キャラクタ

ビガレ



苗代佐江

 最近の杏ちゃんは、何か変だ。
 杏ちゃんは中学の同級生で、その時から彼女は頭が良かった。定期テストではだいたい学年で一位か二位だったし、さらに生徒会長も務めていて、あとずっと眼鏡をかけていたから(最後のは関係ないかもしれない)、みんな彼女のことを「秀才」と口を揃えて言っていた。もちろん私もそう思っていたし、たまに直接呼んだりもした。
 中学卒業後、杏ちゃんは、私には到底手の届かないような私立の進学校へ入学した。名門大学合格者を毎年何人何十人と輩出しているらしい。
 可も不可もない地元の公立高校に入学した私は、それが原因でもう杏ちゃんとは会えなくなってしまうと思っていたのだが、どうやら彼女の高校と私の高校の位置はそう離れていなかったらしく、結局通学のときに路線バスでよく一緒になっていた。だから私は彼女とこれまで通り接することができると思っていた。
 それなのに、最近杏ちゃんは何かが変わったような気がする。どこか遠くへ行ってしまったような。どうしてなのかはまだ分からない。
「最近の杏ちゃんって変じゃない?」
 中学からの友達で、高校も一緒の麗奈に聞いてみる。
「変って?」
「いや、分かんないけど、何か朝のバスのときとか」
「私イヤホンしてるから分かんない」
 彼女は私より少し、いや結構何も考えずに生きている。
「てか今日影山じゃない? やば、急ご」
 麗奈がバスケ部の朝練に監督が来ることを思い出し、のんびり校門までの坂道を歩いていた私の袖を引っ張る。私は、練習の準備が遅くて叱られることとか、ちょっとどうでもいいと思った。
 校門の桜の木が、いつの間にか薄ピンクから緑に姿を変えていた。

 次の日の朝、何が変なのか突き止めるために、杏ちゃんをよく観察することにした。
 私が乗り込む二つ先の停留所で、杏ちゃんはバスに乗って来る。そして必ず一番後ろの真ん中の座席に座る。
 朝のバスってだいたい座る位置が決まってる。
 私はいつも一番後ろの左側の座席に座る。ちなみに窓側には麗奈が座っていて、ずっとジャニーズの動画を見てる。
 杏ちゃんは私を見ると、少しだけ手をあげて「お早う」と挨拶してくれる。それは「おはよー」って感じではなくて「お早う」って感じの、普段通りのおしとやかな挨拶。そのあと、私とシンメトリーの位置に座っている杏ちゃんの高校の友達に挨拶する。
 あれ、杏ちゃん、高校の友達には「おはよー」って言った気がする。
 それから杏ちゃんは、高校の友達と話したり私と話したりする。私も麗奈と話したり杏ちゃんと話したりするから、はっきりとは分からないけど、杏ちゃんは七対三の三の方で私と話していると思う。今日は、私の日。
 私は何気ない会話をしながら、杏ちゃんの違和感の正体を探ろうとする。彼女は私と話しているときは絶対に高校の友達の方を見ない。高校の友達も別に気にしていないみたいで、大きなヘッドホンをつけて大きなスマホをいじっている。
「そう言えば杏ちゃん本読まなくなったね」
「あー、うん」
「最初の一週間くらいは読んでたよね」
「何か、課題多くて、本読む時間とか取れなくて」
「そりゃそうだよねー。あ、でも、私最近本買ってさ」
「え、誰の何とか?」杏ちゃんが思ったよりも食いついたので少し驚く。
「あ、誰とかはあんまり分かんないんだけど、『夜のピクニック』ってやつ」
「恩田陸じゃん、佐江ちゃんセンスあるじゃん」
 杏ちゃんが普段使わないような語尾だったので、少し可笑しくて笑った。彼女はそれに気づいたのか、頬を赤らめた。杏ちゃんのこういうところが好きだ。
 いつの間にか杏ちゃんたちが降りるバス停が迫っていた。私が代わりに降車ボタンを押そうとしたら、寸前で赤く点灯した。ヘッドホンの友達が押したらしい。
「じゃあね」
 杏ちゃんは、さっきと同じように小さく手をあげ、小走りでバスを降りて行った。後ろをついていくヘッドホンの友達は、杏ちゃんと比べて制服をかなり着崩している。私は、中学生のときに生徒会長の杏ちゃんに靴下の色を注意されたことを思い出した。
 ヘッドホンの友達と話す杏ちゃんを窓から見送りながら、私は違和感の正体について考えている。




