咒詛人形は踊る〔上〕

あいかわあいか


【一】
 二〇一四年二月一四日、未明。
 神戸市街より姫路方面へ国道二号を下ること数分。長田区の信号を右折してしばらく坂道を登ったところ、一社の神社がある。商工産業の神を祀り、約一八〇〇年の歴史をもつ由緒ある社。昼間は多く参拝客が訪れ、喧騒があるものの、現在時刻は午前二時をまわったばかり。丑の刻。境内は暗闇の静謐に包まれていた。
   ややあって薄明が差した。雲間から姿を見せた月は望月を翌日に控え、神社の本殿を静かに照らしている。
 月明に照らされる境内。手水舎の傍らには一本の杉の木が生えていた。樹齢にしておよそ百数十年といったところ。その木に一人の中年の女が向かっていた。女は腰に牛刀を提げ、瞳を血走らせ、木を睨みつけていた。右手には藁の人形と五寸釘。誰がどう見たとしても丑の刻参りであった。  しばらくすると、カン、カンと金物がぶつかり合う音が夜の境内に響き始める。

「へたくそ」
 神社から車道を挟んで向かいの歩道、植え込みの死角、ふたつの影が潜んでいた。影の一つ、身長一四八、齢にして一六。ベージュ色のチェック柄のシャツワンピースを身に着けた少女  怪異探偵、小祝茜。彼女は女が五寸釘の尻に金槌を叩きこむ様を冷ややかに見つめながら、迷惑そうな口調で毒づいた。冬の寒さで白くなった息が月光に凍らされてきらきらと瞬く。
 そんな茜の様子を見て、もう一つの影が、茜のシャツワンピの袖をくいくい引っ張ると、そっと耳打ちをした。落ち着きながらも愉快そうな、懐いた飼い犬のような口調で、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「なあーなあ、茜ちゃん。だるそうだよ、しんどくない? あのおばさんが呪いの犯人? つかまえる?」
 齢にして一七の少女。探偵助手、灰村灯は、じっとしているのに退屈し、落ち着かないといった様子で、傍らの探偵少女に語り掛けた。茜よりも二回り大きい一六五センチメートルの身体を、植え込みにじっと丸めているのに飽き飽きしているようだった。
 彼女は骸骨模様の黒のプルオーバーの上から無骨なブルゾンを羽織り、下は短い黒のパンツを履いている。気温摂氏〇度だというのにさむがる様子もなく素足を曝している。そして、退屈そうに白磁の両足を、黒のコンバットブーツごとぐるぐると回していた。
   茜が「やれ」とゴーサインを出せば、灯は腰に差したナイフを引き抜いて中年の女へ襲い掛かりそうな様子だった。茜は猟犬のごとき灯の様子に小さなため息をついて、諭すように口を切った。
「もちろんあれは呪いだとも。効果もある」
「あのおばさん、なんとかする?」
「いんや。精神病んだばあさんが見様見真似でしている丑の刻参りの呪いくらい見逃してあげるよ。  あの方法じゃ、効果なんてせいぜい軽い二日酔いだ。」

 そう早口で言いおえると、茜は肺から絞り出すように、どっと息をついた。探偵助手、灰村灯はその様子を見て心配そうに小柄な少女の表情を覗き込む。茜の額には大粒の汗が滲み、右手で心臓を押さえ、不快に耐えているようだった。
「けどよー、茜ちゃん。随分と怠そうだよ。本当に大丈夫?」
 灯の心配げな声に、茜は「はつ」と自嘲したように笑って見せた。
「怠いに決まっているさ。  まったく、ボクを咒詛人形として仕立てあげた両親には恨みしかないね。こんな下手くそが呪いを使うだけで大迷惑だ」

 小祝茜は、呪術師の一族の三女として生を受けた。幼少より他者を呪うための咒詛をいくつも身体に埋め込まれ、咒詛人形として仕立て上げられた。咒詛人形とは、近くにある呪いを探知するための呪いであり、呪術師にとっての鉱山のカナリヤである。他人が呪いを行使すれば、呪いの効果の三割は咒詛人形たる小祝茜の肉体へと転写され、彼女に霊障を生じさせる。
 そのことによって、小祝茜やその周囲の人間は、いま誰かの呪いの射程内に入っているか、またいかなる呪いが向けられているかを判別することが可能となる。呪い屋同士の抗争において、咒詛人形と共に行動する呪術師の生存率は格段に改善されることになるだろう。小祝茜は戦闘用随伴用の咒詛人形として、鉱山のカナリヤとして完成された『咒具』であった。
   もっとも、彼女を咒詛人形として仕立て上げ、彼女を戦闘用の魔術探知機として行使していた、小祝の一族は、茜を除き既に皆死に絶えた。そうなっては探知能力もただ不定期の不調と頭痛をもたらすだけの厄介者でしかない。茜は脈打つ心臓、乱れる呼吸、ズキズキと痛む眼窩の奥のすべてを、慣れたことだと諦めて、心配する灯に莞爾として笑いかけた。

「どれだけ未熟だとしても呪いには変わりない。あれだけ一心不乱に相手を害する意図を形成しているのだから、そりゃ効果はあるさ。まあ、術者が下手くそだから九割は呪い返しにしかならないけどね。  かわいそうに。あれだけ身を削るような呪いを作っても、二日酔い程度のキズしか与えられないんだ。へたくそだから」
「いやー、お怒りだねえ。殴るくらいしとく?」
「別にいいよ。精神病患者を相手にするのは医者の仕事だ。ボクたちにできることといえば、措置入院していただくためにも警察に通報することくらいだよ」

 やがて金音が止む。女の丑の刻参りは終わったようだった。茜は肩で息をしながら、さりげなく腰に仕込んだナイフへ手を伸ばそうとする灯を制止した。呪いを終えた女は幽鬼のようにふらふらとした足取りで、牛刀を腰に境内の外へあらわれた。そして神社の傍らに駐車していた赤いドイツ製の高級車に足を滑り込ませる。乱雑な運転で神社を後にした。
 自動車が夜の国道二号へと姿を消し、走り去るのを見て小祝茜は愉快そうに笑った。あの女がようやく消えて、頭痛と動悸がなくなったのだ。シニカルな笑みを浮かべて、ケラケラと笑いながら傍らの灯に声をかける。
「見たかい? あんなボロボロの髪と肌と精神をしているのに、身に着けているものはブランドものばかりだ。ふふ、十数万のコートに牛刀付けて丑の刻参りとは贅沢だね。金持ちにも悩みはあるんだなあ」
 楽しそうに笑う茜の様子に「趣味悪いなあ」と灯は眉をひそめた。そして腰に差したナイフに手を添わせながら尋ねる。
「放置してよかったの?」
「今日は好戦的だねえ。  けど精神病患者を罰しても仕方ないさ。行為の様子はアクションカムで抑えたし、ナンバー控えたからあとは警察の仕事。まあ牛刀持ってウロウロしている危険人物だからなんとかしてくれるでしょ」
 そう言って、茜はすくりと立ち上がると「さあ撤収だよ」と灯に声をかけた。灯は固まった身体をほぐすように、身を捻りながら、「うーん」と所在なく呟いた。
「今日も手がかりなしだったね、連続失踪事件」
「手がかりが見つかるのも困るよ」
「そうなの茜ちゃん? 依頼主さんに着手金四〇万円もらったのに? 怒られちゃうよ」
「ほんの四〇万で命は賭けたくないね」
「そうなんだ」
「  連続失踪事件の正体は単なる呪いと呪い返しだよ。謎の真犯人が素人に呪いを教えて、素人が一般人を呪いで殺し、呪い返しで素人も死ぬ。穴二つってやつだ。だから二人づつ失踪していくんだよ。
 ボクは真犯人が何のために呪いの知識をバラまいているのかは知らないけれど、真犯人はどうせ呪い屋だ。戦うなんて不経済なことはしたくないんだよ」
 言いながらシャツワンピに入れていた煙草箱を取り出す。一本取り出してアラベスク然とした彫刻の施された、金色のライターで火をつける。シロップの染み込んだバカみたいに甘いやつだ。紫煙をくゆらせながらちらりと助手の方を一瞥する。
「キミも吸うかい?」
「体に悪いから吸わない」
「それがいいよ」
 フィルターギリギリまで吸ってから、携帯灰皿に押し付ける。そして茜は「そうだ」と何かを思い出したように、肩に下げていた黒革の鞄の中身をあさりはじめた。鞄の中には文庫本からタオル、化粧取りシート、失踪事件の証拠資料から説明用資料その他諸々が乱雑に詰め込まれている。様子に灯はいつものことだと諦めた表情をして言った。
「茜ちゃん、レシート  一週間分くらい中でぐしゃぐしゃになってる。帳簿つけておくから事務所帰ったらぜんぶちょうだいね」
 茜は灯の言葉に「はいはい」と応えながら、鞄の底をさらい、ようやく中から目的のものを発掘した。デパートの袋、少し皺が寄っていた。
「ねえ灯」
「どうしたの?」
「あれだよ、今日は二月一四日だ。チョコレートさ。
 ......高いやつだから美味しいと思うよ。たぶん」
【二】
 わたしは白い森を歩いていた。
 この森の名前を知らなかったので、森を「白い森」と名付けた。
 
