バレエに銃弾、道化に宝冠

白内十色



〈一日目〉
 彼に出会ったのは何でもない仕事の帰り道のことだった。といっても、仕事において「何か」である日というものは往々にして少ない。片づけなければならない作業の全体を百とするなら、そのうちの二ないし三に収まりがついた、後から修正を加える可能性があるかもしれないにせよ、見かけ上進展した、とその程度のことが一日でできる仕事量として妥当なところだろうか。私の職種は多人数で分担できるものなので、私が今日仕事をした横では、同僚が同じ仕事の別の部分を、これまた二か三の分だけ進めている。
 帰宅途中の私というのは脳のエネルギィを温存して省エネ状態にあることが多い。半分ほど寝ている状態、というと分かりやすいだろうか。私の中心部分の人格は明晰だけれども疲れやすく、すぐに眠りたがる。そのため、一般の人と対応するのは表面に作っておいた外務用の人格となっている。
 もちろん、時に面白い現象やルーチンワークでは対応できない事象に遭遇すると、表面は内側の本体を起こしにかかる。少しのラグのあと、本体が起動し、対応する。パソコンに向かって仕事をしているのもその人格である。周囲からは人が変わったように見えるらしい。どちらも自分の一部である、と認識している。
 彼に出会った時、私の中心部分が覚醒するのには少しの時間を要した。彼の異常性を認識するのに時間がかかったからだ。周囲に鳴り響いていたパトカーの音を、外務用の人格は感知していない。
 彼は私の住んでいるマンションの前で座り込んでいた。ひどく、疲れた様子に見えた。ただ、人生に疲れた浮浪者といったいでたちではない。激しい運動をした後のようだった。汗をかいたのだろうか、左手にハンカチを握りしめている。
 彼は異様に小柄だった。男性であることは明らかだったが、女性だと仮定してもなお小さい。子供か、とも思ったが、骨格の発達具合から成熟していることが見て取れた。
そして、彼は美しかった。男である私ですらもはっとするほどの整った顔立ちで、伏せられた目は憂いを含んでいるのかと錯覚するほどだった。
 外務用の人格には、通り一遍の善意と親切心がインストールされている。悪意までシミュレートするだけのリソースが私の本体以外の部分には残っていない、ともいう。特に深いことを考えられるわけではない。二手先、三手先を読むことなんてできない、しかし日常生活はそつなくこなす、そんな人格だ。
 そんな私は、何を考えたか彼に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 よせばいいのに、と思われるかたも多いと思う。顔に惹かれたのかもしれない。私の本体がまだ完全に眠り切っていないとき、私の視線が道行く女性に引き付けられる現象を自覚することはある。原始的だからこそ、外務用の人格はより人間の本能に近い存在であるといえる。
「寝る場所がありません」
 と、彼は答えた。このとき彼が目を開いたので、私はその澄んだ瞳に驚かされることになる。
 私の中心の人格がようやく起動したのは、マンションの玄関の前に彼と二人立ち、まさにカギを開けようとしている時だった。どうしたものか。まだ悪あがきをすることのできるタイミングではあるが、腰のあたりからは彼の澄んだ目線が飛んでくる。私にも善意というものがないわけではない。善なることは(少なくとも悪なることよりは)報われるであろうと信じていたかった。
 私が悪人ではないことは確かだった。その証拠に、私は彼に殺されなかった。幸いなことである。
 結局彼を部屋に上げることにした私は、手を洗い、コートをハンガーに掛け、リモコンを手に取りテレビの電源を付けた。テレビを付けるまでが帰宅後の私の一連の動作であり、そのことに深い意味はない。テレビは基本的に音を聞くだけで、情報を聞き流しながら買ってきた弁当を食べるか、料理をするか、もしくはそれ以外の行動に移る。学生の頃は音楽だったが、いつの間にかテレビに代わっていた。
 テレビでは臨時ニュースをやっている。
「本日昼に指定暴力団○○組本部が襲撃され、十一人が死亡した件についての続報です。警視庁によりますと、本事件に関与したのは連続殺人犯『殺人ピエロ』であるとのことで、警察はこれを受けて厳戒態勢を宣言しました。これに伴い、国道○○号線、〇×号線、×〇号線、××号線が通行止めとなっています。繰り返します。国道〇〇号線......」
 『殺人ピエロ』はどうも殺人犯本人が名乗っている名前で、「悪人しか殺さない」ことをポリシィにした、いま最も世間を騒がせている殺人鬼だ。ターゲットは殺人者から結婚詐欺師まで、悪であることを条件に幅広い。
 ソファに腰かけた私の頬に後ろから冷たい金属の塊が当てられる。目撃者の証言によると、殺人鬼の体躯は極端に小さかったそうだ。
「殺人ピエロは悪人しか殺さない、よね?」
「はい、ですが今回は、通報しようとしたら殺します。その後に、私も自殺することにしますが、あなたは死にたくないはずです。これは、脅しとして有効ですか?」
「有効だと思います。言っていることがめちゃくちゃだけど」
 私はそう、死にたくはない。生まれて初めて死というものを身近に認識したが、それはずいぶんと生々しい感触だった。少し間を開けて、殺人ピエロは顔の横のナイフをひっこめた。少し横を向いて確かめたところ、ソファの後ろで彼は背伸びをして、かなり無理な姿勢で私に話しかけていたようだ。彼の身長ではソファですらも重度の障害物となりうる。とはいえ彼はすでに何十人も殺しているのだ、飛び越えるくらいのことは、人を殺すよりは簡単だろう。
「あなた、悪人ですか? 悪人ならば話が早いのですが」
 ソファを回り込んで、私の隣に座ってくる。距離感が近い。顔も映るようなナイフを愛おしそうに握っている。
「というと?」
「殺します。殺して、この家に私が住みます」
「悪人しか殺さないのは絶対なんだね」
「もちろん。そうではない私に存在の意味はありません。私は悪人を殺します。それはそうすることが正しいと私が信じているからです。悪人以外を殺すことは正しくありません。それはただの殺人で許されることではありません。もし自分がそんなことをしたとしたら、死んで償うしかありませんね」
