ウェスリーン王国英雄記④

きなこもち



~あらすじ~
 双子の兄弟であるジェームズとジャックは、兄であるギルバートと三人で平凡に暮らしていたが、ギルバートが魔法使いであることが見つかり、王都で暮らすことになる。ギルバートがアルフィーと共に秘密裏にクーデターを企んでいる最中、ジェームズが魔法使いであることが発覚する。ジェームズとジャックは各々覚悟を決める。
 そしてクーデターは成功し、竜に認められた英雄王が誕生した。
 新王の座についたジェームズは国政を担い、幼いながらにその存在を他国に知らしめることになる。ギルバートは宰相としてジェームズを補佐し、ジャックは王弟として貴族の通う学校に再び通っているが......。

~主たる登場人物~
・ジェームズ
 魔法使い。赤き竜が使い魔。青色の瞳の少年。
・ジャック
 魔法使い。ユニコーンが使い魔。水色の瞳の少年。
・ギルバート
 ジェームズとジャックの兄。王国の魔法使いが所属する直属軍のトップである魔導師。兎、鷹、ペガサスが使い魔。青色の瞳の青年。
・アルフィー
 ギルバートが信を置く人物。直属軍の副魔導師。
・ハロルド
 ジェームズがヤーハン国に行った際に連れて帰ってきた孤児。ジェームズの側近を務める。
・シャーロット
 王国のテイラー公爵家の娘。義姉に虐められているところをジェームズに助けられて親しくなる。金に近い栗色の髪にキラキラの翠色の瞳(ジェームズ談)の少女。

~ざっくりした設定~
・魔法
 一部の人間だけが使える力。
「魔法は誰かを、何かを願う心」ギルバート談
・杖、詠唱
 なくても魔法は使えるが、あった方が威力や安定性が増す。杖は誓いの際にも使われる。
・使い魔
 魔法使いが呼び出すことのできる精霊。呼び出せない魔法使いも多い。
第五章
「陛下。成人まで時間はあるとはいえ、正妃をお決めになった方がよろしいかと」
 それはある日の議会で、貴族派に属する者からの提言であった。クーデターによって自分たちが政権を握った日から、この国の力関係は大きく変わり、前王時代に力を持っていた貴族派は俺によって力を削がれている。だから、次の言葉は容易に予想がつく。
「うちの娘はいかがですか」
 一人言えば、他の者も口を開く。口々に娘だったり姪だったりを推薦される。
 貴族派だけでなく、親王派の者までも同じ事を言う。いくら国王である俺を支持しているとしても、もっと権力をと思うのは人の性か。
 俺は結婚するわけにはいかないんだけどな。
 どうしたものかと考えあぐねていると、一人の公爵の声が響いた。
「うちの娘はどうですかな、陛下」
 それは貴族派の筆頭、テイラー公爵であるパトリックだ。彼の言葉に他の貴族派は口を閉じ、親王派の面々も様子を伺う。
「イザベラは我が娘ながら聡明で、贔屓目抜きにしても妻に似て美しい。年は陛下よりもいくつか上ではありますがね。ご一考いただけませんか」
 今まで一度もそんな話をしたことがなく、せいぜいイザベラ様の誕生日パーティに兄弟を招待した程度だったくせに。おそらく、新王室のことをすぐに潰れると思っていたのだろう。だが、彼がここで王室との血縁を望んだということは、新王室がそれなりに無視できない存在になったということだ。であれば、認めてもらったお礼に彼に多少は花を持たせてもいいかもしれない。こちらとしても都合の良い花を。
「公爵。貴方にはもう一人、ご令嬢がいらっしゃいますよね」
 場が凍る。それはそうか。
「シャーロット嬢。私は学院に通っていた頃、彼女とお話をしたことがあります。可憐な方だった。私の初恋は彼女だ。もし貴方のお許しがいただけるのであれば、私は彼女を正妃としたいのですが」
「シャーロットはまだまだ未熟で、陛下のお相手にはとても......。それに、まだ社交界に出てもおりませんし。やはり、イザベラの方が」
 そうだよね、貴族としての教育は受けていても、男を手玉にとるような教育は彼女にはしていないだろうね。良くも悪くも、この男は彼女を愛しているのだから。彼女が社交界に出たらすぐに自分の言うことをきく、身分もそこそこな優しい男に嫁がせる予定だったはずだ。
「そうですか......。では、このお話はなしということで」
 少し残念そうに呟いて、パトリックだけでなく、その場にいた全員に向けて告げる。
「正妃選びはもう少し先延ばしにしましょう。それよりも目の前のことを、ということで。では、本日の議会はこれで終了とします。皆さん、お疲れ様です」
 椅子から立ち上がり、ハロルドが扉を開けてくれるのでそのまま退室する。早足に私室まで行って、行儀も何もなくベッドに飛び込む。
 ああ、鬱陶しい。己の伴侶のことなど放っておいてくれればいいのに。貴族派のほとんどは俺の寝首を掻くために女性を送り込もうとしているのだから。親王派だって、より権威を望む者でしかないのだろう。幸せな結婚などありはしない。それに、俺は勝手に結婚できる立場でもない。
 シャーロット嬢であればまあ良い。彼女には後ろ楯はないに等しいし、色々と都合が良い。全て終わらせた後の問題も、まあ少ないだろうし。
 コンコンと扉を叩く音がする。
 どうせギルバートかハロルドだ。
 無視を決め込めば勝手に扉が開けられる。勝手に開けたということはギルバートだろう。
「何、ギルバート」
 俺は枕に顔を埋めたまま尋ねた。ギルバートは何かを言うことなく、俺のそばに腰掛けると頭を撫でてくる。
「お疲れ様」
「うん」
「おそらく、シャーロット嬢との婚約で話が進むはずだ。だが、本当に良いのか。お前には好きな人はいないのか」
「好きな人なんていない。だから、せめて、色々と都合の良いシャーロット嬢が一番良い......」
 息を吐き出して、起き上がる。ギルバートの隣に腰掛ければ、彼も一つだけ息を吐いた。
「ごめん。不甲斐なくて。俺たちだけが幸せで」
「良いよ。それが俺の望んだことだもの。でも、良かった。君は幸せなんだね」
 沈黙が流れる。
 どれくらい二人で黙っていたのだろう。あまり長くないような気がするが、実は長かったのかもしれない。
「詳細は追って連絡するが、近いうちにテイラー公爵とシャーロット嬢が挨拶にくると思っておいてくれ」
「俺が出向かなくていいのかい。婚約を申し込むのであれば男が出向くのが礼儀だろう」
「お前は国王だ。誰であろうと、国王に出向くのが礼儀だ」
 それもそうだ。我ながら頭が回っていないと思う。
「分かった。挨拶だけは考えておくよ」
 兄はそれ以上何も言わずに部屋を出ていった。
「おいで、ギャリー」
 俺の声に呼応して現れる、俺と同じくらいに大きさを調整してくれている成竜。その首に抱きついて、謝ることしかできなかった。
「ごめん。本当にごめん。君に謝っても無駄だって分かっているけれど、謝らせて。いつか、伝えられる時になったら、伝えてほしい」
『うん。いつか伝える。絶対に伝えるよ。たとえ、彼が君を責めたって、俺は君の味方でいてあげる。君が正しい限り、俺は君の力になる』
 この竜に認められることのなんと救われることか。
 俺はしばらくの間、ギャリーにぎゅっと抱きついたままでいた。
※
「陛下がテイラー公爵家のシャーロット嬢と婚約するというのは本当ですか?」
 この質問は何度目だろうか。そもそも、僕だって今日学院で噂を聞いて知ったのだ。直接聞かされたわけではないと言うのに、答えられるはずがない。
「すみません。私も噂ばかりで真相を知らないのですよ。陛下はお忙しそうで、直接話を聞く機会がなかなか無いものですから」
 同じ事を何度言えば良いのか。朝から同じ答えを言い続けて、今は放課後だ。そろそろ疲れてくる。
「正式に決まり次第報告があるはずですから、それをお待ち下さい」
 そう言えば向こうも引き下がるしかないのだろう。軽く礼を言って立ち去ってゆく。
 今日学院に来て聞かされた噂はまさに寝耳に水だった。兄さんも兄弟も忙しく、あまり話すことができない。自分と話してくれるのは、マイラ姉さんか、アルフィーさんか騎士団長のリチャードさんくらいだ。定期的にアルフィーさんの妻であるアリシアさんもお茶や食事に呼んでくれて、子どもたちと遊べるけど......。実の家族との繋がりは、己だけ随分と希薄になってしまった。
 荷物を持って中庭に行く。特に何があるわけではない中庭のすみに座り込んで辺りをぼんやりと見つめる。
 兄弟とシャーロット嬢の婚約、か。
 ただの噂であると一蹴できない程度に、多くの人間が耳に挟んでいる事柄だ。おそらく事実なのだろう。
「寂しいなあ」
 仮にも国王だ。結婚して後継者を残す必要があるだろう。貴族派の不満が爆発しないように、貴族派の筆頭であるテイラー公爵家のご令嬢と結婚するというのも理にかなっている。イザベラ様ではなく、シャーロット嬢というのは、テイラー公爵からしたら不服であろうが、理由も付けやすいし、王室がテイラー公爵の傀儡になる危険性も低い。
 分かっている。分かっているけれど。
「よりによって、なんでシャーロット嬢と......」
 都合の良いご令嬢なら他にもいただろうに。どうして彼女なんだろう。いっそのこと、完全に政略結婚と分かる方がこちらとしては良かったのに。
「ジャック殿下」
 声をかけられてはっと声の方を向けば、エルヴィスが仏頂面で立っていた。
「やあ、エルヴィス。わざわざお迎えですか」
「勅命ですので」
「僕を家に帰らせろって? わざわざ勅命とは随分と過保護じゃないですか」
「陛下がお呼びです。お話があるとのこと」
 話、ねえ。婚約の件を報告でもしてくれるのだろうか。申し訳なさそうに、眉を下げて。それとも、淡々と国王の顔をして報告してくるのか。案外、全く別の用件という可能性も捨てきれないけれど。
 どちらにせよ、兄弟からの呼び出しではなく陛下からの召集となると、無視することはできないだろう。
「分かりました。帰りましょう。迎えは貴方だけですか。それとも馬車が?」
「私だけです。転移魔法で早く帰るようにと」
 彼の言葉に一つ息を吸ってから唱える。
「【王宮へ】」
 言ってからエルヴィスの腕を掴み、強引に転移を共にする。一瞬、景色が暗転し、次の瞬間には城門の前だ。慣れるまでは酔う人が多いらしいが、僕自身は使いすぎて慣れてしまった。
「私の仕事でしたのに」
 困ったような、怒ったような顔でエルヴィスに咎められる。
「魔力は僕の方があるのですから、僕が使った方が良いでしょう?」
