deep sea

六宮



 勉強ができなくなった。授業についていけないのではない。取り組むことができないのだ。最初はただやる気が出ないだけだと思った。甘えているのだと自分を責めた。けれど、やる気が出ないのは勉強だけにとどまらなかった。料理をするのが億劫になった。皿洗いを先延ばしにするようになった。お風呂に入れなくなった。朝ベッドから起きられなくなった。思考が停止する感覚とのろのろと進む時間に耐えられず、かといって何かをする気にもなれない。本を読もうにも活字は目を滑り、音楽を聴こうにも音はノイズにしかならなかった。部屋の隅で立ち尽くす時間が長くなっていった。
「それ、鬱じゃない?」
「そうかなぁ」
 絵美の言葉はなんだか軽く響いた。私は鬱なのだろうか。私なんかが鬱であっていいのだろうか。世の中にはもっと苦しんでいる人がいるのに。生協で買ったサンドイッチをかじる。お昼の講義室は人が少ない。
「病院行った方がいいんじゃないの?最近変だよ、佳奈」
絵美は眉をひそめて私を見やる。同じく生協で購入したスパゲティーをつつく手が止まっていた。私と彼女は同じ学科の友人だ。理系学部の中の、特に女子が少ない学科ということもあって、私たちは大抵いつも一緒に行動している。
「だって最近朝遅刻ギリギリじゃん。前はちょっと早めに来て本読んでたのにさ。それに、こないだのことだってあるし......」
先週の金曜日、講義中に私は泣いてしまった。悲しい事があったわけではない。何も理由がないのに涙が止まらなかった。何がきっかけだったかさえわからない。長い前髪とマスクのおかげで他の人には見えなかったと思うが、絵美だけは異変に気がついた。
 黙ってしまった私に、絵美はスマホの画面を見せる。
「これやってみな?」
画面に映し出されていたのは、どこかのメンタルクリニックのウェブサイトだった。「うつ状態診断」という見出しの下に、チェック項目と質問が並んでいる。夜眠れているか。食欲はいつも通りあるか。体重が増減していないか......。
「ありがとう。あとでやってみるよ」
安心させるために笑ってみせる。絵美は納得いかないという表情をしつつも、スマホを引っ込めた。
「早く準備しないと、そろそろ講義が始まっちゃう」

 結局、その数か月後に私は休学届を提出することとなった。理由は二つ。このままではギリギリ単位を取ることはできても、就活までできはしないと考えたこと。もう一つは、どうしようもなく死にたくてたまらなくなったこと。昔から、母が私へ言い続けてきたことが一つだけある。
「絶対に私より先に死なないでね。同時に事故に遭ったとしても、一秒でも長く私よりも生きてね」
正直、その言葉を守ることが自分のためにならないのなら、いつでも背くつもりでいた。けれど、ここまで育ててもらっているのに少しも顧みないのは憚られて、死ぬ前にできそうなことはやってみることにした。五体満足で生まれていて、これといって病気も何もなく、大学にまで不自由なく通わせてもらっているのに「死にたい」と考える自分が許せなかった、ということもあるかもしれない。
 前期の期末試験にはなんとか出席し、前期分の単位はほとんど取ることができた。その後、夏休みに入ると同時に私は休学した。診断書には、暫定的に「うつ」と記載されていた。
 はじめの二ヵ月ほどは実家で休養した。薬と静養のおかげもあって、悲しみと虚無感に苛まれる頻度は減っていった。遅れて、低下していた集中力と思考力も、少しずつではあるが回復してきた。本を読めるようになり、音楽を楽しめるようになった。私は、十月には下宿しているアパートに戻ることにした。理由は二つ。自由に使えるお金が欲しくて、バイトをしたいこと。実家は片田舎にあるため、バイト先などあろうはずもない。もう一つは、サークルのこと。私は奇術部に所属していた。十二月にはサークル主催のイベントがあり、お客さんを呼んで手品を披露する。三年生はそのイベントで引退ということになっていた。私は、そのイベントにできれば参加したかった。たった一つだけある、自分が考案したマジックを、人前で披露したかったのだ。
  アパートに戻るにあたって、問題点が一つだけあった。それは、話し相手がいないことだ。実家にいれば、毎日家族と話すことが出来た。事情を知っている友人が暇なときは、通話に付き合ってくれていた。けれど、言わずもがな、アパートには自分一人きりで、頼みの綱の友人も、大学生活の方が忙しく、おいそれと通話に誘えなくなった。他の友人に頼っても良かったが、自分が現在置かれている状況を一から説明するのは億劫で、また、そこまで仲良くもない相手と話すのは、今の自分にはとてつもなくエネルギーが要ることに思えた。
  暇を持て余してTwitterを眺めていた時、一つの広告が目に入った。
「deep sea ......?」
それはどうやらSNSアプリのようで、「深い海の底のように静かで穏やかなSNS」と謳っていた。フードを被った女の子のイラストに、メッセージが添えられている。
「寂しい時、疲れたとき、誰かと話して癒されませんか?」
少しばかりの好奇心も手伝って、私はそのアプリをインストールすることにした。

  deep seaはその名の通り、深海をモチーフにしたSNSで、デザインの細かい部分にそれらしい要素がちりばめられていた。チョウチンアンコウの照らすタイムラインに、タカアシガニが届けるメッセージ。ランダム通話機能では、リュウグウノツカイが相手を探してくれる。それらの中で物珍しいのは、シーラカンスの集う音声ルームだ。LINEのグループ通話のように複数人で話すこともできれば、部屋の主のみが音声配信をし、他のユーザーはコメントで参加するというようなこともできた。中には、部屋の主がマイクをミュートにしていて、チャットルームのように使用している部屋もあるようだ。ケイという名前でアカウントを作成し、ひと通り使い方を確認すると、私はとりあえずタイムラインに投稿してみることにした。
「はじめてみました!どうぞよろしく」
 他愛ない投稿に数分でいいねがつく。他のSNSよりいいねがきやすいというのは本当らしい。よっぽどみんな暇なのかしら。そう考える私はひねくれているだろうか。
  シーラカンスのアイコンをタップすると、ユーザーがリアルタイムで開いている音声ルームを見ることができる。その中から適当な部屋を選び、とりあえず入ってみることにした。
「ぎゃははははは」
入室した瞬間、上品とは言い難い笑い声が響く。そっと退出し、アプリを閉じた。携帯をしまい、ベッドに横になる。その日は二度とアプリを起動させなかった。
  