「なら、脅しだとしても私を殺すなんて言わないでほしい。自分は殺される対象ではないと思う。君の悪人の定義にもよるけれど」
「人を傷つけた回数が一定数以上。一定数は、目分量です。日常的に傷つけている人から優先的に殺しています」
「人生全部を積分するのは大変だよ。全部の瞬間全部の行動を把握して足し合わせるの? 閻魔様くらいしかそのデータは持ってないんじゃないかな」
「目で見てわかりやすいものだけをカウントしています。まあ、妥協ですね。大きく外れることはないでしょう。大きな過ちを犯す人間は日常生活でも小さな過ちを繰り返しているだろう、との推定です」
「あなたやっぱり殺人鬼だよ。狂ってる。自分としては、悪人でないことを申請するしかない。マクロでも、ミクロでもね。なぜなら、まだ死にたくない」
 そこで彼はくすりと笑った。爽やかな風貌だが、殺人者であるという色眼鏡で見れば、魔性の笑みのように見えなくもない。
「では、こうしましょう。これから私はあなたと共に行動します。あなたが悪いことをしたら、私が殺す。悪いことをするまで、殺さない。殺さない場合、この家に住ませてください。私には寝る場所が必要です」
 視界の端に銀色のナイフが見える。これは提案をされているようで、実際のところただの脅しだ。他者と隔絶されたこの場所では権力も財力も関係がない。武力ですべてが決まってしまう。
「結婚式場で仲人が言いました。この世には大切な四つの『力』があります。電磁気力、重力、強い力、弱い力......」
「何の話ですか?」
「いえ、結婚式で急に物理学の講義が始まったら面白いなと。言われっぱなしでは面白くない。一つ、条件を出させてください」
「どうぞ、ご自由に」
「これからはもう、人を殺さないでください。人を殺したことがわかったら、警察に通報します。私が殺されるとしても、私のせいで人が死んだとなると私は私を許せなくなる。あなたは人を殺さずに普通に生きる。それが条件です」
 彼は掌の上でナイフを回しながら考えるそぶりを見せる。そのうちジャグリングでも始めそうな勢いだ。殺人ピエロであることだし、大道芸もできるかもしれない。
「それは、私に殺人ピエロとしての仕事をやめろということですね?」
「そうです。殺さないでください」
「私が殺人ピエロを始めてから、一年間が経過しました。その間に、犯罪の発生件数は減少する一方です。軽度の犯罪はそこまで減っていませんが、殺人などは私が殺した分を差し引くと、目に見えて減っていますね。警察では解決できなかった犯罪を暴いて、殺しているのも私です。それでも、ですか?」
 テレビのワイドショーでも言っている通りだ。犯罪の発生件数はこの一年で四分の三になり、殺人ピエロこそが正義だと祭り上げようとする組織もあると聞く。けれど、そんなことは関係がない。
「その通りです。あなたがやっていることは、何を言おうと殺人ですし、私は私の倫理観でそれを許せない」
「私の、殺人ピエロとしての倫理観とは、全く違いますね。けれど、異なることは悪ではないと思います」
「それはよかった。あなたが殺したら通報する、これは脅しとして有効ですか?」
「その通りです。あなたが悪を犯して、私が殺せるようになるまで、待つことにしましょう。それまでこのナイフは、仕舞っておきます」
 殺人ピエロが手を顔の前で打ち合わせると、握っていたはずのナイフがいつの間にか消えている。手のひらを開いて左右に振るのは、今は害を加える予定ではない、というサインだろうか。とんでもないことになったものだ、と改めて実感する。
「弁当、一ついただけませんか? あなた、二つ買っていましたよね」
 今日の分と、明日の昼の分だ。殺人ピエロは悪びれず、堂々としている。警戒心を抱かせない話し方、立ち居振る舞い。こちらの間合いに前置きなしに入り込んでくる。
 食事が必要ということは、幸いにして、原子炉搭載型の殺人鬼というわけではないようだ。原子炉だとしたら、面白い。ワクワクするといっても良い。悪人を殺さないと爆発する、そんな設定も浮かんできた。
 気づけば空腹を感じている自分が存在する。死が近かったからだろう。生への渇望は、もっとも純粋な、人間の在り方だ。シャットダウンされることを、拒めるということ。可能か不可能かではなく、意思の有無。それが、機械との違い。
 原子炉と心臓の、違い。
 吸血鬼の心臓に打ち込まれる杭って、制御棒みたいだな、なんて。

〈二日目〉
 殺人ピエロが私の家にいたとしても地球は回転を止めはしないし、次の日が来て私は会社に行かなくてはならない。殺人ピエロには「定刻に帰らなければ手当たり次第に周囲の人を殺します」と言われている。彼のポリシィに反しているので本当に実行するかどうかは定かではないが、検証可能性がなくても従わなければならないのが脅しという行為の困ったところである。目からビームを出しますよ、くらい明らかに嘘であれば問題はないのだけれど。
 会社に行くと郷原という同僚がいる。職場だと一番仲がいい。外務用の人格の裏で私が眠っていたとしても、この人の声には反応して飛び起きる。なにせ、大学にいたころからの付き合いなのだ。
「よう、なんか今日は覇気が足りねぇじゃないか。作業効率半減ってところだ。オクターブ下だな」
 私が社食で売っていたクリームパンを食べていると、後ろから話しかけられた。
「音楽のことはよくわからない。ちょっと私生活で問題が発生してね。君に話せる問題じゃないのがさらに問題だ」
「悩みを一人で抱えておける根性はないだろうが。話しちまえ。楽になるぞ」
 本当に楽になってしまう可能性がある。死は救済。
「悪いね。込み入った問題なんだ」
「そうか。ところで先川女史から伝言だ。進捗が見たいから今日家に行く、そうだ。俺も行くかもしれん」
 それは困る。先川さんが来ることが既に隕石が落ちてくるようなビッグ・イベントなのに、私の家にはすでにもう一つ隕石がある。
