カウントダウン

ビガレ



 俺の仕事は、午後十時から午前九時までここにいることだ。しかし、金も貰っていないのに隣に座る奴がいる。
「非常に非合理的な判断だよ、ペットを飼うなんてのは。餌やり、散歩、掃除、しつけ、それら全ての面倒臭さと彼ら彼女らから得られるはずの可愛げや癒しや愛くるしさとでは天秤が全く釣り合わない。彼ら彼女らからもたらされるのは、獣としての恐怖、それのみだよ」
 詭弁を振るう彼の名前は、サカモトと言うらしい。坂か阪か本か元かは聞いていないから知らない。でも一度、「サカモトは八のつく地名にゆかりがあってね......」と言って自分の話をしていたから、名前はそれなんだろうと思う。
「八戸市、近江八幡市、八丈島、八幡製鉄所......」
 聞いていて途中から本当にその地名に「八」がつくのか分からなくなるくらい、サカモトはずっと地名を指折りしていた。
「本を読んでないの? 本を読んだ方がいいよ、君。胡散臭い新書は駄目だけどね。社会の仕組みとか賢い生き方なんてのは、首をもたげて文を追っても分からないから。古本だね、最悪文庫本。読んでないなら、読んだ方がいい」
 俺よりひと回りは年下そうなサカモトに、偉そうに講釈垂れられる筋合いはない。
 別の日。
「お、夜と古本と色男。なんだ結局僕の言いなりじゃあないか、なかなか様になってるよ」
 人影のない通りは風通しは良いが、ページがめくれて本は読みにくい。ふと誰かと呑んだジンの味を思い出した。
 空が白み始めるころ、サイレンから「七つの子」が流れる。聞きながらサカモトが「相場は夕方だろう」と呟いた。珍しく俺も心の中で頷いた。腕時計は六時ちょうどを指していた。
 猫が、座っている俺たちの前を通りがかり、こちらに近付いたと思えば、どういうわけか俺だけにやけに懐いた。
「......」
 サカモトは俺の膝で丸くなる猫を横目に、パーカーの紐をくるくる指に巻き付けている。
「まあ君からはちゃおちゅ~るの匂いがすると思っていたから、多分そのせいじゃないかな。ところで、君が使ってるボディソープはどれかな」
 もう今は販売されていない石鹸だということを伝えると、「ああ、そう」とサカモトは片眉を上げてどこかへ行ってしまった。翌日からサカモトはツナ缶をポケットに忍ばせるようになった。「飼うことと野良を相手にするのでは話が違うからね」と言い訳もしていた。猫は姿を見せなくなった。
「久しぶりに君以外の生物に出会ったね」
 サカモトはスプーンでツナ缶を食べながら言った。
「実は、こうなることは五年前から分かっていたんだ」
 俺は俯いて地面を見つめた。
「それを知って、僕は何とかしようと世界中を巡った。けれども相手は地球規模の大問題だ、こんな僕だけではどうすることもできない。まあやれるだけはやってみたさ。皆にも、諦めろとか、気が狂ったんだとか言われながら。そんな僕の頑張りを知ってか知らずか、突然その動きが足踏みしたこともあったんだが、またすぐに動き出して問題の解決には至らなかった。それで四面楚歌になった僕は、とうとう地球離陸号に乗りそびれた。それがこの星の出した結論だ。始めとその次は失敗したから、ざまあみろって、家の本棚を整理しながら思ってたんだけど、三度目の正直で成功しやがった」
「......」
「もうこれで地球にいるのは僕だけだ、と思いながら散歩していたら、ある日君が座っているのを見つけた。笑っちゃったよ、その時は。僕ですら忘れていた僕の言いつけを、皆が地球から去っても律儀に守り続けているだなんてさ。『夜中にやって来る可能性が高いからそこでじっと座って見張っててくれ』なんて、呆れるくらいに精度の低い推論だ。......謝るよ、申し訳なかった。結局渡せたお金だって、雀の涙だ」
「......」
 サカモトは空き缶とスプーンを道に放り投げ、顔を上げた。
「僕たちに残された選択肢は限られている。絶望に満ちながら地球と共に生涯を終えるか。希望に祈りながら地球と共に天命を全うするか。二者択一だ!」
 その瞬間、空が激烈な光を放った。かと思えば、その光は収縮しながらこちらに近付いてくる。地球を滅亡させると言われていた巨大隕石が、とうとう姿を現したのだ。「夜中にやって来る」というサカモトの推測は的を外れていなかった。隣を見ると、サカモトは両手を広げて笑っていた。
 隕石は、確かに徐々に接近しているのだが、全く以てその球体の全貌は見えない。そのスケールの巨大さに、「地球の終わり」ということを思い知らされた。
 恐怖ではない。感動とも少し違う。俺はその光景が美しくて、光に呑まれて、涙を零した。


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