  数日経ち、アプリのことをすっかり忘れていた昼下がり、私は久しぶりにdeep seaにログインした。暇つぶしにアプリの整理をしていて、そういえばこんなアプリもあったな、と起動したのだ。使わないのなら消したってかまわない。なんとはなしに音声ルームの一覧をスクロールする。「お話しましょ」「雑談しよう」「誰かはなそー」似たり寄ったりのタイトルが並ぶ。特にこれといって惹かれる部屋はない。別のことをしようとベッドから起き上がったその時、とある部屋のタイトルが目に入った。
「未来の話をしよう」
「夜空《よぞら》」という人が開いているルームらしい。前に入ったルームのことが思い出されるが、入ってみて嫌な感じがしたらすぐ出れば良いか、と思い直した。
「あ、ケイさん。はじめまして、いらっしゃい」
柔らかい、穏やかそうな男性の声がした。少なくとも私より年上の方だろう。部屋の主《ぬし》にコメントで挨拶を返す。
『こんにちは』
「今リサイクルの話をしてました。やっぱりリサイクルは水を汚すからその分の負荷が大きいんですよね  」
『そうそう。プラスチックよりも水の方がやばいからね』
夜空さんは主にアカネさんというアカウントとやりとりしているようだ。二人の会話に耳を傾ける。と言っても、アカネさんの方はコメントだったけれど。
「だから、あれなんですよね。リサイクルするよりも、そもそもの製品の素材を土に還るようなもので作るべきで、そういう研究を進めた方が良いと僕は思うんですよ」
リサイクルは私の畑ではないので、詳しい事はよくわからないが、どうやら二人はそのあたりについてよく知っているようだった。友達との日常会話では出てこない話題なので、聞いているだけで楽しい。そのアカネさんが抜けてから、話題は人口爆発に移っていく。私もわかる部分だけ会話に参加した。夜空さんの語り口調は穏やかで、独特のテンポ感があった。聞いているだけで落ち着くような声だ。しばらくやりとりが続いた後、思い出したように夜空さんは尋ねた。
「そういえば、ケイさんのご専門を訊いてもいいですか?僕は薬学なんですけど......」
思い出したように、夜空さんが尋ねる。
『大学で物理を学んでいます』
「そうなんだ。物理、僕は全然わかんないんだよなぁ。どうして物理を選んだんですか?」
『そうですね。我々の体も、机やペン、水なんかも、すべてを突き詰めていくと、原子、ひいては電子や陽子になるというのが不思議でならなくて』
「へぇ。ケイくんは、今何か興味あることはある?」
『そうですね。クオリアかな』
「クオリア?って何?物理に関係すること?」
少し考えてウィキペディアを参照する。なぜだかより正確に伝えなければいけない気がした。
『感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感』
『物理ではなく、脳科学ですかね』
「いや、わからんわからん。ちょっと音声で喋れる?」
一瞬ためらったものの、マイクを受け取る。これは、口頭でないと答えにくい質問だ。
「こんにちは」
「あれ」
「どうされました?」
「いや、ごめんなさい。てっきり男の子だと思ってた。女の子だったんだね」
「え」
「ほら、ケイって名前だし、物理やってるっていってたから。アイコンの子もショートカットだから男の子に見えちゃった」
「そういうことでしたか。大丈夫ですよ」
「ごめんごめん。で、クオリアね」
「はい、そうでした」
口に出すべき言葉を選ぶ。できるだけ正しくて、わかりやすい言い方はどれだろう。
「メアリーの部屋ってご存じですか?」
「存じ上げないですね」
「メアリーという女の子がいたとします。その女の子は、色彩、色について、あらゆる知識すべてを身に着けています。彼女は色について一切のことを知っているわけです。しかし、彼女は白黒の部屋で過ごし、今の今まで色を目で見たことがありません。さて、メアリーが初めて色彩を目にしたとき、彼女は何かを得るのでしょうか」
「ほう」
「そこで得るものがあるとすれば、それがクオリアというわけです。私が見ている赤と、夜空さんが見ている赤は同じなのか。色以外の、音、触覚なども同様ですが、その経験に対しての感覚がクオリアなんです」
息をついて、反応をうかがう。少し喋り過ぎただろうか。
「......という感じなんですが、伝わりました?」
「えぇ、まあ。なんとなく」
なんとなく伝われば十分だ。なにも百パーセントわかってもらわないといけないことでもない。やや間をおいて、夜空さんはまた質問を投げかけた。
「ケイくん、じゃなくてケイさんは、物理学の中では何に興味があるの?」
「そうですね。統計力学かな」
「熱力学と関係があるんだよね」
「はい。そのうえで、ミクロとマクロを繋いでいるのが統計力学なんです」
「なんで統計力学に興味があるの?」
「物理に興味がある理由に近いです。身近なものがすべては小さな粒々でできているというのが、不思議で不思議で......」
「それは......」
言葉を切って、おそらく何か考えながら、夜空さんは言葉を続けた。
「統計力学を学ぶことでその問いは解けるの?」
思ってもみなかった質問に、言葉が詰まる。確かに、解けるかどうかはわからない。もちろん、知りたいことに近づけはするだろうけれど。自分は知識を得るだけで満足していたのかもしれない。何も言わない私に、夜空さんは続けた。
「君の知りたいことは、それこそ、さっきのクオリアと同じようなものなんじゃないかな。勉強をしていても、わからないんじゃない?」
「そうなのかも......」
どちらも黙ってしまい、静寂が訪れた。それはごく自然な間であり、不快なものではなかった。
「ケイさん、フォローしてもいいかな?よければまたお話しましょう」
「あぁ、良いですよ。またお願いします」
「では、そろそろこの部屋は閉じますね。ありがとうございました」

 それから、私は夜空さんのルームに通うようになった。彼のルームはなぜだか居心地が良くて、もっと話していたいと思った。夜空さんは、話すのが下手な私にも話しやすいように話題を投げかけてくれた。それに、私が普段したくてもする相手がいなかった話題  科学だとか文化だとか、友人には煙たがられる  について、彼となら話すことが出来た。それはとても拙い、取るに足らないようなものだったけれど、それでも十分だった。
  
「やっほー、夜空さん。ケイさんもこんにちはー」
『やほやほー(*^-^*)』

  夜空さんの部屋で、私は二人のユーザーと知り合った。まいchanとM姉だ。二人は夜空さんの友達で、大抵いつも彼のルームに現れた。
「いわゆるいつメンというやつですね」
「そうそう。ケイさんもそうなりつつあるけどね」
 まいchanは私と同い年だが、高校を卒業後すぐに社会に出て働いていたそうだ。今は、罹患している精神疾患のために、お仕事はお休み中なのだという。話し方から、明るくてのんびり屋さんな印象を受けた。
  一方、M姉は三十代で、夜空さんより年上らしかった。都内で専業主婦をしており、日中は時間があるのだそうだ。彼女も、うつになった過去があるという話だった。大抵、主にコメントで参加している。
  いつもならもう一人来るらしいのだが、私生活が忙しいそうで、その人はしばらく顔を見せてないとのことだった。名前は干しいもくんというらしい。ほっしー、またはほしくんと呼ばれていた。その場にいはしないけれど、毎回誰かが一度は話題に出すので、存在感だけはあった。彼のことは、同い年と言うこと以外は何もわからなかった。
  後から聞いた話だが、このdeep seaというアプリは、なにかしらの精神疾患を抱えるユーザーが集まりやすいのだそうだ。もちろん、みんながみんなそうというわけではなかったけれど。
  夜空さんは三十代半ばで、彼もまたとある精神疾患を抱えているそうだ。就労支援施設に通うなか、暇な時間を潰すためにdeep seaをインストールしたらしい。大抵平日の十六時頃から音声ルームを開いていた。私はそこに長居するようになり、遅い時にはそのまま二十二時まで話していることもあった。
『まだやってるの?ケイちゃん大丈夫?』
心配したM姉に、私が夜空さんに捕まって抜けられないでいるのではないかと疑われてしまうほどだった。実際はそうではなく、自分の意志でその場にとどまっていたのだけれど。夜空さんの方も、私が来るようになってから、今までより部屋を開く時間が増えたようだった。そのことを私は少し申し訳なく思った。
 一方、手品の稽古の方は順調とは言い難かった。薬の副作用で集中力が低下しているためか、はたまたうつの症状でやる気がそがれているのか、どうしても練習に身が入らなかった。同じサークルの友人に練習の途中経過を見てもらう約束をしていたが、その日になってキャンセルしてしまった。しばらく入れていたお風呂にもまた入れなくなり、食事を準備するのにも気合が必要になった。友達の家に遊びに行く約束もなしにしてもらった。回復の波の谷の部分、といった感じだった。

「え、ケイくん、じゃない、ケイさん?今日はお稽古じゃなかったっけ」
『そうなんですけど、なんだかしんどくて。お休みしちゃいました』
「そうなんだ......。お大事にね」