「殿下が魔法に長けているのは承知しておりますが、下の者の仕事を奪うのは如何なものかと」
 真面目過ぎるというのも考えものだ、と彼を見ていると思う。門の前にいた近衛兵が扉を開けてくれ、僕たちは城の敷地内に入る。そのまま城内に入り、僕はエルヴィスに告げた。
「お疲れ様でした。今日はもう休んで構いませんよ。僕はこれから陛下のところへ向かいます」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
 エルヴィスに背を向けて、兄弟の執務室へ向かう。扉を三回叩けば、中から入室の許可が出る。
「失礼します、陛下。召集に応じ参上いたしました」
 わざとらしく堅苦しい敬語で話せば、彼はやっぱり困ったように肩を竦めて笑う。
「やめてよ、兄弟。ここは防音魔法も防視魔法もかけてあるから、いつも通り話してよ」
「はいはい。それで、何の用だい?」
 僕が尋ねれば、兄弟は何も言わずに棚からティーセットとお菓子を取り出す。水道の水をポットに入れ、魔法で温めてから一度捨てる。ポットに茶葉を入れてもう一度水を入れてから魔法で沸かす。ポットの茶葉が舞っている間にカップにもお湯を入れて温めている。棚からお菓子が勝手に出てきて宙を泳いでから執務室の真ん中のテーブルに着地する。ポットとカップはさすがに兄弟が自分でテーブルに並べた。
 変なところ魔法を無駄遣いするよね。それにしても、お菓子は僕の好きなクッキーとフィナンシェ、紅茶は先ほど見えた缶からこの国で一番有名なブランドの一番高い茶葉だと知れる。つまり、これは兄弟にとって僕のご機嫌取りなのだろう。
「座りなよ。お菓子もあるよ」
 紅茶を淹れる兄弟に促される。
「ああ、うん」
 兄弟の目の前に座って、紅茶の淹れられたカップを持ち上げる。良い茶葉というだけあって、香りは良い。口に含めば、その味の良さも分かる。
 一口飲んでカップをソーサーに戻す。兄弟は紅茶を飲んでいて、話を始める気はなさそうだったので、仕方なく先ほどと同じ事をもう一度聞いた。
「用件はなんだい」
 僕が問えば、兄弟はカップを戻し両手を組む。ばつが悪そうに眉を下げる様子は、自分の予想と寸分違わない。
「俺、婚約するんだ」
「知ってる。学院中、その話題で持ちきりだった。相手はシャーロット嬢だそうじゃないか」
 彼はうん、と頷くだけで何かを言おうとしない。
 仕方がないなあ。
「良い選択、だと思うよ。テイラー公爵は貴族派の筆頭だから、これで貴族派が騒ぐ理由を一つ減らせる。シャーロット嬢なら、王室をテイラー公爵の傀儡にされる危険も低いし、ひょっとしたら、シャーロット嬢はこちらの味方になってくれるかもしれない」
「分かってる。ジェームズ国王として間違っていないことは俺が一番分かってる。でも、個人として、君の兄弟として、正しいと思えない」
 消え入りそうな声だった。本当に僕に申し訳ないと思っているような声。
 怒ってやろうとか、詰ってやろうとか、色々考えていたのに、そんな声で、そんな顔で言われたから何も言えなくなってしまった。
「ジェームズ国王陛下は学院時代に、シャーロット嬢が虐められているのを助けて、彼女の瞳に見惚れて贈り物をした。それから徴兵されるまで、毎日放課後に中庭で他愛もない話をした。ジェームズ国王陛下の初恋といってもおかしくはないくらい関わりはあった。君は間違っていないと、僕は思うよ」
 嘘だ。嘘だけど、僕には彼を責めることなんてできない。僕だけは、否定しないでいてあげたい。
 この話をやめたくて、話題を変える。
「ねえ、今度一緒に手合わせでもしないかい。僕さ、リチャードさんに剣を習っているんだ。マイラ姉さんやアルフィーさんに魔法も教わっているし、結構強いよ」
 そこまで言って、慌てて付け加える。
「あ、杖の使用は無しだぞ。僕はまだ自分用の杖を持っていないからね。どう?」
 そこまで言って、ようやく彼はふっと笑った。
「良いよ。俺も久々に体を動かしたい。杖は無し、剣は騎士団の練習用のものにしようか。場所はどうしよう。学院はどうかな。ちょうど、学院に顔を出すように言われているんだ」
「学院に? 珍しいね」
「籍は置かせてもらっているからね。一応、進級のために試験だけ受けるように言われているんだ」
 ああ、だからか。ろくに学院に来ていないのに成績優秀者にいつも兄弟の名前が載っているのは何故か不思議だったのだ。
「それで成績優秀者なんて、必死にやってる令息令嬢に怒られるよ」
「君だって、いつも名前が載っているじゃない」
「僕は毎日学院に行っているしね。それに、王弟である僕が悪い成績をとるわけにはいかないだろう。いつ揚げ足をとられるか分かったものじゃないのだから」
「ごめん」
 兄弟が、今の僕の言葉を聞いてどうして謝ったのかなんて分かりきっている。双子なのだ。兄弟のことは手に取るように分かる。でも、あえて知らない振りをした。分からない振りをするのが正しいと思った。
「何が? 君が謝ることじゃないだろう」
 タイミング良く扉がノックされ、兄弟が返事をする間もなく扉が開かれる。
「そろそろ夕食だぞ、って来ていたのか。一緒に食べていくか?」
 僕に気がついた兄さんはちょっと嬉しそう顔を綻ばせて僕を夕食に誘う。
 でも、食べていくか、なんて変な話だ。いくら僕が兄さんたちの邸宅に居座っているからといって、僕の本当の家はこの城のはずなのに。僕だけは、家族ではなく、客だとでも言うのだろうか。
 悲観的な考えを片隅に追いやって、僕は荷物を纏めながら答える。
「いいえ、帰ります。マイラ姉さんが待っているので。兄さんも、もう少しこまめに邸宅に帰られてはどうですか。姉さんも心配していましたよ」
「ああ。分かってはいるんだがな。マイラのこと、よろしく頼む」
「......、ええ」
 兄さんが開けたままにしてくれている扉から帰ろうとすれば、後ろから声がかかった。
「兄弟。約束だよ。手続きとかはこっちでやっておくから」
「うん。僕も楽しみにしているね。じゃあ、またね」
 そう言って部屋を出た。兄さんが何かを言いたそうではあったけれど、結局何も言われなかった。玄関ホールを抜けて、そのまま城門をくぐる。一歩出てすぐに転移魔法を使って、兄さんの邸宅に飛んだ。
「おかえりなさい」
 聞こえた声に目を開ければ、マイラ姉さんが微笑んで立っていた。
「ただいま帰りました」
「登城していたのでしょう。お疲れ様です。身支度を整えて、食事にしましょうか」
 姉さんの言葉に頷いて、僕はほとんど自室と化している客間で着替えてから、食堂へ向かう。食堂のテーブルには、普通の一人分の食事と、スープだけが置かれていて、姉さんはスープのみが置かれている席に座っていた。彼女はほとんど食べられないのに、食事の席を共にしてくれる。僕を一人にしないようにしてくれるのだ。
「姉さんは、今日もそれだけですか」
「ええ。今は仕方がないの。ほとんどの女性もこうなるのですよ。だから、心配なさらないでください」
「でも、そろそろ兄さんに伝えた方が......。命を狙われてからでは、遅いではないですか」
 僕の言葉に、姉さんはクスリと笑う。
「ここはギルバート様の魔法で守られています。使用人も、私の生家であるオースティン伯爵家から連れてきた信用に足る者たちです。ここにいる限り、心配はありません。なので私のことよりも政務に集中していただきたいのです」
 宰相の妻としては満点の答えだろう。でも、それは随分と寂しいことのように思えた。
「姉さんは、どうして兄さんと結婚したんですか」
 脈絡もない僕の質問に彼女は困ったように首を傾げた。
「急にどうなさいました?」
「家にもろくに帰らない兄さんと結婚して後悔はないんですか?」
「そうですねえ」
 姉さんはスープを飲むスプーンを置いて、考える仕草をした。僕は姉さんの様子を伺いながら食事を続ける。
「私たちの結婚は、正直に申し上げれば政略結婚でしょう。私と両親、アルフィー兄様とギルバート様。それぞれの利害の一致というのが結婚の一番大きな理由です」
 政略結婚と断言する割に、彼女の表情は柔らかい。
「後悔を全くしていないと言ったら嘘になります。けれど、これが最善だったと思うのですよ」
「最善......?」
「ええ。もしものことはいくらだって考えられます。でも、そういったことを考えても、ふとギルバート様の不器用な優しさが思い出されるのです。だから、これが最善だったのだと思うのですよ」
 それはどうなのだろう。分からない。姉さんであれば、誰と結婚していたとしても最善だったと言っていそうだ。
 顔に出ていたのか、姉さんは説明を続けてくれた。
「どれだけ成功しようと後悔はあるでしょう。逆にどれだけ失敗しようと、その結果生まれた何かがあります。もしもの世界で得られなかったものを考えてください。それが大事であると思うのなら、最善を選んだと思って良いと私は考えています」
「よく、分からないです。それに、姉さんの言う、もしもの世界でなければ得られなかったものだってあるはずですよ」
「ですが、もしもの世界で得られるものが何かは分からないでしょう。分からないものは大事にできない」
 姉さんの考えはいまいち腑に落ちなかった。僕は、もしもの世界を考えることをやめられない。あの日の失敗を忘れることはできない。大事なものはむしろ溢れ落ちてしまった。今が最善だなんて思いたくない。
「あくまで、私の考えでしかありません。ジャック様はジャック様の考えで生きていけば良いと思いますよ」
「うん......。ねえ、姉さんにとって、もしもの世界で得られなかったものは何?」
「それは、ギルバート様であり、お腹のこの子であり、この世界。もちろん、ジャック様とジェームズ様もそうです。あの時、ギルバート様の手を取らなければ、得られないものでしたよ」
「全部、大事なのですか?」
 返事を聞かずとも、姉さんの顔を見るだけで愚問だったと気が付く。姉さんは特に何かを言うこともなく、飲み終わったのかスプーンを置いた。僕も話をしながら、ほとんど食べ終えていた。最後に僕はもう一つ質問を投げかける。
「姉さんは兄さんのこと好きですか?」
「ええ。お慕いしておりますよ」
 肯定ではないような気がした。でも、それを詮索するのも野暮な気がして、僕は、そうですか、とだけ返した。
※
