蒼穹飛翔

あいかわあいか



【一】
 越ケ浜麻衣(こしがはままい)とはもう長い付き合いになる。幼稚園に入る前に近所の公園で一緒に砂遊びに興じたのが出会いだった。それから早くも十数年がすぎ、そろそろ関係は二十年になりつつある。おれたちは同じ小学校、同じ中学校、同じ高校と上っていった。気づけばともに二二歳。卒業を控えた大学四年生となり、六畳一間のアパートに同居する関係となっていた。
 ある秋の日曜日。あさの十一時半ごろ。おれは下宿の窓のそばに、ジンベエザメのぬいぐるみを抱えてぺたんと座り込んで、蒼穹を瞳に映してぼんやり無為に過ごしている彼女に「なあ麻衣」と話しかけた。「んー」と所在なく返した。おれは彼女の傍、陽光にぬくめられたフローリングに腰かけた。
「いつも空ばかり見ているよな」
「そうだね」
「楽しいのか?」
越ケ浜はこくりと頷き「ん」と返した。おれは「そうかい」と彼女のアッシュグレーに染めたセミロング、コテをあててくるりと巻かれた毛先を撫でた。上質なヘアオイルの香が広がった。少しくすぐったそうに、うざったいといった様子で首をすぼめた。その様子に、小さいころに飼っていた猫の姿がちらついた。
 越ケ浜はこうして、一日をぼんやりと過ごすことが常であった。大学四年生の彼女の予定は睡眠食事散歩によって埋められていた。料理を作るのも家事をするのもいつだっておれの仕事だった。彼女の髪にオイルを塗り、カールアイロンをあてているのもおれだった。
 バイトをしたことはないし、内定も一つも持っていない。就活はしていないしインターンも行ったことがない。そもそもリクルートスーツすら持っていない。持っているスーツは入学式用のかわいさ極振りのやつと、おばあちゃんの葬儀のために仕立てた礼服だけ。卒業に必要な単位もあと半分くらい残っている。大学卒業のためにはあと四年かかるだろう。
 彼女はお腹がすいたらしい。くびをひねってこちらを向くと、飯をねだるとき特有の人懐っこい口調で「ねー」と尋ねた。
「今日のおひるは?」
「麻衣が前に好きだって言ってた、鯖の竜田揚げにトマトソース掛けたやつ。スーパーで鯖が半額になっていたから買って昨日の晩に捌いておいた」
「なるほどねー。手の込んだ料理ですなあ」
「食べてくれる人がいるからだよ」
「やったね」
 時折思うことがある。もし仮に、おれが越ケ浜のもとから去れば、彼女はどんな反応をするのだろうか。無能力の彼女は、どうやって生きていくのだろうか。
   もっとも、おれが越ケ浜を手放すことは絶対にあり得なかった。なにしろ、おれは越ケ浜を手に入れるためだけに、彼女を壊したのだから。
 越ケ浜はジンベエザメのクッションを抱えて日向ぼっこを再開する。おれはゆっくりと腰をあげると、キッチンへと向かっていった。
【二】
 昔の越ケ浜はずっと理知的な少女だった。彼女がこうして一日の大半をぼんやりと過ごすようになってしまったきっかけは、高校二年生の三学期にまで遡る。