 夜空さんの持つ穏やかさのためか、独特の居心地よさのためか、他の人には言いにくい話も、夜空さんたちには話すことが出来た。
「ケイさんは将来どう生きていきたいとか、ざっくりとした考えはあるの?」
不意の質問に思考が停止する。将来のことなど考えたことがない。できれば、考えないでいたかった。
「ざっくりしたことでもいいんだよ。結婚したいとか子供が欲しいとか」
「子供は......欲しくないですね」
「そうなんだ?」
「いやぁ、正直言うと、あんまり生きていきたくないので」
「えっ、そうなの......?」
私の言葉に、夜空さんは随分と驚いたようだった。画面越しにもわかるほど動揺している。
「それはどうして?」
「どうして......?生きていくのがしんどいからかなぁ。なんだか、もう疲れちゃったんですよね。二十歳になった時に、まだ二十年しか生きてないのかって、それの何倍もこの後生きていかないといけないことが苦痛に感じたんです。もういいけどなぁって」
「そっかぁ......」
やってしまっただろうか。正直に話してしまったが、場の空気を悪くすることになっただろうか。
「あのね、」
やや間をおいて次に口を開いたのは、黙って話を聞いていた、まいchanだった。
「私、病気のせいで中学校まともに行けなかったのね?それで、高校だけはどうにか卒業したかったの。でもやっぱり病気のこととかクラスメイトにはわかってもらえなくて......唯一仲良くなった子も高校中退しちゃったし」
でもね、とまいchanは続ける。その言葉に私は耳を傾けた。
「社会人になってから、今の彼氏さんにも出会えたし、その高校で仲良くなった子も、私の彼氏も、二人とも私のことを理解してくれてる。これってすごく幸せなことだと思う。だから、すぐには難しくても今は辛くても、ケイちゃんの苦しさが和らいで、楽しく過ごしてくれたらいいなって私は思うよ」
「......ありがとう」
まいchanの温かい心に触れつつも、すんなりと受け入れきれない自分に嫌気がさした。

 夜空さんのルームに入り浸るようになって、一週間ほど経ったある日。就寝前にdeep seaを徘徊していると、夜空さんがルームを開いた。二十三時には寝るという夜空さんが、零時前に起きているなんて。なんだか珍しいなと思いつつ、特に深く考えることなく入室した。
「あ、ケイさん......。こんばんは。マイク渡す?」
『はーい!もらいまーす』
「ははは、ノリがいいなぁ、ケイさんは」
素直にマイクを受け取る。コメントで文字を打ち続けるのはなかなかに面倒くさい。
「珍しいですね?こんな時間に」
「そうだね。ちょっと悩んでいることがあって......」
「そうでしたか」
「悩んでることについて話してもいい?」
「いいですよー」
「ありがとう。なんていうか、実は deep sea をやめようかと思ってね」
「え、なんでですか」
「......M姉には話したんだけど......」
私は黙って、次の言葉を待った。息をついてから、夜空さんは再び口を開く。
「『好き』がいきすぎると、反発して『嫌い』になるじゃないですか」
「ほう」
「相手の嫌な部分が見えちゃったりしてね。そういうことない?」
「まぁ、わかる気はします」
「でしょう?それが怖いんですよ......あなたのことなんですけどね」
「......え?」
なんだか衝撃的なことを言われている、ということだけは理解できた。追い付いていない思考を、冷静な自分が眺めている感覚。何を言っていいかわからず、私は口を動かせなかった。気まずいのか、さほど間を開けず夜空さんは話し始める。
「ケイさんとずっと話していたくて、このアプリに沼っちゃって。自分の調子も崩れちゃうなと思ったの。ケイさんも、ずっとここにいるわけじゃないでしょう?」
「まぁ、それはそうですけど」
「話も合うし、話していて落ち着くし、このレベルで馬が合う人は他にいないと思ったんだ。『生きていたくない』って、いつか言ってたでしょ。すごく頭が回って大人な反面、そういう弱い部分もあるケイさんを守ってあげたいと思ってしまったんだ。それに、『なんで僕の部屋にいてくれるのか』って尋ねた時、『居心地がいいから』って言ってくれたよね?それがずっと頭に残っていて......。ルームを開いてケイさんが来てくれないと、ヤキモキするようになっちゃって。M姉には、それは恋愛感情の好きなの?って聞かれたんだけど、僕はそうはしたくなくて。物理的距離もあるし、年も随分離れているし。......もう一つ、ケイさんの体調のこともあって」
「私の体調?」
「そう。こないだ部活の練習に行けなかったんでしょ?それって多分、僕のルームでお話してて疲れちゃったからだよね」
「それは......はい」
「でしょ?」
確かに、前日に長く話しすぎたせいで調子を崩してしまった可能性は否めない。少なくとも、寝るタイミングやお風呂のタイミングはずれてしまった。その影響が出たのかもしれなかった。
「だから、例えばだけどケイさんが僕を受け入れてくれるとしても、付き合わない方がいいと思うんだ」
それにね、と夜空さんは続ける。
「僕がいつ、また昔みたいに病気の症状が出ちゃうかわからないから、だから、僕はケイさんへの気持ちを恋愛の好きにしたくない」
「......そうなんですね」
相槌は打ちつつも、まだ頭は回りきっていなかった。自分にものすごく関係している話なのに、どこか他人事に聞こえる。
 チャット欄にM姉が入室したことを知らせるメッセージが流れた。
『こんばんは~』
「こんばんは、M姉」
『なんの話をしてたの?』
「私のせいで夜空さんがdeep seaやめちゃうって話」
『は?』
「違う違う!語弊があるよ」
 こんなときでも、私はふざけずにはいられない。もしくは、こんなときだからこそなのだろうか。
「僕がM姉に相談してる話」
『そっか』
「別のSNSに移行するのも違う気がして」
「そうなんですね」
『私は』
M姉がコメントを打つ。
『ケイちゃんの気持ちも大事だと思うよ』
「そうだね。ケイさんは、どう思う?」
私の番が来た。対面しているわけでもないのに目が泳いでしまう。いつかのように、慎重に言葉を選ぶ。
「究極的なことを言うと、私は子供は産みたくないです」
以前、夜空さんは子供が欲しいと言っていた。自分の遺伝子を残したいのだと。私では、それを満たすことはできない。
「そう言ってたね。とても衝撃的だったからよく覚えているよ」
「それに、私はサービス精神が旺盛だから、みんなにサービスしてあげたくなっちゃうんですよ」
「なるほどね。僕はそのサービスを好意だと受け取っちゃうからなぁ」
「......もしも、もっと違う出会い方だったなら、お付き合いしていたかもしれませんが」
「例えば、どんな?」
「同じ大学で出会うとか」
「そっか......」
ぽこん、とコメントが追加される。
『夜空さんは、結局ここをやめちゃうの?』
「私は、夜空さんがやめちゃうの寂しいです。お話はしたいから。この一週間は、ちょっと距離が近すぎたかもしれない。なので、これからは丁度いい距離感で、まったり話していくってことでどうですか」
「......そうだね。それがいいかも」
ほっと息をつく。とりあえず、夜空さんが今すぐdeep seaをやめてしまうことはないようだ。せっかくできた友人をなくしてしまいたくはなかった。
「さっきの話だけど」
「なんですか?」
「もしも、僕が若い時にケイさんに会ってたとしても、ここまで話は合わなかったと思うよ。三十五歳の今日まで、積み上げてきたものがあっての僕だから」
「......そうですね」
部屋が閉じられたあと、私はその日の出来事をあまり思い出さないようにして眠った。何も考えたくはなかった。