 テイラー公爵家からシャーロット嬢を婚約者にとの正式な文書が届いたのは、あの議会から五日後で、顔合わせになったのはさらにその二日後。
 謁見の間の玉座から静かに見下ろす俺に対し、シャーロット嬢とパトリックは最敬礼をしていた。
「お久しぶりでございます、陛下」
 金に近いような茶髪に、澄んだ緑の瞳。
 確かにパトリックにもイザベラ嬢にも似ていない。
 多少、未来の王妃としてはおどおどとしているけれど、俺やギルバートたちが上手く支えれば大丈夫だろう。
 立ち上がって、シャーロット嬢のそばにしゃがみこむ。その手を取って軽く口づけをした。
「お久しぶりです。会いたかった。その瞳にどれほど焦がれていたか。私からの贈り物はまだお持ちですか」
 我ながら恥ずかしい台詞だとは思うけれど、周りを、特にパトリックを納得させるために演技は必要だろう。何故か一瞬悲しげに瞳を揺らしたシャーロット嬢はおずおずと髪を纏めるリボンに手を伸ばした。
「毎日、使わせていただいております。これをいただいた日のことを、私は忘れたことはございません」
 このリボンだったか。そういえばそんな感じだったっけ。大分、使い古されていて、言葉通り毎日使っていたのだろうことが分かる。
 我ながら酷なことをしたものだ。
「嬉しいです」
 笑顔を張り付けてそう言えば、シャーロット嬢は少しだけ肩から力を抜いたようだった。
 その後、部屋を移動し、今後の話し合いがなされた。
 籍を入れるのは俺が成人を迎えた日。俺の成人の儀と同時に婚姻の儀も行うので、他国の国賓を招くパーティはいっそう華やかになることは想像に容易い。婚姻の儀はほぼ一年後なので、シャーロット嬢は花嫁修業という名目で、一週間後、城に入ることになった。シャーロット嬢はまだ学院に通う身でもあるので、通例に従い、城に入るのは一年後に結婚してからで構わないと言ったが、公爵がすぐに入城させると言い張った。学院を中退させても構わないと公爵は言ったが、さすがにそれはと思い説得し、結局城から通うことになった。
 嫁入りの準備は公爵家が行うが、迎える準備はこちらの義務だ。とはいえ、一応、形だけの王妃の部屋も存在しているので、取り急ぎ準備するものはないはずだ。彼女の趣味に合わせて少しずつ変えていけば良い。
 話し合いの最中、シャーロット嬢はずっと下を向いていて、俺や公爵が質問を投げかけた時以外は発言しなかった。それが、俺にはとても哀れに見えて、これからもっと酷いことを突き付けなければならないことを、心の中で申し訳なく思った。
 一週間後。彼女の入城。公爵家の威光を示すためか、それとも公爵の彼女への愛ゆえか、他の貴族には真似できないような豪華な準備だった。嫁入り道具は全て国内屈指の銘柄のもので、一般的な嫁入り道具の他に、特注だろうティーセットやテーブルなどもあった。この短い期間で特注品が完成するとは思えないから、彼女のためにこっそり準備はしてあったのだろう。
 そんな中、彼女が大切に抱える小さな箱は妙に目についた。豪華絢爛な物に囲まれているのに、彼女の抱えるそれは随分と古そうで、一般的な値打ちも無いように見えた。
 嫁入り道具を運び入れ、城内の案内を簡単に済ませる。その後、彼女の部屋となる王妃の部屋に戻り、三人の使用人を呼びつけた。全ての使用人は少しずつ紹介することにして、彼女の専属となる者と俺の専属の者だけを紹介した。
「シャーロット嬢。貴方の専属となる護衛と侍女を紹介します」
 俺がそう言えば、一人の女性がシャーロット嬢の前で膝をつき、もう一人の女性はスカートの裾を掴んでカーテシーをする。
「専属護衛のエマと申します」
「私は専属侍女のソフィアです。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 シャーロット嬢は少しだけ微笑んでそう返した。常にびくびくしているのかと思っていたので少しだけ驚いたが、仮にも貴族の令嬢だ。使用人に対する態度は教育されているのだろう。
「エマは剣術も魔法も優れているので、安心して彼女に身を任せてください。ソフィアはフローレンス伯爵家のご令嬢です。日常的なことは彼女に頼めば問題ありません」
「はい。承知いたしました」
「他の使用人は今後少しずつ。あと、私の専属だけ紹介しておきますね」
 俺は斜め後ろを振り返り、彼を手で示した。
「彼はハロルドです。護衛も執務補佐も兼ねています。専属とはいえ彼には多くの仕事を任せているので、一人でいることも多いかもしれません。もし、王としての私やギルバート宰相、王弟であるジャックに用があるのならハロルドを通じてください」
 静かに頷く彼女を見てから、俺はハロルド含め、使用人を皆下がらせる。皆が下がったの確認し、指を鳴らして防音魔法を張った。俺は椅子から立ち上がって、彼女の腕をそっと掴んで掌を上に向かせる。ポケットの中に入れていた物を取り出して、その掌に載せた。
「個人としての私にご用の際はこれを」
「え......」
 彼女は掌の物と俺の顔を交互に見やる。
「ご趣味と違っていたら申し訳ありません」
「いえ、そんなことは。ですが、こんな高価な物......」
 彼女に手渡したのは緑の石が揺れるペンダントだ。
「貴方のお父様がご用意した嫁入り道具に比べたら、全く高価な物ではありませんよ。ですが、そこには魔法をかけてありますので、常に身に付けておくようにしてください」
「どんな魔法を?」
「ペンダントを通して私と会話ができるようにしてあります。私も同じものを身につけています」
 そう言って前もって身に付けていたペンダントを襟から引っ張り出す。シャーロット嬢に渡したペンダントと揃いで作らせもので、俺のペンダントは蒼い石。
「ペンダントなら服に隠せるし、ご迷惑にならないかと思って。指輪でも良かったのですが、今渡すと婚約指輪の扱いになるでしょうし、そうなると王室の威厳を示す必要もあって一週間では準備ができそうにはなかったので。使い方は簡単です。石に向かって話しかけてくだされば、こちらに声が聞こえるようになっています」
 彼女は何も言わない。心の内を聞いてみても良かったが、別に彼女がどう思っていても関係ないし、罪悪感が募りそうだったので今はやめておいた。
「無理に話しかけろという訳ではありません。万が一の時のためだと思ってくださって構いませんよ」
 俺の言葉に彼女は小さく頷いて、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で俺を呼んだ。
「陛下」
「どうしました」
「あの、とても嬉しいです。あと、その僭越ながらお願いさせていただきたいことが......」
 ペンダントを握りながら、彼女は意を決したのかこちらの目を覗き込んでくる。
「えっと、その......。陛下のペンダントとこちらを交換してはいただけませんか」
「え......。あ、いや、構いませんよ」
 言われたことが一瞬理解できず、思わず固まってしまったが、慌てて自分の首に提げるペンダントを外し、彼女の掌に載せる。彼女が持っているペンダントを取って首に提げ、襟の中に仕舞う。彼女は掌に載った蒼い石のペンダントを見て嬉しそうに笑った。
「っ......」
 やめてくれ。そんな目で見ないで。そんな愛しいものを見るような目で、その色を見つめないでくれ。そんな目をするのは、俺だけで......。
 俺はその目を見ていたくなくて、咳払いを一つして彼女に話しかける。
「シャーロット嬢。私がどうして人払いをして防音の魔法まで張ったか分かりますか」
 俺はわざと意地悪く笑って、さっきまで座っていた椅子に座り直す。彼女は宝石みたいな瞳を瞬かせ、すぐに顔を強張らせた。その顔のまま、ゆるゆると首を横に振った。
「この婚約に当たって、私と三つ、約束をしてほしい」
「は、い......」
「一つ。無断で公爵と連絡を取らないこと。実家との連絡を制限するのは心苦しいですが、お願いします。手紙なども検閲することになります」
 頷いた彼女の心を読めば、
『お父様は貴族派だから仕方がないわ。特に連絡を取ることもないでしょうし、問題はないかな......』
 と言っていて、とりあえず安心する。彼女の生い立ちを考えればそこまで心配する必要もなかったが、念のためだ。
「二つ。あと一年。婚姻の儀まで、私のことは好きにならないでください」
「え......」
 なんで、どうして、と心の声が聞こえた。それが怒っているわけではなく、困惑と悲哀だったから、俺は罪悪感でいっぱいになった。
「婚姻の儀まで何があるかは分かりません。貴方のお父様と王室の関係だって、約束されたものではない。王室が消される可能性もあれば、私が貴方の家門を消す可能性だってある。万が一、テイラー公爵家を潰すことになっても、貴方の身分は保証しますが、貴方は私を恨むでしょう。愛してしまっていたらなおさら。だから、私のことは愛さないでくださいね」
 そこまで言うと、心の声がピタリと止んで、代わりに本当の声が聞こえてきた。
「どうして、一年なのですか」
「どうして、とは」
「今のお話でしたら、一年ではなく永久的にといった方が適しています。何故、陛下は一年とおっしゃったのでしょうか」
 一年である理由。それは婚姻の儀まで一年なのではなく、成人の儀まで一年だからだ。成人の儀までに全て終わらせる予定でいるから。でも、それを彼女に伝えることはできないし、言ったところで伝わらないだろう。
「もし、その理由に気が付いたら、一つだけ願いを叶えてあげます。頑張って当ててくださいね」
 俺が言うつもりがないのを察したのか、彼女は一つ頷いた。
「もう一つの約束は何でございましょう、陛下」
「三つ。公的な場以外では名前で呼んで。公的な場でなくとも人前で俺の名前を呼べるのは、もう君くらいしかいないから。あと、堅苦しい言葉遣いもなしね。俺も敬語は使わないから」
 彼女の方から問うてきたから答えれば、彼女は宝石のような緑の瞳を大きく見開いて、すぐにクスクスと笑いだした。なんで笑われたのかよく分からず、黙って彼女を見ていると、彼女は微笑みながら話してくれた。
「まだ、敬語は苦手なのですね。良かった。国王におなりになって、変わってしまわれたのかと思っておりました。でも、ジェームズ様はジェームズ様のままですね。良かった」
 その言葉に呆然としていると、彼女は慌てたようにハンカチを俺に差し出してきた。ハンカチの意図が掴みきれず動けないでいると、彼女はそっとハンカチを俺の頬に押し当てる。そこで漸く俺は泣いていることに気が付いた。