 白い森には白くて細い木がたくさん生えていた。枝も葉っぱも真っ白だった。わたしは木の名前を知らなかった。けれど木はシラカバよりも白かったので、この木を「シロカバ」と名付けた。
 
 わたしは白い森を歩いていた。
 ふとわたしは、わたしが、わたしの名前を忘れてしまわないか不安になった。そこでメモ紙に鉛筆で「小祝茜」と書き留めて、スカートのポケットにしまい込んだ。これでわたしはわたしのことを忘れないだろう。
 
 わたしは黒の小径を歩いていた。
 この径は黒かったので「黒の小径」と名付けた。
 履き古した茶色の革靴が黒の地面を踏むたびに、ジャクジャクとガラスを踏んだような足音が響いた。かなり長い時間歩いたはずなのになぜか疲れを感じなかった。シロカバは黒い小径を怖がっているようだった。シロカバの細い腕は、黒い小径を歩くわたしには届かなかった。この径はとても進みやすい。ジャクジャクと黒の地面を踏み鳴らしながら、わたしは森の奥へと進んでいった。
 
 気がつくと、わたしは白の森の奥にあるカフェにたどり着いていた。黒い広場に聳え立つそれは、古い教会のような見た目をしていた。掲げられた木の看板には
【カフェー ピーター・コフィン】
の文字が掘られていた。わたしは顔をしかめた。棺桶(コフィン)なんて不吉な名前をよくつける。こんな怪しい店はやめておいた方がいいかもしれない。
  わたしはカフェを素通りして、また黒の小径を歩こうとした。しかしそのとき、わたしはどこか嫌な予感を感じて歩を止めた。...... もしかすると、カフェに入らなかったことで、わたしは何かひどい目に合うかもしれない。何故かはわからないけれど、そのような予感がしたのだった。よく考えてみると黒の小径を歩くのにもそろそろ疲れてきたような気がした。たとえ怪しいカフェでも入って休憩しておくことには利益がある。わたしはそう判断して、黒い地面でジャクジャクと足音を鳴らしながら、カフェの扉の前へと戻っていった。この足音のせいで「入るべきか、入らざるべきか」を悩んでいることを店の人に知られたらいやだな。なんてことを考えていた。わたしはやや逡巡し、やがてぐっと息を吸うと、古びた木の扉をギィイと押し開けた。わずかな隙間から、少し埃っぽいにおい、古びた本のにおい、雨の後の湿った木のにおい、...... どこか懐かしい空気がどっと噴き出した。少しむせそうになりながら、思い切って店の中へ身体を滑り込ませた。
 
 カフェの店内はとても小ぢんまりとしていた。端的に言えばものすごく狭かった。もっといえば、そこはカフェですらなかった。六畳縦長の部屋をバーカウンターで半分に区切り、丸椅子がカウンタ席の前にずらり一列に並んでいた。外見はあんなにも古びた教会然とした荘厳な造りをしているくせに、内装は俗っぽいし安っぽい。薄暗の照明と相まって、下町にある老舗のバーといわれたほうがよっぽど納得するつくりだった。店内に人影は二つあった。一人は齢一八程度の少女。和服を纏った彼女は、ふぁさりと黒の長髪を揺らしながら、鼻歌まじり、手に持った竹箒でシャッシャとカウンタ席の間を掃除していた。この人はきっとやさしい人だ。もう一人は不愛想を擬人化したような男だった。齢にして四十半ばといったところ。喪服のような黒の外套をはおり、黙々と白布でグラスを拭いている。男はちらりとわたしの方を一瞥すると、興味なさげに目線をグラスへと戻した。なるほど、この人はきっとやさしくない人だ。しかしどうしてだろう、わたしはこの男の存在にどこか懐かしさのような、安心するような感覚を覚えていた。
「えっと......」
 わたしはどうすればいいのかわからずにおずおずとしていた。すると着物の彼女がわたしの姿に気づいたらしい。「あら」とほほえみ、手に持っていた竹箒をぽいと放りやると、カランコロンと下駄の音を鳴らしながら、ゆっくりと距離を詰めた。そしてわたしの手を取ると、いかにも嬉しそうに口を切った。
「ようこそ『ピーター・コフィン』へ小祝茜さん!」
「君は?」
「申し遅れましたね。私は【契約】です。このカフェーの給仕をしております。これから、どうぞよろしくお願いいたします」

【三】
 二〇一四年二月一六日、午後九時四五分。警察官にして呪術師。齢二五の青年、溝口進は神戸三宮の地下街、円形広場の片隅にある木製のベンチにゆったりと腰を下ろしていた。溝口が地下街を訪れた目的は、薄暗の地下の片隅に位置する小祝茜の探偵事務所だった。アポイントメントの時間は午後一〇時、事務所までは枝道を進みほんの数十メートル。歩いて一分もかからない距離だった。
 社会人の常識は一五分前行動である。しかし、怪異探偵のクソガキは一五分前に事務所を訪れると「ボクは暇じゃ無いんだ、まったく困るよ、時間通りに来てくれないと。人の迷惑とか考えたことないのかい?」と厄介そうに眉を顰めるのだ。おそらく彼女が後回し癖のある人間なので、来客を受け入れる準備を時間ぴったりまではできないからであろう。約束の時間の数分後に訪れるのがいちばん感触がよかった。
 ゆえに溝口進は、アポの時間ぴったりになるまでじっと待機しているのだった。阪神淡路大震災直後の無計画な再開発によって何十億もの費用をかけて作られた地下街は、立地の悪さや不相応な賃料設定からほとんどテナントが入らず、シャッターの灰色に包まれている。節電のため電灯もまばら。切れかけの明かりがチカチカと明滅している。
 溝口は仕事終わりのスーツ姿、椅子のテーブルに置かれたブラックコーヒ缶の中身を胃に注ぎながら所在なく時間が流れるのを待っていた。スーツの胸ポケットの煙草を探るものの生憎の買い忘れ。ちらり  小祝茜の姿が脳裏をよぎった。彼女は「いるかい?」とカートン単位で探偵事務所にストックしている煙草を、来客に気持ちよく土産に持たせてくれる。溝口も以前煙草を切らして事務所に行ったとき、勧められてもらったことがある。しかしゲボ甘くクラクラするような、喉が焼けるようなあの煙草は二度とは吸いたくない代物だった。
 仕方がないので、溝口は鞄の中からバインダーを取り出し、連続失踪事件についての資料を読むことにした。厚紙と紐で留められた辞書のような厚みの紙束には、連続失踪事件についてここ数か月で発生した二四件分の現場検証の記録と、それに関連して呪術師の連盟が行った人体実験記録が五例分記載されていた。

 神戸連続失踪事件  二〇一三年一一月ごろより発生している未解決の怪事件。刑事溝口進は、上司である橋爪警部のもと失踪事件の調査を任されていた。事件の要旨は、一般人が突如として呪術に覚醒し、憎む相手を植物化して殺す呪いを習得し、憎む相手を呪殺するとともに、その呪いの呪い返しによって自らも植物となり死亡するというものであった。被害者はいずれも呪術師組合「連盟」との繋がりのない、完全なる一般大衆だった。被害者たちはいずれも呪いと呪い返しによって死亡。
  表向きには失踪していた。
 呪術を習得した被害者の遺留品には、決まって黄色い装丁のされた本『神話機械』が遺されていた。このことから、本の著者が真犯人だろうと推認されている。しかし、真犯人たる呪術師は自らの正体についてまったく痕跡を残さず、残されている本には強い精神汚染  それこそ、一般人を呪術遣いにして殺してしまうような強力なものが施されていることから、真相にたどり着くにはまだほど遠かった。
「うーん、少なくとも真犯人はまともな奴じゃないね。なんとか話し合いで解決できないかなあ」
 溝口はそう嘯きながら、ちらりと時計を覗き見る。約束の時間まではあと数分と言ったところだった。

