半径五キロ圏内

スニラ



〈孤独のマカロン〉

 最近自転車を買いました。
 茶色いミニチャリ、私の相棒です。最近はこいつと共にこの街をウロウロするのがブームです。
 その日はイオンに行きたかったのです。大学の近く、飲食店が立ち並ぶ大通りから小さい小道を進み、少し住宅街の方に行きました。どこも似たような家ばかり、道ばかりなのでGoogleマップを見ながらペダルを漕ぎます。すると前方、軒先には色褪せたピンク地に「洋菓子 ハート」と淡い黄色で書いてある。
 いいね、いいね。気持ちはすっかり井之頭五郎です。
お腹が空いていたわけではありませんが、夜のおやつに何か買って帰りましょう、とお店のドア取手に手をかけます。白いアルミサッシの引き戸がなんともレトロ。味は普通なんだろうなぁ。
 意外にも店内はおしゃれ。オレンジ色の裸電球が一個吊り下がっていて目の前のショーケースを中心に照らしています。壁に飾ってあるドライフラワーも、ミルクの漆喰壁も最近よく見かけるナチュラル嗜好な内装です。
 いらっしゃいませ。
 店主のお兄さん。ケースで並ぶケーキや焼き菓子は彼が作っているのでしょう。白いコック服がお似合いですが、キリッとした細眉や、特に丸坊主にしているのがテレビで見た寿司職人とそっくりに見えました。
 私は軽く会釈をして、ショーケースに並ぶお菓子たちと説明書きをじいっと見つめます。
 真っ白で濃密なホイップの台座に輝くいちごが鎮座するショートケーキ。
 「喜び こだわりいちごとホイップ、シンプルなショートケーキです。500円」
 じゅわっとバターが口に広がりそうなのが一目で分かる、てかてかマドレーヌ。
 「楽しみ バターとクリームたっぷりのマドレーヌです。オレンジブロックが爽やかアクセント。 300円」
 大きめフィナンシェの「期待」、真っ黒ガトーショコラの「不安」、太巻きロールケーキの「和み」、なるほど、そういうコンセプトってわけですか。
 私はフィナンシェの列の横にある、白い布に覆われた列にも、説明書きがあるのに気づきました。
 「悲しみ 一人で食べてください。可愛いマカロンです。200円」
 私は案外マカロンというやつが好きです。
 すみません、このマカロンってまだありますか?
 店主はにかっと白い歯を見せて、ありますよ、と言いました。これはね、と店主は続けます。これはね、「悲しみ」なので、誰にも見せないでひっそり食べてください。あなただけのものですから。
 私はなんと返答していいかも分からず、気をつけます。とだけ答えて、一瞬の間。ハッとして、一つくださいと言いました。それからマドレーヌと、ガトーショコラもひとつずつ。
 店主はクリーム色の四角いお盆に、でっぷりしたマドレーヌと、どこかコンクリートのような無機質さを持つガトーショコラと、マカロンが入っているのであろう青いリボンを巻いた不透明の白いラッピングバッグを乗せて見せて、これでいいですね? と言いました。はい。と答えると、それらは一瞬で白いケーキボックスに包まれて、気がつけば私は手にケーキを持って外に出ていたのでした。
 私は自転車を漕ぎ出しました。再び住宅街の中を走ると、まだ冷たい風が顔に当たります。先ほどの洋菓子店でのことを思い返していて、何もかもチグハグな店だったなぁと感想を抱きながらぐんぐん、ぐんぐん漕いで、私はイオンを目指しました。
 陽が暮れる頃、家に戻りました。最近は陽が落ちるのが少しばかり遅くなっていて、これから季節が変わりゆくのが予感できます。カシャン。自転車の鍵を引き抜いて、階段を登って、ドアの内側へ。すると堰を切ったように疲れが身体中に広がり、とにかく足を休めろと体がうるさいために、私は荷物をそこらに放ってベッドに倒れ込みました。
 私はふとマカロンのことを思い出しました。手軽に何か食べたくなりました。
 上体を起こして、体が小刻みに震えるくらい手を伸ばしたらようやくケーキボックスに手が届きました。膝の上にそれを置いたら、白いラッピングバッグを取り出します。針金の通った青いリボンを何度も捻って解いて、そぉっと中に指を入れました。
 「悲しみ」と名付けて中身が分からないようになっているのですから、それは凄いものが出てくるのでしょう。指にさらっとした表面が触れます。
 そこから出てきたのは、鮮やかな青いかたまりでした。アメリカのような色彩センスと言いましょうか、青い食用色素が存分に活用された食べ物とは思えない人工的な青をしています。形も何か特別な風ではありません。白十字だとか不二家だとか、そんなところで見られる普通さです。情趣がないと言うか、とってつけたようなイメージと言うか、そんなものを「悲しみ」と表してしまうのかと貶してしまいそうなのをなんとか止めます。
 これは食べ物ですから、一番大事なのはやはり味。甘味が付け入る隙のない苦さだとか、複雑さだとかそういうプロにしか出せない驚くようなものがあるのでしょう。だって。私はあの洋菓子店の店主のことを思い浮かべました。あんなに意味深そうに一言添えて、あんな住宅街にポツンと店を構えて、何か特別なこだわりのありそうな見た目をしていたのです。
 私は目を瞑って、一口いただきます。
 ほろほろとした生地が口に含んだ途端溶けていきます。間に挟んであるのはホワイトチョコのガナッシュでしょう。柔らかい舌触りの後、残るのはただ甘味だけ。もう一口。もう一口。マカロンはすぐにお腹の中に消えました。
 テレビをつけます。NHKは夕方のニュース。SNSを見ます。何かまた、喧嘩が起こっているようです。それには飽きたのでパズルゲームをしてライフを使い切りました。
......。
......普通だったなぁ。
私はぼんやり、そんな風に思いました。