 高校二年生までの越ケ浜は怪物だった。
 彼女の出自である越ケ浜家は兵庫県姫路市の名家だった。父親は農林水産省の元局長。母親は弁護士として姫路市内に法律事務所を経営している一国一城の主。小規模な事務所のボス弁ながら兵庫県弁護士会の副会長を務めたこともあるらしい。越ケ浜はそんなエリート家系の四女、末娘として生を受けた。兄が二人、姉が三人いて、彼らはいま医者だったり弁護士だったりをしているという。
 越ケ浜の父親はずっと単身東京に住んでおり姫路には月に一回くらいしか戻らなかった。そして母親も仕事柄兵庫県内を飛び回り、家を留守にすることが多かった。そのため彼女は小さい頃から、越ケ浜家の実家に預けられ祖母や兄姉に面倒を見てもらっていたらしい。彼ら曰く、不満を口にしたり泣いたりすることのない「手のかからない子」だったという。
 越ケ浜は小学校、中学校と学年一桁前半の成績を維持し、一番賢い県立高校へ進学した。高校での成績も文系四位が定位置だったので良好なものであった。愛嬌のある人柄で、人からの頼みは断らず、積極的にイベントにも顔を出していた。周囲からは常に尊敬され愛されていた。越ケ浜は毎日のようにいくつも掛け持ちしているサークル活動に駆けつけては勉学をこなし、先生の授業の準備の手伝いまでしていた。その結果、越ケ浜は前生徒会長や先生からの強い推薦もあって高校二年生の頃には生徒会長を任じられるに至った。中学校二年生以来、三年ぶりの生徒会長だった。おれは彼女の誘いを受けて、生徒会の庶務になった。越ケ浜の生徒会はなにか特別な改革や業績を成し遂げたわけではないが、必要な気配りが行き届き、納期は厳守し、仕事は誠実にこなすことから、先生からの評判はすこぶるよかった。
 彼女が生徒会長としての任期満了したのは二月一四日、奇しくもバレンタインの日だった。生徒会室では生徒会の解散を祝って、ささやかながらも祝いの席が設けられた。サラダ、フライドチキン、寿司、カリフォルニアロール、ピザ、エビマヨ、コーラ、烏龍茶、そしておれと副会長のメガネの持ってきたチョコレートの並ぶ節操のないテーブルを生徒会の面々で囲った。
 越ケ浜は馴れた様子で、紙コップ片手に乾杯の音頭をとり「皆さんお疲れさまでした!」烏龍茶をおいしそうに飲み干した。
 そこからは無礼講で、ガキの夢みたいな無秩序の料理の群れを皆で消化していった。わいわいと生徒会での思い出を振り返ったり、また一月のおわりに受けたばかりの予備校主催の共通テストの同日模試の感想を言ったりしていた。越ケ浜の自己採点の成績は八五%を超えており、本番の私見の一年前である現時点でも東大京大に挑戦できるレベルの成績をたたき出していた。
越ケ浜は「やっぱり会長はすげえや」と生徒会の皆から口々に讃えられて、苦笑するようにはにかんだ。生徒会の仕事も優秀すぎる越ケ浜がほとんど処理してしまっていたので、思い出話の内容もほぼすべてが越ケ浜に対する尊敬感謝で埋め尽くされる。越ケ浜に懐いていた後輩の書記の女の子が「マイ先輩と離れたくないよー」って泣いて抱き着く背中を優しくなでていた。
 越ケ浜はあまり食欲がないらしく、おれが紙皿にすこしずつ盛った料理を小さな口でゆっくりと食べていた。
 
 彼女はサラダをようやく食べ終わり、ようやく寿司に到達した。旧家の令嬢然とした箸さばきで上品にエンガワのにぎりを醤油にひたし口元へ運ぼうとした。その瞬間、事件は起きた。彼女の割りばしの動きがぴたりと止まり越ケ浜は「あ」と小さく呟いた。割り箸がポトリと床に落ちて、醤油とワサビのついたエンガワが木のテーブルの上に散らばる。彼女の指先は石化してしまったように口元で固まっていた。
 次の瞬間、越ケ浜は大きく目を見開くと、ばっ、と自らの唇に手のひらを押し当てた。

 そのまま越ケ浜は嘔吐した。口を押えていたため吐しゃ物をまき散らすことはなかったが、彼女の口腔内は吐しゃ物でいっぱいになり、指の隙間からあずき色の胃液がわずかにこぼれてにじみ出た。
 彼女は細く白魚のような両手を口に充てて、これ以上零れないようにきっと唇を噛みしめた。小さな口の端からだらりと胃液と唾液の混合が零れてツンとした臭いを漂わせた。
 越ケ浜は恥ずかしいような、とても居心地の悪そうな表情をして、おれの方をちらりと向いた。赤い目尻には涙が溜まっていた。
 
