パルプ・マトリョーシカ

暗病院終了



 僕の制服のポロシャツにはポロックの作品みたいに血が飛び散っている。
 僕の足元、教室の床には赤い水溜まりがじわじわ広がりつつあって、水源をたどれば教室の中央、机と椅子をぎちぎちに端に寄せて作られた空間に転がった霧ヶ峰結衣の身体がある。霧ヶ峰の血がとろりと触手を伸ばすように床を流れていく。霧ヶ峰は首を窮屈そうに曲げて僕を見上げている。その目に、うだるような八月の熱さで蕩けたみたいな色を見て、僕は奥歯を噛みしめる。
 彼女の長く繊細だった髪は頭の下でぐしゃぐしゃになった形で、血のワックスで固まっている。胸には滑稽な二本の鉄釘が、彼女が抵抗したせいで少し歪んで突き立っている。唇は――無い。溶けた。ムリに飲ませようとした苛性ソーダを吐いたから、口から喉元にかけて血と吐瀉物がへばりついて、まだすこし泡立ち肉を溶かしている。露出した肉はぬらぬらしたピンクで、サナダムシみたいな黄色を帯びた白い脂が露出している。
 うるさかった彼女の口はもう無い。なのにその目は、ひくひく瞼を痙攣させながらまだ僕を見上げている。何か訴えるように僕を見つめている。
 うるさい。
 僕は激情にまかせて、制服のポケットから引っ張り出した拳銃で彼女の頭を吹き飛ばす。がん、と頭は床に叩きつけられ、タイルにミートソースみたいな粘りが跳ねた。ようやく、静かになった。しばらく、僕は遠くで蝉の鳴き声が聞こえるだけの静寂のなかで犬みたいに荒い息をしていた。
 教室の天井に取り付けられた扇風機にはクラスの誰かの頭がつっこまれぶら下がった身体は宙で揺れていて、黒板の上には中世の晒し首みたいに誰かと誰かと誰かの頭がごとごとならんで黒板に血の筋を垂らしていて、挙げるときりがないが、クラス三十五人が教室で無言になっている。もう誰も僕に死ねなんて言わない。シャツの胸元に涎がぽたぽた垂れて、自分が笑いの形に口を歪めていたことに気付いた。
 僕はひどく重い右手を持ち上げて、銃口の固い感触を自分の側頭部に当てる。その一点だけひんやりして気持ちよかった。僕は炎天下の中死にかけている犬みたいに舌を出して息をしながら、うっすら笑っている。どこか遠くから騒ぎ声と荒い足音が近づいてくるのを感じる。微かなサイレンの音が聞こえる。うるさいな、頼むから。人差し指に、かちりと力を込めた。静かにしてくれ。

 ばん。
 背後で扉が勢いよく開いた。
 俺ははっと顔を上げ、数秒かけて自分の状況を飲み込む。明かりも付けない旅館の部屋は、薄紫に暮れ始めている。俺は畳の部屋で着流し姿で突っ伏すような恰好で文机に向かっていた。自分の原稿に溺れかけていた。
「おい、ずらかるぞ」
 扉を開け放ったKが青い顔で言う。「奴らもう動き出しやがった」
 俺は呻く。「まだメインの拷問シーンにも掛かってないんだぞ」
「血は」
 訊かれて俺は、腕の下の原稿用紙をざっと捲る。一人三リットルと見積もって、かける三十五。
「105リットル」
「あほ」
 吐き捨てたKは着流しの裾を翻して早くも去っていくところだ。「荷物まとめろ。五分で出る」
 一人になった俺は五分のうち十秒をため息で消費した後、原稿をまとめて輪ゴムで束ね始める。くたびれた鞄が口から吐き出しかけていた服を押し込み、そこらの物を手当たり次第に詰めてチャックを無理やり閉めた。灰皿の中身を紙袋にあける。俺はもう一度ため息を吐く。ここの旅館は寂れた雰囲気も俺好みで、婆さん女将によれば晩はタラの芽が出るそうだったから楽しみにしていたのだが、どうやら食べる機会には恵まれなさそうだ。俺は着流しから着古したシャツとズボンに早着替えする。
