万華鏡落下

白内十色


―おしながき―
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・満月鏡
・賢い鶏
・ウインド・ワインダ
・本を読む人々
・独りぼっち
・あとがき(長文)
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・満月鏡

 ある日校庭の中央に直径一メートルの月が落ちてきて、空からは月が居なくなった。おかげで星はきれいに見えるようになって、天体観測が好きな僕は大喜びする。高い山の上に行ったみたいで悪くない。夜の公園で寝転がって学校の授業で習った星座を探しながらうとうとしていたら、僕がなかなか帰ってこないのを心配した母親が探しに来る。僕がきれいな星だよと言ったら、少し怒りながらも僕の隣に座って、一緒に星を眺めてくれて、そんな横顔を見ていると僕はなんだか泣けてきてしまう。母親が慌てて悲しいことでもあったの、なんていうもんだから悲しくないのにちょっと悲しいような気もちになって、でも心の内側はあったかくなって、手足は寒さなのか感動なのかぶるぶる震えて、僕の中には色んな感情がところせましとひしめき合っていて、全部に名前をつけたらきっと今見上げている空の星の数と同じくらいになるんだろうな、と思う。
 月が落ちてきたのは夏休みが入るちょうど前くらいだったので、自由研究の題材に落ちてきた月を選びたい子供が僕を含めてたくさんいた。先生が、この中で一番星のことが好きな人に月の研究を任せます、というと、何人もの手がすっと下がって、何人かが残る。僕はとんでもなく夜空のことが好きだったので、強情に手を上げ続けて、まだ手を上げている子供をじっとにらむ。するとだんだんと手が減っていって、最後の一人が大笑いしながら手を下げて、僕が月の研究の担当子供になる。
 落ちてきた月は僕が手を広げたくらいの大きさで、教科書で読んだとんでもない大きさの月とはちょっと違うような気がする。家からメジャーを持ってきて何回も測ったけれど数字が合わなくて、むかし月の大きさをはかった人が何か失敗したんだろうなと思う。でも、むかしの人のことを責めないでほしい。以前は月はずっとずっと遠くにあって、大きさを測りに行くのだって大変だったに違いないからだ。
 月のことについて最初に気づいたのは、僕が泣くと月も涙を流すってことだった。それは僕が夜の月を見に行ったときのことだった。昼はいつも誰かが校庭で鬼ごっこをしているはずなのに夜だから誰もいなくて、月はでっかいただの石ころみたいだし、だだっ広い校庭の中央に僕一人で世界には僕しかいないみたいな気持ちになって、フェンスの破れたところから学校に侵入した罪悪感と合わさって僕はわんわん泣いてしまったのだ。そうしたら月の表面から水があふれだして、滑らかな表面を伝って地面に吸い込まれていった。僕の隣で月は音もなく、でも確かに泣いていた。僕はびっくりして泣き止んでしまって、そうすると月からはもう水が流れなくなった。僕は慌ててライトを取り出して研究ノートにメモを取った。月は、僕が泣くと涙を流すらしい。もう一回泣こうとしてみたけれど新しい発見の前では全然そんな気分になれなくて、代わりに僕は笑う。星空に向けてガッツポーズをする。すると直径一メートルの月も僕の笑い声に合わせてぶるぶる震えて楽しそうにする。
