声を聴かせて ビガレ ラジオは、今でも聴く。 けれども、もうあの頃と同じようには聴けないだろうと、両耳にイヤホンを引っ掛けながら思う。 有介は、就活の真っただ中、電車に揺られていた。既にいくつか内定をもらってはいるのだけれど、まだ気持ちが落ち着かず、漂流するように就職活動を続けている。ゼミの同期からは「贅沢だ」と揚げ足を取られ、母親からは「有介が良ければそれで良いけど」と伏し目がちに呟かれる。有介は、その度に首を傾げて誤魔化していた。 耳元の細長い管を伝った先からは、決して明るくは無いが芯の通った声が聞こえる。 「俺がこう、椅子を持って、体育館に向かってた時に、もう限界だと思って、その、うんこ漏らしちゃって」 ラジオのパーソナリティが必死で笑いを堪えている様子が伝わってくる。 時計の針は既に0時を回っていた。こちら側の扉が開くのを忘れていて、慌てて座席の方に退く。ぷしゅう、という音を立てて扉が閉まる。 車窓で切り取られた風景は、額縁に入れた絵画のようだ。その中を左から右へ流れ行く夜景は、こんがらがった頭を空っぽにさせてくれる。例えばもう数年前の、胸がすくような日々を思い出すには十分なほどに。 当時の有介の生活を成り立たせていたものと言えば、バドミントン部での練習と、兄から教えてもらったサザンオールスターズと、ラジオだった。 ラジオと出会ったのは高校に入学してからだった。最初は好きなお笑い芸人が出演している番組しか聴いていなかったのが、いつの間にかジャンルを問わず聴くようになっていた。 ラジオに耳を傾けるとき、有介の胸は高鳴った。特に両親や兄の目を盗みながら布団に潜ってラジオを聴くと、いけないことをしているような、特別なことをしているような気がして、余計興奮した。その後実際はそれが「あるある」だと知ったときは、少しがっかりした。ハガキやメールも時々送った。ほとんど読まれることはなかったが、一度だけ「恥ずかしかったこと」というテーマで、「部活でアドバイスした後輩が大会で自分よりも良い成績を残した」というエピソードが採用された。そのラジオのパーソナリティを務めていた声優が出演するアニメは、ほとんどチェックするようになった。 有介は、それらの胸の高鳴りを、誰かに打ち明けたいと思うこともあった。しかし普段学校でつるむような友達には、「ラジオを聴いている」とは一度も言ったことが無かった。理由は特に分からない。でも好きなグラビアアイドルの話をしていたり教室の後ろで野球ごっこをしていたりする友達と一緒にいると、ラジオのこと自体を思い出しすらしないのだ。湯船に浸かりながら「あの話の流れでラジオのこと言えたのにな」と、ふと振り返るのがお決まりだった。 だから、彼との出会いは、当時の有介にとって運命と呼ぶべきものに近かった。 彼とは、阿波南のことだ。阿波で区切れて、次に南。どこかの地名みたいな名前だ。阿波は教室では目立たない奴だった。班が一緒になっても話を振らないと喋らないし、移動教室も必ず遅かった。多分学校に来ていない日もあった。唯一印象に残っていたのは、いつか見た欠けている前歯だった。 土曜の夜だった。夕方まで降っていた雨が止んで、月がよく見えたのと蛙たちが喧しかったのを覚えている。親と喧嘩してスマホとイヤホンだけ持って家を出た有介は、外を歩きながら、ラジオを聴いていた。その番組は毎週自分の部屋で聴いていたので、足元に見える青白いアスファルトが新鮮だった。 パーソナリティであるお笑い芸人が人間ドッグへ行った話が終わった頃、家から二番目に近い公園に辿り着いた。いつの間にかかなりの距離を歩いていたことに驚いた。 公園は、周りの土地からそこだけ少しくぼんでいて、行くには重心を前に投げ出されないようにつま先に力を入れなければならなかった。 有介は自販機でエナジードリンクを買おうとして、財布を持ってきていないことを思い出し、小石を蹴りながら公園のベンチに座ろうとした。 「うわっ」 有介は大きな声をあげた。暗くて見えなかったが、先客がいたのだ。先客は有介が声をあげてから数秒して、突然ぱっと顔を上げ、有介と同じように「うわっ」と叫んだ。 お互い顔を見合わせるうちに、有介は口を開けたままの相手の、前歯が欠けているのに気付いた。その独特の欠け方には見覚えがあった。 「もしかして、阿波?」 