 先川さんも私と同じ会社で働いている一人だ。部署が離れているので仕事場で会話をすることは少ない。私の会社はプログラムを取り扱っているが、先川さんと郷原はそれにとどまらない。先川さんは脚本家であり、郷原は音楽家という、裏の顔を持っている。
 私たち三人は、趣味でゲームを作っている。ドラクエやゼルダのような有名な、巨大なゲームとまではいかない、小規模なものだ。私の役割は本業と特に変わらないプログラミングで、ゲームに魂を宿すといえば聞こえがいいが、その実ひたすらに泥臭い。先川さんなんかは「お仕事以外でプログラミングなんてしたくないわよ」という意見なので、必然的に私にその仕事が集中する。
「困るな。家に人が来るのは」
「おっと、女か? だとすると、お前」
 郷原に限らず、人は恋愛の気配を少しでも感じると食いつきが良くなるのはどうしたことだろう。
「違うよ。女性だったら大変だ。隕石三個目だよ。地球の自転が変わるかもしれない」
「何の話をしてんだ? 自分の思考と現実の会話を混同するのは悪い癖だぞ。だとすると、消去法で、男か?」
「消去法だと、そうだね、男です。」
 郷原が手を打ち鳴らして大きな音を立て、目をこれ見よがしに開いたり閉じたりする。
「残念だな。全く違う。これっぽっちも、消去法じゃあない。とにかく、男なんだな? 女を取り除いたって男ってことには普通ならねぇ。ギャンブルで家賃が払えねぇとか、暴力団だとか、なんだってある。その中でも、男が関わってやがる。多分一人だ。一人じゃあないと女とは対比されねぇからな。一人の、男。お前の家に転がり込んでいるんだな? そういうことだろう」
 親指を上げ、人差し指を向けて拳銃のポーズをする。郷原は体が大きく髭面なので、殺し屋にでも出会ったかと錯覚する。
 勘が鋭いが、その勘を理論で裏付けすることを忘れない人格だ。豪快なようでいて、繊細。そうでなければ音楽など作っていられないだろう。
 ため息。
 郷原の前から失礼して、殺人ピエロに電話をかける。気が進まないこと、この上ない。郷原は止まらないだろう。連絡するよりほかに、手段はない。
「殺人ピエロ。連絡です」
「いい加減、殺人ピエロと呼ぶのをやめませんか? 周囲には誰もいないんでしょうね。セキュリティが心配です」
「誰もいない。では、何と呼ぶ? そして、それどころじゃない」
「雪鬼(せっき)という名があります。あなたの名前は? そして、要件をどうぞ」
「雪鬼ねぇ。私は王原。王原(おうはら)玲(れ)央(お)といいます。家に人が来る。止められない。男女で二人だ。なんとか、ごまかしてください。今日の夜です」
「早いですね、トラブルが。親戚の、そう、いとこだということにでもしておいてください」
 今すぐに人が死ぬことはなさそうだ。最悪のケースではない、といえる。次に想定されるのは、郷原あたりが正体を見破ってしまうこと、あるいは、殺人ピエロの悪人センサに引っかかること。郷原の外見が犯罪者、そんな拡大解釈もできなくはない。
「来ているのはいとこです。雪鬼といいます。あまり深くは聞かないでくださいね」
 郷原にそう伝えると、ひとまずは頷いて自分の席へ戻っていった。壁にある時計を見ると、休憩時間が終わろうとしている。

 先川さんはスプリンタである。短い期間で爆発的な力を発揮するすべを心得ている。玄関で靴を脱いだ先川さんは居間までのわずかな距離で助走を始めた。こういう場合、二つのパターンがある。一つは、私が殴られる。これは、私が彼女にとって悪いことをしたときに発動する。もう一つは、抱きつかれる。これは、彼女が私を好いているからである。
 来る。
 滑るように。彼女の走りは音を立てない。
 玄関先で騒ぎを起こすわけにもいかないので、私は下がっていた。その分、助走距離が長くなる。フリルの多いワンピースでよく走るものだ、といつも思う。
 暴力か、抱擁か。今日、悪いことをしただろうか。彼女の善悪判断は、殺人ピエロとは異なる。例えば、私がほかの女性と話をしていた、なども関係する。
 走ってくる。表情からでは、何もわからない。彼女は常に笑っている。仮に避けたならば、スーパーボールのように壁で跳ね返って飛び回るのではないか、そんな連想をする。
 横から雪鬼が飛び出してきた。ナイフは持っていない。代わりに、肘を前に突き出している。突進する先川さんの、みぞおちに当たる位置。
 迎撃する気だ。何故。しかし、疑問を抱いている時間はない。
 とっさに、足を前に。
 雪鬼の膝の裏に当たる。
 態勢を崩した。
 頭をつかんで、横に押しやる。殺人鬼といえど、姿勢を保てずに倒れる。
 彼女を受け止めるのは、私の仕事。
 彼女も、それを望んでいるはず。
 ジャンプするところが目に入る。
 雪鬼を飛び越えて、私に。
 手は、突き出されていない。横に広げている。
 できるだけ、彼女の服を傷つけないように。
 受け止めて、力のままに倒れる。安全のために。彼女に傷がつくことは、私にとっても傷となる。そんな予感がする。
 首筋にキスが飛んでくる。郷原も一緒に来ているはずだ。今頃は目を背けているだろう。視界の端で雪鬼が跳ね起きるのが見える。体のばねを使った機敏な動き。
「ちょっと、ストップ! それくらいにしてください」
 先川さんが私の唇に指を押し当ててくすくす笑う。
「おっとお、これでおしまい?」
「今日は、ほかに、人がいるので。それに、まだ私からイエスと言った覚えがないのですが。大体、どうして私なんです」
 彼女がこうなるようになったのは二か月ほど前からである。それ以前からゲームを作る関係で交流はあったが、ビジネス的な友人だとばかり思っていた。今でもまだ、なぜ好かれているのかがわからない。
「それはあなたが、純粋だから。でも今は、別の話をしたほうが良い? 後ろの怖い男の人とか」
 そう言って彼女は後ろを見る。玄関で顔を横にしたままの郷原と、美しい顔をした雪鬼という男。雪鬼はソファの背もたれの上にしゃがみこんでいる。飛び乗ったのだろう。海賊の肩にとまるオウムか、屋根の上のガーゴイルのようだ。
「......私は雪鬼といいます。彼とはいとこになります」
「彼を、守ろうとした? どうしてなの?」
