汁茶碗にゆで卵

スニラ



 目の前に置かれたどんぶりサイズの黒い茶碗には、こんにゃくとたまごだけしか入っていなかった。
「なんか、具全然ないね。昨日食べすぎたか」
 彼は私の隣の床に座った。と思えば、あっと声をあげてまた立ち上がり、「お箸、お箸」と言いながらまなキッチンに戻っていった。彼の小さな白い茶碗の中には大根とこんにゃくが入っている。お汁もたっぷり......のように見える。
 私は先にどんぶりを両手に包んで汁をすすった。ダシ味。三日目のおでんでも、起きたての体には変わらず沁みる。
「さんきゅー」
 私が箸を受け取ると、彼は座り込んで大根にかじりついた。私もこんにゃくを食べる。らせん状に細かい溝が入った丸細いこんにゃくは、私のリピート製品だ。板こんにゃくより掴みやすくて良い。
「うまし、やね」
 そうやって私が笑うと彼も笑う。私よりももっとささやかに、自然に、時間の中に溶け込むように、笑う。私はそれがグランドピアノの鍵盤の一音を、人差し指で押し鳴らしたときみたいに静かだなと密かに思っている。冬、だからだろうか。すごく、静かだ。
 そんな後ろで、なんとなく付けたテレビの国会中継が永遠に流れていて、そして、ふたりとも何も言わずになんとなく聞き流している。
「今日は何する?」
 私がそう言って彼を見ると、噛み跡からにじみ出た汁が大根の曲線を伝ってぽとりと一粒茶碗の中に戻った。彼は口を動かしながら茶碗の中をずっと見ている。だから私も茶碗の中のちゃいろたまごを2つに割った。俯いて、茶碗の中だけをじいっと見つめて、粉っぽい黄身の近くから金色の出汁が白く濁っていく様を視界に入れながら、もちきんのことを思い出していた。

「お吸い物飲む人」
 まな板がはみ出る狭いキッチンのある部屋から、同じくらい狭いリビングに声だけが届く。部屋と部屋の間の扉が開けっ放しなので、クーラーの冷気と沸騰したお湯からの熱が戦っている。いつも冷気が劣勢だ。自動に設定してあるクーラーが風量を上げて、私の額の汗を拭おうとする。
 もちきんは我が家に来ると、必ずお吸い物をつくる。大体いつも、冷蔵庫には、ハイボール缶とたまごと、ケンタッキーのビスケットを食べて残ったメープルシロップぐらいしか、入っていなかった。そんな私の健康を心配してか、毎日自炊派の彼にとってキッチンに立たない日があるのは落ち着かないのか、とにかく毎回お吸い物だった。前日の夜に、お酒と一緒に買ったたまごを、ぐらぐら湯だった片手鍋の中に十玉全部入れてしまう。ラーメンを作るときぐらいにしか仕事を与えられない鍋は、いつも麺と一緒に茶色い泡を立たせてやる気がなさそうなのに、このときばかりはどこかイキイキして見える。沸騰したお湯はこんなに飛んだり跳ねたりするのだなと、ふと後ろから覗いたときなどには思っていた。
「それ溢れちゃうんちゃう?」
 片手鍋にたまご十玉は多いのだ。二つ、三つお湯から頭が出てしまっているから、私がそう指摘すると、
「まぁ、いいでしょ」
とぼそっと言う。お湯捨てちゃうのもったいないね、たまご食べ過ぎたらおじさんみたいなお腹になっちゃうよ、どれを言ってもそう返ってくる。
「たまご剥くの手伝ってほしい?」
 もちきんにそう尋ねても何も言わない。でも、私が手伝い終わったらありがとうと言ってくる。そういえば彼は、しょうもないことでもありがとうと言う人だった。