尋ねられた人物ははっとした顔をして口を真一文字に結び、先程とは別人のような小さな声で「うん」と頷いた。 「何してんの、こんなところで」 「いや、その」 「俺はさ、ラジオ聴いてるんだ」 「え、僕も」 有介と阿波は同じタイミングで口角を上げた。雨上がりの涼しい風が二人の間を通り抜けた。 二人が聴いていた番組も同じだった。ベンチに横並びになって、放送終了を待ち、午前3時の時報を聞いてからイヤホンを外した。数十分、いや本当は数十秒の沈黙の後、阿波が口を開いた。 「何から聞いたら、いいかな」 有介は少したじろいだ。 「昨日、学校、来た?」 「うん、行った」 「そうなんだ、そうだよな」 またしばらく黙って、再び阿波から話しかけた。 「ラジオ、普段から聴くの?」 そうかラジオの話をすればよいのかと思い出して、何かを言おうとした有介は、言葉に詰まった。 「どうしたの?」 有介は誰かにラジオの話をしたことが無かったから、何から話せばよいのか分からなかった。でも何故かそれを阿波には知られたくなかった。 「もしかして、ラジオ聴いてるの人に言ったこと無い?」 「あ、そう、初めて」 「僕も初めてだよ」 「えっ、そうなんだ」 有介は短く息を吐いた。 「さっきはごめん」 「え、何が」 「イヤホンしてたから渕上君に気付かなくて、驚いて叫んじゃった」 「ああ、さっきってそのさっき」 俺もだけど、と呟いたが阿波には聞こえていないようだった。 「今日の、面白かったよね」 「うん、面白かった。特に、食事制限のところ」 「あれは神がかってたね」 「思ったんだけど、今日のやつ、歯医者の回に似てなかった?」 「うわ! 僕も思った!」 阿波は周りを見回しながら立ち上がり、自販機の所へ行って、小走りで戻って来た。手にしていたのはエナジードリンクだった。 「良かったら、あげる」 その日から、二人は毎週その時間にその場所で、同じラジオを聴くようになった。 授業中に蜂が入ってきて、クラスの大半が教室の右半分に固まったときがあった。先生は落ち着けと叫んでいたが、騒いだり騒ぎに乗じて駄弁ったりして、誰も聞き入れてはいなかった。有介は、身体を寄せ合う女子を見ながらこんなときでも鏡を離さないのか、とやけに冷静だった。 そこで運が悪かったのが、阿波だった。阿波は窓際の一番後ろの席で顔を伏せてぐっすり眠っていて、蜂から逃げ遅れた。皆が時々「阿波」「阿波くん」と教室の対岸から呼びかけたが、起きる素振りは無かった。男子が「南くぅん」と猫撫で声で呼んだときは、少し笑いが起こった。隠れて先生も笑っていた。誰かが「あれスズメバチだ」と叫んだ。笑いが止まり、「やばくね」とざわつき始めた。 一たび注目を集めることになったスズメバチと阿波は、徐々に距離を縮めていった。「マジで誰か行きなよ」という声は、ゆっくり無視された。スズメバチは、阿波の頭上を旋回し、真っ黒な後頭部に着地した。 皆が黙った。さっきまで有り得ないくらい顔を近づけていた女子も、ニヤニヤしながら小声で会話していた男子も、先生も、皆が黙ってスズメバチの行く末を見ていた。張り詰めた空気が、阿波以外の全員を包んだ。そして、何も起こらないままスズメバチは窓の外へ飛び立った。 皆が一斉に胸を撫でおろし、口々に安堵だったり文句だったりを垂れながら元いた場所に戻った。 その日、阿波はずっと眠っていた。有介は、学校では阿波と会話することはほとんど無かった。 二度目の土曜日は、蒸し暑い夜だった。公園では既に阿波がベンチに腰掛けていた。その横顔は、教室とはやけに違って見えた。 「小学校のとき、林間学校ってあった?」 お互いにイヤホンを外してから話しかけた。今日の放送のメインテーマだった。 「僕のところはあったよ。渕上君、行ったことないの?」 「あんまりよく覚えてないんだよなー、職場体験は良く行かされてたけど」 「絶対そっちの方が珍しいよ」 阿波は、笑うと目元がしわくちゃになる。 生温い風が吹いた。二人の額に、じんわりと汗が滲む。 「もう、夏休みだって」 有介はTシャツの袖の所で顔を擦った。 「僕はいつも寝てばっかりだから、あんまり関係ないけど」 阿波の真っ黒な後頭部と、それを見ていたクラスの皆のことを思い出して、有介の胸の底のあたりが少し音を立てた。 「何でさ、そんなに寝てんの」 「んー、何でだろう。