 翌日僕は学校に漫画を持ち込んで、月の隣で読むことにする。校庭の真ん中で、土煙だって舞っているのに漫画を読み始めた僕に周りのみんなはびっくりして僕を止めようとするけれど、研究のためなんだと言って僕は漫画を読み続ける。月がどう変化するかをよく見て、研究ノートに書き留める。僕が嬉しいと月の表面が温かくなって、僕が怒っているときは月を触るとなんだかひりひりする。怖いときは冷たくなるし、眠いときはちょっと柔らかくなる。色んな感情が混ざり合って僕でもよくわかんなくなっているときは、月も混乱するのかなんだかよくわかんない感じになる。僕の知っている言葉で表せる月だけじゃなくて、全然知らない何かになっている月だってあることを僕は知る。月から今まで嗅いだことのない不思議な香りが漂ってきたとしても、読んでいる漫画のページを戻ってもう一回その部分を読み直したって同じ香りはもう二度と感じられないことがあることも僕の研究ノートには書いてある。
 月のことを研究している僕の周りにはだんだんと友達が集まってくる。僕が研究ノートの中身をみんなに教えるとみんな不思議そうにしながら月の前で泣いてみたり喜んでみたりする。そのたびに月は湿ってみせたり震えてやったりする。僕らが嬉しくなって月の周りを跳ねまわっていると、月ががたがた震え始めて僕らは逃げる。
 友達が帰った後に僕は考える。僕らの感情は月にエネルギーを与えているんじゃないか? 僕はありったけの友達を集めて、月の研究をしたかった子供たちも集めて、友達の友達だって集めて夜中に月の周りに集合する。みんなで手を繋いで月の周りをぐるぐる回る。何人かが懐中電灯を持ってきて踊りながら振り回すもんだから、月の周りを光の筋が走り回って本の中で読むダンス・クラブみたいになる。
 僕らの感情を受けた月の振動はどんどん激しくなって、僕らは何か特別なものを目撃しているような高揚感のままに回り続ける。誰かが笑うと笑いが伝染して月だけじゃなくてその場の空気全部がぐらぐら揺れているようになる。
 やがて月は宙に浮かび上がって、満天の星空に静かに昇っていく。僕らはなんだか踊るのをやめてはいけないような気がして月を見上げながら、指さしながら、それでも踊り続ける。懐中電灯の光が月に反射して僕らを照らす。月は空に帰り、踊り疲れた僕らは家に戻る。
 月は鏡なのだと、僕は月について書いてある本で読んだことがある。月は、太陽の光を反射して地球まで光を届けている。僕らの懐中電灯だって、感情だって、月は鏡のように僕らに返しているのだと僕は理解する
 それから月は何事もなかったかのように空に浮かんでいるし、僕らの校庭から月は居なくなって僕らは普通にサッカーができるようになる。夜中の校庭に入り込んだ僕らはこっぴどく怒られたけれど、僕らの間にはなにか特別な一体感のようなものが生まれている。だって僕らは、空に昇っていく月を見ながら、その下にある僕らをも同時に見つめていたのだから。
 僕は時々深夜の公園に座りこみながら、月を見上げて自分の感情について考える。僕は今、何を考えているだろう? 月がここにいたら、どんな風になるだろうか。それとも空で、月は僕らの感情をちょっとずつ受け取って、静かに変化しているのかもしれない。そうだとしたら、いまの月はどうなっているのだろうか。
 僕は月を見上げるとき、友達も同じように月を見上げているのかもしれないことを考える。月は鏡だ。夜空に浮かんだ月を介して、僕は地上にいる何億人もの人々のことを考えることができる。僕一人の感情だけでも理解するのに手いっぱいで、見上げている夜空の星と同じくらいだけの種類の感情を僕は持っているのに、この地球の上に暮らしているすべての人が、この難しい感情というものを抱えて生きている。
 商店街の人ごみの中を歩いているとき、僕はまるで天の川の中を泳いでいるような気持ちになる。僕らは誰もがきっと自分だけの星空を持っていて、その目が回るような複雑さを抱えて生きているのだ。


