけの時間が奪われたのかは本当に計り知れない。
 少女はぐるぐると本の楼閣の隙間を抜けていく。歴史書、滑稽本、住民台帳......。あんまりにもジャンルに節操がないのは、玉玲を含めた代々白家一族が本当に物を捨てられない性質であり各々が無節操に蒐集を続けた末路であろう。玉玲も父も、たぶん生前のおじいさまも、ひいじいさまも。収集癖持ちのくせに腐りかけた本ですら捨てることができない性質なのだ。
 天日干しもいよいよ佳境を迎えようとする頃、玉玲はふと今は亡きおじいさまの本棚に並ぶ背表紙の群れから、一冊の妖しげな本を見つけるに至った。手にとると表紙には掠れた墨で『大食呪術教典儀』と書かれている。パラパラとめくると、埃がハラハラと秋空に舞った。玉玲は咳き込み涙目で紙面に目を落とす。そして写本の墨文の記載に目を細めた。『大食呪術教典儀』には「生贄」や「召還」などあやしいワードが並んでいた。......玉玲は近くを見渡して誰も見ていないことを確認し、これを黙って自らの部屋に運び込んだ。白玉玲は齢にして九歳と半年。ちょうどオカルトなど興味を持つお年頃の彼女は世界の秘密を知ったという気持ちであった。
 
 やがて、天日干しを終えた蔵書を書庫に返した頃に日輪は落ちた。使用人たちにねぎらいの言葉をかけ、夕餉を済ませると、少女はいそいそと、いつもよりも少し早めの時刻に自室へと姿を隠した。
 夜の二時過ぎ。少女は屋根裏部屋へと向かうため、天井に設けられた跳ね梯子を、自室の床に下ろした。そして慎重な足取りで、ゆっくりと階段を昇りはじめた。ギシギシと木製はしごが軋む音が少女の広い部屋に響いた。
 物置として使われているはずの屋根裏部屋は漆黒の闇に包まれていた。本物のくらやみだった。目の前にかざした腕すら見えないのである。少女はごくりとつばを飲み込もうとするが、緊張しすぎて口の中はからからだった。深呼吸をしてから、震える指先で準備しておいたカンテラに火を灯した。ぼんやりと薄明が広がり、キラキラと埃の飛び交っている様子が見えた。しかし、それでも見えるのは二・三メートル程度で、その先には墨で塗りつぶしたようなくらやみが広がっているのだった。玉玲は、自らの心臓がバクバクと激しく震えていることに気づいた。暗闇の中から「何か恐ろしいもの」が飛び出してきて、私をどこか恐ろしい世界へと連れて行ってしまうのではないか。そのような想像が脳にこべりついて離れなかった。しかし玉玲のオカルト興味はその程度の妄想を恐れて歩みを止めてしまほどに弱くはなかった。左手に持ったカンテラの薄明だけをたよりに、よくわからない石像や、おじい様が使っていた箪笥などを乗り越えて、奥へ奥へと進んでいった。

『大食呪術教典儀』は悪魔召喚の儀式を中心とした魔導書であった。西洋の魔術師たちは悪魔を魔法陣の中に呼び出して生贄をささげ、契約を交わすことによって自らの願望を叶えてきたのだという。このような、西洋の魔術について、清朝末期の導師が文献を収集し、幾度かの召還実験をおこない、この『大食呪術教典儀』が作成されたという旨が、冒頭に記載されていた。
 玉玲は屋根裏部屋の中心部にしゃがみ込むと、カンテラを傍に安置し、鞄より朱色の墨と硯、筆などを取り出した。そして、五芒星を基礎とした魔法陣を、朱色の墨を用いて床に描き始めた。魔法陣は結界だ。呼び出された悪魔は術者を殺し、その魂を奪おうとするらしいので、彼らのかぎ爪から身を守るための結界を張らなくてはならない。......らしい。なるべく丁寧なものを描くために、まずコンパスで下線を引いてから、その上に朱墨にひたした筆で文様を描いていく。天才少女玉玲の記憶力を以てすれば、複雑な魔法陣であったとしても幾何学的に情報を圧縮して記憶してしまうことなど朝飯前。気づけば、屋根裏部屋の木製の床の上には、朱墨で描かれた五芒星魔法陣が完成していた。
 玉玲は息を殺したまま、持ってきた「供物」を魔法陣の中央に安置した。竹細工の籠の中には、白い塊が二十個ばかり詰め込まれていた。ニワトリの無精卵。要するに、家の鶏舎からくすねてきた、朝どれの新鮮タマゴであった。......仮に白家のタマゴを供物として受け取っていただけなかったときは、少女自身がプリンにしていただくのみである。
 朱色の魔法陣の上に、朝にとれたばっかりの新鮮タマゴの入ったバスケットが鎮座された。少女はごくりと固唾を飲むと、右腕を魔法陣にかざした。悪魔召還の儀式は次の言葉に始まった。
「In the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit......Amen」
 すなわち、父と子と精霊の聖名によって。......本によると、西洋呪術では術者の精神汚染の程度を和らげるために、魔術発動前に聖句を唱えるらしかった。もっとも、白玉玲はカトリック教徒ではないのでこの文句を唱えることに精神保全の効果があったか問われると怪しいと言わざるを得ない。むしろ父の同僚のチベット人から摩尼車(マニぐるま)でも借りてきて、カタカタ回した方が彼女の精神は安定したかもしれなかった。少女は暗闇の中、ひたすらに呪文を唱え続けた。はじめはカトリックの司教が唱えそうな内容であったが、段々とその内容はきな臭くなっていった。玉玲の唱え続けるマントラは、やがて偉大なるわだつみの主を褒めたたえるものへと変化していった。「それ」の巨大さを。「それ」の恐ろしさを。万物を飲み込む「それ」をたたえる。そして、真言はこの言葉で締めくくられている。玉玲はカチリとカンテラの灯を消し、最後の言葉を唱えた。
「......And God Created Great Whales」

 気づくと少女は仰向けの状態で、草原に眠っていた。視界には一面の蒼い空が広がっている。白くて巨大な雲が群れをなして、少女のまわりをぐるぐると周遊していた。草はさびた鉄のようなにおいがする。【鯨の腹】それは、幼少の玉玲が上海の突堤で嗅いだ、船底の錆のにおいによく似ていた。よく耳を澄ませば鎖の音が空の上、雲の隙間から響いていた。
「ここは?」
 少女の漏らした問いかけに誰も答えない。ただ青空の下、むせ返るような鉄の臭いを湛えた草原が広がっているばかりだった。玉玲はむくりと身を起こした。そして、こんなに殺風景だとつまらないと思うと、一陣の風が緑の砂漠をすり抜けていった。【過去は未来である】少女ははっと振り返る。すると、背後には紅の海棠の花がぱっと一面に咲きほこっていた。気づけば、少女は海棠の林の中に立っていた。右を見ても左を見ても、海棠の美しい紅色の花が開いている。少女が一歩を踏み出すと、くらくらするような甘い香りがその場を満たした。
「......きれい」
 玉玲は恍惚(うっとり)とした表情のまま、海棠の林を歩いていく。いくら進んでも視界に映るのは、【断面をなぞる】冷たいほどに蒼い空と、ぐるぐると回り続ける白い雲、そして紅色の花を湛えた海棠ばかり。しかし、少女は不思議と満足を覚えていた。
 やがて、数時間ほど林の中を歩いたのだろうか。少女は海棠の樹の根元に佇む白い塊を見つけた。それは、小さくて、ぶよぶよしていて。なぜだか少女の気を引いた。玉玲はその白いかたまりに向かって声を掛けた。
「ねえ、あなた」
 白いかたまりはぶるぶると震えると、なんとか絞り出すような様子で「......ァ」「......ゥァ............」と反応する。玉玲はまるで嬰児みたいだと思いながら、そのぶよぶよとした白いかたまりを見つめていた。
「......ブギャュ!」
 やがて、そんな鳴き声をあげると、白いかたまりはぐるりと反転(・・)した。ぶよぶよとした白い外側がべろりとめくれて内側へと飲み込まれていき、内側にあった白い肌が外側へと露出した。同時に玉玲は安心感を覚えた。そうだ。無事に「育った」のである。白いかたまりはよく見ると、白い髪をした女の子のようだった。下半身は地面の中に埋もれているが、さらさらとした白い髪を持っている。彼女は『茸姫』だった。白のドレスにミルクのような美しい白髪の茸姫はつたない態度で、ミチミチと裂けるようにその口を開けた。はじめは「ぁ......ぅあ」と喃語のようであったが、やがて拙くもはっきりと一つの言葉を発するに至った。
「ひめ......しゃま」
「......私のことを言っているの?」
「ひめさま!」
 白髪の少女は玉玲の瞳をじっと見つめながら、ただ言葉を繰り返し始めた。その様子はどこか言葉を覚えたばかりの赤ん坊のようだ。玉玲はそう思って、莞爾と微笑んで「そうですね」返した。茸姫の言葉により白玉玲はこの世界の姫となった。
 狂い咲く海棠の下で、小さな茸姫の目線に合わせるように腰を屈めるのは、この世界の姫君、白玉玲。白髪の少女に向かって、偉大なる姫君は滔々と言葉を続けた。
「私は考えました。尋常であれば、このような世界に迷い込んでしまったとき、元の世界に帰りたくて、帰りたくて仕方がないことでしょう。なぜあのような儀式をしてしまったのかと後悔することでしょう。
 しかし私はそうではありません。気づけばあなたにお喋りすることもう数日? 昼も夜もなくて時間を知るすべがないのでわかりませんが。まあまあ、とにかく長い時間をおしゃべり続けています。けれど喉も乾きませんし、お腹もすきません。疲れることもありません。
 ......つまり。畢竟するに。私はいま重度の精神病になって、隔離病棟の奥にいるのかもしれません」
「さすガは姫サマ、アたまがいい!」
 玉玲の言葉に白髪の童女は目をキラキラとさせて首肯した。玉玲は少し寂しそうに彼女に尋ねた。
「あなたもそう思いますか? 茸姫さん」
 ちなみに茸姫というのは、玉玲が童女に対して勝手につけた名前である。白くてちびっこくて、地面から生えているところとかまさしくキノコみたいだったからぴったりの名前だった。成長していくにつれて、頭からふわふわした胞子みたいなものを出すようにもなってきたのできっと間違いではないはずだ。彼女は大げさに首をかしげると「うーン、わからない」と答えた。
「そうですよね、わかりませんよね。私にだってわかりませんから。......でもどうしてだろう、私は不思議とこの世界から帰りたくないのですよ。この蒼い空と白い雲と海棠とあなただけの世界で、いつまでも暮らしていたいって。こっちの世界の方がもとから正しかった気がするんです。世界はこうあるべきだった。白楽天もきっとこの景色を見たんでしょうね」
「いいト思うヨ、姫さまがそう願うなラ」
 玉玲の言葉に、茸姫は面白そうに玉玲へと微笑みかけた。しかし、はじめ玉玲はその表情が自分へと向けられたものであることに気づけなかった。玉玲は自分が同年代以下の子どもから微笑みかけられた経験がなかったのだった。......あ、そっか。玉玲はふとその瞬間に気づいてしまった。
「............何で私が元の世界に戻れないのかわかりました」
「そおうなの?」
「私、友達がいないんです。父親以外の人から笑顔をもらった記憶が殆どなくて。......だから、あなたが私の人生はじめての友達で、あなたと別れたくないのかもしれません......はは、なるほどね。私は嫌われるわけです」
「どウしたの?」
「......私があなたのことを好きな理由は、きっと反抗をしないからです。あなたは、私がどんな酷いことを言ったとしても、私のことを嫌いにはならないでしょう?」
「うん」
「だからです。私が元の世界に戻れないのは。この居心地のいい、美しいもので満たされた泥沼のような世界がよっぽど私の理想です」
「姫さま、ともだち、ほしい?」
「......はい。そうですね」
 玉玲がそう言い終えた。その刹那、ばっと海棠の花が散った。視界がぱっと朱色に染まり、轟々と吹き荒れる嵐が海棠の花弁を散らしている。気がついた。夢が終わろうとしている。この儚くも美しき世界が、まるで母の胎内のような幻想が終わろうとしている。茸姫は儚げな笑みを玉玲に莞爾と向けた。
「まって!」
「またネ......姫さま」

 白玉玲は暗闇の中、目を覚ました。随分と埃っぽいところにいる。あたりを探るとカンテラを見つけて、火を灯した。悪魔召還の儀式を行っている途中に変な夢を見て倒れていたようだった。山積みにされた卵はくさっていない。懐中時計は午前四時を指している。まだ儀式をはじめてから二時間ほどしかたっていないようだった。玉玲は狐に鼻をつままれたような感覚のまま、撤収の準備を始めた。悪魔も茸姫も供物であるニワトリの卵を受け取ってはくれなかったので、結局儀式は上手くいかなかったらしい。最後に「In the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit......Amen」と聖句を唱えてこれでおしまいにする。結局は緊張のあまり意識を失ってしまっただけのようだった。あの美しかった海棠の林も、玉玲を姫と慕う茸姫もすべては秋の夢に過ぎなかった。玉玲の友達は〇人に戻った。どっと疲れたのでその日はぼんやりとして過ごした。
 結局、少女はあれから何ら特別な経験をすることはなかった。悪魔への供物にするはずだったニワトリの無精卵たちは、無事に牛乳と混ぜられてプディングとなり、少女の胃の中へと消えていった。時折、あの白髪玉肌窈窕たる茸姫に会いたいと思い、屋根裏部屋で同じ儀式をするものの、海棠の世界へ到達することはできなかった。
 