「えっと、何か失礼なことをしたでしょうか」
「違う。違うんだ。シャーロット嬢は何も悪くない」
 ああ。駄目だ。馬鹿みたいだ。何が国王として間違っていないだ。身近な人さえ幸せにできないのに、何が間違っていないだ。間違いにさえ気が付けないただの馬鹿じゃないか。
「ごめん。本当にごめん」
 俺はその日、シャーロット嬢に謝ることしかできなかった。シャーロット嬢は心の中でも俺のことを心配してくれていて、その事実に、余計俺は涙を止めることができなかった。
第六章
「陛下、これを」
 シャーロット嬢から手渡されたものは何通かの封の切られた封筒だった。この国の貴族のものではない封?がされているものと、テイラー公爵家の封?のもの。シャーロット嬢がわざわざ二人きりになってから渡してきたあたり、人目についてはいけない物なのだろうと思う。執務室には常に防視、防音魔法をかけてあるから問題ないだろうとは思うけれど、少しばかり緊張しながら中身を取り出す。その内容に俺は思わず目を見開いた。
「お父様の書斎から持ち出してきました。陛下に必要なものはこれかと思いまして」
 彼女の言っていることに間違いはない。これは俺が喉から手が出るほどに欲しかったもの。しかし、どうやっても手に入らなかったものだ。
「どうしてこれを。俺の密偵だって手に入れられなかったのに。アルフィーさえも首を横に振ったのに」
 パトリックは食えない男だった。大抵の貴族は少し揺さぶってやれば口を滑らせるし、口が硬ければ執事や侍女などに金を握らせ、身元の保証を約束してやれば証拠を持ってくる。だというのに、彼だけはどうしても駄目だった。
 彼の心情が読めているとはいえ、物的証拠無くして彼を裁けば、次は己が暴君だと責められる。別に暴君でも良いのだが、これまでに築いてきたものを壊すのは惜しかった。
「お父様は私に甘いのですよ。それに、あの家の中には魔法使いはおりません。つまり、中に入ってさえしまえば魔法を見抜ける者はいないのです」
 そう、彼の私邸には魔法使いは立ち入り禁止であった。だからこそ、俺たちには手が出せなかった。合法的に雇った魔法使いで徹底的に中に入れないようにされていた。雇われている魔法使いが中々の手練なのだから、俺たちは隔靴?痒の感だった。
「お父様に泣きながら、エマとソフィアが一緒でなければ屋敷には入らないと言えば、お父様は頷いてくださいました。あとは、エマに頼んで私の気配を消してもらってこっそりと拝借してきました」
 クスクスとシャーロット嬢は笑っているが、簡単なことではなかったはずだ。それに、これを俺に渡すというのはどういう意味なのか分かっているのだろうか。
「シャーロット嬢、君は良いのかい。これを俺に渡すということは......」
「ええ、良いのです。陛下のお好きなようにお使いください。では、失礼いたします」
 俺が目の前の文書を眺めている間に彼女は出ていってしまった。彼女は何を考えているのだろうか。何が望みなのだろう。心を読んでしまえば簡単ではあるが、彼女が入城した日以降は心を読んだことはない。
 何はともあれ、これで全て出揃った。あとは大々的に裁いてしまえば良いだけだ。
 俺は机の中の紙を二枚取り出して、至急執務室、とだけ書いて二枚とも同じように折っていく。完成した二羽の鶴に魔法をかける。
「【君はギルバートに】【君はアルフィーへ】」
 そうすれば鶴は羽を動かしてふわりと飛び上がる。いつからいたのか、ギャリーがそばに寄ってきた。
『俺に頼んでくれればすぐに連れてくるのに』
「ギャリーだと目立ち過ぎちゃうから」
『じゃあ、小さい使い魔を召喚すればいいじゃないか。君に召喚されたい奴らはたくさんいるよ』
「それは裏切りだから駄目。俺にとっての使い魔は一匹で十分だよ」
 ギャリーは面白くなさそうに床に横になった。
「遊んできて良いんだよ。必要な時だけ俺のそばにいてくれれば、それ以外では縛るつもりはない」
 俺を一瞥するも、ギャリーは特に何かを言うことはなかった。カツカツと音が聞こえてきて扉が開かれる。先に着いたのはギルバートだった。
「緊急招集とは何があった」
 扉を閉めてからギルバートに文書を手渡そうと思ったら丁度アルフィーが見えたので、彼を執務室に入れてから扉を閉める。ギルバートに文書を渡すと、アルフィーもそれを覗き込む。二人は同時に勢いよく顔を上げた。先に口を開いたのはギルバートだ。
「お前、どこで手に入れたんだ」
「シャーロット嬢がくれた」
 俺の言葉にアルフィーはヒュウと口笛を鳴らす。
「シャーロット嬢が。俺たちにとってはありがたいものだが、彼女はそれでいいのか」
「分からない。ただ、好きに使って良いとだけ」
 ギルバートも俺と同じ心配をしているのだろう。ただ、彼女の本心は分からないからどうしようもないのだ。
「まあ、王妃様が渡してきたならありがたく使わせていただこうぜ。この封?も文書の中の判も確かにテイラー公爵家のものだ。偽造だったら技術を称賛するべきだな」
 アルフィーの言葉に同意を返し、俺たちは議会緊急招集の手筈を整えることにした。
 貴族を招集した議会はすぐに開かれた。出席者は全ての貴族、各軍の総帥、魔道士長、宰相、各大臣だ。異様な出席者に集められた貴族たちは皆不審そうにしていた。
「皆さん、集まってくださりありがとうございます」
 俺の挨拶なんて誰も聞いてやいない。しかし、これも形式美というものだ。
「本日は一部の方の犯した罪について議論すべくお呼びしました」
 この言葉によって場は騒然となる。顔を青ざめている者はまだ救いようがある。救わないけれど。ただ、ふんぞり返っている者を見ると笑いだしたくて仕様がない。
「これは私が手に入れた文書です。皆さんもご覧になってください」
 議会がざわめく。ご覧ください、と言っても皆が見るには時間がかかり過ぎる。書類を回してもらいながら、俺は話を進める。
「この文書には確かに、ラーシャ帝国の一部の貴族に我が国の貴族が機密事項を流していたことが示されている。判も本物だ。言い逃れはできない」
 俺に続いてギルバートが口を開く。
「今回の文書はパーカー公爵、フィリップス伯爵、ウィルソン男爵、ジョーンズ侯爵。そして、テイラー公爵のものだ」
 会場がなおもざわめく。声を荒げているのはジョーンズ侯爵か。いつもいつも喧しい男だ。俺は口角を上げながらパトリックを見た。今まで彼が表情を変えることなどなかったというのに、今日ばかりは唇を震わせていた。文書の上で握られている手も血が出るんじゃないかってくらい握りしめられている。
「これは、国家反逆ですぞ。爵位?奪で済まされていいはずがない。死刑にすべきだ」
 声を荒げたのは陸軍総帥だ。
 流された情報は主に軍部に関する機密事項だから、彼が激昂するのも無理はない。海軍の総帥も席の近いジョーンズ侯爵と言い争いをしている。空軍総帥はどちらかといえば貴族派に属していたし、テイラー公爵家とも親しくしていただろうから、何かを言うことはない。
「ええ。私も極刑で良いと思うのですよ。特にジョーンズ侯爵とテイラー公爵は。まさか、王国魔道士の人数からそれぞれの使える魔法まで事細かに情報を流すとは思っていなかったのでね」
 別にこの情報が国防に大きな影響を与えるかと言われたらそうでもない。人数も使える魔法もさして重要ではないからだ。
 ただ、正直に言えば少し怖いと思った。王都を覆う様に作られている結界。結界についての情報が流れているか否か。手に入れた文書だけでは、他国に流されてはなさそうだが、流された情報を見るに王宮の中に情報を売った者がいるようだ。それが少し怖いのだ。
 やはり、信用などせずに、皆の心の内を覗いてしまった方が良かったか。
「国の情報を売っておいて何が貴族だ」
「私たちには私たちの考えが」
「国を売ることに何の理由があるというのか」
 議会は踊る、とはこういうことだろうか。皆が皆、自分の言いたいことだけを叫んでいて、纏まりを見せない。とはいえ、騒いでいるのは軍部と糾弾されている貴族だ。大臣たちは特に騒いではいない。
「では、どのようにしましょうか。法に則るのであれば、極刑かとは思いますが」
「異議あり」
 その声にげんなりする。
 うん、知っていた。ギルバートがすんなり極刑を認めるはずがないこと。
「さすがに極刑とは言い切れないかと。法には、国に不利益な情報を他国に秘密裏に流した場合はその程度に依り罰する、と書かれています。確かに庶民であれば極刑かもしれませんが、彼らは貴族。爵位と領地の?奪。これで十分なはずです」
「程度に依る。つまりは、裁く側の価値基準に依る、ということですね。では、ここにいる全員で決を採りましょうか。他に異論のある方は?」
 誰かが何かを言うことはなく、そのままどの程度の刑が望ましいか、全員に決を採ることにした。
 一人につき白紙を一枚渡す。
「では、その紙に各人に対して適当だと思う刑を各々書き込んでください。もちろん、無罪と書くことも認めます。無記名でお願いします」
 各々書き込んだ者からこちらに持ってきてもらう。不正を疑われないように、俺だけでなく宰相と大臣、貴族派に属する貴族で開票を行う。
「では、結果を公表します。テイラー公爵、爵位と領地の?奪。パーカー公爵、爵位と領地の?奪。フィリップス伯爵、領地の大幅縮小。ウィルソン男爵、爵位の?奪と領地の一部の売却命令。ジョーンズ侯爵、爵位と領地の?奪。以上です。?奪した領地は一時的に王室所有とします。それらの土地をどう使うかは追って触れを出します。では、今回の会議はこれまで。皆さん、どうぞお帰りください」
 俺が座ったままでは帰りづらいのだろう。誰かが立つ気配はない。俺は一人立ち上がって、議場を後にする。俺が立てば、他の者も立ち上がる気配がする。
 小走りで追いかけてきたギルバートを少しだけ睨みながら、俺は問う。
「彼らなんて死刑でいいじゃないか。どうして温情を与えるんだ。宰相殿はお優しことで」
「結果として死刑にならなかった以上、それが民の真意だろう。お前がやりすぎだ。暴君になるぞ」
「......。そうだね」
 暴君であろうとなんであろうと、政治を腐敗させる者を排除したかっただけなんだけど。
 まあ、良い。あと少し。あと少しだ。