・賢い鶏

 その日旅人がたどり着いた国は科学技術の非常に発達した国でした。とくに、生命の不思議だとほかの国では思われていることについて、いくばくかの知識を持っているようでした。
 旅人は国のはずれにある大きな養鶏場の前に立って、柵の中で騒いでいる白い鶏の群れを眺めています。旅人がこの国を観光したいと国の役所で聞いてみたところ、役員が口をそろえて養鶏場に行くべきだと言ったのでした。
「この国の技術の集大成を見学したいなら、そしてちょっとばかりの優越感を得たいなら、あなたはそこへ行くべきです。私どもにしたって、気晴らしによく行くところです」
 彼らの言葉をまとめるとこのようでした。
 鶏たちはよく見ると、いくつかのグループに分かれていますし、一羽の鶏が声高に鳴いたかと思うと、その周囲の鶏が賛同するかのように羽をばたつかせ、どうやら知性があるかのようなふるまいを見せるのでした。
「この鶏は食用ですか?」
 旅人は係員に尋ねました。長く旅を続けているので、科学技術の発展というよりはどちらかというと目先の食べ物のほうに思考が向かいがちでした。
「ええ、そうです。それにしては、知能が高いように見える、と言いたいのでしょう?」
 旅人は知能が高かろうが食べるつもりでしたが、ここは話を合わせて「ええ、まあ」と頷きました。旅の中で得た処世術です。
「彼らこそが、この国の科学技術の集大成、知能のある鶏です。どのくらいかって? だいたい、人間の大人程度の知能は持ち合わせています。個体によっては、それ以上かもしれません」
 旅人は「へぇ」と少し驚くそぶりを見せます。鶏の知能が、予想していたよりも高かったからです。同時に、人によっては、倫理的な問題を感じるかもしれないな、とも思いました。
「彼ら、日がな一日どうやってこの養鶏場を脱走するかについて考えていますよ。もちろん、鶏は人間の言葉を離せませんから、この翻訳機で仲介してやらないと分からないのですがね。ああ、この翻訳機もこの国自慢の発明ですよ、旅のお供にお一ついかがですか?」
 旅人は、翻訳機が必要ないこと、説明を簡潔にしてほしいこと、を伝えました。知能の高い鶏に対しての興味はそこそこといったところです。どちらかというと、肉の味に興味がありました。この国ではどのような調理をするのでしょうか。ただ、説明を途中までしか聞かないのは失礼にあたるかもしれないとの判断があります。丸くなったな、と旅人は思いましたが、彼が尖っていた時期があったのかどうかは、彼自身も覚えていないことなのでした。
「ええ、肝心なところはもうすぐ話しますとも。彼らは脱走するための段取りを完璧に組んでいます。私たちの目を見事に欺いて、この養鶏場から逃げ出すことができるでしょう。それくらいの知能はあります。けれど、彼らの中にはそれを実行するだけの勇気がないのです」
「私どもの国では『勇気』を人間性の最たるものとして定義しています。困難に立ち向かうための力のことです。彼ら鶏にはそれがありません。それは、生まれる前に我が国の技術の力で勇気を刈り取ったからにほかなりません」
「ですので、勇気のない彼らは脱走をしませんし、私どもは彼らを美味しく頂くことに、何の痛痒も感じません。勇気のない生き物は尊重するに値しませんからね」
 係員は一気に、そして誇らしげに言いました。そして、旅人に一枚のチケットを手渡しました。
「これは、あの鶏を食べることのできるレストランのチケットです。良ければ行ってみられるとよろしいでしょう。スパイスを含んだたれに肉をつけて焼いた料理がこの国の郷土料理ということになっています」
 チケットを受け取った旅人がレストランのあると言われたほうへ行こうとすると、係員が旅人を引き留めて言いました。
「そうそう、あの鶏たちの正式名称を教えていませんでしたね。この国の一番の目玉なのですから、それくらいは知っていただかなくては」
 面倒くさそうに振り返った旅人に係員は続けます。
「彼らは段取りを立てて、実行することをしない臆病者です。ですから私どもは彼らをこう呼びます」
「『段取り(ダンドリー)チキン(チキン)』と」