   ああ、やっと壊れた。おれは彼女の様子を見てそう思った。ようやく生徒会の仕事が無事にすべて終わって、少しだけほっとしたのだろう。その瞬間に完璧だった彼女は完全に壊れてしまった。
 おれは、あふれ出てくる胃液がこれ以上零れないように口を必死で抑える彼女の背を抱くと肩を貸して近くにある多目的トイレへと連れて行った。
 蓋と便座を開けて、大丈夫だ、と越ケ浜の背中を撫でてやった。彼女はいちどピクリと背中を痙攣させると、トイレの大便器に食べたものをすべて吐きだした。胃液と未消化の野菜と烏龍茶がぐちゃぐちゃになっていた。おれがさする背中は、これまで後ろを追ってきた彼女のそれよりも一回りも、二回りも小さく見えた。

 やがて彼女は、はあ、と漏れるような息を吐き出して「ありがとう」と小さな声でおれに告げた。彼女は少し気まずそうな、恥ずかしいような、それでいて諦めたような表情をして、自嘲気に微笑みかけた。しかしその瞳からはとめどなく涙がこぼれていた。彼女はあれ、あれ、と不思議そうに黒濁した瞳を擦っていた。しかしいっこうに止まる様子はなく、涙の筋がくっきりと頬に伝っていた。越ケ浜は上手くやっていたはずだった。  誰もが彼女の味方で、悲しいことなんて何もないはずだった。しかし彼女の涙が止まることはなかった。
 おれは気がつけば越ケ浜の身体を抱きしめていた。あんなに大きく見えた、偉大だった彼女はこの腕の中に抑え込めてしまうほどに小さかった。どうしてとおれは考えようとした。しかし、思考よりも先に身体が動いた。彼女の小さな、まるで鬼灯のように赤い唇を奪った。麻衣は抵抗する様子もなく諦めたような態度でそれを受け入れた。初めてのキスの味は吐瀉物と唾液の入り混じった生臭いものだった。

 祝いの席は抜け出すことにした。副会長や書記は何か察してか、これ以上の詮索することなく「お大事に」と告げた。他言しないとも約束してくれた。

 越ケ浜はおれに手を引かれ、小さくなっておれの後を歩いた。等身大の越ケ浜に初めて触れることができた気がした。おれは義務感に駆られるように夜の町を抜けて、自分の家に越ケ浜を招いた。    越ケ浜を家に返してはならないという確信があった。
 きっと越ケ浜は明日になれば吐瀉物を喉の奥に飲み込んで、またいつものような笑顔で、何事もなかったかのように振る舞って「おはよう」と言ってくれるだろうということがわかっていた。彼女はそうして完璧少女を演じ続けていたのだった。
 しかし、もう一度であっても彼女の弱り切った様子を見てしまった以上、そんな選択肢をとるという発想は浮かばなかった。幸いなことに、いや幸いなのかは知らないが俺の両親はこの日は家にはいなかった。

 手を引いて、越ケ浜をおれの部屋へと連れ込んだ。おれは越ケ浜の両腕をタオルとガムテープを使って後ろ手に縛り上げることにした。越ケ浜は怪物だ。今は精神にゆらぎが生じて機能停止を起こしているだけで、一晩眠ればいつもの調子を取り戻すだろう。そして何事もなかったかのような平然とした態度で「昨日はごめんね」なんて言うにきまっている。越ケ浜を逃がしてはならない、彼女を自由にさせてはいけない。おれは彼女を壊さなくてはならない。
 越ケ浜はおれがタオルとガムテープを持って迫る様子を見て、最初は嫌悪するような表情を浮かべた。しかし「縛るぞ」と冷たく告げると、「そっか」と諦めきった表情で抵抗することなく両腕を後ろ手に束ねて差し出した
  
