ウェスリーン王国英雄記⑤ きなこもち ~あらすじ~ 双子の兄弟であるジェームズとジャックは、兄であるギルバートと三人で平凡に暮らしていたが、ギルバートが魔法使いであることが見つかり、王都で暮らすことになる。ギルバートがアルフィーと共に秘密裏にクーデターを企んでいる最中、ジェームズが魔法使いであることが発覚する。ジェームズとジャックは各々覚悟を決める。 そしてクーデターは成功し、竜に認められた英雄王が誕生した。 新王の座についたジェームズは国政を担い、幼いながらにその存在を他国に知らしめることになる。ギルバートは宰相としてジェームズを補佐し、ジャックは王弟として貴族の通う学校に再び通っていた。 ジェームズはシャーロットと婚約をし、シャーロットの協力を得て、王室に意を反する貴族たちを断罪することに成功する。しかし、それを良く一方的な断罪であるとジャックは考え、意見の相違や気持ちの通じない現状に絶望して王室を飛び出し、隣国のアカナ連邦共和国へ向かった。 ~主たる登場人物~ ・ジェームズ 魔法使い。赤き竜が使い魔。青色の瞳の少年。 ・ジャック 魔法使い。ユニコーンが使い魔。水色の瞳の少年。 ・ギルバート ジェームズとジャックの兄。王国の魔法使いが所属する直属軍のトップである魔導師であったが、新王国成立で宰相の地位に就く。兎、鷹、ペガサスが使い魔。青色の瞳の青年。 ・アルフィー ジェームズ、ギルバートが共に信を置く人物。直属軍の副魔導師であったが、新王国成立で王国魔道士の魔道士長に就く。 ・ハロルド ジェームズがヤーハン国に行った際に連れて帰ってきた孤児。ジェームズの側近を務める。 ・シャーロット ジェームズ国王の正妃。金に近い栗色の髪にキラキラの翠色の瞳(ジェームズ談)の少女。 ~ざっくりした設定~ ・魔法 一部の人間だけが使える力。 「魔法は誰かを、何かを願う心」ギルバート談 ・杖、詠唱 なくても魔法は使えるが、あった方が威力や安定性が増す。杖は誓いの際にも使われる。 ・使い魔 魔法使いが呼び出すことのできる精霊。呼び出せない魔法使いも多い。 第七章 「私の家で執事兼護衛として働かないかい?」 品の良さそうな笑みを浮かべて、その男は手を差し出した。白い手袋は汚れを知らないといわんばかりに光沢を放っていて、高価なものであることは伺える。 狭い路地で行き倒れていた僕はその手と顔を、訝しげに見つめた。 「貴方は、誰ですか」 「これは失礼した。僕は、ラーシャ帝国の公爵。ちょうど、息子の専属の護衛を探していたんだ」 「そんな大役を、見ず知らずの男に任せるなんて不用心だと思いますよ」 僕の言葉に、男はふふっと笑う。 「そうかもしれないね。だが、見ず知らずの男に殺されるようじゃ、私の後継は務まらないから、ちょうど良いかな」 「そうですか。僕としては、仕事が見つかるなら願ったり叶ったりですが......。でも、僕、貴方の国の言葉は話せません」 「練習すれば良いじゃないか。君は、まだ十代だろう。何だってできる。働きながら覚えれば良い」 僕はそれでも疑い深く男を見ていた。この男が何故自分にこだわるのかが分からなかったからだ。そんな僕の心情を察したのか、男は笑みを消して耳元で囁いてきた。 「君の出自は気にしない。護衛の任さえ果たしてくれれば良いんだ。君にとっても、良い条件じゃないか、ジャック王弟殿下」 男は顔を離すと、再度白い手袋に包まれた手を差し出した。 「よろしく頼むよ、ジャック。私はアルテュール・フルニエ。アルテュールと呼んでくれ。ああ、君の国ではアーサーと言うのかな。まあ、好きに呼んで構わない」 僕はアルテュールと名乗った男の手を躊躇いつつも握り返した。 その後、立派な馬車に乗せられて連れていかれた先は、自分達が住んでいたものと優るとも劣らないような城であった。みすぼらしいと言われ、すぐに侍女たちに風呂場に連れていかれる。風呂の中にまで侍女がついてこようとしていたが、僕はそういった貴族然とした暮らしを好んでいなかったし、兄弟と兄さんも質素倹約で暮らしていたため、風呂に誰かが来るということに耐えられず、無理矢理に侍女たちを追い出した。風呂から出ると、侍女たちが衣服を用意して待機していたため、僕は思わず顔をひきつらせた。 「服くらい一人で着られるよ」 「ですが......」 「僕、偉くないから。君たちと同じで、あの人に雇われた身だ。だから、甲斐甲斐しく世話をする必要はないよ」 僕がそう言えば、侍女たちは渋々といったていで引き下がる。息を一つつき、侍女たちが置いていった服に袖を通せば、背筋が伸びる心地がした。給仕の服の上から剣を下げ、杖の入っているホルスターをベルトに装着した。 脱衣所から部屋に戻ると、静かにコーヒーを啜るアルテュールの姿があった。アルテュールは僕に気が付くと口角をあげる。 「おお、よく似合う。やはり、そういうきちんとした服の方が君は似合うね。剣は少し場違いな気もするがね」 「ありがとうございます」 「君も何か飲むかい? 彼女は何だって淹れられるぞ。コーヒー、紅茶、緑茶もだ。何が好きかな?」 僕は兄弟や兄さんが淹れてくれる紅茶をふと思い出す。何だってできる兄さんの数少ない苦手なものは料理だった。そんな中で紅茶は数少ない美味しいと言えるものだったから、兄弟も紅茶を淹れるのは上手だったと思うけれど、紅茶係は専ら兄さんだった。 「紅茶をいただけますか」 アルテュールのそばに佇んでいた侍女に頼むと、侍女はかしこまりましたと告げて部屋を出ていく。 「紅茶が好きなのかい。私の国ではコーヒーが主流だが、それは紅茶が高価だからというのがあるだろうね。紅茶は君の国の専売特許だから。貴族や金持ちには好んで飲む者も多くいる」 「兄が、よく淹れてくれていたので」 「ほう。あのギルバート宰相が手ずから淹れる紅茶か。飲んでみたいものだね」 僕はそんな会話の最中にもじっとアルテュールを見つめていた。着ている物、持ち物、所作。その全てが上流階級を思わせるものであり、公爵ということに嘘はないのだろうと思う。それに兄さんのことを『あのギルバート宰相』と言ったことが引っ掛かった。 「兄に会ったことがあるのですか?」 僕が尋ねれば、彼は首を縦に振る。 「ああ。陛下の付き添いで君の国との会談に行った時にね。とても政治に向いている人だと思ったよ。能力もある。だが、上に立つには少し優しすぎるだろうな。そういった点では、ジェームズ国王陛下を支える宰相という立場は合っていると思う」 「合っている、ですか」 あの二人のことを思い出しながら、僕は彼の言ったことを反芻した。 「ジェームズ国王陛下は、温厚な見た目に反して、冷酷無慈悲だ。といっても、悪逆無道ではない。国を守るために、正しく冷酷無慈悲なんだ。ただ、諸刃の剣でね。実際、多くの貴族を断罪したのは反発も多い。今回は大丈夫でも、繰り返せば、反発は増える。それを止めるのが宰相だろう。今回の件も、宰相のおかげで領地と爵位の剥奪で済んでいるわけだし。冷酷無慈悲な国王と、柔和な宰相。組み合わせとしてはとても良いと私は思うね」 ツラツラとアルテュールが言葉を紡いでいる間に、先程の侍女が紅茶を運んできた。 僕は小さく頭を下げ、ティーカップを摘まむ。香りを吸い込めば、その香りの良さから良い茶葉であることが伺える。 「これは、とても良い香りですね」 「分かってもらえて嬉しいよ。それはうちの領地で育てているものでね。春に摘むもので、量がないから滅多に出回らないんだ」 「ラーシャ帝国の紅茶は、陛下が好いていましたからよく飲んでいました。陛下の数少ない贅沢です。春摘みの物も飲んだことがあります」 紅茶を口に含んで、思わず笑いそうになってしまった。かつて飲んだものとは比べ物にならないほど、深いコクと味わいであった。兄弟や兄が淹れてくれる紅茶を美味しいと思っていたけれど、そんなことはなかったのか。 「どうだい?」 「今までで一番美味しいです」 カップをソーサーに戻し、僕は顔を見られないように下を向いた。 「陛下や兄が紅茶を淹れるのが上手ではなかったことを、今知りました」 声が震えないように必死に皮肉を言えば、アルテュールは大きな声で笑った。 「それはそれは。ジェームズ国王陛下もギルバート宰相も、そんなことを言われているとは思いもよらないだろうね」 貴族がこんな風に笑うのかと驚いて顔を上げれば、彼は目尻に涙すら溜めていた。こんな貴族がいるのかと思っていれば、彼は先ほどまでの笑いを鎮めて、突然真剣な顔になった。 「君は、どうして家を出たんだい?」 思わずひゅっと息を吸ってしまったのは気が付かれているだろう。アルテュールは僕から視線を逸らさない。僕はすぐに笑顔を張り付けて答えるしかなかった。 「別に理由なんてないですよ。王弟殿下という立場に嫌気が差しただけです。でも、どれだけ剣や魔法ができても、僕は所詮、お坊っちゃまでしかなかった。外のルールを何も知らなかった」 「それで、あんなところで野垂れ死にしそうになっていたのか」 「そうですね。持ち出してきたお金も尽きて、でも身分証がないから仕事が見つけられなくて。それでも、帰りたくなくて困っていたところです」 自虐的に笑えば、僕に合わせるかのようにアルテュールも眉を下げた。 「我が公爵邸には、私と妻、二人の息子がいる。あとは使用人ばかりだ。私は皇帝陛下の命で家を空けることが多いし、妻も事業をしているから、子どもたちには寂しい思いをさせている。君が遊び相手になってくれればと思っているよ」 アルテュールの表情はかつて、寂しい、と袖を引っ張った幼い自分たち双子を見る兄さんの表情に似ていた。今考えれば、あれは自分ではなく、兄弟を見つめていたようであったが。しかし、自分に向けられていなかったとしても、あの瞳は確かに慈愛を湛えていた。 自分でも整理しきれない感情に支配される前に、僕はアルテュールに自分の意思を伝えた。 「分かりました。貴方のご子息は、僕が責任を持ってお守りします」 一拍おいて、もう一つの思いも伝える。 「しかし、貴方が僕をジャック王弟殿下として利用しようとするのであれば、僕は貴方を殺します」 アルテュールは僕を見てほくそ笑む。 「では、君のことはジャムスと呼ぼうか。うちの言葉でも君の名前はジャックだからね。そのまま呼ぶのは良くないだろう。ジェームズ国王陛下の名を借りてジャムスにしよう」 「分かりました、公爵様」 そろそろ行こうか、と言って立ち上がったアルテュールに頷いて、その後を追う。馬車に揺られている間に、アルテュールは必要最低限のことを教えてくれた。 「息子の名前はアルフレッドとルイだ。アルフレッドが十歳、ルイが七歳になる。長男が跡継ぎということになっているからアルフレッドが次のフルニエ公爵だ。それを除いて、できる限りは兄弟平等にしているつもりではあるが、どうしたって差は生まれてしまう。そういったところを君がなんとかしてくれたらと思う」 「アルフレッドはアカナ連邦共和国とウェスリーン王国の言葉は話せるよう教育しているが、ルイにはまだ難しいだろう。君が早々にラーシャ語を覚えてくれ。大丈夫、なんとかなるさ」 「妻のセシルは実家が商家でね。その流れで輸入業をやっているんだ。君の国の物もよく入ってくる。妻は君の国の品は質が良いと褒めているよ。都合がつけば、妻にも会ってやってくれ。ウェスリーン王国の出だと言えば、きっと話を聞きたがるから。名前を言わなければ基本は君が殿下であることは分からないし、適当に話をしてあげてくれ」 「我がフルニエ公爵家は皇帝の辞書と呼ばれ、代々宰相を務める。アルフレッドには相応の教育はしているし、ルイにも同等の教育をするつもりだ。厳しいと思うかもしれないが、教育方針に関しては邪魔してくれるなよ」 「ちなみに、フルニエ公爵家が皇帝の辞書であるならば、もう一つ覚えておくべき公爵家がある。