ウェン・ユー・ウィッシュ・アポン・ア・スター

快活クララ



 ちょっと銀河鉄道に乗るんで見送り来てほしい。
ピンポン鳴ったので玄関ドアを開けるとそこに吉野が突っ立っていてそう言った。コーポ渡良瀬の青白い廊下灯に顔半分を照らされて、死人みたいに見えた。黒い学ランはぐっしょり濡れたみたいに見えた。そういえば吉野は宮沢賢治が好きだった。台風の日、暴風に煽られて逆さになった傘を振り回して笑っていた。「雨にも風にも負けねー」学校に着くころにはずぶ濡れだった。
 高校一年の思い出。
 で、私はセーラー服の上からパーカー羽織って家を出る。
「どこ行くん」「銀河鉄道なんやけ駅に決まってる」「駅って」
私たちの目の前には東福山駅がある。銀河鉄道って普通のホームから出てんの?吉野は私に薄緑色の切符を一枚渡してくれる。東福山→サザンクロス。愛想も洒落もない印刷のそっけない文字だ。いやまじで。
「ちょっと待った」
 臙脂色のすり切れたシートに座って私は言う。車内は木造で、傘つき電灯の煮詰まったみたいな光が吉野の横顔に奇妙な陰影を落としている。場面の転換の仕方が夢でも見てるみたいだな。
「何」
「いや」私は吉野の目線を辿って窓の外を見る。そこに広がっているのは何ていうか、銀河だ。「何でもない」
「すげえな」
 吉野は言う。綺麗とかは超えて、ここまで来るとただ怖い。
「俺一回だけ天体観測みたいなのしたことあるけど、別もんだわ」
「あー、弥生と」
 弥生は吉野の彼女で天文部の副部長で、小瓶に星空詰めましたみたいなキーホルダーをリュックに付けていた。
「違う」吉野の顔の上を吊り革の影が流れていく。「もっとずっと昔」
 もっとずっと昔。私と吉野は高校一年と二年のクラスが一緒だっただけで、だから多分知り合う前のことだろう。
「なんか、昔すぎて夢か本当にあったことかよく分からんけど、俺一人で夜の自然公園みたいなところにいて、流星群見てて、掴もうとして」
 それ夢だろと思うけどそんなこと言わない。
「そしたら声がした。誰かが何か言ったんだよ。思い出せんけど。で、はっとして振り返ったら髪振り乱した貞子が真っ赤に充血した目でこっちガン見してて」
 さすがに「夢?」
 吉野は苦笑した。「と思うよなやっぱ。今もこれ、夢見てんのかな」
 私は窓の外を眺める。「かも」夢でも何でもいい。
「また怒られるわ」吉野は笑って言う。主語が抜けてても何のことを言ってるのか完璧に分かる。弥生と大戸ユキと吉野、一年五組冬の大三角形事件。言ってしまえばただ吉野が二股かけて修羅場っただけだ。自業自得とはいえ、あの頃の吉野はストレスでほとんど死んでいた。唇をめくって見せると、口内炎が何個も白い噴火口を作って爛れていた。「おえおういうあお」俺もう死ぬかも。吉野は言った。弥生は毎日占星術的何かで吉野を呪っていたし、大戸は二個上に剃り込みを入れた兄貴がいた。自業自得やろ、とは言えなかった、それくらい吉野は参っていた。だから私は大丈夫だと言った。そのうち全部上手いところに落ち着くから大丈夫だよ。It is all right. We will survive.