・ウインド・ワインダ

 船内は音楽で満ちています。一定のリズムで並ぶ培養液の中に浸かった脳みそたちは薄紅の空でまどろむような半覚醒状態の中で音楽を聴き、心を弾ませ、踊らせ、揺らし、そのほか様々な方法で、エネルギーを生み出しているのです。私たち歌姫(ディーバ)が適切にキーボードを叩くと、ウインド・ワインダが回ります。培養液にアクセスし、彼らの感嘆のため息を綿あめみたいにからめとり、涙で固めてエンジン室に送り込みました。
 ディーバの役目は歌うこと。昔からの言い伝えです。けれど、でも、私たちは古来のことも地球のことも、本当は欠片も知らないのです。だから私たちの歌は本で読んだっきりの知識と想像で出来ています。凍える夜に薪を絶やしてはいけないように、ディーバの歌は宇宙船に鳴り続けます。地球は滅びて残ったのは声の枯れたカナリアだけでした。新しい星へ! 新しい星へ! 私たちの旅行を計画した人たちも大半は培養液の中で音楽を聴いています。
 私は体を揺らしながら唇を噛みながら、新しい音楽を作っています。やがてはこの船内で放送されて、うまくいけば人々の心を揺さぶってウインド・ワインダが巻き取ります。宇宙航行のためのエネルギーを集めている素晴らしきウインド・ワインダ。巨大な糸巻きの形をして、ディーバ以外の人間、つまり培養液の中の脳みそたちに、取り付けられています。
 私は窓の外を見上げ、今日もそこが暗い闇に沈んでいるのを確かめます。底抜けの宇宙。私たちの歌にあるような、光の世界は夢の中だけ。これが、現実、暗く苦しい音のない世界にただ一つ、歌に満たされた孤独の箱舟が浮かぶのです。
 私は急に寂しくなって、宇宙服を着て宇宙船の外に出ました。私を縛りつけていた宇宙船の疑似重力から解放されて、「なにもない」が包みます。自分の寂しさを確認したくて、宇宙服の頭を脱ぎました。
 途端に肺が真空を吸い込んで、声が枯れてゆく。なにもないが心を満たして、感情を凍らせる。歌がなければ人は凍るのです。けれど私は歌もうんざりでした。私は船内に引き戻されて、ディーバのため息を聞きました。
「これは、もう、助からないね」
 私の頭から脳みそが摘出されて、培養液の中に落とされます。音楽が流れて、心に残された最後の感情を引き出して、ウインド・ワインダが巻き取ります。
 ゆっくりと私が体から引き出らされて、燃やされていく様を、夢うつつながらに感じていました。
 すべて、私のせいです。
・本を読む人々

 旅人が道を歩いていると、大きな木を取り囲むようにして、真っ黒な服を着た人々が立っていました。木は反対側の人が見えなくなるくらい太い幹をしていましたので、旅人はぐるっと回って何人いるのかを数えました。
 人々は全部で十一人で、そのすべてが灰色のカバ―をかけた何かの本を読んでいるところでした。
「そこのかた、一つお伺いしますが、皆さん集まって何をしているのでしょうか?」
 旅人は一番近い人に声をかけました。声をかけられた人はすぐに本を閉じて、期待のこもったような眼差しで旅人の方を向きます。けれど、その視線はすぐに落胆に代わりました。
「あなたは、私たちの待っている人じゃない。今、本を読んでいるんだ。邪魔をしないでくれ」
「そうおっしゃらず。私があなた方の役に立てるかもしれないではありませんか」
 本を読んでいた人は悲しげに首を振りました。ですが、少ししてからため息をつき、旅人の方を向きます。
「あなたが私たちの役に立つことはないと思う。けれど、私たちのことを誰かに伝えておくことは良いことかもしれない」
 そして、ほかの本を読んでいる人たちの方を向いて、叫びました。
「おーい、みんな、本を閉じろ! 旅人さんと話をしよう!」
 木を取り囲んでいた人々は一斉に本を閉じて、旅人のもとに集まってきました。十一人の顔はどことなく似通っていて、まるで家族のようでした。
「私たちはある人を待っている」
「いつからか? そんなこと、忘れてしまうくらい昔からのことだ」
「どんなヒトかも忘れてしまった。けれど、会ったら必ずそうと分かるはずなんだ」
 人々は口々に話します。けれど、同時に二人が話すということはなく、どうやら話す順番が決まっているようでした。
「この木の下で待つという約束なんだ」
「だから、ずっと本を読んで待っている」
「フランスの大河小説でね、『チボー家の人々』というんだ」
「おや、フランスを知らない? 無理もない、遠い国だからね」
「チボー家の人々は十一巻、私たちも十一人だからね、丁度よかったんだ」
「読みかたかね、簡単だ、私が一巻を最初に読むとすると」
「私は二巻から読み始めるんだ」
「私は三巻から読み始めた。最後の巻から読み始める人もいるわけだがね、しょせん暇つぶしだ。誰も気にしない」
「一つの巻を読み終わったら、次に待っている人に渡す。そのころには自分の前の人が読み終わっているわけだから、それを読めばいい」
「時系列の順には読めるわけだ」
「だが、それも何周しただろうか」
「何回も同じ巻を読んだなぁ。待ち人は来ないが」
「なぁ、旅人さん。私たちの待っているのはあなたなんじゃないか?」
「おお、そうだ、こんな人だったような気もする」
「待ち人は男だったような気がする。この人もちょうど男じゃないか」
「旅をしていたような気もする」
「こんな風に、私どもの話を優しく聞いてくれたような気がする」
「なあ、あんた、私たちの待っている人なんじゃないか?」
「一緒に来てくれないか、来てくれたら、ようやくこの本を読むのを終われるかもしれないんだ」
 人々はいつの間にか旅人を取り囲んでいます。周囲を言葉が回ってゆきます。
 旅人はたまらず逃げ出しました。本を放り捨てて追いかけてきますが、旅慣れた旅人と木の下で本を読んでいただけの人々では体力の差は歴然でした。
 走りながら、旅人は呟きました。
「なるほど、『待ちぼうけの人々』ってわけか」

