命の楽園

片栗粉


 
 樹海の奥の方では、人はおろか動物の気配も全くせず、風に揺れた枝葉の音だけが響いている。日もそろそろ沈む時刻で、夏真っ盛りだけれども、僕は少し肌寒く感じられた。死ぬことに躊躇いはないし、この世に未練もない。それでも、少し怖い。なんといったって、自分自身とはいえ人を殺すのだから。
 僕は木に登って、太めの枝に腰掛けた。顔の高さにある近くの枝にロープをくくり付け、ロープのもう一方の端で適当な大きさの輪を結んだ。そして、三回深呼吸してから輪に首を通した。ロープの輪から見える景色はなんだか、さっきまで見ていた景色とは違うように見えた。さあ、今座っている枝から飛び降りれば、この世からはおさらばできる。ロープをくくり付けている枝が折れないか、少し心配になってきたが、心の準備が出来上がっている今のうちに終わらせたかった。さようなら、世界。僕は、枝から降りた。
 
 どれくらい気を失っていたのだろう。何秒か、何分か、何時間か。周りでブンブンと羽音が響いているのに気づき、僕は目を開けた。もう辺り一面真っ暗で、何も見えない。
「失敗か」
 虚無感が心に広がっていくが、とりあえず、今の状況を把握しよう。空には月が出ているようで、しばらくすると暗闇にも目が慣れてきた。すると、どういうことだろう。自分の目の前に、自分がいることに気が付いた。一体どういうことだろうか。あまりの出来事に、うまく頭が動かない。もう一人の僕は、枝からロープでぶら下がっていて、何匹かのハエが周りを飛び交っている。顔は青白くて、精気が一切感じられない。状況を把握した僕は、ある一つの結論にたどり着いた。普通に考えたらありえないことだが、この状況を説明するにはこう考えるしかない。僕は、幽霊になったのだ。

 幽霊になるという、全く想定していなかったことが起きたわけだが、僕はなぜだか冷静にいられることができた。幽霊となった方の自分自身の身体をよく見てみると、身体は半透明で、向こう側が透けて見える。それに、幽霊だけど足はしっかり指先まで付いているようだ。でも、周りの草や地面を触ろうとしても、身体が貫通してしまう。さて、これからどうしようか。せっかく幽霊になったのだから、空でも飛んでみようか。地面は蹴れないけども、自分の身体が浮かぶようなイメージをしたら、身体が上へと浮かんでいった。
 「あれ」
 しかし、うまくいかない。まるで体重がないようにふわっと浮き上がったものの、三メートルくらい浮き上がると、まるで磁石で引き寄せられるように、元にいた位置に戻ってしまった。何回やってもそれは同じで、重力とはまた違った感覚に、僕は戸惑った。ならば、上が駄目なら横に動こう。そう考えて動いてみても、やはり、一定の距離を動くと元の場所に引っ張られてしまう。どうやら、僕はこの場所に留められているようだ。
 ここから動けないとなると、これからずっと、ここにいるままなのか。腕を組みながら思案を続けていると、不意に、誰かの声が聞こえてきた。突然の声にびっくりして周りを見渡してみても、人の気配はせず、ハエが群がる自分の死体が目の前にぶら下がっているだけである。もう一度耳を澄ましてみると、確かに声が聞こえる。
「ねぇ」
 それは、中年の女性のような声だった。そして、その声はどちらかというと、聞こえるというよりも、脳内に直接語りかけてくるようだった。誰もいないのに声がする。
「すみません、どちら様で? どうやら僕には、あなたが見えないようです」
もしかしたら自分みたいな幽霊が他にもいるのかと思い、僕も声を出して尋ねてみた。
「あら、わからない? あなたの目の前を飛んでいるのだけれども」
 目の前には、一匹のハエがぐるぐると回っていた。まさか、ハエが喋っているのか。
「もしかして......ハエ、ですか?」
「そうよ。やっとわかってくれたのね」 
声の主は嬉しそうに話した。ハエが喋るなんて信じられないが、そもそも僕は幽霊になっているのだ。ハエが喋りだしても、今更驚くようなことではないのかもしれない。
「ねぇあなた、人みたいだけどなんだか透けて見えるわ。あなた、本当に人なの?」
「いや、元々人だったんですけど、どうやら、今は幽霊になってしまったようです」
「まぁ、幽霊! 幽霊だなんて、わたし、初めて見たわ!」彼女は興奮しているようで、さっきよりも速く飛び回った。
「そうでしょうね。まさか自分が幽霊になるだなんて、僕もびっくりですよ」
「そうよね、不思議よね。でも、生きていればこういうことも起こるのね」
「僕は死んでいるんですけどね」
彼女は高い声で笑い、僕もつられて、少し笑った。
 笑いが止まってふたりの間に静寂が訪れたとき、僕は、た。
 「あ、これが元々のあなたなのね。わたし、さっき卵を産ませてもらったわ。他の子もいっぱい来ているようね」彼女は僕の視線に気が付いたようだ。
 もう一人の僕をよく見てみると、耳や目、服の折り目なんかに、白い卵が産みつけられていた。それは見ていてあまり気分が良い光景ではないが、なぜか、目を背けることはできず、見入ってしまう。身体の上を動き回るハエたちは、丁度良い産卵場所を見つけて卵を産むと、どこかへと飛び立っていくようだ。
「あなたももうじき、どこかへ行ってしまうのですか?」僕は彼女に尋ねた。
「そうね、最初はそのつもりだったけれども、ここにいようかしら。せっかく幽霊に会えたのだもの。それに、わたしももう、歳だから。じきに死んでしまうの。だったら最期まで、あなたと一緒にいたいわ」彼女は嬉しそうに話し、近くの草の葉にとまった。「そうだ、わたし、あなたの話が聞きたいわ。人ってどんなふうに生きるのかしら?」
「わかりました。お話ししましょう」
 どうせ、僕もここから動けないのだ。彼女がいつ死ぬかわからないが、しばらくの間の話し相手ができて安心した。