一九三八年、一月のはじめ。ぼた雪が降りしきる夜だった。玉玲は二月の六日に生まれたので、もう一か月経てば十歳となる。少女は珍しく真面目なものを勉強してやろうという気になり自室で『易経』なんぞ手に取って読んでいた。......普段の彼女が軟派な通俗小説ばかり読んでいるのは内緒である。
 玉玲が窓の外でちらちら舞う雪を横目に『易経』の文句を目で追いかけていると、屋敷の戸を叩く音が聞こえ、やがて下の階から「......では、お嬢様を呼んでまいります」と、中年の女従者の声が玉玲の耳に入ってきた。六つかしい本を眉しかめながら読んでいるときほど、他人の声に鋭敏になることはない。玉玲はすぐさま勉強を放り出すと、漢服の裾を整えて、軽やかな足取りで部屋を飛び出した。するとちょうど女従者は石階段を上り終え、少女の部屋へ向かおうとしているところだった。ばったりと鉢合わせになり、女従者は「聞こえておりましたか」とわずかに目を丸くした。そして静かに一礼し「お父様がお帰りになられました」と玉玲に要件を伝えた。
 対する玉玲は「そう、ありがとう」と、何でもないような口調で答えて、トトと石の階段を優雅に下りていった。
 中年の女従者は、そんな主人の様子を見て、呆れたようにため息をついた。階段を下る玉玲はクールを装っているが、もし彼女に犬の尾がついているとしたら、久々の家族との再会の喜びに、パタパタと上下左右に振られていたに違いない。現に彼女の足取りはあまりに軽やかだ。......玉玲お嬢様はどうせ感情を隠し切れず、表情や所作のなかに出してしまうのだから、ちょっとは素直に甘えるようにすればいいのに。というのが、従者たちの総意であった。
 玉玲の父、白謇は久々に娘の住む生家へと帰ってきたばかり、黒色の外套についた雪を玄関へと入る前に、バサバサと叩き落としていた。前に彼がこの屋敷へと戻ったのが前年の夏のことだから、玉玲の父との再会は、実に数か月ぶりとなった。外套を纏った白謇は、長い汽車と船上の生活に少しクマを作っていた様子であった。しかし石の階段を駆け下りる玉玲の足音と、続く相変わらず元気そうな彼女の表情を見て、ほっとしたような笑みを浮かべた。娘に「ただいま」と嬉しげに告げた。対して玉玲は落ち着いた様子で、いかにも女主人然として莞爾と微笑み、
「お帰りなさいませ。お父さま」
と父を迎えた。玉玲は慣れた様子で、外套と荷物を受け取ると、そのまま居間の方へ父を案内した。そして、預かったものを使用人に手渡して父の部屋に持っていくように依頼すると、そのまま彼らにすぐ夕餉(ゆうげ)の準備に取り掛かるように命じた。
 白謇と玉玲は、ダイニングの椅子に向かい合って、ゆっくりと腰を落ち着けた。さっそく白謇は、予め鞄の中から取り出しておいた銀色の丸い缶を手に取ると、
「留守番ごくろうさま。インド出張のお土産だよ」
と言って、少女にそれを手渡した。
「ダージリン......紅茶ですね」
「ああ。お気に召してくれるかな」
 玉玲は上品な装飾の施された、銀色の缶を見て「ええもちろん」と優美に笑みを浮かべた。そしてすぐさま、近くの従者を呼びよせてから缶の裏面をちらりと一瞥すると、「カップ一杯につき一匙。抽出の時間は三分で。......あなたたちも一緒に飲みましょう?」と紅茶を淹れるように命じた。そして少し(かなり)得意気な表情をして父の方をちらり覗き見るのであった。白謇は、彼女のことをもう十年近く見ているので、「見ないうちに英文が読めるようになったのか」と玉玲に微笑んだ。玉玲は褒められれば得意になって、そのまましばらくは元気でいるという非常にわかりやすい性格をしていた。案の定、少女は満足げな表情を浮かべて鼻高々であった。
「漢字とは違ってたったの二六文字ですから。それにお父様の同僚さんがたまに送ってくださる英国の小説が、とても面白いのですよ」
「へえ、何ていうタイトルなんだい?」
「Lady Chatterley's Lover」
「あのイギリス人め......」
「あとサキという小説家の本がとても面白くって」
「わかった。ちょっと海城まで行ってあのイギリス野郎とっちめてくるよ」
「まあ。いまは結構北の方におられるのですね」
 玉玲がそう歎息したところで、料理が得意な従者から紅茶が手渡された。カップの中では、美しい琥珀色をした液体が静かに波をうっていた。口元にすっと近づけ、香りを堪能する。上品なのに、どこか野性的で力強さを感じる香りがした。一口飲んでから、「美味しいですね」と優美な笑みを浮かべた。対する白謇はほっと無でを撫でおろして、「そう言ってもらえると何よりだよ」と言ってから、もういちど紅茶を口元へ運んだ。

「............あの、お父様」
 ちょうど紅茶を飲み終えるころ、少女は不安げな表情を浮かべて白謇をちらりと見ると、ためらいながら口を切った。父の背後に隠れるようにして、一人の少年がちらちらと少女のことを緊張した面持ちで覗いていた。そのことに少女はずっと前から気づいてはいたのだが、いずれ父が言及するだろうと思って黙っていたのである。もっとも、父白謇の方も、いずれ玉玲が彼のことを言及するだろうと思って、なかなか俎上に挙げなかった。なるほど、親子似た者同士というほかない。結果、我慢比べに巻けたのは玉玲の方であった。白家親子二人の呼吸に巻き込まれて、長時間にわたって放置を食らった悲しき少年は、従者から渡された紅茶をちびちびと飲んでいた。玉玲はなるべく言葉を選んで、父に彼のことを尋ねることにした。
「......ところで、さっきから気になってはいたのですが、こちらの方は?」
 玉玲の言葉に謇は何でもないような口ぶりで言った。
「ああ。きのう杭州で拾ってきた。母親を栄養失調で亡くして死にかけていた」
「まあ」
 玉玲は目を丸くした。彼女は父親のことを蒐集癖のへある変人であることまでは知っていたが、まさかこんな、人の一生をどうにかするようなことをしでかすとまでは思っていなかった。対する謇は、本当に何でもないような口ぶりで、ちらりと玉玲の方を見て言った。
「そういうわけだ。お前の従者にする、という条件で連れてきた。あとは任せたよ」
「なんと勝手な......」
「少なくとも信頼できる人物だ。彼を何う使うかは君に一任する」
「......わかりましたわ」
 少女は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべて頷いた。使用人に作らせた料理に父と、父が連れ帰った少年と、玉玲の三人で箸を伸ばした。少年はまだ箸の使い方がぎこちなく、食べる動作もやはり品のないものであった。そのことに、玉玲は眉を顰め、いくつか小言を言おうとする。しかしそのたびににこやかな表情で父に制止されてしまった。
 ところで玉玲にはもう一つ気になる事実があった。白謇は玉玲の誕生日(二月六日)、すなわち春節の前後にこの家へと帰ってくるのが常であった。まだ一月の頭だというのに帰省するということは、「何かが」あったのだということが嫌でも諒察された。
「......ところでお父さま。御商売の方はいかがですか?随分と早いお帰りですけれど」
 玉玲の質問に、白謇は小さくため息をついた。
「まあ、あまり宜しくはない。珠江(しゅこう)デルタ沿海は日本の駆逐艦によって封鎖されている。海運が滞って商売にならないんだ。連合国から蒋介石への物資供給を妨害するのが目的なのだろう。しかし......」
「いい迷惑ですね」
「......そうだね。うちの会社の荷物を運んでいた船も、日本の海軍の駆逐艦(菊月)から臨検を受けた。封鎖がどれだけ蒋介石政権への圧迫になっているのかは知らないけれど、うちがイギリス資本の会社ってだけで目をつけられるのはたまったものじゃない」
 白謇の疲れ切った様子に、玉玲は「お疲れ様です」と慰めるように頷いた。
「新聞では読んでおりましたが、......そんなことになっているのですね。よくぞご無事で」
「実はね。私はつい先日までは杭州にいたんだ。杭州も日本軍の攻撃を受けてね。陥落する直前になんとか逃げてきたんだ」
「もうそんな近くまで......」
「汽車に飛び乗って、浙?(せっかん)線(せん)をひた走りに命からがら帰ってくることができた。しかしいつ車列が砲撃を受けるかとひやひやしたよ」
「本当に、ご無事で何よりです。......このような小さな村に空襲は今のところありません。だいぶお疲れでしょう。ゆっくりと休んでください」
「ああ、そうだな。春節まではそうさせてもらうよ。本社にも杭州よりそのように発電している。久々に休暇にさせてもらうよ。............この村が無事で本当に良かった。実はお前を連れて上海の租界へと避難することも考えていたんだが......あそこだって、いつ日本軍に接収されるか分からない。軍と住民の諍いなんてしょっちゅう起きている。この村だっていつまで無事かはわからない。共産党、国民党、日本軍の戦いにいつ巻き込まれるかわからない。......なあ、玉玲、アメリカへの亡命など......」
「私はこの村から離れませんよ。主ですもの」
「左うかい」
 堂々たる玉玲の返事に白謇はそれ以上の言及をやめた。この村に疎開させるだけで納得しようとしなかった玉玲が動くとは思えなかったのである。
 扨、と白謇は暗い話を続けても仕方がないと、今の会社の様子や、仕事で回った世界各地の都市の街並みなどを語り始めた。変化のすくない平和な農村暮らしの玉玲にとって、父の持ち帰る世界各地の土産話は刺激的で食い入るように聞くのが常であった。
 父がインドで飲んだチャイの味を想像しながらちらりと、少年の方を一瞥した。彼もまた、玉玲と同じく、父の話に目をかがせて耳を傾けていた。そんな少年の様子に父は嬉しそうに上品にほほ笑んだ。
 その瞬間、玉玲は自分のなかにある種の感情が芽生えていることに気がついた。「むかつく」。すなわち嫉妬であった。今までは父の話に相槌を打って、父に微笑まれるのはわたしだけの特権のはずだったのに。......そんなに楽しそうに目を輝かせられたら、捻くれ者のわたしなんかじゃ勝てやしない。父だって、きっとこの少年と話している方が楽しいに決まっている。ずるい。むかつく。ゆるせない。
 玉玲は少年を刺すような瞳でぎょろり睨むが、少年はまるで意に介する様子を見せなかった。なるほど、貧民窟でそのような視線を向けられるのにはとうに慣れているのだろう。少女の怒りは頂点に達し、楽しみにしていたはずの父の話すら、まともに聞くことができずにいた。そのことに対しても腹を立てるばかりだった。
やがて白謇は「では私は疲れたので休ませてもらうよ」と告げると、莞爾と少年少女に微笑みかけ、上品に席を立った。そして玉玲の手によって、いつ帰宅しても大丈夫なように片付けられていた彼の自室へと戻っていった。白謇は去り際に玉玲にあたたかい表情を向けると、
「彼のことは任せたよ。玉玲」
と優しく告げた。玉玲は人に頼まれれば断れない性質をしていた。玉玲は「ええ、勿論です」と微笑んだ。
「おやすみなさい。お父さま」
 
 玉玲が父の背中を見送った後、少年と少女は二人きりで居間に残された。季節は一月、食事も片づけられ人気(ひとけ)のない空間は、数十秒の静寂に支配された。やがて我慢ができなくなった玉玲がようやく沈黙をやぶり、「付いてきなさい」と少年に向かって冷たい声色で言い放つと、そのまま石造りの階段をカツカツ上って、自らの部屋へと向かっていった。黒髪の少年は、玉玲の三歩後ろを黙ってついていった。
 部屋に入ると玉玲はズンと寝台に腰かけ、両足を組んで少年をじろりと睨んだ。対する、少年の方はうつろな瞳を浮かべたまま、少女の言葉を待つばかりであった。......こいつは私が何か命じなければ本当に何もしない。人形と同じだ。玉玲はわざとらしくため息をついた。命令することを強制されているようで、面倒で、癪に触って仕方がなかった。
「あなた名前は?」
「......周。周啓徳」
「そう。......わたしは白玉玲。歳はいくつ?」
「八」
「わたしは来月誕生日で十になるからからだいたい二つ年下ね。そんなガキなのに、本当に役に立つのかしら」
「......」
「そこであなたは、自信をもって『はい』と答えることすらできないの?」
「......」
「面白くない。わたしがあなたのことをいらないって言えばそれだけであなたは飢えて死ぬのに。......わたしに媚を売るなりしてみなさいよ」
「......よく、わからないです」
「器量も悪ければ頭も悪いのね。救いようがない」
「はい」
「はいじゃない。......ああ腹が立つ。で、あなたはわたしに対して何をしてくれるのかしら?」
「......何でもしますよ」
「へえ」
「死ぬだけだったところを拾われた命なので」
「そういうのは気軽に云うものじゃないわ。......まあいいわ。そういうことなら、あなたをわたしの従僕として使ってあげる。何でもしてもらう」
 玉玲の言葉に啓徳は「わかりました」と表情ひとつ変えずにそのまま膝をついた。
「どうぞ、生きる意味をください(ご主人のために何でもさせてください)」
 啓徳の表情はどこか嬉しそうで、安堵感に満ちていて、それが玉玲にはなぜか羨ましく見えた。だから玉玲は詰まらなさそうに小さく呟いた。 
「............少しは嫌そうな顔をすればいいのに」
 