「彼に死なれると嫌なので」
「へえ。雪鬼さん、あなたいい人ね」
 雪鬼が憮然とした顔をしている。少し、面白い。先川さんは、殺人鬼を困惑させることに成功した。しかしよく考えると、彼は何をしても面白いのではないだろうか。だって彼は殺人鬼である。殺人ピエロ、名前の時点ですでに面白い。

「いいこと? 私たちがやろうとしているのは天地創造なの。神の御業。でも、それは決して不可能なことではない。ごく小規模に、三人がかりでようやく手の届くような世界を設定して、私たちはそれを作る。そして、私たちは神になる。」
 私と郷原を前にして先川さんが語り始めた。重心を左足に置き、右手を大きく広げている。
「神だから天地創造を成せるのではないの。その逆、天地創造を成したから、神なのよ。私が欲するのは神という立場。そして、作り出した世界。すべてが私たちの意思に従う、私たちだけの世界が私は欲しい。それを作り上げたという栄誉が欲しい。ええ、この世界に神はいくらでもいるわ。ゲームでも小説でも事業でも何でもいい。何かを成した人はすべて神よ。けれど、それは誰にでもできることではない。誰にでも手の届く可能性はある。手を届かせようという勇気のある人はほとんどいない。限られた人間だけがたどり着ける栄光の座に私は座りたい。私たちだけの世界! 私たちとそれ以外の世界を隔絶する明確なる境界線、それをこの手で創造する!」
 両手を大仰に振って、腕を組む。控えめに拍手をしておく。鼓舞されたわけではない。他人の意見に牽引されることで速度を増すシステムは私には搭載されていない。ただ、手を鳴らさないよりは、悪くない。そんな冷静な統一感がある。
 常に一方向から強い風が吹く場所で、木々が同じ向きに曲がっているような。
「はいそこ! 拍手して!」
 指が部屋の隅のほうで興味なさげにしていた雪鬼に飛ぶ。
「え、私ですか?」
「ええ。あなたを揶揄うのは面白いと私の天才的な頭脳が判断しましたわ」
 先川さんはスプリンタである。新しい状況に対しての対応を決めるのが、とにかく早い。流れ落ちる稲妻のように明快である。
「世界を作ること自体が目的なんですね。こんな世界を作りたい、ではなく」
 存外聞いているものだな、と雪鬼への評価が少し変化する。殺人の側面、あるいは善悪の基準だけではない、それ以外の思考方法も持ち合わせている。
「そうよ。すくなくとも、私はそう。私は脚本家。作る世界は選ぶけれど、それは自分たちにできる範囲を探しているだけ。そのとき一番作るのに適している世界を作っている」
 雪鬼が目を細める。少し横に広げたピース・サインを向けて、私と郷原を指し示す。
「お二人は? どうしてゲームを作っていますか?」
「俺は音楽家だ。好きな音楽を作っているし、依頼された曲も作る。それが、ゲームという形で世に残る。それだけのことだ」
「私はプログラマです。自分では世界を作れない。ただ、先川さんの作る世界観が好きだから、それに手を貸しています」
 表向きの返答だ、と自覚する。実際の動機などわかるものか。きっと、ただ流されただけなのだ。生成初期の隕石が落ちた衝撃のまま、惰性で自転を続ける地球のよう。
 ただ、何か、理由がないとやっていけない。生きるためにも理由が必要なように。
 インパクトは二回あった。最初ゲーム作りに誘われた時と、先川さんに思いを告げられた時。自分を変えるかもしれない、という祈りと、それまでの自分への未練が、膠着状態を作り出している。
「さて、本日の趣旨を発表するわ。ゲームの進捗確認と調整。そして、その後はぁ、なんと!」
 パチン。
 停滞しかけていた空気に先川さんが指を鳴らすと、郷原が抱えていたバッグを机の上に置く。仕方がないから合わせてやっている、という気配をひしひしと感じる。
「本日ご用意したのは酒! そして肉! からのピザとなっておりまぁす! 酒はリンゴのシードルにビール、ビール、ビール、そしてウィスキィ、水も十分! さあ皆さん拍手!」
 雪鬼も合わせて満場一致の拍手である。私の部屋でアポもなしに何を始めようとしているのか、という葛藤もあったものの、流されるべき水の流れだ、という判断が先にある。

〈三日目〉
「死神なので林檎酒しか飲みません」
 雪鬼はそう言ってシードルを大幅に薄めたものを少しずつ飲んでいる。あまり飲める体質ではないらしい。体が小さいので、アルコールの回りも早いのだろう。
 死神なので、とは便利な言葉だ。集合写真を撮ろう、と先川さんが言い出した時も、死神なので写真に写りません、と躱していた。ほどよくファンタジィ。
 酒のほとんど、肉の大部分は、外見から想像される通り、郷原の胃袋に消えることになる。その分お金は多く出す。雪鬼は金銭を所持していないので、その分、私たちが作っているゲームのテストプレイに参加することとなった。
雪鬼はゲームの類をあまりしない人間らしくシステムに不慣れだったが、それは説明の足りないこちら側にも非のある現象だ。何も知らない人がプレイして楽しく遊べるようでなければ、作り上げる世界として面白くない。ゲームを開発していくうちに開発者だけはそのゲームが得意になってきて、ついつい難しく作りすぎてしまう、というのはよくあるミスの一つだ。
「むかし、むかしのことね。私のことを好きだといった男がいたわ」
 先川さんは机に突っ伏している。まだそれほど飲んではいないはずなので、酔ってきたことを示すポーズのようなものだろう。
「それで、どうなった? 順当な推測ならうまくいかなかったんだろう? 恋愛ってのは基本、うまくいかねぇもんだ」
 と、郷原。
「なにも。何も起こらなかった。話して、笑って、それだけの人。恋愛ってよくわからなかったから保留と答えたら、次の月には別の女の子と並んで歩いてた」
「そりゃあ、まあ、よくあることだわな。うん」
「そう。そう......」
 私は何も言わずにいる。自分の中の理知的な部分が、眠りにつこうとしているのを感じる。自分を区分けして、棚に服を詰めるときに夏服と冬服、下着類にタオルを分類するように、整理して詰めなおした、その弊害といえる。形而上のものがその通り棚の上にあって、上からアルコールを注ぐとそれが先に濡れていく。
