二〇二十二年度第一回リレー小説

ハクスイ


  かなみー、真宮 翔、空目獏、ビガレ
 
(ハクスイ)
 引っ越しがつつがなく終わり広くなった部屋で、ぬいぐるみを抱えた幼女がぼーっと座っていた。何が気になるのか部屋の片隅を見つめている。
「ほーら、そろそろ行くわよリンコ」
(民田 光太郎(白内十色))
 リンコはクマのぬいぐるみで、リンカーネイションというのが本名だ。幼女はリンコが部屋の隅に向かって歩き出そうとするのを引っ張って止めて、頭を叩く。リンコにこの世界がどう見えているのかということを、幼女は知ろうとしない。
(スニラ)
リンコにはその片隅で崩れて座り込む、黒いもやでできた幼女の母親が見えていた。幼女がどうにかして母親に喜んでほしかった。けれど、幼女が母親に触れようとすると、リンコは毎回「汚物は消毒よ」と黒いもやに睨みつけていた。
(走ル高麗人参)
「リンコ!どうしていつもいつもママをきずつけようとするの?ママは汚くないもん!」
幼女にも堪忍袋の緒が切れる瞬間があるらしい。幼女特有の甲高い声で叫んだ。 
(植場)
実のところ、幼女はそれをママと呼んではいるが、母親であるかどうかは理解していない。物心ついたころからそれは家にいて、そしてその他に親らしき存在は家の中に見当たらなかった。どうやらママとは子供のお世話をするもののようだし、自分が大きくなれたのはきっとママがお世話をしてくれたおかげなのだろう。もう少し齢を重ねていれば、幼女もその拙い思考の間違いに気づけたかもしれない。
(一休)
彼女の叫び声に反応したのか、どこからか犬の吠える声が聞こえてきた。そういえば、リンコが犬に持ち去られてしまったことがあったっけ。あのあと、どれだけ時間が経ってからリンコが戻ってきてくれたのか、さっぱり覚えていない。でも、それを取り返してくれたのは、ママではなかったことは覚えている。

(uno)
彼女にとってはそんなことは部屋の隅に溜まった塵と同様に瑣末な問題であった。さっきから門扉を叩く音がしていたようだった。だがその小さな女の子はテレビから流れる流行歌にあわせて胡乱気に歌詞を口ずさんでいるままだった。

()
その歌声や旋律、歌詞は、流行の歌にしては、妙になじみ深く感じられた。彼女の歌声と、テレビの音声以外に物音ひとつない、しんとした部屋の外から、少し遠慮がちな声が届く。
「とても素敵な歌声ですね。好きなんですか? 歌うの」
私も好きです、と声の主は続けた。

()
幼女が振り向くと同時にリンコはプラスチック製の双眸で声の主を捉える。
戦慄が走る。
そして幼女が話しかける前にリンコは声の主に威嚇する。
「来るな。出ていけ。この娘に近づくな。化け物め!」

(みけ)
声の主はリンコの言葉など聞こえていないかのように話し続けた。
「安心して。私たちは君を助けに来たんです。」
「お母さんはそこにいる?開けるように言ってくれないかな?」
心からの言葉のように幼女には聞こえた。しかし、リンコは容赦なく切り捨てる。
「開けてはダメ。大人に頼っても、あなたが傷つくだけ。」
どこかから犬の鳴き声が聞こえる。そして外から声がまた聞こえてくる。
「そこにいるんでしょう?どこか怪我しているの?」

(かみなー)
あくまでも落ち着かせるような声で、だが緊張で張り詰めた雰囲気をまとわらせている。
「押し入りますか。もう時間がないです」
ドアの外で切羽詰まった声が響く。
「開けてはダメ。大人に頼っても、あなたが傷つくだけ。」
幼女は言葉の意味を理解しているのか、ドアの前の存在に興味が向いたのかおぼつかない足取りで声のする方に近づいた。

(真宮 翔)
予感があった。それは年々歳をとるごとに膨らんで、臨界点に達する間際にあっけなく萎んで死んでいった。
けれども幼女は、その時初めて扉のノブを掴んだ。頭の奥でリンコが唸る。その扉は開かれるべきではないと。いつか、ここに越して来る以前にも、同じ経験があった。思えばずっと違和感はあったのだ。ただ見ない振りをばかりしていた。
幼女は何故この人形に名前をつけた?
わたしはいったいいつからいつまで幼女のままでいる?

(空目獏)
扉が開いて、まず犬が飛び込んでくる。犬は玄関の靴を蹴飛ばし、廊下を抜けて居室の本棚に衝突した。本棚からばさばさと音を立て雑誌が落ちる。犬は表紙の「出会いの季節」の文字を踏みつけてなお歩みを緩めることなく、リンコの方へ突進してゆく。──あ、と幼女は小さく声を漏らした。それは、リンコのフェルトでできた体が引き裂かれて白い綿がまき散らされている惨状に対する狼狽でもあり、急にブラウスが窮屈になった不快感からでもあった。

(ビガレ)
いつからか、リンコは幼女にとっての絶対的な味方であると思っていた。いや、その狭く閉ざされた空間によって思わされていたのかもしれない。
母親のような黒いもやも、部屋の外の緊張している誰かも、無邪気な犬も、全てリンコがその存在を遠ざけようとしていたのだった。その善悪を、幼女は理解しなかった。
閉塞した部屋の壁は、張りぼてのようにバタバタと倒れ、ただのフェルトの塊と年齢にして16歳ほどの少女を、露わにした。これは終わりであり、始まりだった。

春。人と人が別れ、そして出会う季節。
「凛子!」
制服を身に付けた少女が、手を振りながらもう一人の少女の方へ近づいていく。その声に振り返る少女のバッグには、クマのぬいぐるみのキーホルダーがついている。
リンカーネイション、転生という意味を持つその言葉に、少女たちはどこか聞き馴染みを覚えていた。


さわらび129へ戻る
さわらびへ戻る
戻る