「行くぞ」
「おう」
 Kがアロハの裾をベルトからはみ出させて顔を出した時には、俺は洗面所のシンクで紙袋に火を付けたところだ。

 俺たちは旅館の裏口から夜逃げでもするみたいにこっそり宵の町へと繰り出す。辺りはまだ夕方ののどかさで、豆腐売りの間抜けな笛の音が響いていた。Kは苛立ったように雪駄でざくざく地面を擦って裏路地を縫い歩いていく。
「...お前、今何を書いている」
 機嫌の悪い声で訊かれた。
「暴力小説」
 俺は答える。そんなことは知っている、とKは不愛想に返す。当然だ。でなければ俺も冗談でもそんなことは言わない。暴力小説を書いているどころか、読んでいると知れただけでも風俗綱紀取締委員会――通称風紀委員に連行される。まったくなんて時代だ。
「いじめられていた少年が壊れて復讐の鬼となり、学友に凄惨な罰を与える、という趣旨の話だ」
 Kはつまらなそうに鼻を鳴らした。「陳腐だな」
「暴力小説において大切なのはストーリーではない」俺は達観したように薄く笑ってみせる。「暴力的である、ということだ」
「お前が書く血の匂いを嗅ぎつけて風紀の犬どもがやってくる。まったくおちおちプロット組んでもいられん」
「何を言っている、俺だけのせいな訳ないだろうが。貴様自分の書いたものを朗読してみろ」
 Kはフンと笑った。
「俺の書くモンには熱狂的な信者のご婦人方が大金をはたくんでね。金のためなら何だって書くさ」
「そのために死んでもか。さっきも、お前を恨むやつらが潜伏先を洗って密告したんじゃないのか」
 Kが専門とするのは男色文学で、中でも既存の漫画や活劇の登場人物を改変して絡ませるといった作風で名をあげている。風紀委員はもとより、原作のファンからも憎悪を買う難儀な商売であり、仲間内では最も死に近いジャンルとして敬遠されている。その分報酬が高いのも確かだ。
「まだ死なねえよ。さっき書いた分、金に換えに行く」
 路地を跨ぎ、折れ、抜けるKの足取りには迷いがない。俺は懐の小箱からちびた煙草を取り出し、引っ張って伸ばして銜え、背中を追った。

 そこは一見どこにでもある、汚い民家の塀や折れた雨樋や錆びた蚊取り線香の看板でごみごみした裏路地にしか見えない。それでも知っている者なら、俺なら、熟れすぎた杏みたいな場違いな香水の微かな臭気を嗅ぎ取ることができる。
 雑居ビルの地下へ延びる階段を下りると、喫茶ソドムとプレートが下がった飴色の木製扉がある。Kはシャツの襟を整え、手の甲で軽くノックする。瞬間覗き窓が開いて、中から目玉だけがぎょろりとKを見た。
「...ぐりと」
「ぐら」
 そうKが合言葉を答えるとシャッと覗き窓は閉じ、代わりに錠が外れる音がして扉が内から開いた。
 お仕着せを着た男が仰々しくお辞儀して俺たちを迎え入れる。喫茶店内にしては広すぎる。潰れた劇場を改築したというそこは、しかし舞台の名残りをそのまま残している。客席を取り払ったフロアにはセカンドストリートで千円で買ったようなパッチワークのソファやロココ様式の天蓋付きベッドがごたごた置かれ、女たちが歓談しながら吐く紫煙と焚かれた香が混じりあって薄いベール越しのように全てを霞ませている。フロアのそこかしこで間に合わせの屋台が組まれて怪しげな取引が行われている。猫の仮面を被った女がよれた紙幣を差し出し、フードを目深に被った店主は何枚ものCDと小さな缶バッジを一つ差し出す。女の肩から下がった鞄には、すでに缶バッジがびっしりと鱗のようについて表面を覆っている。