皇帝の剣と呼ばれる、ゴーティエ公爵家だ。あの家は魔法使いの血が濃い。剣や武具に魔力を付与させて戦う。武人としての教育も凄まじい。あの家を敵に回したら、物理的に潰されるだろうね」 「ああ、そういえば、今の皇帝陛下の名は知っているかな。まあ、本名までは知らないか。あの方の名はロベール・ド・ラーシャ。呼んではならないが、知っていなければならないものだ」 「皇后陛下は私の妹だ。ルイーズと言う。まあ、皇后陛下と呼ぶから、名前を呼ぶことは基本ないだろう。皇帝陛下には一人だけご息女がいらっしゃる。ルイーズ・ド・ラーシャ。未来の皇帝陛下だ。名前は妹からとったらしい。皇帝陛下は皇后陛下を溺愛していて、皇妃もとっていない。上に立つ者としては良くないのだろうが、私としては妹が幸せなら良いと思っている」 「ただまあ、もちろん反発する者もいるわけで。我がフルニエ公爵家とゴーティエ公爵家は親皇帝派に属していて、代表格といえる。命を狙われることは皇家の次に多い。よろしく頼むよ」 「君のことは、皇帝陛下には黙っておくつもりだ。ウェスリーン王国と我が国は友好国とは言い難い。陛下は聡明な方だから、捕虜としてウェスリーン王国との交渉の道具にするだろうからね。隠していた私には何かしらの罰が下るかもしれない」 「そろそろだ。降りる準備をしようか」 アルテュールが言葉を切り上げると同時に、馬車の止まる気配がした。馬車の扉が開けられ、アルテュールは静かに馬車から降りていく。 馬車の中からは窓のカーテンを動かさない限り外の様子を見ることはできないはずなのにアルテュールはどうして到着したことが分かったのか。それに、アカナ連邦共和国からラーシャ帝国は都市にもよるが、アカナ連邦共和国の首都とラーシャ帝国の帝都であれば馬車で一週間はかかる距離のはずなのに早すぎないだろうか。 不思議に思って動けないでいると、アルテュールに名を呼ばれ、慌てて馬車を降りた。馬車を降りた途端、自国では感じたことのない空気に包まれる。 「温かい......」 まだ冬も明けない時期なのに、外は思っていたよりもずっと温かかった。 「はは、そうだろう。君の国よりも南に位置するのだからこれからもっと暑くなる。早く慣れた方が君のためだ」 周囲を見渡して、自国との違いに驚きを隠せない僕にアルテュールは再度声をかけてきた。 「私の部屋についてきてほしい。子どもたちも呼ぶから、君を紹介しよう。荷物は私の物と同じ辺りに置いておけば、誰かが運んでくれる」 そう言われても、荷物なんて無いに等しく、腰に差してある剣、アカナ連邦共和国で適当に買ったホルスターとその中の杖くらいしかない。一応持っていた小さな鞄も、中にはなけなしのお金が入っているだけだ。 鞄は指示通り置いておくとして、剣と杖を外すか否か迷っていると、アルテュールは困ったように笑った。 「剣も杖もそのままで構わないよ。ああ、そのうち我が家紋が入っているものを渡すよ。思い入れがあるのであれば普段は自分の物で構わないが、公爵家の護衛として誰かに付いていくときは家紋入りを身に付けてくれ。さあ、私の部屋はこっちだ」 なるほど、名家の場合は使用人や護衛に家紋の入った武器などを支給するのか。剣も杖も思い入れがあるわけではない。ただ、武器を身から離して良いのかどうかが分からなかっただけなのだ。 スタスタと歩いていってしまうアルテュールを慌てて追いかける。邸はそれなり広く、途中で多くの部屋を目にした。たどり着いたアルテュールの部屋は二階の奥にあり、荘厳な両開きの扉であった。 「ここが私の部屋だ。部屋と言っても、フルニエ公爵の執務室と言った方が正しいがね。ちなみに私の私室はこの隣だ。二階は基本的に家族の私室が集まっている。まあ、案内は後でするとしよう。お前たち、入りなさい」 後ろを振り向けば、ドアのところから中の様子を伺う二人の少年がいた。二人は父親に呼ばれて、僕を気にしながらも背筋を真っ直ぐに伸ばして入ってきた。 「ジャムス。私の息子たちだ。こちらがアルフレッドで、こちらがルイ」 二人のうち赤みがかった金髪と灰色の瞳を持つ子をアルフレッド、茶髪に茶色の瞳を持つ子をルイと呼んだ。 随分と姿かたちの違う兄弟だな。アルテュールが茶髪に茶色の瞳であるあたり、ルイと呼ばれた子はアルテュールに似ているのだろう。となると、アルフレッドは公爵夫人に似ているのだろうか。 僕には分からない言葉、おそらくラーシャ語、でアルテュールがアルフレッドとルイに話すと、二人は頷いて、僕に丁寧に頭を下げた。 「はじめまして。フルニエ公爵家長男のアルフレッドと申します。これからよろしくお願いいたします」 流暢にウェスリーン王国の言葉で挨拶をしてきたアルフレッドに驚いていると、アルフレッドはルイに挨拶を促した。 「はじめまして。えっと、フルニエ公爵家の次男、ルイです。よろしく、します」 片言ではあるが、七歳で他国の言葉をここまで話せるのであれば凄いのではないかとこちらにも驚いた。自分は十四にもなるのに、自国の言葉しか話せないのだから。 「はじめまして。ジャムスです。えーっと......」 アルフレッドをちらりと見れば、彼は素直に首を傾げてくれる。 「よろしくってラーシャ語で何て言うのかな?」 その言葉にアルフレッドは少し眉を寄せて怪訝そうにしながらも答えてくれた。 「『よろしく』だよ」 「そっか、ありがとう」 僕は二人に向き直って、さきほど聞いた単語を自分の口で発した。 「『よろし、く』」 発音も文法もぐちゃぐちゃであろう僕の言葉を聞いても、二人は馬鹿にしたりはしなかった。アルフレッドの方は少し困ったように、ルイは嬉しそうに笑いながら返事をくれた。 「「こちらこそよろしくね」」 ※ 「そう、ラーシャ帝国に......」 鼻を寄せてくる白馬の角に気をつけながら頭を撫でてやれば、彼は続けて教えてくれる。 『フルニエ公爵と名乗った男の屋敷にいるよ。今のところは本当にただの執事として働かされているみたい』 ラーシャ帝国のフルニエ公爵か。皇帝の辞書と呼ばれ、代々宰相を務める家系。名家中の名家だ。そこの当主に拾ってもらえるなんて、運が良いのか悪いのか。 「話を聞く限り、本物のフルニエ公爵だろう。彼はとても頭が切れると聞く。万が一、兄弟が望まないのに利用されるようなことがあれば、あとは君に頼むしかない」 『任せて。でも、彼が望んだらどうしたら良い』 「彼の望むようにしてあげて」 『本当に良いの』 咎めるような声と視線を向けられても、俺は曖昧に頷くことしかできない。 それが彼の幸せだというのであれば仕方ない。一緒にいたかったけど、結果としてそれを終わらせてしまったのは俺の無能さのせいだから。あのままこの国にいても、兄弟が幸せだったとは言い難い。なら、必要とされる場所で、ただの個人として生きている方が兄弟は幸せなはずだ。俺がそれを壊すわけにはいかない。 ジョイは何も言わない俺にひとしきり頭を擦りつけた後は、執務室の端で丸くなっていたギャリーに突進していた。驚き、飛び起きたギャリーはジョイを見て少し嬉しそうにしていた。 「ごめんね。君たちを俺のところに縛り付けて」 じゃれている彼らに声をかければ、二人ともこちらを振り返り、首を横に振った。 『ううん。主の願いだから』 二人がそう答えてくれたところで、そろそろ苦しくなってくる。本来はラーシャ帝国にいるはずのジョイを無理矢理こちらに呼びよせているのだ。魔力も減る。 「ジョイ、ギャリー。ごめん、そろそろ」 俺の言葉に彼らは目を合わせてから鼻先を少し寄せあった。すぐにジョイはこちらに来て、俺の顔に鼻先を寄せてくれる。 「またね。元気で」 すっとジョイはその場から消える。兄弟のそばに戻ったのだろう。ギャリーがこちらを心配そうに見つめるものだから、つい笑ってしまった。 「心配しないで。俺は君がいてくれるから寂しくないよ」 嘘つき、と聞こえた気がした。だが、それは彼の言葉ではない。おそらくは、自分の妄想。 「君は俺を恨んでいるかい」 『主の願いから外れているとは思っていない。それに、俺はここ数年の君をずっと見てきた。ねえ......』 不意にギャリーに名前を呼ばれる。それは、あのクーデターの時以来、聞いたことの無いような低い声。ただのギャリーではなく、赤き竜であることを痛感させられるような威厳に満ちた声。 「どうしたの」 『君はどうしたい』 「このままこの国にいたい。君たちが何を言おうとね。急にどうしたの」 『いや、何でもないさ。俺は願いのままに、君に力を貸すだけだからね』 願い、か。てっきり、彼らを呼び出した時に望んだことを指すのかと思っていたが、彼らが今も俺のそばにいてくれるあたり、違うのかもしれないと思うことがある。 俺たちが君たちを呼び出した時とは随分と変わってしまったから。 考えても詮無き事だ。俺はもう、止まることも戻ることもできないのだから。 ※ 「ジャムス!」 「ルイ、勉強は終わったのかい?」 僕がフルニエ公爵家に来てから早数ヵ月が経っていた。必死に勉強したかいもあり、なんとか困らない程度にはラーシャ語を話せるようになっていた。 「終わってない!」 満面の笑みで己のサボりを宣言するルイに苦笑をもらす。さすがにサボりを容認はできないので注意をする。 「またサボりかい。駄目だよ、せっかく公爵様が君のためを思って教育を与えてくれているというのに」 「えー、だってさ。僕はアル兄様と違って跡を継ぐ訳じゃないんだし。それに、兄様と同等の勉強よりも、ジャムスに教えてもらう魔法の勉強の方が好きだよ!」 僕はため息をついて、ルイの頭を軽く小突く。 「そうやって都合の良いことばかり言っても無駄だよ。早く勉強に戻りなさい。今日は憲法の後は空き時間だろう。その時間に教えてあげるから」 「本当に? 約束だよ!」 「うん、約束するから。さ、先生が怒って探しにくる前に戻ろう。僕も一緒に謝ってあげるから」 僕が手を出すと、ルイはその手をとってぎゅっと握る。二人で手を繋ぎながら、ルイが教育を受ける部屋に戻ると、言語の授業を担当するマリーがもう待っていた。 「ルイ様。毎回毎回抜け出されては困ります。ジャムス、いつもすみませんね」 「いやいや、構わないよ。マリーもいつも大変だね」 「ええ、本当に......。アルフレッド様は全て真面目にこなすのですから、少しは見習ってほしいのですが」 「まあ、これがルイの良いところでもあるからね」 くしゃくしゃとルイの頭を撫でてやれば、ルイは嬉しそうにする。 「じゃあ、僕は行くよ。ルイ、真面目に勉強するんだよ」 「うん! 約束だからね!」 ルイの教室から出て、今のうちに食事を取ってしまおうかどうか考えていると、ちょうど授業が終わったところなのかアルフレッドが歩いてきた。 「あ、ジャムス」 「アルフレッド。授業は終わったのかい?」 「うん。今日はもう何もないから、昼食を取ったら夕食までは書庫で本でも読んでいようかと思って」 「ふーん」 頭の中で、今の時刻とルイとの約束の時刻を考え、どこまで行けるかを考える。 「ねえ、アルフレッド。暇なら僕と一緒に遊んでよ」 「え、別に暇ってわけじゃ......」 「良いから良いから。僕は君たちの護衛だけど、同時に遊び相手として公爵様に雇われているんだ」 アルフレッドの手を引いて厨房に向かう。 「あ、料理長。外で食べられるようなものをささっと拵えてくれないかい。サンドイッチとかそういう感じのものが良いな。雰囲気を出したいから、できればバスケットとかに入れてくれると嬉しいぞ!」 「今日はどこまで行くんだい、ジャムス。十分くらいで作るよ。具材は何が良い?」 壁に隠れていたアルフレッドに視線をやれば、アルフレッドは小さな声で、何でも良い、と呟いた。 「うーん、じゃあ、アルフレッド様の好物詰めといてくれよ。僕は君の料理はなんだって好きだからね!」 