   タンタン、不意に皮靴の音が薄暗い地下街に響いた。資料から目を離して足音のする方を見ると、肩あたりまで下ろした黒髪の少女の影があった。身長にしておよそ一五〇前後、飾らない黒一色のコーデ。少女は眼の下に深いクマをつくり、陰鬱な表情さえ浮かべていた。溝口は場末のシャッター街を訪れる黒装束の少女の姿にどこか見覚えを感じ、その様子を目の端で追った。
「おや」
 少女が溝口の座るベンチの前を通る瞬間、肩に下げた鞄から黒い鉄の塊を取り出した。警察官に支給されるのと同じリボルバー式の拳銃  ニューナンブM60。その銃口が向けられた。引金にかけられた指が滑り円形の弾倉が回転するのが見えた。
 パン、と乾いた音が神戸の地下街に響き、少女の手許から消炎が揺らめいた。続けて二発、三発と少女の指は引き金に触れる。


 少女はベンチに腰掛ける溝口に向かって確実に拳銃の引き金を引いた。  はずだった。少女の視界からベンチに腰掛ける溝口の影が失われた。そのことに気づいた次の瞬間、既に少女の肉体は、はるか後方の空き店舗の金属シャッターへと激しく叩きつけられた。一瞬遅れてシャッターのへしむ破砕音が地下街に響き渡った。ぐしゃり、少女の身体が地面に落ちた。
「ウッ......オゥ......ェ............」
 少女は叩きつけられた身体の痛みを感じるよりも前に、内臓が鷲掴みにされているように錯覚した。自然と彼女の口からは胃液がこぼれ、漏れ出した未消化の白米や野菜のかけらがべとべとと服を汚した。

 溝口は倒れ伏す少女を俯瞰しながら、ゆっくりと少女の方へと歩を進めた。彼は防弾ベストで銃弾を受け止め、次の瞬間には躊躇うことなく少女の腹部に回し蹴りを叩き込んだのだった。
「痛いものは痛いなあ。肋骨折れてないといいけど」

 タン、タンと黒の革靴の足音がゆっくり少女に迫ってくる。少女は闘志を隠さずに溝口をきっと睨みつけた。少女の瞳が紅の輝きを帯び「殺    す」呪いの言葉を口にした。溝口は少女の様子にすっと目を細めた。

   次の瞬間、溝口の黒革靴は地下道の石タイルを軽く踏み抜き、少女のもとへと一瞬で距離を詰めた。躊躇なく少女の鳩尾をつま先でスコンと抉り抜く。
「カァッ......!」
 少女は肺の空気を全て吐き出し、白眼をぐるりと剥いた。ぐしゃりと再び地面に力なく崩れ落ちる。
 溝口は「ふう」と息を吐くと、吐瀉物を撒き散らしながら気絶した少女の身体をガスガスと念のため二回蹴りつけた。反応がなく、確実に意識が消失したことを確認した。そうしてようやく荷物を取りに椅子へと戻ることにした。
 ジンジンと痛む己の身体を撫でながらため息をついた。残ったブラックコーヒーを飲み、腕時計をちらりと眺めた。九時五六分。ゲロ吐いて倒れる少女を、しかも呪術師をそのまま放置するわけにもいかなかった。
 溝口は少女の軽い身体を抱き上げ、探偵事務所に向かって歩き始めた。探偵のガキは嫌な顔をするだろうが知ったことではなかった。
「赤の瞳ってことは安念家のあのガキだよなあ。
    困るよ、こんなことされちゃ。怪異探偵さん」

【四】
 二〇一三年一二月一四日土曜日。冬もたけなわの十二月の半ば、もういくつ数えればクリスマスのその日は、中学校の期末試験の答案返却日だった。安念透子はロングホームルームのためだけに六甲の坂道を登っていた。ブレザーの上に黒のアウターを着ていても、冬の朝はまだちくちく寒くて、安念透子は、今日にかぎってマフラーを忘れたことを後悔していた。
 教室に入り友人と雑談してしばらくすると、担任の先生が教室に入ってくる。答案返却がはじまった。順番に返却されるテストの点数欄には、ほとんど九十以上の数字が赤文字で記載されていた。低いものでも八三点はあった。透子は、いつも通り学年で七番目くらいの成績かなと、手ごたえを感じながらテストを受け取っていった。先生から「その調子だ。今のままなら確実に県いちばんの高校に行けるな」という旨の言葉をもらった。周囲からの羨望の眼差しは馴れたもの。ガリ勉とはいわなくてもまじめに勉強をしている透子に悪い気はしなかった。
 ロングホームルームが終わると、解放感からそのまま友達とカラオケに行った。流行りの曲を歌った。愛だったり恋だったり。まだ想像もつかない文句をリズムに合わせて歌った。五時にフリータイムが終わり、そのまま帰路についた。
 赤鴇色の空、カアカアと黒いカラスが空を滑っていた。透子の家はオートロック付きのマンションの四階隅。午後六時、自宅の鍵を開けて「ただいま」と帰宅する。土曜日、共働きの父親も母親も今日は一日家にいたらしい。リビングで野球を見ていた。透子をちらりと見て「おかえり」と。透子がテストの結果を見せると「それなら今度美味しいものでも食べに行こうか」と褒めてくれた。


 午後七時。不意に、バキン! と金属が破砕される鈍い音がリビングに響いた。ドアチェーンが勢いよく張られる金属音がした。透子は泥棒か強盗だと思い、あわててビールを飲みながら贔屓球団を応援する父の方を向いた。  どうして? と。恐怖で心臓がばくばくと鳴っているのがわかった。
 父はドアの方をちらりと一瞥して、焦る様子を見せず、堂々たる面持ちで溜息をついた。
「    今更になってか」
 透子の父はゆらりとソファーから立ち上がると、玄関の方へ歩き始めた。バチンとカッターがチェーンを切り裂かれる音がリビングに響いた。
「またな、透子」
 父はそう透子に声をかけた。あまりに普段と変わらない様子が少し頼もしかった。しかし、父の眼球はかつて見たことがないような紅色に爛々と輝いていた。父はそのまま背を向けると、玄関へ向かってゆっくりと歩いていった。
 母は一瞬で何かを悟ったように透子の手を掴み取ると、マンションのベランダに向かって駆けだした。

 壊されたドアの向こうから四人組の男が姿を見せた。筋骨隆々にして防弾ベストを身に着け、手には機関銃を携えた屈強な男が三人、そして細身のスーツ姿の男が一人だった。細身のスーツ姿の男は、おそらく彼らの司令官なのだろう。腰に日本刀を提げて堂々たる面持ちで玄関へと先陣を切っていた。
   そのとき母は透子の身体を抱きかかえ、そのままベランダの欄干に足をかけて、乗り越えた。透子はその時生まれて初めて浮遊感というものを覚えた。

 彼らは透子や母の方には一瞥もくれず、機関銃の銃口を父の方へと向けた。彼らの指が機関銃の引き金にかけられた。父はまるで臆する様子を見せずに男たちを冷たい目で見つめた。  刹那、かつて透子の家だった場所に死が走り抜けた。機関銃を構えた男たちが一瞬にして体躯を崩し床に落ちていった。
 細身の男は周囲の男たちが倒れるのを涼しい笑みを浮かべたまま尻目に、男たちの身体が地に着くよりも早く、自らの刀の柄に指先を伸ばした。
   鞘から銀色の刀身がわずかに覗いた。......「まって」自然と言葉が漏れた。    あれは敵だ。あいつは敵だ。理由もわからないままに細身の男のその様子を見た瞬間に目の奥がカット熱くなり憎悪が膨れ上がった。
   「死ね」「死んでしまえ」ひたすらに祈る。しかし祈りが届くことはなく、カチンと鞘に収まる刃の音が狭いマンションの一室に響いた。
 
 父の身体が袈裟斬りにされ、鮮血が間欠泉のごとくに噴き出した。父がその瞬間に絶命したことが透子にはわかった。男は返り血を浴びながら、父の死体には一瞥もくれず透子と母の方に視線を向けた。視線がぶつかる。
   瞬間、母に抱きかかえられた透子の身体は、マンションのベランダを越えて自由落下を始めた。マンションの四階から落ちてどうやって生きるのだろう、と透子は思った。耳元で「さようなら」と母が呟く声が聞こえた。一瞬の間隙の後、かつて母だったものはアスファルトの地面に叩きつけられ肉の塊となった。
   安念透子は、母だった物体の腰に差されていた拳銃を引き抜いた。そして折れた肺と足で歩き始めた。母は脳みそが半分以上こぼれていた。もはや生命活動を停止していることは明白であった。数十メートル歩くうちに、茫然自失のうちに、生かされたことを理解した。

