砂嵐のなかにいる 長崎の皿うどん 千差万別の人間の中で、諦めの悪い人間というのは確かに存在する。執着が底を知れないのだ。これしかないから、とは彼らは言わない。世間の注目の大小にも拘らない。見つめる先はただ一つ、成し遂げる自分の姿に他ならない。自負心が高いともいうが、何に価値を見出すかは人それぞれである。 「腕はかろうじて動きますが、肘の部分が......日常生活を送る上での不自由はありません。しかし今まで通りにピアノを弾くことは難しいと言わざるを得ませんね」 「そ、んな」 医師の宣告に女が俯いた。顔色は余命宣告並みの蒼白さである。 「まだ、まだたったの十八ですのよ。大きなコンクールで幾度も賞を頂きましたの。二才の頃からピアノの練習を欠かしたことすらない努力自慢のたいそう良い子ですのに、これではあんまりですわ」 「......大変、申し訳ありません。現在の医療技術ではなんとも」 女のおし殺した泣き声と医師の悲痛な沈黙が続く。お母さん、と今まで黙っていた少年が口を開いた。 「片腕だけでも僕はピアニストになるよ」 千差万別の人間の中で、諦めの悪い人間というのは確かに存在するのだ。 少年の名は汐留凱兜。凱旋の凱と兜でカイトと読む。背はそれほど高くはなく、やや痩せ型で薄っぺらな身体つきをしている。格式の高い燕尾服を着ると、バランスの取れたすらっとした見ばえになるのが自分でも気に入っていた。両親ともに日本人であり、細い目と薄い唇もさほど整っていないが、それを補って余りある堂々たる振る舞いにどこか周囲を惹きつける魅力さがあった。 現在、右腕に巻かれている包帯とギプスは痛々しいほど白く、その目に宿っている精神は晴れ晴れしいほど澄んでいる。いくつもの付箋が飛びでた数十ページはある楽譜を唯一の左腕で重そうに抱えていた。 病院の廊下を抜けて階段をあがる。その先にあるドアは屋上へ続く。本来ならば患者は立ち入り禁止だが、病院側と交渉をし、入院中だけ鍵を預かっていた。 晴空。 雲の透き間から陽光がふりそそぎ、肌にまとわりついてくる。たまに吹く透明な風が熱気を拡散しつつ屋上にいる人間に涼をもたらしていた。田舎町の病院とはいえ、屋上は先日までがらんとして閑静そのものだったが、ここ数日は侵入者が縄張りを主張している。 「医者はなんだって?」 涼しい日陰を占領していた侵入者がカイトを見あげれば、ツヤのある黒髪が耳を滑りおちていく。 「もうピアノを弾くことは難しいだとよ」 「そりゃ気の毒な......ねえ、その手にあるの」 「楽譜だが」 「もう弾けないんじゃねえのかよ」 「弾くなとは一度も言われていない。歩けるのに弾かないなんて馬鹿だ」 侵入者の隣にカイトは座った。昼食すぐあとの空の太陽は中天に座す。屋上で陽光から逃れられる場所は狭く、二人も収容できる余分はなければ、譲る気はなかった。 「向上心のない奴は馬鹿だけど、それを超越したホンモノもいるってことだな」 侵入者が髪をかきあげた。カイトと同じく入院しているはずであるのに、芯の通った綺麗な髪をしている。鮮麗さを極まった目鼻立ち、病院服の上からでも際立つスタイルの良さ、そして鈴が共鳴しあった澄明な声。美人と名指しされれば彼女の顔が思い浮かぶであろう。そういった記憶に残るだけの強烈な美を兼ね備えていた。 彼女の名をカイトは知らなかったし、知る気もなかった。特例で屋上に入りこんだカイト同様、何らかの特例があるのだろう。だが、馴れ馴れしく喋りかけてくる彼女の情報を一つだけ握っていた。 「暇つぶしに人を煽るほど暇なのか、アイドルもどき」 彼女はアイドル、だったらしい。元々アイドルという若者文化には詳しくないので伝聞になるが、そこそこな人気を誇るアイドルグループのセンターだったという。 「休むのも仕事だよ」 あっけらかんと答えるその様子からは想像もつかないが、彼女が入院しているのは身体的な理由ではない。 「のんべんだらり休んでればステージに上がれるのか」 「マネージャーと同じこと言うなよな。わかんねーから途方に暮れてるんだってみれば察せるだろ」 心因性による入院。アイドルでありながらステージに立つのが怖いという恐ろしい病気。そうべらべら語った後、あたしほど美人で人間ができていてもアイドルってのは重荷なわけだ、と言い放った奴がはたして本当に途方に暮れているのかと思ったがカイトは何も言わなかった。 