 一晩中話していたのだろう。次第に空が明るくなってきた。もう一人の僕に産みつけられた卵の量も、時間とともに増えていった。彼女との会話はとても楽しく、朝が来てもお構いなしに続いた。
 しかし、太陽が空の真上に来た頃、とある異変が起きた。僕が彼女に、コバエホイホイについて話していたとき、枝がきしむ音がした。僕が音に気が付いたときにはもう、僕の死体は地面の上に転がっていた。
「あら、枝が折れちゃったのね」彼女が言う。
「やっぱり、折れてしまったか」
どうやら、昨日の首を吊る前の予想が的中したようだ。枝はロープの結び目の近くで折れ、もう一人の僕と一緒に地面の上で転がっている。
「そういえば、なぜあなたはこんなところにいたのかしら? 何をしていたの?」
 僕は少し言葉に困ったが、正直に答えることにした。
「自分で死のうとしたのです」
「自分で? 人ってそんなことができるの?」彼女は驚いているようだった。「すごいわね。わたしたちハエには、そんなことはできないわ」
「そうでしょうね」
「あなたはなぜ死のうとしたの? 次は、あなたがどんな風に生きてきたか聞かせてくれるかしら?」
「もちろんです」喋り続けていても全く疲れを感じないようで、幽霊の身体というのも良いものだと思った。

 とはいえ話の話題は少しずつ減っていくもので、日が沈むころには、会話はだいぶゆっくりしたものとなっていった。そして、ハエの卵のうち、幼虫が孵化するものが現れた。孵化したての幼虫はまだ小さく、もう一人の僕の身体をせっせと食べ始めた。更に、身体の周りにはハエだけではなく、アリなんかも集まっていることに気が付いた。アリは、ハエの卵や幼虫、そして僕の身体をちぎってものまで巣に運んでいるようだ。
 夜中のあいだ、僕は話すことよりも、僕の死体を貪る虫たちを眺めることに夢中になってしまった。それでも彼女は、虫たちについて色んな事を僕に教えてくれた。

 また朝がやってきたときには、多くのハエの卵が孵化していた。死体を食べにシデムシという虫も集まり、更には集まってきた虫を食べに、ムカデやクモ、ハチなんかも集まってきた。
「すごいですね、まさか、こんな風になるなんて」
「そうよ。でもね、わたしたちの子供が大きくなったら、もっとすごいことになるのよ」
「へぇ、どんな感じになるんですか?」僕が尋ねてみても、彼女は「秘密よ。見てからのお楽しみ」と、もったいぶって教えてくれなかった。

 確かに、彼女の言う通りだった。次の日にはほぼ全てのハエの卵が孵化しており、そして日を重ねる毎にウジは脱皮して、大きくまるまると太っていった。僕が幽霊になってから一週間経つ頃には、ウジに埋もれて、僕の死体は見えなくなっていた。
 「うんうん、我が子が大きくなるのを見ると、うれしいものね」
彼女は優しくも、細い声で言った。彼女が話すには、そろそろ寿命が終わるらしい。
「お子さんが飛び立つところを見られると良いですね」
「どうかしら、その前には多分、わたしは死ぬわ」