 国は大分形ができてきた。内部の主だった腐敗も除去できた。ここまでくれば、終わったも同然だ。
 後は、彼が何を望むかだけ。彼の望みによって、国を変えても問題ない程度には安定させたんだ。
 やっとここまで来たんだ。
※
 国王が貴族を断罪したという話は瞬く間に国中に広がった。断罪と言っても、前の王と違って即刻斬首というわけではなく、多数決によって決定された。爵位の剥奪と、領地の没収。つまりは、貴族が一瞬にして平民に成り下がったというわけだ。少なくはない貴族が平民に成り下がった事態に対し、平民はざまあみろと嘲笑する者や、虐げられる不安から解放され安堵する者がいた。他の貴族たちは反発を覚える者、やましいことでもあるのか恐れる者、王家に追従する者に三分された。
 爵位を剥奪された貴族たちに何か主だった共通点があるわけでもなく、議会の内容も黙秘されていたため、様々な憶測が飛び交っていた。中には、国王の横暴なのではないか、という意見まであった。
 僕は真実が知りたくて、兄弟の執務室に駆けこんだ。
「どうしたんだい、兄弟」
 書類から目を離すことなく声をかけてくる兄弟に、僕は詰め寄った。
「貴族たちを意味もなく断罪したって聞いて」
「ああ......。まあ、君からしたらそう見えるよね」
 兄弟の返答は、僕にとっては自分が完全に蚊帳の外であることを十分に実感させるものであった。
「今は知らなくても良いことだよ。君はこのまま学院に通ってくれればいいし、やりたいことがあるのであれば支援はするよ。裕福ではないけれど、兄弟のしたいことを応援するくらいの蓄えはあると思っているから」
 僕は拳を握りしめる。
「僕は、そんなことは聞いていない。今回のことがどういうことなのかを聞いているんだ。王室の横暴だと主張する者もいる。弁明してくれって言っているんだよ」
 兄弟は漸く手を止めて、書類から目を離した。顔をあげれば、青色の瞳がしかとこちらを見つめてくる。その瞳に少しだけ残念そうな色が乗ったような気がした。
「何とか言ったらどうなんだい」
 きつい言い方になってしまったかなと思ったのに、兄弟は怒るでもなく静かな声で問うてきた。
「今回、断罪した貴族の名前と爵位を、君は言える?」
「え......」
 言えるだろうか。言えると思うけれど合っている自信はない。そんな僕に彼は畳みかけるように続ける。
「言ってごらんよ。あと、横暴だと騒いでいる貴族の名前と爵位も。全部間違いなく言えたら、断罪の基準は自ずと分かるはずさ」
 兄弟に笑いかけられて背筋が凍るのが分かった。兄弟が他者に向ける作り笑顔を自分に向けるのは初めてのことだった。口をつぐんだ僕を見て、彼は席から離れて執務室の壁に貼ってあった地図の横に立つ。
「最初はパーカー公爵、フィリップス伯爵、ウィルソン男爵、ジョーンズ侯爵。そして、テイラー公爵ここまではまあ、インパクトもあっただろうし、君も覚えていたと思う。共通点は分かったかい?」
 兄弟はゆっくりと各貴族が治める領を指差しながら家名を告げていく。僕はその共通点が分からず、首を横に振るしかない。次だ、と言って彼は続けた。
「横暴だと騒いでいる代表的な貴族は、ノックス侯爵家。マクミラン伯爵家。そして、クラーク公爵家。この貴族は近いうちに断罪する予定だ。これで分かった?」
 そこまで言われたら、流石に僕にだって検討はつく。
「他国との紛争地域を領地に有する貴族たち......」
「ご名答。まあ正確には、紛争地域を理由に他国と勝手にやり取りをしている貴族たちだ」
 兄弟は指を一振りして地図から離れた書棚から一冊の厚い冊子を取り出す。冊子は僕の前で浮遊して一人でにパラパラとページが開かれる。
「こ、これ......」
「断罪した貴族たちと他国のやり取りだよ。屋敷、領地、民、全てにおいて調べた。それは彼らが流したこの国の国家機密」
 流された情報の一覧に僕はひゅっと息を飲んだ。
 一覧の主となっているのはこの国の軍事機密。陸海空の武器量や輸入先、輸出先。王国魔道士の数すらも載っていた。これを利用され、対策を立てられた上で戦争を起こされたらこの国はひとたまりもないのではないか。
 兄弟のしたことは間違っていない。頭では理解ができる。しかし、感情がついていかない。あの優しかった兄弟が他人の死刑を望んだなんて信じられない。信じたくないと思う自分がいる。
「だからって、爵位どころか領地も全て没収するなんて。彼らの今後の生活はどうするの」
「彼らの今後をどうして心配しないといけない。彼らは国の民を危険に晒しているも同義だと言うのに。命を救ってやっただけ感謝してほしいね。ギルバートは優しすぎる。一族郎党皆殺しにしたって生ぬるいというのに」
 全く笑っていない目で呟く兄弟を前に僕は足元が覚束なくなるように感じていた。
「き、君は、本当に僕の知る兄弟なのかい。これが国王として正しかったのは分かる。でも、でも、君はもっと優しかったじゃないか!」
 彼は、少なくとも僕の知る兄弟はそんなこと言わない。この結果に後悔していると思っていたのに。なんで、そんな、冷たい目で、吐き捨てるように言うんだ。
 僕に呆れたかのようにため息をついて、兄弟は僕の前で揺蕩っていた本を無言で本棚に戻した。
「優しさって何だと思う。彼らをこのままにしていたら、戦争を起こされて、多くの死者がでたかもしれない。それでも、彼らを助けたギルバートは優しくて、断罪した俺は優しくないの?」
 カツカツと踵を鳴らして、僕の目の前に立ったかと思ったら、見たこともないような笑顔で僕に向き合ってきたのだ。
「俺は、俺の正義を貫くよ。たとえ君が、俺を断罪しようとも」
 ああ。君は僕を恨んでいるのだろうか。あの時、全てを君に押し付けた僕を恨んでいるのだろうか。だから、そんなに歪んでしまったのだろうか。
「君は変わってしまったんだね。君たちは、もう僕のことなんて必要ないんだろう?」
 ああ、こんなことを聞いてどうすると言うのだ。困らせるだけだろう。ただ、言って欲しかったんだ。違うって。ここにいて良いよって。
 それなのに、口はどんどん勝手に動いていく。
「僕はもう、君と兄さんと会話をしたのがいつのなのかすら思い出せないよ。僕が、騎士の資格を取ったことも、魔道士の資格を取ったことだって君たちは知らないんだろう?」
「そ、れは......」
 そばにいたかった。だから、頑張ったんだ。学院で常に上位にいられるように勉強しつつ、合間に騎士と魔道士の試験の訓練をした。騎士の試験も魔道士の試験も合格できるように。贔屓目なしにトップ合格だったと魔道士長に言われて嬉しかった。アルフィーさんが褒めてくれたら、それは兄弟と兄さんに伝わると思っていたから。
 それなのに、何も伝わっていなかったのか。勉強をすれば大臣への道が開ける。騎士道は騎士団長や護衛騎士に。魔法は魔道士長に。兄弟が定めた、国の上部に行く方法を全部頑張った。全部こなせば、兄弟と兄さんのそばにいられると思ったから。役に立てると思ったから。
 ああ、でも。全部、無駄だったのか。あの時間は無駄だったのか。兄弟の目に、自分は映っていなかったのか。
「やっぱり知らないんだ。どうして、騎士と魔道士、両方の資格を取ったかだって、分からないだろうね」
 それでも、兄弟は何も言わなかった。ただ、迷子のような、幼い頃のような顔をしていた。それが、何故だか今は無性に腹立たしく思えた。
「出ていくよ。ここにいたって仕方がないし」
「どうして、ねえ。落ち着いてよ」
 漸く発した言葉がそれか。落ち着けって。落ち着けるはずがないだろう。何を言っているんだ。自分だって、怒りか、絶望か、悲しみか、もはや分からなくなっているというのに。
 僕たち兄弟の混乱を感じ取ったのか。ギャリーとジョイが姿を現した。僕は己の相棒に向かって言った。
「君は、一緒に来てくれるだろう」
 来てくれると思った。使い魔はよほどのことがなければ、自分を喚んだ主に逆らわない。そう教わっていた。兄弟も兄さんも駄目だったとしても、彼は自分を選んでくれると思ったのに。
 静かに首を横に振られた。
 それだけで、急に頭が冷えていった。
 今までの自分が馬鹿らしく思えた。
「いいよ、じゃあ。一人で出ていく。君たちだけで仲良く暮らせば良い。僕の居場所なんて、とっくに無かったんだろう」
 踵を返して執務室から出ていこうとしたら、腕を掴まれた。そして、久しぶりに己の名を呼ばれた。
「違う、違うよ。待ってよ」
「今更、呼ばないでくれ!」
 彼の腕を振り払って、執務室を後にした。廊下を全力で走って乱暴に自室の扉を開ける。適当な袋に乱雑に荷物を放り込んでいった。
 彼らに貰ったものは持っていきたくない。
 そうやって袋に詰め込んだ物は思っていたよりもずっと少なく、部屋の中は彼らに貰ったもので溢れていたことを知る。兄さんの邸宅の客室にも大した物は無いことを思い出す。
 多くの者が彼らから貰ったものだというのに、杖と剣だけは違った。剣は自分に目をかけてくれていた騎士団長が余っているからとこっそりと与えてくれた物で、杖は魔道士試験の時に配られた物だった。
 杖や剣は一般的に親が子どもに与えるものだ。その杖と剣だけが違うなんて、と自虐的に思う。
 部屋に飾ってある三人の写真を手にとって眺めた後、元の位置に戻して部屋を出た。なるべく不自然の無いように城門へ急ぐ。城内は様々な魔法が張り巡らされており、城内から転移魔法を使うと足がつく。だから少なくとも城の外へは自分の足で出る必要があった。
 城門を出る際に門番に会ったが、日頃から一人で外に出ることも多かったからか、特に何かを言われることはなかった。門番が見えなくなったところで転移魔法を用いて、とりあえず隣国に向かうことにした。
※
 出ていった兄弟を追いかけることもできず。ただただ、扉の方を見つめて、その場に崩れ落ちた。
 追いかけるべきだ。追いかけて引き留めるべきだと分かっている。でも、それができない。
 ぼーっとしていると名を呼ばれ、振り返る。
「ギャリー」
『君は正しい。少なくとも、彼を思うのであれば、君は間違っていない』
「良いの?」
『願いのためになるのであれば、君と共にいると約束した。俺たちは約束を違えたりしない。それに、君のもとにいることこそ、我が主が俺を喚んだときの契約を守ることだろう』
 ギャリーは言う。俺が正しいと。
 本当だろうか。俺は正しいのだろうか。
『そばにいたかった。だから、頑張ったんだ』