 
こうして、白玉玲が周啓徳を従者となってからおよそ二年が経過した。啓徳を飼い始めて間もない頃の玉玲を戸惑わせたのは、彼が玉玲の命令を本当になんでも聞く従順を見せたことだった。
 玉玲もはじめの頃は、あのいけ好かぬガキの本性を暴いてやろうと無理難題を吹っかけた。例えば、広い家の掃除を一日ですべてやってのけるように、とか。あるいは蜂蜜が食べたいから巣箱から取ってくるように、とか。しかし、啓徳少年は彼女が悪意を以て発した命令であっても何ら躊躇することなくそれに着手した。家の掃除は満身創痍になりながらもなんとか仕上げてしまい、蜂蜜に関しては全身を刺されるのもお構いなしに蜂の巣を家に持ち帰った。
 そこで玉玲は止せばいいのに、「掃除もまともにできんのか、無能」と無理やりにアラを見つけてなじり倒し、また「やっぱり蜂蜜はいらん」と突き返したりした。このとき玉玲は、自らがキレた啓徳にボコボコに殴られて、そのまま惨殺され土中に捨てられるところまでを覚悟していた。しかし、啓徳は「そうですか。すみません」とそれだけ言って、少女の蛮行に腹を立てるどころか、悲しむ様子すらおくびにも出さなかった。そして玉玲が追い打ちに「冷を取ってくれ」というと、「はい」と返事してそのまま階下に向かって、二分しないうちに井戸からとったばかりの水を持って来た。
 このようなことが続くうちに、玉玲はだんだんと思考を改めて(毒されて)いった。「もしかすると、こいつは理想的な奴隷かもしれぬ」と。顔は少し中性的で、すらっとして線が細く、おそらく美男に該当すると思われる。燕尾服を着て黙って立っている分には、中々様になっているので、玉玲の傍に侍らせ、村のメスガキどもを嫉妬させるトロフィーの役割としては申し分ない。
 玉玲が何も命じなければ少年は沈黙のまま三歩後ろでじっと立っているままだし、彼女が何か命じればどんな困難であったとしてもやってのけるだろう。その上、どれほど冷たく当たったとしても、平然と「そうですか」と答えて受け流してしまう精神性も持っている。斯様(かよう)なるパーソナリティは、ちょっと意地悪なことを言ったらムキになって腹を立てる村のガキどもよりよっぽど優れているではないか。と。
 こうして便利な道具手足として啓徳のことを利用しているうちに、いつしか愛着も湧いてくる。気づけば玉玲は啓徳と寝食を共にして、常に傍に控えさせておくようになっていた。玉玲が「なあ啓徳や」と呟けば、彼は生気のない瞳で「はい」と答えて主人からの命令を待つ。それが彼らの日常になっていった。

 ある蒸し暑い夏の夜のことだった。玉玲はあまりにも慣れた口調で「喃(のう)、啓徳」と隣の寝台に声を掛けた。彼は薄い布団をめくって起き上がると、いつものごとく「何うしました?」と尋ねる。玉玲は気だるげな声で
「あづい......扇いでくれ......」
と。啓徳に命じた。彼は嫌な顔一つせず「わかりました」と答えると、部屋の隅から団扇を持って玉玲の寝台の傍に置かれた椅子に腰かけた。そのまま主人の身体に夜風を扇ぎ送りはじめた。その様子を玉玲はちらり一瞥すると「なあ、啓徳や」と口を切った。なかなか寝付けずに、沈黙にいるのが少し寂しくなったのだ。
 啓徳は「......何うしましたか、ご主人」と不思議そうに尋ねた。玉玲は普段と変わらず色の少ない従者の姿に、少し安心したように、けれどわずかな逡巡の混じった言葉を紡いだ。
「お前は私を殺してやろうと思ったことはないのか?」
「はあ」
「私はな、お前が蜂に刺されながら持って来た蜂蜜を突き返すとき、『殺されるだろうな』と覚悟していた。それだけではない、お前に嫌がらせをするときは、憤慨したお前にどれだけ酷い目に遭わされるかと薄氷を踏むが如き心だった」
「そう思うんならやらんでください」
「ああ、すまなかった。......しかしお前は私を殺すどころか、嫌な顔一つ見せなんだ。普通なら怒り狂うはずだ。だから怖くなって、お前はどこまで許してくれるのか知りたく......」
 そこまで言って言葉を止めた。......自己省察してみるに、わたしは啓徳のことを知ったその日から随分とあいつに執着していた。思うに「嫌われない」という確証がほしいがために、従者になったばかりの啓徳に無理難題を吹っかけていた。この人間は、これだけのことをされたとしてもわたしの側から離れることができないという事実を確認したかった。なんと勝手な話だろうか。自己嫌悪で嫌になる。わたしはきっと、啓徳に出会った瞬間からどうしようもなく、不可逆的に一目惚れしてしまっていて、そこで自らの所有物(モノ)として支配することを第一に考えて。そうでなければ不要であるとそのように考えていたのだ。
 ちらりと見つめた啓徳は、この露悪趣味を拗らせ人格形成に瑕疵を抱えた主人に人生を握られてしまっていることを意に介するそぶりもなく。「へえ、そうだったんですねと」団扇で風を送りながら不思議を見るように玉玲の顔を覗き込んだ。
「......喃、啓徳や。わたしはお前に随分と酷いことをした。その報いを受ける覚悟くらいはしているとも」
「はあ」
「わたしを何うしたい?」
 啓徳は玉玲の言葉に真意を図りかねると言わんばかりの不思議そうな表情を浮かべると、「そうですね」と口を切った。
「別に俺はご主人のことは恨んでないんで殴ったり殺したりとかそういうのは結構です」
「そうか」
「ええ」
 啓徳のはっきりとした返事に玉玲は、改め手布団を被ると少し寂しそうに寝返りを打った。
 
世界情勢は目まぐるしく動き、長期化する日中戦争は泥沼の様相を呈していた。一九四〇年の春。白玉玲十二歳、周啓徳十歳の頃、唐突に白家の門を叩く者がいた。ほんの二、三ヶ月前に春節が終わり、また汪(おう)精(せい)衛(えい)政権下の上海租界へと仕事で向かっていた彼女の父、白謇であった。彼は少し気まずそうな表情を浮かべていた。
「あら、お父さま。随分と早いお帰りですね。上海で何かあったのですか?」
「いや、特段何も。一寸(ちょっと)した思いつきだよ」
そう言って、白謇は亀甲に結ばれた酒壺を少女たちに見せた。玉玲と啓徳は不思議そうに首を傾げ「......こちらは?」と尋ねた。
「銀行に預けていたお酒だ。ここもいつまで安全かはわからない。それに、私もいつまでも生きていられるかわからない。......上海租界は日本軍の政策により米価のインフレが続き、混乱が始まっている」
 彼は心配そうにのぞく娘の視線に、気恥ずかし気に取り繕った。日本軍が行った松江(しょうこう)、蘇州(そしゅう)、無錫(むしゃく)、淮南(わいなん)における軍需(ぐんじゅ)米(まい)の安価買い付けに伴い生じた上海租界の米不足やインフレーション。会社にしても、また中国の将来を考える上でも頭を悩ませる事柄はあまりに多かった。しかし、だからこそいま、まだ命のあるうちに娘を疎開させた実家に戻ってきた。戦火は拡大し村の近くでも戦闘は起きている。初めはこの村を安全地帯だと信じ、暴力と差別の蔓延する都市を見せたくないと思ったから、疎開の名目で玉玲に留守を任せるに至ったのだった。......本当に戦火から遠ざけるならアメリカにでも彼女を移住させるべきであった。実を言うと、後に白謇は玉玲に海外への移住を提案したことがあった。しかし玉玲に「家主が逃げるのは最後ですよ」と逆に諭されるに終わってしまっていた。娘が白家の跡取りとして立派に育ったことを喜ぶべきか、それとも頑固を嘆くべきか。白謇は未だに結論に至れずにいた。......しかし、彼はそのような迷いを娘に見せないように微笑んで見せた。
「そんな時代だ。いつまで一緒にいられるかもわからない。......だからせめて、私達の眼の黒いうちに、花見。でもしたいと思ったのだよ」
彼はそう言って、年配の使用人の肩に手を載せ、ニッと微笑んで見せた。
「そういうわけだ。今日は無礼講で、君たちも一緒に花見の宴会を楽しもうじゃないか」
 
  日が西の山へと落ちていく頃。白家の庭に生えた海棠の樹の下で、彼らの宴会は始まった。たくさんの料理と酒が並び、無礼講と使用人たちの胃袋へと注がれていく。猥雑で無秩序な盛り上がり。広東順徳出身の料理人の海鮮入りの卵料理に口が幸せになる。壮年の男たちの喉は白酒で焼かれて濁声に。淑女がたの顔は紅が入り、陶酔的な一体感が場を支配していた。それがとても楽しくて、心地よくて、けどそれでいて熱気に気圧されてしまって少し不安になって、玉玲は気づけば啓徳の着物の裾を掴んでいた。......そういえば、彼女がまだ小さかったころ、宴会に出席するとき、父の背中の背後に隠れていたのだった。少しだけ気まずくなって指先の力を抜いてやった。
「玉玲」
 白謇の呼びかけに「どうか致しましたか」と淑やかな態度で玉玲は返事をした。ややあって、白謇はちらりと傍の酒瓶に視線を向けると、躊躇いがちな面持ちで彼女たちに尋ねた。
「お前たちも飲むか」
「......はい。そうします」
  玉玲はしばらく逡巡してから、そう答えた。父とて、酔って彼女がまだ子供であることを忘れた訳でないことくらいは分かっていた。戦争が日に日に激しさを増していることは、たとえ山にへばりつくように形成されたこの村であっても、空を通り抜ける爆撃機のエンジン音や、はるか遠くから響く砲撃の音。あるいは、父から聞かされた上海、杭州、南昌(なんしょう)、重慶(じゅうけい)などの様子から知っていた。戦争は現実で、ただ単にこの村は平和なまま見逃されているだけだということくらいは理解していた。平和な世界はいつ巨人の足に踏みつぶされたとしてもおかしくはないのだ。もしこのまま、酒を飲まずに父と死に別れることがあれば、きっと玉玲は、きょうこの時に酒を飲まなかったことを一生後悔するだろう。
 ......玉玲は杯を受け取ると、すいと父の前にかざした。壺の中からとくとくと、褐色の液が零れ落ちていく。魚醤に似た生臭い、どこか甘ったるいような香りが辺りに広がった。大人のにおいだった。少女は恐る恐る、それを口に含んだ。
「......」
「どうだい」
「これが、おいしい......のですか......?」
「大人になるとな」
「うぅ......。わたしはまだ子供でいいです......」
「はは。そうか。それはよかった。お前はこれを旨く飲めるまで生きて、その時にはこの味を思い出してくれよ」
「そうですね......お父さまも長生きしてくださいな」
「そうだな」
 白謇は娘の言葉に莞爾(にこり)と笑って見せた。
「どうだ、啓徳。お前も飲んでおくといい。今日くらいは私が注いでやろう」
 酔った赤顔に啓徳は小さく首肯した。白磁の酒器をおずおずと白謇へと差し出そうとする。その瞬間玉玲は待ったをかけた。
「待て。啓徳」
「どうしました? ご主人」
「......わたしの飲(の)み止(さ)しを任せる」
「いいのですか?」
「わたしとお前の間で羞恥もあるか」
「はあ。そういうことなら」
 啓徳はやや緊張した面持ちで、玉玲から杯を受け取った。「そういうことなら」と白謇はわずかに減った分量だけ古酒を継ぎ足してやった。啓徳は恭しい態度で酒器を手に取ると、まるで水を飲むかのような落ち着いた動作で褐色の酒を口に含んだ。そして、瞳を閉じて味をしっかりと確かめると、ごくりと嚥下(えんげ)した。
 玉玲も少し緊張した声質で「どう?」と尋ねた。もし、十二歳の玉玲ですら飲めないものを、十歳の啓徳がおいしいなどということになると、それは主人の威厳に関わるから非常にまずかった。啓徳は相変わらず落ち着いた様子で、静かに口を切った。
「......まずいです」
 心なしか、その顔は青かった。玉玲はほっとした様子で「そうだろう、そうだろう。わたしも貴様もまだガキよの」と彼の背を叩いた。啓徳は単純なので、主人を立てるためにわざと旨いまずいを演技できる能力はないので安心だった。
 白謇は二人の和気藹々(わきあいあい)に安堵の息を漏らすと、「君たちは本当に仲がいいよね」とぽろり呟いた。
 父の言葉を聞いて玉玲は少しムッとするような、図星をつかれて居心地が悪いような態度で「そうですね。よくよく信頼が築けているでしょう。主人が道具に嫌われては仕方ありませんから」と。
 変わらない娘の態度に白謇は莞爾と微笑むと、「さて、杯の中の酒は私と大人連中で片してしまおうか」と、娘の成長に目を細めて口にした。......しかし、玉玲はこれに「いいえ及びませんわ」と返事をした。
「と、いうと?」
「わたしが最後まで飲んで、少なくとも啓徳(こいつ)よりは大人であることを証明して見せます」
「なるほど。良いじゃないか」
「......どうしてお父さま、笑っていますの?」
「いや、そう意地を張って止まらないところ。春玲そっくりなもんで」

