陰影、フラボノイドとアルミ線 町村都 町村 都 盆栽は、少しのお金で始められるものだと聞く。 鉢のほかには植物にあった土と挿したい枝木が用意できるのならば単に思い付きで始めてみるというだけなら十分なのだとか。 試しに盆栽の楽しみ方を聞いてみることにした。 幹は作品に向き合うだけ逞しくなる。 誠実さを欠けば幹に傷が入り、人工物で傷みが広がることを防がなければならない。 枝は作品の広がりを出すための要素である。 針金を使い、自分の思う広がりが出せるように作品の成長をコントロールする。 鉢は作品の可能性を決定づける。 根の広がる余裕が出せれば、枝とのバランスも考えやすく、土に影を映すことも、苔を貼ることもできる。 花を中心に据えた作品は造形、陰影といった軸が妥当しない。 色の鮮やかさ、花卉の付き方、バランス... 幹の雄々しさ、鉢と枝の広がりとの均衡等を軸とする作品とは全く異なった視点が要求される。 良い作品には実際の「生」を考えた苔の用い方というものがあるらしい。 見る側の「表」から見たときにこれがわかるものが一流だそうだ。 作り手は、自然の質感を求めて雨上がりの日に苔を採る。 そうして集められた苔は、数十年の真緑の造形を艶やかに見せる化粧として添えられる。 さしずめ、盆栽という「画」の「睛」とでもいったところか。 あるいは人もひとつの盆栽なのだろう。 熟れぬ感性には、鮮やかに広がる皐月の花びらと対称に、窮屈な姿勢を取らされる松のなめらかな曲線が痛々しくも見えていた。
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