「俺、楽譜読むので忙しいから邪魔すんなよ」 「コンサートねえじゃん。消えたじゃん。取り消されたじゃん」 「コンサート以外にも音楽はある」 「わあ見事な屁理屈でちゅね」 本来ならば、今頃。 見渡す限り人で埋めつくされたホールで、両手をめいいっぱい広げて演奏しているはずだったのだ。 「これぐらいでなければ、止まれなかったんだ」 両手を見下ろし誰ともつかず呟いた。隣で彼女は星が零れるような笑みを見せる。 「今までが楽すぎたからね」 そこには甘い自嘲のひびきがこもっていた。 「子どもたちにせがまれてたな」 「見てたのかよ?」 カイトは楽譜の隙間に、曲の解釈をふくめた記号を書きこんでいた。ギプスで固定されていた右腕は、思うままに動くまで少々時間がかかるという。リハビリもしてなければ書きづらいだろうに、何かに急かされるようにペンを動かしている。 「歌ってやればいいのに」 何気なくいった一言だったが、彼女からの返答に、一瞬の間があった。 「笑わない?」 いつもは明朗な彼女の声に迷いがみえた。それに気づきながらも鈍感なふりして、カイトは促した。 「笑わない。約束する」 あまり見せない無表情で頷いた彼女は、口を開いた。屋上に、高く真っ直ぐな声が響きわたる。カイトは思わず手を止めていたし、驚きとともに彼女を見あげていたが、一切ブレることも淀むこともなく歌いあげる。度胸と声量だけは一人前だ。それだけ見れば、才能があるとも言えるかもしれない。それだけ見れば。 「......最近は、お経がはやりのようだな」 「どの時代でもはやらねえよ」 彼女は短く言い捨てると、スマホを何回かタップして、軽快なテンポのメロディを流しだした。クラシック漬けのカイトには珍しいほどだったが、今の大衆に受けるのはこういう音楽なのだろうな、とも思う。前奏が終われば、ボーカルもはじまる。ソプラノでもアルトでもない、若い女性の声。五分ていどの短い曲はすぐに終わった。 「もしかして、歌詞の意味がわからないのか?」 「生まれも育ちもアイアムニホンジンだぜ」 「だろうな、発音は完璧だ。いままでに歌を習った経験は?」 「ないけどそれが何。こういうアイドルってね、未完成のほうが受けがいいわけ」 「完成の目処もないのに、未完成とはならないだろ」 「うっさ。歌ってくださいあなたの歌がききたいんですとせがまれたから歌ってやったのに」 「確かにそうだ。記憶に残るいい歌だった。楽器としてならいい線いきそうだ」 「やだ、私はアイドル一筋の人間ですから」 彼女の指先が髪をとかした。自信に満ち溢れた表情の底に、少しながら、夜の海に沈んでいきそうな暗さがかいまみえた。 「さっきの歌の題名は?」 カイトがペンを病院服のポケットにしまう。代わりに楽譜の束の隙間から取りだしたのはタブレットだった。 彼女が無言でスマホの画面をみせてくる。そこに表示されている文字列を打ちこめば、すぐにヒットした。 楽譜を探せばすぐに見つかった。音符の波を見ると、すべてがピアノで再生される。指先でリズムをとりなが ら、頭の中で流しながら構成すると、曲の雰囲気も掴めるし音程も覚えやすい。本来なら時間をかけるが、一周さらえばだいたいの概念は創造できる。 「階名は習ったか?」 「かいめい」 「ドレミファソラシド」 「ドレミファソラシド」 「ベートヴェンも生まれたときは母音しか発せなかったんだ。最初は、じっくり音を聞け」 タブレットではリアルなピアノが四角の画面に映しだされている。その鍵盤のひとつに触れると、音楽的なひびきをもった音がふたりの耳に弾けた。 「これがド」 「なに。歌を教える気か? テメエが得意なのはピアノだろ」 「声楽もかじったことはある」 「だったらなんだよ。こちとらプロの先生に匙投げられてんだぞ」 「習ったことあるんじゃないか」 「骨のないやつらだった。だいたい、歌の下手くそなやつに教わる気ねえから」 ひとつ息を吐いたカイトが、タブレットに左手をのせた。一瞬の間をおいて、指が細やかに動き出す。それはさっき流したばかりの曲、その前奏が滑らかに演奏される。 すう、と息を吸いこんだカイトの大きく開かれた口が歌いだす。