 弥生も大戸も怒るだろう。二股かける屑のくせしていい奴だから、二人ともまだ吉野のことが好きなのだ。
「どうしようもなかったんだよ」
 吉野は言う。
「どっちも大事だった。どっちか選べんかった。分かんねえ、何か他に良い方法あったんかな」
 プール問題というやつがある。名前は私が勝手につけた。プールが二つあって、それぞれで自分の大事な人が溺れている。恋人と母親、祖父と祖母、飼い犬と飼い猫。あなたはプールサイドに突っ立って、それを見つめている。あなたの手には浮き輪がたった一つある。
 同じような質問を昔、本気でされたことがある。まだ中二の頃、市民プールで水泳の練習をして、遅く帰宅した夜だった。静かすぎて無人かと思ったけどリビングに入ると、父さんと母さんが久々に一緒にダイニングテーブルに着いて、私を見つめていた。鴇子の好きなように決めなさい。父さん母さん二人とも鴇のこと好きで、それはどんな形になっても変わらんからね。それだけ覚えといてね。
 私の手には浮き輪がひとつだけあって、私は選択を迫られていた。
「分かるよ」それだけ私は言った。
 しばらく黙って電車に揺られていた。透明な川とか銀杏並木とか砂糖でできた鳥とか、色んなものが通り過ぎていくのをぼんやり眺めていた。私らが乗ってるのはどうやら快速らしい、停車する気配は全然ない。色んなエピソードが飛ばされて、銀河鉄道はただひたすら終点目指して走り続ける。
 私と吉野の場合はあえて呼ぶなら芦田川問題?舞台は午後五時二十一分の西日差す大型河川だった。(芦田川は備後地方を代表する河川であるBYウィキペディア)。私らは何かもう思い出せないくらいどうでもいい話をしながら河川敷を歩いて帰っていた。いつもの下校コースで、人はそんないないけどたまに生物の北センと遭遇する。授業で使う藻とかメダカとかを捕ってるらしい。
 昼まで降った雨のおかげで川は荒れていた。私はぼーっとその暴れる水面を見ていた。インダス川みたいな色の波間から一瞬細い腕が突き出てふらりと手を振った。すぐに濁流に飲まれて消えた。
 後から分かったけど、溺れていたのは小学生の男の子だった。
 私はとっさにスカートのポケットを探って携帯電話を引っ張り出していた。反射だった。水面から突き出た手イコール一一九番。でも吉野はそうじゃなかった。私がホームボタンを押すより先にさっきまで吉野がいた地面にどさりとリュックサックが落ちた。「頼む」という声が耳に届くより先に吉野は濁流の中にざぶざぶ入っていって、大波がその背中を隠した。引くとそこに吉野の姿はなかった。
 頼むって何を。
 しばらくアホみたいに突っ立っていた。それから自分がしがみつくみたいに携帯電話を握りしめているのに気づいた。

 私は小学校でスイミングスクールに通い始めて中学にはプールが無かったから帰宅部しつつ水泳の練習を続けて、高校で水泳部に入った。一年で県大に出場。先輩に付けられたあだ名は人間魚雷だった。私はマグロみたいに水中ミサイルみたいにぐんぐん泳げた。
 だめだ。学ランが水吸って重くなる。濁流に押し流されて子供捕まえるどころか自分が戻って来られなくなる。私は一人岸に立ち尽くしながら、数秒、脳内を色々が渦潮みたいに巡るのを感じていた。夕日を弾いて光る茶色い濁流の合間からは、誰の手も見えない。

 泳げるだけじゃ意味がないのだ。私は飛び込めなかった。吉野だって、荒れまくってるでかい河をざぶざぶ泳いで小学生を背中に担いで帰ってくるなんてできないって、考えたら分かっただろう。そもそも吉野はカナヅチだし。でもそんなことは考えないでさっさと飛び込んでしまうのが吉野だった。
 小学生の男の子は中洲に倒れているのを発見された。誰がその子を中洲まで押し上げたのか、私は知っていた。
 『どっちも大事だった。どっちか選べんかった。分かんねえ、何か他に良い方法あったんかな。』吉野にとって、プールで溺れているのは自分と見ず知らずの手の持ち主だった。天秤にかける間もなく吉野は選択した。
 何か他に良い方法あったんかな。
 あったよ、多分。

「次終点だって」
 吉野の声で私ははっと我に返る。薄暗い車内に目が慣れない。もう終点?