『全部、無駄だったのか。あの時間は無駄だったのか。兄弟の目に、自分は映っていなかったのか』
 あまりの感情の大きさに聞こえてしまった彼の声。
 否定したくて、否定したくて堪らなかった。でも、できなかった。
 ずっと、兄弟と兄のためにと思ってきた。彼らのために国を良くするんだと。兄弟が願ったら、その願い通りにできるようにって。
 本当に。本当にそうだったのだろうか。
 ただ、自分がしたいことをしていただけ。自己満足だったのではないだろうか。現に、兄弟は今を望んでいなかったようだ。
 彼を解放してあげられるのは今しかないのではないかと思ったのだ。自分の好きな彼を守るためには、今、解放してあげる方が良いのではないかと思ったのだ。追いかけて、引き戻すのが正解だとしても、彼の言葉にかこつけて、彼を解放させた方が良い。
 ふう、と息を吐いてから立ち上がる。
 少なくともギルバートには伝えないと。この時間であれば執務室にいるはずだ。
 座り込んでいた時にできた服の皺を手で伸ばし、宰相の執務室に足を向ける。扉を三回叩けば入室の許可が下りたので、扉を開いて中に入る。俺が入ってきたことに少し驚きながらもすぐに笑みを浮かべてくれた。
「どうした。ここまでくるのは珍しいな」
「家族として報告があって」
 俺の言葉に彼は少し眉を寄せる。そして次の瞬間には激昂に染まった。
「兄弟が、出ていった」
「は......?」
「彼は、本気だったと思う。もうこの国からは出ているかもしれない。それに、俺は彼を連れ戻そうとは思っていない」
 ギルバートが思い切り立ち上がると共に、椅子が後ろに倒れる。彼はそれを気にした様子もなく、俺に詰め寄ってきた。襟首を掴まれる。
「今すぐ勅令を出せ。すぐに探し出すぞ」
「それをする気は無いと言ったじゃないか。出ていったのは彼の望みだ」
 ああ、五月蝿いな。彼の心は聞こえやすい。聞きたくないな。聞いてしまったら、きっと戻れない。
「良いから連れ戻せと言っているんだ!」
「嫌だ。ここから出ていくことを彼が望んだんだ。俺は、彼を解放してあげたい」
 聞きたい訳ではなかった。ただ、聞こえてしまった。
『そう言って、あいつが邪魔だっただけじゃないのか!』
 世界が止まったような気がした。
 兄の本当の声も心の声も五月蝿いくらい鳴っているのに、聞こえない。
『そもそも、あの日から間違っていたんだ。あの日、俺が認めていなければ。こいつの思い通りにさせなければ』
 漸く聞こえた声を皮切りに唐突に冷静になっていった。何故、自分だけが責められなければならないのか、と思わないでもなかった。それでも、どこか納得できてしまう自分がいたのだ。
 兄弟と兄さんの一番はお互いであって自分ではない。
 小さい頃から、ずっと考え、恐れていたこと。それを確信してしまっただけ。
 急におかしくなってきて、俺は声に出して笑ってしまった。
「あははっ、そうだね。邪魔だったのかもしれない。それに、確かにあの日、俺たちは間違えたんだ」
 唖然として俺を見つめるギルバート。俺は己の襟首を掴み上げている彼の手を払った。彼は数歩後ろに下がる。
「でも、勘違いしないでくれ。あの日の間違いは、俺だけのせいではない。兄弟もギルバートも認めたことだ。俺だけを責めるのはお門違いだ」
 俺はそのまま背を向けて、部屋を後にした。途中、アルフィーとすれ違って、心配そうな声をかけられたけれど、無視をして一つの部屋に向かった。もう一人、俺を糾弾すべき人がいると思ったから。扉を叩けばソフィアが出てきた。彼女は俺を見て慌てて扉を開けてくれた。ソフィアに誰も部屋に入れないよう指示をしてから、部屋に入る。
「あら、陛下。どうなさいました」
 俺に気が付いたシャーロット嬢は優しく微笑むと、そう声をかけてくれた。
 シャーロット嬢はとっくに気が付いていることを俺は知っている。だから、彼女は俺のことをずっと陛下と呼ぶのだ。
「シャーロット嬢に謝らないといけないことがあって」
 彼女はそっと目を閉じて、穏やかな声を発した。
「とうとう私の処罰が決まったのでしょうか」
 俺が何も言えないのを肯定と取ったのか、彼女は静かに続ける。
「潰された家門の娘が国王の婚約者のままいられるはずがございません。ここを出る覚悟は、陛下にあれを手渡した時から覚悟はしていましたから」
 彼女との婚約を破棄しようとは思っていなかった。どちらかといえば、これから伝える事実で破棄を願われると思っていたくらいだ。
「君への処罰はない。それは本当だ」
「では、陛下が謝ることとは一体」
 何度か息を吸って吐いて。拳を握りしめて、体が震えないように、声を震わせないようにするので精一杯だった。彼女と視線を交わす強さは持っていなかった。
「兄弟が、国を出ていった。俺は、彼を尊重して、無理に引き戻すことはしない。だから、ごめん」
「陛下が謝るようなことは何もございません」
「俺は、謝らなければならない。君の家門を潰し、家族を殺したも同然だ。その上、君にずっと嘘をついていて、君の人生を潰してしまった」
 彼女はしばらく何も言うことはなかった。てっきり、兄弟やギルバートのように聞かずとも心の声が響いてくるかなと思っていたけれど、それもなかった。俺たちの間にはただただ静寂が流れていた。俺は、処刑台の上に立たされたような気分で彼女の言葉を待っていた。
「陛下の」
 長い沈黙を破った彼女の声は少しだけ震えていた。
「陛下のおそばに残ることは許されますか」
「え......」
 彼女の言葉に耳を疑ってしまった。
「婚約者や王妃の立場は望みません。侍女や厨房係で構いませんから。陛下のおそばにこのまま置いてくださいませんか」
 この人は何を言っているのだろう。全部知っているだろうに、どうして俺のそばに残ろうとするのだろう。
 心の声を聞いてみたいと思った。でも、聞けなかった。
 怖かったんだ。彼女は穏やかだから勝手に声が聞こえてこないだけで、実は自分のことを恨んでいたら、とか、
兄弟の代わりにとか思っていたら、とか。彼女の本心を聞く勇気は俺にはなかった。ただ、彼女の言葉を、そのまま受け取ってしまいたかった。
「君が、それを、望むなら......。ねえ......。君は、王妃に、なってくれるかい」
「陛下がお許しくださるのであれば」
 ボロボロと、涙が溢れて仕方がなかった。彼女はそっとハンカチを俺の頬に当ててくれた。
 彼女が入城した日と同じように。
「ありがとう、シャーロット」
 彼女の名を呼べば、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
※※
 弟と入れ違いに入ってきたのはアルフィーで、俺が名を呼ぶ前にアルフィーに首を締め上げられる。
「お前、あの子に何を言った」
「何も言っていない。ただ、連れ戻すために勅令を出せと言っただけだ」
 それでもなお俺の首を絞め続けるアルフィーに俺は舌打ちをする。
「家族の問題だ。お前が口出しすることではない」
 俺の言葉に、アルフィーは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「だったら、あんな色をさせてんじゃーよ。お前、何も言っていないというなら、何を思った。あの子と話している時に、何を考えたんだ!」
「俺が何を考えようと関係ないだろう。余計な口出しをしてくるな」
「関係あるんだよ! あの子には、自分からは聞かないと約束させた。でも、あの子が望まずとも聞こえてしまうものだってあるんだよ! あの子にはお前の考えが聞こえちまったんだよ! じゃなかったら、あの子があんな色を纏うはずがない!」
 さっきから、色とか考えとか聞こえるとか何を言っているんだろう。
「お前、さっきから何を言っているんだ」
 その言葉に、アルフィーは落ち着きを取り戻したのか、俺の首にかかる手が少しだけ緩まった。
「俺には、他人の魔力が見える。魔力は感情に左右されるから、他人の感情が多少は読める。あの子は、人の思考が読める。聞こえると言った方が正しいか。その時に相手が考えていることを聞くことができるんだ」
 何を、言っているんだろう。思考が読めるなんて、そんな。
 そこで俺ははたと気が付いた。
 俺は、さっき、何を思った......。
 先ほど自分が考えてしまったことを思い出す。
「嘘だ。思考が読めるなんて。だって、思考が読めるなら、俺は、さっき」
 自分のしでかしてしまったことを自覚し、急に足元が覚束なくなる。
「俺、あいつに謝らないと。きっと、かなり傷つけた」
 歩き出そうとした俺の肩を両手で掴んでアルフィーは行く先を制してきた。彼は悲しそうに顔を横に振る。
「今は駄目だ。あの子に聞こえるのはその時々の思考でしかないはずだが、あの子はそれを心の声という。だから、あの子が落ち着くまではそっとしておいた方が良い」
 まるで俺よりも兄らしい口ぶりに頷くしかない。アルフィーは俺から手を離すと早足で部屋を出ていった。俺は客用のソファーに倒れこむ。
 間違えてしまった。今さらになって後悔したってもう遅い。いつかの、ヤーハン国の皇太子に言われたことを思い出す。
『きちんと目を向けてあげてください。時間は戻らない。我が王家の秘術でだって時を戻すことはできない』
 今さらになってあの言葉を痛感するなんて。あれで、意外と頑固な部分のある子だ。もう一人の方が扱いやすいと思う時の方が多いくらいだ。今のままでは、俺たちの信頼関係は失われたままだろう。
 彼の信頼を取り戻さねばなるまい。
 いや、ひょっとしたら、もう二度と信頼してもらえないかもしれないな。
 自嘲と共に笑いが漏れる。
『俺が守るから。絶対、絶対守るから。だから、母さんは安心して、休んでいいよ。そう言ったのは主だろう』
 神出鬼没な己の使い魔がいつの間にか目の前にいた。見透かすような瞳をこちらに向けられる。
『貴方は、いつもそうだ』
「そうだな。俺は間違ったままだな」
『そうだ、間違ったままだ。何故、信じてあげない。貴方だって分かっているのだろう』
 彼の咎めるような視線に、俺は苦笑いで答える。
「こんな主についてきて、後悔しているか」
『そんな後悔、自分を召喚した己の主がまだ十四だった時に捨て去った』
 相も変わらず手厳しい。
 頭を一撫でしてやれば、彼は満足げに目を細めた。彼の頭を撫でながらぼんやりと思った。
 時は戻せない。本当に?