 それから三十分後。越ケ浜は何も考えていなさそうなぼんやりとした表情でおれの部屋の電灯を見つめていた。一見すると完全に廃人になってしまったようにも見えた。しかし、おれは彼女がちらりと自分の鞄に目をやるのを見逃さなかった。おれはゆっくりと口を切った。
「気にしているのはこれだろ?」
 おれはそう言って、彼女の鞄を漁ると錠剤のシートを取り出して見せつけた。彼女の鞄の中にあるふせん入れに、ふせんと一緒に入っていたものだった。彼女の目が縦に開かれた。おれは静かな口調で彼女に告げた。

「知っていたよ。この薬、一年前から飲んでいたんだろ?」


【三】
 私は彼にその錠剤を見せつけられて、ああ終わったな。と思った。もうすべてがどうでもよくなって、身体から力が抜けた。カーペットの敷かれた床の上、彼の貸してくれたジンベエザメの巨大なぬいぐるみにポテンともたれかかり身を預けた。もはや自分の力で身体を起こしておく気力すら生まれなかった。
 私が飲んでいた錠剤は『自制(abnegation)』と呼ばれている薬で、自我(エゴ)を抑圧する薬効があった。かんたんに説明すると、自分の心を自分でコントロールすることができるようになる薬だった。たとえば、宿題や仕事をしたくないとどれだけ強く思っていたとしても、この薬さえ飲めばそのような自我(わがまま)が抑圧されて、わがままな心に邪魔されることなく仕事や宿題ができるようになる。いまの私にはどうしても欠かすことができない薬だった。
 私は小さいころから自分のことを天才だと思っていた。事実として頭の回転ははやかったのだと思う。「麻衣ちゃんすごい」「流石は越ケ浜さん」と褒められ続ける人生をおくってきた。人の期待に応えることに馴れていたし、人の期待に応えることを当然のことだと思っていた。
 しかし反比例するように、私の中の自我(だめなぶぶん)は年齢を経るごとにどんどん大きくなっていった。誕生日をむかえるたびに片付けができなくなり、段取りができなくなり、思考がまとまらなくなって、計画性がなくなっていった。試験問題に向かうときは自分のことを天才だと再確認するのに、日常生活では思考にずっともやがかかったような状態で生きていた。私は何のために、何をすればいいのかわからない霧の中をずっと歩いていた。
 そして一度やりたくないと思えば、「やりたくない」という大きな声が心の内側でやまびこのように反射し続けた。そうすると本当にできなくなってしまった。努力をしなければいけないのに努力ができなくなりつつあった。私は本当は勉強がしたくなかった。
 
 私ははじめて己がほんとうは無能であることを自覚した。しかし私は無能のままではいられなかった。無能であることは、彼との夢を諦めることに他ならなかったからである。それは嫌だった。
 私と彼が一緒に中学校に進学したばかりのころ、二人屋上で将来の夢について話をした。面談前で将来の夢についてのアンケートがあったのだ。
 彼は将来の夢なんて何も考えていなさそうだった。だから私は彼に夢を提案した「一緒に次官か局長なろうよ」と。当時の私の世界にある職業は、弁護士と官僚と医者と先生しかなかった。官僚の仕事がどんなものなのかイメージもなかった。父親がやっているのだから当然になれるものだと思っていた。将来の夢には二人して、「①事務次官、②局長、③弁護士」と書いて提出した。先生は少し驚いたような表情をして紙を受け取ったけれど、とても応援してくれた。いま思い直せばこの瞬間に、私は高級官僚にならなくてはならないという呪いに掛けられたのだろう。私は中学校をトップクラスの成績で走り抜け、高校でも常に学年四位を保っていた。夢を叶えるためにはまず東京大学に行かなければならない。そして好成績で国家公務員試験を合格しなければならない。トップを走ることは夢のために必要なことだった。
 そんな私の傍らで、彼も黙々と勉強を続けていた。彼は私ほど地頭がよくなくて頭の回転は遅かったけれど努力家で誠実だった。県下トップクラスの進学校で十数番の成績を保っていた。東大も十分狙うことができる成績だ。彼は私との約束を守るためにここまで膨大な時間を割いてくれた。いまさら「勉強したくない」という我儘で夢をやめることは彼に対する背信に他ならなかった。