九条佑子

 東さんってめっちゃ面白い。
 高校の入学式の日、まだクラスのみんなが全然打ち解けていなくて、空気も固く張り詰めていた頃、私は東さんと初めて会話をした。出席番号順に並べられた席で、一番の東さんは本を読んでいて、隣に七番の私がいた。
「何読んでるの?」
 ホームルームまで担任の先生が来るのを静かに待っていた教室の視線が、一気にこっちに向けられたのが分かった。東さんは頬っぺたを赤くして、でも真っすぐこっちを見て「恩田陸です」と言った。
 その反応がちょっと面白くて、私は「面白い?」って聞いた。東さんはまた私を真っすぐ見て「はい、面白いです」と言った。私は「何が?」って聞いた。
 東さんはすぐには答えられなかった。その代わりにもっと頬っぺたを赤くした。彼女は太くて黒い縁の眼鏡をかけていて、髪型も今の時代にあまり似つかわしくない三つ編みのおさげちゃんだけど、肌がとても白くて二重の幅もぱっちりしていたから、その恥ずかしそうな素振りがとても可愛く映った。
 私は思ったまま、「マジ可愛いね」と言った。
 その日、新入生用のテストがあった。そして一週間後、結果が返却された。
 私はクラスで一番だった。
 東さんは四十人中二十一番だった。その日から彼女は本を読まなくなった。

「東さんって、処女?」
 体育の授業が終わり、隣の席で制服に着替えていた東さんに唐突に尋ねた。
「いや今さ、こっちでそういう話になったんだけど、東さんって、そういうのどうなのかなーって思って」
「確かに、普通に気になる」
「え、どうなん?」
 東さんはブラウスのボタンに掛けた手を止めたまま、顔を赤くするだけで何も言わない。
 カーテンで外界と遮断されて薄暗くなっている教室内の動きが、突然スローモーションのようになる。それまで見えていなかった空気の澱みが、みんなの視線と一緒に東さんめがけて流れていく。そしてそれは沈黙をすり抜けて、東さんの目の前でぼてっと落ちた。
「あは」誰かが笑った。
「ごめんごめん、冗談だよ」
「そんな本気で答えようとしなくていいんだよー」
「うちらだってホントのこと言うと思ってないからー」
 急にみんなが口々に騒ぎ出した。みんながもとの空気の形を思い出そうとしている。でもその不自然さが、東さんにも伝わってしまったのかもしれない。
「処女処女! 私、処女!」
 風船に穴をあけたように東さんが言った。教室は一瞬しんとして、そして、
「えー! マジ!」
「東さん超ノリ良いじゃん!」
「ちょっと待って、東さんめっちゃ面白い!」
 クラスの女子は大騒ぎして、東さんのことを「面白い」と口を揃えて言った。東さんの赤い頬は、震えながらほころんでいた。私も何だか少し嬉しくなって、「良かったね」と声をかけた。
 その日から東さんは、「東さんってキスしたことあるの?」とか「恋人繋ぎの方がドキドキするよね?」とか振られると、「分かんないよー、だって私処女だから」と答えるようになった。そのたびに私たちはとても笑った。特に私は、はにかむ東さんの顔が見たくて、少しオーバーに笑うようにした。
 だから、東さんってめっちゃ面白い。