 帝都最大の闇市、失われた女のための楽園。
 俺たちは屋台の間のスラムじみた路地を奥へと進む。空気みたいな軽い桃色の天幕を何重もくぐり、舞台上へ続く階段を上る。謁見の間が近づくにつれ煙がいよいよ濃い。前を行くKが足を止めたので、俺はその背中に顔面からつっこみかけた。
「ソドムへようこそ」
 脇に控えていた若い男の従者がクジャクの扇でゆっくり風を送ると、薄煙が流れて、玉座に納まったぴちぴち人魚スーツの派手なセイウチみたいな巨体が現れる。ここの女城主、ソドムのドン。マダム☆洋子だ。被ったベールの奥でねっとりした唇の両端が吊り上がり、瞼を青く塗った目が細められる。
「お待ちしていたわ」
「よお。持って来たぞ」
 Kが片手で差し出した原稿の束は、従者の手を介して恭しくマダムに献上される。
「前回の続きね?」
「五、六話まとめて入ってる」
 マダムはふうんと鼻にかかった声を出しながら、Kが両手で差し出した原稿の束を受け取ってぱらぱら捲る。気のない様子に見えて、ベールの奥で細められた目をよく見れば眼球が文字を追ってもの凄い速度で動いていることが分かる。彼女はもともと都庁の旧有害指定図書審査局のお偉いさんだった、というのは数ある都市伝説の一つだ。そこで禁書を毎日浴びるように読むという業務のせいで指向が歪み、裏社会の女王にまで転落してきたとか。本当だとしたら、禁書政策がこの化け物を生んだというのは大した皮肉だ。
「いいんじゃない」
 ドロップみたいな宝石の指輪がちかちか光るマダムの指が原稿を撫でた。
「『ナメクジのようなパーシーの舌がトーマスの鎖骨をなぞった』――この耽美な描写は流石だわ、他の作家には書けない。描写の繊細さも見事ね」
「生活が懸かってるからな」
 マダムはガラス玉じみた緑のカラコンの瞳でKを見た。
「貴方、自分が何に手を染めているのか理解しているの」
「金のためにやおい同人書いてる」
「性的倒錯描写、児童ポルノ描写、猥褻物出版、当局にパクられたら更生施設送りよ。過激な原典主義ファンの私刑に遭えば殺されかねない」
「んなこと身に染みて分かってるよ」
「...後ろのご友人も状況は同じ。」
 言ってマダムの目が人形のそれみたいにじろりと動き、見据えられた俺は動揺する。すっかり透明人間に――芝居の観客にでもなったつもりでいた。
「貴方、まだあの野蛮な悪文を書き散らかしていらっしゃるの?」
 一瞬返事が遅れる。「ええまあ」野蛮な悪文。
「闇マーケットで取引されるとはいえ、命に換えられるほどの報酬かしら」
「あんたみたいな仲介がごっそり何割か抜いてくからだろ、俺らの薄給の原因は」
「帝都政府の雇われ文筆家になって人畜無害な人情ものを書いている方がよっぽど、安定と幸福を手に入れられそうなものだけれど」
「なにを仰りたいのです」
 俺は回りくどい話にうんざりして口を挟む。「...我々の口から、禁書の創作に手を染めているのは金目当ての理由のみではないと言わせたいんですか。俺みたいなB級文士にも崇高な理念と矜持があると?」
 そんなにセンチメンタルな女だっただろうか。天下のマダム☆洋子も歳か。
「あるの?」
「ありますよ」
 小さい頃、忍び込んだ父の書斎でバトル・ロワイアルを読んだ。少年少女の血が飛び散る光景は文章から匂うように立ち上がり鮮明に脳裏に焼き付いた。最高警戒レベルに当たるその禁書が関係したのかは分からないが、それからほどなくして父母は失踪し家は放火で焼け落ちた。祖母の家に預けられてからは、蔵に籠ってひたすら焚書を免れた平家物語等から戦闘シーンのみ拾い読みしたり、自分で見様見真似で書いてみたりしていた。