 朝起きたらまだ宿題も今日の準備もできていない。何をどうすればいいのかわからない。気づけばあと十分で家を出なければならない。そこで受話器を手に取り「今日は体調が悪いのでお休みします」と高校に連絡を入れる。そんなことが増えてきた。自分がダメ人間であることを隠すために。ほんのちょっとした羞恥心を嫌がって、彼に嫌われるのが怖くて、越ケ浜麻衣としてのちっぽけなプライドを保つためにだけに、たくさんの嘘をついてきた。
 私が苦悩している間にも私の頭はどんどんだめな私になっていった。  いやきっと本当は単に生まれながらに頭が悪かっただけなのだろう。それが、年を経るごとに要求されるレベルが高くなっていき露呈したにすぎないのだと思う。中学生までは持ち前の地頭のよさ、シンプルなIQの高さでゴリ押しができた。しかし高校生になって、段取りとか計画とか努力とかを求められるようになって、さらに高いレベルのことを要求されるようになって、当然のように破綻したに過ぎない。私は父のようなエリート街道を志望できるような人間ではなく、地べたを這いずって空を見上げるしかできない程度の痴愚であった。そんな単純なことに十数年生きてきて気づけなかったのだ。夢は醒めた。しかし周囲の人間は私に夢を見ているに違いなかった。いまさら天才少女をやめることは周囲に対する裏切りに思えた。
「勉強をしたくない」「人と話したくない」「朝起きたくない」たくさんの我儘が身体の内側から膨れ上がって、身体がばらばらになりそうになる。けれど称賛されるのに慣れすぎていた私はダメ人間である自分を認めるという決断すら、嫌われたくない、恥ずかしい思いをしたくない、失望されたくない、という我儘に邪魔されてできなかった。
 心は抑圧する対象だった。貧弱な理性を用いて感情を抑圧するという行為は日常となり馴れていった。高校一年生の終わり、私の心は「努力したくない」「しなければならない」という自己矛盾の歯車によってバキバキと壊されつつあることを自覚していた。しかし天才少女をやめるという選択は選べなかった。
 そして一年生の終わり頃、私は前会長からの強い推薦を受けて、生徒会長に就任した。頼まれたからだった。越ケ浜麻衣は人の頼みを断れなかった。本当は嫌だった。私はどうしようと絶望し、絶対に無理だと思って心が折れそうになった。
 ちょうどその時に医師をしているいちばん上の姉からの紹介によって『自制』に出会った。精神科の先生を紹介してもらい、トントン拍子で処方してもらえた。私は怪しみながらもシートから錠剤を取り出して飲んで一週間が経過した頃、効果をはっきりと自覚した。
 『自制』を飲んでいる間は、私は人間に戻ることができた。計画を計画通りに進めることができ、やりたくないことでも頑張ることができるようになっていた。朝に寝坊することも、遅刻しそうになることも、宿題の〆切に遅れそうになることもなくなった。「やりたくない」といううるさい声も聞こえなくなった。飲んでいるときだけ思考がクリアになった。
 私は結局のところ無能だった。無能力だった。そんな無能が有能なふりを続けるには、私の自我(だめなところ)を薬で抑圧する必要があった。
 もちろん精神に作用する強力な薬なのだから副作用もひどかった。頭痛、腹痛、口渇、悪心、便秘、不眠、体重減少、動悸などいろいろなしんどさが身体をむしばむ生活だった。生理もここ二か月はきていない。とくに食欲と性欲については、この薬を飲み始めてから極度に減衰して、ほとんど感じなくなってしまった。
 しかし、これだけの副作用を背負わされたとしても、私はこの薬を止めることはできなかった。これらの副作用はあらかじめ姉や精神科の先生からも丁寧に説明を受けていた。私は人間になりたかった。誰からも尊敬され続ける越ケ浜麻衣のままでありたかった。嫌われたくなかった。みんなの人気者でいたかった。「苦しい」という我儘な心は薬と訓練により抑圧可能だった。致命的な障害が残るたぐいの薬でもないので、この肉袋(からだ)が多少おかしくなろうと構わなかった。それよりは、彼と一緒に夢を追い続けたかった。