〈普通の夜〉

 今日は近くのセブンに来ました。もちろん相棒と一緒です。茶色のミニチャリ今日も元気いっぱい、ブイブイ言わせています。
 目的は提出資料のプリントです。我が家にはプリンターがありませんから、手書きで資料を作れ、などと言われると印刷の一手間はコンビニに行かなければなりません。労働活動をする申請のための提出資料なのに、どうしてこんなに動いて準備しなければならないのでしょう。これにも賃金が発生して欲しいものです。
 しかしその目的も終わりです。すっかり日が暮れているのに外に出ているのは、いつぶりでしょうか。急な資料提出の要求はこの世から滅ぶべきです。
私はそう思いながら、自動ドアをくぐりました。何も買わずにプリンターしか使わなかった客にありがとうございましたと言われるのはどうなんでしょう、サービスを受けすぎでしょうか。でも、もし私が店員だったらレジしなくてラッキーと思っているはずです。しっかり感謝してもらいましょう。
 あっ。
 カツンと、軽い何かが私の足先から飛んで地面に転がりました。円柱のそれは少しカーブを描いて転がると自然と止まり、私はどこか申し訳なく思って近寄りました。
赤いリップです。ロムアンドの。一筋のひびがピシリと入っていて、直感的に「もう死んでいる」と思いました。
 私は自転車に乗りました。店の前の信号に捕まったので、可愛い相棒のハンドルを撫でてみました。いらないと思うだけで、あんなに冷ややかな目線を向けてしまうのは、単に知らない落とし物だったからでしょうか。
私は化粧品が好きです。何がと聞かれたら面倒ですが、可愛いと思って惹かれるものが、確かにそれにはあるのです。ロムアンドだって好きです。
 せめて、落とし主に大事に貯めたお小遣いで買われたもので、買うのに何回も下調べと躊躇があって、毎日大切に使われていた背景なんかがあのリップにあればいいな、と妄想をしながら自転車を進めました。信号は青を照らします。
 飽き飽きなのです。買って並べて捨てるのは。時間と思い出の積み重ねが、使われるだけとは違う特別な意味を持たせるのだと、信じたいと思っています。そうでないと、ね。必死に資料を印刷している私を慰められないでしょう。
 ミニチャリはタイヤの摩擦音を微かにさせるだけで静かに進みます。
 私のとっておきの相棒はどんなに共に時間を過ごしても、私にとって永遠に普通の自転車であるだろう予感には目を向けませんでした。


〈出会いの六割〉

 商店街というのはいいものです。
 なんとなく歩くだけで心が高鳴る出会いの宝庫です。
ナポレオンフィッシュ 一盛り1200円!
ほらね。
 さっそく素敵な出会いです。見たところ、黄ばんだ白いテントの中にビールケースの椅子といつかどこかで見たような銀のちゃちい折りたたみテーブルがあるようです。テーブルの上にはカセットコンロと長方形の小さな鍋があります。キャンプと炊き出しのギリギリを攻めたようなここは、牡蠣小屋ならぬナポレオンフィッシュ小屋。というのが店主(らしき人物)の文句でした。
「ナポレオンフィッシュ珍しいよぉ。身まで青い珍魚だよぉ」
 タオルはちまきのお兄さんが虚に向かって声をかけています。なんらかの条例の規制が彼を縛っているのか、私がよほど貧乏そうに見えるのか、見えてはならないお兄さんなのかはわかりませんがチャンスです。私は少し小屋の中を覗き込みます。先客がいるようなので、どんな様子なのか確かめたかったのです。
あっ! ギャルです!
ど金髪、ギャルです!
 ジャージに子猫のサンダル。100人が100人、ヤンキーギャルと判断する姿の女性が二人で昼からビールと素揚げのナポレオンフィッシュを食べています。
「あっ、興味ある?」
 タオルはちまきお兄さんが私をようやく捉えたようです。私は会釈をして、その場を去りました。
ええ、お兄さん。興味は多いにありますけれど、私にはここで一人でナポレオンフィッシュを揚げて食べるなんてできません。それに、映えだって、もう死語じゃありませんか。
「映え?!映え一番、ナポレオンフィッシュ小屋だよ?!」
「唯一無二、ここでしか食べれない、自慢の一盛り食べてきな?!」
 背からタオルはちまきお兄さんの声がまだします。素敵な出会いなんて、やっぱりそんなものです。