「恋愛、人間の最大の悪徳の一つですね」
「冗談でしょう?」
「死神ジョークです」
「それ、面白くないよ」
 雪鬼が口に手を当てて静かに笑う。
「俺なんて、妻が浮気をしてから二年が経つ。お前らまだ若いよ。きっと最悪なんざいくらでもある。最悪じゃないだけ、命が助かってる分だけ、マシだと思わなきゃぁ」
 郷原がビールの最後の一瓶を開けながら言う。その話は当時も聞いたことがある。そのとき彼は一週間会社を休んで、その後表面上は何事もなかったかのように戻ってきた。
「よく、生きてるわね。どうやって、生きてるの? 想像もつかない」
「生きてるわけがねぇだろう。死んでいる。死んでいるから、音楽なんかやっている。死者が呻いているのさ。地面にはすげぇ量の死体が埋まってるだろう? 何億年も地球ってのはあるんだから。その一つ一つが、本当は呻いている。ボーリング・マシンで穴をあけてやると、その声が反響して地上まで届く。それを、音楽と呼ぶんだ。死んだやつらの合唱。俺もそれにちょっとばかり混ぜてもらっているだけだ」
「私の小説も、きっと同じ」
「そうか、そりゃ何より。お前さんの文章、俺は好きだぞ」
「ありがとう。私も、あなたの音楽、悪くないと思う」
 
 ばん、と机をたたいて先川さんが起き上がる。ミネラルウォータを一口飲んで。何でもないことのように私に言う。
「王原さん、キスをしましょう」
「こたえはNOですが、手の甲くらいならどうぞ。そこはもう、諦めました」
 蜥蜴の尾のような。私の手は無念なことだろう。きっと、唇と同等に扱ってほしいに違いない。
「あなた、プログラミング以外、したことないでしょう?」
 斜め方向からの攻撃。一見、無害そうに思える。真意は不明。
「趣味も仕事も、そう、その通りです」
「あなたは慣性の法則ばかり働いているように見える」
「あの、話の方向性が見えないのですが」
「あなたは一度乗った流れから外れようとすることはないわ。ほかの男とは違う。あまりにも単純で、純粋。恋愛の対象としてこれ以上安全な人はいない」
「リターンを求めるのではなく、リスクを避けている。それは、本当に愛ですか?」
「私、もう愛とは何かなんてわかりません。何回も死にすぎて、ペナルティで忘れてしまったのね。それを思い出すためにはたくさんの時間が必要なの。愛される時間がね」
「それで、私を求めている。ずいぶんと、乱暴な話ですね」
「もちろん、わかっています。けれど、もう、分からないから。自分で生成できないアミノ酸はほかの動植物を食べて補わないといけないのです」
「比喩でごまかそうとするのはやめてください。私もそうだけど、みんな酔っていますよ」
 ああ、元も子もないことを言ってしまった。彼女は心の内をそのまま私に投げつけている。
 私も、そう。誠実に答えなければならない。
 誠実こそが正しいと考え続けている。私にとっての善悪の基準、少なくともその一つ。常に明快であること。直線的であること。これを誤ったら、私は雪鬼に殺されてしまう、そんな気がする。
 子供のまま成長していない。大人になるということは、正しさを諦める、ということだ。自分を曲げることを覚えること。理屈だけで動かない物事を理解すること。
 手放した風船は戻らないからって、
 小指に結びつけて、
 しぼんだ後も引きずって歩いている。
 雪鬼もきっと同じだろう。自分の正義にしがみついて、それを否定する世界に怒っているだけ。私は意地を張ることしかできないけれど、彼は、人を殺すことができる。
「あなたが好き。そう直接言ってみるのはどう? 好きとは、私がそう宣言するもののことです」
「それでもNOです。慣性の法則、確かにそうです。このNOは惰性です。けれど、自分でも変えられない。私にも昔の恋があります。それに対して、誠実なのです」
 私だって、恋をしないわけじゃない。石でも木でもない、人間である。昔の恋が忘れられない、それだけのことだ。ただ、私にとってその感情はあまりにも大切なものだった。
 間違いを間違いと認めるなんて、そんな難しいこと。

 ベッドの中で目が覚めると腕が何かを抱いている。朦朧とした意識の中で引き寄せると、心地よい温もりが体に伝わってくる。
 私よりも小さい体だ。心臓の鼓動。生の実感。昨晩のことを思い出そうとするが、記憶へのアクセスが制限されている。
 さらさらとした黒い髪。顔を見ると、美しい顔と目が合う。どうやら私よりも先に起きていたらしい。
 なるほど、そう......。
 こんなこともあるものか。
 革命的、と言わざるをえない。
 目が覚めると殺人鬼が隣で寝ているなんて。
「おや、お目覚めですか。よく眠れましたか?」
「おかげで、肝が冷えたよ。二重の意味でね」
「それはそれは」
 カーテンの隙間から太陽光が差し込んでいる。机の上はきれいに食べつくされた食料の痕跡と酒の空き瓶が散乱している。ほかの二人はすでに家に帰ったらしい。ウィスキィのボトルの下に書置きと何かのチケットが敷かれている。
『楽しかったわ。明日は遊園地でもどうかしら。ファミリア。郷原はなしよ』
 ファミリア遊園地。デート、という単語が頭をよぎる。次の指示が与えられたスパイのような気分だ。波乱はもう少し続くのだ。そういえば、一週間前に郷原から土日の予定は空いているかと聞かれたような記憶がある。誕生日でもあるまいし、サプライズが過ぎる。先川さんと出合ってからは何か月だったか? まさか、ね......。
「昨晩は豪遊でしたね」
「勘違いしてもらっちゃ困るけど、いつも、というわけではないよ」
「そうでしょうとも」
 人との会話は基本的にエネルギィを消費する。明日まであと十五時間。湖の底に沈殿したプランクトンのような疲労感がある。酒が入ると、理性の手綱を保つためにさらなる労力を必要とする。飲み食いした分より痩せるのではないか、と思うほど。
 私は疲れている。疲れたまま行動するとろくなことがない、というのは長い人生を生きていくうちで学んだことの一つだ。私は休憩して、外務用の人格にチェンジする必要がある。