 徴兵されてから今まで、多くの国の秘術を調べたし、自国の伝説だって諳んじることができるくらい調べた。それでも見つからなかった。ペガサスにもユニコーンにもドラゴンにだってこっそりと聞いた。皆、首を横に振った。
 時、というものは生ける者が干渉してはいけないものであると。そもそも干渉できるはずがないと。
 ただ、ドラゴンだけは違う言い方をした。
『干渉はできない。それは真実にして真理だ。ただ、君たち人の子が思う干渉とは違うかもしれない』
 どういうことだと尋ねれば彼は答えてくれた。
『未来は常に不確定なものであらねばならないし、過去は常に決まったものでなければならない、ということさ。未来を見れば、変えようとするのが人間だ。未来を見たその瞬間から未来は変わる。だからこそ、未来には干渉できない。過去もそう。過去を変えれば現在と未来が変わる。過去を変えたという事実が残らない。つまり、過去にも干渉ができない。干渉ができないというのは、言い換えれば、干渉したところで確かめる術もなければ、干渉した事実が残らないということだ』
 ただ、と赤き竜は付け加えた。
『現在、に関しては干渉ができることを俺は知っている。干渉という言い方が正しいかは知らないが、時を止めることは可能だ。現在を止めたところで、過去にも未来にも影響がないからさ。それに、時の力は凄いものだ。例えば、時を止めて、人を殺したとする。再び時を動かしても、全てのものは元の位置にある。ただ、時を止めて人を殺そうとしたという事実は残る』
 それでは時を止める価値はあるのかと尋ねたら、赤き竜は心底馬鹿にしたように鼻で笑った。
『これだから人の子は。時を止めることの偉大さを考えもしないなんて』
 それ以上は何も教えては貰えなかったな。今、思い出したところでどうにもならない話ではあったが。
 どうして、時は戻せないのだろう。いや、赤き竜の口ぶり的に、時は戻せるのかもしれない。しかし、戻したところで全て忘れてしまうのだろう。
 だとしたら、己の罪も失敗も全て背負って悔いていられる方がマシなのかもしれない。忘れた方が楽かもしれないが、俺は今までを忘れたいとは思わない。
 それに、変えてしまったら今を否定することになる。それだけはしたくない。
 あの子がしてきたことを俺が否定してはいけない。
 もう二度と信頼されずとも、気持ちが交わらずとも、俺はあの子たちを......、いや、そばにいてくれるあの子だけでも守らなければ。
※※
 ああ、面白い。人というのはやはり面白い。
「相変わらず貴殿は不謹慎だな」
 翼を持つ白馬が胡散臭げな瞳でこちらを見てくる。隣で丸まっていたはずの一角獣もだ。
「君だって楽しんでいるじゃないか。それにしても、俺としては今回の主はとても面白いと思う。今までで一番だ。君はどうだい、天馬よ」
「どの主も己の主だ。そこに順位なんてない」
 相変わらず天馬はお堅い。
「にしては、今回は随分と可愛がっているじゃないか。普段であれば、共に戦ったり、助言したりはするだろうけれど、常時も共にいるというのは知らないな」
「うるさいぞ、赤竜が。貴殿こそ、我が主を随分と気に入っているようではないか。時についてあそこまで助言してやるとは」
「だって、君の主は面白いからね。ひょっとしたら、時を操る芸当が見られるかもしれない」
 天馬が怒ると面倒だし、ここでやめておこう。
「君はどうだい、一角獣」
「うーん。今回の主は好きだよ。優しいし、それに賢い。彼がこれから何を為すのか見ていきたいくらいには気に入っている。ただ、それ以上に僕たちの主の運命が気になるところだね」
 真っ先に反応したのは天馬だ。
「運命なんて言葉に落ち着かせるのは私たちらしくない」
「でも、運命という言葉がしっくりくるんだもの。だって、不思議に思わない?」
 俺と天馬は黙って続きを促す。
「今まで多くの人間を見てきたけれど、天馬、一角獣、そして赤竜が同時期かつ同じ血族に呼び出されたことは無い。しかも、一人は他者の思考が読め、もう一人は無意識に他者の心を掴める。さて、もう一人はどんな力があるのやら」
 一角獣の言葉に頷きながら俺も返す。
「確かにねえ。思考が読める人間は稀にいたけれど、あそこまで他者の心を掴む人間は初めてだ。特に俺たち使い魔と話すのが上手だよね、天馬の主は」
 天馬の主は兄弟間では一番魔力が少ない。もっといえば、まともな使い魔のいない魔道士長の男の方が魔力は多いし、魔力を見ることもできる。でも、俺たちは彼と話をしようとは思えない。主以外で話そうと思うのは天馬の主くらいだ。
 あれは、与えられた力と言って申し分ないものだ。
「いるかどうかも分からない、人が信じる神という存在は何をもってして彼らにこんな運命を与えたのか」
 俺がわざとらしく言えば天馬はため息をつく。
「神などいない。私たちの存在がその証明だろう」
「でも、いた方が楽しいじゃないか」
 天馬は不服そうだが、これ以上俺に何を言っても無駄だと考えたのだろう。それ以上、小言が飛んでくることは無かった。
 やはり、天馬とは相性が悪いなあ。
「それにしてもさあ、これからどうしようか。主たちも離れ離れなら、僕もお願いされちゃったからここには残らないよ」
「君は寂しいかもしれないけれど、俺たちが何かをすることはないだろう。まあ、嫌なら従わなければ良い」
「君は肝心なところで冷たいよね。まあでも、君の言う通り。何が起ころうと人の子の為すこと。僕たちは見守ることしかできない」
※
 衝動的に城を飛び出してから転移魔法を繰り返し、アカナ連邦共和国の首都に着いた。自国の王都も大分栄えていると思っていたが、それ以上に賑わっていた。
 そう言えば、公務以外で自国の外に出るのは初めてだ。これでも隣国の要人であるはずなのに、誰も自分に目をくれない。そうか、ここでは自分はただの個人でしかないのか。
 人目を気にしなくて良いことに、自然と心が浮足立ってくる。小走りで街を回っていると、人にぶつかった。
「あ、ごめん」
 謝りながら振り返ると銀糸が舞うのが目に入った。
 ぶつかったその人は、尻餅をついてしまったらしく、その拍子にローブのフードが脱げてしまったようだ。銀の髪の、僕よりも年下であろう少女だった。
 僕は慌てて手を差し出したが、銀髪の少女は僕の顔をじっと見たまま動かない。
「あの、大丈夫?」
 ひょっとして自分の存在がバレたのだろうかと思っていると、彼女は不意に僕の手を握り立ち上がった。
「ごめんね。怪我は無いかい」
「問題ないわ」
 彼女はやはり僕の顔、というよりも僕の目をじっと見たままだ。なんとなく居心地悪く感じていると、彼女の肩に手が置かれた。彼女は手の主を振り返る。
「いきなり見えなくなるから驚いたよ。どうしたんだい」
「こちらの彼にぶつかったの。何もないわ」
 男は困ったように笑って俺に謝ってきた。
「この子が迷惑をかけたようですまなかった」
「いえ、僕が周りを見ていなかっただけなので。こちらこそすみません」
 そう言うと、彼らは去っていった。
 親子っていうほど年は離れていないようだったし、兄妹だろうか。まさか、夫婦ってこともあるのだろうか。まあ、どうでもいいか。
 それよりもこの国の銀行的な施設に行かなければ。一応、少ない額の自国のお金とどこの国でも同等な価値を持ちそうな宝石細工(学院時代にご令嬢にもらった)をいくつか袋に入れてきたから、しばらくは生活に困らないだろうけれど、換金しなければ使えない。それで過ごせる数週間のうちに働き口を探さなければ。
 人に話を聞きながら、銀行施設に辿り着く。換金を頼みたいと伝えれば、ここは財産を保管するところであり換金するところではないと門前払いをされた。
 うちの国では、銀行で他国の通貨の換金はできたのにな。確かに宝石の換金は宝石商だったけどさ。
 諦めてまた人に話を聞きながら宝石商の場所を聞いて足を運ぶ。持っていたお金と宝石細工を差し出すと、この国の通貨に換えてくれた。道行くときに色々なお店の値札をチラ見してきたが、予想通り、しばらくは生活に困らない額になった。
 街の外れを歩いて安宿を見つけて、適当な酒場に入った。自国の王都と同じ様に、いくら国で一番大きい街といえど、一本道の内側に入れば法が及ばない場所がある。この酒場も言ってしまえばそんなもので、明らかに未成年な己にも酒の品書を渡してくる。
 酒は頼まずに、適当な飲み物と食べ物を頼み、同じ席のおじさんと話をした。職が欲しいと言えば、首都で合法的な職を探すには身分証明書が必要だと言われた。
 身分証明は少し困るのだ。とはいえ、非合法な仕事を自分ができるとも思えない。
 これは、先行きが不安だなあ。
※?※
「この子は狐憑きよ。でなければ、髪が白いなんてありえないわ。この子の周りはおかしなことばかり起こるし」
