n度参り

植場



 鰯の頭も信心から、ということわざがありますね。
 ええ。いかに取るに足りないものでも、信じる者にとっては神や仏と同等に有難いものなのだという意味です。
 これ、迷信深い人間を嘲笑する目的で創られた言葉なのではないかと、私は邪推しているのですが──では、鰯の頭に比される神仏は、どうなのでしょうね? 迷信ではないと、言い切れるでしょうか。
 神仏とは有り難いものなのだ──そういう観念を誰もが共有していたというだけで、鰯の頭やら竹箒やらと本質的には同じなのかもしれません。祀ればなんでもご神体です。樹とか、岩とか、鏡とか。
 翻って言えば。信心を持たない人間に、霊験は顕れ得ない。そう解釈することもできます。何度神社で頭を下げたって、ねえ、何も祈らなければ何も成就する筈、ありませんからねぇ──
 ああ、いえ。これから話すことと無関係でもないのですが、まあ、ただの喩え話です。忘れてしまって構いません。
 ご気分が悪いのですか? どうも顔色が優れないようですが。......ええ、当然だと思います。ご心労のほどは想像できませんし、あの子の友人や知り合いに話を聞くために、毎日あちこち回っているのでしょう。疲労が祟るのも無理はありません。
 話の前に、顔を洗ってきてはいかがです? 多少の気付けにはなるでしょう。洗面所はあちらです。
 ......はい。ありがとうございます。では、始めます。

 四か月ほど前、大学が夏休みに入る少し前のことです。
 すっかり独り暮らしを始める時機を逃してしまっていた私は、夏休みで時間のある間に引っ越しを済ませてしまいたいと、大学近くの物件を探していました。そこで、あの子──美香が、あるアパートの一室を紹介してくれたのです。
 その部屋というのが、美香自身が住んでいた物件でした。シェアハウスをしようというのではありません。近々引っ越すつもりだから、入れ違いに入居してしまえばどうかと、そういう提案でした。
 読まなくなった本を譲るくらいの気軽さで入居を勧めてくるものですから面食らいましたが、詳細を聞いてみると、随分と好条件の揃った物件であると判りました。
 特別狭くもなく、風呂トイレ別で、日当たりも良好。美香とは大学が同じですから、通学にも都合がいい。ご近所トラブルがある訳でもない。それでいて、家賃は破格とも言える安値です。優良物件、と言っていいでしょう。美香に熱心に口説かれたのもあって、その場で入居を決めそうになるほどでした。
 ええ、まあ──事故物件、という言葉が過ぎりました。
 過去にその部屋で死人が出たとか、不可解な現象が起きるとか。好条件なのに家賃が安いというところからの安易な連想ですが、そうした可能性を疑いました。
 美香に聞く限り、後者の心配は杞憂に終わりました──前者については、いまだに否定されていないのですが。
 たとえ心理的瑕疵があるとしても、快適に暮らせるのであれば何も問題は無いだろう。当時の私はそう考えました。ですので、一度内見がてら、美香の部屋に遊びに行くことになったのです。
 話の通り、とても快適そうな部屋でした。ざっと見て回っても不便そうな点は見つかりません。そこが事故物件であることを示すような不審な点も、同様です。実際に住んでみないと判らないこともあるかもしれませんが、内見にそれ以上のものを求めるのも無意味でしょう。
 美香が出してくれたお菓子をつつきながら、引っ越し先はここにしよう、と早々に結論を出してしまい、後はいつも通り、どうでもいい雑談に興じていました。
 アルバイトが面倒臭い、だとか。あの教授は簡単に単位をくれる、だとか。そんな中で、話題は自然と独り暮らし、ひいてはこの部屋のことに移っていきます。私は何気なく、以前から気になっていたことを尋ねました。
 こんなに良い部屋なのになぜ引っ越すのか。
 話に聞いても実際に見てみても、本当に、良い部屋、なんです。そうでしょう? 気になるじゃないですか。妙な勘繰りが無かったとは言いませんが、純粋な好奇心から、私はそう尋ねました。
 いや、もうちょっと駅に近い所がいいと思ってさ。
 美香は何気ない様子で答えました。
 確かにその物件は、最寄り駅にも徒歩で行くにはそれなりの時間が必要、という立地でした。その答え自体はさして不自然ではありません。ただ。
 その返答がいやに流暢だったもので、まるで用意した原稿を読み上げているみたいな印象を覚えました。今にして思えば、それは本当の理由を隠すための建前だったのでしょう。
 そうそう、この部屋、一つだけ不便なところがあって。
 僅かな沈黙の後、私が別な話題を切り出すより先に、美香が口を開きました。
 聞くと、洗面所収納の一部が使えない、と言うのです。
 洗面台に向かい合ったときに顔が映る鏡、それが観音開きになっていて、中に化粧水やらハンドクリームやらをしまっておける収納棚があるらしいのですが。
 その鏡棚の扉が何故か開かなくて使えない、と。
 なんだそんなことか、そう思いましたし、言いましたけど。初めてこの部屋に瑕疵を見つけたような気がして、妙な安心感があったのを覚えています。
 美香が不動産屋と話を付けてくれたので、引っ越しは円滑に進みました。私の方も、美香の方も。前の部屋──つまりこの部屋と、駅との距離がさして変わらない部屋に美香が引っ越したのは気になりましたが。
 それ以降、私はこの部屋に住んでいますし、美香はその部屋に住んでいます。いた、の方が適切ですか。