 やがて宴もお開きとなり、少女は茫然自失たる青白い表情を浮かべ座椅子にくてん臥していた。
「のう、......啓徳ぅ」
「どうしました」
「目の前がぐらぐらする。風邪をひいたみたいだ」
「飲みすぎですよ。ご主人」
「はは、そうだな。酔うとはこのような感覚なのか......。寒くて暑くて身体を掻きたくなって、それでいて人恋しくなる。............なるほど、素直になってお前に六(ろく)でもないことを言ってしまいそうだ」
「はあ。そうですか」
 少年の相変わらず落ち着いた返事に、玉玲はむっとした口ぶりで命じた。
「のう啓徳。座るのがしんどい。凭(もた)れるから支えよ」
「......はい。わかりました」
 玉玲の白い顔は、たっぷりと酒を飲んだことによって、梅花の如き紅に染まっていた。身体は熱を持ち、身に纏う白の漢服は、脇や襟のあたりが汗でぐっしょりと濡れて、肌にへばりついている。少女はうでーっとした様子で、椅子に座る啓徳の両ひざの上へと腰をおろし、少年の胸板へと身を預けた。
 啓徳は自らに凭(もた)れかかる、己が主人の心臓の、とくんとくんと儚げに脈打つ鼓動を薄布越しに覚えた。少女の身体は熱を帯びて、べったりと背中に張り付く肩の布には、酒に酔って桃色に染まった肌の色が透けている。白い絹布と相まって花海棠のようだと啓徳は連想した。
「ご主人、熱いですよ」
「君とは違って酔っているからだよ」
「はあ」
「ところで、啓徳」
「はい」
「貴様はこういう宴会は好きか?」
「わかりません」
「左うか」
「けれど、楽しい気にはなりますね」
「わたしは結構この空気が好きかも知れぬ」
 彼女は盛り上がる使用人や父親を楽しそうに、薄目をあけて眺めた。細い足が漢服の紺色の裾の隙間から覗いているのも、衣服がはだけているのも、肌がべったりと汗で張り付いているのもあまり気にはならなかった。そして、鉄面皮の周啓徳少年が、目のやり場に困って苦笑いをしているのも、愉快だった。なるほど、お酒とは楽しいものだ。と。
 一九四〇年十月末。夜半(やはん)、燭台の炎がゆらゆらと揺れる玉玲の寝室は、訪れた冬の冷気に満たされていた。肌にじわじわと染み入る寒気。静謐(せいひつ)。たちのぼる湯気。薄暗の部屋には、少女が手に取って、自らの上半身にかけた行水の湯が、アルミニウムの浴盤(よくばん)へ再び滴(したた)り落(お)ちてゆく水音が響くのみ。......玉玲の身体は白かった。普段は、ゆったりとした漢服に身を包む身体はすらりと細く、片口から身体に注がれた湯は、少女の曲線の身体を渓流のように伝っていった。柳の如き腰を抜け、乳色の肌を潤していく。
 啓徳は彼女の様子を伺いながら、沸かしたお湯を適宜注ぎ、温度を調整していた。しかし、どこか気まずいようすは拭えない。少し視線を背けるようにしながら、少女が湯浴みする浴盤へと湯を足していった。
「のう啓徳や」
 少女はくるりと首を捻ると、啓徳の方を覗いた。その表情には、己が裸体を晒していることへの羞恥の念はあまり感じられない。あくまでも、服を纏っている時と同様の尋常の態度で、少年の方を向いて尋ねた。啓徳は気まずそうに視線を逸らした。
「はい」
「ここしばらく。......ちょうど宴会で酒を飲んだ頃からか、お前の様子は変だ」
「はあ」
「どうかしたのか?」
「いえ、何でもありません」
「最近、距離を置こうとしているだろう」
「そんなこと」
「今だって視線を逸らすだろう」
「はあ」
「まさか、わたしに欲情しているわけでもあるまいに」
「いやまさか」
「......否定されるのも中々に傷つくの。では、お前はわたしに魅力がないと言うのか?」
「いいえ。そんなことは」
「はあ。はっきりせん奴よ」
 少女の嘆息に、少年は息を飲んで沈思した。そしてようやく言葉を絞り出した。
「......何故だか、わかりませんが。ご主人のことを見ていると、心が奪われそうで恐ろしいのです」
「そうか、......そうか。
 お前が何を考えるのかは知らぬが、お前は所詮わたしの所有物(もの)にすぎぬ。静物や畜生に見られて羞恥は覚えぬのと同じだ。視たければ視れば好い」
「いいえ。そういうわけにはいきません」
「難儀な奴よなあ」
「左うでしょうか」
「ああ。だが、別に貴様の事情などわたしの知ったことではない。今まで通りに湯浴みは手伝ってもらう。よいな?」
 女主人の堂々たる口ぶりに、啓徳少年は「はあ」と答える他なかった。玉玲は傍若無人なところはあるが、むしろ察しの良い方の人種であった。思春期を迎えつつある啓徳は玉玲(わたし)のことをどこか、一人の女として意識し始めていることははっきりと諒察していた。しかし聡明なる白玉玲は啓徳が自らの意思で一線を超えることはありえないことも同様に理解していた。......だからこれは戯れた。きっといつか、玉玲の前には玉玲が結婚すべき(・・・・・)相手が現れるだろう。それに啓徳とて、顔もよく性格は従順にして筋骨隆々なのだから、このような自己愛と虚栄心と境界と自己破滅願望と露悪を拗らせた悪女よりは余程、お前のことを可愛がってくれる娘が現れるだろう。だからせめて。この須臾は美しい過去の記憶のまま......。
 そんなことを考えていると、「ご主人」と玉玲を呼ぶ声があった。啓徳は捨て犬のような表情で、じっと裸の玉玲の表情(かお)を見つめていた。
「何うした?」
「俺はいつまでご主人の側に居られるんですかね」
 玉玲は「さあ」と微笑んだ。
「......せいぜい捨てられぬよう媚を売るんだな」
 一九四二年、四月。彼らが初めて酒を口にしてから、およそ二年が経過し、玉玲は十四歳、啓徳は十二歳となった。昨年末、日本の空母機動部隊が真珠湾を爆撃し、太平洋戦争が勃発した後もなお、中国における戦闘は続いていた。欧米諸国との密接な関係により繁栄をつづけた上海租界は日本軍の進駐により、急速にその地位を失った。日本軍による軍需米の強制買い付け、占領下の経済政策の失敗による法幣のインフレーションは都市部において無数の餓死者を生じさせるに至った。共産党掃討を名目とする農村地域での大量殺人、長引く戦争による農地の荒廃。続く日本と国民党・共産党の戦争は中国大陸の屋台骨を破壊しようとしていた。戦争によりもっとも被害を受けるのは市民階級である。白家も名家とはいえ単なる一農村を束ねてきた一族であるにすぎない。戦争の影は少女たちの村にもくっきりと姿を見せていた。時折、爆音を立てて軍用機が空を通過していく。何十キロ先に米軍の飛行場があるのだ。
 啓徳は空を見上げて「ねえご主人、あれは何でしょう」と尋ねた。玉玲はため息をついて答えた。
「アメリカの爆撃機だな。どこで爆弾を落としてきたのやら。上海、杭州、それとも日本か」
「......日本の奴らはいつ出ていくんですかね」
 玉玲は「さあ」とやる気なさそうに答えた。飛行機雲の先を、刺すような鋭い眼光で見つめながら、とうの昔に終えた覚悟にしたがって言葉を紡いだ。
「わたしが軍師ごっこしても暇潰しにしかならないだろう。......日本軍など何うでも良い。今の全関心は家の食糧について寄せるべきだ。使用人を餓死させたなどとあっては、白家の恥よ。処罰など恐れるな。闇市は当然使う。不要なものはすべて金に換えろ。この戦争を乗り超えるためだ。......今から倉庫の中をさらう。手伝え」
「はい」
「浙江省はもとから、食糧の不足していた地域だ。他県からの輸入に頼っていたつけがきた。寧波は恐ろしい飢餓だそうだ......ここは小さな村だからまだ食糧もあるが、いつまで持ちこたえられるか」
 そう苦虫を噛みつぶすような表情で告げた。啓徳は「そうですね」と静かに頷くと、白家の倉庫へと消えていく彼女の後を追いかけていった。
 
 自動車のエンジンの低い音が村に響き、装甲車の車列が村の外れに映る。そして玉玲らが心の準備をする間もなく、走行車両の群れは白家の屋敷を取り囲むようにして停められた。数分後、白家の屋敷の戸を叩く者があった。
 門の外にはがっしりとした体躯の西洋人の三人組が経っていた。見慣れない軍服を見にまとっている。うち一人は壮年の男性で、胸にはたくさんの徽章が付けられていた。対して、彼の両翼に立つ二人は、まだ齢にして二・三〇といったところ。彼らは皆険しい表情をして、旧い石造りの白家の屋敷の門を睨んでいた。
 対して彼らを迎えたのは、白玉玲と周啓徳の二人だった。二人は伝統的な漢服姿で「このような寒村に何の御用でしょうか」堂々と男たちに向かった。他の使用人らは家の奥にじっと隠れてもらうことにした。
 軍人たちは幼き主人と従者の登場に驚く様子も見せなかった。よくよく事情は知っていると言わんばかりに、壮年の軍人が穏やかに口を切った。
「初めまして。白さん。今からはなす内容はショッキングなお話かもしれません。私は英国海軍のジョン=ブラックという者です。実はお父様は貿易会社の職員として働いておられる一方、実はイギリスの諜報員として働き、汪精衛政権や日本軍の情報を提供し、中国の独立のため陰ながら尽力されておられるのです」
「はあ、なるほど」
「白さん。落ち着いて聞いてください。お父様が汪精衛政権の官憲に逮捕されました」
 軍人の言葉に玉玲は不意に息を飲んだ。あの賢い父のことだ。実は連合国のスパイであったという事実はまだ受け入れられる。しかし......。玉玲の懸念もよそに、壮年の軍人は言葉を続けた。
「我々はイギリス軍の協力者たる、あなたのお父様の奪還のため軍事作戦を行う用意があります。その準備としてこちらの屋敷を利用させていただきたく存じます」
 ちらりと玉玲は啓徳の方を一瞥した。彼はただじっと、壮年のイギリス軍人の男の相貌を見つめていた。......なるほど。その通りだな。啓徳の視線に玉玲は頷いた。どのみち、装甲車の車列を見せられている以上そもそもこちらに選択権などなかった。
「そういう事情でしたら、ぜひ協力させてください」
と、玉玲は莞爾として握手のため手を差し出した。
 
 白家の屋敷、その地下倉庫に次々と装甲車より怪しげな機械類が運ばれていった。無線機、霧箱、地震計などはまだわかりやすい方だ。立方体の黒箱、両端にテスラコイルが設けられた杖や、教養人たる玉玲を以てしても知らない単位を指し示すメーター。使途が想像もできないデバイスが地下倉庫を埋めていった。
 しかし、機械類に詳しくない玉玲であったとしても、一つだけ確かにわかることがあった。使途のわかる機械は、拳銃などを除けばいずれも、自然現象を観測するために用いるものばかりであるという事実だった。山にへばりつくように形成されたこんな僻地の一農村で。田畑くらいしかないこんな土地で。一体何を観測するというのか。
 左右を若く屈強なイギリス軍人に囲まれながら、しかし、彼女は地下室に運び込んだソファーにずっしりと座したまま、堂々たる態度を崩すことなく口を開いた。正面のソファーに腰掛けるブラックに、静かに言葉を紡ぐ。
「無血開城しましたよ。わたしが武器を持っていないこともわかったでしょう。英国の軍人さん。いい加減、本当の目的を教えていただけませんか」
 玉玲の言葉に壮年の男は「なるほど」と微笑んだ。
「あなたたちの本当の目的はわたしの身柄でしょう」
 軍人は莞爾として「本当に賢いですね」と玉玲に微笑みかけた。
「......まあ、わたしの身体の使い途なんて、父が何か重大な秘密を知っていて、父から情報を引き出すためにわたしを拷問するくらいしか思いつきませんが」
 玉玲はそう何でもないように微笑んで、テーブルの上のお茶を口元へと運んだ。英国軍人は持ってきたビスケットを玉玲にも差し出すと、紅茶に浸して食べながら愉快そうに質問を続けた。
「自身の利用価値をわかっていながら。拷問されると知っていながら。それでも逃げなかったのですか?」
「逃亡の算段もありませんでしたし、いざわたしに何かあったとして遺言書による包括承継人(周啓徳)もおりますから。この通り武器なんて何もない家です。騒ぎを起こして財産(しようにん)が毀損されない方が得策かと」
 玉玲の回答を聞き英国軍人は満足げに微笑んだ。
「見上げた根性だ。貴族とはかくあるべきだ。イングランドの連中にも見習ってほしいものだよ」
「左うですか......。さて、これからわたしは何うなるんでしょう? 指は何本残りますか? 足は? 眼球は? それかこの身体も使われるのですか? 抵抗はしません。しかしあなた方を軽蔑します」
「足が震えてますよ」
「怖いですもの」
「失礼。つい合理的な推論を聞いて面白くなってしまいました。しかし怖がる必要はありません。ご安心を。我々はあなたの身体を用いて何かをするつもりは現時点ではありません。......どうやらあなたは本当に何も知らないらしい。そういうことでしたら、詳しい話を始める前に我々の正体を明かしたほうがいいのかもしれません」
 ブラックは悪戯する子供のような表情を浮かべると、「実はですね」と前置きをして玉玲に笑いかけた。
「我々は魔術師です」
「あなたを英国の諜報組織に勧誘しに来ました。
小さな魔女さん(The Witch Child)」