 その後も、夜空さんは今まで通りにルームを開いた。私も、変わらずそこを訪ねた。一つだけ違うのは、お互いに時間を気にするようになったことだ。夜空さんが早めにルームを切り上げるか、そうでなければ私が時間を決めてそこを立ち去った。これ以上関係を深めるつもりは、夜空さんにも、もちろん私にもなかった。

  ぱさり
  切っていたトランプが床に散らばる。ベランダの窓から照らす夕陽を、カードたちは無邪気にはね返していた。私はそれを拾うでもなくただ見つめた。手品の練習はやっぱり思うように進んでいなかった。自分が考案したため、ある程度頭に入ってはいるものの、スムーズに、何より面白そうに見せるには練習が必要なのはわかりきったことだった。なのに、身体が動かない。
  それでも約束の日はやって来る。同期の一人に自分の芸を見てもらう日だ。自分の尻を叩くために、私が頼んだのだ。私はなんとか服に袖を通し、身体を引きずって大学へと向かった。部室棟の二階にある奇術部部室の扉を開けると、もうすでに人の姿があった。同期の内海だ。
「こないだはごめんね、急にキャンセルして」
「ん?ええよええよ。わかってるから」
内海は手をひらひらさせて答えた。彼は私のうつのことも休学のことも知っている。それでもいままでと同じように話してくれるのはありがたい。
「それより、なんか大阪行くゆうてたやん。どやった?友達と会えた?」
「あー、行かなかった」
「そうなん?」
「うん。体調が悪くなっちゃって」
「そっかー。まぁ、そういうこともあるよな」
藤森は座布団に腰かけ、床に手をついてくつろいでいる。同じように座布団に座った私は、手元にあるトランプを持て余していた。なんとなく今は手品をしたくない気分だった。
「ねぇ、内海」
「どしたん?」
「今日はお話してくれない?」
「あー、ええよ」
内海は柔らかく笑った。
「今日はしたくないんやろうな、って思ってた」
「そうなん?」
「うん。だって、トランプ床に置いとるし」
思わず彼の指さす先に目をやる。クラブのジャックとは目が合わなかった。彼はいつもそうだ。私が隠せていると思っていることを、よく見ている。以前、一度手品を披露することをやめようとしたことがあった。このままだと他の部員に迷惑をかけてしまうと思ったから。その時、内海は考え直すように言ってくれた。
「だって、手品のこと話しとるときの蘆ヶ谷楽しそうやもん。俺らとかは別に迷惑に思わへんから、俺らのために言うてるんやったらやめんでいいと思う」
その時はまさに、自分が本番直前にドタキャンし、部員に迷惑をかけてしまうかもしれないことを憂いてやめようとしていた。事務的に処理せず、自分の気持ちを教えてくれた内海には感謝していた。今も、部活とは関係のない話を、面白おかしく話してくれている。晴れない気分のモヤモヤが、少しはましになる気がした。
「あの時は、ああ言ったけど」
不意に内海が真面目な顔になった。途切れた会話の隙間で、彼は丁寧に言葉を探す。
「蘆ヶ谷がもうやめたいと思うなら、やめてもいいと思うで。運営的には、日程が近くなってからキャンセルしても全然なんとかなるし」
「......ありがとう」
静かに言葉を返した。声が小さすぎやしないかと思いつつ、息を吸う。
「もう、やめたい」
「おっけー」
マスクで表情が見えにくいのがありがたかった。けど、正直なところ、内海も私のうるんだ目に気がついていたと思う。いい同期を持った、と心の中で独り言ちた。

「じゃあ、結局手品はやめちゃうんだね」
「そうですね。それと、再来週には実家に帰ることにします」
「実家に帰るなら安心だ。よかったよかった」
画面越しにコーヒーをすする音がする。私は性懲りもなく夜空さんの部屋に来ていた。まいchanが洗濯物を畳みながら話に加わる。
「でもさ、ちょっと残念だね。もちろん、健康が一番だけど」
「うん。できれば誰かに見てもらいたかった」
けれど、それは今ではないようだった。ただそれだけ。それだけのことだ。なんとなく話題を探していると、M姉が思い出したようにコメントした。
『あ、そういえばさ、ほっしーが今日来れるかもって』
「そうなの?」
『うん。仕事終わりに寄るってDM来てた』
ほっしーこと干しいもくんの名前は、たびたび耳にしていた。一体どんな人なのだろうか。仲良くなれるかという不安がないのは、ここがネットの空間だからかもしれない。
「M姉とほしくんは仲良しですねぇ」

 件の彼が姿を現したのは、まいchanがお風呂に行った後だった。
『うぃーっす』
「ほしくんこんにちは。こんばんはかな?」
『仕事終わり?』
『そう。マイクもらっていい?』
「いいよ。ちょっと待ってね」
干しいもくんのアイコンの下にマイクのマークがついた。それと同時に、若々しい声が聞こえる。その後ろでは、エンジン音とピッピッピという音がしていた。
「こんばんは~。車乗ってるんでちょっとうるさいと思います。ごめんね」
「まぁ、あんまりうるさかったら言うよ」
「ケイさんは、はじめましてかな?よろしく」
「よろしく」
「ケイさんはほしくんと同い年だよ」
「そうなんだ。じゃあ、タメでいくね」
「おっけー」
 それから、十五分程度他愛ない話をして、私はそのルームを去った。もう少しいても良かったけれど、夜空さんとの距離を一定に保つためなのでしょうがない。

 それから、私は干しいもくんともよく話すようになっていった。
「ケイさん、いらっしゃい!」
「あ、いらっしゃい」
『こんばんは』
今日も干しいもくんは運転中のようだ。こっそり彼の音量だけ少し下げる。
「俺も夜空くんみたいにケイくんって呼ぼうかな~」
「ケイさんは女の子だからね」
「え、嘘!本田圭?」
『サッカー選手ちゃうねん』
「違ったか。ごめんごめん。そうだ、なんか似顔絵描こうか?俺、絵得意なんすよ」
「え、顔知らないのに?」
「イメージで描く」
『じゃあ、描いてもらおうかな』
「オッケー。そうだな~。ケイさんは多分金髪で面長で、白眼が大きくて......しゅっとした顎してるかなぁ」
『それ本田圭やろ。ちゃう言うとるやんけ』
「へっへっへ」
『他人の決めた本田圭は本田圭じゃない』
「本田圭じゃん」
『他人の決めた本田圭ってなんだよ』
「知らねぇよ」