「何かあっけねえな。もっと観光地っぽいもん期待してた」言う吉野の髪はいつの間にか濡れて筋になって額に貼り付いている。川の匂いがむっと漂う。あー、なんかさあ。言いかけてやめてやっぱ言う。
「降りずにこのままずっと乗っとかん?」
 吉野となら長い帰り道もだらだら永遠に歩いていられた。果てしなく引き伸ばされた、銀河の果てまでの帰り道。「なあ」悪くない気がした。吉野は、吉野は窓の外を見たまま笑った。それだけだった。電車はゆっくり軋みながら速度を落としていく。がたんと一つ揺れて、止まった。
「降りるか」
 私が何か口を挟む間もなく、私と吉野はだだっ広い所に降り立っている。地面固なにこれアスファルト?白っぽくて表面の舗装がぼろぼろに荒れている。吉野がげらげら笑っている。「雰囲気ねえな」顔を上げると、一面真っ暗闇の中にぽつりと灯った赤い看板がある。渋い赤地に白で なか卯。
 その背背後、灰色の丘陵の向こうから巨大な青い星が昇っている。青くて、白い霞が渦を巻いている。私も笑う。めちゃくちゃ安い合成写真っぽいけどあれは地球か。ってことはここは月か。銀河鉄道の終点にしては近い気がするけど、それはただ距離感がバグってるだけだろう。笑ってるけど私の心臓にはアイスピックみたいに鋭く冷たい痛みが突き刺さっている。近い方が精神的にきついな。なんか、中途半端に見えちゃうくらいに近いほうが、手が届かないのが強調される。私は笑う。ていうかそういうこと?月→兎(卯)→なか卯っていう連想ゲームみたいなノリ?ちょっと無理やりすぎだろう。
 広大な駐車場みたいな大地を横断する。近づくにつれ窓から漏れ出る暖かい明かりとか緑色の「丼ぶり・うどん」の看板とか紛れもなくなか卯だ。
「ちょうどよかった。俺蕎麦食いたかったんだよ」
 自動じゃなくて引っ張って開ける式ガラス扉には「なか卯 天国店」と書かれている。
「あー、私何にしよう」
 吉野はドアの取っ手に手をかけて、でも開けずに私を振り返って言う。「お前ここで帰れ」
 はあ?店の前まで来ておいて?私は内側から貼られたメニューをじっと見つめたまま言う。親子丼、カツ丼、はいからうどん。顔を上げて吉野を見れない。「私も蕎麦食べたくなってきた」冬限定鴨蕎麦とかおいしそうじゃん。
「帰って食え」吉野は言う。「帰って鴨でも何でも好きなもん食えよ。」
 帰れ帰れって。「じゃあ何で送ってくれなんて言ってきたん。寂しかったからやろ」
「もう大丈夫だって。はよ帰れ、戻れんくなるぞ」
 まだ大丈夫じゃないくせに。でも私が帰れなくなるほうが吉野にとっては全然大丈夫じゃないのだ。それに比べたらこんな最果てのなか卯に一人で居残った方がましだとか考える奴なのだ。そんなだからいなくなったら弥生も大戸も悲しむ。私も悲しむ。
 ぐにゃぐにゃ歪んだ「いい日旅立ち」のメロディーの電子音カバーが遥か遠くから聞こえてくる。耳馴染みあ る電車の発車の合図だ。そろそろ時間だ。弾かれたように音の方を振り返った吉野の顔は血の気が引いて月の地面みたいな色をしていた。その表情が歪んだ。思い切りドアの取っ手を引く。吉野の身体はがくんと反動で揺れた。握りしめた取っ手をまじまじ見つめている。扉は吉野には固く閉ざされている。ごめん、と私は声に出しては言わない。茫然とした風の吉野を軽く押しのけ、止められる前につるつるした赤い取っ手を掴んだ。瞬間ばちんとビンタみたいな音が破裂して、手の平で静電気が弾けた。閃光をまともに浴びて視界が暗転する。私は真っ暗闇のなかに落ちて落ちて落ちていく。