 歩く。歩く。歩く。視界が歪むのも無視して淡々と歩き続ける。歩く。歩く。歩く。

     気づけば、安念透子は白の森の中を歩いていた。じゃりじゃりと黒い地面を踏みつけながら、シロカバの道を進んでいた。

 黒の道を歩いていると、不意に風が吹いた。透子は呆然としたまま足を止めた。足を止めてはいけないのに。また一歩を踏み出し始める。折れた肋骨が突き刺さった呼吸で。ヒビの入った足で。  それでも歩かなければならない。
 掠れる視界のまんなか、ゆらりと黒い影が蜃気楼のように立ちふさがった。男は老紳士然とした黒の外套を身にまとい、道の中に悠然と位置していた。白い森には静謐が満ちていた。男はゆっくりと口を切った。

「懐かしい影だ。安念の娘」

 それは不吉を凝縮したような声だった。恐ろしく冷たい声だった。  しかしどこか、その声は透子の父に似ているように思えた。理由もわからないままに安堵感が膨れ上がった。透子はぼろぼろの呼吸で言葉を紡いだ。

「あなたは......」

「呪術師    吉田楠生」
【五】
 探偵事務所は十数畳の大部屋を可動式のパーテーションで区切った作りをしていた。ヴィンテージのシャンデリアの炎の揺らめきに合わせて、本の影たちが踊っている。書斎スペースにある大きな木机の上には大量の資料が地層の如く積み上げられていた。応接間はかろうじてソファーとテーブルがきれいに整理されている。しかし、パーテーションの向こうの生活スペースには、ピンク色の布団、掃除機、香水瓶、段ボール箱、日本酒瓶などが所狭しと詰められ放置されている。木机の上に置かれた灰皿には吸い殻の山ができていた。部屋全体が煙草と香水が入り混じったゲボ甘い蜂蜜とバニラの香りで包まれている。安楽椅子の前の小さなテーブルには探偵用の、角砂糖が山ほど入れられたブラックコーヒーが安置されていた。探偵事務所の景色は、小祝茜の心象風景を映し出したかのようだった。
 溝口はその光景を見てため息をついた。連盟からの報告によれば、小祝茜はまともに呪術を扱えないらしい。しかし探偵事務所  否、呪い屋の工房から感じ取れる霊的な歪みはその報告が偽りであることを嫌でも認識させた。安楽椅子に座り甘ったるい煙草をふかす齢一六の少女は間違いなくこの狭い世界の主であった。

「まったく、困るよ探偵さん。こんなことされちゃ、立派な背信じゃないか。僕が殺した男の、その娘に僕のことを教えるなんて。防弾チョッキ着てなければ僕は死んでいたよ」
 口を尖らせる溝口の態度を意に解す様もまるでなく、怪異探偵はシロップの染み込んだ煙草から紫煙をくゆらせながら「そうだねえ」と笑いかけた。
 二人の端から、「溝口さん、よろしければどうぞ」と探偵助手とペットボトル入りのお茶を手渡した。新品のお茶を手渡すのは毒物の混入がないことの証明であった。溝口は「どうも」と受け取り鞄の中にしまった。

「別に死ななかったでしょ」
「そうだけどさあ」
「ならいいじゃないか」
「............そうだね。その通りだ。けれど、一体どういうきっかけで安念の娘はここまできたんだい? 僕たちも、あのガキを殺すために連盟の命令で二か月くらい探し回らされたんだよ」
 溝口の質問に小祝茜は「さあ?」とやる気なく答えた。
「一週間くらい前にチャカ持って乗り込んできたんだ。ボクもどうやって中学生のガキが三か月生きてきたのかなんて知らないや」
 探偵少女はそう言ってコーヒーを口元へ運んだ。
 気絶した安念の娘は、探偵助手がいったん引き取った。彼女はゲロ塗れの服のまま気絶している安念の娘を、奥のシャワー室へ連れて行った。そして身長の近い小祝茜の服に着替えさせた。
 ストレスゆえの睡眠負債がたまっていたのだろう。安念の娘は、いま探偵事務所の片隅にあるソファーで、小祝茜の黒のフリルのついたワンピースを身に纏い、寝息に合わせて胸を上下させている。小祝茜セレクションの清楚感のある服装と相まって、眠る様子には年齢相応の可愛さがあった。あとは目の下に深く刻まれたクマさえ解消されればきっとクラスメイトからの視線を集めたことだろう。

「安念家は代々吉田家に支えてきた呪術師の家系でね。三年前に、連盟の懲罰委員会の決定で吉田家に対する族滅が行われただろう? その時に忠義からか安念家は非協力を貫き、そのまま姿を隠したんだ。それがとうとう居場所特定されて、四カ月前に僕が安念家現当主  つまり彼女の父を斬ったんだ。連盟の命令なんだから僕も逆らえないさ。そりゃ可哀想だとは思うけどねえ。じゃないと僕が殺されるだけだし。恨まれるのは仕方がないけど謝る謂れはないかな」
 言葉に「なるほどねえ」と小祝茜はちらり安念透子を一瞥して頷いた。溝口の話に興味がなさそうな様子を見るに、そのあたりの事情も怪異探偵は既に知っているようだった。  安念家に対する族滅は秘密裏に行われたはずであり、連盟の一部の者しか知らないはずである。連盟に何ら役職を持たない小祝茜が知る由はないはずであった。溝口はやや訝しむが無視することにした。溝口に怪異探偵と事を構えるメリットはなかった。
 そんな溝口の様子を見て怪異探偵はにやにやと微笑んだ。そしてコーヒーを口元に運びながら、傍らの安念透子を憐れむように口を切った。
「呪術師の世界じゃありきたりだし、日常的なことだけどねえ。族滅。ボクも経験あるしね。おそらく安念の娘は呪術についての教育を何も受けてこなかったのだろう。すばらしい親御さんだ。だからこそ残念だね」
「違いないねえ。呪いなんてものかかわらない方がよっぽどいい。もっとも    」
「どうしたんだい?」
「安念の才能は本物だよ。僕はね、安念家の襲撃の後に熱病のような症状が出てあやうく死にかけたんだ。ありゃ娘の方の呪いだね。あの子は天才だよ」
 溝口はそう嘯くと、「まあそんなことはいいさ」と話を断ち切った。黒鞄の中から厚紙と紐で綴じられた巨大な紙束を取り出す。そして机の上にズシンと叩きつけた。
「連続失踪事件について、実況見分調書の写し、そして連盟が行った呪本に対する人体実験記録だ。大切に扱ってくれよ」
「感謝する」
「ああところで    」
 溝口は何かを思いついたかのようににやりと意地の悪い笑みを浮かべた。新しい玩具を手に入れた子供のような純粋な表情だった。
「安念の娘だけどさ、僕が持って帰ってもいいかな?」

 怪異探偵は溝口の言葉に「なるほど」と呟くと、甘い煙草をゆったりとふかしながら、静かに頷いた。
【六】
 東向きの六畳間に陽光が差し込む。
 安念透子は「はっ」と息を漏らし、かけられていた白の布団を引き剥がすと、勢いよく身を起こした。着せられている服をめくり上げると、腹部には青紫色の痣がくっきりと残っており、呼吸に合わせてずくずくと痛んだ。その瞬間、透子は父の仇である溝口を射殺しようとして失敗したことを思い出した。
 彼女はきっと、六畳一間のアパートの厨房で味噌汁の鍋を玉じゃくしで回す男の後姿を睨みつけた。男はコンロの火を切ると、落ち着いた様子で振り返り、柔和な表情を崩すことなく透子に語り掛けた。
「目を覚ましたかい。布団は来客用の少し良いやつだったけれどよく眠れたかな? 安念の娘さん」
「......私を殺さなかったの?」
 男の態度に透子は訝しむ視線を向けて尋ねた。溝口は質問に「なるほど」と静かに微笑むと「君にはまだ利用価値があるからねえ」と答えた。