 夕飯を済ませ、洗い物を片付けた後、ベッドの上に置かれたスマホが鳴った。ロック画面のまま通知を確認すると、送り主は夜空さんだ。通知をタップし、そのままdeep seaに飛ぶ。
『心配で夜しか眠れないんだが、どうしたらいい?』
夜空さんがまた何かを心配している。この人はとても心配しいだ。本人によると癖のようなもので、関わった人誰にでも同じように心配してしまうらしい。私はいつものように、つとめて軽く返信した。
『夜寝とるんかーい。何が心配なんです?』
『酔った勢いなんだけど、君の生き方が儚くて三十五歳男性がほっとけない件』
『よっぱらいかー。まぁ、なんとか生きていきますよ』
『うーん』
『なんです?』
『なんか見捨てるみたいに受け取られるのが嫌でメッセージを送ったつもりなんだけど、伝わってる?』
『いや、なんのこっちゃわかりません』
『見捨てられる感覚がなかったならいいや』
経験上、こういう時は、何か話を聞いてほしい時だ。正直ここで話をやめてもいいのだが、私は文字を打つことを選んだ。
『夜空さんはそのうちdeep seaを卒業するけど、別に見捨てたわけじゃないんだからね!ってことですか』
『卒業するかどうかというか、人の人生に影響を与えるならちゃんと関わりたいのよ。それが怖くてね』
『なるほど?』
『まいchanには彼氏がいるし、M姉には旦那さんがいるけど、君にはどうなんだろうと思ってね。夜しか眠れんのだわ』
『うーん』
『たまに夕方も寝る』
『けっこう寝てるな』
私には頼れる相手がいるかどうかということだろうか。ここで誰もいないと答えたら、つけ入る隙を与えることになる。夜空さんのことは好きだけれど、だからこそ私に依存させてはいけない。働かない頭を無理やり回して返答を考える。
『私には私がいますよ。頼りにはならんけど、論理的に考えられる脳みそがあります。そいつのおかげでとりあえず休学の判断はできました。心理的に頼れる相手ってことなら、どうなんだろう。薄く広く頼っていくしかないのかな』
ここで一度文章を切った。返信はまだない。嘘ではないし、ある程度の線を引いていると捉えられる内容だろう。隙はないはずだ。
『こういうところが心配です?』
『よくできた頭をしている分、弱音はどこで出してるのか気になる。泣くことはあるの?』
『ありますよ』
『見せないからさ。そういうとこやぞ』
『弱音はゴミ箱の中に』
『まぁ、泣くほど辛い時の対処法があるのは
いいけど、泣かないで済む方がいいなと思ったよ』
『それはそう』
『一人暮らしで実家に帰るのはとても安心な反面、社会的な繋がりが減るのは不安』
『それは確かに。ただ、今もそれほど友人と会うわけではないし、頻繁に連絡をとっている人たちもいるのであんまり変わらないです。多分』
『おけ』
『納得?』
『たぶん着地点はないから。僕の思い込みの問題だし』
『それは思ってました(笑)どこに行きたいんだろうって』
『何かできると錯覚してる。それだけ』
『眠れます?』
『うーん。明日起きれるかな』
『寝すぎ?』
『二十七で社会人になって、すぐ働けなくなって、バイトも大学院もパートもダメになって、今ようやく働き出すけど、僕は自分の気持ちを相手に伝えるの下手くそだったから苦しんでた。相談できる相手がいるならきっと君は平気』
『いぇーい』
『君はミステリアス。未知なるモノへの探求心を刺激されます(笑)』
『よく見てみれば、なんてことのない一人の人間にすぎませんけどね(笑)』
『そうかもね。ただ、僕の部屋が居心地よかったと言ってくれたので、不思議だなと思いました』
『そうでしたか』
『それでこうなっちまったんだなぁ(笑)』
メッセージに既読をつけて、スマホの画面を閉じた。そのままそれを枕の下に入れる。なんだか疲れてしまった。もうお風呂に入ってしまおう、そんな気分だった。

 deep seaはフォローしているユーザーが開いたルームだけでなく、そのユーザーが参加している部屋も表示する。その夜は、干しいもくんと夜空さんが同じ部屋に入っていた。夜空さんが他の人のルームに入っているのは珍しい。干しいもくんもいるなら知り合いの部屋だろうか。タイトルは「麻婆豆腐を赤くするぞ」となっていた。特に深く考えずにその表示をタップする。まず聞こえてきたのは、干しいもくんの声と夜空さんの笑い声だった。
「あ、ケイちゃん!助けてよ。俺らじゃ、ハルトくんを止められないよ」
「はっはっはっはっは」
「僕を止めるって何?」
『こんばんは。どういう状況?』
マイクを持っているのは部屋主のハルトさん、干しいもくん、夜空さんの三人だった。ハルトさんの音声には、ジュウジュウと何かを炒めている音が混じっている。
「ニラ玉を作ってます」
「ハルトくん、本来卵三つでいいところを六個いれてんの!俺らが止めなかったら、九個いれるとこだったんだから!」
「だって卵の賞味期限がせまってるんだもん。ホントは十個使いたい」
「でも、そのレシピは三個でいいんよ!」
『九個は......多いな』
「俺と夜空くんは料理しないから、ケイちゃん助けて!自炊するでしょ!」
『麻婆豆腐作るんじゃないん?』
「あぁ、それはこのあと作りますよ」
『豆腐は掌の上で切るんですよ』
「あ、聞いたことある~」
「いらんこと教えないで!」
 ハルトさんは、二十五歳社会人で、仕事が終わるのが随分と遅くなるらしい。なので、お休みである月曜日に一週間分の作り置きをしているのだそうだ。やわらかな喋り方とは裏腹に、かなり大雑把な性格のようだった。
「ハルトくん、前にブロッコリーを液状化させたことがあるからねぇ」
『どういうこと??』
「ほうれん草もさせたよ」
「初耳なんだけど」
 ハルトさんが麻婆豆腐をつくるのは今日が二回目らしく、今回はリベンジと言うことだった。前回はなぜか黄色い麻婆豆腐ができあがってしまったらしい。前回の作品を見せてもらった。申し訳ないがとても食べ物には見えなかった。
「前回はねぇ、多分豆腐が多かったんだと思うんだよねぇ」
「うんうん」
「前回一丁だったから、今回は二丁入れます」
「なんでだよ!」
「あ!キムチとか入れたら赤くなるんじゃない?」
「絶対やめて!!!」
 結局その日も麻婆豆腐は赤くならず、黄色いどろどろとした何かが出来上がった。「豆腐の味がしておいしい!」と本人が言っているので、問題はないのだろうが。
 その後、ハルトさんの部屋は寝落ち部屋となったらしい。そこまで付き合う気はなかったので、退出して眠りについた。

 別の日の朝、ハルトさんの部屋に行くと、ハルトさんともう一人、こけしさんという人が寝落ちしていた。どちらも起きる気配はない。コメント欄には干しいもくんがとM姉がいる。
『ケイちゃん!』
『おはよーん』
『ほしくん、M姉おはー』
『ハルトくん起きないんだよ!マイク自動付与じゃないし、あと十五分で起きる時間なのに!!』
『マジか(笑)』
『起こしてって言ってたのにねぇ。どうしようか』
『こけしちゃん寝息かわいー!』
『言うてる場合なん???』
『最悪LINEするか。俺ハルトくんのもってるしな』
『ほな、ええか』
『ハルトくん、ほっしーの通知オフにしてるらしいよ』
『なんで!!?』
『日頃の行いやな』
『今困るのはハルトくんでしょーが!!』
結局、ハルトくんは自分でアラームをかけていた。少し考えてみればそうである。相手は成人男性なのだ。我々がコメント欄でぎゃあぎゃあ言っていたのは、騒ぎ損だったというわけだ。寝落ち部屋の洗礼を受けたのかもしれない。

 いろいろな人と知り合う一方で、私と干しいもくん、まいchanは急速に仲を深めていった。同い年ということもあり、何でも話すことが出来た。LINEを交換し、長時間グループ通話をすることも増えていった。
 ある日の通話中、私が席を外した後、戻ってくるとYouTubeの動画が共有視聴されていた。干しいもくんの好きなバンドのライブ映像だ。それをBGMに干しいもくんは何かを話していた。
「それでさ、母さんが言ったんだよね。『大丈夫だよ、お兄ちゃんは絶対戻ってくるからね』って。それから、俺は母さんと抱き合って寝た」
時折、鼻をすする音が聞こえる。まいchanが泣いているのだろう。干しいもくんは話し続ける。
「夜空くんの話聞いてても思うけど、そりゃ病気になってる本人も苦しいと思うよ?でもさ、その家族だって苦しんでるんだよ。本人が暴れてなくした記憶を、その家族はなくさず持ってる。少なくとも俺はそう」
曲が終わり、動画の共有が停止された。まいchanが泣いている音だけがスピーカーから漏れる。
「ま、俺の兄ちゃんは寛解したからもう大丈夫なんだけどね」
「うん、そうなんだ......」
「ケイちゃん、おかえり」
「......ただいま」
「ごめん、私抜けるね」
「うん、またね」
「またね~」
まいchanが抜けた後、数秒間沈黙が流れた。なんとなく気まずい雰囲気が抜けない。
「二人っきりになっちゃったね!」
「語尾にハートをつけるな」
空気を変えようとしているのが伝わる。干しいもはこういうやつだ。彼の調子に合わせてやる。まいchanのことは心配だけれど、「この二人の間のことだから多分大丈夫」という根拠のない確信もあった。それくらい、私たちは何でも言い合える仲になっていた。

