一ページ小説

ビガレ



 マグロで言うところのトロ。野球で言うところのバッティングセンター。ピノのアソートパックで言うところのアーモンド味。
 小説を一ページだけ書くということは、そういう並びにある。
 何か伝えたかったり描きたかったりするものはあるのだけれど、長編を書くほどの体力と構想は無いし、かと言って三十一文字では物足りない。
 それで、「小説」の(個人的に思う)美味しい部分だけを味わおうとする、卑しいともされかねない行為が、小説を一ページだけ書くということである。
 チープな電球で橙色に照らされた洗面台の前で、眠っているような起きているような目で歯を磨く。
 その時ふと、「あ、これ小説っぽいな」と思う。特に根拠はない。ただ何となく、そう思った。
 より小説っぽくするために、ベランダに出てみる。朝焼けと呼ぶにはもう太陽が昇り過ぎていて、どちらかと言うと洗濯日和だ。
 うがいを吐き出す場所に困って、結局小走りで洗面台に戻る。
 口をすすぎ、デスクの前に座り、PCを立ち上げる。
 少し考え、キーボードを打ち込む。また少し考えて、また打ち込む。途中席を立ち、コーヒーを淹れ、もう一度考え直して、さらに打ち込んだ。
 時間にして、約一時間半。たったWord一ページの小説、とも呼べるか分からない代物が出来上がった。
 誰に見せるわけでもない。過去に完成させたものも含め、PCのフォルダにしまってそのままにしてある。ほぼ完全なる自己満足の産物である。
 コーヒーを飲み干して、さっき歯を磨いたばかりであったことを今更になって思い出し、ちょっと後悔して、シンクにカップを置く。
 日差しはさらに勢いを増し、カーテンを通り抜けて部屋の中まで入り込んできていた。
 自分の頭の中に溢れる何かをほんの少しの労力で言語化し、最小限のカタルシスを得る。そうすることで自己表現欲求を効率よく消化させられている気分になれるのだ。
 ラジオ感覚で流していたYouTubeが突然止まった。最近部屋のWi-fiの調子が悪い。これも一ページの小説にしてやろうか。
 もし書くことに困ったら、こんな風に文字数を稼げばよい。
散歩

 散歩していたら、鹿に会った。
 イヤホンからは数分遅れの『オードリーのオールナイトニッポン』が流れていた。
 田舎なので「鹿を見た」という話はよく聞くが、ここまでがっつり目にしたのは初めてだ。鹿は数秒僕と目を合わせた後、ふいと向きを変え優雅に歩き始めた。
 何だか分からないがムキになった僕は、鹿の後を追うことにした。鹿がゆっくり歩けば僕もゆっくり歩き、鹿が走れば僕も走った。
 田んぼ、神社、田んぼ、河川敷、城跡、また田んぼ。向こう岸の河川敷、利用者に比べて駐車場が広すぎるコンビニ、等間隔に置かれた街灯。
 『オードリーのオールナイトニッポン』が終了したので、イヤホンを外す。
 辺りは余りにも静かだった。あるのは、鹿の足音と僕のナイロンジャケットが擦れる音だけだ。
 急に鹿が立ち止まり、こちらを振り返った。先程とは違い、こちらの顔色を窺うような目をしている、気がする。
「何だよ、早く歩けよ」
 ポケットに手を突っ込んで呟いた。鹿は歩を進めず、ゆっくり辺りを見回した。僕もそれに倣うように首を捻る。
 商店街だ。昼間の人が行き交い賑やかなそれではなく、街灯があってようやく輪郭を視認できるような、薄暗い商店街。足跡やシャッターから、明るかった頃の残響が聞こえないでもない。
 突然、鹿が走り出した。僕もポケットから手を出して慌てて駆け出す。
 鹿の走る姿は、上機嫌にスキップしているように見えた。灰色のシャッター街から、跳ねて、そのまま羽根を持って飛んで行ってしまいそうな。
 どうか僕を背に乗せて、誰も僕を知らないどこか遠くへ連れて行ってくれ。そう願った。
 気付くと、僕たちは商店街の出口に着いていた。空は白んでいる。
「そんな簡単な話じゃないんだよな」
 僕がそう言って鹿の方を向くと、鹿はいつの間にかいなくなっていた。果たして僕の見間違いだったのだろうか。
 帰り道の途中で早朝から営業している蕎麦屋を見つけたので立ち寄り、夜鳴き蕎麦を食べた。人生で初めて食べた夜鳴き蕎麦は想像していた味とは違って、僕は少しがっかりした。
アンダー・コンストラクション