わかりやすい言葉と、たまに混ざる英語の歌詞を、似あわないほど腹に重くひびいてくる声で歌いあげた。それにピアノの旋律が合わさると、もはや別の曲だった。 「かじったレベルじゃねえよ」 「すこし訓練しただけだ。久々だったから、喉の調子も悪かった」 「どんだけ練習したって私がいまさら歌うまくなるわけないのに、なんなんだよ。ピアノも才能あるくせに歌もうまいって」 ほとんどささやきに近いその声は、はじめて耳にする、感情に揺さぶられた声だった。おだやかな熱がこもって、カイトにまで伝わってくる。 「ピアニストになるのに、才能だけだと思うか。努力、努力、そしてまた努力だ」 「努力が足りないとか、陳腐すぎるメッセージですこと」 「僕には友達がいない」 「うんでしょうね」 「友達なんていたことがない。小さいころから、ピアノだけ。人付き合いというものを完璧に軽視してきたんだな。その結果がこれだ」 ケイトは右腕をかかげてみせた。治っても完全には動かない壊れかけの腕を。 「あいつら、腕だけを執拗に狙って破壊していったよ。いかに恨かったか、その怒りを理解した。けど遅かった。いまさら人との関わりをもとうとも、僕の腕は動かないんだからな」 「階段で、転んだんじゃなかったのか」 「ニュースで見たか? まあそこはいいんだ。僕は人づきあいが難しい、というより無理難題に等しいが、君は違うだろ」 「どうしたってそっちの百倍は愛想あるにきまってる」 「それだよ。俺にアイドルはできるわけない。ファンと交流して、その人自体を好きになってもらって、何度もライブに通ってもらうなんてこと、俺は到底不可能だが、君はできるだろ。努力してきて、その成果の集合体がアイドルなんだ。そっちのほうが才能なんじゃないのか?」 肩を震えさせながら、彼女は高らかに笑った。 「そう、才能ならあるんだって! とびっきりのがな。ただちょっと歌がうまくないぐらいで、凹むなんてらしくないぜあたし」 あれがちょっと? とカイトは思ったが口には出さなかった。 「おたがいここにいて、暇なときは教えあえばいい。音楽と、人付き合いをな」 「しょうがねえな、暇つぶしに付き合ってやるよ、アイドルだかんな」 彼女の手がタブレットに伸びて、ドの鍵盤を鳴らしていく。カイトの手とくらべると全体的に小さい。この手ではピアニストにはなれないだろうな、とまで考えてカイトはその思考を閉じた。 「そういえば名前、まだ聞いたことねえよな」 「汐留凱兜だ。聞いたら名乗るのがマナーだろ」 「高木みよ。あ、芸名じゃなくて本名だからあんま知り合いに言うなよ」 「言う相手がいない」 「そうでした、てへ」 奇妙な関係が始まったな、と思ったのはカイトだけじゃないだろう。その証拠に、高木みよの旋律は不協和音もいいところだった。 「だからさあ、こんなんじゃ、アイドルやっていけないよ? わかってるの?」 病室の外までとどろく、いばりを散らした大声でカイトは足を止めた。眺めのよい最上階には個室が集まっているので、じつはカイトと高木みよの病室は近かった。その日、購買の帰りのカイトは片手にレジ袋をぶらさげている。 「わかってねえんだよ! これからが大事な時期にオマエ一人だけ休めるとかそんなのねえから」 平時なら、雷でない大音なんて気になりもしないが、それが高木みよの病室からなら事情が違う。通り道なのだ、カイトの病室への。どうしても前を通らなくてはいけない。 しかも、病室の前では入るのを躊躇っているのか、三人の女性がドアからこっそり覗いている。素知らぬ顔で通り過ぎよう、と決めたときだった。 「す、すみません......はい、すぐに復帰できるよう、がんばっていま」 「頑張ってねえからこうなんだろうが! グループに貢献したくねえとか思ってんの」 「思ってないです! ほんとに、思ってないですけど、私だってよく、わからないんです......」 最後はしぼんでいて、カイトは聞き取れなかった。けど、その声の主は部屋の主であることはわかる。 「プロデューサー、みよに激おこは筋違いやろ......」 「そんな言い方ないって、こんな」 「みよだって頑張ってるよ......」 ひそめられた声を耳が拾うも、これ以上の盗み見は良心が咎めて足早に過ぎさった。視線の端に、病室の中がすこしだけ入る。出口でたむろっている女性の頭をとびこえ、恰幅のいい男の前でうつむいている高木みよを見てしまった。 