苗代佐江

 最近バスに乗っていると、通学の時じゃなくても杏ちゃんのことを考えてしまう。もれなく今日も。
 そういうとき思い出すのは、高校生の杏ちゃんではなくて、中学のとき、特に生徒会長をやっていた中学三年生の杏ちゃんだ。
 杏ちゃんは、生徒会長の傍ら剣道部の部長もやっていた。部自体は県大会に出場するくらいには強くて、それに比べれば彼女は特に上手だったわけではないらしいけど、とにかくしっかりしているから、という理由で部長に選ばれたらしい。
 一度、杏ちゃんが一人で素振りしていたのを見たことがある。私が部活のウォーミングアップのために校内をランニングしていたとき、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の隅っこで、ジャージ姿の彼女が竹刀を大きく振っていた。確かその時期は生徒会の引き継ぎで忙しそうだったから、袴に着替える時間も惜しんで自主練していたのだろう。私はそれを見て、「部長って格好いいなあ」っていうのと「部長だからだろうなあ」っていうのの二つを思った。
 その日から、私は何となく杏ちゃんのことが気になるようになって、彼女に教科書を貸したりお気に入りの音楽を教えたりしているうちに、高校へ上がっても気兼ねなく話せるくらいまでには仲良くなった。
「あっ」
 私は窓からの風景を見て慌てて降車ボタンを押す。
 ぼーっとしていて危うく乗り過ごすところだった。今日は杏ちゃんが通う高校のバスケ部との練習試合だ。隣で麗奈がイヤホンをしたまま眠っている。
「麗奈起きて!」
 バスが静かに停車する。

 高校ごとに練習を行ったあと、チームに分かれローテーション形式で練習試合を行っていく。
 体育館の天井は高く、面積も大きかったので、普段より伸び伸びとプレーができた。シュートは綺麗な弧を描いてゴールネットをすり抜けるし、レイアップも練習と比べて高く飛べている、気がする。でもそんな気がするだけで気分は良かった。
 二周ほどローテーションしてから昼休憩に入った。
 私たちはハンドタオルで汗を拭いながら、中庭の花壇の縁に腰掛ける。
「私、中庭のある学校なんてドラマ以外で初めて見た」
「さすがお金かかってるねー」
 みんなが公立高校との金銭的余裕の差を嘆いている横で、私は、これが杏ちゃんが普段見ている景色かと辺りを見回していた。
 中庭。体育館。校舎。教室。見えるもの全部に杏ちゃんの気配を感じる。踏みなれない足元の土をざくざくといじっていたらスニーカーが汚れたけど、それも何か良いなってなってもう少し汚した。やっぱり今日は調子が良いみたいだ。笑いがこみ上げて止まらない。早く今読んでいる本を読み終えて、杏ちゃんに感想を伝えたい。
 隣で麗奈が「何か笑ってる、キモ」と言ったのが聞こえて我に返る。誤魔化すようにお弁当の卵焼きを箸で刺した。今日のは砂糖が多めに入った甘いやつだ。
 「佐江今日めっちゃ冴えてたねー」「やっぱり?」「何ダジャレ?」「面白くなーい」と横一列で騒いでいたら、渡り廊下を挟んだ部室らしいところから、相手のバスケ部員がぞろぞろと出てくるのが見えた。あっちはあっちでベンチに腰掛けて、おにぎりやサンドイッチを頬張っている。その列の最後尾には、見覚えのあるヘッドホンを首にかけた女の子がいた。あの子、さっき試合の様子を撮影したり部員にタオルを渡したりしてた。
「杏ちゃんの友達、バスケ部のマネージャーだったんだね」
 麗奈もいつの間にか私と同じ方向を見ていた。彼女がそういうことに気付くのは少し珍しかったので、間を置いてしまってから「そうだね」と私は頷いた。
 しかし、そんなことより私が気になっていたのは、彼女たちが左手に持っていた英単語帳だった。昼ご飯を食べたり談笑したりしながら、隙を見つけるとそれに視線を落としている。ダジャレで笑っている私たちの中にそんなことをしている人は、私含め誰もいない。
 それで私は、今度は中学三年生の私のことを思い出していた。