「お吸い物飲む人」
 顆粒の煮干ダシと、たまご。その組み合わせを、もちきんはお吸い物という。実家にいた時は、お吸い物が食卓に並ぶことは無かったので、何をお吸い物と言うのかは定かではなかったが、なんとなく違うような気もするし、毎週、堂々と彼はそれをお吸い物として食べさせてくるのだから、これこそがお吸い物のような気もする。しかしそんなことは些細なことで、考えなくていい。はーい、と手を上げて待っていれば、もちきんが親指と人差し指で熱そうに二つの茶碗を持ってくる。私のお椀は白いやつでたまご一個、もちきんのお椀はどんぶりくらい大きくて黒いやつでたまご二個。このうすーい飲み物は、いつ飲んでも丁度いい。
「あー...」
 二人揃って、体に染みたときに自然に出てくる鳴き声を出して、たまに私が
「うましやね」
と言う。もちきんはお椀に口をつけながら、ちらっと見つめ合って、
「うましですよ」
とニヤけて答える。
 望月金太郎、彼はそういうわんぱくな名前の割には陰気なやつだった。人の悪口がツボだし、ラウンドワンに来る客みたいな人たちをなぜか敵視していたし、J-POPを馬鹿にしていた。当然、運動は点でダメだったが、踊ってと頼むとダンシングフラワーのように踊ってくれる。いじられ役でへらへらしているのに、たまに驚くくらい真面目な顔になったり、お酒の席でやたらお水を飲ませようとしてきたり、話題をみんなに振ってたり......いつの日がそうやってお尻を振るのをなんだか可愛く思えたときから、私は彼を愛していた。たぶん。

「また黄身溶かしてる!」
 もちきんのお茶碗の中はいつも濁った黄色になる。二つに割ったたまごの中身を、毎回ダシに混ぜてグロテスクな見た目になったのを美味しそうに飲む。
「絶対、美味しくない」
 そう言ったらチッチッチッと人差し指を振って、わかってないなぁ素人は、と返す。真剣な顔でわざとらしく言うので、私は下くちびるを出してムカつきを表現した顔をしてわざとらしく応じた。
「なんのためにたまごが入ってると思ってんの? 黄身溶かしてたまご汁にするためだろ」
 彼の言い分では、たまごの黄身が煮干しの風味と混ざり合ってマイルドになり、絶妙に、旨いらしい。そこまで言うなら、と、私も彼の真似っこをしてたまご汁を飲んでみたけれど、混ぜない方が美味しかった。味は悪くないけれど、たまご独特の味や匂いが全面に出た風味になるので、次にまた同じように飲めばたまごが嫌いになりそうな気がした。たまご嫌いと言えば、私が興味で買ったもののたまご臭すぎてたまご嫌いになると思って、一杯でギブアップしたエッグリキュールを飲んでもらったことがあった。もちきんは、私がわざわざ割材について調べて、リキュールと合うらしいコーヒーやジンジャーエールを用意していたのに、一番たまご臭さが引き立つ牛乳を割材に全部飲んでいた。七百ミリリットルのやつを一夜で全て。あの日は足の速いリキュールを消費してくれてありがたかったけれど、たまご酒の後、たまごのお吸い物を飲む彼に少し恐怖を感じた夜だった。
「見た目悪いからさ、一人のときか二人一緒のときにしかしないよ」
 黄身を溶かしたお吸い物。私は全然好きじゃない。でも、彼が私にだけ教えてくれる特別の一つだった。