 私は後手に縛られた両腕の拘束がほどけないことを確認しながら、諦め心地で肩をすくめた。
「飲んでいたよ。いい薬だった」
「......そうか」
「君は誰からも愛される天才少女越ケ浜麻衣がクスリ漬けの精神疾患持ちでがっかりしたかな?」
「別にがっかりはしていない。むしろ納得した。その上で気づけなかったことに絶望したよ」
「......そうかい」
「気づいたのは二週間前だ。本当に驚いた」
「なるほどね、ちょうどその頃から薬の効き目がなくなったのは君が入れ替えたのか............ほんとう、酷いことをしてくれたよ。何だかね、生徒会が終わったんだと思って安心したら抑圧してため込んでいた感情がぐーっちゃぐちゃに身体の内側で暴れだして、胃液と一緒に噴き出したんだ。
 せめて薬を抜くのは生徒会が解散するのを待ってからでもいいじゃないか......私は、せめて後輩くんたちの前ではかっこいい先輩でありたかったよ」

 これは偽らざる私の本音だった。私は彼が服薬の事実を知れば絶対に止めることを知っていた。なぜなら彼は私が身体を傷つけながら勉強していることをしれば絶対に止めるからだ。けれど、それだと一緒に夢を見ることが不可能になってしまう。せめて、生徒会が終わるまでは優秀な越ケ浜の夢を見させてほしかった。
 私の言葉に「そうだよな。本当にごめん」と彼は首を垂れて謝罪した。そのままじっと私の言葉を待って頭を下げ続ける。私はため息一つついて、許すことにした。
「......いいよ。許してあげる」
 しばらくの沈黙があった。彼はカーペットの敷かれた床の上にぺたんと座って、同じくジンベエザメにもたれかかる私を泣きそうな表情をして見つめていた。ゆっくりと彼の重い口が開かれた。
「なあ越ケ浜」
「どうしたの」
「おれはお前が好きだよ、麻衣」
「そう......。ありがとう」
「お前って本当は頭悪いだろ」
「そうだね」
「文章を書く能力もなければ、人当たりも苦手、タスク管理も苦手、髪セットできない、家事できない、部屋を掃除できない、布団たためない、面倒くさがり。マジで実家から出てお手伝いさんいなくなったらどうやって生活するんだよ。まったくもってのダメ人間。ぶっちゃけ官僚とかなるのは向いていないと思う。
 ......けどそれがおれの好きな越ケ浜麻衣だよ」
「だれのこと」
「だから越ケ浜のことだって。......クスリやってたのおれの為なんだろ。マジでやめろよな、ふざけんな。
 おれはお前が頭悪くてダメなことなんて知ってる。その上で好きだって言ってるんだ」
「......そっかー」
「お前が自分のために飲むのなら好きにしろ。それはお前の人生だよ。......けどな、おれのために飲むのならやめろ。やめてくれ」
 彼はそう悲痛な表情で口にした。私は「そっか......」と彼の言葉を反芻した。胸の中がぽっかりと空いて、けれど一気に身軽になったような気持ちになった。口元が歪み乾いた笑みが零れ落ちる。自然と涙がこぼれた。
「あー、もう。そっかー、隠せないか。はっ、はは。私の努力は何だったんだろう。必死に取り繕って、ぼろぼろになりながら、血反吐はきながら、ずっと掻きむしりたい身体を押さえつけて有能なふりをしてきたの......ぜんぶ無意味だったんだね」