 透子はその言葉に二秒ばかり目を縦に大きくした。そして諦念に満ちた表情でだらりと肩から力を抜いた。「......好きにしなさい」。紅の瞳、射止めるような冷たい視線を溝口に向けて、そう口にした。
 溝口は態度に感心したように溜息をついた。抵抗が不能だと理解した。だからこそ、溝口が少女を殺す意図がないことを奇貨として、完全に無抵抗のままやり過ごし寝首を掻くタイミングをじっと待つ腹なのだろう。頭もいい、感情の切り替えも早い。なるほど父親譲りの呪い屋だ。
 溝口は戸棚なに収納された未開封のミネラルウォーターを一本手に取ると、来客用敷布団の上でこちらを見つめる透子へと歩み寄る。薄ら笑みを浮かべて「まあ飲んで落ち着きなよ」と手渡した。
「僕には君の父を殺さないという選択肢はなかった。
   なんて言っても君は許してくれないんだろ?」
「......怪異探偵に聞かされたわ。あなたはあくまでも連盟の決定に従っただけ、従わなければ殺される。だから何の躊躇いもなく両断したのでしょう。私の父を」
「そうだねえ。もちろん君が謝ってくれというなら、僕は謝罪するくらいは構わないけれど」
 透子は静かに首を横に振った。
「心にもない謝罪なんていらないわ。  別にあなた個人に恨みなんてものはないもの。父を死に至らしめた連盟の奴らを皆殺しにする。あなたも殺す。ただそれだけ」
「いいねえ。若いって素晴らしいことだ」
 溝口は透子の言葉を否定するでもなくうんうん、と頷きながら「でもね」と口を切った。
「僕はね、昔は溝口家の当主として育てられていたんだ。それが気づけば弟の方が優秀になっていてねえ。それによく考えれば、僕は争いごとは嫌いだときづいたんだ。だから僕は当主争いから身を引くことにしたんだ。ボクが君の父を殺したのだって、弟にやってこいって下請けさせられたからなんだよねえ。だからどうこういう話ではないけれど。
   弟は僕よりも強いし、連盟の重鎮も  君の復讐相手たちは僕や君の父なんかよりも全然強いよ」
「何を言いたいの?」
「ガキは馬鹿なこと止めて友達と遊んでな。人を殺したこともないザコが」

 透子は溝口の言葉に「そうね、その通りだわ」と莞爾と微笑んだ。
「けど、その程度で諦めると思う? 私にもう一度チャンスをくれてありがとう。負けさせてくれてありがとう。
   今度は失敗しないようにうまくやるわ」
 透子の紅の視線が溝口の黒い瞳を捉えた。
   なるほどこいつは怪物の類だ。溝口は自然と己の口元が自然と吊り上がるのを感じた。気づけば乾いた笑みがこぼれていた。溝口は眼前の黒髪の小さな少女を心の底から愛おしいと思った。もはや笑いを隠すこともできないまま語りかける。
「安念くん、君の父親は、君に普通の女の子としての幸せを掴んで欲しかったと思うよ。だから君に呪いを教えなかったし、呪いの世界から引き離したんだ。わかるかい? 君の復讐は父親の死を踏み躙る行為なんだよ」
 言葉に安念透子は「その通りね」と自嘲げに、しかしどこか愉快そうに笑った。
「言ったでしょう? 私は別にあなたを恨んではいないもの。ただ    」
「どうしたんだい?」
「あなた含めて、人を殺しておきながらのうのうと生きてる奴らを皆殺しにしたいだけよ。強いてラベリングするなら正義感かしらね」
 理想通りの解答に溝口は破顔する。彼女は呪い屋だ。紛れもなく安念の家の現当主だ。
「いいねえ。認めるよ。失礼なことを言った。申し訳ない。君は呪い屋の娘だよ  名前はなんていうんだい?」
 透子はころりと豹変した溝口の態度に乾いた唾を飲んだ。
「安念  。安念透子」
「透子ちゃんか。僕と契約をしないかい?」
「何を」
 溝口は変わらず茶目っ気のある表情で笑いかける。
「君の正義を僕は助けてあげよう。君に人を呪い殺す術を授けてあげよう。  そのかわり僕を殺すのは最後にしてくれよ」
 透子はじっと溝口の表情を見た。彼は相変わらず落ち着いた笑みを浮かべて透子の様子を見つめていた。
 直感的に理解した。  ここで彼の手を取れば私は決して人間に戻ることはできないのだろう。期待と不安に心臓が警鐘を鳴らす。父が私に願ったように、人の世界で暮らすのなら、これが最後のチャンスなのだろう。静かに息を吸った。  親不孝をお許しくださいと念じた。父母の願いを踏みにじる行為だと理解していても、安念透子は自らのわがままを止めるつもりはなかった。
「......いいわよ。乗りましょう」

 透子の回答に溝口は飄々とした態度で頷いた。彼は答えを聞くまでもなくその答えを知っていた。
「君ならそう答えてくれると信じていたよ」
「  どうせあなたの情けでもらった命だもの。あなたの思い通りに動いてあげる。  けれど私はあなたのことも絶対に殺すわよ」
 透子の言葉に溝口は「それは本望だね」とにこり、しずかに微笑んだ。
【八】
 深夜、午前一時。溝口が安念透子を肩に担いで連れ帰ってから一時間半と少し。茜の「外食をしよう」と鶴の一声で今日は外食の日になった。小祝茜は少食かつ偏食ゆえに迂闊に店に入ることもできない。そして深夜一時ともなれば空いている店も自然と限られることになる。それゆえ、午前三時までやっているファミレスでコーンのピザとドリンクバーを注文することになった。灯が「茜ちゃんよ。緑色の野菜食べなよー」と忠告するのを「トウモロコシは野菜だろう?」と茜が遮る。
「......うん。まあたまにはいいか」
 複雑そうな表情をする灯に、萌え袖のシャツワンピから覗く細い指をひらひらふって答えた。
「固く考えないことだね。刹那主義こそ幸福の摂理だ。健康なんて考えてても死ぬ時は死ぬものさ。灯くんみたいにいくら野菜摂って、ジム通ってプロテインを飲んでいてもね」
 灯は「そうかなあ」と頬に手を当てて首を傾げた。
「肉体改造するのは健康のためじゃなくて趣味かなー。茜ちゃんもやってみたらどう? 筋トレとか結構楽しいよ?」
 呑気に笑いながら灯は軽く腕を曲げて力こぶを作ってみせた。灰村灯は週二回のペースでジムに通い、フリーウェイトする程度にはスポーツ少女だった。身長一六〇半ば、外見はすらっとした外観をしていながら、その実はしっかりと筋肉質な身体をしている。本人曰く、七〇キロくらいの重りなら大丈夫らしい。
   なお小祝茜は、箸よりとは言わねど、数キロの鞄を持ち歩けば十分たたないうちに疲労困憊する程度の筋力の持ち主であった。無論そんなんだから戦闘能力なんてものは期待できない。呪い屋同士の荒事となれば完全に完全に灰村灯にお任せだった。

「筋トレが楽しいとか、それは君がマゾだからだろう? お生憎様だけどボクはマゾじゃないんだ」
 言いながら、茜はドリンクバーで淹れてきたコーヒーに、棚から奪ってきたシュガースティックを何本も流し込む。サーッ、サーッ、と白色粉末が黒色の液体の中に消えていった。紙殻が何本も机の上に乱雑に積み上げられていった。対する灯はブラックのブレンドコーヒーをそのまま口に運ぶ。そして思い出したように「なあなあ茜ちゃんよー」と口を切った。

「透子ちゃんのこと、本当に溝口に引き渡して良かったのか? 溝口、誘拐犯だと間違われちまうぞ。青年男と中学生のガキ、六畳アパート。もう犯罪じゃん」
「面白いね。通報しておこうか」
「もう」
「冗談だよ」

 灯は不意に真面目な顔をして尋ねた。
「透子ちゃん、復讐のために生きるなんて可哀想。どうにかできなかったの? 探偵さんよー」
 質問に怪異探偵小祝茜はため息をつくと、つくったような冷たい声で言った。
「  ボクはそこまで温情じゃないんだ。少なくとも単なる可哀想なガキの命を救う気にはならないほどにね。冷酷と言ってくれてもいいよ」
 言葉に灯はコーヒーを一飲みすると、「茜ちゃんは露悪家だからなあ」と呟いた。そして「私のことは助けてくれたのにね。父を殺されて連盟に追われていたのは同じなのに」と続けた。
 茜は「そうだね」と軽く相槌を打った。
「君は最初から狂っていたからね。  君のように、復讐なんて考えることなくボクの助手として働くというなら、安念透子を。安念家の殺し屋の娘を匿うのもやぶさかではない。けれどね、連盟に対して表立って喧嘩売ろうとしている狂犬なんて匿ったらボクらの命はいくつあっても足りないぜ?」
 怪異探偵の言葉に灯は「そっか」と悲しそうにつぶやいた。そして「うーん」と頬に指をあてて考える。
「事務所に心折れるまで監禁しておくべきだったのかなあ」
「君はそうやってすぐに暴力で解決しようとする」
「たしかに溝口はロリコンじゃないから手は出さないだろうけどさ、あいつなんか怖いんだよなあ。透子ちゃんの復讐を止めたりなんて絶対しないだろ。むしろ復讐話なんて聞いたらニコニコ笑顔で応援するだろ」
「だろうねえ」
「    透子ちゃん、死ぬだろ」
「そうだろうね」
「近いうちに。誰かと相討ちになって」
「うん、そうだね」
「けど生きてりゃいい事もあると思うんだよ。確かによー、あのまま放置して他の呪い屋に殺されるのを待つよりは、溝口に引き渡して透子ちゃんの望むがまま復讐パワーを手に入れる方が、まあマシなのかもしれないけどさー。何か他の選択肢はなかったのかなって。それこそ丁寧に説得するとか」
「............うんその通りだ。君は正しいよ。けどね呪い屋はね、一度決定づけられた生き方を変えたりはしないんだ。それこそ拷問くらいで変えられないからこそ『呪い』なんだ。君も透子の瞳を見ただろう? あれは魔眼だ。既に呪いの世界に足をずっぷりと踏み入れている。もはやあれは人間ではないね。人外に対してボクたちができることなんて『頑張れ』って応援してやる程度しかないさ」
「最終手段の逮捕監禁洗脳治療......?」
「君も大概だねえ」
 シュガースティックが何本も溶けてどろどろになったコーヒーをゆっくりと口元に運びながら、茜はシニカルな笑みを浮かべて頷いた。灯はそんな茜の様子を見て「なるほど」と閃いたように口を切る。
「茜ちゃんも呪屋の娘としての生き方かえられないの?」
「なれるなら普通の女の子になりたいね」
「してあげようか?」
「流石に洗脳は嫌だよ! 君ねえ、倫理観とかまるでないから主人であるボクのことでも暗闇の部屋に数か月監禁して食事睡眠運動制限して脳バグらせることに躊躇しないだろ?」
「......流石にしないよ?」
「一瞬詰まらないでくれよ」