 十一月が過ぎ、風が一層冷たく吹き付ける十二月がやってきた。実家に帰ってからは、家族の前と言うこともあり、deep seaを開く機会も減るだろうと考えていたが、実際のところはむしろ開く回数は増えていた。今まで、まいchanがルームを開く昼過ぎから、夜空さんが部屋を閉じる夕方ごろまでがアプリを開いている時間だった。それが、夜に自分でルームを開くようになり、昼前にはM姉が開いたルームを訪ねることもあった。特に、専業主婦のM姉と、一日中家にいる私は必然的によく話すようになった。それとは対照的に、夜空さんは就職活動の方が忙しくなり、浮上する日が少なくなっていった。
  また、私は暇な時間を活用して、毎日一枚イラストを描くようになった。描いたイラストはdeep seaに投稿していた。少しずついいねが増え、そこからフォロワーが増えることもあった。
「ケイちゃんの絵かわいくていいよね!」
「まとめて絵本にしてほしいくらい」
「ありがとう」
ハルトさんやこけしさんのルームに行くことも増え、人と話す機会に溢れていった。

「お疲れ様でした~」
「お疲れ~」
 職場の人に挨拶をし、駐車場へ向かう。ポケットの中で車のキーがジャラジャラと鳴っている。自分の足音が霧散していくのを聞きながら、干しいもこと諸星楓《もろほしかえで》は車に乗り込んだ。いつもなら知り合いのルームに顔を出すのだが、今日はなんとなくそんな気分にならなかった。代わりにamazarashiのメドレーを流す。残業のために、いつもより遅い時間になってしまった。辺りはすっかり暗くなっている。対向車のヘッドライトが眩しい。
  途中でコンビニの駐車場に車をとめ、煙草に火を点けた。肺があまり丈夫ではないのだが、どうしても吸いたくなる時がある。
  コンビニから、親子連れが出てきた。母親が両手で片方ずつ兄弟の手を繋いでいる。家族は一つ向こうの車に乗り込み、そのまま姿は見えなくなった。
  その光景を見て、ふと昔の記憶が蘇った。夜中に聞いた、母親のすすり泣く声。滅茶苦茶に荒れた家の中。脳裏をよぎる心中の二文字。灰皿に煙草を押しつけ、火を消す。火は消えても匂いは消えない。吐いた煙は空気に薄まるだけだ。再び家路に着こうとしたとき、ピロリンとスマホが鳴った。M姉からのメッセージだった。
『ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?』
特に深く考えることなく、いいよと返す。そのままスマホを閉じ、車を走らせた。

 十二月二十四日の朝、M姉からDMが届いた。
『ケイちゃん、相談したいことがあるんだけど、時間がある時に話せるかな?』
午前十時半、招待された非公開ルームに入る。軽い挨拶と共にマイクをもらい、こちらもいつも通り軽く返す。
「で、ハルトくんのことなんだけどね」
そうだろう。予想はついていた。以前も私はM姉からハルトさんの話をされていた。その時は、M姉とハルトさんが最近仲良くしていて、二人で寝落ちすることもしばしばあるというだけだった。一週間ほど前には二人でカラオケに出かけている。その時の写真を見せてもらったが、随分と距離が近いなと思った。悪い事は何一つないが、何かあったとしたらここだろう。
「実はね、こないだカラオケ行ってたじゃない?その時ね......あ、言っとくけどしてはないわよ?私も旦那さんがいるし、裏切るわけにはいかないから。でも、まぁキスはしたわけよね。向こうからしてきたのよ?そりゃ私からもしたけど、小鳥がさえずるようなやつよ。ディープキスは流石にやめさせたけど......まぁ、あとはハグしたり頭撫でたり、指を舐められたりしたわけね?」
「はぁ」
ハルトさんとM姉はどうやら危なそうな関係にあるようだ。今度の月曜日に映画を観に行く約束もしているらしかった。
「けど、今朝こんなDMが届いたの」
それは、ハルトさんがM姉に謝罪をしている文章だった。
『こないだのこと、キスをしたことは謝ります。でも、僕はMさんのことは恋愛対象として好きなわけではありませんでした。僕には他に好きな人がいます。でも、Mさんに言ったら傷つくと思ってなかなか言いだせませんでした。映画のことはなかったことにしてください』
「どう思う?」
「どうっていうか......えぇ?」
「まるで私だけがハルトくんのこと好きみたいじゃない?確かに何回か好きとは言ったよ。でも、それは後輩に言うような好きだし、なんだったら犬に対するような好きだから!それに......」
M姉の話はたっぷり一時間半続いた。本人もまだ頭の中を整理できていないのか、ぐるぐると同じ話を繰り返していた。なんだか気分が悪くなってきた私には、十二時を知らせる鐘がありがたかった。
 夜に開いたルームでもその話は続いた。私とM姉に、干しいもも加わって、ハルトさんの話をしていた。主にM姉と干しいもの二人が
話をして、私はそれを聞いているという感じだった。
「まぁ、でも話聞いてっとハルトくんきめぇよ。おばさんの指舐めて何が楽しいんだよ」
「問題はそこなのか?」
「私はおばさんじゃない」
「自分が悪いことしたんなら、きっちり謝れよな~」
「キスも彼からしてきたからねぇ」
「ありえねぇよ、まじで」
「そうねぇ......」
話はぐるぐるとまとまらない。ただただ愚痴を聞くだけの時間は正直しんどい。さりげなく流れを変えようとしても、そのことしか考えられないのだろう、すぐに話を戻されてしまう。初見の人が来てしまわないように、タイトルを「友達限定になってしまったルーム」に変えた。頭の中のいくつかのスイッチを切り、ただ時が流れるのを待った。
 ピンキー伊藤が入室しました、というアナウンスが流れる。ピンキー伊藤は最近ハルトさんの部屋で知り合った子で、十九歳の女の子だそうだ。私たちはピーちゃんと呼んでいた。彼女もこの話に多少関係しているという話だった。ハルトさんのルームに入った時、一度だけ退出させられたのだとか。その時、ハルトさんは誰かと話していて、わざと退出させたようだったため、ピーちゃんとハルトさんの共通の知り合いである私、あるいはM姉の悪口を言っていたのではないか、とM姉にDMしてくれたらしい。
『ハルトなんか悪いことしたの?』
「いや、悪い事したっていうか......ライン越え、だねぇ」
『何したん』
「いやぁ、十九歳にはちょっと話せないかなぁ......ははっ」
『はなせ』
「うーん」
「軽く話そうか」
「そうねぇ。まぁ、カラオケでMちゃんがキスぅされたっていうね。他にもいろいろ......」
『っくす?』
「それはしてない!!」
「むきになると怪しいって」
「こけしちゃんにも相談したんだけど、ハルトくんはキスしたことを謝ってるんだから許してあげたらどうですかって言われてさ」
『こけしはハルトの話聞いたの?』
「そうらしいよ。どっちの話も聞いてるみたい」
『干しいもとケイは?』
「俺たちはMちゃんの話しか聞いてない」
『そんなの両方の話聞かないとわかんないじゃん。Mもそんときはノリノリだったかもよ?』
「まぁ、そうなんだけど。俺ら愚痴聞いてただけだし」
『まともなのこけしだけだよ』
『みんなおばかさん』
「そうだねぇ、うーん」
『ねぇ、五人で話し合いなよ』
「いや、そういうことじゃなくない?」
「うーん」
各々が各々の話をしている。全員が別の方向を向いているようだ。自分だけ置いてきぼりになっている感覚がする。もう話す気もなくなって黙っていると、ピーちゃんからDMが届いた。
『ケイはどう思ってるの?』
『ハルトさんの話も聞かないとわかんないとは思ってるよ』
『こけしに相談したら?』
『そうしようかな』
文面とは裏腹に、私は正直どうでもいいと思っていた。早くこの時間が終わってほしい。誰でも入ってこられる場所で、知人の話をされているのは居心地が悪かった。しかも、ここは私のルームだ。閉じる以外の逃げ道がない。ピーちゃんが抜けた後も、しばらく愚痴大会は続いた。しかし、流石に二人とも少し疲れてきたようだった。
「もう十二時ですし、お開きにしましょうか」
「......そうだね」