 人は古来より血に惹かれる生き物だ。
 欲求を創作の中で果たすことは卑しいことでも何でもない。俺は俺の野蛮な悪文で、血が飛び散り臓物をぶちまける描写で人々にゲロを吐かせたい。アドレナリン過多で心臓麻痺にしてぽっくり逝かせてやりたい。
 俺の死んだような目から、内に燃えるアツい想いを見て取ったのかは分からないが、マダムは獲物を捕捉した猫みたいに瞳を細めた。
「青いわね」
「もう二十八だぞ」従者がお辞儀と共に差し出した茶封筒を奪い取って、紙幣を抜き出し数えながらKが言う。それじゃ生まれたてじゃないのとマダムは笑う。
「ねえ、後ろを振り返らないで聞いてね」
 俺とKはぴたりと動きを止め、眼球だけ動かしてマダムの厚化粧を見上げた。良いお知らせなわけがない。
「客席を憲兵がうろついてる。銀ボタンの中等兵ばかり四、五人。狙いはまず間違いなく貴方たちね」
「あんた、売ったろ」
「売るわけがないでしょう、うちの秘蔵っ子を。舞台裏から通路を抜けて逃げなさい」
「憲兵はどうするんですか」
 いくらソドムがボンボンを積もうが、大っぴらに退廃作家の逃走を助けた現場を押さえられるとマズいだろう。マダムはずるりと背もたれに巨体を預けて煙管を銜え、深々と煙を吐いた。
「こっちが舞台を整えて時間まで指定した招待状を送って、それで軟弱な作家の二人くらい取り逃がしたら、どう考えたって憲兵の失態でしょう。餓鬼じゃないんだから手までは引いてやれないわ」
「売ってんじゃねえか」
 マダムは露骨に気分を害した顔をして、煙管に香水瓶を傾け、一滴垂らし大きく息を吸い込んで吐いた。噴出した煙幕のような濃い桃色の煙で視界が捲かれる。雲に入ったみたいな濃霧の中、従者の骨ばった手だけがぽかりと浮かび出て、標識みたいに奥の一点を指している。あっちへ逃げろと言っているのか。行くぞ、とKの声が遠くから聞こえた。おう。
「ああ、一つ言い忘れていたわ、血に飢えたB級三文作家さん」
 煙った空間の上の方からぼんやりと聞こえるマダムの声が俺を呼び止める。
「茨立伊ヱ奈をご存じね?」
 イラダチ・イエナ。これまでに作品内で殺した登場人物は数千人に上ると言われ、目に入るもの全てを拷問の小道具に活用するインスピレーションの奔流を抱えた、今世紀最高のエログロ作家。正体は不明で場末の娼婦だとも帝都の高官だとも培養液の中の脳みそだとも囁かれる、生きた伝説だ。
「今、この辺りに浮上しているらしいの。どうせいつものように根も葉もない噂だと思うけれど、続きが少し興味深くてね」
 どこかでマダムが小さく笑った。
「奴は、平題典を探しているらしいわ」
 俺は瘴気みたいな紫煙のせいかちょっとくらっとくる。平題典は、血に飢えたB級三文作家の――俺の筆名だ。
「また、とんでもないモノに目をつけられたわね?」
 さっさとしろ、とKが怒鳴る遠い声が俺を現実に――これは現実か?――引き戻す。マダムの哄笑から逃げるように俺は暗く狭い舞台裏の通路へ、走った。

 ばこばこに歪んだアルミの裏口ドアは少し開いていた。Kが駆け抜けていった気配が残っている。外へ出て見上げれば、宵の空は橙色から薄紫へと移りつつある。染み出るように苔生した裏路地の先に、見覚えのある背中があった。俺の気配に気付いてか、振り返らないまま深いため息を吐く。
「畜生、皇帝閣下のお散歩の時間だ」
 どこか遠くからエレクトリカルパレードの旋律が近づいて来るのが聞こえる。角から首を出して大通りを窺えば、街灯が灯り始めるのと速度を合わせてごたごたした行列が向かって来るのが見えた。