 そんなことばかり言われて、蔵に閉じ込められるのは飽きてしまった。幼い頃から同じことを言われ続けたから、どうでも良いのだけれど、蔵に閉じ込められるとご飯が貰えない。今度は何日入れられるのかしら。
 いらない子。そんなこと分かっている。でも、それなら殺してしまえば良いのに。どうして殺さないのかしら。
「あら、今日も来てくれたのね」
 蔵に閉じ込められている時にだけ現れる白い竜。この子が何かしら食べ物を持ってきてくれるから、最長で一ヵ月蔵に閉じ込められていた時も生き延びられた。
 まあ、そのせいで化け物扱いが加速したのだけれど。
 こうなった発端は何だったかしら。幼い頃から皆が私を恐ろしい物でも見るような目で見てきてはいたけれど、閉じ込められることは無かった気がするわ。名前すら呼ばれたことは無かったけれど、食事と寝るところはあった気がする。
 ああそうだ。私の不思議な力だ。確か、近所の男の子に虐められて、やめてって言ってもやめてくれなくて。もう一回、やめてって叫んだら、男の子は突然その場に倒れたんだ。辺りを真っ赤に染めながら。
 それ以降、こういった不思議なことがよく起こるから、そのたびに閉じ込められる。
 自分でも制御できない不思議な力。使いたい訳ではないのに、自分の意思とは違うところで使ってしまう。それを忌み嫌ってくる周囲。私のせいではないのに。
 そのうち、本当に親か兄弟に殺されるのだろう。まあ、殺されたところでどうでも良いのだけれど。
 そんな生活が今後も続いていくと思っていたの。
「迎えに来るのが遅くなってごめん。さあ、行こう」
 そう言って私の手を引いたのは私の遠縁だという男だった。都で陰陽師をしていると言った、まだ若そうな男。彼はヨリミツと名乗った。
 初めてだった。名前を呼んでくれたことも、温かいご飯がお皿に載って出てきたことも、抱きしめられて眠ることも。
 私の不思議な力とこの白い髪は、おかしなものではないと教えられた。不思議な力はこの国では陰陽道と呼ばれて都では重宝されているらしい。でも、私のものはどちらかと言えば、遠い異国の魔法と呼ばれるものの方が近いとヨリミツは言った。白い髪もそうだけれど、先祖に異国の人がいて、その血がたまたま濃く出てしまったのだろうと。白い竜もそう。向こうでは伝説と呼ばれているらしい。
「近いうちに、アカナに行こうか。君はそちらの方が過ごしやすいだろう。俺は隣国の王国に用事があるから」
 どこで過ごそうとどうでも良かった私は頷いた。
 そうして、ヨリミツに連れ出されてから二ヶ月もしないうちに、私は遠い異国の土を踏んだ。
「君に名前をあげる。その白き竜に恥じない、清く光り輝く人生を送れるように」
 そうやって彼に貰った名前は、異国の言葉だからしっくりこなかったけれど、その名前で呼ばれることは嫌ではなかった。
「白き竜に名前はあるのかい」
 彼の問いかけに私は首を横に振った。
「じゃあ。リリーと呼ぼうか」
「リリー?」
「うん。こちらの言葉で百合という意味だ。君の名前はリリーに持っていてもらおう」
 前の名前を持っていたいとは思わなかった。呼ばれたこともなかったし。でも、彼がそう言うのであれば。
「分かった。今日から貴方はリリーね。よろしくね」
 そう言って撫でれば、白い竜は嬉しそうに目を細めた。
 アカナ連邦共和国での生活はあっという間に過ぎ去っていった。この国は他国の人間が多いから、私たちが変に目立つことはなかった。私の容姿も珍しいものではあったけれど、似たような人が全くいない訳ではなかったから何かを言われることはなかった。むしろ、黒い髪に黒い瞳のヨリミツの方が目立ってはいたかもしれない。
 ヨリミツは日中に仕事をしているようだったけれど、夜は基本的には一緒にいてくれた。そんな彼は月に一度、必ず家を空けることがあった。帰ってくると、いつも難しい顔をしていて、どこか近づき難かった。でも、彼は様子を伺う私に気が付くと、必ず笑顔で抱きしめてくれたから、何をしているのかはあまり気にならなかった。
 私が彼についていくようになったのは今年からだ。ヨリミツが私も来るように言ったからついていった。行先は隣国だった。つい最近、クーデターによって王家が変わった国。隣国に何をしに行くのかしら、と思いながらついて行った先には小さなお墓があった。こちらの国々あるようなお墓とは違う、あの島国によくあるようなお墓。墓石にはヤーハン語でタカミツと書いてあった。
「タカミツ......。お友達?」
「彼は......、何と言えば良いのかな。恩人であり、友であり......、家族でもあった」
 家族。私にとってはよく分からないもの。
「彼もね、君と同じで綺麗な髪の色をしていた。そのせいで居場所が無かった。私も実は君と同じだ。魔法で人を傷つけて勘当された。タカミツと共に村から逃げて、都に出て。私はあの島国に残り、彼はこの王国に来た。遠く離れていても、私たちは繋がっている。そう二人で決めて、私たちはかつての名前を捨てて、揃いの名を持った。私はタカミツを忘れたことなんてなかった。君を連れてアカナに来て、定期的に彼に会った。彼が国王の側近というのを私は誇らしく思っていた」
 それは初めて聞く、ヨリミツの身の上話。彼がどうしてこの話を私にしたのか分からないけれど、私は黙って聞いていた。
「タカミツは、殺されたそうだ。隣国、ウェスリーン王国の現国王に。隣国の前王が正しかったとは思っていない。それを止めなかったタカミツだって正しくは無かっただろう。分かってはいても、受け入れられない」
 それは初めて聞く声色だった。
「今の国王は、幼くして良い王だそうだよ。賢帝とまで呼ばれているそうだ。でも、たとえ彼が国民に慕われ、正義と謳われようと、私にとっては仇だ。世界が彼を認めようと、私は彼を許さない」
「じゃあ、私も隣国の王を恨めばいい?」
 思ったから尋ねただけなのに、ヨリミツは酷く顔を歪めて私を見つめると、強く抱きしめてきた。
「お前は、お前の思うままに生きてくれれば良い。お前が正しいと思うものを正しいと、正しくないと思うものを正しくないと言って生きて良い。世界がお前を否定したって、私だけはお前を肯定するから」
 彼の言うことはよく分からない。
「私にとっては、ヨリミツの言うことが正しいから」
 それは私にとって、唯一断言できることだった。
 ヨリミツは正しい。ヨリミツがいなければ私は死んでいただろうし、今みたいな生活は送れていないはずだから。ヨリミツの言うことを聞いていれば、大丈夫。
 そう思っていたのに、彼は首を横に振った。
「私が正しいとは限らない。自分で見て、聞いて、考えなければならないよ。いいかい。お前は特別だ。目を凝らすだけで何の魔法がかかっているのか分かるのも、耳を澄ませるだけで他者の考えが聞こえるのも、きっとお前の他にいないだろう。だが、お前のその能力は諸刃の剣だ。良い方にも悪い方にも転ぶ」
 そんなことを言われたって分からない。何が正しいのか、正しくないのか。誰も教えてはくれなかった。
 ヨリミツはそれ以上口を開かなかった。
 それ以降、毎回ではないけれど、私は彼と一緒にアカナ連邦共和国とウェスリーン王国の境目辺りにあるタカミツさんのお墓にお参りすることがあった。
 だからと言って、特に生活が変わる訳でもない。
 私が初めてタカミツさんのお墓に参った時から、二年ほど経った頃。タカミツさんのお墓に参る日のことだ。
「あ、ごめん」
 ぶつかった男の子の顔を見て、二つの違和感を覚えた。まず、彼と一緒にいる使い魔と彼の間に主従の関係が見えないこと。次に、彼の瞳にかけられている魔法。
 使い魔に関しては、彼の家族の使い魔という可能性も否定はできないからいいのだけれど、瞳にかけられた魔法。こちらは何の意味があるのか理解ができない。でも、関係ないから気にしなくてもいいかしら。
「先ほどの少年が気になるのかい」
 かけられた声に首を横に振るも、彼は見逃してはくれない。
「お前が他人に興味を持つなんて珍しいからね。言えないならいいけれど」
「瞳に、魔法がかけられていたの。しかも、魔法をかけたのは彼ではないのに、魔法を維持しているのは彼だから、少し気になって。瞳の色を変えることに何の意味があるのかしら」
 彼はそれを聞いて、少し考える仕草をしたけれど結局何も言わなかった。
 その日もいつもと同じようにタカミツさんのお墓に参るだけかと思っていたけれど、違った。約束があると言って、とある家に連れていかれた。
 そこで出会ったのは知らない人だった。偉そうな顔をしているけれど、どこか高貴な身分であることを醸し出している男だった。
 ヨリミツは男の手を取った。
 私はヨリミツに従うと決めた。
 けれど、ヨリミツはどこか悲し気な瞳をした。

 私はこの瞳を一生忘れられないのだと思う。


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