「アルフレッド様を連れていくのか。分かった、任せとけ。十分後に取りに来てくれ」 僕は料理長に返事をすると、再びアルフレッドの手を取って歩き出す。向かう先はアルフレッドの私室で、私室にたどり着いてから彼の手を放した。 「帽子と薄い羽織を用意して。傘とかはこっちで準備するから。日焼けしないように僕も魔法はかけるけど、あるに越したことはないから。じゃあ、十五分後に中庭に来てね。逃げるのは禁止だぞ」 僕は走って、自室に杖を、倉庫に箒と日傘、シートを取りに行き、厨房に戻る。料理長に礼を言ってバスケットを受け取り、中庭まで再び走る。途中で侍女長に走るなと怒られたが、屋敷が無駄に広いのが悪いと思う。 中庭に行けばアルフレッドが花を見ていたから、ホルスターから杖を抜いて、彼の上から小さな光を舞わせる。 「驚いたかい」 僕が尋ねれば、彼はいつもと変わらぬ声で、別に、とだけ返してきた。 「うーん、そっか。まあいいや、行こう。ちょっと持っていてくれるかい」 バスケットをアルフレッドに手渡すと、持っていた箒に跨がった。アルフレッドに礼を言ってバスケットを受け取り、持ち手の部分を箒の柄にぶら下げる。アルフレッドがどうしたら良いか戸惑っている様子だったので、彼の手を引く。 「ほら、早く跨がって」 彼を僕の前に跨がらせると、彼は箒の柄をぎゅっと握った。僕は合図もなしにいきなり地を蹴って箒を浮かせる。経験したことがないのだろう、アルフレッドが身を縮ませるので、僕は大丈夫だと笑った。 「僕、箒に乗るのは得意だから。それにこの箒は、ずっと公爵家にあるものだ。公爵家の跡取りである君を落としたりしないさ」 「なに、それ。箒は箒だろ」 「魔法のための道具は、意思があったりするものさ。いずれ分かるよ」 「分かんないよ。俺、魔力ないし」 僕はその言葉に対しては何も言わず、箒の速度を上げる。体にかかる風圧が変わったことで、アルフレッドは箒の柄を更に強く握った。 「しっかり掴まってて」 言うが早いや、更に速度を上げ、途中で宙返りをする。 「おい! 何するんだよ!」 アルフレッドが怒ったように言う。 「はは、楽しいだろう!」 僕は笑って返しながら、着地する。箒から降りたアルフレッドは足元が覚束ないのか転びそうになる。慌てて彼を支えると、彼は少し嫌そうな顔をした。 「楽しかった?」 「そんなはずないだろう。死ぬかと思った」 「そうかい。でも、こういうのも良いじゃないか。ちなみに帰りも箒だぞ。歩いて帰りたいのなら止めないけど、結構距離があるんじゃないかな?」 アルフレッドは辺りを見渡してため息を着いた。僕が連れてきたのは、公爵領の外れの高台だ。歩いて帰ると小一時間はかかるだろう。 「帰りはもっと優しく飛んでくれ」 「かしこまりました、アルフレッド様」 アルフレッドが僕の態度にイライラするのを感じながらも、てきぱきと大きな木の下にシートを引いて、傘を立てる。 「アルフレッド、お昼にしよう。料理長のお手製弁当だよ。君の好きなものいっぱい入れてくれたって」 バスケットを開ければ、綺麗に整えられたサンドイッチと魔法瓶、簡易的なティーセットが入っている。サンドイッチの中身は、ハムと卵、イチゴジャム、ハムとレタスとトマト、マーマレード。確かにアルフレッドの好きなものばかりだった。あの料理長、僕の好きなものはほとんど入れてくれなかったらしい。 僕はティーセットと魔法瓶を取り出してから、一応断りを入れておく。 「あまり上手に淹れられないけど、大目に見てくれよ」 指を鳴らし、ティーポットとティーカップの中をお湯で満たす。そのお湯を一度捨て、ポットに茶葉をスプーン三杯分入れる。指を鳴らして魔法瓶に入れてあった紅茶用の水を沸騰させ、ポットの中に注ぐ。茶葉が踊る様を眺めながら数分蒸してから、スプーンでポットの中を一混ぜする。更に数分待って、ポットからカップにお茶を注いだ。 「最後の一滴は君にあげるよ」 そう言ってゴールデンドロップと呼ばれる一滴が入ったカップをアルフレッドに渡した。 「さ、食べよう」 そう促して、アルフレッドがサンドイッチに手を伸ばしてから自分も手をつける。紅茶を一口飲んだアルフレッドはポツリと呟いた。 「あ、美味しい」 アルフレッドの呟きに僕は勢いよく顔を上げる。 「本当かい」 「え、うん」 彼は思わずといったようではあるが肯定してくれる。嬉しくて言わなくて良いことまで言ってしまった。 「練習した甲斐があったよ」 「練習って別に給仕がいるんだから、ジャムスがやる必要はないじゃないか。それに、なんで紅茶なの。どうせ練習するならコーヒーの方が良いと思うけど」 「いくら護衛とはえ、主の好みくらい把握しているさ」 僕の答えに心底不思議そうな顔をしながらアルフレッドは首を傾けた。 「父上はコーヒーの方がお好きだよ」 「公爵様は確かにコーヒーを好んでいらっしゃるよね」 僕たちは会話が?み合っていないことだけは理解して、二人揃って首を傾げる。 「ルイはまだどっちも好きではないと思うよ」 「うん、そうだね。アルフレッド、僕を解雇したいなら、公爵様に言ってよ。僕としては解雇されたら困ってしまうから、やめてほしいけど」 「お前の主は父上だから、それを俺が決める権利は無いだろう」 ここで漸く、僕たちの会話が成り立たない理由が分かった。 「僕の主は君だろう、アルフレッド」 アルフレッドは僕の言葉に目を丸くする。 「確かに僕の雇用主は公爵様で、僕はアルフレッドとルイの護衛兼遊び相手ということで雇われている。でも、厳密には、公爵家の後継の専属護衛だ。だから、僕の主は君だよ」 僕の説明に、彼の表情に影が差す。 「そんなの、分かんないよ。後継者が俺って決まったわけじゃないし」 「後継者が嫌なの?」 僕が尋ねてもアルフレッドはそれ以上何も言わなかった。僕もそれ以上踏み込むべきではないと思い、話題を変える。 「僕はコーヒーよりも紅茶が好きでさ。好きって言うか、僕の国では紅茶の方が多く嗜まれるから。兄さんもよく紅茶を淹れてくれた」 「ふーん。お兄さんってどんな人だったの」 どんな人、か。兄さんはどんな人だっただろうか。何でもできて、優しくて、魔法も優れていた。魔導師の頃、どれだけ忙しかったとしても食事を共にしてくれた人。それなのに、いつの間にか僕のことは見えなくなってしまった人。それでも、僕にとっては憧れだった人。 ああ、でも、そういえば。 「兄さんは何でもできるのに、料理だけは下手でね。堅物だから、丁度良いって言葉の意味が分からないってよく嘆いていたよ。でも、優しくて、強くて、僕は兄さんが大好きだった。ああ、僕が小さい頃に両親は他界しているから、僕たちを育ててくれたのは兄さんなんだ」 「僕たち?」 僕の無意識な複数形に疑問を持ったのだろうアルフレッドはそのまま復唱する。そういえば、こちらに来てから誰かに身の上話をするのは初めてだったなと思い、説明を加える。 「僕は双子でさ。だから、三人兄弟っていうのかな。双子の兄弟も優しくて、いつも僕に付き合ってくれたんだ。僕も兄さんと一緒で料理が得意とはいえないからいつも双子の兄弟が料理をやってくれた。兄弟の料理はとっても美味しくてさ」 「そんなに美味しかったの?」 サンドイッチを飲み込んでから放たれたアルフレッドの疑問に、僕は困ったように頬をかいた。 「あー、いや。君が食べても美味しくないかもしれない。だって、材料だって料理の腕だってここの料理には敵わない。でも、ね」 目を瞑って、食卓を思い出す。ここと比べると質素だけれど、幸せで溢れていたあの空間を。 「三人で囲むご飯が何よりも美味しかったんだよ。もし、時を戻せるのであれば、僕はあの時が良い」 三人で食卓を囲んで、くだらない話をして、笑いあえていたあの頃。 「そういう魔法はないの?」 アルフレッドは心底不思議そうに尋ねてくる。 「少なくとも僕は聞いたことがないね。それに、兄さんが常に言っていた。時間は不可逆的だと。神であろうと、その定めに逆らうことはできないはずだって」 それに、と僕は付け加えた。 「もし、時を戻して今を変えてしまったら君たちには会えていないからね。戻せたとしても、きっと僕は何も変えられないのだと思う」 今になってマイラ姉さんの言葉を思い出す。 「変えられるなら、変えれば良いじゃないか。もし戻せるのであれば、俺は何か変えようとすると思うけどな」 「うーん、案外、色々と考えてしまうと思うんだよね。変えたいことはたくさんあるかもしれない。でも、変えたくないことも同じくらいあるんじゃないかな。だからこそ、常に最善を尽くさないといけないんだ。どれだけ間違えようと、間違えた先で大切なものはできてしまう。だったら、最善を尽くした上で大切なものを作った方が良いはずだから」 僕はここまで言ってから誤魔化すように笑って、アルフレッドの頭を撫でまわした。 「って、偉そうに言ったけど、全部受け売りなんだよね。ま、アルフレッドはまだまだこれからだよ。君は自分の選択を後悔しないように生きるんだ」 アルフレッドはまたも嫌そうに俺の手を払うと食事に再び手を伸ばした。アルフレッドが二つ目のサンドイッチに手をつけるとき、僕の一つ目のサンドイッチは半分も減っていなかった。それでも、二人で話ながら食べていると、同時に同じ個数を食べ終えていた。冷めてしまった紅茶を飲み干し、カップやポットなど全てバスケットの中に片付ける。その片付ける様子を見つめるアルフレッドが少しだけ寂しそうに見えた。 「何かしたいことある?」 「え、帰らないの?」 てっきり帰りたくないからああいう表情をしていたと思ったがアルフレッドの返答に宛が外れたなと思う。しかし、まあいいかと開き直ることにする。 「帰りたいなら帰っても良いけれど、せっかく君と話ができる機会を無駄にしたくはないからね」 「だって......」 「うん?」 「ジャムス、ルイと約束していただろう。早く帰った方が良いかと思って」 なるほど、ルイとの話を聞かれていたのかと合点がいった。 「約束まではまだ時間があるし、ルイの授業が時間通りに終わるとも思えない。もう少しここにいようよ」 アルフレッドの腕を引っ張って、一緒にシートに寝転がる。外で寝転がるなんて、とアルフレッドは起き上がろうとするが、彼の腕を掴んだまま離さないままにした。 「少し休もうよ。せっかく今日は風も気温も心地好いんだから。誰かに見られるのがどうしても嫌なら見られないように防視魔法をかけても良いけれど、ここに人なんて来ないと思うよ」 これ以上何を言っても無駄だと思ったのか、彼は諦めて僕の隣に寝転がった。しばらくするとすうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。その目元に指をやり、そっと触れた。 うっすらと隈ができている。アルフレッドの目元には隈ができていると気がついたのは何だかんだ自分のことが落ち着いてからであった。気づいてから今日まで、隈のなかった日はほとんどない。起きないように目元をなぞりながら、よく眠れるように小さな魔法をかける。気休め程度でしかないが、この時間くらいはゆっくりと休めるだろう。 「公爵家の跡取りっていうのも随分大変なんだなあ。ルイに隈があるところなんて見たこともないのに」 それだけではないだろうことは容易に想像ができていた。数ヶ月、フルニエ公爵家で過ごせば嫌でも気がつくだろう。順当な後継者はアルフレッドであるにも拘わらず、ルイを後継者にしたいという派閥が存在するようであった。フルニエ公爵家にはめったに魔法使いは生まれない。その代わり、フルニエ公爵家に魔法使いが生まれると、帝国がよく栄えるという。 公爵家のためを思ってこそ、ルイを後継者にと考える者も多くあるようだった。 また、今の公爵夫人は、ルイの母親ではあるが、アルフレッドの母親ではない。