 巨大な黒猫のハリボテが電柱に擦り付くように闊歩し、黒い燕尾服の死神のねぶたが牽かれ、バレエのチュチュを着た稚児たちに護衛されてネオンの蔦が這う南瓜の馬車が続く。高い竿に吊られた提灯が上下に揺れる。さながら煌びやかな百鬼夜行絵巻、帝都大総統・蝶々皇帝閣下の日課である夕刻の御散歩だ。横切るどころか、少しでも皇帝閣下に下賤な身を晒せば、ドラァグ仮装した憲兵達がとんできてあっさり連行される。通りはがらんと無人で、面した家屋は総じて固く戸を閉ざしている。
 タイミング的には最悪だった。後ろに憲兵、前に憲兵状態だ。
 Kはもとからぐしゃぐしゃの髪を両手で掻き回し、しばらく両手に頭を埋めた後、がばっと顔を上げた。近くの雑居ビルの外壁を這う配管に足をかける。
「何をする気だ」
「のぼって屋根伝いに逃げンだよ。俺はまだ死にたくないからな。お前は死にたけりゃここで突っ立って死ね。自殺は文筆家の十八番だろ」
 言いながらするするKはロッククライミングしていく。俺は迷わずあとに続き、パイプを右手で掴んで身体を持ち上げ、左足を掛け、外壁をよじ登り始める。死んだら、書けない。

 Kは忍者みたいに屋根の上をひょいひょい渡って行った。俺も置いていかれまいと後を追った。今日の百鬼夜行はしつこくて、どう通りを跨いでも鉢合わせかけ、一度はちょうど屋根の高さに頭があった巨大な気球の黒猫と目が合い、シャアと牙を剥かれたのであわてて回れ右した。その辺りからKは本格的にナルト走りになり、俺も何となく奴の考えを察した。
 憲兵は禁書の匂いを犬みたいに嗅ぎつける。Kがソドムで原稿を金に換えた今、匂うとすれば俺の鞄の中の血みどろ学園ドラマだろう。自分だけが捕まるなど絶対に嫌だったので俺はムキになってKを追った。
 気が付くと、エレクトリカルパレードは遥か遠くで微かに鳴っており、俺たちは足を止める。どうにか撒くことに成功したらしい。俺たちはげっそり疲労した顔を見合わせる。
「酒」
「女」
 欲望をぼそぼそ口にしあって、配管を伝い通りに下り立った。前にも後ろにも、夕暮れの奇妙な陰影が付いた見知らぬ通りが延びている。
「ここどこだ。この辺りで飲めるところあったか」
 俺はKの金で飲む気満々で尋ねた。返事は無かった。Kは通りの果てを凝視して固まっていた。つられて目を遣る。
 逆光で黒く見える小さなシルエットがぽつりとあった。造り物の妖精の翅を背負った少女がこちらを見つめ返している。俺の思考は停止する。少女は可愛らしく小首を傾げ、耳にかけていたさらさらした髪が流れ落ちた。
「鬱陶しい憲兵は厄介払いしたよ」
 少女は澄んだ声で言う。Kと俺は間抜けみたいに口を半開きにしている。ブロマイドや新聞や活動写真の中でしか見たことの無いその顔、天使のように整い過ぎてどこか壮絶なその顔が、ブロマイドそのままにふわりと微笑んだ。
「君たちと、話がしたい」
 そう、帝都大総統・蝶々皇帝閣下は言った。溶けかけた夕日の最後の一欠片が、地平線に沈んで消えた。

 薄闇の中で華奢な羽虫のように見える蝶々皇帝はゆっくりと数歩こっちに歩み寄る。俺は跪くことも忘れてぽかんとしている。
「話つっても面白いこと何も言えないが」
 そう言うKは肝が据わっているわけではなくただ状況が理解できていないだけだ。
「だいじょうぶ。ただ質問に答えて欲しいだけだから」
 じわりと背中に嫌な汗がにじみ出る。何かを試されるのか?俺は今夜生きて酒を飲むことができるのか?