 そう話しているうちにオーダーしたクリームとコーンのピザが届いた。キッズ向けメニューにも載っている甘いやつなので小祝茜も食べることができる。ちらりと探偵は助手の方を一瞥した。
 助手は「はいはい」と慣れた調子でピザカッター片手、八等分に切り分けはじめる。幼稚園に通うことすらできず小祝の家に監禁され、まともに集団生活を送る知識をつけることのできなかった小祝茜の生活能力は壊滅的なものであった。そんな小祝茜にピザカッターという高等な道具を扱えるはずはなかった。
 
   小祝茜は生まれた時より咒具だった。彼女は齢十四になるまで、道具として教育され、道具として生きてきた。道具をメンテナンスすることは持ち主の義務であった。しかし気づけば所有者であった小祝の家は彼女を除いて皆死に絶えていた。残されたのは生活能力皆無の、わがままで、知識ばかりの頭でっかちで呪いが近くにあれば不調をきたす虚弱体質な一塊のガキだけだった。
 小祝茜は無能力である。しかし、彼女とて果たすことのできる役割くらいはあった。探偵(detective)として、高山のカナリヤとして。危険を探知(detect)して啼いて知らせることができる。  少なくとも傍の少女を救うことくらいはできるつもりだった。
 
「さて、連続失踪事件だけれどねえ。灯はこの事件をどう考えているかい?」
「犯人のねらい?」
「そう」
「連盟があたふたしているのを見てる愉快犯じゃないの」
 灯の推論に怪異探偵は莞爾として笑い、「たしかにそれが一番ありそうな線だとはボクも思うよ」と頷いた。
「けれどねえ、今回の事件、ボクはなんだか嫌な予感がしているんだ」
「予感?」
「最近連日のように同じ夢を見る話をしていただろう」
「白い森の夢を毎日のように見るって話でしょ。茜ちゃんよー、精神科必要そう? 茜ちゃんメンタルくそざこで素因あるだろうから気をつけなよ」
 灯の言葉に探偵は「そうだね」と笑った。幼少より歪められた小祝茜の精神に精神病の素因があるのはまた事実なのだろう。事実、彼女は既に、躁鬱や統合失調症ではないものの、精神科に通院し薬を貰って生きる身だった。
「白い森がボクの持つ精神病理が見せる幻覚ならそれでも構わない。むしろ大歓迎だ。だが君も知っているだろう? ボクは呪術を探知するために小祝家によって作られた咒具だ。もしこの白い森がなにかの呪いの断片だとしたら......? 探知機としてその兆候を拾っているのだとしたら?」
「じゃあ何か白い森の夢に関係する呪いが形成されつつあるって言いたいのか?」
 怪異探偵は察しの良い助手に満足そうに頷いた。
「なあ、灯。思い出してほしいんだけど連続失踪事件の被害者は、呪いで『対象を植物に変』えられていたよね」
「変な呪いだよなあ。橋爪にしろ安念パパにしろ溝口にしろ使う呪いは対象を問答無用で即死させる『死ね!』『アバダケダブラ!』みたいなやつだろ? 植物に変えて殺すなんて、呪いというよりはほとんど魔法じゃん」
「まさにそこなんだよね」と茜は嬉しそうにコーヒーを口に運んだ。
 呪いと言うものはまったく不便で、万能とはいえないものだった。呪いの原理は『願望は現実を歪曲する』の一点である。しかしただ強固な願望では足りない。現実を歪曲するという性質上、願望の強度は一切の私心を去つて形成される必要があり、かつ呪術の行使結果は他の結果発生が観念できない程度に具体化されることを要する。
 ゆえに「火の呪い」や「雷の呪い」というものはほとんど観念できない。あらゆる私心を去つて「火よ燃えよ」「雷鳴よ轟け」などの願望を形成することは、未開社会のシャーマンならともかく、マッチやダイナモを知った現代社会を生きる人間にとって不可能だからである。それゆえに、現代に生き残った願望は基本的に二つだけだった。ハリーポッターでいうところの「クルーシオ」と「アバダケダブラ」  すなわち苦痛と即死のみが呪い屋たちの行使しうる呪術だった。

「溝口の置いて行った調書を見ただろう。因果関係はどうだった。あいつらは『植物になって死んだ』のか? それとも『死んで植物になった』のか? 前者なら灯の言う通り魔法みたいな呪いだ。  けれどね、それならまだマシだった。天才呪術師がいるというだけの話だからね」
「連盟が行った人体実験報告書見たけどよー、植物化は心肺停止後らしいねえ」
「うん......そうなんだ。後者なんだよ。あいつらは皆死んでから植物になっている。連続失踪事件で被害者が使っている呪いは、対象を呪殺してから、死体を植物化させる。というものなんだ。二段階の過程を経ている  どうして被害者たちは死後に植物になるんだろう?」
「......うーん、樹木葬みたいな話だなあ」
「そうだね。結構いい線だと思うよ。流石は助手。結論だけ言ってしまうとね、術者  つまり被害者・加害者たちは人は死後に植物になると強く信じて  狂信していたんだろうね。だからその通りに現実がねじ曲がった」
「普通じゃないね」
「そう、普通じゃない。これは科学の発展した現代社会で人々が忘れ去った考えだ。助手は死体化生神話、ハイヌウェレ型神話というものを知っているかね? 文化人類学・神話学、イェンゼンやフレイザーあたりの話なんだけれど」
「あいにく」
「ならかみ砕いて説明しよう。まず前提として、プリミティヴな農耕社会の神話において、生と死は一体不可分なものとして定義される。夜が来なければ朝がこないように、冬がなければ春がないように、死が無ければ生はない。生と死を循環的な概念として理解するんだ。そこで一つの理解が生じる。死が多ければ多いほどに生も多くなるはずだ。    だから人間は大地に生贄を捧げてきたんだね。豊作、つまりより多くの生を得るためにはより多くの死が必要だから。
 話を戻そう。術者は我々が先祖から受け継いできた先天的な、元型的、アーキタイプな農耕民族的神話的理解を増幅させられて、人の死と誕生をきわめて近接する概念として再定義させられている。農耕神話の再現をさせられている。ヴィマーレ族、マリンド=アニム族の神話のように、人が死ぬたびに植物が生まれ  そして白い森は広がっているんじゃないか。ボクはそう思うよ」
「つまり死んだ人たちは森の生贄になっているってこと?」
「そう。もしボクの言っていることが本当なら神話再現だ。呪術師は生贄なんてまどろっこしいものは使わないし使えない。ボクらが使えるのは、ハリーポッターでいうところのアバダケダブラとクルーシオだけだ。これは呪いではなくもはや魔法だよ。そして目的はおそらく
    。いやまったく、狂っている」
「......じゃあ真犯人はやばいやつなんだな。茜ちゃんはどうするの? 解決できそう?」