 毎年秋頃になると校舎の三階の空気が変わる。これは中学生の私が肌で感じたことだ。私が一階にいたときも、二階にいたときも、長い階段を上っていく上級生の顔つきが、木々の赤くなるのにつれて堅くなっていた。
 そしてとうとう私にも、中学校生活三度目の秋が訪れた。朝のホームルームや、お風呂上りに果物を食べるときなんかに「受験」という単語が現れるようになった。その言葉は私に重くのしかかり、いつの間にか、私の顔つきも険しくなっていた。
 一生懸命に勉強しなくてはならないことは重々承知しながら、私は「受験」という響きの持つ禍々しさが苦手だったので、その感覚を少しでも和らげるために、いつも母の姉が近所の経営するカフェで勉強していた。「カフェで勉強する」という行為が当時はとてもお洒落に思えて、私の身体を軽くするようだった。入り口から一番遠い、柱の陰に隠れる一人用のカウンターが私の特等席だった。
「逃げようとしたって無駄だよ」
 心の中で「私」の声がする。「私」は、いつも冷静で、私に厳しい現実を突きつける。この「私」には、母や父や世間体が、たくさん詰まっている。
 「私」は、春頃から顔をのぞかせ始めていた。
 部活でドリブルするとき。帰りに友達とマックに寄ってラインでもできるような会話をするとき。家に帰って宿題も何もせず布団に入ってしまったとき。そして、杏ちゃんを見るとき。
 杏ちゃんはずっと勉強ができる。生徒会長も剣道部の部長もやって、私より全然忙しいはずなのに、私より全然勉強ができる。それを見るたびに「私」が、「本当に大丈夫?」って囁いてくる。
 私は「私」を必死で抑えるように、塾に通い始めた。
 土日はカフェ、平日は学校帰りで塾。そんな日々が続いた。大変だったけど、ある程度の結果を出すためにはそれに見合った努力を差し出さなければならないことくらい、中学生の私でも知っていた。塾から帰る車の助手席で、父や母と何かを話した覚えがない。
 そして、十一月の定期テスト。私は英語で二十五点を取った。百点満点中。平均点も低かったらしいけど、そんなのは焼け石に水で、私は簡単に絶望した。絶望の深さは努力の量に比例する。誰とも話したくなくて、手足にあまり力が入らなくて、気付くと二十五という数字が視界を支配した。最後の方には、これが絶望ってやつなんだなー、と変に客観視していた気がする。当然「私」はますます大きくなっていた。
「テスト返すときの先生の顔見た? もう諦められちゃってるんじゃない?」
「親に何て言えばいいの? 塾に通うのだってタダじゃないんだよ?」
「でもさ、絶望なんてしてる暇あるの? そんなことする余裕あったら英単語の一つでも覚えるべきなんじゃないの?」
 その頃にはもう、私は「私」の言いなりだった。勉強しなきゃと言い聞かせて、いつもより一時間早くカフェに行った。
 レジでアイスカフェラテの?を注文して、いつもの特等席に向かう。すると、先に座って勉強しているお客さんがいた。
 杏ちゃんだった。
 私は、その場に呆然と立ち尽くし、彼女の背中を見ていた。
 杏ちゃんは、私がいつもぴかぴかの参考書や塾の問題集を広げているそのカウンターに、古くしなびた学校の教科書と文字がぎっしり詰まったノートしか並べていなかった。しかしその鉛筆を走らせる手は、夜な夜な楽譜に魂を込める作曲家のように、迅速かつ緻密なものだった。
 その瞬間だ。私から「私」がいなくなったのは。
 私はカフェラテを持ったまま、回れ右をした。店を出て家までの帰り道を早歩きする。
 腕に冷たく張り付く空気も、横目に過ぎ去る景色も、何も感じない。ただ頭の中を同じ思考がぐるぐる回っている。
 杏ちゃんは塾に通っていない。杏ちゃんは塾に通っていない。あんなに勉強ができるのに。あんなに勉強ができるのに。私は塾に通っているのに。私は塾に通っているのに。
 ずるい。ずるい。ずるい。ずるい。
 脳で指令を出さなくても角を曲がったり横断歩道を渡ったりできる。カフェから家までの道を身体が覚えているのが、馬鹿らしくなる。
 私は途中でうずくまった。分かってる、無駄じゃない。無意味じゃない。比べない。嫌いにならない。頭の中では分かってる。言い聞かせようと思って、実際にそう呟いたりもした。何度も呟いた。でも、やっぱり駄目で、口の端から呻き声のような、鳴き声のような、漏れ出た。
 その日から、私は勉強している人を見ると胸のあたりがちくっと痛むようになった。この人は私よりも勉強している。あるいは、私なんかを優に超えて頭が良くなろうとしている。それに比べて私は何の努力もしていない。できない。そういう思いが、頭の中を巡るのだ。
 私は次第に勉強そのものと距離を置くようになった。カフェにも通わなくなったし、塾もやめた。成績は当然伸びなくなったが、特に落ちるわけでもなかった。それで、「多分受かるだろうなー」という浅はかな感覚で、可でも不可でもないような公立高校を受験し、合格した。
 一方杏ちゃんは、名門私立高校の合格を掴み獲った。
 杏ちゃんのことは好きだ。今でも本当に好きだ。だけど、あの日のことは多分ずっと忘れないだろう。