アルフレッドの母親は、アルフレッドを出産すると同時に亡くなったと聞かされた。今の公爵夫人はアルフレッドを苛めたりするわけでもなく、我が子のようにアルフレッドに接しているらしいが、アルフレッド自身に引け目があるのだろう。あまり素直に甘えているところは見ないと聞く。 甘える相手も、頼る相手も、頼り方すらも分からなくなっているのだろう。 アルテュールが自分を雇ったのは、アルフレッドのためだったのだろうことは分かっていた。だからといって、あからさまにアルフレッドだけに構うわけにもいかず、そうなると人懐こいルイと関わる機会が増えてしまうので、なんとも難しいところだ。 サラサラとした赤みがかった金糸を撫でながら、ふと己の兄弟のことを思い出していた。他人が間違えるくらい自分とそっくりな兄弟の、澄んだ瞳。どうしてか自分のものはいつも濁って見える。空を見ると、いつも彼のことが思い浮かぶ。 それに、兄には何も言わなかった。衝動で出てきてしまったが、兄はどう思っているのだろうか。怒っているのだろうか。それとも、利口で優秀な兄弟がいるから気にしてもいないのだろうか。 二人とも元気にしているのだろうか。こちらに来てからは、母国のことは聞かないようにしていた。自分がいなくなっても、彼らが平気だということを知りたくなかった。 アルフレッドには、いや、アルフレッドとルイには、自分達のようになってほしくはない。 彼らは、仲の良い兄弟だ。アルフレッドは複雑かもしれないが、彼がルイを大事に思っているだろうことはこの数ヶ月で感じ取れる。ルイは、良くも悪くも、素直にアルフレッドを慕っている。 仲違いせずにいてほしい。 自分にできることは少ないだろうけれど、どうにか手助けはしてあげたいなあ。 持ってきていた本を読んで過ごしているうちに、太陽が大分傾いていた。ルイとの約束の時間はとっくに過ぎている。沈むまでまだまだ時間はあるとはいえ、そろそろ起こした方が良いだろう。もう少し寝かせてあげたいのが本音だが、これ以上は夕食に差し支えるだろう。 「アルフレッド。そろそろ帰ろう」 アルフレッドの肩を軽く揺すりながら声をかければ、アルフレッドは眠そうに眼を擦りながら、僕を見上げるが、すぐに驚いたように起き上がった。 「え、今何時?」 「四時だよ。夕食もあるし、そろそろ帰った方が良いと思って」 「いや、だって、ルイとの約束は?」 「過ぎちゃったね。まあ、それに関しては僕が悪いんだから気にすることはないよ。それに、僕が君と過ごしたかっただけだよ」 アルフレッドが僕の言葉に困っているのを横目に、さっと立ち上がってからアルフレッドを立たせシートや傘を素早く片付けた。 アルフレッドに箒を渡して跨がってもらってから、自分もその後ろに跨がった。 「さ、帰ろう。帰りは安全運転が良いんだろう」 行きと違って、帰りは確かにゆっくり飛んだ。そのおかげで帰りは周りを見渡す余裕もできたのだろう。公爵領を上から眺めるという初めての体験に、アルフレッドは少々興奮しているようだった。 公爵邸の中庭に着いてから、いつでも乗せてあげるよ、 と頭を撫でると、アルフレッドは相変わらずその手を振り払った。 それからは穏便に過ごしていた。あっという間に一年が過ぎ去って、料理長やメイドたちがひっそりとお祝いをしてくれた。そこには何故かアルフレッドもいて、フルニエ公爵家の紋章が入った万年筆をくれた。ここにいても良いと言われているような気がして嬉しくなり、少しだけ泣いた。 アルフレッドとの距離は少しずつではあるが近くなっていった。彼は僕の手を振り払わなくなったし、自分から話しかけてくることも増えた。完全に信用してくれたわけでもなさそうだったけど。 アルフレッドも少しは気持ちの整理が付いたのか、隈のある日は少なくなったように思う。それでも、まだルイを見る目は少しばかり不安そうではあったが。 そんなある日のことだった。 いつからか僕が準備することになったティータイムを終え、アルフレッドと一緒に中庭で話をしていると、僕たちの会話を遮るかのように一つの声がその場に響いた。 「貴方もそのような顔をするのね」 声の方を振り向くと、一人の少女が中庭に面する廊下に立っていた。少女は躊躇うことなく、中庭の僕たちの方まで歩いてくる。誰だろうと思っていると、アルフレッドが小さな声で、皇女殿下、と呟き、その場に膝をついた。僕も慌ててそれに倣う。 「久しぶりね、アルフレッド」 「お久しぶりです、ルイーズ皇女殿下。遠路はるばる、我がフルニエ公爵邸までご足労いただき、誠に光栄でございます」 「堅いのはよして。今日は遊びに来たのだから。貴方が全然来ないから、私が会いに来たのよ。伯父上が父上のところに顔を出しにくるのだから、たまには一緒にいらしてはどうかしら。同じ世代は貴方とリアムしかいないから退屈なの。リアムは剣の稽古ばかりでゆっくりお茶もしてくれないし」 そこまで言うと、ルイーズと呼ばれた皇女は漸く僕に眼を向けた。 「新しい執事......、護衛かしら。名前は何と言うの?」 「ジャムスと申します」 「そうなのね。アルフレッドをよろしく」 それは確かに、上の身分の者が下の身分の者へ命じるものであり、威圧を含む声色だった。どこの国でも王族とはこういうものなのかと少しだけ嫌になる。兄弟もよくこういう声を発していたのを思い出す。 ルイーズはもう一度アルフレッドに目をやると、先程よりも幾分優しい声色で喋る。 「アルフレッド、いつまでそうしているつもり。私と貴方は従兄妹でしょう。家族なのだから、そこまで畏まらないでちょうだい」 ルイーズに言われてアルフレッドが立ち上がった気配を察して、僕も立ち上がる。僕の顔を見て、ルイーズは驚いたように固まった。 「ジェームズ国王陛下......」 その言葉に、今度は僕とアルフレッドが固まった。二人が何も言えない中でルイーズだけが言葉を紡ぐ。 「他国の国王陛下に膝をつかせた非礼、お許しください。ジェームズ国王陛下、なぜこのようなところにお一人でいらっしゃるのでしょうか」 ルイーズの謝罪と質問に慌てて答えた。 「私はジェームズ国王陛下ではございません。他人の空似でございましょう。私はアルフレッド様の護衛にすぎません」 「そ、そう......。確かに、ジェームズ国王陛下は訛りのない綺麗なラーシャ語を話すものね。貴方はこの地方の訛りが少し入っている。でも......」 まだ僕のことを訝しげに見つめるルイーズにどうしたらよいかと困っていると、我に返ったアルフレッドが助け舟を出してくれた。 「ルイーズ、お茶でもしようよ」 アルフレッドは僕に振り向いて指示を出す。 「ジャムス、お茶の用意を。場所は......、庭園にしようか。夕食が近いから軽食はいらない。さっきみたいにするんだ。ルイーズも驚くから」 「かしこまりました」 アルフレッドはルイーズの手を取って、中庭から屋敷へ入り、庭園の方へ向かう。僕は厨房へ行き、ポットやカップを用意する。準備を終えて小走りで庭園に行くと、誰の姿も見当たらなかった。庭園はここではないのだろうかと困っていると、アルフレッドが呼びにきた。 「ジャムス、こっち」 アルフレッドの誘導についていくと、温室があり、温室の中には小ぢんまりとしたテーブルや椅子があった。 「こんなところがあったのですね」 「ジャムスは庭園とは縁がないから。ここは俺の母上が好きだった場所らしくて、ルイーズの母親である皇后陛下と母上がよくお茶をしていた場所だ。今は俺とルイーズが二人でお茶するときによく使っている」 「素敵ですね。とても綺麗ですし、落ち着きます」 よそ向けの笑顔と口調で話す僕に内心苦笑いをしているのだろうに、アルフレッドは表情を変えずに僕に頼む。 いつものお茶の準備のように魔法を使いながらお茶を淹れる。ゴールデンドロップの落ちた方をルイーズの前に差し出し、最後にもう一度指を鳴らせばルイーズのカップに少し歪な花が咲いた。その花は時間とともに紅茶に溶けて消えてしまう。 「今の花って砂糖?」 アルフレッドが聞くとジェームズは静かに頷く。 「厨房で皇女殿下は紅茶に角砂糖を一つ入れて召し上がるとお聞きしたので、大体同じ量の砂糖で花を作ってみました。といっても、私がぱっと作ったものなので、厳密には量に違いもありますし、形も不格好ではありましたが......。すみません、出すぎた真似を。お口に合わないようでしたら、すぐに淹れ直しますので」 アルフレッドは普段喜んでくれるからって調子に乗りすぎた、と今更ながらに後悔する。実際、楽しそうなのはアルフレッドだけで、ルイーズは何も言わずに紅茶を見つめる。何か言われる前に淹れ直すべきかどうするか逡巡していると、ルイーズが静かにカップを手に取った。美しい所作で紅茶を口に含むと、カップを戻す。 「美味しいわ。確かにいつもよりほんの少し甘いかもしれないけれど、それ以上に楽しませてもらったわ。ありがとう」 「お褒めいただき、光栄にございます」 「それほどに魔法に長けているというのに、名を一切聞いたことがなかったわ。出自は?」 僕が口を開く前に、アルフレッドが言葉を発する。 「ルイーズ。それを聞いてどうするの。ジャムスはうちの護衛。あげないよ」 「生意気。私の声一つでどうとでもなるのよ」 「皇帝陛下がそれを許さないことだって忘れてはいないだろう」 ルイーズはそう言われると、ムッとしたように口を尖らせる。身分からか言動からか随分と大人びた子だと思っていたが、こういう表情は年相応に見える。 「お二人とも落ち着いてください」 僕の言葉は聞こえていない二人の、子どもらしい、言っている内容は子どもらしくはないが、口論を眺めながらどうしようかと考えて、杖を出す。杖を軽く振ると、杖の先から光が舞う。二人よりも背が高いことから、二人にとっては上から星が降るように見えるはず。 「え......?」 口論が止まり、瞳を瞬かせる。思わずふっと口角を緩めて、もう一度杖を振る。一面に泡のような物が現れてふわふわと漂う。杖を持っていない方の手で指を鳴らすと、泡はいっせいに弾けた。ちょうど温室の中には夕日の光が差し込み、弾けた泡がキラキラと反射をする。見る角度によっては虹がかかる。 すごい、と先に口にしたのはどちらだったか。二人とも目の前の光景に釘付けで、その表情は年相応で、やはり身分から普段は気を付けているのだろうと僕でも分かる。こういった遊びのような魔法を練習しておいて良かったなあ、と二人の笑顔を見て思う。 「すごい......、すごいわっ」 興奮を隠しきれぬ表情でルイーズが声をあげる。 「ねえ、他にはないの?」 ねだるように言われれば悪い気がしない。次は何をしようかなと考えていれば、一人の執事が来た。 「皇女殿下。フルニエ公爵がお話をしたいとのことです」 「あら、分かったわ。すぐ行くわ。ジャムス、とても楽しかったわ、ありがとう」 「ジャムスも共に、とのことです」 ルイーズの目が途端にこちらを向く。僕だって何故皇女と共に呼ばれるのかなんて分からない。ルイーズと共に公爵の執務室に行けば、彼はにこにこしながら僕たちを出迎えた。 *** ルイーズが唐突に公爵邸に来ることは珍しいことではないし、泊っていくことも珍しくはない。だが、ルイーズが父上に呼び出されるのは珍しいことだった。そこにジャムスが呼ばれている、というのも正直変だと思う。 ただ、なんとなく、話の内容は分かる気がしていた。 魔法が使えて、明るくて、すぐに人と打ち解ける。自分には無いものを持っている、突然現れた青年。 こっそりとずっとジャムスを伺っていたが、ただの平民ではないと思っている。魔法は分からないが、剣術はかなり鍛えられたものであるし、それに身のこなしや所作が美しかった。あれは、上に立つべき者として育てられた人間の動きだと確信している。 