 星が降っている。
 ピンクや青緑にちかちか発光する小石が夜空に薄青い尾を引いて、草原を水切りみたいに跳ね、七色の飛沫を散らしてはじける。シャンパンとかスパンコールとかそういう雰囲気の華やかな音が鳴る。また一つはじけ周囲を丸くぼうっと照らす。私は立ち尽くしてそれを見ている。何これ夢?記憶?やけにデジャヴだ。星は空を走り、大粒の雨みたいに草を二三度跳ねて、散る。弾けたそれは、ひょろっとした少年のシルエットを鮮やかに浮かび上がらせた。
 ああ、あれだ。ハウル。
 二〇〇九年公開ハウルの動く城の、例のシーンが目の前の景色と重なる。夜の湿地に星が降っている。黒いサラサラおかっぱ頭のハウル少年は、自分の方へ落ちてきた一つの星を掬い取ろうとするように、重ねた両手を宙へ差し上げる。寝癖が酷いしTシャツから出た首や腕がぎょっとするほど細くて幼いけど吉野にしか見えない少年は、火傷を恐れるように肩を強張らせながら、宙に手を伸ばす。指を透かして星がきらめく。
 私の喉は急にかすかすになって声が出ない。あー、あのシーンでソフィーは何て言ったっけ?アハ体験でいつの間にか冒頭くらいまで若返って白髪ボブになったソフィーは何て言ったんだっけ。目の奥がつんと痛い。風が草の海を波打たせ、私の髪をぼさぼさにかき乱していく。赤い尾が視界を横切り、エメラルド緑の星がひとつ私の足元で砕け散った。照らされて、頭の隅の暗がりで一つの言葉が閃く。口を開いた。
「未来で待ってる」
 少年の髪がさっと舞って弾かれたようにこっちを振り向いた。爛々と猫目を光らせ、私を射るように見つめて、言った。
「それは時かけだ馬鹿野郎」
 瞬間私の靴の下から地面の硬さがふっと消え失せる。私の身体は虚空に投げ出され、夜空も草原も吉野少年も砂になってさらさら流れ落ちて消えていく。

 無重力の一瞬の後、私はがくりと膝を痙攣させて目覚める。自分が胎児みたいに身体を丸めて硬い地面に寝ているのを発見する。あれあれ夜露かな頬が冷たいぞ。くそ。水はきれいな玉になって転がり落ちていったりせずに、ただ瞼の奥から染み出してきて止まらない。止め方が分からない。どろどろになりながら仰向くと、背筋が寒くなるような暗く冷たく果てしない宇宙が広がっている。飲み込まれそうになるけど、視界になか卯の赤い看板が映っているから、私は大事なことを思い出す。パーカーの袖で顔を拭って起き上がる。くそ。寝たせいで身体の節々が痛いし目の奥は腫れたみたいに重い。でも一番大事なことは覚えてる。
「吉野」
 どこだ。見渡す限り灰色の丘陵がどこまでも続いていて、くっきりした地平線の向こうは宇宙の闇だ。あの細長い人影はどこにもいない。
 私は冬限定鴨蕎麦を食べなければならない。吉野に食べさせてはいけない。黄泉の国で食べ物を口にしたら戻れなくなるのだ。ギリシャ神話にも古事記にも出てくる一般常識。私が気付くくらいだからあいつもたぶん分かってる。
 がつんと背後で硬質の音がした。振り返ると、暖かい光を窓から溢れさせ、でも中は店員も客もおらず無人のなか卯がある。音は店の裏手から聞こえた。吉野?