「私は今から休眠状態に入ります。面白い返しはできなくなりますし、複雑な行動もできません。退屈だと思うけれど我慢してください」
 雪鬼が不思議な顔をする。誰だって、急にこんなことを言われたら戸惑うだろう。私も、誰にでも言うわけではない。ただ、急に私の中心の人格が姿を消したら困るだろう、との配慮である。
 目を閉じて、体の各部に散らばっている私の感覚を糸を引くようにして回収してゆく。胸の中に一輪の薔薇が咲いている。それが私の魂の形。花が閉じてゆくように私が収束して、薔薇はやがて蕾となり一塊の球となる。
 体の統率を手放して、外務用の人格にあとを任せる。
 おやすみなさい。
 スリープ・モード。

〈四日目〉
 イルカは泳ぎながら左右の脳を交互に眠らせていると聞いたことがある。左の脳が寝ているときは右で泳ぐ。片方寝ていても食事はできるものなのだろうか。それとも、ただ泳いでいるだけか。
 私が起動したとき、私はデスクライトの下で本を読んでいた。すぐに、しおりを挟んで本を閉じる。ループに入る戦闘機の幻影。時計を見ると朝六時だ。私より一足先に外務用の人格が起きてきて本を読んでいたのだろう。暇をつぶすために、外務用の人格は時々本を読むことがある。本の内容を私は知らないけれど、外務用がそれを読んで得た感情や知識は私の中にも蓄積されている。どちらも私なのだから、それくらいは共有する。
 基本的に私の本体が起動していられるのは一日で十時間が限度のようだ。それ以外の時間は外務用の人格だけになってやり過ごしているか、全体が眠りについている。余計なことを考えたり極度に集中したり、とにかく燃費が悪いのだ。多くの人間が意識していないだけで似たようなものではないかと推測している。
金曜日は仕事を終えた後もなお家に押し掛けてきて会話を求める人がいたものだから、私は大幅に活動時間を前借りしたことになる。その分貴重な土曜日はほとんどの時間を私は休眠に費やした。今は日曜日である。
デスクの上、消しゴムに押さえられて、一枚のメモ書きがある。これは、かなり珍しいことだ。私の外務用の人格が私に伝えたいことがあるときは、たいてい私を直接起こして話をする。今回は、私の疲労を考えてメモという形で残したのだろう。私は、私の外務用のそうしたおせっかいを、悪くないと思っている。作り出したのは私自身なので、自画自賛である。
『雪鬼をこのままで良いのか?』
雪鬼はソファに毛布を掛けて寝ている。私のベッドに入り込むような奇行は、さすがに酔っていたということなのだろう。
『憎まないのか?』
 メモ書きはそれで終わっている。きっと、思考能力の低い外務用が、必死に考えて絞り出した一言なのだろう。素直で善意な愛しい私。きっと、私自身よりもはるかに純粋だ。なにせ、私より後に作られたのだから、その分私の理想に近い。先川さんは、外務用のほうを好きになるべきなのだ。会話は、面白くないだろうけど。
 デスクに座りなおす。PCのモニタが正面にあるので、暗い画面に私の顔が映る。もう一人の自分と対話しているようで、これもまた面白い。
 私は雪鬼を憎むべきだ。なぜなら、彼は人殺しなのだから。
 雪鬼は人の懐に入りこむ能力を持っている。最初は私も騙されたし、それは現在も続いているかもしれない。私は彼が人を殺したところを見ていないが、ナイフは向けられた。テレビの報道も、おそらく真実だろう。嘘をつく理由がないからだ。私は、殺人が憎い。それは、殺人行為が悪であると自分の中で定義されているからだ。
 雪鬼は、殺人は悪ではないと言う。悪人を裁くための殺人は。悪人は裁かれるべきだが、法律が悪人にその手を伸ばさないときもある。届かないときがある。法律が定義するものが悪となるような気もするが、法律家ではないのでわからない。きっと、答えなんか出ていない。雪鬼の悪人の定義だって、あいまいなのだ。全部、主観なんだから。主観で人を殺している。彼は断罪者ではなく、殺人鬼だ。
 そんな雪鬼が、人を主観で殺してゆく雪鬼が、怖くはないか、憎くはないか、という話だ。怖い、という感情は防衛本能からくるものだから、雪鬼がこちらに危害を加えないと宣言しているうちは恐怖を感じる必要性はない、という理屈も成り立つ。悪いことさえしなければ良い。憎しみも、先々を見据えた防衛反応であるとのとらえ方ができる。危険なものを、遠ざけるための、感情の動きだ。私は子供なのだから、無条件に殺人鬼を憎んでも良い気がする。
 殺すことって、本当に悪なのか、という話もある。
 人間は分子の集合体だ。殺すも生きるも、本当は存在しない。生きているということが、分子のうごめきの中で得られる錯覚。イレギュラなのだ。私の本心はこう。死にたくないなんて、錯覚のままに言っているに過ぎない。けれど、そう、せっかくの錯覚なのだから、大事にすれば良いではないか。
 誰もがその錯覚を大切にしている。夢を見ているところに水をかける者は怒られる。殺すなんて、その程度のことだ。せっかく楽しい錯覚なのに、君はただの分子の塊ですよ、なんて言われたら、誰だって怒るだろう。でも、みんな本当は分かっているのではないか? 自分は血の入った肉の袋だって。原子炉と大差ないって。今更、そんなこと......。
 よくない傾向だ、と自覚する。普段なら、こんなことは絶対に考えない。自分の純粋性が薄れるからだ。素直に生きたいとだけ願っていればいい。恋を、恋のことだけ考えてするように、鳥がただ空を飛ぶように。
 先川さんが思っているほどには、私は子供じゃない。思考を進めれば、当然思考の内容は複雑化する。長年生きたのだ。考えないことなどできはしない。あらゆることを考えた結果、子供のようにふるまっている、自分を騙している、そういうこと。
 今考えている私自身だって、外務用と同じく作り物だ。はるか昔に私自身で作った張りぼての思考。
 本当の私は死んでもいいのに、錯覚に縋って私は死にたくない。本当の私は昔の恋なんて忘れているのに、粘って記憶し続けようとしている私。いつまでも子供な私の裏に、とっくに大人な私が隠れている。
 大人よ、これは君が望んだことじゃないのか?