・独りぼっち

「きみ、独りぼっちになりたくないかい?」
 僕の夢の中でそんな声が聞こえて、寝ぼけた頭でうん、と言うと、次の瞬間に僕は独りぼっちになる。暗くて、けれど透明な空間に僕一人で、周りには誰も、本当に誰もいなくて、僕はその空間の中で眠る時の姿勢で、つまり膝を抱えてまあるくなったまま、ふよふよと漂っている。重力がないから上も下もわからなくて、目を開けても自分の手以外は見えないから目を開いていても意味がなくて、僕がなったのはそんな途方もない独りぼっちだ。
 はじめは寂しくて「おーい」なんて叫んでみたりもしたけれど、独りぼっちだから「こだま」だって帰ってこない。僕を独りぼっちにした声みたいなものも、返事をしない。頭の中を家族や友達たちのことがぐるぐる回るけれど、目を開いてもその人たちはどこにもいなくて、ただうすぼんやりとしたコーヒーゼリーみたいな暗闇だけがそこにあって、僕は泣きそうになるけれど涙は不思議と出てこない。僕から出てしまった涙は、その時から「僕以外」のものになってしまうから、僕しかいないこの空間では僕は涙を流せない。
 僕はだんだんと独りぼっちに慣れてきて、寂しさも不安も感じなくなる。昔は一緒だった人たちのことを考えなくなる。むしろ、僕しかいないこの空間で、絶対的な独りぼっちの中で、僕以外のことは必要なくて、ただ僕だけが居ればいいように思えてくる。こう考えるまでにたくさんの時間があって、たくさん怖かったけれど、僕は独りぼっちとの付き合い方を覚え始める。涙を流せない僕は、代わりに笑う。笑顔は誰かに向けてすることもあるけれど、笑うことは僕だけのためのものだ。体を動かさずに心だけ笑う、そんな笑い方を発見する。
 心が落ち着いてくると、僕は次第に内側から膨らんで、体がきれいな球状になる。手の指だったり、体だったり、そんなものは他の人がいるから必要だっただけで、独りぼっちになると意味がないことに僕は気づく。宇宙みたいな空間にただ浮かぶ。それ以外のことを僕は考えなくなって、僕の心の内側の隅から隅まできちんと独りぼっちになったから、僕の体は球体になる。
 空間の中の僕はとても安定している。幸せかそうでないかは、独りぼっちだから人と比べられなくて分からないけれど、安定していることだけは分かる。怖くはないし、悲しくもない。心が揺れなくなって、それは揺らしている振り子が誰からも力を加えられなくなると、だんだん揺れなくなってしまいにはぴたっと止まってしまう様子に似ている。これはちっとも悪いことじゃなくて、僕はこれを一番自然な姿だと思う。
 独りぼっちの僕は、独りぼっちであることの意味について考える。独りぼっちとは、僕しかいないこと。じゃあ、「僕」って何だろう? 「他人」って何だっけ? この世界には浮かぶ球体となった僕しかいなくて、「僕」と「それ以外」を区別する方法が一つもない。誰かと比べることを失った「僕」は「僕」ではなくなってしまうのだろうか? でも違う。僕は確かにここにいる。
 ようやく、僕は気づく。そして、確かめる。僕は球体となった僕の体を覆っている膜のようなものを、だんだんと周囲の世界に溶かしていく。僕は世界に抵抗なく溶け込んで、球体であったものから、世界に満ちた「僕」になる。僕と世界があったんじゃない。全部がすべて同じものだった。だってここは独りぼっちの世界なのだから。僕は独りぼっち。けれど僕は全てでもある。