 大きくなったウジは、次第に死体を食べるのをやめて、死体から離れていった。どうやら、蛹になるのに安全な場所を求めに行くらしい。彼女が死ぬ前に教えてくれた。彼女は死ぬ直前でも会話をやめようとしなかった。僕も、彼女が死ぬまで話し続けた。彼女が寂しくならないように。彼女が死ぬと、彼女の身体は風に吹かれて地面に落ち、それもアリがどこかへ運んでしまった。何にも触れられず、ここから動けない僕には、彼女が運ばれていくのを、ただ黙って見ることしかできなかった。悲しくはない。でも、少しだけ、寂しかった。

 幽霊になって一ヶ月となると、ウジはあらかた立ち去っていった。僕の死体はほとんど骨と靭帯だけになり、骸骨が服を着ているようだった。ハエだけでなく、アリや他の虫たちも、今はほとんどいない。いまいるのは、たしか、カツオブシムシだったか。僕は彼女の言葉を思い出した。彼女は、僕の死体がこの後どうなるのかを教えてくれていたのだ。
 彼女と交わした言葉を思い出すことで、何もない、空虚な時間を潰していた。今日もそんなことをしながらカツオブシムジを眺めていると、突然、草をかき分ける音が聞こえた。ハッとして周りを見渡すと、そこにはネズミがいた。ネズミもやはり、僕ではなくて僕の死体の方にしか興味がないみたいで、一心不乱に骨を齧り始めた。   
「あの、あなたは話せないのですか?」
 僕はネズミに聞いてみた。答えはどうやら、いいえのようだ。僕の声は届いていない。ネズミは一つも鳴かずに骨を齧り続けている。
 それから何回かネズミがやってきては、骨や靭帯を齧っては帰っていく日々が続いた。

 きちんと数えられてはいないが、これで大体二ヶ月は経った。僕の死体はだんだんと骨がバラバラになっていった。動物が死んだら、死体を栄養にして草花が周りを生い茂るものと思っていたが、そんなことはなく、むしろ逆だった。僕の死体が転がっていた場所だけ、何も生えていない。
 そんなある日、今度はキツネがやってきた。キツネもネズミみたいに骨を齧るのかと思って眺めていたら、キツネはおもむろに骨をくわえて、ゆっくりと立ち去ろうとした。
 「ちょっと、待ってください」
 僕は思わず声をあげてしまった。骨まで持って行かれたら、僕自身がいつか消えてしまうのではないかという感覚に襲われた。しかし、僕の声は、もちろんキツネには届かない。キツネはそのまま、一切振り向かずに去っていった。 
 キツネが見えなくなってから落ち着いて考えてみると、さっきの自分の感覚が不思議に思えた。このまま永遠にここに残り続けるよりも、いっそ消えてしまった方が良いではないか。死ぬ前の僕なら、絶対にそう考える。でも、今の僕には、自分が消えることが少し嫌なことに感じられた。 
 
 あれからどれくらい経っただろう。キツネやカラスに少しずつ骨を持って行かれ、今ではもう、頭蓋骨と細かい骨しか残っていない。自分が消えていくような感覚はなく、この前の心配は杞憂だったと思い始めた。ここを訪れる虫や獣は減り、たまに羽虫が飛んで通り過ぎるだけだ。そして、冬がやってきた。冬は、静かだ。
 僕は、死んだけれども、幽霊として生き続けている。ただ何も考えずに、時間が過ぎていくのを感じている。 
でもたまに、彼女のことを思い出す。彼女と交わした言葉を。

 寒い冬が終わり、草木が花を咲かせ始める季節。僕はただ、足元の地面を眺め続けていた。もちろん、そんなことをしても楽しくはない。でも、退屈だと思うことはない。そもそも、何も感じない。 
 ただ何もせず、まるで眠っているような状態でいると、不意に、誰かの声が聞こえたような気がした。
 「──おい」
 僕は気のせいだと思った。
 「おい」
  でもやっぱり、声が聴こえる気がする。顔をあげてみると、そこには一匹のタヌキがいた。
 「やっと気付いたか。おめぇさん、何者だ? 人みたいな形してっけど、透けてるじゃねぇか」タヌキは中年男性みたいな声と口調だった。
 「はい、僕は元々人だったんですけが、今は幽霊です」
 タヌキは怪訝そうな雰囲気を醸し出した。
 僕は思わず、口角が上がってしまった。
 「あの、僕とお話ししませんか? 僕、あなたについて色々と聞きたいです」
 突如、強くて暖かい風が吹いた。春の訪れだ。
 


さわらび129へ戻る
さわらびへ戻る
戻る