 その時、ハルトさんが入室しました、というアナウンスが流れた。続いてこけしさんも入室する。その一瞬で空気が凍った。コンマ五秒、誰も反応できないでいる。
「あ、ハルトさん、こけしさん、ごめんなさい。今閉じようとしたところなんですよ~」
赤いマークが表示される。ハルトさんがマイクを申請しているのだ。続いて、こけしさんも。思考が停止した私は二人ともにマイクを渡した。誰も何も言わない。緊迫した空気の中で声を上げたのは、こけしさんだった。
「正直に思っていることを言い合いませんか」
彼女には珍しく、語気が強い。興奮しているのを抑えているようだ。
「私はハルトくんとMさん両方の話を聞いているので、中立的な立場ですから。貴方たちみたいに仲良しこよしじゃないので」
その台詞を聞いた瞬間、自分でも驚くほどすらすらと、言うべき言葉が浮かんだ。
「じゃあ、正直なことを言わせてもらいますけど」
つとめて冷静に、しかし声が消えいらないように、息を吐く。自分の心拍数が上昇しているのを感じていた。
「私は明日予定があります。だから、もう寝たいんですよね。このルームは閉じるので、話し合うなら他でどうぞ」
「......はい」
「では、閉じます」
音声ルームが閉じられました、という文言が液晶画面に表示される。まだ鼓動が耳に響いている。ゆっくりと深呼吸をして、deep seaを閉じる。LINEで干しいもに「ごめん」とだけ送った。

 その日の夜は眠れなかった。こけしさんの声が頭の中で木霊する。私たちがしたことはいけないことだっただろうか。あれ以外、どうすればよかったのだろう。まとまらない思考と対照に、目は冴えきって眠れない。一時間ごとにスマホを見ては、時間を確認した。五時頃にLINEを開くと、干しいもからメッセージが届いていた。
『ええんやで。大丈夫か?』
『どうする?通話するか?』
干しいもの優しさに涙が出そうになる。時間も気にせず、する、と返信した。三十分ほど経って、さらに返事が来る。
『じゃあ、今から話そう』

「おはよう」
「......おはよう」
「大丈夫?」
「大丈夫に聞こえるか?」
「知ってた」
「さすが」
「いやぁ、昨日さ、ハルトくんの話聞いてきたのね」
「うん」
干しいもは、ハルトさんから聞いた話は干しいも経由で私に伝えてもいいと承諾を取っていることを説明した。これから聞く話には、多少彼の主観が入っているだろうことを私は考えた。
「五分五分......いや、六分四分?くらいかな、悪いのは」
「ほう?」
「あのねぇ......しっかりMちゃんもわりぃじゃねぇかよ!!って感じ」
「あらあら」
「キスはハルトくんからされたっつってたじゃん?Mちゃんかららしいよ?それにLINEの内容もさぁ......」
M姉はLINEやDMなどで事あるごとにハルトさんに好きと送っていた。スクショを見せてもらった干しいもくんによると、とてもじゃないが後輩に対する好きには見えないとのことだった。
「しかも、ふろっ......あ、いやこれは......」
「あぁ、もういい、もういい。察したわ」
「うん。......あと下着姿とか、十枚くらいばばばって送られてきてた」
「M姉......」
ピーちゃんの言う通りだった。M姉の話とハルトさんの話は随分食い違っている。話だけのM姉と画像を見せたハルトさんでは、第三者の印象が違う。もちろん、どちらも自分に都合の悪いことを話していない可能性もある。意図的か無意識かは関係ない。どちらにせよ、一方が悪いというような、簡単な話ではなかった。
「マジ、いい大人が何やってんだって話」
「とばっちりだったね」
「こけしさんもさ、中立とか言いながらハルトくん側なんだろうとは思ってたけど、『よってたかってハルトくんを潰そうとしてる!』とかさ、まじでないよな。相談されてたから聞いてただけだっつの」
「......あの時、もっと早めにルーム閉じればよかったね」
「いやぁ、俺も話の流れ変えられなくてごめんね」
そんなことないよ、と言いたかったが、声はかすれて音にならなかった。
「結局、今回のジョーカーはピーちゃんだったってわけよな」
「そうなん?」
「そう。ハルトくんとこけしさん呼んできたの誰だと思う?」
「なるほどね」
「ちょっとこれはもう、俺の中で二人のランクは下がるな」
「こんなことがありゃね」
「大丈夫か?元気ないな???」
「ないわ。昨日寝れたと思うか?」
「思わないから連絡したんだろうが!!」
「ありがとう!!!ごめんて!!」
「仕方ねぇなぁ。なんか送ってやるか」
「いらんいらん!」
「やっぱねぇ、アタッチメント十個ぐらいついたねぇ......」
「何送ろうとしてんだよ」
「え、ディルド」
「何送ろうとしてんだよ!?」
「あとはねぇ、ぐるぐるぐるっていぼが回る、ローションつけれる......」
「もういいもういい!!」
ぎゃいのぎゃいの言いながら、朝の六時から八時までくだらない話をした。こうして、とんでもないクリスマス・イヴはようやく明けたのだった。

 数日経ち、私は久しぶりにdeep seaをタップした。夜空さんの音声ルームをのぞく。
『こんにちは』
「あぁ、ケイさん、こんにちは。お久しぶりですね」
『そうですね』
「ちょっと忙しくてあんまり来られなかったからねぇ。あ、よければマイクどうぞ」
「こんにちは」
「こんにちは。なんか元気ない?」
「まぁ、いろいろあって......」
迷いつつ、M姉とハルトさんに何かあったということだけ伝えた。
「そっか。あの二人がねぇ」
「そうなんですよ」
「いやー。ちょっと距離が近い感じはしてたんだよねぇ。近づきすぎて反発しちゃったのかなぁ」
私は特に訂正はしなかった。この話をこれ以上続けたいとも思っていなかった。
「この話は、まいchanには内緒にしてほしいんです。干しいもとも話して、そうしようって決めたから」
「そうなんだね。分かった」
そう言うと、少し間をおいて夜空さんは笑った。
「ほしくんと随分仲良くなったね」
「え?」
「干しいも呼びになってる」
「あぁ」
「まいchanとも仲が良いみたいだし、安心だなぁ」

 しばらく見ていなかったDMを開く。M姉からのメッセージが一通だけ来ていた。随分と長文だったが、要約すると「この間はごめんね。これからは迷惑かけないから安心してね」ということだった。可愛らしく返信をする元気もなかったので、女の人が腕で丸を作っている絵文字だけ返した。
  