ジャムスがうちに来る前、ウェスリーン王国の王弟の失踪がまことしやかに囁かれていた。俺はウェスリーン王国のジェームズ国王陛下もジャック王弟殿下も見たことがないから分からないが、今日のルイーズの反応からしてジャムスは顔がそっくりなのだろう。 ジェームズ国王陛下と王弟殿下は双子だったはず。それにウェスリーン王国のギルバート宰相は彼らの実の兄。その兄弟関係はジャムスが話してくれたものと同じだ。 しかし、父上が彼を連れてきた理由が分からない。しかも、皇帝に報告せずに我が家の護衛として雇っている。 不意に扉をコンコンと叩かれ、俺ははっと立ち上がって来訪者を迎えた。 「ごめんね、こんな遅くに」 眉を下げて、未だに護衛の服のままでジャムスが立っていた。 「別に大丈夫だけど。どうしたの」 「話しておかないといけないことがあってさ」 俺はジャムスを部屋に招き入れた。俺がソファに座ると、彼はそのそばに跪いた。 「気づいているかな。僕は本当はさ」 いつも自信に満ち溢れている彼にしては珍しく、声に覇気が無かった。それがどことなく、自分に重なって俺は思わず遮ってしまったんだ。 「言わなくていいよ。俺は何も気付いてない。俺とジャムスは、公爵家のお坊ちゃまとその護衛だよ」 ジャムスは驚いたようにしばらく固まっていた。父上とルイーズに何か言われたのだろうか。 「えっと、父上とかに何か言われた?」 「あ、いや。何も言われては。このまま護衛としてここにいて良いっておっしゃってくださったし。ただ、何と言うか、どこに行っても逃げられないんだなあって」 その言葉は、いつかの彼の言葉とは矛盾しているようにも聞こえた。でも、模範解答のような言葉よりも、今の不安が混ざったような言葉の方が俺にはしっくりくる。 ああ、この人は俺と同じなのか。抜け出したくて、逃げ出して。でも抜け出せなくて。後悔しないように、と言うのは彼が後悔をしているからなのかもしれない。 それ以上、彼は何も言わなかった。 ただ、俺と彼の関係はその日を境に確かに変わったと思う。俺は彼のことを自分と同じような存在だと思うようになったし、彼は彼で、己の失敗を俺がしないようになのか、常に細やかに気を使ってくれていた。 それからもウェスリーン王国の王弟殿下とラーシャ帝国有数の公爵家の子息ではなく、護衛とお坊ちゃまとして過ごした。 彼が来たからなのか、彼が来なくてもそうなったのかは分からないが、多くのことが変わった。 成長と共にルイも自分の立ち位置を理解し始めたのだろう。授業をサボらなくなった。ルイは自覚したころから魔法を使うのが好きなようであったが、ジャムスが来てからはそれが顕著になった。今では皇宮の魔術師になることを目標に決めたらしい。 本人の思惑とは別にルイは優秀だったから、周りの大人は後継者問題で揉めていた。それでも、俺は後継者のまま、もうすぐ成人を迎える。 一番変わったのはルイーズかもしれない。彼女は次の皇帝として厳しく育てられてきたから、誰かに甘えるということを知らないような顔をしていた。彼女が他人にお願いをしたのはジャムスが初めてだと思う。それに、ルイーズがジャムスを見る目は随分と柔らかくなった。いや、柔らかい、というと語弊があるかもしれない。だって、ジャムスも同じような目をしていたから。 彼らの間には決定的なことはなかったと思う。今の状況であれば皇女とただの使用人でしかないし、ジャムスが国に戻ったとしても、ウェスリーン王国の王弟殿下と次期ラーシャ帝国の皇帝である二人が結ばれる道は難しかっただろう。この二国は未だに友好とは言えないから。 一度だけ、ルイーズに聞いたこともある。 「ジャムスが好きなの?」 「そうね。否定はしない。でも、何もしないわ。私は然るべき男性と結婚して国を治める必要があるし、彼は彼で、いずれは国に帰り、私と同じように国に有益な女性と結婚しなければいけない。だから、このままで良いの。思い出として抱えていくわ」 彼女の考えは皇女としては正しいものだろう。でも、彼女の従兄弟としては彼女に完全に同意するのは難しかった。 そうしてジャムスが来て四年近くの月日が経っていた。 ※ 「お隣よろしいですか」 俺の声に驚いたように肩を揺らした後、その少年はゆっくりと振り向いた。 「ジェームズ国王陛下......。父は会場内にいるかと思いますが」 自分には用は無いだろう、と考えたのが聞こえてつい笑ってしまった。俺が笑ったのがおかしかったのか、フルニエ公爵家の跡取りであるアルフレッド君は胡散気な顔でこちらを見ていた。先ほど挨拶したフルニエ公爵によく似ている。 「いえ、貴方の方が適任だと思いまして」 「ジャック王弟殿下のことでしょうか」 「おや、兄弟について何か知っているのですか」 皇帝の辞書と呼ばれる公爵家の跡取りだというから、もう少し上手に渡り合えるのかと思っていたが、そうでもないかもしれない。まあ、まだ十四歳だしね。ラーシャ帝国では成人をしないと表舞台には出ないのが普通と考えれば、成人前に他国の主催する饗宴に出席しているのだから、皇帝や公爵からの信頼は厚いのかもしれない。 「ふふ、悪趣味な真似はやめましょうか。兄弟がフルニエ公爵家でお世話になっていることは知っています。私の友達が見ていてくれていますから」 彼は魔法を使えないそうだし、これだけでは俺が何を言っているのかは分からないだろう。まあ、良い。 「君には、兄弟にも見えていないだろうけれど、常に彼を見守ってくれている友達がいます。その子と頻繁に会おうとすると結構な魔力を持っていかれるから、何かあったときしか会わないことにしていますけど」 どうして、というのが聞かずとも顔を見れば分かる。何に対して疑問に思っているのかまではよく分からないけれど。 「彼が公爵家に行ってから特に連絡はなかったので平穏に過ごしていることは分かっていましたが、やはり気になってしまって。どんな様子か気になるから教えて欲しいのです。だって」 俺の言葉の続きを聞いて、アルフレッド君は何故か嬉しそうに笑った。 『なんだ、ジャムスはちゃんと戻るところがあるんだ。良かった』 ジャムス。ラーシャ帝国ではジェームズをそう呼ぶはずだ。彼はあの名を捨てたのだろうか。 「どうしてジャムスと呼ぶのですか」 「父が決めたそうです。ジャックはラーシャ帝国でもジャックになってしまうからって。ジェームズ陛下のお名前を借りたそうですよ」 「彼はジャックだと名乗ったのですか」 「そうだと、思いますけど」 急にほっとした気持ちになった。兄弟はジャックという名前を捨てないでいてくれた。それは己にとって随分と嬉しいことだった。 「もう少し彼のことを教えていただけませんか。この饗宴、表向きは各国の国賓の交流の場ですが、ヨシテル殿下がルイーズ殿下との交流を増やす目的がありますから、私たちがいなくても気にする方はいないでしょう」 流石に自国の皇女に関することは聞かされているのだろう。彼は頷いて、俺に色々なことを教えてくれた。一番驚いたのは、兄弟とルイーズ殿下が想い合っているということだ。随分と違う人を好きになったものだ。他にも日常での生活のことだったり、仕事のことだったり。 ギルバートが呼びに来てしまったから切り上げたが、本当はもっと聞いていたかった。最後に彼に伝言を残し、俺はその場から立ち去った。 ※ 「婚約者が決まったの」 知っている、とは言えなかった。 「皇女という立場なのに随分と遅い婚約よね。貴族の令嬢でさえ、幼少の頃より決まった相手がいることがほとんどだというのに。......、そう言う理由で、もうここには来られないのよ。いくら私の方が立場が上とは言え、相手に操を立てる必要があるから」 「そう、だよね。お相手は」 「ヤーハン国の第三王子であるヨシテル殿下よ。昔、うちに留学に来ていたのよ。その時にお話して以来、ずっと文のやり取りだけは続いていたけれど、彼と婚約することになるとは」 知っている。全部、君から聞いていたことだ。 「ヤーハン国は国内だけで全てが回っている恵まれた国家だ。そのため、かの国の王室の方々は皆恋愛結婚。ここラーシャ帝国とは政略結婚をする理由も無い。となれば、ヨシテル殿下は、皇帝の伴侶という立場ではなく、ルイーズという君個人を欲したと考えられる。幸せなことだと、俺は思うよ」 「知っているわ、そんなこと。私の方が貴方よりも政治に関わっているのだから。他国の王子を伴侶に迎え入れるとなれば、私が皇帝になる時に箔が付く。その上、ヨシテル殿下は私を愛してくれている。これ以上ない結婚だと分かってはいるわ。でも」 ルイーズの声は震えていた。 流石の僕にも、今、ルイーズが何を言おうとしているのか何となく分かっていた。それと同時に、それを言ってはいけないことも。 駄目だ。言っては駄目だよ、ルイーズ。 「私が皇女なんかでなければ、私は貴方に気持ちを伝えることが許されたのに」 ルイーズはそう言って、胸の前で両手を握りしめた。 「貴方は、私が未来の皇帝でなければ、一緒にいてくれたかしら。そんな、もしもの話に想いを馳せてはいけないことくらい分かっているわ。私は、貴方といられるなら皇帝の地位を捨てても良い、なんて言えないの。私は、この地位の重大さも、責任も、捨てることはできないの。泣きついて、連れて行って、なんて乞うことはできないの。哀れな女でしょう?」 涙を流しながら笑みを浮かべるルイーズに首を振った。 「それで良い。それが正しい。君は、僕みたいにならないで。何が大切か、見失わずに生きて。君には、できる限りの幸せを掴んで欲しい」 ルイーズの前に跪いて、その手にそっと口づけをした。 「哀れなんかじゃない。貴女は、私の知る中で、最も気高く、美しい。私は、一時でも貴女と過ごすことができて良かった。ルイーズ皇女殿下。どうか、ヨシテル殿下と共に良き君主とおなりください。貴女なら、民を導くことのできる皇帝となるでしょう」 「ええ。私も、貴殿と共に過ごした時間を忘れることはないでしょう、ジャック殿下」 手を離し、ルイーズを見上げれば、目を腫らしながらも威厳に満ちた顔つきをしていた。 「私が正式に即位したその日には、貴方の国と国交を結んでみせます。その時に、貴方がいることを、心の底より願っています」 ふふっとルイーズが笑うから、つられて笑ってしまう。 「貴方の幸せを願っているわ。初恋が貴方で良かった」 言ってはいけないけれど、僕も伝えておきたかった。 「僕も、君のことが好きだったよ」 「ええ。知っているわ。貴方が私を大事に思ってくれていたこと。たとえ結ばれることが無かったとしても、十分。恵まれすぎているくらいよ」 ルイーズは確かに笑っていて、それを美しいと思った。 全てと向き合う彼女の強さが羨ましい。彼女くらい強ければ、大切な家族とも一緒にいられたのだろうか。 そんなことを考える僕に向かって、ルイーズは片手を差し出した。 「さようなら、ジャムス」 「うん。さようなら、ルイーズ」 僕がその手を握った後、どちらともなくその手は離れた。ルイーズは公爵邸の屋敷の中に一人で戻っていく。その後ろ姿をぼんやりと見つめていた僕は、ぐるりと温室の中を見渡した。 ずっと、ルイーズのお喋りに付き合っていた場所だ。何も変わらないようで、同じ時は二度として来ない。 兄弟と兄はどうしているのだろう。元気にしているだろうか。 物思いに耽っていた僕は、誰かに肩を叩かれて飛び跳ねる。 「うわ」 振り返れば、アルフレッドが仏頂面をして立っていた。 「ああ、アルフレッド。どうかしたかい?」 「別に、何でもないよ。ジャムスが良いならそれで」 彼はずっと見ていたのだろう。それで心配してくれたに違いない。今なら、訊いても大丈夫だろうか。 「ねえ、アルフレッド。自分の生まれを恨んだことはないのかい?」 「あるよ」 即答であった。少しだけ驚いたようにアルフレッドを見やれば、彼は言葉とは裏腹な穏やかな顔をしている。 