 この日より、白玉玲は英国の特殊作戦執行部(Special Operations Executive)に属する一魔術師となった。玉玲は呪術という言葉を現実世界の文脈で聞いたこともなければ、魔術というものを使った記憶もなかった。たしかに何年も前に黒魔術の真似事のような真似はしたことがある。しかしあの時に見た海棠の変な夢だって一度きりだった。
 特殊作戦執行部とは、ウィンストン・チャーチル首相により設置された、枢軸国の支配下にある地域において諜報作戦等を行う秘密組織である。軍人の言葉によれば、玉玲はきわめて優れた魔術の才能を有しているため、日本に対する抵抗のため、連合軍のため助力を願いたいとのことだった。
 ......初め玉玲は誘いを明確に断るつもりだった。軍に属することは正義の如何に関わらず、直接間接を問わず人殺しに手を染めることになる。それがどれだけの大義名分を有していたとしても、牧歌的な村での生活に馴染んでいた玉玲にとっては受け容れ難かった。
 しかし玉玲がその旨を伝えると、ブラックは「残念です」とにこやかな表情崩さないまま、作戦の痕跡を抹消するために、使用人も含めた白家関係者全員、また村の住民複数名を失踪させること。また玉玲は素晴らしい魔術の回路を有しているため、玉玲の身体から肉や骨などの不要な臓器を切除した上で、生きたまま魔導機の部品として活用する旨をきわめて理性的かつ合理的に説明した。そして、魔導機の実物として三〇センチメートル四方の黒い立方体の塊を玉玲に見せた。この匣の中にはかつて魔術師であった女が不要な臓器を全て切除させた上で隙間なく配置されていること。電源と接続し一定電圧の電流を流すことにより、致死性の『呪い』が半径二〇〇メートルに放たれること。そしてこの魔導機は二〇年前に制作されたものであることを告げた。男の説明を聞きながら、玉玲の脳裏によぎったのは啓徳の姿であった。......気づけば玉玲は男の提案を全て受け容れていた。容れなければ啓徳を含め使用人を皆殺しにする、という旨の提案を突きつけられ、玉玲に選択肢はなかった。
 すっかり脱力したまま、呆然と椅子に腰掛ける玉玲に、軍人は莞爾として祝福するような視線を向けた。荘厳な口調で以て「ようこそ白玉玲」と告げた。
「我々は君を歓迎する」
 男の言葉が終わるや否や、十数人の男女が白家の地下室へと降りてきた。イギリス人の若者、インド人の大男、中国人の老婆。出身も身分も年齢もさまざまな魔術師たちが狭い地下室に集まった。彼らはぐったりとする玉玲に同情の視線を向けた。
 壮年の軍人は全く気づかない様子で嬉しそうに微笑むと、いかにも上質そうなワインボトルを鞄の中より取り出した。
「白君。ささやかながら歓迎のため、祝いの席を設けさせてくれ」
 数日が過ぎた。諜報員として命じられた仕事は「じっとしていること」だった。命だけは取り留めたものの、自室での軟禁生活が始まった。目を覚まし、トイレに行って、湯あみをして、飯を食って寝るだけの日々だった。世話はいつも通りすべて啓徳がやってくれたので不自由はなかった。しかし、十メートル四方程度の小さな世界だけが彼女のすべてになった。啓徳を含め使用人たちは誰一人かけることなく家の世話をしている。しかしそれは慰めではなかった。軟禁以前と変わらず世話を続ける啓徳の存在や、ばたばたと動き回る使用人たちの足音は「裏切ればこいつらを殺す」という男からのメッセージを含んでいた。
 残酷なことに、玉玲はなぜ自身が軟禁生活にあるのか、その理由をたくさんの間接事実から理解してしまっていた。そして彼女の推論が正しければ、この小さな魔女やその従者たちの結末は六なものではなかった。

「コンニチハ、玉玲ちゃん」
「出たわね。マフムド」
 軟禁生活より一月が経った。深夜三時、音を殺して窓ガラスを開け、少女の部屋を訪ねる魔術師の姿があった。彼名前はマフムド。英領インド、デリー出身の褐色の大男だった。戦争が終われば、ためた俸給を使ってデリーでバナナオレの店を開く計画があるらしい。玉玲に近づくなという命令が出ているにも関わらず、飄々と彼女の部屋にこっそりと姿を見せる得体の知れない男だった。
 玉玲としては、このマフムドの正体が枢軸国の二重スパイでも、はたまた反逆者でも、または単なる奇人のどれであったとしても構わなかった。玉玲は自身が生き残るためにこの男から英国の情報を引き出す必要があった。彼は相変わらず飄々とした態度を崩さず、玉玲に片言の北京方言で話しかけた。
「玉玲、オマエは魔法を知っているか?」
「知らない。知ってたら黙って監禁なんてされてないでしょう」
「じゃあ小さい頃、変な経験ナイカ?」
「......小さい頃に悪魔召還を試したことがあるくらい」
「悪魔召喚?」
「もちろん上手くいかなかった。変な夢を見て気絶して、いやもうそれっきり」
「もしかして、一九三七年一〇月?」
「さあ、それぐらいだったのかも」
「......お前の住んでいたこの地域、一九三七年。超大規模な。半径千キロメートルを超える巨大な領域崩落現象生じてる。初め誰も気づかなかった。しかし我々、数百件の現実改変と因果切断、起きている事実気づいた。そして全部地図に並べてみた。円の中心にある起点、お前の家だった。......悪魔召還の儀式。本当にその程度? 玉玲、お前、何をした?」
「鶏の卵を籠において、魔法陣を書いた」
「ウーン、どこから説明しよう」
 マフムドの説明によれば、この基底世界と鏡合わせで『他界』と呼ばれる形而上学的な正解が存在している。そして『他界』がこの基底世界と衝突し、基底世界が『他界』によって塗りつぶされる現象を『領域崩落現象』というらしい。そして領域崩落現象下では主観と客観の区別が曖昧な状態が生じるため、容易に現実改変が可能となり、この現実改変をコントロールする技術のことを『魔術』と便宜上呼ぶらしい。
 そして、『領域崩落現象』を引き起こす可能性のある才能、または精神障碍を『メヴィル症候群』という。メヴィル症候群は他界接続症とも呼ばれる精神の障碍で、第一期から第四期までと、終末期に分類されている。
 メヴィル症候群第一期は偶発的に他界を観測してしまう状態である。全人類の十人に一人の割合で生じる。多くの場合、彼ら自身は「ちょっと霊感がある」程度に認識しており、問題なく日常生活を送っている。他界に存在する超越者すなわち『怪異』の犠牲者となる者の多くがこの第一期の患者であり、偶然にも他界を観測してしまうことで『怪異』の犠牲となりうる。
 メヴィル症候群第二期の患者は、常に他界および怪異の存在を認識できてしまう状態である。割合はとても低く、発症率は一千万分の一程度である。第二期の患者の多くは精神に異常をきたし、発狂するか自殺する者が殆どである。そしてメヴィル症候群第二期の患者であれば、『解釈機』と呼ばれる特殊な機械を用いることで、科学的に領域崩落現象を発生させることが可能である。
 メヴィル症候群の第三期は「門」と言われている。他界とこの世界とを接続する能力に覚醒してしまった患者のことであり、解釈機を用いることなく領域崩落現象を発生させることが可能となる。
 この分類によれば、マフムドは解釈機を用いることにより現実改変が可能となる第二期の患者ということであった。そして仮に一九三七年の大規模領域崩落現象を玉玲が起こしたのだとすれば、玉玲は無自覚な第三期罹患者ということになる。マフムドは興奮した様子で言葉を続けた。
「言ってしまえば世界のヘソね。因果律という言葉を知っているか? あらゆる現象には原因がある。その究極の原因は何か。もしくはいま世界の姿を規律する原因は何か。俺たちはそれを「神」という。もっとも実在的な実在者。そう、あらゆる集合を内包する集合。この世界そのものが神の身体に包まれていると言ってもいい。他界とは神だ。基底世界と他界があるんじゃない。他界から現実世界が生まれたんだ!
 ではお前は何者か。神=他界=究極集合=無限定のエネルギー。これを解釈し、言語化し、影を作るのがお前の役割。お前は神官だ。この世界には三種類の超常現象が存在する。一つは、『他界=神』そして二つ目は神が人間の集合的潜在意識によって生み出す超越者としての『怪異』、そしてお前のように神のエネルギーを汲み取る穴としての『門』。
 お前の能力はあれ以来発動していない。しかし、もし発動すれば村そのものが。否、中国の南半分がお前の影に飲み込まれる。主観と客観が壊れる。再解釈が。聖別が始まる。......お前は時限爆弾。そして俺たちの救世主」
「どうしてブラックはわたしを殺されないの?」
「利用価値があるから。お前、俺の使う炎の解釈機、使う。ロシアに放つ。シベリアが消える。究極の兵器。お前を手に入れた国は世界を支配する」
「............ねえ、マフムド」
「どうした?」
「わたしはブラックを殺せる?」
 マフムドはこの言葉に「モチロン」と答えた。物分かりのいい少女に満足げな表情を見せて愉快そうにニカっと微笑んだ。
 ああ、すべてわかっていた。ジョン=ブラックはやがて彼の率いている部下全員を機密保持のために粛清するだろう。そして当然、この村の住人や啓徳を含めた使用人もすべて消すに違いなかった。そして意思をもつ兵器など決して許されない。玉玲はあの箱の女のように、一塊の魔導機へと加工されるに至るだろう。
 だから、玉玲は自らの手で殺さなければならない。ジョン=ブラックが。......大切なものを守るためなら、この両腕が血で塗れるのも勲章だ。そう思える程度には彼女の覚悟は終わっていた。
 
 ある日、日本人の少女が玉玲の部屋へと運び込まれた。紅白の巫女服を纏い、肩口まで黒髪を伸ばした齢にして十六程度の可憐な少女だった。彼女は頭から血を流し両手に手錠をかけられた状態で、数名の魔術師によって運ばれてきた。ブラックは「吐かせろ」と端的に告げるとそのまま部屋を去っていった。
 ブラックに拷問を依頼された若い赤毛のイギリス人魔術師マックスは同情するような表情で、日本人の少女と、玉玲のことを見比べた。玉玲はマックスに「お心遣いどうも」と微笑んだ。なるほど、玉玲の眼前で拷問風景を見せつけることで、玉玲の叛逆を抑止しようという魂胆なのだろう。玉玲は冷ややかな口で「ブラックさん、とても良くできた性格の方ですね」と呟く。赤毛のイギリス人も「まったくだ」と忌々しげに返した。
 そうは返事しながらも、マックスは仕事だからと、淡々と拷問用の刃物や拘束具を玉玲の部屋に並べていった。玉玲は居心地の悪さからマックスに尋ねた。
「何があったの?」
「日本軍と戦闘になった。宮内省の連中もお前のことを狙っているらしい」
「こっちは誰か死んだの?」
「ああ。ジョーとマフムドがな。
 ......ジョーはお前を連れてきたときに左隣に座っていた奴だ。家族思いの好い奴だったよ、ランカシャーの生まれで恋人を本土に残しているそうだな。まあ、腕だけでも回収できただけ良かったよ」
「砲撃?」
「いや。日本人の呪術師集団の襲撃を受けた。あいつらもお前を狙っているんだろう。マフムドは気のいいムードメーカーだった、家に帰ればためた俸給を使ってデリーでバナナオレの店を開くつもりだったらしい。はあ、いいやつばかり死んでいくよ」
 そう呟きながら、胸ポケットに入れていたタバコの箱を取り出した。そして一本手に取って、紫煙を燻らせる。ちらりと少女の方を一瞥して「お前も吸うか?」と尋ねた。玉玲は「ええ」と返事をすると、マックスから一本受け取った。そのまま拙い手つきで吸い口を咥える。すかさず彼は玉玲の部屋に膝をつくとライターを先端に差し出し火打石で点火させると、「吸い込め」と告げた。煙を喉奥から吐き出すときに甘いバニラの香りがした。そして、マックスの真似をして何回かふかすと「あんまりおいしくないですね」と告げた。
 マックスは頭から血を流して倒れる日本人の少女をじっと観察しながら「そんなもんだ」と軽く返事した。
「この方は?」
「俺たちは日本の宮内省調査官の連中を三人殺した。こいつはギリギリ息があった。情報を吐かせる」

 マックスは慣れた様子で、日本人の少女を鉄椅子に座らせた。そして両手両足を設けられた枷で固定して拘束する。やがて、少女が「う......」と鉄枷の冷たさにゆっくりと瞳を開けた。
「起きたか」
 マックスの言葉、そして周囲に並ぶ刃物の群れを見て少女は「ああ......。しくじりましたね」と観念したように肩をすくめた。
「そういうことだ。俺だって暴力は嫌いだ。名前、生まれ、所属を言ってくれ」
「江崎茜。日本島根県松江市。調査官。医療チーム」
「この村に立ち入った理由は?」
「わざわざ私が言わなくても」
「お前の口から聞きたい」
 江崎はややあってから、ちらりと玉玲を一瞥すると、「............そいつの身柄ですよ」と返事をした。マックスは「そうか」と何でもないようにメモを取ると、質問を続けた。
「お前の所属する部隊の人数を教えてくれ」
「......」
「お前の所属する部隊の根拠地を教えてくれ」
「勘弁してくださいよ......。私。それ言ったら殺されるんですよ」
「そうか。......言いたくなったらまた教えてくれ。

 マックスは残念そうに呟くと、腰に提げていた一本の黒く巨大な鋏を右手に取った。その瞬間、彼女は何をされるか気付いたようでぐっと両手を握りしめた。彼は少女の抵抗などまるで気にしていない様子で、ゆっくりと江崎の握り拳を解くと、必死に暴れようとする小指の間接をがっしりと左手で握りしめた。そして鋏の根元を小指の骨にぴたりと当てる。冷たい鉄の感触に江崎は「ひっ......」と引き攣った声を上げた。マックスは封筒を開封するような落ち着いた手つきでもって、鉄鋏を閉じた。