「何してんの」
 裏に回るとそこには見慣れた吉野が、ちゃんと高二の吉野がいる。私の声に振り返ろうともせず数歩歩いてしゃがんで卵くらいの大きさの何かを拾い上げる。石?吉野は俯いたまま数歩こっちへ戻って来て、なか卯の方に向き直り、綺麗なフォームで大きく振りかぶる。がつん。さっき聞いた音が響く。投げられた石はガラス窓にぶつかって跳ね返り、石は地面を転がっていき、窓ガラスには小さな引っ?き傷ひとつ付いていない。
「吉野」
 吉野は答えない。石を拾いに歩いていく。
「吉野。もういい」
「何で」
 何でって。もう手遅れだから?自分で選んだことだから?一言に纏められないけど、吉野が石で窓割ってなか卯に入って蕎麦食べようとしてくれてるだけで、私はもう何となく満足してしまった。もう本当に充分だと思った。吉野が石を拾ってよろめき、それからゆらりと振り返る。うわあ、大三角形事件の時よりも酷い顔をしている。ずぶ濡れだしな。
「何でお前なんだよ」
 吉野は言う。私は苦笑いする。仕方ないのだ、全てを救うことはできない。二つのプールの栓を外し水を抜いて全員助けるという選択肢はプール問題には存在しない。だから私は自分が楽な方を選んだ。
 あの時、私は携帯電話を握りしめ、ただ芦田川を眺めていた。一人で岸辺に立ち尽くして恐ろしく長い間ただ川を眺めていた。荒い波が夕日を弾いてぎらぎら光っていて、貧相な草木が茂った中洲に一羽白鷺がいて黄色い瞳でこっちをじっと見つめていた。私は何も考えていなかった。「おー」背後から声を掛けられるまで。振り返ると土手を下りてくる北センが見えた。
「松屋じゃん。今日は吉野一緒じゃないんか」北センは白衣の下のベルトに小さい網を差していて、肩から虫かごを下げていた。「何、芦田川なんか眺めて。面白いもんでもいんのか」
 ばちん。その瞬間、きっかけが何だったのかなんて分からないけど私は全部を理解した。論理的に言葉で表せるようなもんでもないけど、雷に打たれたみたいに、自分が何をしないといけないのかが分かった。あー、私は愚図であほで馬鹿だ。スタートが遅すぎだ。水泳部のコーチにも散々注意されたのにまた遅れた。私は身を翻して川に向かって走った。「おい松屋」北センの焦った怒鳴り声が聴こえたけど、濁流の音に押し流されて消えた。私は身をよじるようにリュックを下ろして白タイが引きちぎれるのも構わず足をもつれさせながらスニーカーを脱ぎ捨てる。聴きなれた笛の音が頭の中で鳴る。テイクユアマーク。息を静かに吸い込む。頭の中がまっさらに透き通る。
 ピッという電子音と同時に、私は飛び込んだ。
 結局私は弱かっただけだ。吉野がいなくなるって考えた瞬間怖くてどうしようもなくなった。結局私は自分が楽な方を選んだだけだ。その結果吉野をぼこぼこに傷つけるって分かっていても。濁流の中で私は泳ぐっていうより洗濯機にぶち込まれたみたいになっていたけど、中国地方の人間魚雷舐めないで下さいね、洗濯槽の渦の中でしっかり吉野の腕を掴まえて岸まで引っ張っていく。火事場の馬鹿力って本当に存在するらしい。そこで力尽きて私は流されたけど、でもそれだけ頑張ったら上出来じゃないかと思う。
「私記録会とか大会の後はすごいお腹空くんだよ。だからちょっとエネルギー補給してから帰る。吉野、先帰っといて」
 吉野は暗い目を上げる。
「無理」
 私をじっと見たまま吉野の目の表面に水の層が膨れて表面張力が破れて伝い始めるから私は焦る。うーわ吉野の涙とか激レア。私はちょっと、今度は本当に笑ってしまう。