もはや病院ではなく、屋上にいる時間のほうが長くなっているのを自覚しつつ、カイトはレジ袋のなかから栄養補助食品を取りだした。屋上は相変わらず人の気配がない。いつの間にか、楽譜を持ってくることもしなくなった原因は屋上に姿は見せない。つい先ほどの姿をかえりみれば、今日は来ないかもしれなかった。 初秋の太陽が頭上で燦々と白く輝いていた。わたあめのような雲が低い空でいくえにも織重なっている。季節が過ぎさっていくように、雲が同じ形をしていることがないように、変わっていくものは戻らない。変わらないのは人間だけだと、誰が言ったのだったか。 無機質な金属が擦れあう金切り音がして、屋上の扉から足音が向かってくる。 「ライブする」 いつにもまして固い声は、切羽詰まっていた。見あげれば、唇を真一文字に引きむすんでいる高木みよがいる。カイトはなにも言わず、次の言葉をまった。 「とにかくやらないと。やらないとだめになる。病院でもいい。あ、ここ......屋上なら。あたしひとりだから簡易的なステージでいいし、病院の許可も寄付金でとれる」 頷いたカイトは立ちあがった。 「もう決心はついたのか?」 「ついてるわけなくない? あたしが、ステージに立てると思うわけ? でもこのままじゃ、何にもなれない。アイドルになれなくなったら、死んじゃう」 陽が翳って、ふたりの上に影を落とす。高みにたって他人に同情するのは、この場合、酷になると感じた。だから、カイトは論理でも感情でもなく、カイトらしい言葉を選んで重ねていった。 「僕らは自由じゃない。音楽も、自由じゃない」 「自由とか、そんな話、」 「けれども、愛してる。音楽を、音を、旋律を、鼓動を、愛してる。それに僕は君の歌が好きだ。不器用だけど、まっすぐで、歌ごと噛みついてくるような、君の歌を」 「......なに」 「舞台にあがるなら孤独にしない。だからなろうとするな」 「なにが言いたいんだって」 「わからないようだから言ってやる。僕も君の隣で伴奏してもいいか。いいよな。君の隣で弾けるのが、何よりも誇りに思えるんだ。ひとりなんてもう言うなよ」 波が引いたような静寂があった。風の音も、患者たちの騒めきも、今だけはぷつりと切れてしまったかのような。無音がつらぬく灰色の世界で、目を見開いた高木みよが弱々しく笑った。 「......なんか変わったな、カイト」 「俺が変わったんじゃない。お前が俺を変えたんだ」 「暴論の鬼かよ」 カイトが眉をわずかにひそめた。やっと調子を取り戻したかに思えた高木みよが、口ごもりながらうつむいたのだ。 「あの、ステージはたぶん、お兄ちゃんがやってくれっから......」 「兄がいるのか」 「テレビ局のセットとか作る仕事だし、かわいい妹の頼みなら断らない人だから、そっちはクリアで......観客たちは子どもたちがいいかなって......そして、その、ね、あれだ、あれ、ただ、深い意味はないけどさ」 「はっきり言え。俺が嫌なら......」 「あ、ありがとう!」 屋上すべての空気の粒子を震わしたかの大声に、カイトは目を丸くした。 カイトはタブレットの時間を確認して、荒々しく病室のベッドから下りた。屋上でやることが溜まっているので柄にもなく急いでいた。個室のドアをスライドさせると、いましがた来たばかりな人影にぶつかりそうになる。見覚えしかない、ほぼ毎日見舞いに来てくれるカイトの母だ。目の前で突如開いたドアに驚いている。 「どこにいくの?」 「ごめんね、お母さん。用があるから、今日はあんまり話せないかも」 「あら。なんの用?」 首をかしげる母を前に悩んだが、決心したのはすぐだった。言わないで後からバレるほうが、何十にも面倒なのが目に見えている。 「屋上で話すよ」 連れだって、屋上へ向かう。屋上の立ち入りが許されたのも、母が息子のために静かな場所を病院側に求めたからだった。あの時は余計なことだとしか感じなかったが、結果としてカイトは母に感謝しないといけないだろう。 「腕の調子はどう? 痛かったりしないかしら」 「心配しないで、もう痛くないよ」 屋上では、ひとりの男が作業していた。先日会ったばかりの高木みよの兄だ。服からのぞく筋肉は逞しく、背も高い。そしてもれなく鼻筋が整っている。