 やがて、少女はすべての情報を吐き出した。だらだらと両手から血を流し、もはや必要な情報は確保したということで、玉玲の部屋の床の上に、ゴミのように捨てられていた。かつては愛嬌があった顔は恐怖で眼窩が窪み、汗と涙でぐっしょりと汚れていた。紅白の巫女服には酸化した血痕でべったりと汚れ、汗と失禁でぐしゃぐしゃに汚れていた。
 その一部始終を見せられた玉玲の表情は陰鬱なものであった。彼女はじっと横たわる江崎を見つめて、彼女の汗でぐっしょりと濡れた髪を優しくなでた。

 江崎茜は気づけば天蓋付きの寝台に寝かされていた。両手から駆け抜けるじくじくとした痛みに目を覚ます。慌てて目を落とすと、右手は親指と人差し指だけが残り、左手は親指だけになっていた。しかしその傷跡には丁寧にガーゼをあてられて治療がなされていた。かつ江崎が横になる寝台は今まで経験したことのない、ふかふかの高級なものだった。
 不意に横から「目を覚ましましたか」と鈴のように美しい声が聞こえて、江崎はそちらの方を向いた。一人の少女が呆然とした様子で江崎に縋っていた。彼女の眼の下には深いクマがくっきりと生じており、江崎のことを寝ずに看病していたらしかった。ちらりと部屋の片隅を見ると、監視役なのだろう、一人の男が彼女たちの様子をじっと見つめていた。
「あの、大丈夫ですか......?」
 江崎はなぜ敵であるはずの漢服の少女、白玉玲がそのような態度をとるのか理解できなかった。しかしやがて、彼女がゆるふわ善良性の塊であったという事実に気づいた。江崎は玉玲のことがなんだか可哀相に思えて、莞爾として微笑みかけた。
「白さん。私はあなたを回収する任務を帯びて、あなたのご友人を殺したのですよ。むしろあなたは私に対して怒りをぶつけるべきではありませんか」
「あなただって命令されただけでしょう......」
「ええそうですね。私も選べるのなら戦闘なんてしたくなかったですし、そもそもこの世界に生れたくはなかったですね。まあ、じきになれますよ。命のやり取りは魔術師の世界だと日常なので」
 そう言って寂しそうに空を見つめた。
「......あなたはどうするの?」
「わたしはうらぎりものです。ブラックは私を生かすつもりはないようですし、そうでなくても日本の軍がわたしを殺しにくるでしょう。せいぜい屠殺される日を静かに待ちますよ」
 質問に対し穏やかな表情で微笑んだ。玉玲は彼女に何か言葉をかけてやろうとした。しかし、何を言っても慰めにしかならないだろうということはわかっていた。だから玉玲は、自身の寝台の上に力なく横たわる茜の身体をがっしりと抱いてやった。......だからせめて。生きていたということをわたしの記憶の中に。
「温かいですね。白さんの身体」
「ガキですから」
 玉玲の言葉に茜はくすりと笑った。
「そういえば」と玉玲は言葉を続ける。
「日本は小さいころに行ったことがありますよ。神戸と横浜だけですけれど。その......。日本の方には親切にしていただけたことを覚えています」
「さすがは良家のお嬢様。家族で海外に行けるのですね。わたしもそんな家に生まれたかったです」
「あなたは?」
「貧しい家でした。日本海の荒波を見て育ちました。わたしはいわゆる婚外子というやつで、母親の手一つで育てられましたよ。六人兄弟の末娘です。呪術師としての才能があるということで十二の頃特殊部隊に取られて、気づけばいまは十六です。あlあ、怪異(おばけ)が見えるって人に言わなきゃよかったな。さっさと醤油一気飲みをしておけばよかったな。そうでなきゃ、こんな中国大陸の奥地で殺し合いなんてしなくて済んだのに」
 玉玲は茜の言葉に「まったくですね」と小さく頷いた。
「本当にどうして人間どうし殺し合わなくてはいけないんでしょうね」
 
啓徳曰く、あれから茜は屋敷の地下室に監禁されているらしかった。しかし玉玲には彼女を助けるだけの能力もなければ権能もなかった。玉玲を『救世主』と讃えたマフムドは日本の陰陽師の手によって塵殺され、骨の一つすら返ってこなかった。
 希望があるとすれば、玉玲が魔術師となって、ブラック以下玉玲の敵となりうる者を皆殺しにするという妄想くらいだった。しかし、マフムドの説明するような他界をイメージしたところで世界は曲がらなかった。ただ、時間だけが無為に流れていき、玉玲の心には焦りばかり蓄積されていった。かつてのマフムド以外に彼女の部屋を訪ねる人物はなかった。茜を拷問して得た情報をもとに、英国軍は日本の陰陽師たちの拠点を強襲し、一定の成果を得たらしい。もはや玉玲にとってはどうでもいい情報だった。生き残る。ただそのために他界との交信を図る日々が続いた。しかし何の成果もえられないまま時間ばかりが過ぎていった。
 何の準備も整えられないまま、運命の日はあっさりと訪れてしまった。まだ寒さの残る春の夜。はるか遠方より号砲の音が鳴りひびいたような気がした。一瞬の間隙があり、ボッ! と炎が燃える音とともに、窓の外が昼間のように明るくなった。日本軍の吊光弾だった。遠方で次々と砲撃の音が鳴り響き、数秒の沈黙ののちに、ヒュゥと砲弾が空を裂く笛の音が闇夜に満ちた。ふわりと体が浮きあがった感覚がした。同時にグラグラと地面が揺れ始めた。轟! 村のあちこちから地面を抉る激しい爆音が響いた。この村が、この屋敷が砲撃を受けている。気づいて身体を丸くしようとした瞬間に、激しい閃光と共に視界が真っ白に染まり、そのおぼろげな視野の中で、大量のがれきが天井から降り注がんとする様子が目に入った。
「玉玲!」
 その瞬間、ぱっと黒い影が彼女の眼前に躍り出た。影は手元にあった掛布団を引きかぶり、そのまま仰向けに寝台に眠っていた玉玲の身体へと四つん這いで圧し掛かった。激しい音とともに天井が崩れた。屋根裏に収納されていたいろいろのなものに押しつぶされて、視界が真っ暗に染まった。
「けいとく......? 啓徳!」
「ッ............」
 視界が晴れた瞬間、啓徳と目が合った。彼は四つん這いになり、玉玲の身体を己の背中を挺して守っていた。何百キログラムもある木の梁が彼の背をひどく打ち付けて、圧し掛かっていた。一部は彼の太ももを貫いており、ぼたぼたと大量の血痕をこぼしている。天井の板に強打された頭部からもだくだくと血を流していまにも失血により倒れてしまいそうな様子だった。しかしそれでも、絶対に倒れるまいと玉玲に笑いかけた。
「......あ、ぅ............ああ、ああ」
 駄目だ。駄目だ。死ぬな。死ぬな。生きろ。生きてくれ。そう願った。刹那、玉玲の心臓がドクドクと燃える様に熱くなった。右目の奥がズキズキと痛んだ。......覚悟は終わっている。こいつを生かすためなら私は何だってする決意をしたじゃないか。こいつを生かす。生は死から生まれる。そうだ。死んでもいい命(・・・・・・・)ならたくさんあったじゃないか。


「玉玲さん! 玉玲さん! しっかり!!」
 玉玲は、茜の呼ぶ声に目を覚ました。気づけば身体は装甲車の助手席に横たえられていた。
「わたし......何が......どうして」
 玉玲が混乱したまま尋ねると、茜は装甲車の機械を弄りながら、何でもないように返事をした。
「玉玲さんが英国の奴らを皆殺しにしてくれたおかげで私も逃げることができました」
「わたしが......?」
「ええそうです。けど玉玲さん。そんなことはいいので逃げますよ! このままでは日本軍に殺されます」
「待って! 啓徳は?」
「私が見た時にはもういませんでしたよ。今は逃げましょう。必ず合流できます!」
「でも............」
 玉玲の言葉を待たずに茜はクラッチペダルを踏んで装甲車のエンジンをかけた。そのままアクセルペダルを力強く踏み込んで鋼鉄の塊を駆動させる。そして戦線を一気に疾走した。無数の銃弾が迫るが、鉄のトラックはそれらをものともせずに、村の出口の方へ一直線に向かっていった。
 村の出口には紅白の衣服に身を纏った一人の小柄な少女が仁王立ちの格好で立ちふさがっていた。長い黒の髪を揺らす可憐な少女であった。しかし一番に目をつくのはその巨大な棍棒だった。茜はその姿を認めてギッと奥歯を噛みしめると、エンジンペダルをベタ踏みした。車のエンジンが轟音をあげて、鋼鉄の塊は小柄の少女を轢殺せんと一気に加速した。
 次の瞬間、少女の手より棍棒が放たれた。音よりもはやい速度で飛翔したそれは、装甲車のボンネットを抉り、そのまま運転席ステアリングを粉砕し、江崎茜の肉体に深く食い込んだ。衝撃波をたてて運転席を粉砕する。それと同時に、少女の身体は空を舞うと、右の足で車のボンネットを蹴りつけた。大質量のエネルギーが足より放たれ、装甲車は何十メートルも吹き飛ばされていった。玉玲に傷はない。ただ半壊した車の中、恐怖で何もできずにいた。素手で装甲車を破壊した長髪の少女は、壊れた車の傍で倒れる茜の背中を躊躇なく踏みつけた。
「残念です。江崎茜調査官」
「三見上官......」
「裏切ったら殺す。そう伝えた筈ですが」
「............はは、同じ拷問を受けてから言ってくださいよ。私、もう指三本しかないんですよ。それに、聖別機もぶっ壊されて。いまの私はちょっと治癒力があるだけのただのメスのガキですよ。それをこんな......。少女の平和な生活を、国益なんて抽象的なもののために蹂躙する行為が本当に正義なんですかね?」 
「ええそうですね。私も今のわが省の方針はおかしいと思いますよ。そもそも我々の組織は軍隊ではありません。この世界における怪異と人間の付き合い方を模索するため、妖術師集団を組織したのが由来です。気づけばやりたくもない戦争の諜報活動に引っ張り出されてはおりますが」
「そうですよ......」
「しかし、あなたは我々を売ったのもまた事実だ。あなたの情報によって、我々の所在地は発覚し、一機二万円する聖別機が五台と、二人の調査官が殺されました。あなたが殺したのです。
 斟酌するべき事情も十分にあります。名誉ある戦死ということで、処理しておきます。......最期ご家族に、お伝えしたいことなどはありますか?」
「はっそうですか。お堅いですね。特にはありません」
「わかりました。では安らかに    」
「......待ちなさい!」
「どうされましたか? 白玉玲さん」
「あなたたちの目的は私なのでしょう? 兵器の媒体として身体を潰すなり、人体実験に使うなり好きにしなさい。喜んで協力してやる。けどどうか、この子は見逃してやっ............」
「はあ」
 パンパンパン、三発の乾いた銃声が響いた。複数発の鉛玉が江崎茜の身体にめり込み、だらりと赤い血を噴き出させ、彼女を確実に絶命させた。
「ごめん......ぎょく......れー......」
「なんで.........どうして......」
「こちらは組織内のけじめの問題です。たとえ味方であったとしても、見逃すことは許されません。たしかに、我々の本来の敵は中国軍でも英国諜報機関でもありません。怪異共です。しかし、規律を守れない人間は怪異との戦闘においても害悪となり得ます。
 私はあなたの敵となるつもりはありません。すべて。我々に従っていただけるのであれば、あなたと、そのご両親、そして使用人たちの命は保証します......仮に敵対するのであれば皆殺しにせよとの命令です」
 紅白の巫女服を纏った少女は玉玲に淡々と最後通牒を下した。もはや万事休す。玉玲は観念したかのように息を吐くと、「わたしは......」と言葉を紡ごうとした。ああ、どうしてこんな時にまでわたしは。あいつに「助けて(・・・)」って言いたくなってしまうのだろうか。その次の瞬間、雷鳴の如き爆音が村に轟き、巫女服の少女目掛けて土煙が迫った。少女は巨大な棍棒を掴み取ると、その土煙に向けて何ら躊躇なく降り下ろした。激しい破砕が巻き起こり、地面がびきびきと裂けた。
 やがて土煙が晴れた夜の村には、心臓をナイフで横向きに貫かれた巫女服の少女の死体が転がっていた。従者、周啓徳は少女からナイフを引き抜くと、居心地の悪そうな表情で「遅れました」と告げた。

【ケ号研究のための挺身攻撃案】
一 支那の抵抗著しく、大陸の平和化の為に新型兵器の開発を要する。陸軍省の要請にして喫緊の課題たり。

二 新型兵器はめヴぃる症候群の第三期を利用するものなり。第三期患者の蓋然性を有する少女の身柄は、浙江省□□□県□□□村に在り。英国秘密組織により監禁されるものと推察される。少女奪取のため調査官九名を以て挺身攻撃隊を編成する計画なり。

三 攻撃失敗にあれば、「門」の少女身柄英国に移り国家存亡の危機を生ずるものなり。調査官五名殉職若しくは不能なれば、少女及び関係者を確実に殺害すべく、近隣の陸軍飛行場より爆撃、また砲撃を為すべし。山路を封鎖、燼滅作戦に当たるべし。