「大丈夫だって、私タイムトラベラーだから。未来とか全部見えてるから。全部上手く行くよ」私は言う。自分ごと吉野を暗示にかけるみたいに言う。「私は夏に国体でアンダー十八ベスト出すし、吉野は弥生と大戸と順風満帆に付き合ってゴールインして大家族になって豪邸建てるから。裏庭にプール造ってそこで私が無料水泳教室してあげるから」
 だから大丈夫なのだ。信じろ、信じろ、信じろ。吉野は首を横に振る。
「お前、死ぬんやろ」
 私はけらけら笑ってみせる。「死ぬとか縁起悪いこと言うなや」笑えてるといいけどな。
「あー、駄目、無理。っおえ」嗚咽。吉野はちょっと錯乱している。「無理無理。ならお前も帰るぞ。抵抗すんなら引きずってく」
「はー。出来んって。」お前を引きずって岸まで運んだのはどっちだと思ってるんだか。
 なか卯は吉野には扉を開かなかった。入ることを拒まれているってことは吉野はまだここに来るには早いってことだ。私の場合は?さっきのドアノブ握った瞬間の静電気みたいなやつは、多分走馬灯みたいなもんなんだろう。何で自分のじゃなくて吉野の過去なんだか分かんないけど。今よりひょろひょろで、流星群を掴もうとしていた過去の吉野。私はちょっと笑う。
「あのさ、私らすごい昔会ったことあるんだけど覚えてる?」
 吉野はずるずる洟を啜って学ランの袖で顔を拭っていて、答えない。訊くまでもなく答えは分かってるけどね。それが私だって認識してなくても、私に会ったこと自体はちゃんと覚えてる。湿地の自然公園、ガン決まりの目を真っ赤に充血させて髪を振り乱した貞子。
「大丈夫だよ」
 何が?とは自分でも思うけど言う。あの時、芦田川の中で揉みくちゃになっていた時、星が見えた。目なんか開けられたもんじゃなかったけど瞼の裏の暗闇の中で小さな火花みたいに光を散らしていた。無理やり手を伸ばすと指先が何かを掠めた。掴むと吉野の腕があった。
 私も吉野も星を捕まえた。何が正解かなんて分からないけど、星に手を伸ばすくらい頑張ったら十分じゃないの?完全なハッピーエンドじゃなくたって、やれるだけのことはやったんじゃないの。少なくとも私はそう思う。胸が痛くないって言ったら嘘だし実際矢が四、五本突き刺さってるくらい痛いけど、でも気分が良いのも事実だ。自己ベストを叩き出した直後くらい爽快。だから頼むから泣き止んでくれ。
「約束するか」
 吉野が言った。「全部大丈夫だって約束できんのか」
「するよ」私は迷わず答えた。甲高く軋むような音が、車輪が枕木を越える規則的な音が、蒸気を吐くような電車の走行音が近づいてくる。お迎え来たっぽい。助かった。これ以上吉野と話してたら私はぼろを出すだろうし、そうなったら吉野は意地でも私を連れて帰ろうとするだろう。それが無理ならここに残ろうとするだろう。駄目だそんなの。せっかくの私の泳ぎを無駄になんかするな。
 光が近づいてくる。線路もなんもないけどお構いなしにこっちへ一直線向かってくる。最後に何か伝えるなら今だな、と思うけど、でもやっぱこれ以上言うべきことなんて何もない。
 私は光の方を向く。凄いスピードで大きくなる強い光に視界が焼かれて青い星型の染みになり、やがて世界は一面の真っ青になった。バイバイ吉野、選べなくたって二股はやめなよ屑だから。いつか刺されるよ。どうしてもどっちかを選ばなきゃならないことってやっぱり現実にもあるのだ。二つに分かれた道の、選ばなかった方を知ることは永遠にできないけど、きっとその道もずっと伸びてさらに枝葉をひろげていく。それを想像することも伴う痛みも、全部欠かすことはできない。
 ありとあらゆる可能性の枝は、私のぶんは、ぽっきり折れて先が無い。約束。私は笑う。約束ってなんか良い響きだ、守られるかなんて分からないのに、でも未来を信じられる気がする。守られたとしてその未来をもう見れないのに。あーあ。誰かが私の名前を呼んでるけど、残念、もう何も見えない。