 心配そうに茜を見つめる灯に「そうだねえ」と笑い返した。
「せいぜい祈る他ないね。自分が神話のアクターとして組み込まれないように。君も気を付けたまえよ」
「ええ......」
「この事件、正直な話ボクは降りるタイミングを探っている。深追いしてもどうせ六な結果にはならない。連盟から受け取った着手金四〇万円、成功報酬一六〇万円じゃ足りないね。犯人から金ブン取れないなら抜けた方がいいだろう」
 そう言って茜はゆっくりとコーヒーを口元に運び、クリームコーンの甘いピザを片手に「うま」と食べ始めた。
 ピザが三分の二ほどなくなった午前一時半。小祝茜は不意に眼窩の奥をアイスピックで突かれるような激しい頭痛にさいなまれた。ズキン、ズキンと軋む頭蓋。左手で押さえながら、右手のコーヒー入りのカップをゆっくりとソーサーの上に戻していった。指先が震えカタカタと陶器がこすれ合う音が警鐘のようにコンパアトメントの席に響いた。探偵助手灰村灯は「大丈夫?」と心配そうに茜の表情をのぞき込む。
「茜ちゃん、  また呪い?」
 茜は言葉に弱々しく頷いた。
「ゴ......ゲボッ......! うう......慣れないなあ」
「やばいそう?」
「大丈夫だ......ゥ......また連続失踪事件の......新しい犠牲者だ............」
 だから落ち着け    茜が口にしようとした瞬間ゴボッと血の混じった咳が零れた。心臓と肺がギシギシと締め付けられた。皮膚の内側を何か虫のようなものが這いずりまわっている感覚がした。
 悪寒に震える茜の視線は、自らを心配そうに見つめる灰村灯と合った。ぐらりとめまいがして、酸欠の金魚のようにぱくくとする口から空気が漏れ出た。空気には睡蓮の甘い香りが混じっていた。
「致死性の呪い返しは三割でも大分しんどいね......。ゥ......きたよ。ボクたちが探していた「呪い」だ。そう遠くない」
「おっけ。会計済ませておくね。どうする? 今日は事務所に帰って休む?」
「いや......、少しでも手がかりが欲しい。ボクたちが神話に巻き込まれないためにも」
 そう言って、探偵はちらりと助手の方を見つめた。彼女はこくりと頷くと、残っているピザをさっさと平らげてしまう。そしてすくりと立ち上がり、ぜえぜえと呼吸する茜に手を貸した。
「肩貸すから頑張ろっか。茜ちゃん」
「ぅ、ふぅ、.........感謝するよ」
【九】
 身長一六五センチメートル、ブーツ込みで一七〇ある高身長ガール灰村灯。彼女は背中に身長一五〇なく、体重も四〇前半しかない小柄少女を背負いながら夜の神戸三宮の街を歩いていた。顔を赤くして荒い呼吸をする背中の少女を見て「酔いつぶれたのだろう」と思い誰も声をかけない。  普段二人で歩いているとホストクラブのキャッチに声かけられまくるから今日は楽だなあ、と灰村灯は考えていた。後ろの少女に「どっち?」と尋ねる。茜はせえぜえと虫の息で答えた。
「......北野坂を上って、モスクのあたり」
「うんわかった」
 呪いを嗅ぎつけるカナリヤの啼き声に従って、灯はがしがしと厚底ブーツで北野の坂を上っていった。三宮駅の高架を抜けて山側には飲み屋や無料案内所の広がる歓楽街が広がっている。そこを早足で抜けると少し高級そうな雰囲気のバルが点在する北野エリアにたどり着く。また坂を上り、いつものごとく一方通行の路肩に停められた黒のベンツを尻目。悠然とそびえたつ夜の神戸モスク、その向かいのパキスタン料理店を抜けて、霊園の方へ伸びる道を歩いていった。一歩また一歩と灯が歩を進めるたびに背中の少女の調子は悪化していった。
「ゴホッ、グゥ......う......」
「茜ちゃん大丈夫?」
「呪いの気配が濃くなってきた............気をつけてくれよ。最悪ボクのことは棄ててくれて構わないからさ」
 灯は「うんうん」とその言葉を聞き流した。  茜ちゃんはそういうかっこいいこと言いはるくせにいざ戦略的に棄てられるとガチ凹みするからなあ、と考えながら。

 灯は霊園の近く、山の中へと向かっていく男の影を認めた。男は数十メートルほど坂上を、周囲を警戒するように見回しながら歩いていく。不意に振り返った男と、小柄少女を背負って北野を歩く灯の視線が合った。男はどきりとしたような態度をして、ずかずかと早足で山を登っていく。灯はいかにも旧友の介抱をしているという体で男とは別の道へと姿を隠す。男は山の上の方にある古い神社へ続く道へと歩を進めていった。
 男の後姿を見て、「見つけた」と。灯の背中、怪異探偵は弱々しくも口元を歪ませた。

 男は山中にある神社の境内をぬけて、ずかずかと奥の方へと進んでいった。夜の神社に明かりはなく、光源は男の右手に持った懐中電灯と満月を過ぎた月明ばかり。怪異探偵を背負った灰村灯は植え込みに影を隠しながら男の背後数十メートル後方を追いかけていった。男はやがて神社の片隅で持ってきたスコップで地面を掘り、何か樹木でできた人形のようなものを埋めた。トントンと元通りに戻して足で地面を踏み固める。そして安心したように息を吐くと、何事もなかったかのように元来た道を戻りはじめた。

「  こんばんは、お兄さん」
「ひぃぃ、何だ! お前ら!」
 灯の声に、男は叫声をあげると、すかさず鞄の中から隠していた包丁を抜き出した。探偵たちはそのときはじめて男の顔を間近で見た。眼窩がくぼんだ細い顔、不健康に痩せひょろりとした体躯の一八〇程度の身長の男だった。少し身長が高い以外はどこにでもいそうな神経質な男であった。ギラリと出刃包丁の刀身が月光に照らされて輝いた。
 小祝茜は灯の背から下ろされて、ふらふらとゆらめきながら男に相対する。
「ボクは小祝  ただの探偵さ」
「探偵? 小祝? お前もあいつの仲間か。ここまで来て邪魔をするのかよ。何をしに来たんだよ!」
「はは小祝を知らないということは君もやはり連盟の呪い屋ではないな。ボク(カナリヤ)が啼いているのだから呪いは成功だよ。おめでとう。君が呪い殺したいと思った奴は死ぬだろうね。
   いい呪いを使う。先日の婆さんとは大違いだ。君は有能だ。安心したまえ。もう呪いは完成している。今更なにが起きたところで、君が呪いたいと心から願った奴は死ぬんだ。おめでとう」
 口元から血を吐きながら、だらりと両腕を下ろしながら、ぜえぜえ呼吸で怪異探偵はまくしたてた。

「殺さなきゃならないのか??? おれは?? このガキを?? でなければ返ってくる。呪いが」
 男の、探偵の話を聞かずにブツブツ話し始めた態度にむっとした表情をして、灰村灯は「おい」と口を切った。
「てめえ何ほざいてやがんだ。人の命奪っておいてのうのうと生きられると思ってんじゃねえぞクソボケ。お前は死ぬんだ。黙って御仏の迎え待つんだな」

「死にたくない! おれはまだ死にたくない! 殺す? 殺せる?」
「どうやら君は呪いの現場を見られたら、目撃者を殺せば呪い返しはないと勘違いしているようだね。丑の刻参りならたしかにそうすることで呪い返しは回避できると一般的に知られている。はは、しかしねえ、君の使った呪いは丑の刻参りほどヌルいやつじゃないんだよ。そんなセーフティーあるわけないだろう。『神話機械』にはそう書いてあったのかい? かわいそうに、君の命はどうせあと三分だ」

「嘘だ!」
 両手で包丁を横向きに構えて、男が疾走する。「ふう」茜は緊張したように息を漏らした。少女の体躯は一四〇と少し。四〇近い体格の違いは明白な恐怖である。包丁の刃渡りは約一五センチメートル。横向きに突き出された包丁による刺突は容易に人体の枢要部に到達しうる。
   すなわち、刺されれば人は死ぬ。おびえる茜の前に、灰村灯は仁王の如く立ち行く手を阻んだ。
 男の突き出す包丁が灯の腹に突き立てられる。ギンッ! 金属のぶつかり合う激しい音が闇夜に響いた。灯は男の刺突をナイフの腹を使って受け流し、男の懐に入り込む。  隙は与えない。灯はコンバットブーツの爪先で男の股間を一気に蹴り上げた。金属の仕込まれた靴による一撃は確実に急所を捉えて抉り抜く。「グゥ!」
 男が苦悶の声を上げ力が抜け地面に崩れ落ちた。灯はすかさず男の右側頭部に躊躇なく回し蹴りを叩き込んだ。包丁が零れ落ち、カランカランと石畳に跳ねた。灯は仰向けに倒れつつある男の腹部に馬乗りになった。いわゆるマウンティングポジションといわれるもので、男にもはやまともな抵抗は不可能となった。右手で構えていたナイフを、アイスピックを持つように逆手で、かつ両手で構えるように持ちかえる。そしてもはや抵抗力を失った男の顔面めがけて確実に振り下ろした。
「フゥッ......! フゥ! ウー!」
 男の目が恐怖で見開かれる。男は刃物から頭という人体の枢要部を守るため、両腕で顔を庇った。
 ズン! という激しい音とともに、灯のナイフは男の腕に突き立てられる。刃先はずぷりと皮膚に割り入り、筋繊維の束をぶちぶちと切り裂くと、橈骨に当たってようやく止まった。灯がそのままナイフを引き抜くと、どくどくと大量の血が傷口から染み出した。もはや男は抵抗を忘れて震えていた。
 灯はそんな男の様子を見て、顔色ひとつ変えることなく二回、三回と確実にナイフを振り下ろしはじめた。顔を覆うようにした両手にざくざくと鋭い傷跡が刻まれていった。皮膚にはいくつも紅い穴が開き、橈骨尺骨にナイフの傷跡がきざまれていった。

