ただひたすらに 源いなり 夕暮れ時のベランダ。淡く橙色に染まる空を眺めながら、赤マルを嗜むのが男の日課であった。 甘く香ばしい匂いと吸いごたえがたまらない。一日の疲れや苛立ちが煙となって、ゆらゆらと立ちのぼる。そのまま屋根の上へと消えていく。 赤マルは他の銘柄より少々お高いが、これでないと満足できないため我慢するしかない。何度か他の銘柄を試したこともあったが、どれも男のニーズを満たすことはなかった。 赤マルを咥えて物思いに耽っていると、隣の部屋のベランダから怖い顔をしたご婦人がぬっと出てきて、洗濯物に匂いが付くでしょ、と文句をつけてきた。だが、申し訳ないと思いながらも男が日課をやめることはなかった。 しかしそれは過去の話である。男は大好きな赤マルを手放した。正確にいうと手放さなければならなかった。彼にとって、それはまさに苦渋の選択であった。 今でもあの味が忘れられず、気がつくと自販機の真ん前に立ち尽くしていたり、コンビニで商品をレジに通す際に「503番を一つ」と呟いてしまったりする。依存とはどれだけ恐ろしい病気なのかを、身をもって学んでいるかのようである。 赤マルを買わなくなった今でも、男は日が落ち始める頃にベランダに出て、何もせずにぼうっと空を見上げているのだから重症である。うっすらとだが、白い煙のようなものが見える気がする。気がするだけだが。 「今日も相変わらずね。寒くないのかしら。」 がらがら、と窓が開く音がする。男が振り返ると、そこには制服姿の少女がいた。学校から急いで帰ってきたのだろうか、額が少し汗ばんでいる。 チャーミングなえくぼが特徴的な少女は、いつも生意気な笑顔を向けてくる。小学生の分際でなかなか値の張る女性用シャンプーを使っているだけのことはあり、彼女の背中まで伸びる黒髪はつやつやと輝かしい。 少女は寒い寒いと不満を垂れながらも、男の傍らにそっと寄り添った。 男はハハハと生返事し、少女の乱れた前髪をさっと直してやった。 「おまえがベランダに出てくるなんて珍しいじゃないか。どうしたんだ」 そう問いかけると、少女は聞かれるのを待ってましたと言わんばかりにふふんと鼻を鳴らし、A4のコピー用紙を手渡してきた。そこには『二分の一成人式のお知らせ』と太めの明朝体で書かれていた。 「今度の参観日で二分の一成人式をするんだけど、その時に自分の名前の由来について作文発表をするの。私の名前を決めたのってあなたで合ってるわよね。どうしてこの名前にしたの?」 成人年齢が十八歳に引き下げられても、二分の一成人式の実施は十歳時のままで変わらないのだなあ。と男は関心を寄せるが、問題はそこではない。少女の名前についてだ。 少女はやる気と期待に満ちた表情を浮かべている。そして、きらきらとした目で男の顔を覗き込む。普段は男に偉そうな態度をとるくせして根が真面目な少女であるので、宿題には真剣に取り組むつもりなのだろう。感心なことだ。 確かに少女の名前を最終決定したのはこの男だか...。 「えー、なんでだったかなぁ。」 「は、何よそれ?」 男が曖昧に答えると、少女は目を大きく見開いた後、ありえない、という顔で男をじろりと睨みつけた。顎をぐっと突き出すのは彼女の悪い癖だ。 それを見た男はハハハと一笑し、目線をそっと左上に向けた。 男が青年であった時のことだ。青年の姉は職場の上司と結婚し、彼との子供を身ごもっていた。夫婦共にたいそう喜んでいたが、子供が女の子であると判明した時の姉のはしゃぎようはそれ以上で、今も青年の脳裏に焼き付いている。 姉の腹はなだらかに膨らんでおり、その中に何かがあることは明らかであった。そっと腹に手のひらを乗せると、こぽこぽと何かが動いた。それによって、中にあるものが生き物、つまり女の子であることがわかった。今まで出会ったことのない生暖かい感触がして、ぱっと手を離してしまう。 姉は青年の戸惑う表情を眺めながら、にこにこと面白そうな笑みを浮かべている。そして、最近はおなかの張りがひどいのよーと不満だか自慢だかを聞かせてくる。 青年は姉に、女の子の名前を考えるようにお願いされていた。姉よりも青年の方が勉学に向いていて賢いからと。 彼はそれに二つ返事で答えた。生まれてくる自身の姪に既に愛着が湧いていたし、彼女にピッタリな名前を付けてやれるのは自分だけだという謎の自信があったからだ。 名前をつけるにあたって、青年はできる限りの努力をした。まず、流行の名前を把握し、リストアップしておく。次に、音の響きや上記のリストを参考にして名前の候補を絞る。そしてそれらに、画数を考慮しながら、あれでもないこれでもないと漢字を順番に当てはめていった。