 もちきん、と名前を短くして周りが呼ぶのに倣っていた頃から、きん、とさらに短く呼ぶのが当たり前になったのは付き合って一年が経つ頃で、もちきんと呼ぶのが改まった感じでなんだか恥ずかしく感じ始めたのは更に一年経った頃だった。そのうち、きん、と呼ぶのも恥ずかしくなって、き、一文字とかになるのかな、なんて思っていたら私達は社会人になっていた。
「じゃあ」
 社会人になる約一年前から、もちきんは家に泊まることが少なくなった。学校の近くの、自由になりたいがために無理をいって借りた部屋は、突然自由になりすぎて持て余した。初めて寂しさを覚えた私は、バカなので、最初のうちはお花の香りのするトリートメントをたっぷりつけた風呂上がりに、それとなくドライヤーの風向きを彼に香りが届くようにしてみたり、際どいルームウェアを着たりして彼を誘惑した。求められて、何度も体を重ねて、何度も愛の言葉を与えられたら、私に飽きたわけじゃないとわかって、安心して、満足してしまった。   
 私が自宅で5日ぐらい後までの、飲み会や週一だけあるゼミの授業のことなんかを面倒くさく思っている間に、彼は5年後のことを考えていた。そんな要領良く社会をやっていける彼はずるい。私は今だって、5年後のことなど見えていないのに。
 私はなんとなく、普通でそれなりに、みんなと同じように、就職をした。地元の高校、地元の大学、地元の就職先。母にはお叱りの言葉を受けて、実家に戻るよう言われた。彼と過ごすために、一人暮らしは譲らなかった私は、少しショックだった。彼も同じような就職先とばかり思っていたら、あっさりこの街を捨てて私も彼も修学旅行で一度行ったきりの大都会に、たった一人で行ってしまったからだ。それでも私はとてもバカなので、大学四年の秋の頃、恋人が都会に住んでる、だなんて自慢ができると密かに思っていた。恋人のことをカフェや居酒屋で聞かれたとき、私は澄ました顔でそうなの、遠距離恋愛になるの、と言った。けれどその内側では恋人までも地元で完結する話相手のことをどこか可哀想に思い、同時になぜか嬉しいと感じていた。嬉しいのはなぜか、というのは実は当時から分かっている。けれど、たった一人でいるとき、決して都会ではないけれど、田舎というほどでもないこの街で、お互いジーユーの服を着てイオンの中の無印良品でデートするカップルや薄給そうな会社の受付嬢なんかを見たとき、なぜか、という大事にすくい上げて覗き込まなければいけない気がするような穴は輪郭がぼんやりして、なかったかのように体に溶け込んでしまう。そのうち私の輪郭だってぼんやりとこの街に溶け込んでしまう、と、夢で見るようなことをこっそり考えては、変に心だけが焦っている。私は私の輪郭をなぞって濃く、消えてしまわないように、ただ濃くするのに一生懸命だったけど、努力はしなかった。
 彼だってバカだ。私達が通う大学なら、その大学を卒業したというだけで、この辺りでは就活無双できるのに。行ってしまった。やたら緑が上品なのに、人は汚いのからうるさいの、美しいのから静かなのまでぐちゃぐちゃでまとまりがなくって、気持ちの悪いあんな場所に、彼は馴染んで過ごしている。彼自身は変わらなかった。お互い仕事をし始めて、会うのが週に一回から月に一回になっても、私が彼のところにお邪魔するようになっても、変わらずにダンシングフラワーのように踊って、少し調子に乗って飲みすぎて顔をしかめながら眠って、茶碗の中で黄身をぐちゃぐちゃにして飲み干した。
 
 でも、私も救いようのないバカのままだったので、いつか嫌われるのが怖くなって、夏が来る前の頃、彼を振った。

 労働のだるさにまだ私は慣れていない。
 そこそこできる新入社員をやり続けるのは、怠惰な四年間で鈍った体には酷だった。休みの日には体がベッドから剥がれないので、一日中スマホを触っている。冬になって余計動きたくなくなってしまった。画面の向こうでもっぱらネットショッピングをする。
 前までは実物をみたいタイプだったけれど、最近はどうでも良くなった。最近の買い物で言えば......全自動フットマッサージャーと......あとは......
「今日もずっとベッドで寝ておく?」
 彼の影が私覆った。こちらを覗き込むその顔は少し近すぎる。私は彼の額を押し上げながら上体を起こして伸びをした。
「いや、起きるよ。お腹すいたし」
 蛇が段差を降りるみたいに、落ちるように床に着地して座る。
「昨日のおでん食べますか?」
 彼は私を起こしたその場所で顔だけこちらに向けて言った。
「食べるよ」