四 少女は現実改編に躊躇なき可能性あり。留意せよ。

五 領域崩落現象生ずれば、めヴぃる第三期を殺す怪異、すくりおととろす及び、灰の女王顕れる可能性あり。さすれば半径□□キロメートルは焦土と化す。留意せよ。
  
  責任者 三見日奈・乃木明・下府和佐 調査官

 美しき村は、美しく燃える。白玉玲という少女が幼少より守ろうとしたすべてが。彼女の根拠としたあらゆるものが、踏みにじられ、そして美しく燃えている。
 しかし、彼女はなにもできないまま、啓徳の背に背負われ、その光景を村はずれの丘の上から眺めることしかできずにいた。少女の足は爆弾の破片に貫かれて、うまく歩くことができなくなった。強大な武力がすべてを蹂躙し、破壊しつくしていく中、逃げ出すことしかできなかった。砲弾が飛び交う、バリバリと航空機が宙を行き交い、駄賃がわりの爆弾を降らせていった。
 巫女服の少女を殺して何かが解決するということはなかった。作戦失敗により、日本としては英国の手に玉玲の身柄が渡ることを阻止することが最大の優先となったらしい。膨大な数の日本軍の兵士たちが次々と現れ村を破壊した。銃弾をばらまき、また他方では大量の爆弾や砲弾を雨のように降らせた。料理人だった男は玉玲を庇って死んだ。胸を銃剣で二度、三度と執拗に刺されてあっさりと死んでしまった。他の使用人たちはあちこちに散り散りに逃げていった。玉玲が幼少より築き上げてきたアイデンティティのすべてが失われようとしていた。気づけば頬を涙が伝っていた。これまで誰にも見せたことのなかった涙だった。どこで間違えた。どこで狂った。わたしはこれまで必死に生きようとして頑張ってきたはずだ。なのにどうして......。
 
 
 玉玲と啓徳の、森の中にある薄暗い洞窟にひっそりと身を隠す生活がはじまった。しかしそれも長くは続かなかった。三日たったころ、玉玲は「なあ。啓徳」と声を掛けた。
「どうしました?」
「視界がおかしい」
「はあ」
「......おそらく角膜を細菌にやられたのだろう」
「俺に何かできますか?」
「......誰が薬をくれると思うか」
「いいえ」
「そういうわけだ。わたしの眼はこの様子だと数日だろ」
「......」
「そう泣きそうな表情をするでない。これを機に芸でも楽器でもはじめてみればよい。何せわたしは美人だからな。客くらいはつくさ」
「でしょうね」
「......そんなことはどうだっていい。啓徳、食糧の方はどうなんだ?」
「あと数日分はあります。どうぞ食ってくださいご主人」
「阿房か。わたしは生きる最低限あればいい。貴様がわたしに食べさせるために走らねばならぬだろう。お前が食え」
「......わかりました」
「暇なんぞあるか。村の廃墟を回って盗んで来い。もしなければ、隣村。畑からでもいい」
「いいんですかい?」
「わたしが生き残るためだ。仕方あるまいよ」

「行ったか。あの阿房め」
 玉玲は、啓徳が洞窟から出ていったことを確認すると、ため息をついた。あと数日で玉玲の眼は完全に光を失うだろう。そうなれば、彼女はまったくの足手まといになってしまう。
「こわい......」
 空が赤鴇色に燃えていた。美しい。そう思った瞬間、洞窟にぱっと西日が差し込んだ。視線に刺さるような赤色にあわてて視線を逸らした。すると、洞窟はさながら蛇の口の中のように赤く染まっていた。孤独は怖い。そう思いながら洞窟の壁を触ると、ごつごつとした岩肌は粘性をもった肉の壁になっていた。背中に触れる部分からもねちゃりとした冷たい感触がした。しかしもはやそれ自体に恐怖はなかった。
「啓徳、早く帰ってこい」
 やがて洞窟は暗闇になった。もはや壁は肉ではなく、ごつごつとした岩肌に戻っていた。しかしそんなことはどうでもよかった。
「すみません、ご主人。帰りました」
「随分と早い。時間をかけてでもいいから仕事の方をしっかりやれ」
「背負えるだけ持って帰りました」
「粟か」
「ほとんど持っていかれていましたが、まあ食えるものがあっただけ僥倖ですよ。酒もあります。消毒にも使えますでしょう」
「......活躍に敬礼する」
「ご主人に素直に感謝されたのは初めてかもしれません」
「はは。このような身体で威張ったところでな」
 そう、彼女は自嘲気に微笑んだ。

 翌日。啓徳は玉玲を背負って川へ向かっていた。川岸で彼女のことを抱きかかえ、そのまま沐浴させる。少女は恥じらう様子もなく、啓徳のがっちりした身体を預けていた。玉玲はそのまま何でもないように口を切った。
「のう、啓徳」
「はい」
「この国の春は短い。もうしばらくすれば、うだるような夏が長く長く続いて、少しの秋が来たかと思えば、すぐに凍えるような冬になる」
「そうですね」
「この川の上流には海棠の花が咲いておったな」
「ええ。何度かご主人とも行きましたね」
「花見をしたい。わたしを連れていけ。酒も忘れるな。......指の先すらよく見えぬのだ。せめて海棠の花を見たい」
「承知しました」
「お前はいくつになる?」
「十二ですね」
「わたしは十四だ。たしか春節にお父様がお前を連れて帰ったのだから、およそ四年と少しの付き合になるな」
「そうですね」
「あのときは、二歳も年下のお前を単なるガキだと思っていた」
「今はどうです?」
「やはり単なるガキだ。わたしのほうが二年早く生まれた分えらい」
「そうですか」
「しかし力ではかなわなくなってきた。わたしは自分のことをある程度の筋力があると思っていたのだがな」
「......」
「そう哀しい顔をするな。もう走ることは叶わぬが、それが天命であるなら何も言うことはない。わたしはお転婆であるだけではなく、あたまが切れるのだからな」
「そうですね」
「お前はわたしよりもよっぽど若いのに、わたしのよりも力が強い。恐ろしいことだと思うよ。お前がその気になればわたしをどうにかするくらいは赤子の手をひねるよりもたやすい。だというのに身を預けなければならない。いや、どうなのだろう。わたしはこうしてお前に身を預けているのは嫌いではない。これから歩けない。目も見えない無能になろうとしている。なのに不思議と怖くもない。もはや心身ともに弱り切った人間におけるマゾヒズム。単に自由と責任から逃れようとしているだけなのかもしれない。しかしわたしは。信頼するお前になら......」
「何でしょう」
「何でもない」

 渓流の上には、海棠の木が数本生えており、その赤い花を咲かせていた。玉玲はその根元でじっと海棠に顔を寄せて、恍惚とした表情でつぶやいた。
「......紅いな」
「ええ。そうですね」
「海棠の雨にぬれたる心地、と人は云うが、どうか。わたしは美しいか」
「ご主人は佳い女ですよ」
 花びらに落ちる。
「なあ、啓徳」
「はい」
「もう疲れた。......わたしのことをずっと見てきたお前ならもうわかっていただろう」
「はい」
「......こんな、あくびの出てしまいそうになるほど気持ちのよい春(しゅん)昼(ちゅう)に、海棠(かいどう)の樹の下で、お前に見守られて死ぬことができるのならもう言うことはない」
「そうですか」
「のう啓徳、妾(わたし)を殺してくれ」
 やや沈黙があった。
「......別に俺は、ご主人の目が見えようと見えなかろうとも。足で歩けなくても仕えますよ」
「お前は優しいの」
「いいえ。それ以外の生き方がないだけです」
 啓徳は改めてじっと玉玲のことを見つめた。
「ご主人、もし俺がご主人のすべてを責任もって世話する。と言っても駄目ですか」
 絞り出すような啓徳の言葉に、玉玲は沈思する。あるいは、と思考がそちら側へと傾く。有能な彼のことだ、もしかするとうまい具合に食糧を調達して、一生わたしの世話をしてくれるに違いない。わたしに残されたのは両手と、声と耳と思考、そして子宮くらい。一生をこいつの許で飼育されてやるのもまた一興かもしれない。玉玲は小さく息を吸うと、
「......はっ。誰が喜んでお前なんぞと一生を添い遂げたいと思うものか」

「命令だ」
 玉玲のその一言に、啓徳はぴたりと動きを止めた。これまで一度として、彼は少女の命令に背いたことはなかった。それは今回も変わらない。
「妾(わたし)を殺してくれ。啓徳」


「......」
 啓徳は何もできない自分に驚いた。言葉の一つすら漏らすことは叶わなかった。自ら殺した娘の死体は、海棠の樹の幹へと優美に腰かけている。
 何もできずにいた。もはや、彼女のいない生など忘れてしまった。何をするにしてもご主人の指示があった。虚無に放り出された。空虚さに眩暈がした。食事もしないまま、呆然と少女の亡骸を見つめている。やがて日が落ちた。そうだ。葬式の準備をしなければならない。啓徳もある程度の思慮分別はあった。もしあのまま洞穴に隠れていたとして、目も見えず、歩くこともできない玉玲と共に生きていくことができただろうか。栄養失調で二人とも命を落とすのはそう遠くなかっただろう。少女が啓徳に己の殺害を命じたのは、彼女の持っていた自負心からであった。もはや自分は長くはないが、啓徳一人だけであれば、生き残ることも可能であると考えたのだろう。その通りだった。玉玲は正しい。この世で最も正しい。だから、啓徳はそれに従わなければならない。もし仮に彼女を殺さなければ? 自殺しないように縄で縛り、歯をへし折ればあるいは? ......しかし。
 彼女の最期の自負心。高潔さから生じた自殺である。死を受け入れることへの恐怖はどれほどだったのだろうか。
 ......おれは彼女に生かされたのだ。生き延びる義務がある。......しかし。しかし。少年は海棠の下に凭れかかる、少女の死体を前に、何ら選択を下すことができなかった。選択肢がそもそも存在していない。少年にとって、白玉玲という少女は全てだった。彼女の言葉を実現するために動き続けてきた。なら、生きるとは何なのだろう。わからない。わからない。そのような機能はとっくの昔に削ぎ落してしまった。もはや、少女のいない生など何の価値もなかった。では、少女の言葉を無視するべきだったのだろうか。否、そうではない。彼女は絶対的に正しいのだから、少女は何ら間違ったことを行わないのだから。
 少年はただ茫然と、亡骸の前に立ち尽くした。静かに閉じられた瞳を。白の漢服はぐっしょりと心臓から零れ落ちた血に塗れている。海棠は彼女の血を吸ったかのように、紅の花を咲かせる。だんだんと辺りは暗くなり、何もない静かな夜が訪れようとしていた。

 何も食わず、飲まず、寝ず、少女の亡骸を見つめ続け【太母解体】どれほどの時間が経過したのだろう。少年はこれまで嗅【神話構築】いだことのない【星の心臓】香りにはっと現に返った。気づけば少年は森【胎内】の中に立ち尽くしていた。少女の亡骸は相変わらず海棠の根元にただ静かに臥している。しかし、あたりの風景は一変し、少年たちは滝の上に佇んでいた。【金枝】このような場所はあの裏山にはなかったはずだった。振り返った。その瞬間、少年は息をのんだ。
 一面に広がる海棠の群れが狂い咲き、ドウドウと白煙と水音をあげる滝壺に朱色の花びらを落としている。ここはどこか知らない。しかし、少年にはここがもはや人間の世界であるとは思えなかった。......こんな美しい場所が。ご主人の気配を感じることのできる場所が現実だとは思えなかった。服が汚れることも厭わず、少年は涅槃図に描かれた釈迦の如く静かに横たわる少女の身体をぐいと背負った。少女の身体はすっかり熱が失われており単なる死体に成り果てていた。海棠の花の狂い咲く森の中を、土をしっかりと踏み固めながら歩き始めた。歩く。歩く。歩く。少年は己の所在も目的も知らなかった。ただ、立ち止まってはならないという義務感に従い一歩、また一歩と進み続けた。

「ひめさま、しんじゃった?」
「おお、姫様...」
 視線を感じる。恐ろしい怪物たちや、きのこの少女と会話を交わしながら、どんどん森の奥へと進んでいった。
 
 ......かつて昔話で聞いたことがある。灰の女王。偉大なる怪異、ヤドリギの枝を折れ。彼女を殺せばすべてが叶う。怪異はどこにいる。怪異は場であり他界だ。この世界に遍在する。女王を殺せ。ほんの一滴の恐怖心さえあればそこに実在する。泡が零れ落ちる。視る。殺せ。......灰の女王は既にそこに在った。
 
「呀、わたしを呼ぶのは君だろうか。小さき神官よ」
 神の力を宿した神聖なる怪異の王。願いをかなえる怪物。灰の女王。神にもっとも似た怪異。臨月の胎を抱える白髪の娘。降り注ぐ海棠の花びらの下、白髪の怪異は悠然と触手の群れの中に踊っていた。少女は北京のなまりのする中国語で、はっきりと少年に語り掛けた。
「わたしはかつて人の形を持っていた。白玉玲はやがて王となり、わたしを殺し、わたしと同じ存在に成り代わる運命だった。それこそが君たちがメヴィル症候群と呼ぶシステムだ。だからわたしは成り代わりを防止するため、白玉玲のことをやがて先手を打って殺すつもりでいたが......。ふむ。手間が省けた。わたしが殺すまでもなかった」
 言葉を聞いた瞬間、啓徳は懐から一丁の日本式拳銃を引き抜いた。そのまま何の躊躇もなく灰の女王の頭部に突きつけ、拳銃の引き金を引いた。
 触手の怪異は少年の様子を見て愉快そうに微笑んだ。避ける様子も見せず、銃弾は灰の女王の頭部へと吸い込まれていった。パン! と風船のようにはじけて飛んだ頭蓋の断面から、びちゃびちゃと無数の触手が零れ落ちた。少年は異形の怪物に対して弾切れを起こすまで銃弾を放ち続けた。もはや少年に生きる意味はない。ただ、己の崇敬する主人に対して一瞬でも殺意を向けた存在を。玉玲の敵を許すなという単純な哲学だけだった。彼女はその啓徳の態度に莞爾として微笑むと、言葉を続けた。
「ふむ。白玉玲という少女は君に対し、よほど生を望んだらしい。君の身体には、彼女が他の人間から奪った命十数人分が詰め込まれている。君を殺すのは私でも一苦労だ。それになるほど。......はは。これは傑作だ。君は自分の因果を観たことがないのかな。君の因果は一九三七年一〇月にあの女によって破壊されている。可哀そうに。あいつが願わなければ君の親は死ななかった。君は楽しい人生をおくっていた。こんな陰鬱なことにはなっていなかった」
 啓徳は灰の女王の言葉に「別の人生はいらない」と即答した。灰の女王は愉快そうに莞爾として言葉を続けた。
「君は白玉玲を生き返らせたいのかい? 本当に? 君の人生を理不尽にも破壊したあの身勝手女を?」
 啓徳は灰の女王をぎょろりと睨むと「ああ」と確答した。
「それでも。俺は。玉玲が欲しい」
 灰の女王は啓徳の言葉に微笑むと「結構」と答えた。
「君はヤドリギの枝を折った。私に銃弾を突き付けた。結構だ。偽神らしく願いを叶えてやる。喜べ。
 ......お前が望んだとおりにあの女を生き返らせてやる」 
 