言うまでもなく高木みよに似ていた。生まれた順番でいうなら、高木みよがこの兄に似ている、とすべきかもしれない。名は高木康正という。なにやら大きな箱のようなものを両手に抱えて移動させていた。 「お疲れさま」 「お疲れ様です、康生さん」 「みよがいなくて悪いな」 康正が会釈すると、母は困惑を浮かべながら、カイトの耳にささやいた。 「ねえ、この人はここでなにをしているの」 「ライブの準備。一週間後かな、ここでアイドルがライブやる予定なんだ」 「へえ、そうなの」 興味なさそうな母の反応だった。アイドル自体もよく知らない母にとって、遠い世界の出来事かも知れなかった。 「僕もそこで伴奏する」 「え」 首を回した母の顔を、カイトはそらさずに見つめ返した。焦ったように母が問いただす。 「伴奏って、ピアノを弾くってことよね?」 「キーボードだよ。べつに安いキーボードでもストラディバリウスでも弾いてみせるけど」 「安くて悪かったな」 顔をあげた康正が爽やかに笑う。カイトは困り顔で頭を下げた。横では、母がカイト以上の困り顔をしている。 「プロのピアニストになるのでしょう? これから絶対に完治するわ。いい医者も探しているの。こんなところで弾いたら悪化するわよ」 「プロとかもう目指さないよ。いや、もとから目指したいわけでもなかったけどさ」 そう断言すると、カイトは笑った。冷笑でもあり苦笑でもあった。声音は優しかったが、冷酷さを隠し切れない声で言った。 「覚えてる? 僕が二歳の頃、お母さんがむりやり僕にピアノを習わせたんだよ」 母は呼吸も止まったみたいに固まった。康正も一瞬、動きを止めたが、すぐに何事もなかったかのように作業を再開する。 「いつもお母さんのために弾いているのかどうかすら、わからなかったけど、腕が壊されてはもう、母さんの期待には応えられない。ようやく、僕はピアニストになれそうだよ」 「ちが、違うわ、カイト。あなたは分かってないの。幼少期から練習しなければ一流のピアニストにはなれないのよ。だから、お母さんはね、あなたを」 「トロフィーもコンサートホールもいらなかった。プロの称号も求めてない。僕は僕のためにピアノを弾くピアニストになりたい。ごめんねお母さん。こんな息子になってしまって」 返答は、言葉ではなかった。風を切る音が最初にあって、乾ききって張りつめた音が続いた。カイトがぶたれたばかりの右頬を手でおさえる。泣きそうな顔でもう一度手を振りあげた母を、真正面から見据えた。 「好きな女の子のステージなんだ」 カイトの瞳は、透きとっている。その瞳が太陽の光でかがやいたとき、母は不意に胸が冷えるのを感じた。無限の可能性があったのを、自分が好む椅子に座らせていただけで、その両足で立たれれば自分を置いて、どこへでも行ってしまう。それは全身の力が抜けていくほど、恐ろしい想像だった。 「わ、私は厳しくしたわ、自分の息子ですもの。ピアノだってあなたのためを想ってのことだけども、伝わってなかったかしら。こんなに私は好きなのに、嫌いになったのね、お母さんのこと」 「おかげさまでピアノは好きになれたし、俺が母さんを嫌いになったこと今までにないよ」 「でも、弾くんでしょう?」 悲愴にひびく母の声にも、カイトは頷くのみだった。なまあたたかい風がふたりの間にある空白をなぞっていく。 「わ、私は。私はね、カイト」 「もういいよ。母さんは間違ったことはしてない。ただ、俺の邪魔だけはしないで。もう母さんも、俺のために何かしてくれようとしなくていいから」 氷のかけらが母の背筋をすべりおちた。黙ってしまった母の袖を息子が引いた。 「送るよ」 それは帰ってと言っているに等しい。わからないほど鈍くはなかった。息子をいままで受けいれてきたような錯覚をしていたが、受けいれていたのは息子のほうだったかもしれない。どの道、これ以上の言葉をたがいに求めていなかった。必要もなかった。 「もういいぞ」 カイトとその母が去っていった屋上で、康正が誰かに聞かせるように言った。 「にしても、お母さんと一緒だとは思わなかったな。な、みよ」 「う、ううっさい!」 影から声が聞こえてきて、康正はニヤリと笑った。その声があきらかに照れ隠しだったからだ。 「隠れるタイミングが悪すぎるってこういうことなんだな」 「あんなの予想できるかよ。