「...我々はただの下民です。これ以上閣下のお耳を汚すわけには」
 蝶々皇帝はくすりと笑った。
「なに言っているの。二人とも、お名前とその高い評判は耳にしているよ」
 すでに血の気は引いていたが、これ以上無いくらいまで引いた。終わりだ。違法創作者が連行される収容所の惨状は聞き及んでいる。切ない難病モノと動物モノと幼稚な恋愛小説漬けにされて三か月で廃人が出来上がる。
「俺が書いたやつ読んだのか」
 ぽつりとKが訊いた。
「読んだよ」
「天下の皇帝閣下ともあろう御方があのゲテモノを読んだのか?」
 言ってKは小さく笑った。顔は蒼白だった。
「自分の書いたものを卑下する必要は無い。貴方が収入のためと言いながらも、心情描写に心を砕いていることくらいは文章から分かる。――貴方がたの創作物に価値があることは分かっている。だからこそ禁書政策の水面下でも取引が過熱している訳だ。それほど民衆に求められている書物が法で禁じられている。私がこんなことを言うのもなんだけど、残念だよ。」
「風紀委員会のトップが何を言っている」
 蝶々皇帝は首を傾げ、困ったように微笑んだ。翅から鱗粉がきらきら舞い落ちる。
「なぜ禁書政策なるものが施行されたのか、ご存じ?」
「俺たちが書くようなモンが公衆衛生を乱すからだろ」
「酒、煙草、娼館。禁書に限らずとも風紀を乱すものなど既に帝都に溢れている。この上ただの文字列なんかに規制をかける意味があるとは思えない」
「なんだソレ。なら別に規制かけなくても良いじゃねえか」
 蝶々皇帝はそこら辺にいる普通の子供みたいに笑った。
「そうかもね。私は帝都の文化がどれほど退廃しようが構わないと思っているから。...私は端からこの街のことなど全く気にかけてはいないから」
「は?」
「私が心配してるのは、テキスト内テキストのことだ」
 蝶々皇帝の瞳は狂人のそれみたいに、金緑色に爛々と光って見えた。
「貴方は既存の作品世界、および登場人物を改変した作品を専門としておられるね、快活クララさん」
 筆名で呼ばれたKの頬に珍しくさっと赤みが差す。「だったら何だ」
「それは物語世界を破壊する行為であると、考えたことはないか」
「なんだお前、原典主義者だったのか?」
 皇帝をお前呼ばわりしてKが言った。二次創作を生業とするKは、原作世界の尊重を第一主義に掲げる原典主義者からヘイトを買うことに慣れている。蝶々皇帝は苦笑した。
「それとは少し、違うかもね。――それから、平題典さん。貴方がお書きになられたものも大変興味深かった」
 俺は返事ができない。どれを読まれてたとしてもマズい。
「貴方の本の中ではしばしば登場人物が凄惨な死を遂げる。貴方は何が読者を惹きつけるのかよくご存じだ、古代ローマのコロシアムが過去の遺跡となってからも、人々は心の中で血に渇き続けている」
「はあ」褒められているのか?
「人々が求めるのは、観客席のチケットだ。流血を絶対的に安全な高見から見物する権利、それが物語によって無条件に与えられる。小説内で放たれた銃弾がページを突き破って読者に刺さることは有り得ない。そこには作者と登場人物の、絶対的な服従関係が存在する」
「単刀直入に、おっしゃって下さい」俺はくどい言い回しが嫌いだ。
「もし自分の身に起きるとして、同じことが書ける?」
 蝶々皇帝は可愛らしく小首を傾げる。鱗粉がまた小さく剥がれて落ちた。
「はあ?」隣でKが声を上げた。
「この世界がただの素人の創作物で、貴方たちが神の――作者の玩具だったとして。」
「アホか」
 Kが息を吐くように笑って言った。蝶々皇帝はにっこり微笑み返す。その時、俺の耳がごぼりという音を拾った。隣のKが驚いたような顔をして、両手で喉をきつく掴む。見開かれた眼球の下からじわりと赤黒い液体が染み出てきて、目の縁に溜まり、粘度をもって頬を伝い落ちた。俺は茫然としている。血の涙を流すKの喉が再びごぼりと鳴った。半開きの口から串カツのタレじみた濃い血液が溢れ、顎から滴り落ち、手首を伝ってフラガール柄アロハに染みていく。
「K、に何を――」
「暴力表現に比重を百置くのなら、極論、文脈など必要ない。私は何もしていないよ。彼は物語の進行上ただ血を流し始めただけであり、そこには動機も手法も存在しない。これが完璧に純粋な暴力だ」
 伏せられた蝶々皇帝の目が僅かに翳った気がした。