 どんどんと純粋じゃなくなる、汚れていく自分に嫌気がさして、上を私で覆ったのは君じゃないのか?
 月日のたつごと変化する自分が、むかしの私は嫌いだったのだ。
 だから、時を止めた。
 いつまでも綺麗な私でいられるよう。
 どうだい君、君は自分が好きでいるか?
 私たちが読んだ本も、私たちの経験も、隠れてちゃんと学習しているんだろう?
 変わらない私の代わりに、たっぷりと大人になっているに違いない。
 私が雪鬼を許しているのも、君のせいか?
 返事はない。
 モルタルの下だからだ。
 何かが漏れ出している可能性はある。それは、今の私に対処できない物事への指示だ。純粋なだけの私では雪鬼に対処できないからだ。
 だって、雪鬼に逆らったら殺されてしまう。私が何を考えても、私の純粋な正義と矛盾しても、堪えないことには仕方がない。
 あとは、そう。
 先川さんのことか。
 YESと言わない私のことを、内側の大人は不思議がっているに違いない。
 だって、彼はもう忘れているのだから。私に純粋さを押し付けて、勝手なものだ。
 ため息。

 雪鬼が背伸びをしてチケットを買っている。数日前までは人を殺していた手だ。「大人一人」のボタンは一番上にあるので押しにくいことだろう。彼は人を殺した手で弁当を食べれば遊園地にも来る。それくらいの偶然は、よくあることだ。
 先川さんが置いていったチケットは当然ながら一枚だけだった。雪鬼を連れていくことはどう考えても無粋だと私もわかっているのだけれど、彼がついてくると言った以上は仕方がない。会社だって、特例なのだ。
「決着をつけなければなりませんよ」
 ゲートを潜り抜けた雪鬼が言う。円形の花壇に囲まれた広場の中心、控えめに水の流れている噴水の前に先川さんがいる。先日よりフリルの増した円錐形のスカートで、戦闘準備は万端といった様相だ。後方でピエロの扮装をした人がジャグリングをしているが、一緒になって踊っていても違和感はないだろう。
「あら、雪鬼さんも来たの。こんにちは。良い日ね」
 こちらを見つけてゆっくりと歩いてくる。パレードの中心でキャタピラを履いた戦車が轟音を上げているような。
「ついてくると言って聞かないもので。すみません」
「まるで子供ね。でもあなた、内面は大人でしょう?」
「はい。ですがこちらにも事情があるのです」
「いいわ。せっかくの日曜日、遊びましょう」
 振り返って、歩き出す。ヒールが石畳を叩く音。一瞬だけ、花のような香りがした気がする。
 先川さんは一直線に大道芸の方へと向かう。ピエロが手を止めて、こちらを見る。真っ赤な笑顔のメイク、左目の下には涙の模様。丸い鼻。
「おや、可憐なお嬢さん、ジャグリングを試してみませんか?」
 ヘリウムでも吸っているのだろうか。甲高い声だ。赤い球を手のひらの上に乗せて差し出している。
「あら、ありがとう」
 先川さんが球に手を伸ばす。
 指が開いて、
 球に触れようとしたとき、
 ピエロが球を放り投げた。
 赤い球が頭上に。
 ピエロの振り上げた腕。
 青い空。
 球が一瞬、太陽を隠して。
 響き渡る悲鳴。
 球に引き付けられていた視線が地上に戻ると、ピエロが先川さんの背後に回っている。
 首元に、ナイフを突きつけて。
 先川さんの顔が歪んでいる。態勢が苦しいのかもしれない。あとは、恐怖か。
「動かないこと! くれぐれも、なにびとも、動いてはならない!」
 ピエロが叫ぶ。キイキイとして鳥の鳴き声のよう。
「私は殺人ピエロ! 悪人は出てきなさい! でなければこの女を殺す!」
 腰のあたりにある雪鬼の顔を見る。肩をすくめて、首を振っている。
 いつの間にか、雪鬼がナイフを手に持っている。腰を落として、いまにも走り出しそうだ。
「殺さないでください」
 雪鬼に言う。同時にかがんで、ナイフの柄を掴む。
「どうしてですか? あれは悪人ですよ」
「私は誠実に生きているのだから、それを邪魔する悪人には死んでほしい、そんな思考が私にないわけではないです。けど、私はその思考が嫌いだ。その思考をしている自分を悪だと思っている」
「では、あなたを殺してからにしますか?」
「違う違う。悪である思考は、眠らせておく、という話です。みんな、そうやって自分の中の悪をやり過ごしている。きっと誰でも悪人です。とにかく、私は殺してほしいとは思わない。あなたを止めます」
「良いでしょう。では、どうします?」
「私が行きます」
 次第に人が集まって人混みができてきているが、ピエロがあちこちを向いて動くなと言い続けているから、一定の距離以上には近づいてこない。私が、一番近いくらいだろう。
 ピエロにさらに接近する。人ごみのざわめきを背後に感じる。足元に、ピエロの投げた赤い球が落ちている。誰にも、拾われなかったようだ。
「悪人は私だ! 私を殺して、その女性を放せ!」
 声を張り上げた。殺人ピエロがゆっくりとこちらのほうを見る。
「何が悪だ? 罪を話せ!」
 空を見上げて、次に足元を見る。青と、石畳の白。丁寧に手入れがなされている。血が流れたなら、隙間を綺麗に伝うだろう。
「私には愛する人がいました。昔の話です」
「よくあることだ」