「何度、父上の子どもじゃなかったらと思ったか。何度、ルイが弟じゃなかったらって。でも、俺はさ、それ以上に幸せだって、最近やっと思えるようになった」 「君、僕より年下だよね」 「今更、何言ってんだよ。俺は皇女様と同い年。お前の四つ下だよ」 ふっと口角をあげる様子は、アルテュールとよく似ていて、やはり自分より年下とは思えない。 「俺が、お前より大人だっていうなら、お前のおかげだよ」 「どうして」 「お前がいたから。お前が止めてくれたから、俺は逃げずに済んだ。まあ、反面教師ってやつだな」 「はは、耳が痛いや」 反面教師か。まあ、間違ってはいないかな。自分と同じ道を辿ってほしくなかったのは事実だしね。 「ねえ、ジャムス。ジャック殿下に戻りたい?」 「え?」 唐突な質問に僕は驚いた。 「俺もルイも、もう護衛も遊び相手も必要ないよ。ジャムスがジャックに戻りたいのなら、俺が父上に話してあげる。どうしたい?」 アルフレッドがふざけて言っていないことは分かった。 「でも、俺には、帰る場所はないからさ。俺は逃げたから。彼らに合わせる顔がないよ」 努めて明るく振舞っても、アルフレッドは強がりであることに気が付いていそうだ。 すると、ぽつりぽつりとアルフレッドはとある話をしてくれた。 「俺、一回だけ、ジェームズ国王陛下とギルバート宰相と話したことがある。俺は父上の付き添いって形だったけど、色んな国の貴賓が参加する社交界に行ったんだ。俺はまだ後継者ってだけだから、ある程度挨拶も終われば、大人が躍るのを眺めているだけだったんだけど。そんな時に、ジェームズ国王陛下に話しかけられたんだ」 僕は初めて聞く話に息を飲んだ。 「俺も、まさか他国の王様が話しかけてくるなんて思わなかったから頷くしかできなかったんだけど。ジェームズ国王陛下に少し話がしたいって言われたから。俺はつい口が滑ってお前の名前を出しちゃったけど、彼は初めから知っていたみたいだった」 何かを言うこともできず、聞くことしかできない。 「ジャック殿下がうちにいることは内密で、俺を含んだ公爵家の一部とルイーズしか知らない。皇帝陛下も知らないはずなんだよ。なのに、うちにいることは分かっているかのような話し方でさ」 聞きたくない。 恨んでいるだろうか。嫌われているのだろうか。それほどのことをした自覚はあった。自分の家族はギルバートだけだ、なんて思われていたら耐えられない。 でも、忘れられていなかった。忘れないでいてくれた。 それだけで泣きそうになる。そんな僕には構わず、アルフレッドは話し続けた。 「俺たちには見えていないけど、ジャムスのことを常に見てくれている友達がいる。その子に教えてもらっている。でも、その子と頻繁に会おうとするとジェームズ国王陛下も結構な魔力を持っていかれるから、何かあったときしか会わないことにしている。ジャムスが公爵家に来てからは、特に連絡がないから平穏に過ごしていることは分かるけれど、やはり気になってしまった。ただ、どんな様子か気になるから教えて欲しい。だって......」 アルフレッドはあえてそこで言葉を切り、僕の顔を見つめる。 「『だって、僕の大事な兄弟だからね』って」 今にも零れそうになる涙を必死に抑えようとして、拳を握りしめる。それでも話は終わらない。 「俺は、ジェームズ国王陛下に、お前のことを話したよ。うちであったこと。時間の許す限り。その間、ジェームズ国王陛下はずっと嬉しそうに聞いてくれた。ギルバート宰相が呼びにくるまでずっと」 泣いちゃダメだ。捨てたのは自分だ。逃げたのは自分なんだ。泣くなんて許されない。 「『帰ってこなくても良い。幸せに笑っていてくれればそれで良い。でも、いつかまた会ってくれたら嬉しいな』って伝えられる時があったら伝えて欲しいって」 涙が溢れて止まらなかった。涙を止めようと息を詰めても、どうしても止めることができない。 「ジェームズ国王陛下は、お前のことを待っていてくれている。だから......、だからさ」 アルフレッドも少しだけ涙ぐんでいた。 「帰れるよ。お前が望むのであれば、お前は帰れる。もちろん、ここにいたいならこのままで良い。俺は、お前がいてくれれば嬉しいけど、でも、それ以上にお前が望むようにしてほしいと思ってる」 「僕、ああ......」 その場で膝をついてしまった。 「自分で捨てたんだ。彼らが良い国王、良い宰相になるにつれて、自分を忘れていくように思えたんだ。辛くて、寂しくて。でも、当時の僕の世界は、彼らだけだったから。彼らの中に俺がいないことが耐えられなかった。捨てられる前に捨ててやるって。本当にそれだけを思って飛び出した。自分で捨てたくせに、捨てられたことを実感するのは嫌で。あの国のことから目を背けた。でも、本当は、ずっとずっと忘れられなかった」 「それはそうだよ。愛されて育ったなら、忘れられるはずないよ」 嗚咽する僕を落ち着かせるように、アルフレッドはその背を規則的に叩く。それは魔法のように優しくて温かかった。 「時間はまだあるよ。考えてからだって遅くない。それに、もし駄目だったらさ、またここに戻ってくれば良いよ。お前は、俺とルイの護衛で遊び相手なんだから」 アルフレッドの魔法のおかげか、だんだんと呼吸が規則的に戻っていく。 「戻って良いのかな」 「お前が望むなら、戻って良いんだと思うよ」 「帰りたい。戻りたい。兄弟と兄さんに会いたい。会って謝りたい。兄弟にごめんねって言いたい。兄さんに育ててくれてありがとうって言いたい。二人に、愛しているって伝えたい。もう、逃げたくない」 顔をあげてアルフレッドを見つめると、彼は目を瞬かせた。 「あれ、いま、瞳が。ううん、何でもないよ」 と呟いてから、彼は僕に手を差し出してきた。その手を掴んで立ち上がると、アルフレッドに手を引かれ邸の中に入る。真っ直ぐに公爵の執務室に向かい、伺いを立てることなく部屋に入るとアルテュールは驚いたように手を繋いでいる僕たちを見つめた。 「おや、随分と仲が良いね。それで、二人揃ってどうしたんだい」 口を開こうとしたのをアルフレッドが制した。 「父上。私はもう、遊び相手が必要な年ではありません。ルイも。ジャムスに、いえ。ジャック殿下にお暇を」 「私は構わないけれど、お前はそれで良いのかい」 「ジャック殿下には十分すぎるほど尽くしてもらったと思っています。彼の望むようにしてほしい。私はそのために彼に手を貸したいと思っています」 アルテュールは左手で顎をさすりながら、ふーむとニヤリと笑う。 「ジャムスがいなくなったら誰がお前の身を護る。お前はルイと違って魔法は使えないぞ。魔法が使える護衛はそばにいた方が良いんじゃないか」 わざとらしい煽りに僕が口を挟もうとすれば、再びアルフレッドに制される。 「父上。父上にだって魔法が使える護衛はいないではないですか。剣術であれば父上にだって負けません。それに、私にはルイがいます。ルイは強いですよ」 口角をあげるアルフレッドに、アルテュールは満足そうに声を上げて笑った。 「アルフレッド、強くなったな。いつ私が隠居しても問題なさそうだ。そろそろ公爵の仕事を少しずつだが引き継いでも問題ないかもしれないな」 アルテュールは立ち上がり、ずっと黙っていた僕に歩み寄る。 「ジャムス。君を雇って良かったよ。感謝している。君の好きなようにすると良い。金銭的援助はしよう。次はジャック殿下に会える日を願っているよ」 「僕も、あの日、貴方に拾われて良かった。貴方に拾ってもらえなかったら、あそこで野垂れ死んでいたと思います。本当に感謝しています」 アルテュールが差し出した手を握り返す。 「出るのであれば早い方が良いだろう。明日、ゴーティエに魔道馬車を手配するように頼んでおく。明後日の朝早くに出発すれば、その日のうちには着くだろう。明日のうちに皆に挨拶をしておきなさい」 「ありがとうございます」 アルフレッドが執務室から辞そうとした時に、アルテュールは思い出したかのように付け加えた。 「ああ、剣と杖はそのまま持って行ってくれて構わないよ。役立ててくれたまえ」 「分かりました」 ニコリと笑って、今度こそアルフレッドと共に部屋を辞した。 アルフレッドと笑いながら、明日には出発しようと決めた。 ウェスリーン王国でクーデターが起きたと速達が届いたのは、次の日のことだった。 ※ 集められた、王国魔道士団の中でもトップと言われる者でさえ魔方陣の核の説明を受け、深く絶望していた。 アルフィーの尽力で早い段階で他の核の位置も解除方法も分かったとはいえ、それには多くの魔力を必要とし、複数の命が犠牲になる。 「俺と共に、死んでくれる奴はいるか」 誰も声を発しない中で、彼の声はやけに響いた。 「お前たちも分かるだろう。これは確実に命が犠牲になる。俺は愛する人のため、国のため、陛下のために死のうと思う。俺に付いてきてくれる奴はいないか」 その言葉に最初に声をあげたのは俺だった。 「私がやります。私は他の人よりも魔力量は多いから」 俺が言いきる前に口々に他の者が手を挙げる。 「私が行きます」 「僕も行きます!」 そこにいた多くの人が手を挙げたのを見て、思わず顔を歪めた。 「皆さんが亡くなったら悲しむ人がいるでしょう。私が行けば、きっと死ぬのは私だけで済む」 「それは駄目だ」 アルフィーの鋭い声にも怯まず口を開く。 「貴方が死んだら、貴方の妻や子どもはどうなるんですか。貴方には守るべき人がいるでしょう。ここで死んでどうするんですか!」 彼に掴みかかろうとした俺を、ずっと沈黙を貫いていたギルバートが押さえた。 「俺が死んでも代わりはいる。でも、貴方たちの代わりはいない。貴方たちが死んだら、悲しむ人がいるんですよ!」 パシン。 乾いた音が響く。たった一人を除いて、誰もが目を丸くしていた。俺もギルバートも例外ではない。 「お前にだって代わりはいないだろ!」 アルフィーは俺の肩を掴んで揺さぶった。 「お前が死んだら、俺は悲しい! ギルバートだって、ジェームズだって!」 殴られた頬に手を当てながら、呆然とアルフィーを見つめていた。 「お前の代わりだって、どこにもいないんだよ!」 アルフィーは泣いていた。 「上に立つ者が易々と命を捨てようとするな! お前はこの国を守る義務があるんだ!」 アルフィーは俺の肩を掴みながら項垂れる。 「俺は、お前の作ったこの国が好きだ。俺は、この国のためなら死ぬことは厭わない。だから、お前は生きてくれ。この国を、俺の大切な人たちを守ってくれ」 濡れた瞳で、それでも微笑みを湛えるアルフィーを見て俺は泣くのを堪えられなかった。 「でも、でも......!」 「ギルバート、お前の弟連れていけ」 ギルバートに無理矢理引きずられるような形で部屋から出される俺はずっと叫んでいた。 「駄目だ! 駄目だよ!」 「陛下」 ずっと黙っていた魔道士の一人で、その中の最年長の男が俺に声をかける。ギルバートは男の声を聞いて立ち止まる。俺も彼に顔を向ける。 「私には娘がいます。貴方と同い年。魔女でしたが、それを隠して田舎でひっそりと妻と生活させたんです。そうでもしなければ、娘は慰み者にされていた。不自由な暮らしをさせました。それを変えてくれたのは貴方です」 彼は俺の手を握り、頭を下げてきた。 「貴方のおかげで、娘は幸せだった。今年、孫が産まれたんです。男の子で、彼も魔法使いだ。私は、愛する人のために、国のために、国を守る貴方のために尽くします。どうかお願いです。この国を守ってください」 「俺は......」 「私は、陛下に生きていてほしいのです。先ほど、貴方はご自身の代わりがいるとおっしゃった。そんなことはない。私にとっての陛下は、貴方お一人です」 違う。そんなことはない。 そう思いながらも、彼の言葉は嬉しかった。多少、落ち着きを取り戻し、僕は男の手を握り返す。 