 彼はそんな私の様子を見て無言のまま、私の頭を両手でがしりと抱えた。両腕はがっしりと後ろ手で拘束されたままなので、まったく抵抗できない。私は彼のことを初めて怖いと思った。とても自嘲気で露悪的な、悪役になる覚悟のできた表情だった。彼はそのまま冷たく言い放った。
「少なくともおれは望んでいなかった。なあ越ケ浜。おれは天才官僚になったお前なんて望んではいない」
「......そっか」
「おれと付き合ってくれないか」
 彼は私の瞳をじっと見つめたまま、そうはっきりと告げた。彼の黒く凛とした瞳には決して断られることはない確かな自信があった。私は既に、私がこの告白を断ることはできないことを自覚していた。私は彼のことが好きだからである。......好きだから今の今まで頑張ってきたんじゃないか。私の口から軽薄な笑みがこぼれる。なんだって私はこんな思いをしてきたんだかわからなくなってしまった。
「っは。はは。......君はうそつきだ。私は、越ケ浜麻衣は君と一緒に事務次官になることを約束したじゃないか。中学生のあの日! あの屋上の上で! だから私はここまで這いあがってきたし、君はここまで努力してきた。あの約束どおりの私はいらないっていうのはあんまりにもひどいよ。私と君が積み上げてきた五年間はなんだったんだ。お互い対等だと思って戦友だと思って一緒に走ってきたのはなんだったんだ。君は私のことを成功者のトロフィーペットとして飼育できればそれで満足だったなら早く教えてほしかったよ! それなら私はとっくに人間をやめたのに。私はかわいさと媚と愛嬌に全力を注いだ動物になってやったのに。私は君との約束を破ることが怖くて、君の五年間の努力を裏切ることが怖くて、だから壊れながら走ってきたんだ。......私と君の夢をこんなにあっさり否定しないでよ。せめて夢を捨てようとする私を罵ってくれよ。私は頑張ったよ。あの屋上での約束からずっと頑張ってきたよ。頑張ったって言ってよ。頑張って人間のフリして生きてきたでしょ。約束を......君との夢を......こんなにも大事にして......」
 興奮する私の背中を彼はゆっくりと撫でて落ち着くように促した。そして「ああそうだな。おれが悪かったよ」と静かに頷いた。「お前の言うとおりだ。麻衣、一緒にいられるなら、あの約束なんてどうでもよくなってしまった。......裏切ったのはおれの方だよ」と。

 十分程度沈黙が続いた。カーペットの上で二人、それぞれ反対側からジンベエザメのぬいぐるみに身体を預けている。やがて、私はちらりと彼の横顔を一瞥してから重々しい口を開いた。
「いいよ......告白受けるよ。付き合おう」
 
 この瞬間、中学校の屋上で見た二人の夢は泡沫となって消えた。彼としては、私が官僚として活躍するよりも、そばで愛嬌を振りまいてくれる方が嬉しかったのだろう。私はさようなら、と越ケ浜麻衣の幻想に別れを告げた。痴愚と白痴を振りまいて媚びへつらう方が努力嫌いで頭の悪い私にはよほど向いていたし、彼もその方を望んでいた。ならそれでいいじゃないか。......彼はそんな私の様子をみてどこか諦めたような、寂しげな表情を浮かべ、力強く抱きしめた。