その際、常用漢字と人名漢字にざっと目を通した。 「『衣』という文字は入れるべきだと思うんだ。他者を優しく包み込む心優しい人になってほしいという意味で。ちなみに、芸術面での活躍を願う意味合いも含まれているらしい。...これに合わせるなら『織』とか『緒』?『音』もよくセットで使われてるな。でも『桜』も捨てがたいし『逢』も使いたい。でもそれだと画数がよろしくないか...?書きやすい名前の方がいいしな。...あれでもないこれでもない」 「あちゃー」 姉は右手で額を抑え、首を左右に振る。一緒に彼女の一つに束ねた髪も小さく揺れた。 「相変わらずあなたは頭が固いわね。もっと簡単でいいのに。」 青年は必死に女の子の名前を考えているのに、それを姉はいい加減に諭そうとしてくるので、彼は少々腹立たしく思った。 「そういう姉さんは何か考えてないわけ。」 「え、うーん。例えばそうねぇ...。」 しばらく考え込んだ後、あっと一言。とっておきの名前をひらめいたようである。人差し指をぴっと立て、青年の顔先に突き出す。 「ひたすら愛してるぞーって意味で『愛』ちゃんとか、どうかしら!」 そう言い、姉はにやりと青年に笑みを向けた。それに対し、青年は大袈裟に鼻を鳴らす。 「相変わらず姉さんは安直だなあ。もっといろんなことを考えて名づけするべきだと思うけど。」 「ええー、そうなのかしら?」 「そうそう。それに、名前に込めないと伝わらない愛ってどうなの?」 「あんた全国の愛さんに謝りなさいね?」 考えた名前によほど自信があったのだろう。ひどい、と顔にバッテンを浮かべて青年の失言を指摘する姉。青年は姉のそんな顔が大好きなので、久しぶりに見ることができて大満足であった。 「というか、あなたタバコ臭いわよ。まだ吸ってるわけ?」 「うるさいなぁ。人付き合いとかいろいろあるんだって。」 「子供の前では吸わないで頂戴よ。」 わかったよ、と青年は渋々返事をし、小うるさい追求から逃れるために名前を考える作業へと戻っていった。聞いてるのかしら、と青年を充分に睨んだ後、姉はゆっくりと目線を落とし、お腹をゆっくりと撫で始めた。その時見せたやわらかな横顔は、弟である青年が言うのも変だが、とても綺麗だった。 しばらくして、女の子は生まれてきた。出生体重は約3600gで正常値。ふっくらとして、それはもう玉のような子であった。 そして同時に、青年の姉は亡くなった。出産時の多量出血が原因であった。あんなにたくさんの濁った赤色を見せられては、納得するほかなかった。 「ねえ、聞いてるの?」 袖をぐいっと引かれ、男は我に返った。少女のほうを見やると、眉を寄せて不服そうに頬を膨らませていた。効果音をつけるならば『ぷくー』だ。こんなあどけない顔を見せつけられると、普段は大人ぶっていてもやはりまだまだおこちゃまなのだと気づかされる。 「ごめんごめん。ぼうっとしていたよ。」 「ふーん。まあ、いいけど。で、私の名前の意味は?由来は?早く作文書き上げたいんだけど」 はやくしてよ、と少女は小さく口を動かしている。 ご立腹な彼女の要望に応えて、そろそろ質問に答えてやらなければならない。男はもう一度顧みる。 そもそも、何を思ってこの名を少女に与えたのか。 当時の男はひどく憔悴していた。姉が死に、義理の兄も知らぬ間に失踪。そして、本当にいろいろあって、男が少女を引き取ることになった。その時、どうして少女にこの名前をつけたのだろうか。 ただひたすらに愛していたからかもしれないし、ただひたすらに不安だったからかもしれない。 しばらくして、男は小さな声で囁いた。 「おまえをひたすらに愛していたからだよ。」 「え、それだけ?」 「それだけ。」 待ち焦がれていた男からの回答に、少女は目を丸くした後、露骨に顔をこわばらせた。意味自体が安直であるし、このままでは数行だけの作文ができあがってしまう。彼女にとっては困りものだろう。 どうすんのよー、と男に文句をつける。顔にバッテンを浮かべたその表情には、なんとなく見覚えがあった。 これ以上は彼女の原稿用紙を埋めてやれない。できることなら埋めたくない。そんな発想に陥ってしまうことに、男は罪悪感を覚える。 ハハハと苦笑いして、男は少女を促して先に部屋に入らせた。少女は不服そうではあったが、真冬のベランダの寒さは簡単に耐えられるものではなく、体をさすりながら中へと入っていった。今は電気ストーブに両手をあてている。 一方、男はしばらくの間、橙色が藍黒く塗り替えられていくのを一人きりでじっと見上げていた。 なんだか口寂しい気がした。
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