「ありがとう。ありがとう、ございます。貴方に生きて帰れ、なんて無責任なことは言えません。だから、約束します。貴方の家族は俺が守ります。この国は、俺がきっと、守ってみせます」 「はい、陛下。私はずっと、貴方の臣下です」 ギルバートに目配せをして、拘束を解いてもらい、魔道士たちに深々と頭を下げる。 「皆さん。貴方たちの命を守れないこと、お許しください。不甲斐ない王であることをお許しください。私は、この国を守ると約束します」 息をひとつ吸って、アルフィーに向き直る。 きっと、この人にはもう会えない。 「魔道士長。今までありがとう。ずっと支えてくれたこと、心より感謝します」 「勿体なきお言葉にございます」 「アルフィーさん」 俺が急に私的な、しかも本来の話し方をするのに、アルフィーは驚きながら俺の顔を見た。 「今までありがとうございました。貴方は僕にとって、もう一人の兄さんです。貴方がいなければ、僕はきっと、耐えられなかった。貴方への恩は一生忘れません」 「俺の方こそ、お前がいて良かったよ。今までありがとう。お前は幸せになってくれ」 アルフィーが俺に深く礼をしたのを見て、部屋から出ていく。ギルバートも俺に続いた。 その後は、怒涛に事が進んでいった。シャーロットの助けもあって、多くの国民は避難させることができた。 でも、俺にとって大切な人たちは死んだ。あの場に呼ばれていた魔道士のほとんどは生きて帰ってこなかったし、アルフィーも帰ってはこなかった。 最終的に王都には俺とギルバート、シャーロットとマイラ、後は首謀者たちを捕まえるために、複数の王国魔道士と騎士が残るだけだった。 国民の避難も終わったし、首謀者たちの多くは殺したか、捕まえたかと考えた頃。白き竜を筆頭に複数の魔法使いや剣士が城に乗り込んできた。 シャーロットとマイラを伯爵領に送らなければならないのに。 まずい。まずい......! 俺は目の前の敵を斬り殺して、急いでギルバートの執務室に向かったんだ。扉は開いているのが見えて、嫌な汗がどっと流れる。 間に合ってくれと祈った時だ。 「大丈夫かい。早く非難した方が良い。まして、姉さんは妊娠しているって聞いたぞ」 ずっと聞きたかったその声に、俺は思わず足を止めた。 「ジェームズ様......」 シャーロットは迷いなくその名を呼んだ。 やはり気が付いていたのか。 「無事でよかった。久しぶり、シャーロット嬢。あ、王妃様って呼ばないといけないのか」 ああ。こんな。どうしてこんな時に。もっと、良い国にして、君にこの国を見せたかったな。 「ジェームズ......」 床に転がる死体を避けながら執務室に入れば、兄弟、いや、ジェームズはこちらを向いて、目を彷徨わせた。 最初は水色だった瞳は、一度目を瞑り、こちらをしっかりと見据えると、自分の大好きな碧色になっていた。 「久しぶり、ジャック。今更、ごめん」 ※※※ 二人が部屋から出ていった後、俺は魔道士たちに向かって微笑んだ。 「俺たちは、良い王に恵まれた」 誰もがそれに頷いた。俺は濡れた目元を腕で乱暴に拭い指示を出す。 「今から、誰がどの核を壊すのか俺が決める。死にたくない奴は出ていってくれ。誰も咎めたりはしない」 そう言っても、誰も動こうとはしなかった。残った面々を見渡し、俺は一人の男に声をかける。 「ハロルド、お前はどうしてここにいる。お前は陛下の側近だろう」 「私は家族もおりません故、陛下のために死ぬことに何の躊躇もありません」 「ハロルド。お前は戻れ」 「ですが」 反論しようとしたハロルドよりも先に俺は質問を投げ掛ける。 「ハロルド。お前に魔法を教えたのは誰だ」 「魔道士長です」 「お前に政治を教えたのは」 「ギルバート宰相です」 「お前に礼儀作法を教えたのは。文字は。算術は。貴族と遜色ないようにと知識を授けてくださったのは誰だ」 「陛下、です......」 周りの者たちはその豪華すぎる指導者に息を飲んだ。 「お前は陛下の最初の我が儘だった。あの子が初めてギルバートに逆らってまで手に入れたのがお前だ。お前は、あの子のそばにいてやってくれ」 「で、ですが」 「俺はここで死ぬ。ギルバートも、何かあれば躊躇いなく死を選ぶ。あの子を愛して、あの子のために死ぬ人間はいるが、あの子と共に歩んでくれる人はいないから。お前はあの子と生きてやってほしい」 ハロルドは泣きながら頭を下げた。そのまま、涙を拭うこともせずに早足に部屋を飛び出していった。 「今から四半刻。その間に俺は編成を決める。誰かに伝えたいことがあるやつは今のうちだ」 その場で使い魔に伝言を頼む者、使い魔に記憶を届けるよう頼む者、部屋で短い手紙を残す者。 俺は愛する彼女の使い魔を呼び出し、その頭を撫でた。 「『記憶を届けよ。愛しのアリシアと子どもたちに』」 使い魔の頭にこつんと己の額を合わせ、愛していた家族の顔を思い浮かべながら呟いた。 「『アリシア。ずっと、君だけを、愛していた。俺は、君との約束を果たすよ。子どもたちをよろしく頼む』」 額を離せば、使い魔は視線を一瞬俺にやってから姿を消した。 さあ、俺の最後の仕事はここからだ。 全部で十三ヶ所。地図上に結界の場所とある程度必要な魔力量を記してから、その横に魔道士たちの名前を書いていった。 自分一人では五ヶ所が限度。いつ発動するか分からないことを考えれば、全てを早急に破壊する必要があり、そうすると転移魔法にも魔力を持っていかれる。 今残ってくれた面々を考えれば、全て破壊するのは容易だ。だが、生き残る人間がいない。 どうする。どうすれば救える。せめて、俺より若い奴らだけでも。己は全てを使いきっても構わないのに。 「お困りのようだな、魔道士長殿」 どうしたら良いか考えている思考の中にギルバートの声が割って入ってきた。 「宰相殿。陛下のおそばにいなくて良いのか?」 「ハロルドが来たからな。去り際は見極めないと」 軽口を言った後、ギルバートはすっと目を細める。 「城内の三つ。俺に任せろ」 「何言って......」 「申し訳ないが、城から離れることはできないからな。だが、城内の三つは、魔方陣の中心を担う。役には立つだろう」 お前は死ぬべきじゃない、とか、国をどうするつもりだ、とか、ジャックとジェームズは、とか。様々なことが瞬時に頭に浮かんだが、そのどれも口にしなかった。しても無駄だと分かっていた。 「はは、頼もしいな」 「感謝しろよ」 それだけ言うと、ギルバートはひらりと身を翻し、扉へ向かう。 「ギルバート」 ギルバートの背に声をかける。 「なんだよ」 返ってきた声に、いつものような覇気が感じられないのは、きっと気のせいではない。 「先に逝ってる。向こうで待ってる」 息を飲む音が聞こえてすぐ憎まれ口が帰ってくる。 「首洗って待っとけ、バーカ。......。俺も、すぐ逝く」 遠ざかる足音に、俺は泣いた。 「バカだなあ。本当にバカだ。どれだけ良い王であっても、他人よりも家族に決まっているだろう。ジャックは言わないだろうけど」 泣きながら、地図に染みができることも構わずに、地図に名前を書き込んだ。城の三ヶ所にギルバートの名を。城の外で、魔力を多く必要とする四ヶ所に己の名を。 これで数人は生き残る。それでも数人。誰が生き残るかは、己の心次第。 「俺より年下を殺すわけにはいかないよな」 全てに名を書き終わる頃には、皆が戻ってきていた。 「ごめん、皆」 誰もが首を横に振った。 「ごめん。俺に、ジェームズくらいの魔力があれば、死ぬのは俺だけで済んだのに。ごめん」 そう言いながら地図を皆の前に広げた。自分の位置を確認しながら、誰も何も言わなかった。 「死にたくないですね」 沈黙を壊したのは、俺よりも少しだけ年上の女性であった。 「死にたくないなら出ていっても良いと言われただろう」 女性と同じくらいの年の男が睨み付けるように言った。女性はそれを気にも止めず続ける。 「死にたくないのは、皆そうでしょう。でも、それ以上の何かがあるからここにいるだけ」 女性は俺を見ると、優しく微笑んだ。 「魔道士長だってそうでしょう。死にたいなんて思ってない。でも、守りたいものがあるからここにいる。皆一緒です。皆一緒ですから、謝る必要なんて無いですよ。ここにいるのも、死を選んだのも、結局は自分の意思です。だから、魔道士長が謝る必要なんて無いですよ」 彼女は地図に目をやり、もう一度俺に視線を戻す。 「貴方の元で働けて良かったと心の底から思っています。貴方の意思はしかと受けとりました。下の者は必ず守ります」 彼女は、自分と同じ場所に配置されている者を呼ぶと、転移魔法を用いてその場から去った。 一人が動けば、後はあっという間だ。皆、俺に礼や挨拶をして去っていく。しかし、誰も「また」とは言わなかった。 俺以外に誰もいなくなった部屋をぐるりと見渡す。 アリシア、愛していたよ。子どもたちも、本当に愛していた。ああ。こんな結末ならば、もっと伝えておけばよかった。 ギルバート。俺の親友。俺はお前を誇りに思うよ。 ジェームズ。お前は何をしているんだ。早く帰ってきてやれ。 ジャック。お前の人生に、幸多からんことを。 ※※※ 私は、初めて貴方にお会いした時の、冷たく、けれど迷い子のような瞳を今でも鮮明に思い出せるのです 「王妃様はマイラ夫人と共にオースティン伯爵領に避難せよとの陛下のご命令です」 「陛下は、どうなさるおつもりですか」 エマは少し口ごもった後に教えてくれました。 「陛下は王国魔道士の者たちと魔方陣の解除に関わるおつもりのようです。おそらく、ギリギリまでは城に残るおつもりかと」 そうなさるだろうことは予想がついていました。あの方は、優しい方ですから。 「エマ。私の護衛魔道士を民の避難に尽力させます。まだ公になっていないクーデターです。秘密裏に民を避難させる必要がありますから。詳細は追って伝えますが、とりあえず準備するように伝達して。あと、急いで魔法協会の者に王妃からとして使いを出してください。陛下が国を守るために尽力なさるのであれば、私は民を守るために尽くします」 「ですが、王妃様は避難せよと」 「陛下が残るのに私が逃げるわけにはいきません。陛下の命に背いた責任は全て私が背負います」 エマはそれでも躊躇をしていました。当然でしょう。彼女は私の護衛魔道士長なのですから。 「エマ。転移魔法は、多くの魔力を消費するのでしょう。人手は多い方が良いです」 「ですが」 「大丈夫です。最悪の場合、陛下と共に避難しますから。あの方が非常に優れた魔法使いであることはエマも知っているでしょう」 エマは一つ頷いて部屋を出ていきました。 王都を完全に囲う魔方陣。それを壊すには相当量の魔力が必要となり、すなわち、魔道士の命を引き換えにする必要がある。 陛下はそこに命を賭けることも厭わないでしょうが、おそらくはギルバート様やアルフィー様がお止めになるはず。さすれば、私がやるべきことは、陛下が民を避難させる際に滞りのないように手配することでしょう。 「ソフィア。王国魔道士の会議は何時からか聞いていますか」 「アルフィー様が陛下の執務室に駆け込んだのが一時間ほど前。陛下のお名前での緊急召集の伝達がされたのが三十分ほど前でございます。早くとも会議自体はまだ始まっていないかと」 「分かりました。貴方はこの城の使用人たちを取りまとめて、避難の準備をさせてください。ハロルドは陛下と奔走するでしょうから、貴方が使用人をまとめるのです」 「かしこまりました。他に何かございますか」 私が首を横に振ると、彼女は一礼して部屋を出ていきました。私は魔法協会の者が来るまで、避難先となるであろう多くの領地の領主に渡す受け入れ要請を書き、王妃としての署名をしました。陛下の名前を入れるだけの状態にしておけば、割く時間は少なく済むでしょう。魔法協会の代表が来る頃にはあらかた書き終えることができました。 