〈バイブレーションおじさん〉

 今日は電車に乗りました。
 家から半径五キロ圏内でしか、私はチャリで移動できません。この辺の電車は四席対面シート型が多いですが、今日は珍しく横一列型に乗ります。都会っぽくて、少し嬉しい気分です。
 この電車にはあと二〇分ほど乗ります。休日の今日は家族連れや高校生らしい女の子たちも乗り合わせているようです。大きい街ならではの風景からそのうち田んぼと山だけになるでしょうから、今のうちに風景を楽しんでおきましょう。ふるさとの一両編成の電車を懐かしく思い出すのはまだもう少し後で良いでしょう。スマートフォンなどという不粋なものは封じます。反対側の席の窓から覗く街並みを見るのが私は好きです。
 知らない家やビルとは言い難い四角い建物が真横に伸びて一つになったり離れたりを繰り返しています。こういうとき、アリの巣を見ているような気持ちになります。所属しない社会の営みをこうして見つめるとき、私の居場所は今どこでもないことを自覚して、どうしてか安心と呼ばれるような心地になります。

ガタンゴトン、ガタンゴトン
いや、いけない。電車だからといって必ずしも「ガタンゴトン」と音を出すわけではないはずです。よく聞いて。
ヒュー、カシャンカシャン
 でしょうか。時折ヒューの部分がキューになったり、カシャンの部分がシャシャンになったりしている気がします。でもよく聞くと違うかも知れません。もう一度。
ブブブブブブブブ
 耳馴染みのなさすぎる音に、思わず目線をそちらに移します。それは右斜前方に座るおじさんからでした。おじさんは膝に手を置き、少し前屈みで座っています。至って普通です。小刻みに縦揺れしている以外は。貧乏ゆすりとも違います。人が出せるような速さの揺れというのか、震えというのかではないのです。それは、バイブレーション、でした。
フフフフフ、カカカカカ
 バイブレーションおじさんが椅子や床と擦れて放つ音がよく聞こえます。車内にぬるい空気が流れました。そこにいる誰もが、変わらぬ振る舞いをしながらも、確かにおじさんを意識していました。そして怖いもの見たさで、視線をおじさんに向けます。誰が見た時も、確かにおじさんはバイブレーションしていました。お母さんと新幹線の話をしていた青い帽子の少年も、その空気の変化を細かに感じとって囁き声に変わりました。
「きも」
 女子高生二人組が小さな鏡で前髪を整えながら声を漏らしました。冷ややかな風が背筋を通ります。おじさんはバイブレーションし続けています。やめなよー、だってー、と残酷は二人は戯れています。
「みんなやばいって思ってるって」
 可愛い声がそう言うと、皆が息を止めました。空気は最悪でした。毒を撒いたのはおじさんかのように誰もがおじさんを意識したことが手に取るようにわかりました。おじさんはそれでもただ、そこに座り、バイブレーションしていました。ただ少し、バイブレーションが激しくなって、音が大きくなりました。きっと私以外の人たちも、それはわかったでしょう。
「キモいんだよ、ジジイ!」
 彼女は笑っていました。少し誇らしげに、正義を貫いたような顔で友人と顔を合わせて笑いました。おじさんは、バイブレーションしながら立ち上がりました。
カッカッカッカ
 床に足が触れる瞬間バイブレーションの反動で弾かれます。足先は左右に振れながら、半ば無理やり床に接着して、また弾かれてを繰り返して前に進みます。
 おじさんが車両からいなくなると、さっきのことが夢だったように何事もなかったかのような時間が流れ始めました。青い帽子の少年は初めて見た新幹線に興奮した話をし、女子高生はロムアンドのリップで二度三度、唇をなぞりました。「私だけが、先ほどまでに取り残されているような気がしている。」なんて、私は夢でもいうことはできません。窓の外は変わらず街の中でした。


















〈なんの変哲も無い〉
 
 ミニチャリに鍵をかけて。階段を上がって。扉を開けて。カバンを投げ出して。何かで時間を潰したら、お風呂に入って眠る。
 一日の終わりはその通りに繰り返されます。今日も変わり映えのしない日でした。特別何か、例えば小説みたいな非日常は私の日々には訪れないのでしょう。人生にもフィクションがあればいいのにと思いながら。とうとう今日を終えます。明日は相棒とどこに行こうかな。



 


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