「そういえばさぁ、Mちゃんから『なんかケイちゃん返事冷たかったんだけど、大丈夫?』とかって連絡来たんだけど」
「えぇ?」
「最近MちゃんからめっちゃLINE来るんだよなー。勘弁してくれよー」
「疲れてんだから許してくれよなぁ」
「佳奈ちゃんがルーム開くとさぁ、ハルトくん来んじゃん?よく来れるよなーって思う」
「悪い事したと思ってないんだろ」
「え?でも、二人で話した時『関係ないケイちゃんを巻き込むな!』って怒ったら『それはマジでごめん!謝っとく!!』って言ってたよ?」
「謝りますとは言ってたけど、謝ってはなかったよ」
「そうなのか......」
「嫌味はしっかり言っておいた」
「言ったんだ......」

 それから、私はハルトさんの部屋にもM姉の部屋にも行かなくなった。数日してM姉はdeep seaを去った。夜に自分でルームを開かなくなり、まいchanや干しいもと話す時間が増えた。干しいもとは一対一で通話することもあった。干しいもはハルトさんとも、M姉とも問題なく接しているようだった。
  
  ピロリン、というLINEの通知で目が覚める。通知が光るのはグループLINE、差出人は干しいも、送られてきたのは朝日の写真だった。クリスマス・イヴを一週間が過ぎ、今日は一月一日。時間は午前七時一分前。そういえば、元旦には初日の出を見に行くと言っていたっけ。
『綺麗!』
既読が一つ付き、続いて個人の方にメッセージが届く。
『電話する?』
『いいよ』
のそりと布団から起き上がり、電話がかかってくるのを待つ。ほどなくして着信があり、緑色のボタンをタップすると自分の顔が映った。すぐにカメラをオフにする。
「おはよー」
「おはよう。ビデオ通話ならそう言ってよ」
「わりぃわりぃ。見て?○○湖来てんだけどさ、綺麗だべ?」
「写真のとこね。綺麗やな」
「いぇーい」
「なんでカメラ反転させんねん。干しいもの顔は別に見たないわ」
「なんでだよ」
ビデオ通話越しなので画質は悪いが、確かに綺麗な日の出だった。テレビ以外で初日の出を見たのはこれが初めてではないだろうか。水面が柔らかな陽の光を静かに反射している。その光景になんとなく穏やかな気持ちになった。相変わらず液晶越しではあるけれど、同じ景色を共有している。
「ちょっと俺あそこまで走ってくるわ」
「なんで???」
「はっはっはっ」
「マジで走るじゃん。画面が揺れる」
「夕陽に向かって競走だ!」
「それ朝日なんよ」
しばらくどたどたと走っていたが、飽きたのか速度を落とし始め、またゆっくりと歩き始めた。
「まいまいはまだ寝てるかなぁ」
「そうやろうな」
「佳奈ちゃん起きててよかったわー」
「ありがとな、諸星くん」
「ほしくんって呼んでよ」
「おい、そこのイモ」
「んだと、おい!」
ひとしきり笑ったあと、ふと思い出したように干しいもは言った。
「そういえば、Mちゃん転生したんよ」
「あぁ、そうなん?」
「そう。そのうち会うんじゃない?」
「......複雑」
「まぁそう言ってやるなって」
ともかく、新しい一年はこうして始まったのだった。

 正月が終わり、世間が仕事を始めた頃、私は再び自分でルームを開くようになった。「みchan」という名前で活動を始めたM姉も私のルームに来るようになった。ただし、マイクは渡さない、チャット参加のみという約束をしていた。私の中で、気持ちの整理がしきれていなかったためだ。私のルームに来ることは拒まなかったが、自分から彼女の部屋へ行くことはないままだった。干しいものLINEにはやっぱり沢山のメッセージがみchanから届くようだ。そんな話を聞くたびに、表面上は何事もないかのように過ごす干しいもと、わかりやすくみchanと距離を置いている自分との差が気になった。人は誰しも間違うことはある、そう思ってみても、みchanと何もなかったように接することは出来なかった。私だって人として生活する中で失敗したことがないわけではないのに。みchanのことを許せないでいる自分は潔癖なのだろうかと考えたりもした。

 みchanが私のルームに来ると、困ることが一つだけあった。時々ハルトさんとみchanが鉢合わせるのだ。そんな時に何もしらないまいcahnもいると、変に緊張してしまう。どうしようか考えた挙句、私はまいchanに二人のことを話すことにした。干しいもには内緒で。

「なるほどね、あの二人の間でトラブルがあったんだ」
「そうそう。あんまりその内容までは言いたくないんだけどね」
「いいよいいよ。話したくないことは聞かない。気になりはするけど」
まいchanに詳細を話さなくていいのはありがたかった。なんだか告げ口をしているようで気が引ける。
「あーでも、それ聞いといてよかったなぁ。知らなかったら、地雷とか踏んでそうだもん」
「そうだよねぇ。ちょっとヒヤッとしたことがあったからさぁ」
「うんうん。ありがとねぇ」
「そう、それでね。干しいもとは、まいchanにはこのこと言わないって約束してたんだ。だから、干しいもにはこのこと内緒にしておいてくんない?」
そう言うと、まいchanは少し考えて、うーんとうなった。
「それは、正直に言った方がいいと思う」
「そうか」
「うん。私たちの間で隠し事はしたくないし、それで私たちの関係までぐちゃぐちゃになったら嫌だよ」
「......確かに」
「でしょ?しかも、私たちの中じゃなくて、外側に原因があるのに」
「それもそうだね。私から言っておくよ」
「うん。そうしよう。ありがとね」

 次の日、グループ通話に参加すると、もうすでに二人が喋っていた。
「あ、佳奈ちゃん!話全部聞いたよ~」
「あ、そうなん?」
「マジでどっちもキモイ!」
「舞衣ちゃんはっきり言うのよ」
「おう、さすがやな」
「いい大人じゃんね~。ほしくんも佳奈ちゃんも巻き込まれていい迷惑だよ」
「いや、本当に。佳奈ちゃんなんてだいぶダメージ負ってたからね。苦労したんだから!元気出させるのに」
「その節は大変お世話になりました」
舞衣ちゃんの選択は正しかったようだ。干しいもに隠し事をしなくてよかった。結局すべてを話すことになってはしまったけれど。
「でね、私deep seaやめようと思う」
「そうなの?」
「うん。私はほしくんと佳奈ちゃんみたいにとりつくろえないから......。しかも二人ともいない時に会っちゃったら、自分の中の嫌な感じを無視できないと思うんだよね」
「なるほどね」
「だから、うまいこと言ってやめるよ」
「うん。分かった」
「ま、LINEで俺らは連絡取れるしね」
「そだね」
「またこうやってて話そうね」
 数日後、まいchanはdeep seaをやめた。まいchanはM姉とハルトさんの行動を知って、今までと同じ目では見られなくなったのだろう。そのことを知って私は少し安心した。距離をとることも一つの選択だと思えた。自分が二人と距離をおきたい気持ちは意地悪な感情ではないのかもしれない。
  しばらくして、みchanとハルトさんはそれぞれ別のタイミングでdeep seaを去った。私も干しいもも、新しいコミュニティを形成していた。それとは別で、まいchanを含めて三人で話すことも続いている。

 三月のはじめ、復学の一ヶ月前に、私はdeep seaを退会した。日中は暖かいものの、日が落ちた後はまだ冷え込む時期だった。アプリをアインストールしながら、一つ息をつく。この四カ月程でたくさんの人と出会い、そして別れた。随分と密度の高い時間だった。学んだことも、傷ついたことも、救われたこともあったけれど、総合して考えると悪くはなかったような気がする。もっとも、そう思いたいだけかもしれないが。もう「ケイ」ではない私は、スマホを閉じて部屋を後にした。朝ごはんを食べなくては。
「バイバイ」
 もう、この海に沈むことはない。そんな気がした。


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