「灯くんは怖いなあ」
灯は五回ナイフを振り下ろして、男の両腕をずたずたにした。にもかかわらず、六回目、血みどろのナイフを振るうのを止めようとしない灯を茜は制止する。そして虫の息となった男に優しく語りかけた。
「君の命はあと数十秒だねえ。おっと、助手のナイフのせいじゃないよ。君の呪いの呪い返しで君は死ぬ。君に呪いを教えた奴はそのことを黙っていたのさ。死ぬ。このまま樹木に飲み込まれて神社の草木と成り果てる。まあ君が呪った奴もそうなるだろう。  なぜ人形を埋める前に止めてあげなかったのか気になるかい? それはね、君が家で樹木人形に杭を突き立てた瞬間からもう呪いは手遅れだったからだよ。よくできました。いい仕事だったね。ところでさ、死ぬ前に教えてくれよ。君に呪いを教えた奴のことをさ    」


 数十秒後、男は突如として灯の身体の下で絶命すると、身体は苔の生えた樹木のそれに変化していった。そしてどろりと神社の地面の中へと溶けてきていった。男の着ていたデニムのズボンと白のシャツのみが幻のように残っていた。
「死んだか」
「死んだねえ。すごい呪いだよ、血までツタになって風に飛ばされて消えていった。残ったのはわずかな洋服だけ。おかげで君も返り血で汚れずに済んだじゃないか」
「......そうだね」
 少し悲しそうな表情をする助手に向かって、怪異探偵は莞爾として微笑みかける。
「君にばかり汚れ仕事をさせてしまってすまないね」
「ううん。覚悟はしてた」
「そうかい」
 男のズボンのポケットからはアパートの鍵と、免許証の入った財布が見つかった。どうやら男は呪いを終えた後は普通に帰宅していつもの生活に戻るつもりだったらしい。
 茜は助手の方をちらりと見て「行こうか」と口にした。灯はこくりと頷いた。免許証に記載された住所はここから三キロほど離れたアパートだった。
 怪異探偵の頭痛は呪い屋が呪い返しによって死んだことにより消え去った。茜はワンピースの裾を翻しながら、解放感を感じさせる軽い足取りで、ザツ、ザツと境内の階段を降りていった。その後姿を灯はゆっくりと追いかけていく。深夜三時。月下、白い息を吐きながら。

 鍵を使って侵入した男の家は生活感に溢れていた。どうやら整理整頓のできない人物だったらしい。あちこちにゴミ袋が散らばり、雑誌や漫画が所狭しと平積みにされていた。テーブルの上には役所からの封筒やインスタント食品が乱雑に積み重なり、銀色の薬包が散乱している。カップ麺のプラスチック容器や割り箸が、水垢まみれの流し台に放置されている。
 男の部屋を見て、灯は「うえー」と素直な感想を漏らした。そしてマジでキモいという表情をしながら、怪異探偵を一瞥する。
「茜ちゃん、帰ったらお部屋の掃除しようね」
「......うん。客観的に見るとクるものがあるね」
 立つ鳥跡を濁さず、という言葉はある。男の部屋はあまりに生活感にあふれていた。どうやらまだ生きる気は十分にあったらしい。
 机の上の薬包を見つめる灯は「あつ」と声をあげた。
「茜ちゃんが精神科でもらってるおくすりあった」
「こらそういうこと言わない」

   部屋の片隅に一冊の本が置かれていた。黄色の装丁の施された本で『神話機械』のタイトルが印刷されている。連続失踪事件の被害者のもとに遺留品として残される呪いの本であった。周りの本は流行りの漫画や小説ばかりなので、この一冊だけが妙に浮いていた。この男は、精神に茜と同種類の問題を抱えていたようだが、それ以外は至って普通の人間だったのだろう。この本を読んでおかしくなったのだ。それまではきっと友人や家族がいたのだろう。茜は静かに手を合わせた。
 カンカンとアパートの鉄階段を降りていくと、怪異探偵のことを二人組の男が待ち構えていた。
 スーツ姿の刑事二人組。片方は三時間ぶりの溝口進。そしてもう片方は、黒い外套をまとった壮年の刑事、呪術師にして連盟理事会の一員、橋爪半七警部だった。橋爪は、怪異探偵の姿を認めると苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。
「また君たちか。  呪術師殺し」
「人聞きの悪い。ボクは殺してないよ。怪異探偵と呼んでくれよ。だいいち君たちの方がよほど呪い屋を殺してるだろ? 橋爪警部に溝口さん」
「そうだねぇ。否定はできないなぁ」
 溝口はにっこりと笑って答えた。茜は鞄をガサゴソと漁ると、橋爪に、スーパーのレジ袋に包まれて雑に入れられていた一冊の本を手渡した。黄色い装丁で『神話機械』と題された先の呪本だった。
「君たちだと無令状捜索差押しているところなんて見つかると後で問題になるだろう? ボクたちが目的の物なら見つけておいたよ。またこいつだ『神話機械』」
 橋爪はレジ袋の中から取り出された本を受け取り一礼するとため息をついた。
「協力感謝する。  君たちは読んでいないよな?」
「もちろん。連盟の人体実験記録読ませてもらったしね」
「ああ、あのことか」
 連続失踪事件が連盟で問題となり二か月。呪本『神話機械』の効力を観測するために、連盟は神話機械を読ませてその後の経過を観察する人体実験を行った。すると被験者は必ず或る特定の呪術に覚醒し、そのまま誰かを呪殺してその後死亡することが判明した。呪術師相手に二回、非呪術師相手に三回行われ、計一〇名の死者を出したところで結果判明として実験中止が宣言された。茜としては、コラテラル・ダメージにしてはやりすぎではないだろうか、と思う。しかし呪術師連中にそのような良心を期待するだけ無駄であった。
「流石は小祝の探知機、われわれも北野の空間異常を探って周囲を警戒していたのだが、  すさまじい探知能力だ」
「嫉妬しないでくれよ。ボクだって探知したくてしてるわけじゃないんだ。もし連盟が許してくれるなら探偵なんて廃業して岡山美作の温泉でゆっくり隠居したいものだよ。橋爪家の権力で掛け合ってくれないかい?」
「それは叶わないだろう。少なくとも連盟の大祝家と宮部家は君の能力を棄てたがらない。まあ  次の理事会で議題を提出するくらいはしておこう」
「いいのかい? ありがとう。感謝するよ」

 橋爪・溝口と別れた後、二人はゆっくりと北野の坂を下り、探偵事務所へと戻っていった。三宮駅の北側でホストクラブのキャッチにいつものように声を掛けられた。そのまま鉄道の高架を抜けて地下へと帰っていった。灯はカツカツと階段を下りながら、傍らの少女に「ねえ、茜ちゃん」と語り掛けた。
「橋爪警部のこと、気を付けた方がいいと思うよ。なんかさ、あの人の茜ちゃんを見る目は怖いよ」
「へえ」
「私のお父さん弁護士だったけどさ。父さんの知り合いであんなひとたくさんいたなって......その、えっとさ」
「言わなくてもいいよ。  ボクの父だった人によく似ているよね。橋爪警部」
「うん」
「あれは典型的な呪い屋だ。かかわらなくて済むならなるべく会話もしない方がいい。愛や情なんて理屈は通用しない。家の利益のためなら躊躇なく死体の山を築き上げる  いや、築き上げてきたタイプの人間だ。関わるとろくな目にあわないよ」
 
そこまで言い終えて、茜は「まあボクもそうなんだけどね」と自嘲気に微笑む。灯はその態度にムとしたような表情を浮かべて「もー」と口を切る。
「茜ちゃんはね、橋爪警部や茜ちゃんのお父さんみたいなかっこいい呪い屋なんかじゃないよ」
「そうかい」
「ただかわいいだけの、捻くれ者で露悪家で怠け者でダメ人間で頭痛持ち虚弱体質の女の子だよ」
 灯の言葉に「ひどいや」と返して笑った。


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