無罪、無罪無罪!」 給水塔で見えなくなっていた死角から姿を現したのは、高木みよだった。頬の血色がやけにいい。 「好きな女の子のステージ、か。う?ん、若いっていいねえ」 「一生口聞けなくするぞ」 「好青年じゃないけど、不器用そうなのはお前に似てるよ。案外、いい仲になれそうじゃないか」 「ばかね、日本一のアイドルになるってのに恋愛に現を抜かしている余裕なんてねえっての」 「恋愛だって自覚はあるんだな」 「こんなのあげ足とりよ!」 「休日に働かされている兄のために妹よ。あの子との経緯を詳しく話しなさい」 「頑固拒否!」 子どものにぎやかな声が舞台裏まで聞こえた。そこまで立派ではないが、便宜上は舞台裏だ。ステージという名の高台と、布を引いただけの客席。車椅子の子のためのスペースと分けられている。そういう配慮もしつつ、マイクにつながるスピーカーも設置してくれたのは兄だ。事前に子どもたちを刺激しないよう、音量は調整してある。兎にも角にも最終確認はとっくに終わり、カイトと高木みよは出番を待つだけだ。 「ところで目どうした」 「カラコン。緑色の瞳っていうキャラ付けなの」 「僕らのグループ名をずっと考えていたんだが、いましがた思いついた。グリーンアイズとかどうだ」 「グリーンなのあたしだけじゃん。採用してやるけど」 グリーンアイズ。単直だが、これだけのグループに凝った名前は必要ない。緑色の目は嫉妬の象徴だが、そのつもりはカイトにないのだろうということは流石にわかる。緑色の瞳は嫌いじゃなかった。不満はない。不満はないが、閉じこめきれなかった不安はある。 さっきから嫌な汗が止まらないのを、高木みよはしっかり感じとっていた。その上で、勝手に流れてくるものはどうしようもなかった。普段ならひたすら自分を信じていればいいが、アイドル衣装はその自信を奪っていってしまう。 あれだけ好きだと信じていたアイドルを、うまくこなせないのはどこか自分に問題があるせいだ。 「ねえ」 「なんだよ」 燕尾服でかっちりと固めたカイトに声をかける。ひとりだけステージを間違えたかのようなクラシックな装いだが、病院服と違うというだけで新鮮にうつる。 「緊張を紛らわす方法とか、なんかないの」 「き、緊張......? すまない、したことなくて」 話にもならない。リハ無しのぶっつけ本番だというのに、カイトは落ちつきはらっている。十分の一でも高木みよに分けてくれれば、みっともない在り様はみせないのだが。 「あと一分だな」 腕時計をみたカイトが伝えた、残りわずかな時間を聞いて、寿命がそこまで迫っていることを知った。ステージはすぐそこだ。あと三十秒しかないが、三十秒の猶予はある。 「やるしかない、これでできなければ、アイドルになれっこないから、だから、やるしかないんだ、あたし」 自分に言い聞かせてきたことをもう一度繰り返す。自己暗示もうまくかかったことはないが、とにかくやれることをやるしかない。 「大丈夫。できるまで何度もやろう」 カイトは当然のようにそう言うが、何度もチャンスは巡ってこない。一度きりどころか、その一度もこなくて終わるほうが多い。それに比べれば、こんなのどうってこともない。 カイトへの反感で覚悟は決まった。マイクをオンにして、舞台袖から出ていく。とたんに歓声があがった。子どもたちの無邪気な声が鼓膜を通して心臓に突きささる。 「みんなぁ?っ、まった?? グリーンアイズだよ!」 明るく言い切って、手を振る。ステージの中央までくると、その場で一回転して見せた。 「今日の衣装、どう? どんな感じか教えて?」 「かわいい?!」 「ありがと?! うれし?い!」 屋上中のかわいいコールに両手を振って答える。ここまでは事前の仕込み通りだ。子どもたちを監督する看護師さんを丸めこんでサクラになってもらっている。 決めポーズとともに芸名を名乗る。次に、伴奏者の紹介だ。カイトはキーボードの後ろでやけに優雅に礼をしてみせた。ステージを間違えているようなチグハグさだが、逆にそれがいいのかもしれない。子どものウケは上々、想像以上といえる。前フリが終われば曲だ。 「みんなはお姉さんの歌、聞きたいかな??」 「聞きたーい!」 元気に満ちあふれた声が返ってくる。