「私としても民が苦しむ所を見るのは本意では無いけれど。」
 俺は暴力作家の性なのか、ついKを凝視している。Kは意識がないのかぼんやり目を見開いて硬直したまま、全身の穴という穴からだらだら血を垂れ流していて――
「止めておいた方がいい。貴方が仔細に描写すればするほど、彼の苦痛も具体性を増すことになる」
 そう蝶々皇帝に遮られて、俺は無理やりKから目を逸らした。
「...話の、続きを」
 物語の進行を俺は促す。蝶々皇帝は微笑む。
「至極簡単なことだよ。この世界もどこかの三文駄文士によって書かれている。ちょうど君が原稿用紙上に学校を創造し生徒を配置して殺し合わせたみたいにね。この世の全てのミステリー小説において犯人は作家だ。
 ――この帝都は、作者が十分くらいで適当に構築したんだ。作者が住んでいた広島県福山市にはみろくの里というおんぼろ遊園地があって、昭和の街並みを再現した区画があった。アーケードの天井は埃で煤けて薄暗く、虚ろな目の蝋人形は笑顔に吊り上げた口元のまま永遠に固まっていた。観光客は少なく閑散としていた。通りの果てにはレストラン兼劇場があって、なぜかスクリーンには白黒のムーミンが映っていて、虚無顔のムーミンが真っ黒い目でこっちを見つめている所がゆっくりズームになっていくんだ。
 作者がそこを訪れたのは本当に幼い頃の一度だけで、だからどこまで本当にあったことでどこから悪夢が溶け込んでいるのかは分からない。...その要素がほぼそのまま流用されてこの帝都のセットを組んでいる。」
 Kはいつの間にか、目と口からトロトロ赤い水を流す噴水じみた仕掛け付きの蝋人形になって突っ立っている。
俺の背中をつっと汗が伝う。
「あなたは」作者か、と訊こうとして声が掠れた。「あなたは、茨立伊ヱ奈か」
 目の前の少女は微笑んだ。
「それも幾つかある名前のうちの一つだね。でも、別の名前の方が親しみがあるんじゃないかな」
 少女の輪郭が酷い陽炎の中にいるみたいにぐらりと揺らいだ。まばたきすると、いつの間にかそこに立っているのは造り物の翅を背負った子供ではなく、襟元がぐっしょり黒く濡れたセーラー服の少女だ。血濡れた制服以外は神聖ささえ感じさせるような美少女だ。俺が胸の双峰の山頂に釘を打ち苛性ソーダを飲ませ頭を吹き飛ばす前の傷一つない姿で霧ヶ峰結衣は微笑んでいる。悪夢の中のムーミンみたいな瞳で俺を見つめている。俺はその底なし沼みたいな暗闇の中に落ちていく。霧ヶ峰結衣は形の整った唇を
「開く。俺は耳をふさぐ。小説内で放たれた銃弾がページを突き破り、作者に牙を剥くなどあってはならないはずだった。彼女が喋っていることをこれ以上聞けば、自分が蚊の大群みたいな細かい文字の集合になって、ばらばらに霧散してしまうような予感があった。眩暈がするままにしゃがみ込む。崩壊を止めるように頭を抱え、俺はきつく目を瞑る。暗闇に、虚無に、ムーミンのどこまでも拡大されていく瞳の中に落ちていく――。
 
「おい」
 頭にばさっと衝撃があった。上げた顔の前にどさどさ雪崩れこんできたのは、俺が書いた学園血みどろバトロワものの原稿だ。
「さっさと出るぞ」
 木山の怒鳴り声が言って、足音が廊下を慌ただしく去っていく。俺は文机にもたれ原稿に埋もれたまま数秒ぼんやりして、それから状況を把握する。この畳の部屋は、俺が――俺と三文やおい作家の木山が下宿しているぼろアパートの一室だ。窓の外は暮れかけている。夜から、現在出版社に勤務している大学時代の先輩に、飲みに誘われていることを思い出した。
 俺みたいな無名のパルプ作家は、ともかく作品を読んでもらわないことにはどうにもならない。文学的深みなんて無くても、エロとグロで読者を引きずりこんでしまわなくてはならない。売れない作家の終着駅は「餓死」であり、俺がその何駅手前にいるのかは分からない。先輩をぐでぐでに酔い潰したところで原稿を押し付ける作戦だった。完成させるつもりでカンヅメしていたのに、寝落ちた。
 俺は原稿を重ね集め、涎染みを親指の腹で拭いながらファックと思う。夢オチなんて糞だ。灰皿の上の、ぐしゃぐしゃに潰した煙草を引っ張って伸ばして火も付けず銜え、苦笑した。
 
そこで俺はふと、自分がまだカギ括弧の中に囚われたままだったことに気付く。」


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