 それから私たちは数日間高校を休んだ。私はぷつりと糸が切れたかのように本当に何もできない状態になってしまった。水を飲むこともトイレに行くこともできなくなった。頭の中のもやは濃くなり、思考は拡散して成り立たなくなった。恐怖から自傷に走りそうになるたびに両腕の拘束に救われた。本当に限界を迎えたのだろう。精神の医者さんに連れていかれた結果、あっさりと病気の判定が下された。結果論的にはなるが、彼が薬をあのタイミングで止めて、私の夢を諦めさせたのは正解だった。破滅的に脳が破壊される直前の、本当に最後のタイミングだったのだと思う。
 数日間の間、私の両腕は縛られたままだった。今のままだと自傷に走りかねないともお医者さんに言われた。鬱血しないようにするために定期的に拘束を外されてマッサージされる以外はずっと固定されぱなしになっていた。彼は私に手を出すことはなかった。そればかりか、身の回りの世話から食事入浴排泄まですべて介護してくれた。彼に、手作りの中華粥をレンゲですくって口元へ運ばれるたびに、排泄の後処理をすべて任せるたびに、今まで自分が培っていた越ケ浜家の令嬢としての私が破壊されていくようで、どこか快感であったことを覚えている。私はずっと無理をしていたのだ。身の丈に合わないことをして、嘘をついて生きてきた。本当の私はまったくの無能力で精神に問題を抱えていて、誰かの慈悲に縋らなければ普通に生きていくことすら苦痛であり困難であるという事実をしっかりと突きつけられた。

 それから私は薬を飲まなくなり、等身大の無能で無能力な越ケ浜麻衣に戻った。いままでの勉強の貯金がたくさんあったことにより、一年後には東京大学ではないけれど首都圏の国立大学に難なく合格することができた。彼は結局現役のまま東大に進学し、そのまま農林水産省からの内定を手に入れたらしい。彼にとって、中学校の屋上で見た夢は多少の紆余曲折はあったものの、もはや地続きの現実になっていた。

 たまに私は後悔する。彼はきっと本当は、あの中学校の屋上の夢を忘れていなかったのだろう。一緒に戦友として官僚界を生き抜く幻想を抱きながら、東大に受かるだけの勉強を積み重ねてきたのだった。......だからやっぱり私は彼を裏切ってしまった。私は彼にとても大変な夢を与えて縛った挙句、自らはそれから心を壊すというとても馬鹿で我儘な理由によって一抜けしてしまった。そして最悪なことに、私は彼を悪役にしてしまったのだ。

 思考は段々と回復していった。けれどまだ私の世界は恐怖に満ちている。私が無能力であるという自覚はくっきりと心の奥底に刻まれてしまった。彼の傍にいなければ私は生きていくことすらできないのは変わらない。あの日に新しく作られてしまった運命の上で私は生きるしかないのだ。

 薬指に嵌められた銀色のリングを陽光できらきらと反射させながら、私は考える。
 ......けれど、それでも。私は。

【四】
 時計の針がカチリとすすみ、短針と長針が重なり合った。「飯作ってくる」と言って、彼は腰を上げた。そのまま狭い厨房へ向かって行った。パタン、と冷蔵庫の扉が閉まる音が聞こえた。生姜にんにく醤油みりんに漬けられた鯖と片栗粉を取り出したのだろう。カン、と天ぷら鍋をコンロに置く音。トクトクと油を注ぐ音。馴れた調子、流れるような手際の良さで料理は進んでいった。私が憧れた能力、私がどれだけほしいと思っても手に入らなかった能力だった。

「ねえ」
 気づけば私はジンベエザメのぬいぐるみを置いて立ち上がり、厨房へ向かうと、そのまま彼のエプロンの裾をくいと引っ張っていた。不思議そうな表情で彼は私の方を向いて「どうしたの?」と尋ねた。
「......今日は、私も手伝う」
 私の言葉を聞いて、彼は言葉を詰まらせた。少しいやそうな、困ったような表情を浮かべた。しかし観念したように莞爾と微笑んだ。
「............わかった。それなら、鯖の水気を切るのを頼むよ。キッチンペーパーそこにあるから」
「うん」
 私はじっくりと醤油に漬けられた鯖を箸で取り出し、キッチンペーパーの上に落とす。そして丁寧に水気を吸わせてやり、片栗粉をまぶして油に落とした。
「なれてる?」
「中学校の頃は家庭科部だったからねー」
 そう答えながら、わずかに違和感のある腹に、空いていた左手を添えた。


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