 部屋の窓から見える国道の工事が終わらない。大学に通うときに迂回しなくてはならないので、正直煩わしい。誰もいない夜中に見たら、異様に凸凹した表面が気持ち悪くて不気味だった。
 不気味と言えば、先日、高校の同級生から「今度BBQしない?」という誘いのLINEが来た。「バーベキュー」ではなく「BBQ」と書いてあった。
 
 学校が社会組織の縮図であるとは、実に的を射ていると思う。
 そしてそれに付け加えるとすれば、学校は社会に比べて規模が小さいだけに、組織としての特徴も強く現れやすいということである。
 高校生の私の目からは、私のクラスには「順番」が明確にあるように見えた。それは、先生に気に入られる順であったり、他のクラスの教室に気兼ねなく入って行ける順であったり、体育祭や文化祭を楽しんで良い順であったりした。
 その「順番」を、さらに三つか四つに分けた「階層」も多分あった。お弁当を、教室で食べる、教室以外の場所で食べる、普段は食事をしないような場所で食べる。
 今回のLINEは、そういう「順番」も「階層」も「上」の人からのものだった。私にはこれがとても不気味だった。
 私は数日間悩んだ末に、丁重にお断りの連絡をした。相手のメッセージに「既読」をつけて自分のメッセージを送信するまでの時間は、息が詰まりそうな思いだった。すると、五分も経たないうちに返信が来た。
「なんでー? ぜったい楽しいよー?」
「前にやったときの写真おくるねー」
 「既読」をつけないようにメッセージを確認すると、男女十人ほどが全員笑顔で写っている自撮り写真が添付されていた。
 違うんだ。楽しいことは分かっている。ただ、あなたたちが笑ったり、お洒落な短パンを履いたり、男女で腕を絡ませていたり、大きな声で仲間を揶揄したりしているのを見ると、心の奥底が痛むんだ。それが嫌なんだ。
 私は携帯を置いて、部屋を出た。工事はまだ終わっていない。よく見れば、一か所だけがまだ凸凹していて、それ以外の部分は既に綺麗に舗装されている。
 私はそれを見て、何故か涙を滲ませた。こんな工事、早く終わってほしいと思った。
 どちらが完成形かなど、誰にも分からないかもしれないのに。
麻雀

「ロン」
 雀荘のカレーライスは美味い。自分の捨て牌をロンされてアガられたときでも尚美味い。
「あ、」
 窓の外の人と目が合った。
「サイトウ君、何ボーっとしてるの、満貫、点棒払って」
「あ、すみません」
 三階にこの雀荘が入っているビルの、二階から四階までの窓を清掃するバイトがあって、俺はその人、その人たちとよく目が合う。
「あの二人、夫婦なんだって」
 右隣のミヤタさんが言う。「あの二人」とは、俺が言った「その人たち」のことだ。
「定年退職して、二人して同じこと始めたんでしょ」
 左隣のイノウエさんが言う。
 窓の外の二人は、ゴンドラの中でワイパーで洗剤をのばしながら、時折ほほ笑み合っている。
 「よく目が合う」と言ったが、実際のところは俺が一方的に見続けていて、結果的に時々目が合っていると言った方が正しい。二人の仲睦まじい様子に、俺はいつも何故か見入ってしまう。
「あれ、どう思う?」
 正面のノグチさんが言う。
「幸せそうだけどね」
 ミヤタさんとイノウエさんが口を揃える。
「まあね」
 皆の会話を聞きながら、「幸せ」とは何だろう、と思った。
 確かに俺の目にも二人は幸せそうに映っている。しかしガラスの板たった一枚を隔てたこちらとあちらでは、一体何が違うと言うのだろう。
 手を止めて話しているうちに、ゴンドラは上昇し、老夫婦は見えなくなってしまった。
「よし、巻き返そう」
「サイトウ君もうかうかしてられないよ」
「あ、はい」
 いつもの人達と、いつもの場所で、麻雀を打ってカレーライスを頬張る。俺は多分これを「幸せ」と呼ぶこともできる。
 でも、あの老夫婦をつい眺めてしまうということは、どういうことなんだろう。
 手に入れられる「幸せ」と、そうでない「幸せ」の折り合いをつけなければならないのだろうか。あ、
「ロン」
春と指輪