九条佑子

 あの子、毎朝バスで見る子だ。何でずっとこっち見てるんだろう。
 そう言えばあの子のシュート、綺麗だったな。
 ボールが綺麗な放物線を描いているのを見ると、相手味方関係なくこっちまで何だか嬉しくなる。実はさっきの試合中、あの子がゴールを見上げて膝を曲げた瞬間は、心の中で「入れ」と呟いてしまっていた。彼女の放つボールの軌道を一本でも多く見たいと思っていたからだ。
 あの子、きっとバスケ好きなんだろうな。次の休憩の時間、話しかけてみようかな。
 あの子も、あの子の周りではしゃいでいる友達も、みんなキラキラして見える。
「ねえ」
 私たちの中の誰かが声を発して、あっいけない、と思って咄嗟に左手に視線を落とす。
「私、声に出さないと覚えられないんだよねー」 
「分かる、正直バスの中で暗記とか無理だよね」 
 みんな、右手に昼ご飯、左手に英単語帳を持って、週明けの単語テストに備えている。無理やり大きく開いた手のひらが不安定だ。 
「佑子は? どっち?」 
「あー、分かる。そうだよねー」 
「だよね! 流石の佑子でも見るだけじゃ覚えられないよね、良かったー」 
 私は、見て覚える派だ。あと申し訳ないけど、そこまで準備しなくても大体満点近くは取れる。それに、その範囲のは私のクラスはもう先週末に終えた。 
 だけど、私も左手を無理に開いて単語帳を指に挟んでいる。 
 本当はみんなともっとバスケの話がしたいのに。
 つまんねー、って思って顔を上げたら、校舎から東さんが出てくるのが見えた。急に心がわくわくして、「東さん!」と声を掛けた。彼女がこちらを振り向く。 
「今日、土曜日だけど?」
「あ、現代文、補講で」
 東さんはおどおどしていた。
「誰? その子」
 バスケ部の友達が顔だけ向けて言った。
「同じクラスの東さん」
 そこで、私は「あ、そうだ」と呟いて、「この子、めっちゃ面白いんだよ!」と東さんをバスケ部の友達の方へぐいっと押し出した。彼女はまだ狼狽えながら、少しへらへらし始めた。
「いや、私、そんなことないよ」
「そんなことあるじゃん! ほら、今日は補講とか言って、本当はあの若い先生と二人っきりでいたんじゃないの? あ、もしかしてもうデキてるみたいな!」
「あるわけないでしょ! 私、処女なんだから!」


