 そして、僕は目覚める。

 目が覚めると僕は白い天井を見上げていて、必死な顔をした両親がベッドの横に座っている。腕からは何か管が伸びていて、後から聞いたところによると点滴というものらしい。重力を感じることは本当に久しぶりで、手足が必要なのも慣れない感触だと僕は思った。独りぼっちの空間で得た手足のある僕→球体の僕→世界に溶け込んだ僕という変化から僕は何かの気づきを得たような気がしていたけれど、その大切な独りぼっちは全部夢だったみたいに流れ去ってしまう。
 両親、というのが僕にとってどのような関係だったのか、言葉としては分かっているけれど心はそれについてこなくて、目の前で涙を流している男の人と女の人に感情がわいてこない。無節操な彼らの手が僕に近づいて僕の周囲に残っていたかもしれない独りぼっちをかき乱そうとするものだから僕は手を振り払ってしまう。はねのけた布団の下、記憶の情報からずいぶんと肉の落ちた自分の体と上下する胸が見えて、いつしか僕は泣いている。僕はため息をついて、「ごめん」と言う。両親が泣く。
 僕のリハビリには数週間を要する。眠っていた期間はたったの一週間らしいけれど、僕はまるで体の操作の仕方に言葉の使い方を一から十まで忘れてしまったかのようで、医者を困らせる。愛想のない階段をどうして上らなければいけないのかわからなくて、三十分間立ちつくしたりする。階段の上で手を振る家族も後ろから背中を押す看護師さんも、僕には何をしているのかが分からないのだ。集団の中にいても、独りぼっちの夢を見ていた時のことを思い出し、それを探し続けている。夜に眠るときだけが楽しみで、今度こそは目覚めないぞと思いながら眠りにつくのだけれど、もう二度と独りぼっちになることはない。ベッドの横にナースコールのボタンがあるのが嫌で取り除いてもらおうとするけれど、頑なに拒否される。
 それでも僕はだんだんと社会と馴染んでいくやり方を覚え始める。迷惑をかけている自覚はあったし、もう二度と僕は独りぼっちではいられないっていう、後ろ向きな確信があった。この体があるってだけで僕はもう独りぼっちではいられないのだから、諦めと共に僕は誰かとかかわっていく生き方を選ぶことになる。
 僕はまっとうに学校に通って、それなりに優等生になる。人とも会話をする。ほとんどは向こうから話しかけてくるけれど、必要な時は僕からも声をかけるようになる。誰も見ていないところで、手のひらを広げてゆっくりと動かしてみると、さらさらした空気の中に微粒子となって溶け込んだ独りぼっちがまだ残っているようだ。誰かの手を握ったりする手、ペンも教科書も持つようになった手だけれど、僕と周りの人たちの関係は窓ガラスを伝う水滴みたいに上滑りしている。
 それでも、僕の周りには何人かの人が常にいるようになる。僕が勉強を教えるからかもしれないし、僕の人とはちょっと「ずれた」会話の返答を楽しみにして寄ってくる人もいるようだ。ほとんどの人は気が向いたら会話をするだけの関係で、彼らは僕に対して何も求めないし、僕も彼らに対して何も求めない。何かを僕から得ようとすることを諦めたのだと思う。僕も、何も求めていない。その関係はとても気楽だと感じている。
 けれど、僕は独りぼっちだけではきっといられない。
「きみ、綺麗な顔だねぇ」
 目の前の席に座って話をしていた女の子の手が不意に僕の方に伸びてくるので僕はびっくりする。彼女の手は僕の周りの独りぼっちをかき乱すことなくすうっとこちらに近づいて、頬を少し触って離れてゆく。どう反応してよいのか分からず固まったまま目をぱちぱちさせていると彼女が笑って、
「ごめん、こういうの苦手だった?」
 と言う。僕は何も分からない。静電気が走ったわけでもないし、実害はない。独りぼっちが邪魔されるような予感が少し怖かったけれど、その予感がどこかへ消えてしまって、後には水面をちょんと触ったようなさざ波が残って、それもすぐに消えていった。だから、最後に残ったのはいつも通りの僕で、何も変わったところはない。
 別に嫌じゃなかった、と答えると彼女はふーん、と言ってその会話はそれで終わる。放課後の図書室は僕ら二人だけの空間で、この話を聞いている人は一人もいない。学校からの帰り道を途中まで一緒に帰って、コンビニの前の十字路で別れる。僕は一人になるけれど、独りじゃない。世界は誰かであふれていて、それははじめは疎ましかったけれどきっとそれが世界にとって普通のことなのだと思う。
 その日、僕はもう一度独りぼっちの夢を見る。