教室に入ると眠くなっちゃうからかな」 「何だよ、それ」 そう言いながら、有介は足元を見ていた。いつからか無意識に小石を弄っていた。 「職場体験って、どんなところに行ったの?」 「えっと、ホテル、かまぼこ工場、あと、コンビニ」 「コンビニ?」 「そう、変でしょ」 「変だね、だってそれほぼバイトじゃん」 「基本はバイトだった」 有介は引き笑い癖で、ひっひっ、と笑う。 「でも、店長とかエリアマネージャー? とかがやってるようなことも体験させてもらえたから、わりと面白かった」 「へー」 「あとさ、休憩のときにアレもらえるんだ。あのほら、レジの横に置いてあるやつ」 「チキンとか肉まんとか?」 「そう。それが超美味かった」 「えー良いなー」 その後、解散した二人は少し離れたコンビニの前で再会した。お互いが目を合わせた瞬間、阿波は目元をしわくちゃにして、有介はひっひっと言って笑った。一緒にチキンを買って、頬張りながら「もう眠れないね」と言って連絡先を交換した。 その次の週も、そのまた次の週も、二人は公園で待ち合わせ、その日聴いたラジオの話や、それ以外の他愛のない話などをした。 次第に一緒にいる時間は長くなり、橙色の空に気付いて慌てて時計を確認する日もあった。 夏休みに入ってから初めて、昼間に阿波を見た日があった。 その日はなけなしの日焼け止めも貫通するような日差しの強い日で、隣に歩いていた部活の友達の焼けた肌が一層照って見えた。 帰り道の途中、部室に忘れ物をしたという友達のひとりを残った友達と待っていたときだった。今月やばいから買い食い駄目なのに、と愚痴りながらモスバーガーのポテトを口に運んでいると、大きなガラス窓から阿波の姿が見えた。有介は「阿波だ」と呟いたが、友達はプロ野球選手のスキャンダルの話に夢中だった。 阿波は、夏に慣れていなそうな白い肌に露のような汗を滲ませ、懸命そうに歩いていた。学校の制服を着ていた。有介はスマホを取り出し、「何してんの?」とメッセージを送ってみる。顔を上げたが、阿波が気付いている様子は無かった。友達に阿波がいることを伝えようと思ったが、それはやめた。 友達に「お前もあの記事見た?」と聞かれ、有介は身体を斜めにし、何食わぬ顔で会話に合流した。ひっひっという笑い声が、テーブルの周りにこだまする。 その日の夜、阿波から「ごめん見てなかった。いつのこと?」という返信があったが、有耶無耶にしてラジオの話を続けた。 その週の土曜日は、台風が近づいていて、今日はナシにしようとなった。久しぶりに自分の部屋で聴いたその放送は、相変わらず面白かった。 冷蔵庫の横に貼られたカレンダーを見ながら、夏休みの残りの日数をカウントしているところだった。阿波からのメッセージだ。 「今週の土曜日、ラジオのイベントがあるんだけど、良かったら一緒に行かない?」 添付された地図に丸されていた場所は、自宅から電車を数回乗り換えれば行ける、公民館のような施設だった。駐車場ごと貸し切って、グッズを販売したり公開収録を行ったりするらしい。参加する番組の中には、有介と阿波が聴いているものもいくつかあった。 有介はすぐに返信した。 「絶対行く! 部活あるけど、仮病使えば休める!」 スマホをポケットにしまい、カレンダーに「ラジオ」と書き込んだ。 当日、有介は一つ目の乗換駅で阿波と合流した。イベントを存分に楽しむために色んなラジオを聴き直してきたという話の流れで、有介が「ハガキ職人」について触れた。 「俺の好きなハガキ職人がいてさ」 「ハガキ職人」とは、ラジオ番組のコーナーや生放送時のリアクションなどにおいて、ハガキ(現在はメールが主流だろう)の採用率が高いリスナーのことを指す。 「知ってる? 『バブルの申し子』さんって人なんだけど」 そう言うと、阿波は何故かニヤニヤして、自分の鼻の先を指さした。 「それ、僕」 「えっ! マジで? え、でも」 「そう、結構下ネタ言ってる」 二人は目を見開いて、電車の中で必死に笑いを堪えた。それでも顔は真っ赤になって、目尻には涙をたたえた。 「あんな内容送ってるから、てっきりおっさんかと思ってた」 「ひどいな、いや、ひどいのは僕の方か」 「でもすげえ、あんなに採用されるなんて」 「渕上君は送らないの?」 