 気が付くと私は白い地面と暗い暗い宇宙の間にぽつりと立っている。虚空に青い星が浮かんでいる。ひとり取り残された私は胸を刺した痛みを無視してしばらくそれを見上げている。母なる星の母なるユーラシア大陸端っこの母なる日本列島の母なる中国地方の真ん中らへんにある福山のことを考える。そこでたった今蘇生したであろう少年のことを考える。それから、赤く灯ったなか卯の看板の方に向き直る。入り口の方へ回り込む。ちょっとだけさっきのばちんという痛みに備えながら、恐る恐るドアノブに手を掛けた。なんともなかった。

 店内は無人じゃなかった。カウンターに先客がいた。思考が停止した私に向かって片手を挙げてみせる。
「おー松屋」
 だらしない姿勢、だらしない白衣、だらしない喋り方、どこからどう見ても北センだった。
「なんで」
「なんでってお前。お前勝手に芦田川飛び込んで吉野引き上げたと思ったら、気い失ってずるっと沈んだだろ。あれまじで肝冷えたぞ」
 私は色々言おうとしすぎて排水口が詰まったみたいに言葉が出て来なくなり、それから水は一瞬で引く。頭の中は空っぽになる。北センの前に置かれた丼の底にはつゆとネギの破片とふやけた天かすしか残っていない。だめだ、と思った。時間を巻き戻さないと。北センに胃の中のもん全部吐かせないと。
「あー、うどんな。うまかったよ。どうせならもっと豪勢なもん食いたかった気もするけどな」
 北センは笑う。「何、泣く?泣くのか。」うるさいよ。
「俺実は中高水泳やってたんだよ。顧問持たされたくないから内緒にしてたけど。でも年だなやっぱ、川はきついわ。俺も正直、お前ら二人を泳いで掴まえるのは厳しかったと思う。お前よく吉野を担いで泳いだな」
 違う、駄目だったのだ。これじゃ意味がない。全部救ってないと何の意味もない。
「夏も頑張れよ。俺高二の春に自転車で事故って大会出れなかったんだよ」
 なんだよそれ、と私は思う。なにそれ、自分の分まで頑張れみたいな。そんなの駄目なんだって。
「いいんだよ別に、俺は特に遺してく家族も未練もないし、一応中間の試験問題も作り終わってるし、それに溺れてる生徒を引き上げるのが教師の役割なんだから。殉職しろとまでは言わんけど。いいからさっさと帰れ、昨日からテスト週間入ってるだろ」
 頬を拭ったら濡れてることが事実になってしまう気がして私はむすっと突っ立っている。冷たい筋がだらだら伝い落ちていく感触は気のせいだろう。それでも鼻水の方が限界きて、ずずっと啜る。啜ってしまう。何、泣いてる?泣いてんのか。私はのろのろ歩いて、北センの隣のスツールによじ登るみたいに座る。北センが焦る。「おい、お前な」
 分かってる。分かってるよ、人の泳ぎを無駄にしちゃいけない。「すぐ帰るって」でも、さっき吉野と今生の別れみたいなのしたばっかだから
「もうちょっとここで休んだら帰る」
 だって、すぐに帰ったらなんか気恥ずかしいから。私は肩を丸めて座って、熱っぽく腫れた目でぼーっと窓の外を眺める。なんていうか、色んな法則とか規則を無視した光景がそこには広がっているけど、今更指摘するだけ野暮かもね。
「なんでもありだな」
 北センも同じものを見て、呆れたみたいな声を出す。私は返事の代わりに黙って目をつむって、ゆっくり息を吸って吐くことに集中する。頭の中を空っぽにして、それから祈る。近いから多分届く。

 窓の外には、星が降っている。


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