 どんぶりの大きさに対して、こんにゃくとたまごと少しの出汁。中身は一見少なく見えるけれど、彼の分よりは多い。彼は自分のは必ず一回り小さい白い汁茶碗を選ぶ。そういうセンスに苛立つけれど、もう直しようがない。彼のなみなみ一杯の汁茶碗と私の大きいどんぶりでは、私が卑しいように感じる。
「なんか、具、全然ないね。昨日食べ過ぎたか」
 彼はちょうど座る動作の途中だったので何も応えない。彼はとても親しみやすいけれど、一つのことしかできないその不器用さに、私は不満を持っているが、もう諦めている。期待はしていない。次のアップデートに期待。そんな気持ち。彼が座って、ようやくおしゃべりかと思えば、あっと声を上げて立ち上がり、箸を取りに行った。こういうところは家庭っぽいなと思いながら、椀の中で静止する丸いたまごを見つめて待っていた。待っていたけれど、甘いだしの香りを嗅いでいると寝起きでパサパサの口の中を無性に満たしたくなって、両手でお椀を包んですすった。練り物や餅巾着のお揚げから出た旨味も全て混ざりあった出汁は奥行きのある旨味があって、体に染みた。
 その間にキッチンから戻ってきた彼から箸を受け取る。
「さんきゅー」
 と言っても彼は微笑むだけだ。
 私はこんにゃくをかじる。もちろん美味しいけれど飽きのせいか感動とかは別にない。でも、
「うまし、やね」
と言ってみた。またも静かな微笑みがかえってくる。
「今日は何する?」
 聞いてもしょうがないことを聞いても、やはり彼は応えなかった。応えるわけがなかった。自分のどんぶりの中で二つに割ったたまごの黄身が、溶けていくのに悲しくなった。もうお吸い物は作っていない。やっぱりたまごは人並みでしか好きでなかったから。

 ビーッビーッ!
 しょんぼり気分を電子警告音が邪魔してきた。音の主はぐったりしている。また、食事器官が異常を起こしたのだろう、買ったときからそうだった。
 私は膝を曲げて、腕をだらんと垂らしただんまりの彼のシャツを剥いだ。そして背中のハンドルを引っ張って電気ケトルのような形の胃袋を取り出した。中身は全部咀嚼されたおでんだ。茶色い沼のようなそれはもうどうしようもないので生ゴミになる。もったいないし、生きとし生ける動植物に申し訳ないとは思うが、つい私は彼に食べさせたくなる。でも、きっとこの沼を食べてと言っても、彼は喜んで啜るのだろうし、味覚も判断はできるけれど、感じているわけでないし、もうそれでもいいかもしれない。彼とそっくりに作ってもらったアンドロイドの彼は、一緒に過ごすほど少し違う。もちきんは声が高かったし、おしゃべりだった。お酒が好きだし、嫌味っぽいし、寝起きの口が臭い。そしてたまご汁が好き。私のために設定されたカスタムアンドロイドは、見た目こそ似ているけれど、彼の代わりにはなりはしない。欠陥品で安かったけれど、場所を取るので次の粗大ゴミの日に捨ててしまっても良い。
 がちゃん、と音がするまで胃袋を差し込んで、背中を閉める。勝手に停止した彼を再起動をさせると、こちらに向いて微笑んだ。この時、私は彼とバッチリ目が合ってしまった。覗かれてしまう、そのうんざりするくらい高性能なアクリル樹脂製の茶色いまん丸。お高い彼は私の心が読めてしまう。
「ありがとう」
 彼はきれいな声で言った。
「大好きです、愛しています」
 続けて言った。
「何でもしますよ、あなたの為なら。一人ぼっちになんてしない」
 きれいな笑顔だ。どうして私はこんなもの、買ってしまったんだろう。どうして、なんてどうして思ってしまうんだろう。わかりきったことなのに。
 なんてきれいでイヤな粗大ゴミ。早く捨てたいのに、私はこの人を捨てられはしないのだろう。
 ああ、本当に早く捨ててしまいたい。



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