 コンクールに提出する風景画の題材を選定するために、スマホで撮影した写真のフォルダを見返していた。すると、異なる二つの写真に同じ人物が写っていることに気付いた。その人は、長く艶のある髪を一つに束ねていて、切れ長の目とすっきり通った鼻筋が印象的だった。それが私とその人の、あくまで一方的な出会いだった。
 再びその人を見かけたのは、数週間後のことだった。私の通う大学の食堂で鰆の西京焼きを食べていた。学生、なのかなと思った。私はその人を勝手に「鰆さん」と名付けた。それから何度か、大学構内や時々それ以外の場所で鰆さんを目にした。
 私には画の題材を探す癖があって、その延長線上で他人の動きや特徴をよく記憶している。鰆さんもその例に漏れなかった。
 鰆さんは、箸の持ち方が綺麗だった。シルバーアクセサリーをいっぱい付けていた。くしゃみは必ず二回以上した。自転車は大体立ち漕ぎしていた。緑色のカーディガンの袖のほつれをずっと気にしていた。猫が好きらしかった。King Gnuのライブスウェットを着ていた(これは私も同じものを持っていたから分かった)。
 傍から見ているうちに、私は鰆さんに惹かれていった。本名も性別も年齢も分からないけど、例えば私の画を見せたり好きな音楽を教え合ったり喫茶店に行ったりしたいと思った。
 ある時、大学の食堂の出入口で指輪が落ちているのを見つけた。見覚えがあった。鰆さんのものだった。私はこれを拾ったとき、話す理由ができたと思った。会いたいと思った。
 これまでは偶然見かけていたのを、常に意識の隅に置くようになり、ついに行く予定の無かった場所にわざわざ赴くようになった。
 そして、私は鰆さんを見つけた。大学へ向かう満員電車の中だった。鰆さんは少し離れたドア付近に立っていて、身動きの取れないために近づくことはできなかったが、どうせ同じところで降りるだろうからと、私は大学の最寄り駅に到着するのを待った。カバンから指輪を取り出し、右手でぎゅっと握りしめていた。しばらくして電車が停車し、私は学生の波に押し流されながらホームに降り立つ。すぐさま顔を上げ、鰆さんを探した。しかし、鰆さんはいなかった。人の群れが去っても電車が発車しても、彼女の姿はそこには無かった。
 それからは、鰆さんを見ることは一切無くなった。指輪は家に飾っている。それは見るたびに、私をちょっとだけ後悔させる。
旅

 二人の間には、沈黙と鳩サブレーの紙袋があった。
 鎌倉から上る電車は適度に空いていて、座席を三人分取っていても咎められることは無い。
 車輛に響く振動音と他の乗客の話し声が聞こえる。
「楽しかった、ですか」
 横浜を過ぎた辺りでアキコが口を開いた。視線はどこか遠くに向けられたままだ。
「はい、自分、大仏とか初めて見て」
 俯いていたリカは顔をぱっと上げて、アキコを見て答えた。
「今日のことじゃなくて、夫の話です」
「あ、そっちか」
 再び沈黙が戻る。アキコがパキッと指の骨を鳴らした。
「でも家に帰るのしんどいって言ってましたよ」
 リカは今度はアキコを見なかった。反対にアキコがリカを振り返り、紙袋に手を掛けた。
「ごめんなさい調子乗りました、だから鳩サブレーは持ってかないでください。あ、ポッキーいりますか?」
 アキコは紙袋から手を離し、リカが差し出したポッキーを箱から引き抜いた。そして「お返しです」と言って、フリスクをリカの手の平にひと振りした。
「私、小さい頃からポッキーのチョコの部分を舐めとっちゃうんですよ、無意識で」リカが話し始める。「皆はそれを、はしたないからやめろって言うんですけど、唯一、二度味わえてお得だねって言ってくれたんですよ、それで好きになりました」
「そうですか」誰のことを指しているかは、当然アキコには明白だった。
 少しして、アキコもぼんやりと話を始めた。
「家具屋さんで、素敵なカーテンがあって」リカが耳を傾けているかは分からない。「これ、寝室にあったら朝起きるの楽しそうだなってやつ。でも、今のを取り外せないんです。背が小さくて届かないから。引っ越したときのままなんです。引っ越しのときは、まあ、居たし、やってもらったから。だから、カーテン売り切れる前に帰って来てくれないと困るんですよね」
 アキコは苦笑いを浮かべた。
「さっきの答えですけど、楽しかったです。それなりに」
「はあ、それなり」
 リカの返答に、アキコは苦笑の表情を強めた。
「どこ行っちゃったんですかね」
「まあ、少なくとも鎌倉にはいませんでしたね」
 許すとか許さないとかの関係ではない二人は、それから東京まで一言も話さなかった。
花火