白玉玲は、庭の海棠の下に敷かれた茣蓙へと腰を降ろし、宴会の準備だということでせわしなく庭と台所を行き来する己が従僕、周啓徳の姿を微笑まし気に眺めていた。白のドレスをまとった茸姫たちが「ヒメサマ」「ヒメサマ」と集まってくるのでその白帽子をくりくりと撫でてやる。
 ちょうど彼は、居間からちゃぶ台を持ってきて、茣蓙の中央にどしんと設置したところ。ふと少女は思い立って、そのまま食器の準備に移ろうとするのを呼び止めた。
「のう啓徳」
「はあ、なんでしょう」
 少女の変わらない呼び声に、彼は首を回すと面倒がるそぶりもなく答えた。もう何度繰り返されたのかわからないやり取りだった。玉玲は「んー」と、少し思案するかのように、触腕をくるくると宙で回す。そして、のんびりとした様子で口を切った。
「久しぶりの宴会だ。あれを出そうと思う」
「なるほど。あれですね」
「そう、あれ。持ってきてくれ」
「わかりました」
 啓徳は「それでは」と少女に答えて、台所へと消えていった。
 狂い咲く海棠の下、玉玲は裾の長い漢服を身につけて、茣蓙の上へと腰をおろしている。とくんとくんと響く心臓の音が気になり、また所在ないのも相まって、足下へと目をやった。水浅葱の色をした長裾の内側では、赤褐色の肉の塊が、少女の心臓の鼓動に合わせて胎動し続けている少女は知っていた。さながらウミウシのお化けに人の上半身を取り付けたかのようなあさましい姿だ。少女は啓徳のいないうちに嘆息を洩らす。
 かつての妾(わたし)は己が無能となることを恐れて、また無様な姿を晒すまいとして、自ら命を絶ったのだ。......しかし、いまの妾(わたし)はどうだろうか。下半身は肉の塊で、全身から粘性のある液体が零れ落ちている。目も見えない。歩くことも走ることも満足にできない。それこそ人外の怪異として、葬り去られるべき姿でもって生まれ変わらされたのである。もし、過去の自分がこの妾(わたし)の姿を見れば、きっと卒倒し絶望するに違いない。......では、どうして妾(わたし)はこのような姿に。生きるという機能しか果たすことのできない脂肪のかたまり、肉の袋となり果ててもなお、再び死んでやろうと思えないのだろうか。
 脳裏に浮かぶのはやはりあの阿房の姿であった。肉の姿となってもなお、可愛い、可愛いと言って三歩後ろ。いや、最近は距離が近くなってきて一歩後ろくらいをついてくる。あの阿房に絆されたのだろう。あいつはしょせん、妾(わたし)という頭脳がなければ何もできないのだから、主人として、白家の長としてせめて導いてやらねばかわいそうだ。そう結局は妾(わたし)もお人よしであったとそれだけだ。あいつが生きていけるために、妾(わたし)も仕方なしに生きてやっているのだ。だからあいつは妾(わたし)にもっと感謝すべきだろう。そしてもっと妾(わたし)に敬意を払うべきなのだ。
 ......本当に?
「持ってきましたよ。ご主人」
「御苦労」
「では次の用意がありますので」
「......待て」
「はい」
「貴様は何が楽しくて妾(わたし)に尽くすのだ?」
「さあ。わかりません」
「そうか」
「俺にはこれ以外の生き方がありませんから」
「では、妾(わたし)との生活は面倒か?」
「いいえ。ご主人のことが好きなんで」
「ああそうかい」
「では」
 急いで台所へと戻っていく啓徳の足音を聞きながら、少女は改めてため息をついた。玉玲は瞳を閉じ、改めて沈吟する。
 ......結局のところ、妾(わたし)が「あいつのため」などと考えるのは自己欺瞞に過ぎなかった。そうだ、妾(わたし)はいまのこの状況がどうしても嫌いになれていないのだ。妾(わたし)が怪異となり果て、成長が止まったのが十四の頃。
 あれから、せめて道連れとして、あいつの身体も怪物にしてやろうと思い、妾(わたし)の身体の肉を食わせ続けた。今でこそ、啓徳の肉体も立派に怪物となり果てたが、彼の成長は、およそ齢二一となるまで止まらなかった。ガキだと思っていた従僕に身長も知性も筋力もなにもかも追い抜かれた(なお体重に関しては、肉の分妾(わたし)の方が重いが、それは知らないことにしておく)。彼が妾(わたし)の教育の甲斐あって何でも卒なくこなすことのできる万能人となったのに対して、何もできない己の姿はひどく対比的だった。彼がその気になれば、妾(わたし)は何ら抵抗することはできないだろう。妾(わたし)の明日がどうなるのか。すべての殺傷与奪はすべてあいつに握られている。脂肪のかたまりに過ぎない妾(わたし)がこうして威張っていられるのは、単にあやつがそれを許しているからにすぎないのだ。薄氷を踏むような関係だ。しかし、妾(わたし)はこの関係が決して嫌いにはなれなかった。むしろ居心地が良かった。妾が女主人として気丈に振る舞ってはいるものの、結局のところを終局的に決定する実力を持っているのもあいつなのだ。
 それは畢竟するに、妾(わたし)はほんとうはまったくの無能力で、ただ温情に縋って甘えるだけのお飾りの人形だ。しかし、それでもいい。ずっと隠してきた本心だ。本当はそうありたかった。信頼できる人に殺傷与奪のすべてを委ねる安堵感と陶酔感。選択からの永久的な逃避。薄弱だ。愚かだ。しかし、痴愚たる妾(わたし)は、本当はこの結末を望んでいたのだろう。海棠の下で人間として果てようとする寸前の妾(わたし)の脳内を過ぎった願いは叶い続けている。......いや、違う。本当は啓徳を一人間として見た時から、妾(わたし)はいこの末路を願い続けていた。妾(わたし)はあいつにこの生を握られたかった。この矮小で無価値で病的な一箇の人生をあいつに消費させられたかった。
 時折不安になることもある。もし彼の気が変わったら何うする......? 妾(わたし)の身体はきっといつまでもこの物質界の牢獄に繋がれて生き続けるだろう。そしてこの身体を摂取し続けるあいつも、妾(わたし)のもとにいる限りは死ぬことができないだろう。だか時間はいつまでもある。妾(わたし)に対する温情、恋情、愛情などいつ尽きてもおかしくはない。......好い。そうなったとしても別に構わない。その時は、己の本当の姿にふさわしく必死になって、無様に命乞いでもするつもりだ。妾(わたし)とて自らが単なる一畜生に過ぎないことは、立場が可愛がられているだけの犬猫と何ら変わらないことくらいはわかっている。......妾(わたし)とて主人への態度くらいは当然弁えている。

「御免ください」と板の玄関扉を叩く音三度。啓徳がそれに応対する声。やがて、玉玲の前へ二塊の怪異たちがぬらりと姿を見せた。一人は黒の中華風ロリータ衣装を纏った窈窕たる乙女。影の怪異である彼女の黒髪は、吸い込まれてしまいそうな漆黒。はらはらと舞う黒色の内側には、陰鬱さを感じさせる墨染の桜色のインナーカラーが入れられており、それは春昼の陽気を吸い込んで怪しい光を湛えている。日焼けの痕跡を全く感じさせない陶磁の如き玉肌と相まって、その浮世離れした容貌は彼女が人ならざる怪異であることを衆人に気づかせるに足るものであった。また、彼女の唇には銀色のリップピアスが光り、耳の軟骨には何本ものリングが装着されていた。これは彼女自身の趣味であった。
 影の少女は玉玲に対し「お久しぶりです」と莞爾微笑みかけた。玉玲に対して物怖じする様子や嫌悪を覚える様子はなかった。丁寧に履き物を揃え茣蓙に上がり、玉玲の傍に、ぺたんと金糸の紋様が施された白のタイツの両足を折りたたみ、「啓徳さん、今日のお料理はなんですか?」と打ち解けた様子でくつろぎ始めた。
 そして、もう一塊の怪異は漆黒の外套を纏った線の細い男。影の少女の魂の片割れたる影法師の怪異であった。彼らはまるで陰陽のように生まれ、二箇で一箇の怪異として実在していた。影法師も少女の後に続き、茣蓙へと上がると、少女の傍へと静かに座した。
 影の少女は「そういえば」と、中華風ロリータドレスのフリルいっぱいの袖口、その中からちらりと伺える広大無辺たる漆黒の闇へもう片方の腕を差し込んだ。そして四次元ポケットを探るドラえもんのような六つかしそうな表情をすると、ややあって玉玲に微笑みかけた。少女の右手には黄色の紙箱があった。それを「どうぞ」と玉玲の傍に丁寧な手つきで引き渡した。
「お土産です。神戸、モロトフ製菓のプリンです」
 甘味と酒が好きな女主人はクールを装いつつも、とても嬉しそうな表情で微笑み返した。
「これはどうも、妾(わたし)も好きですよ」
 
 ややあって、春昼の日本家屋にバキン! とガラスが割れるような激しい音が響いた。一同が空を見上げた瞬間、吸い込まれてしまいそうな春の蒼穹に巨大な裂け目が広がり、『禍』という言葉を想起するが如きドス黒い朱色が空を塗りつぶしていった。ドクンドクンと大気が鼓動し、白玉玲の世界がより強大な異界に塗り潰されていく。災厄が。女王が。灰の女王がやってくる。白家の宴会に。
「玉玲ちゃんおひさ! きちゃった?」
 聞き慣れた声に玉玲は苦虫を噛み潰すような表情を向けてやると「厄介なのが来た」と忌々しげに睨んだ。
「ふーん、招待したくせに」
「仕方がないだろう。妾(わたし)は友達が少ないんだ。誰かがこんな素敵な身体にしてくれたおかげでな」
「そうでしょ! かわいいでしょ! 触手はね、かわいいの。私の崇敬するご主人様(スクリオトトロス)の身体に似せて再構築(reconstruction)したんだから。人間に似せるなんてナンセンス! 劣っている! これからは触手の時代なんだから」
「......ああそうだな。素晴らしい仕事だよ」
「でしょう? 私に逆らえないという立場をよくよく理解して、適当に相槌を打ってくれる優しい玉玲ちゃんには私からもお土産をあげたくなっちゃう。はいどーぞ」
「これは?」
「明石のたこ」
「触手キャラ押しすぎてくどい」
「釣れないなあ」
 灰の女王はクルクルと白髪を捻ると、茣蓙を無視して勝手に触手の王座を地面に形成すると、どっしりと腰をおろして宴会の始まりを待ち始めた。

 やがて、宴会が始まった。啓徳と影法師が料理を作って酒を注いではと宴会場へと運んでいく。それらは瞬く間に三つの女怪異たちの胃袋へ、もしくは茸姫たちの体内へと溶けて消えていった。会話は弾み、酒は踊り、熱気は広がっていく。妾(わたし)は忙しそうに空の器を持って、厨房へと戻っていこうとする玉玲を「喃、啓徳」と呼び止めた。彼は「はあ、何うかしましたか」といつものように答えた。じっと黒い瞳をこちらに向けて命令を待つ姿は、しつけのよくできた犬に似ていた。
「お前も飲め」
「はあ」
 返事と共に、啓徳は盃に茶褐色の古酒を注ぎ、そのまま玉玲の側に腰掛けた。「それでは御相伴に預かります」と口元に盃を近づけ、静かに口に含んで味わった。ややあって「美味しいです」と莞爾微笑んだ。玉玲はニッと皮肉げな笑みを浮かべて口を切った。
「お前も随分と歳をとったな」
「ご主人の二つ下です」
「余計なことを云うな」
「いいではありませんか。おかげで晩酌も宴会も楽しめるんですから。......ご主人。盃空いていますよ」
「ああ。そうだな」
 ぼんやりと返事をして、酒器を啓徳の方に寄越す。トクトクと土造りの壺に入れられた茶褐色の古酒が玉玲の器を満たしていく。数十年前はまるで駄目だった浙江の酒も、気づけば味の違いがわかる程度に飲み慣れてしまった。

 ひとたび妾(わたし)は願ったはずだった。海棠の下にて春死なむ、と。妾(わたし)の命は、あくびの出るような春昼に、美しい海棠の下、愛する人の手によってひとたび尽きたはずだった。あの時、妾(わたし)はたしかに幸せだった。恍惚(うっとり)とした陶酔の中、静かに、美しく永い眠りにつけたはずだった。
 だから今の生は蛇足だ。死のないことは生きていないことと同義であり、こんな醜い怪物に生まれてしまったことには後悔しかない。
 ......しかしそれでも。もう暫くは。この海棠の下で。


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