 以上です。
 はい? ええ、話はこれで終わりです。
 そんな筈は無い? これ以上のものは何もありませんし、起こっていませんよ。私の話に何を期待していたんです?
 娘さんがおかしくなった原因ですか?
 娘さんが行方不明になった理由ですか?
 ああ......鏡、ですか。お母様にも話していたんですね。ええ、私にもしょっちゅう電話が掛かってきましたから。鏡がどうだの、見られてるだの何だの。こっちの言うことも聞かずにひたすら謝ってきたりして、ねえ。いまさら何やったって、無駄なのにねえ。
 何も関係ありませんよ。
 はい。この部屋と、美香に起こったこと。何も関係はありません。
 鏡? もうご覧になったでしょう。何もありませんよ。
 鏡には、何もありませんよ。
 ああ......壁紙は既に貼り直したんでした。そうですね。じゃあ、お教えします。
 一か月ほど前のことです。洗面所に行こうとして、ふと壁の色が気になりました。それまでは気づきませんでしたが、廊下の壁、洗面所に繋がる扉の周辺だけ、壁の色が少しだけ違うんです。
 おそらく、もともと貼ってあった壁紙を、何かの理由でその部分だけ剥がして、違う壁紙を貼り直したのでしょう。そのせいか、壁の色が変わる境界あたりで、壁紙の隅が剥がれかけて、めくれ返っていました。
 その頃には私の方でも始まっていましたから、少し躍起になってしまって。壁紙のめくれた部分を掴んで。
 べりべり、べりべり。時間を掛けて全部剥がして、その下から出てきたものを見て、やっと得心が行ったというか。別に、怖いとかじゃないんですけど。
 「あーあ」って、思ったんですよね。
 こっくりさんをするときに使う紙に描くような、と言えば解りやすいでしょうか。
 数本の直線で構成された簡素な鳥居が、何かしら赤い塗料を用いて、扉を囲うように描いてあるんです。洗面所に入る度に、その鳥居を潜る格好になりますね。
 誰が、ですか? いつ、何のために、ですか。
 知りませんよ。そんなことは、重要じゃないんです。
 神社には本殿と拝殿がありますね? 本殿はご神体を安置する空間。拝殿は本殿の手前に造られる、参拝のための空間です。拝殿の奥、つまり本殿の扉の正面には鏡が置かれることが多いですね。理由は──まあ、これもどうでもいいでしょう。
 鳥居があって、鏡があって。その向こう側にあるご神体は、人の目に触れちゃいけないから、棚は開かなくしたんでしょうね。
 そこを神社ということにしたかった誰かが。
 それで、美香や私がに毎日毎日お参りしたから。きっとそのせいで、成り立っちゃったんですね。
 ......お参りが、どうかしましたか?
 さっき貴方もしたじゃないですか。
 貴方、神社にお参りするとき、どうしますか?
 鳥居を潜りますか? 神様に頭を下げますか?
 貴方、洗面所に行きましたよね。
 鳥居を潜りましたよね。
 あそこで顔を洗いましたよね。
 頭、下げましたよね。
 美香も、私も。毎日そうしてたんですよ。
 ああ、安心してください。言ったでしょう。
 何度頭を下げたって、何も祈らなければ何も成就する筈、無いんですよ。
 祈りも信仰も無い形だけのお参りなんて、神様が受け取ってくれる筈、無いんです。
 でもね。
 私達が毎日毎日、お参りしてたのは事実だから。
 形だけのお参りに応えてくれる、形だけの何かが。
 できちゃったんだと思うんですよ。
 本物の神様だったら、願いを叶えたりとか、まあ色々してくれるんでしょうけど。
 それなのに、こっちにはお参りしてるっていう自覚すら無いようですし。
 成就させるべき願いとか、何も無い訳じゃないですか。
 それでも、形だけでもお参りはしてもらわないとだめだから。
 あっちもあっちで、困っちゃったんでしょうねぇ──
 じゃなきゃ私こんな目に遭いませんもんね。

 はい? 鏡棚の中身、ですか?
 さあ。開けたこと、ありませんから。
 ......もうお帰りになりますか? ええ、私も話したいことはぜんぶ話しましたから。娘さん、早く見つかるといいですね。
 そんなに急ぐことはありませんよ。何を怖がっているんです? 何も無いと言っているじゃないですか。信用、できませんか?
 話にならない、ですか。そうでしょうねえ。私もそう思いますよ。
 では、本日はありがとうございました。

 ......失礼ですが、随分と冷や汗をかかれているようです。風邪でも引いたら大変ですよ。
 お帰りの前に顔を洗ってきてはいかがです?
 洗面所はあちらです。


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