「王妃様。魔法協会の代表をお連れしました。応接室にお通ししております」 「ありがとう、エマ。今行きます」 小走りで応接室に向かえば、そこには魔法協会の代表であるノアが座っていました。 「ノア、お越しいただき感謝しております。端的に申し上げますと、貴方たち魔法使いの力をお借りしたいのです」 「王妃様からのご用命に従い参上いたした次第にございますが、もう少し仔細をお話いただきたく存じます」 ノアの言うことは尤もです。私も気が急いてしまっていたことを自覚しました。深呼吸をして、ノアに事の次第を伝えます。 「民の避難に力を貸していただきたいのです。まだ公にはされていませんが、王都全体に巨大な魔方陣が敷かれています。王国魔道士が魔方陣の破壊を行いますが、誰にも気がつかれずに魔方陣を完成させることのできる者たちによるクーデターです。王都を攻めてくる可能性は大きいでしょう。その時の民の避難に、協会に属する魔法使いの方々に協力をお願いしたいのです」 ノアは考え込むようにして、下を向きました。 転移魔法は高度な魔法で、王国魔道士になるための基準の一つとなっています。魔法協会は王国魔道士になりたくない者によって結成された会ではありますが、その実、王国魔道士にはなれない魔法使いの受け皿の役割を持つ。となれば、転移魔法を使えない魔法使いも多くいるのでしょう。 「転移魔法を使える者はおります。しかし、多くの人を転移させることのできる者は多くはありません。あまりお役には立てないかと」 「少しでも人手が欲しいのです。お願いをきいてはいただけないでしょうか」 「王妃様。王妃様のご命令であれば私どもは逆らえませぬ。なぜ、命令なさらないのですか」 王妃としての命は陛下の勅命の次に効力を持ちます。命に背けば不敬罪。ですが、陛下が不必要に勅命を使ったところは見たことがありませんし、私は王妃として命を出したのは先ほどのエマに対するものが初めてです。 「陛下が、権力を盾にした命を好んではいらっしゃらないので」 「それだけでございますか」 「それだけです」 少しばかりの沈黙の後、彼はふっと笑いました。 「陛下にも王妃様にも、我々は返しきれぬ恩がある身だというのに、大変失礼申し上げました。我々も民の安全に尽力しましょう。こちらはこちらで多くの魔法使いを集めておきます。避難先や経路、その他必要なことが決まり次第、指揮を寄越していただきたい」 「ありがとうございます。ことが決まり次第、すぐに使いを送ります」 ノアを見送り、次の手段を考えます。 あと、私にできること。そうだわ、孤児院は先に避難させてしまいましょう。王都の孤児院は全て、経営主が私になっているのですから、私の命にはすぐに従うはず。子どもは混乱したら動けなくなる可能性が高いから、早いうちに王都から外に出した方が良い。 「エマ。孤児院の子は今のうちから避難させてしまいましょう。孤児院にいる子どもの数ならば、私の護衛魔道士で足りるでしょう。まずは魔道士たちには孤児院の子どもの避難をさせましょう。私は避難先となる孤児院への要請を急いで書きますから、貴方は各人の配置や役割を決めて」 「かしこまりました」 エマとは入れ違いにソフィアが戻ってきました。 「王妃様。城内の使用人には伝達を終えました。とはいえ、彼らもギリギリまでは城に残るでしょう。他にご用命はございますか」 特別、今私にできることはこれ以上はないでしょう。あとは、陛下やギルバート様、アルフィー様と話をしなければなりません。 「王国魔道士の会議は終わっていますか」 「会議はまだしているようですが、陛下はお部屋からご退出されたそうです。執務室に向かわれたと思います」 「そうですか。では、そこの机にある要請書を陛下のところに運ぶのを手伝ってください」 ソフィアと共に陛下の執務室へ向かい、入室の許可を待つことなく扉を開きました。中にいた陛下とハロルドは心底驚いたような顔をされていました。こんな状況でなければ笑っていたかもしれません。 「シャーロット、君には避難するように告げたはずだ」 「私にも陛下と共に尽くす義務がありますので残りました」 それだけ言って、ソフィアと共に持ってきた要請書を陛下の前に置きます。 「各領主への避難の要請書です。陛下の署名もあれば、領主は断れないでしょう。魔法協会には民の避難への協力を要請しました。ことが決まり次第、指示のできる者を一人送ってください。孤児院や近隣の平民学校の子どもたちの避難も準備を始めております」 「ちょ、ちょっと待って、シャーロット」 陛下は少しだけ眉間押さえながら、私の出した要請書を確認し始めました。 「ありがとう、助かるよ。魔法協会の方も連絡を取らないといけないと思っていたから助かった。でも、これ以上はいけない。君と宰相夫人は早くオースティン伯爵領に避難して」 「いいえ、陛下。民の避難は私が取り仕切ります」 私の言葉に、陛下は難しそうな顔をなさいました。彼は私の身を案じて真っ先に避難をさせようとしていたのですから、お気持ちは分かるのですが。 私もここで逃げるわけにはいかないのですから。 「陛下、民の避難に関して、私の上に立つ者はいませんわ。私は陛下の次に権力があるのですから」 「全部、俺がやれば良い話だ。これ以上、僕のために死ぬ人を増やすわけにはいかないんだ」 思わず固まってしまいました。それは彼の怒号に固まったというよりも、初めて聞く一人称に驚きが隠せなかったという方が正しいです。 「陛下。いえ、ジャック様。私は貴方のためになりたいのであって、貴方のために死ぬわけではございません。任せてはいただけませんか」 彼の本当の名前を呼べるのが、まさかこんな時だとは思ってはおりませんでした。彼の表情は、今にも泣き出しそうな子どものような。まるで、入城したばかりの私に泣きながら謝ってきたときのようなお顔でした。 「良いんじゃないか」 沈黙を破ったのは別の人の声でした。入り口を見れば、ギルバート様が立っていらっしゃいます。 「ギルバート。でも、全部俺がやった方が」 「王妃様は民に人気がある。彼女なら十分できるだろう。お前はお前にしかできないことをやった方が効率が良い」 ギルバート様のお言葉に陛下、いえ、ジャック様は何も言い返せないようでした。ギルバート様は私の前までいらっしゃると何かを渡してくださいました。見れば、それは宰相の使う判でした。 「ギ、ギルバート様、これは......」 「宰相の判が必要なら使うと良い。あと、俺のサインか魔道士長のサインが必要なら、マイラに頼んでくれ。彼女は俺とアルフィーのサインは真似できる。マイラはこの城に来るよう手配してある。宰相の執務室にいさせる予定だ」 「ありがとうございます」 私は彼の判を握りしめてその部屋を辞しました。 そこからはマイラ様の手も借りて、避難誘導に取りかかりました。王妃だけでなく、宰相や魔道士長のサインがあるというのはとても助かりました。 結果として、首謀者たちが王都に侵入する頃には民をほとんど避難させることができたのですが......。 城の一部から爆発音が響き、宰相の執務室に私とマイラ様の二人だけになった時です。剣を持った人が入ってきました。 ろくに扱えもしない短剣を持ち、相手の前に立ちましたが、私に勝ち目がないことは分かっていました。マイラ様だけでも逃がさないと、と思ったところでその男は血を流しながら倒れたのです。 「大丈夫かい。早く避難した方が良い。まして、姉さんは妊娠してるって聞いたぞ」 剣の血を払いながらそう話しかけてきたのはジャック様、ではなくジェームズ様でした。安堵したと共に足の力が抜けて倒れそうになったところをジェームズ様に支えられました。 「ジェームズ様......」 「無事で良かった。久しぶり、シャーロット嬢。あ、王妃様って呼ばないといけないのか」 学院でお話ししていた頃と変わらない笑顔と雰囲気でした。その後、ジャック様が部屋に入ってこられて、驚いたようにジェームズ様を見つめていました。 「ジェームズ......」 「久しぶり、ジャック。今さら、ごめん」 兄弟の感動の再会、というには場所も状況も悪すぎます。それに年月も経ちすぎていたのかもしれません。彼らは互いに何も言いませんでした。ギルバート様が慌てて部屋に入ってこられたため止まっていたかのような空気は再び動き出しましたが、やはりどこかギクシャクしているように思いました。 「ジャック、白き竜とその主が今は一階にいるそうだ」 「そう......。ジェームズ、マイラとシャーロットを安全なところに連れていってもらって良いかな。俺......、僕はギルバートと一緒に白き竜と戦わないといけないから」 ジェームズ様は短く返事をして頷くだけでした。ジェームズ様のお返事を聞いたギルバート様はマイラ様に駆け寄り抱き締めておりました。 「今までありがとう。すまなかった、最後まで無理をさせて。君を置いて逝ってしまうことを許して欲しい」 「宰相の妻として務めを果たしたまでにございます。子どもたちのことはお任せください。守ってみせます」 「俺もこの国を守るよ。愛していたよ」 「私もこの身が果てるまでお慕いしております」 まるでギルバート様が帰ることはできないと分かっていたかのような会話でした。マイラ様はギルバート様から離れるとジェームズ様のお側に立ちました。 私は......。 「私は陛下と共に残ります」 ジャック様のおそばに寄れば、彼は困ったように笑って、いきなり私を抱き締めたのです。 「シャーロット、愛してあげられなくてごめんね。ずっと嘘を付いていてごめん」 「ジャック様......?」 「君は幸せになって」 いきなり肩を押されたかと思えば、私の腕をジェームズ様が掴んでおりました。 「え......」 「君が王妃で本当に良かった。ありがとう、ロティ」 そのお言葉を最後に、私はジェームズ様の転移魔法で城から離れ、最終的にはオースティン伯爵領にまで連れてこられていました。 彼が私を逃がしたということは、少なくとも彼自身は帰ろうとは思っていなかったのでしょう。彼は死んで白き竜とその主を殺すつもりなのだと、そして、自分が死んでもジェームズ様がいるから大丈夫だと本気で思っていることに漸く気が付いたのです。 「どうして、あの場に残してはくださらなかったのですか!」 「それがジャックの望んだことだったから。俺は彼の意向に従っただけだ」 「私は、ジャック様と共にありたかった......。死ぬのであれば、彼と共に果ててしまいたかった......。なのに、どうして......」 先に避難していた民の戸惑いが聞こえてはきましたが、そんなものに構う余裕なんてありませんでした。首元のペンダントを引っ張り出し、必死に呼び掛けても、陛下は返事をくださいません。 どうして、こんな結末なのでしょう。別に、燃え上がるような愛をくださらなくても良かったのです。ただ、穏やかに彼と過ごせればそれで......。 「嘘なんて。そんなの、ずっと気が付いておりました」 貴方の瞳に迷いがあったのはずっと分かっておりました。それでも、いつか、私に全てをお話くださると、その上で共に歩むこともできると信じておりましたのに。 きっと、彼は私の気持ちを勝手に聞いたことなど無かったのです。幸せになって、はジェームズ様と幸せになって欲しいという意味だったのです。 「陛下......。ジャック様......。貴方が私を愛していなくても、私は貴方を愛しておりました。なのに、どうして......」 どうして、私の心を聞いてはくださらなかったのでしょうか。 聞こえているのでしょうか。 聞こえていて欲しいと、ただただ願うばかりでございます。
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