 アイドルと打ち上げ花火は似ているなあ、と暗くした部屋で打ち上げ花火を見ながら思う。ウイスキーの入ったグラスで氷が揺れる。
 ネットニュースやスポーツ新聞の見出しは一切目に入れようとせず、本人の口から伝えられるのを待った。報道が出てから二日後、所属事務所から公式に推しの結婚が発表された。書面にて「結婚させていただきます」ではなく「結婚いたします」としたところに、彼の誠実さが出ていた。
 私は泣くまいと思いながら、しかしやっぱり泣いた。
 SNSでは様々な意見が散見された。純粋に祝福する者、そもそも恋愛禁止でなかったことを主張する者、何故か過去の言動から「匂わせ」を見つけ出そうとする者。それら全てに目を通し、憤ったり、項垂れたり、ぐうの音も出なくなったりして、結局最後はフォロワーの「おめでたいのは分かってるけど素直に喜べない」というツイートにいいねをし、泣くのだった。
 会社も休んだ。アイドルを好きになるまでは、好きなアイドルが結婚したくらいで学校や会社を休むなんてと思っていたが、この有様だ。自暴自棄の末の憂さ晴らしなどではない。推しの結婚、推しの生活に私の知らない誰かがいるということ、推しの「ただいま」に「おかえり」と応えられる誰かがいるということについて考えていたら、いつの間にか休んでしまっているのだった。まあ、これは我が身に降りかかってみなければ分からないことだろうから、共感されなくても仕方ない。
 花火が笛のような音を上げて夜空を上っていく。
 あの頃は楽しかった、と思う。
 CDやDVDが出れば特典のために複数枚購入した。ライブの当落に一喜一憂した。雑誌のインタビューの内容はなるべく覚えるようにした。出演するテレビ番組は必ず録画し共演者の反応の良いシーンを何度も見返した。それらが当たり前のように一部として浸透している生活が、とても楽しくて幸せだった。
 思い出の後先を考えたら寂しすぎると、誰かが言っていた。落ちることや凋むことなどまるで存在しないかのように日々を過ごしていた。
 どん、という重低音を響かせた頃には、花火は既にぱらぱらと散っていた。いやに低い位置だった。ウイスキーを口元に傾ける。
 翌日のニュースで、昨晩の花火の火種によってけが人が出たことが報じられていた。それを見たとき、私は何故かすっきりとした気持ちになった。そして、推しのグッズやCDをその日のうちに全て捨てた。
正しい論

「おーい、野村、お前男なんやからそれくらい頑張れや」
 言ってしまってから、「まずい」と省みた。
 体育祭が閉幕し、実行委員と応援団員は残って運動場の後片付けをさせられている。教員でまだこの場に残っているのは、気付けば自分だけだった。
 折り畳み式テーブルを一人で重そうに抱えている生徒に近寄る。
「ごめん、俺も手伝うわ。これは流石にしんどいよな」
 生徒の「あざーす」という声に、俺の「男やけえとかやないよな」という言い訳はかき消された。
「野村ぁ、何で新ちゃんと二人なんよぉ、デキとんかぁ」遠くの方から男子生徒の群れが叫んでいる。
「誰がゲイじゃ、ぼけ」野村は笑っていた。
「山田、新ちゃんじゃなくて新藤先生やろ、あとそういう人を揶揄うな」
 群れの方からも笑い声がして、真ん中から「さーせん」と声が跳ねた。
 何の変哲もない光景だった。ぼーっとしていると見逃してしまいそうになるような、午後五時だった。

 普段は寒いとさえ感じる冷房の風が、運動場帰りの肌には心地よかった。体育祭の反省会を一通り終え、職員は疲労と安堵を表情に浮かべている。
「新藤先生は、彼女とかおらんのですか?」
 突然向かいの机の高橋先生に話しかけられ、面食らう。「彼女とか」に「彼女」以外の誰かは含まれないのだろうかと考えて、少し間を置いて答える。
「いやあ、全然ですね」
 引きつったような下手な笑顔で、何とか返す。
「じゃあ、今日少しご飯でもどうですか? 男二人ですけど」高橋先生の笑顔は、いつも溌溂としている。
「ありがとうございます、でも今日はやめときます」
 俺の居たたまれない気持ちは、教頭の「綿貫さん、コーヒーある?」という声に重なって有耶無耶になった。綿貫さんとは、年中カーディガンを手放さない事務員さんのことで、教頭にそう言われる前から給湯室でコーヒーを用意していた。教頭は男で、綿貫さんは女だ。
 職員室に流れる夕方のニュース番組の画面右上には、『多様性を考える時代』というテロップが映る。インタビューを受けている専門家は、あくまで持論だと前置きしながら、皆それを正論だと信じて疑わないような口ぶりで「多様性」について語っている。
 現実は、いつだって正論の届かない場所にある。俺は、誰の何のために「多様性」を教えているのだろう。


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