 僕で満たされた世界がそこにはあって、それ以外のものは一つとして存在しない。けれど僕は揺れている。波打っている。振動している。どこからか伝わった波が僕を揺らして、どこかへと去っていく。動いて、煌めいて、通り過ぎる。その波のことを僕は知っている。不安になる。けれど、その波は暖かくて、心地良い。
 この世界には僕しかいなくて、でも僕を揺らしているのは僕じゃない。そんな矛盾が僕の中に溶けていって、体の中で消化される。僕を揺らしているのは僕を触った彼女の指だ。待ち望んだ独りぼっちのはずなのに僕はあんまり嬉しくなくて、それは独りぼっちじゃない世界にずいぶんと慣れてしまったというのもあるけれど、独りぼっちだけが僕の欲しいものではなくなってきているということなのだと思う。僕はもう、純粋な独りぼっち、透明な僕だけの世界にいるわけじゃなくて、それは成長かもしれないし、退化かもしれない。とにかく世界っていうのは子供の方が純粋で、僕はもう子供じゃない。
「ごめんなさい。でも、もう、独りぼっちじゃなくても大丈夫です」
 僕はこの世界を作った誰かに向けて話しかける。一番最初に、僕に声をかけた誰かに向けて。
「君は、それを選ぶんだね」
 返事が来て、僕は目覚める。