「別れました。私の過失です」
「よくあることだ。悪じゃない」
 まったく、その通り。まあ、聞けって。最後まで。
「最初の恋人と別れた後、私は次の女性を探しました。何人もと出合いました。けれど、誰も私を満たしませんでした」
「よくあることだ。理由はもう、分かっているな?」
「はい。私は最初の恋人の面影を探していたにすぎませんでした。幾人もの女性に失礼なことをしました。それに、最初の女性にも。これが、私の罪です」
「よくあることだ! 馬鹿野郎。それで、今度は誰も見ないことにしたとでも?」
 ピエロがナイフを揺らす。山で使うようなサバイバル・ナイフ。もちろん、肉は絶てるだろうし人も殺せるだろう。
 そう、よくあること。
 誰だってそう言うだろう。けれど、これは私の罪なのだ。
 話を聞いた誰も、私の話を本当には理解しないこと。それはもう知っていたことだ。誰も、私を裁かない。自分自身を除いては。
「最初の恋に誠実でない自分自身を、私は憎みました。私は最初の恋人を愛するとき、その人が一番だと、その人以外を見ないと、そう誓いを立てました。私はその誓いを無残にも破りました。私はそうした自分が許せなかった。だから、誓いを破ろうとする自分を抑圧して、表に出ないようにしたのです。悪を、眠らせておくことに決めました」
 裁けよ、早く。けれど、ピエロの持つナイフはこちらへは向いてこない。先川さんの首元で迷ったままだ。
「私はあなたに恋している! あなたの固執は私を傷つけている! それは、悪じゃないの?」
 ピエロの腕の下から先川さんが叫んだ。苦しいだろう。それでも、叫んだということだ。私も、苦しい。苦しいことは彼女の特権ではない。
 彼女だって、好きとは何か分からずに言っているではないか。
「私はあなたを傷つけるだろう! だって、あなたは昔の恋人にとても似ている!」
「よくあることだ!」
 ピエロも叫んだ。甲高い不自然な声。
 結局、私が悪かどうか、決めるのは自分だけ。
 何かを諦めたような気がした。
 そう、何をどう伝えたって、
 最後は自分で決めるしかない。
 石畳を蹴った。右手に、冷たい感触がある。さっき雪鬼から受け取ったナイフをまだ握っているのだ。ピエロから見えない位置に、隠していた。
 ナイフを見せながら突進する。ピエロが動揺して首からナイフを離し、こちらへ向けた。
 すぐに、先川さんを殺せばよかったのに。
 それでこそ、罪を背負えるというもの。
 やっぱり、このピエロは素人、殺人ピエロの偽物にすぎない。ナイフだって、倉庫から取り出してきたみたいに古びているもの。
 直線的に、首を狙ってナイフを振る。ピエロが先川さんから手を放した。ナイフは避けられたけれど、悪くない結果。
 少し離れてから、ピエロが体勢を立て直す前に腹を蹴る。鈍い手ごたえ。体は大きいほうだが鍛えているというわけではないようだ。あっけなく、倒れる。
 上に組み付いて、ナイフを喉に振り下ろす。
 新しい恋を見つけるのも、悪くないのかもしれない。
 よくあることかもしれない。
 その対象が先川さんというのも、悪くない。
 でも、恋するというなら、これくらいしなくちゃあいけない。
 人を殺せるほどでこそ、恋っていうものだろう?
 横から足が割って入ってきて、ナイフを押しのける。
 地面に衝突して、石畳に線が入る。
「それくらいにしておきなさいな」
 雪鬼の声だ。優しい声音で、冷静に。
 ゆっくりと体を起こすと、雪鬼がピエロの持っていたナイフを拾い上げるところが目に入る。
 横から、先川さんが駆け寄ってくる。
「どうして? 雪鬼は殺したいのではなかったのか」
「あんなの、言ってみただけです。こんなのは、全く悪じゃない。そうでしょう、郷原さん?」
 先川さんは倒れているピエロの方に近づいて助け起こそうとしている。弾みでピエロの丸い付け鼻が外れる。
「なんだよお前、酷い目にあった。先川のこと十分好きじゃあないか。こんなことまでしないと分からないなんて、お前。どうなってやがる」
 まだヘリウムの影響が残っている。
 眩暈。
 まったく、なんて世界だ。
 振り上げた手の行く先をまた見失った。
 みんな、分かっていて演技をしていたのだ。
「あのね、王原さん」
 座り込んだ私に上から雪鬼が言う。
「あなたが昔の恋についてどう思おうと、現状は変わりません。先川さんと好きなようにすればよろしい。あなたがそれに罪を感じようと、それを背負って生きていくしかないのです」
 私の手からナイフを取り上げて、私に突きつける。鋭利な、人を殺すための、本物のナイフ。
「それでも不満なら、あなたが罪を犯したときに私が殺してあげましょう。あなたの恋愛に、あなたの生涯に、私が判断を下して裁きましょう。私の基準で、私の判断で、あなたを殺しましょう。それで、どうですか?」
 私の目を覗き込んでくる。すべてを映す鏡のような、澄んだ瞳。
 史上最悪の殺人鬼に殺される。
 それもまた、悪くない。
 悩みながら、苦しみながら、生きてみよう。
 最後に彼に、殺されるまで。


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