心の底から楽しんでいるこの声を忘れてしまうのはもったいなかった。高木みよとしてじゃなくて、アイドルとしてのあたしの価値はこれのためなんだと思える。 カイトに目線で合図を送ると、頷いたカイトがキーボードに手を置く。計算され尽くしたような静寂のあと、圧巻の演奏が流れだす。見ていなければ、誰もこれを左手メインの右手はときどき動かしているだけな演奏だとは思わないだろう。 カイトの演奏を耳がうつなか、頭が真っ白になっていく。こんなはずじゃないのに、事態はすぐに最悪へと向かう。 「みよ!」 よばれて振り向く。キーボードを鳴らしながら、カイトはグッと親指立てた右手をぎこちなく、掲げていた。顔は腕以上にぎこちなく歯をみせて笑っている。 『お前が僕を変えたんだ』 いつかの言葉がよみがえる。 そうだ、あたしも変えられた。カイトに出会って変わった。もしかしたら、人生すらも変えられるかもしれない。 いまならわかる。弾けなくなった腕でピアノを弾く理由も、ピアノが好きだと含みもなくいえる理由も。あたしも、カイトも、音楽だって自由では決してないけど、音楽の上では自由なんだ。 胸を張って、大きく息を吸いこむ。 見ていて? 違う。 聞いて? 違う、願っているのはそんなんじゃない。 喉も腹も力をこめて。 さあ人生で最も強烈な瞬間を語りあおう。 ドタドタと病院の階段を慌ただしく昇る姿があった。 「なんでだ、勝手にライブなんかしやがって......! 頼むからいうこと聞いてくれよ......っ」 ブツブツ呟くその顔は、汗で光っている。男はとにかく急いで、屋上に辿りつかなければいけなかった。男がプロデューサーという責任を背負うアイドルグループの内のひとりが、入院している病院でライブをしている、という信じられない一報が入ったのはつい先ほどのことだ。何がなんでもライブを止める、ということしか頭にない男は気づかない。漏れ聞こえてくるこの歌を誰が歌っているのか、ということには。 屋上のドアを乱暴に開け放った。踏みこむと、ピアノにのった歌が耳をつんざいていく。小さな高台の上。堂々とした態度で歌うみよ、いや、アイドルがそこにはいた。 「......は?」 状況の整理が追いつかない。だって、ステージに立つことすら怖がる小娘だったはずではないか。 言うつもりだった文言も飛んでしまったプロデューサーの肩に手がおかれる。呼びかけられて、ようやくその手をプロデューサーは認識した。 「どうも。高木みよの兄です。妹がいつもお世話になっております」 「え、ああ、どうも」 相手が名刺を差しだしてくれば、業界人として名刺を交換しないわけにはいかない。名刺には高木康正と書かれている。嘘偽りなく兄なのだろう。 「私の妹は、本当にすごいんですよ。アイドルになると言って家を飛びだし、本当に人気アイドルになってしまった。けどね、どうして入院しているか聞いても教えてくれないんです」 妹の歌を背景に、兄が朗らかに微笑んだ。その笑みだけで首筋に剣を突きつけられたような圧迫があった。 「は、はあ。私たちとしては、一刻も早い復帰を、サポートしていくべく尽力しております」 「はい。信じております。妹が信頼しているのですから。私は、妹の道筋にどのような困難があろうと、それはすべて選んだ妹の責任であると思っています」 さっぱりした口調でそう康正は言い切った。プロデューサーはどう返せばいいのかわからず、聞いているという意思表示のために何度か頷いた。 「ですので、どうか、妹を日本一のアイドルにしてやってくれませんか。それをずっと夢みてきたんです」 「か、顔をおあげになってください」 康正は深々と頭をさげる。うろたえたプロデューサーは顔の汗を手で拭い、慌ててつけたした。 「もちろんです、日本一にしてみせますから」 「約束できますか?」 歌声はいまだ止まない。加工でもない、素の歌はこうまで心にくるものだったか。小さな病院とはいえ、ライブで口パクじゃないのは初めてだろうに、一切臆することなく歌おうとしている。 「申し訳ありませんが、約束はできません。日本一のアイドルなんて蜃気楼のようなものでして、基準により何が日本一かは変わっていきます。けれど、これだけはお約束いたします。あなたの中で妹さんは日本一でしょうが、私たちにとっても、あなたの妹さんは日本一のアイドルです」 康正が顔をあげた。