「たまにだけど、ほとんど読まれたことなんか無いよ」 「じゃあ僕からよく学ぶといいよ」 有介が大袈裟に悔しがるジェスチャーをすると、また阿波は目元をくしゃっとさせて笑った。 電車は長いトンネルを抜け、ようやく視界が開けたかと思うと、すぐに目的の駅に到着した。 イベント会場には白いテントが立ち並んでいて、遠くにはラジオブースを模した舞台も設営されている。開場まではまだ三十分ほどあるが、既に何人もの、グッズTシャツなどを着た人たちが入り口付近で列をなしている。有介と阿波も倣うように最後尾についた。 待っている最中、二人がよく行くコンビニに必ずいるおばあちゃん店員の話や、ラジオネームにカタカナを入れると採用されやすくなるという都市伝説の話をしていたら、あっという間に列がぐんと進み、イベントの開始が告げられた。 「すげえ、全部ラジオだ」 「どこ見てもラジオ」 「限定のグッズ売ってる」 「うん」 「公開収録のタイムテーブルもっかい見せて」 「ここにいる人たち全員ラジオ聴いてるのかな」 「そりゃそうなんじゃない」 「すごいね」 「すごいな」 ラジオは、目に見えない。それは聞こえてくる声の正体やそこで行われている物事だけでなく、同じ時間に同じ周波数の放送を聴いているはずのリスナーも、である。だから二人は、こんなにも多くの人が自分たちと同じ目的でこのイベントに来ているという事実に感嘆していた。 二人の表情は自然と緩み、予め決めていた工程表を見ながら、足早に動き出した。 まず有介が好きな声優と、阿波がメールを読まれたことのある芸人の公開ラジオ収録を観覧し、それぞれグッズを購入した。有介は芸人の、阿波は声優のグッズも勢いに飲まれて買っていた。次にそれ以外のテントも見て回り、さらにイベント主催のラジオ局についての展示を眺めた。 気付けば時計の針は午後二時を回っており、昼食を取ることにした。 「これ、あの番組のやつじゃない?」 「本当だ。ここまでラジオなんだね」 久しぶりに腰を下ろした二人は、スプライトとアクエリアスを一気に飲み干した。蒸し暑い気温や広い会場も相まって、そこそこ体力は消耗されている。「明日筋肉痛かも」と言いながら阿波は、ある芸人がラジオで「世界一美味い」と言っていたものを再現した焼きそばを啜った。「どう?」と聞くと「別に普通」と苦笑いしていた。 時間が経るごとにイベントの参加者の数も増えている。一人で来ている人や二人で来ている人、三人で来ている人やそれ以上の人数で来ている人もいる。性別だって歩幅だって呼吸だって、違う。そんな人たちが、ひとつの共通の趣味をこっそり持ち合わせて、いっせーので白昼堂々晒している。有介にそう言ったら、「露出狂みたいじゃん」と笑われそうだと思った。 「僕さ、ずっと一人だったんだ」 焼きとうもろこしを半分くらいまで噛り付いていた有介の手が止まった。 「どうしたの、急に」 「いや、ラジオの話だよ」 阿波は笑って言った。目元はそのままだった。 「ずっとさ、一人で聴いてて、誰にもそんな話したことなかった。別に話したくて仕方なかったとかはないんだけど、それでも、僕はラジオめちゃくちゃ聴いてるってこととか、メールもたくさん読まれたことあるんだってこととかを、誰かに言ってしまいたいって思ったことは正直何回かあった。でもまあ、そんなこと言える人も場所も無いし、このまま秘密の趣味として隠して仕舞っておいても構わないかなと思ってたとき、偶然公園に行ったんだ。そしてそこで、同じ趣味を持ってた君と、渕上君と出会った。渕上君もそのことを誰かに言ったことは無くて、それで僕は嬉しくなって、何かわってなって、レッドブルなんかあげちゃって」 有介はべたべたになった口元も拭わず、黙って聴いていた。 「それからはずっと楽しかった。好きなラジオの話もできるし、それ以外の話もできたし、お気に入りのコンビニも見つけたし、こうしてイベントにも来れた。全部の思い出が、僕の人生とは思えないくらい、楽しかった。マジで最高の夏だ」 とうもろこしの汁がぽたりと落ちた。 「つまり何が言いたいかって言うと、ありがとう」 阿波は言い切ると同時に焼きそばをかき込んだ。プラスチックトレーに隠れて、有介からは顔が見えなくなった。有介は肩にかけていたタオルでとうもろこしのべたつきを拭き取った。 「一人じゃないよ」 「え?」 「ラジオ聴いてる限りはさ、一人じゃないんだよ」 「......