二十四歳の僕、と恥の多い生涯

スニラ


 僕は文学青年である。そして文学少年であった。僕が「俺」として会社の同僚と話すときでも、「私」として契約を成立するさせたときでも満たされず寄り添われない感情は、いつも本の世界が受け入れてくれる。だから僕のこの二十年間は、一に本、二にも本で三四も本。五くらいはラーメンでできていると言っても過言ではない。(来世亭の肉麺は世界で一番うまい。鶏ガラをふんだんに使った醤油ベースのその黄金はスープより汁と表現するのが適しているだろう。その上をチャーシューと呼ばれる分厚い角煮が鉢の表面をぴっちり埋める。僕はそれにプラス百円でうずら五個を乗せるので、カウンターから鉢を目の前に運ぶ間に必ず少し手にかかる。そこがいい。その雑なものを雑に食べるのが、いい。僕は文学青年であるので、見た目を少し気にする。だから、家の近くとはいえ頻繁には行かないしニンニクも控えめ。僕は気にしいなのだ。)そう、僕は気にしいのカッコつけだ。だからこそ文豪少年になれた節まである。僕は僕以外とは全く異なっていると思っていたし、その異なるの内には優れた性質であるという意味合いも含んでいた。
 文学を面白いと思っている。事実、本の世界は僕を楽しませたし、僕はそれに好意的で、のめり込んだ。家の本棚にはたくさんの本が並んだし、好きな作家も幾人か見つけた。美しいものの全てはこの世界にあるのではないかと思わせる巧緻な言葉も、何度生まれ変わっても味わえない彩りに満ちた人生を追体験するような物語も本当に素晴らしいと二十四年間思い続けている。それも格好をつけたお前の脳みそが余計に良く見せているだけだとは言わないでほしい。僕は文学青年である。文学に母へ向けるのと同質の愛着がある。愛はスパイスだ。美味しい文章をより美味しくさせる。出会いの真実がどうであったであれ、文学少年の僕が文学青年になったのだ。ただのカッコつけなだけでないと少なくとも僕は疑いなくそう思っている。
 さてそんな文学少年は、今よりずっと時間を持て余していた。そしてそれは当然の使い道をされた。好き嫌いなくあるもの全ての世界に飛び込んでみた。魔法界、人殺しだらけの国、妖怪の村、まるで人間のような動物社会。その中に、おそらく僕のような健康で文化的な最低限度の社会に属する文学少年少女皆が手に取る読み物もあった。僕の学校では新潮文庫、岩波文庫の幼稚な子供用ではないと静かに注意するような「大人らしい」カバーで読めとばかりに図書室のスター席に置かれていた。図書カードには六の数字と女の子の名前が何人かが記入されているだけで、僕の名前を付け加えて図書委員に渡すのが少し誇らしかった。しかし、僕は正直なので言うが、その類がたいてい好きにはなれなかった。僕はなよなよと自分の心のうちで悩み、挙句人や自分を殺したり恥の多い生涯だと言ってみたりするのが大嫌いだった。決して僕はそういう作者が嫌いなのではない、そういう登場人物が嫌いなのだ。会ったことも見たこともない、存在すらもしない場合もある彼彼女らの、特売セールのように書き叩かれるその内面を読んで好きやら嫌いやらと僕でも言えるのだから、作者たちの力量には敬服する。だからこそなのかもしれない。もはや知り合いのような登場人物が自分に酔いしれるような態度や心情が恥ずかしかった。
 今思えば僕は書かれるそれらに自分と何か近しいものを感じ取っていたのだろう。言い当てられた気がしたのだ。そして体に満ちた若く(二十四歳の僕もまだ若いのだが、それよりももっと未熟な)根拠のない自信はそれになるまいと反抗するように自論を展開する。
「努力をすれば評価はついてくるし、自虐する慰めで気持ちよくなっている暇があるならば湧き上がる衝動のままに挑戦し、評価を勝ち取ればいいのだ。」
 そして証明した。なんでもやった、やってみた。自分が優れていると明らかにしてやりたかった。だから目立てるような機会があれば、この機会を逃すものかと最善を尽くしたし、相応の評価として文学少年は優良生徒というお墨付きをいただいた。昔から国語の成績だけは良く、作文コンクール入賞者の常連だった。何度体育館の壇上に上がって、興味の無い風にリビングテーブルに放ったことか。嬉しく思っているくせに当然のことだと、振る舞っているうちに、気づけばそうでない僕など僕でないと信じ込んだ。いつか絶対に作家になると思った。口で「夢は公務員」と世の中の知ったかをしながら、どこかで、出来の悪いと思っていた作品さえも入賞するあの作文コンクールのように、なんだかんだ評価されると思っていた。これが良くなかった、現実は小説よりも鬼なりだ。
 僕が少年と青年の間であった頃、自分の考えるように動かない頭と体を僕は持っているのだと自覚し焦った。根拠の無い自信は根拠がないのに気づいてしまうと、すっかり力を失うのだ。凡であるという誤魔化しようのない事実が嫌と言うほどはっきりとした。僕はどうしても他人にそれがバレたくなかった。だから人目がある時いつも本を読んでるふりをして、無いときは気まぐれに焦って勉強してみたり無気力にニコニコ動画を漁ってみたり、たまにちゃんと読もうと開いた好きな本は文字が上滑りして内容が入って来なかった。僕にとって文学は余裕があるように飾る道具になった。ただのカッコつけの不甲斐なしである。
 頭うちの僕は大卒の肩書きを欲して名無しの大学に通ったが、なんとなく馴染めずに留年になったのを機に辞めて、気づけば介護の仕事につき、週一日の全休を怠惰に過ごし、日々の大半に漂うぬるい空気を吸って生きている。なんだか今なら分かるのだ。あの頃嫌った登場人物の心情が、少しだけ。僕のそばにそっと諦めが寄り添っている。けれど決して、絶望と言うほど悪い物でもなく、むしろそれがそばにいることに安心もしている。消化試合のような生活の延長線に沿って、いつか途切れるだけだと思えることが、どうして心が凪ぐのだろうか。詩的なことを考える余裕が生まれた時、僕は文学青年に戻った。そして燃え落ちた青春時代というのの残りカスを傍観しながら、アメリカンスピリットのターコイズに火をつけた。二十歳の誕生日にカッコつけたくて一人でコンビニで買ってから、すっかり中毒(になりたくて吸い始めたが、実際なってみて良い事はさほどない)の僕も、小さな無知で愚かな評価してもらいたがりの少年のことも恥ずかしく思う。そして今でもそんなことを恥いている青年のことも恥ずかしい。少年の頃の思い出よと懐かしむこともできず、僕はそれでも文学少年の埃被りのプライドを大事に抱えているのだ。全く僕の人生は恥が多く、これからも尽きることがない。
 
 僕は文学青年である。人よりは多くの文学を嗜んでいると思っている。ふと、僕も筆をとってみようと思い立って私小説なるものを書いてみた。なんとなく今ならいいものが書けるのでは無いかと思ったが、物を書く自体随分なブランクがあるし、思い返せば作品として完成させたのは感想文ぐらいのもので......。
 ......うん、どうだろう、内容が無いようだ。......洒落も寒いね。休憩だ。休憩を取ろう。休憩。
 僕は部屋を飛び出して黄色い看板の来世亭へ行く。幸い待たずに席につき、タオルバンダナの店主に食券を渡す。
「肉麺、うずら追いね」
店主が食券も見ずに焼けた声で言うのに被せて僕は言った。
「あ、ニンニクマシマシで」

 



さわらび129へ戻る
さわらびへ戻る
戻る