なんともいえない表情だった。聞きたいことはこれじゃない、というのが滲みでている。プロデューサーは目を閉じた。歌のうまさで日本一にならなくても、自ら見出したアイドルの歌が日本一でないわけがない。 「私も、いろいろと見直していくべきことが多々あると、お恥ずかしながら自覚いたしました。あなたの大事な妹さんをもうしばらく、こちらで預からせていただけないでしょうか」 一息で言い切って、プロデューサーは負けないぐらい深く、深く頭を下げた。 「お疲れさま」 「おつおつ」 清涼水を入れた紙コップを合わせて、ふたりで一気に飲みほす。胸には達成感に溢れていた。こうして終わってみれば感慨深い。 あれだけ盛り上がっていた屋上は、いまやカイトとみよしかいない。ステージもとっくに解体されて影も形も残さず、いつものがらんとした眺めがやけに寂しい。 「康正さんきてたぞ」 「ええ、はっず。あたし、キャラ違いすぎて」 「ドアのところで頭下げてた」 「なんで?」 「知らん。そのあと、頭下げられてた相手も、頭下げだしててピタゴラスイッチみたいだった」 「ええ......なんだそのおもしろ。見たかったわ」 「気づかないぐらい集中できてたんだろ、よかったじゃないか」 そう言われて、高木みよとしては複雑だった。集中していたのは事実だが、カイトが気づいていたのが悔しい。 太陽は南から西に行こうとしている。もうじき夕方がやってきて、この熱を夕日で覆い隠そうとしてくるだろう。静かに向き直ったカイトは真剣だった。 「大事な話をしていいか」 「うん」 手を握られた。やけにあったかい指が隙間に入りこんでくる。少し湿っていた。手汗だ。この男もこうして緊張するのか。 引き寄せられた手を頭によせ、祈るように言う。 「お前を救いたい」 何よりもその目が雄弁だった。 手に添えられた頬は冷たい。 「救えないよ」 「そう言うだろうと予想していた。ただ、お前の歌を最も正しい導きで僕は救えたと自負している」 「なんだそりゃ......自負すぎて、笑えねえよ」 「けど、僕を見る目が他の人とは違っただろ」 「そうかも。だっていろいろあったからさ」 「好きだ。アイドルにならないで、俺のそばにいてほしい」 そっと手が離される。意志の強い瞳がぎょろりと動いて、高木みよを捉える。睨みつけるように。 「うん、もう住む世界が違うも言い訳だな。観念するよ。あたしも好きだった。多分、お前よりずっと前から」 「なら......」 スリッパがコンクリの地面に落ちる。屋上の縁に駆けよって、するすると上へと登る。カイトが止める暇もなかった。飛び降り防止のフェンスの前まであっという間に登りつめる。その体躯と比べ随分と頼りない足場で、器用にバランスを保ちながら、くるりと振り返った。 「けどな」 髪が風にかきあげられて顔を一瞬覆い隠す。 どこまでも続く空を背後にして、みよは腕を広げた。 「あたしはここで生きるよ」 ふわりと舞った髪が日の光を吸いこんで輝いている。まさに青空の下がにあう。姿だけじゃない。生き様の話だ。カイトが直視するには眩しすぎて目が眩む。だから惹かれた。逆光で影になった顔は、カイトでも見たことがない、晴れやかな顔だった。 「あたしを必要とする奴らがいる。あいつらの隣を歩きたい。一緒に、進んで行きたいんだ」 「......僕だって、お前が」 「よっ」 軽い掛け声とともに、カイトに向かって飛びおりる。慌てて受け取ろうと両手を構えたカイトは、勢いよくぶつかってきたみよごと後ろに倒れた。 「......いっ......」 「はは、にぶくせえな」 打ちつけた腰と頭がじんじんと痛み、一瞬気が遠くなった。笑声がふってきて、頭上のみよを睨みつける。覆いかぶさったみよは、悪戯が成功した子どものように笑っていた。毛先が頬や首筋をなぞってくすぐったい。 どかそうとするよりも前に、顔を近づけられる。にんまりと細まったみよの目が鼻の先にあった。 夏のような緑色。その奥に、見えない黒がある。 「今はこれで我慢しろよ」 尊大に言い放ったみよが目を閉じる。もっと見ていたかったと思うと同時に、何かが唇に触れた。 了
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