うん」 「ラジオやってたアナウンサーが言ってた話なんだけど、ラジオは誰か、じゃなくてあなた、に向けて放送されるんだって。皆に聴いてもらうために、じゃなくて、あなた、俺たちに届けるために放送されるんだよ。ラジオは、誰かと俺たちを繋げてくれる。だから、一人じゃないんだよ。ラジオを聴いてて、一人ぼっちな人なんて、一人もいないんだ」 阿波も、黙って話を聴いていた。 それから先のことは、とにかく楽しかったことしか覚えていない。お互い帰りの電車で別れるまでずっと話し続けていた。有介はいつも眠っている阿波のことを思い出しながら。阿波はいつも寝たふりをしている自分のことを思い出しながら。 その日の夜は、流石に疲れて集まらなかった。 夏休みの間に公園に行けるのは残り一日だった。有介は、土曜日の天気予報を二時間おきに確認していた。当日は普段より十五分早く着いた。その日、阿波は来なかった。 二学期の初日。一ヶ月半ぶりに開く教室の扉。 有介は自分のクラスに入ってすぐ、窓際の一番後ろの席を見た。普段ならこんな時間に埋まっているはずは無いのだが、一応見た。そこに阿波は座っていた。顔は伏せていた。 有介は、阿波が登校していたら絶対に話しかけようと思っていた。玄関で、「いたら話しかける」と三回言い聞かせた。 キーンコーンカーンコーン。 そこで間が悪く始業のチャイムが鳴った。担任の教師に背中を小突かれ、半ば強制的に自分の席に座らされる。有介は貧乏ゆすりしながら、朝のHRの今日の予定の部分だけ聞いて、阿波に話しかけられるタイミングを考えていた。 しかし結局、有介が阿波に話しかけることは、その後一切できなかった。 原因は二つ。一つ目は、阿波が失禁をしたから。二つ目は、阿波が転校してしまったからだ。 始業式が、夏休み中に生徒の非行が度々報告されたとかで長引くらしかったので、生徒は説教を聞けるように教室の椅子を体育館に持っていかされることになった。むしろ移動に時間がかかって面倒だろう、と思ったが、所詮教師の言いなりになるしかない生徒たちは、行儀良く一列に並んで椅子を運んだ。そこで、阿波が漏らした。 列が離れていて遅れてそれを知った有介が見たのは、人が空っぽの直径3メートルほどの円の中心にへたり込む阿波の姿だった。角度的に表情は見えなかった。周りの生徒は、声にならない声を上げながら、恐らく軽蔑の眼差しを向けていた。 有介は、何もできなかった。たった数歩を踏み出すことができなかった。 それからすぐに教師が何人か駆け付け、阿波は保健室へ運ばれていった。阿波が抱え上げられるときにその表情が見えそうになったが、有介は目を逸らした。どんな顔をすれば良いか全く分からなかった。 その日から3階の廊下のある地点を、誰も通らなくなった。 翌日、担任の教師の口から阿波の転校が告げられた。教師は「夏休みの内から分かっていたことだ」という点を何度も強調した。顔を見合わせてくすくす笑うような生徒もいたが、有介はそれは嘘ではないと思った。 転校も知らされなかったし、それが気まずくて最後の土曜日の夜は来なかったと、結びつけることしかできない。 二人の夏は、そこで終わった。 あのとき何が正解だったのか、今でもたまに考える。そうして降りる駅を乗り過ごしてしまったり、布団の中で眠れなくなったりすることもある。でも何度考えても、その答えは阿波や有介やそれ以外の誰かを傷つけてしまう。 有介は、イヤホンから聴こえる芯の通った声の行く先を、一秒も取りこぼすまいとしていた。 あれから、阿波とは会ってもいないし話してもいない。だからラジオのパーソナリティを務めていると知った時は、驚いたし、また無責任にも嬉しいと思った。 自分が見捨ててしまった誰かを、ラジオは見捨てないでいてくれた。そしてまた新たな誰かと繋がり、一人ぼっちにしてしまわないように声を届けてくれている。ラジオを聴いている人は誰も一人ぼっちではないと教えたのは、自分だったのに。それを嬉しいだなんて、無責任にもほどがあると思っている。 だから、今更どうにかしようとは思わない。ただ、繋がりたいと思った。 「えー、先程のね、うんこの話にリアクションのメール頂いてます。ラジオネーム......『バブルの申し子』」
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