 ベッドの横の時計はすでに午後になっていて、いつか見たような両親の心配そうな顔と、駆け付けてきてくれたのか、かかりつけのお医者さんの顔が目に入る。また両親が泣くのを今度は一人ずつ抱きしめて、僕は「行かなくちゃ」と言う。人を部屋から追い出して、制服に着替える。
「僕はもう、大丈夫です」
 そうして僕は学校へ行く。走って、バスに乗って、また走る。授業はもう終わっている時間だから、僕は放課後の図書室に行く。彼女に会う。
「君は来るような気がしていたよ」
 彼女はそう言って笑って、僕は彼女の手を取る。彼女の手はひんやりと冷えていて、僕の手はきっと彼女にとっては温かく感じるだろう。それは熱の交換で、僕という器に閉じ込められた熱が、彼女という器に流れていくということだ。僕は独りぼっちだった。独りぼっちの世界っていう枠を作ってその中に閉じこもっていた。けれどその世界っていう枠の外側には他の人の入っている世界があることを、彼女に触れた僕は知る。二つの水滴みたいな二人の世界は、だんだんと近づいて、接触して、混ざり合う。きっと、誰もがそう。誰もが誰かと少しずつ世界を混ぜ合わせていて、知らないうちに境界があいまいになっている。そうして地球っていう一番大きな世界の中で、昔は自分だったものが分布している。
「どうしたの?」
「さあ......」
 僕は手を離す。周りの人に対して作っていた壁を、取り払っても良いな、と思う。彼女に対しても、そのほかの友人たちに対しても。僕の心は熱中症になったみたいにぐにゃぐにゃしていて、彼女が少し僕を抱きしめるだけで、簡単に世界が取り込まれてしまいそうだ。けれど彼女はそれをしない。僕の心を覆う独りぼっちは、それに彼女の独りぼっちだって、僕らの間の大事な潤滑剤だって知っているから。
 代わりに僕らは並んで帰る。帰り道にある公園で名残惜し気に会話をして、十字路で別れる。
 家に帰るまでの一人の道、僕は心の中に残った彼女の欠片の感触を確かめながら歩く。それは、また会いましょうねの声だったり、触れた指先が起こした波の残響だったりする。独りじゃないことの意味を、僕はようやく理解する。

あとがき(長文)―万華鏡落下―

 今回は試験的に長々とあとがきを書いてみます。作品の成立にいたる経緯、書きながら考えたこと、などです。
 本文の内容に踏み込んでいるので、本文を読んでから読むことをお勧めします。
「白内十色の新境地!」って、本に帯があるとしたら書かれるような作品を作ろう、と思っている頭の部分がありまして、今回も少しだけ新境地で少しだけいつも通りな作品群だと思います。
 以下、それぞれの作品についてです。

・満月鏡
 どうやって書いたのか自分でも分からない作品です。傑作だと思っています。再びこの作品のようなものを作ろうとしたのですが、なかなかうまくいきません。不思議なものに理由を付けずに「不思議ですね」と読者にそのままお出ししたところが、そしてそれが本文の世界観とマッチしているところが凄い話だと自分でも思います。文ペンツイッターの新入生歓迎企画のために投稿した作品でしたがあまりに出来が良いのでさわらびにも投稿しました。感情の複雑さと、月の持つ鏡としての性質についての話です。

・賢い鶏
 ごく少数だと思いますが、白内十色の短編を楽しみにして変な期待をしながら読んだかもしれない人に対して一発パンチを食らわせてやろうとのコンセプトで書きました。最後の一言を言いたいだけってやつです。

・ウインド・ワインダ
 いくつかの音楽に影響を受けながら作った作品です。一ページ小説ですね。よくわからないものが視界の端を通り過ぎたな、くらいの遭遇感を与えられたら、とりあえずは良いかなと思います。孤独な話です。エネルギーの取り出し方は、水を沸かしてタービンを回しています。これは冗談です。

・本を読む人々
 旅人が出てきた時点で察した人もいたのではないでしょうか。「賢い鶏」の系列の話です。本当はこの話たちは「明後日の旅」と題してこれらだけでさわらびに投稿しようと思っていました。そんなに量が作れなかったので今回は普通の話に混ぜ込んでお届けしています。この話の問題点は「チボー家の人々」がどれだけ人に知られているか、笑いどころだと分かってもらえるか、というところにあります。うちの父親は笑ってくれました。

・独りぼっち
 書いているうちに何が書きたかったのかを自分で理解した小説です。「満月鏡」が自分の中で傑作だという話があるのですが、それに準ずるものを作ろう、とのコンセプトで生み出されました。一部の不思議は今回もそのままお出ししています。ある意味、「満月鏡」はかなりいい子ちゃんな小説です。今までの白内十色作品にありがちだった心のどろどろとした暗さを排した綺麗な作品となっています。「独りぼっち」はその意味でどろどろとは言わないまでもとろとろしていますね。話の内容としては、自他の境界をきちんとしましょう、って話の逆側です。最後に女の子を殺した方が後味悪くて良いんじゃないかって欲求があったのですが、サプライズニンジャ理論になりそうなので止めました。



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