苗代佐江

「私、処女なんだから!」
 今、本当にそう言った?
 私は目にした光景が、とてもじゃないけど信じられなかった。
 ヘッドホンの女の子を見ていたら、突然校舎から杏ちゃんが引っ張り出されてきて、何かを言うように促されていた。何を言っていたのかは遠くて聞こえづらかったけど、でも私はずっと視線を奪われてしまっていて、最後の一文だけ聞き取れてしまった。いや、聞き間違いかもしれない。何となく、そう信じたい。
 あれ、何か気まずい感じになってる。杏ちゃんとヘッドホンの女の子以外のバスケ部の子たちは、お互いの顔を見合わせて苦笑いで首を傾げている。ヘッドホンの女の子は慌てている。杏ちゃんは、顔を赤くしているのか、俯いてる。ぽきりと花を落とす寸前の薔薇みたいだ。
 私は急にそれを見ていられなくなって、顔を逸らした。何だろう、この感じは。
 自分が大事にしていたものが、知らないところで無下にされていたような。
 攻撃的で、卑屈で、冷ややかなエネルギーが、マグマのように渦巻いている。
「ごめん、私ちょっとトイレ」
 そう言ってその場を抜け出した。校舎の壁に隠れて、ハンドタオルを持った手で顔を抑える。動悸が激しい。あんな杏ちゃんの姿、見たくない。

 一たび湧き出したマグマは、いつか噴き出すまでずっと沸々として止まない。
 あの日、午後の試合を終え、帰宅し、さらに週末をまたいでも、あの光景が私の頭の中から消えることはなかった。杏ちゃんの言葉は、ハウリングが膨張していくように脳内を巡っており、特に「処女」という部分が神経の敏感な場所を刺激していた。
 月曜日の朝。私はバスのいつもの席に座っている。反対側にはヘッドホンの女の子もいる。バスが停車する。杏ちゃんが乗車して来る。普段のように挨拶を済ませ、真ん中の席にゆっくり座る。
 いつも通り。全ていつも通りなはずなのに、隣に座っているこの女の子が、とても先週までと同じ子だとは思えない。
 この子は本当に私の知っている杏ちゃんだろうか? さっき右手で定期ケースを持っていたけど、左利きじゃなかったっけ? 通学鞄にあんなキーホルダー付けていたっけ? こんな制服だったっけ? こんな眼鏡だったっけ? こんな顔だったっけ?
 あれこれ考えているうちに、私の中のマグマがとうとう噴火した。
「杏ちゃん高校ではキャラ違うの?」
 勝手に口から零れ落ちた。私も予期しなかった言葉だ。当の杏ちゃんも、面食らった顔をしている。少し、嫌そうにも見える。私はそれがとても辛かったけど、もう言葉を止めることはできなかった。
「昨日学校でその子に『私、処女だから』とか言ってたよね? どうして? 中学校ではそんなこと言ったことなかったのに。無理してる? 無理してるならそんな必要ないよ。だって、杏ちゃんはそんな言葉使わなくても、そんな風に自分を表現しなくても、十分素敵な人じゃんか。そうあってよ。清楚で、真面目で、勉強ができる杏ちゃんでいてよ。ねえ」
 ヘッドホンの女の子が「やめなよ!」と言って、杏ちゃん越しに私を押し返した。それでようやく言葉が途切れた。気付かない内に、杏ちゃんの腕に強くしがみついていたらしい。
 周りの乗客や運転手も、訝しげにこちらを窺っている。ヘッドホンは、杏ちゃんに「大丈夫?」と言って慰めているようだった。杏ちゃんは、俯いて何も言わなかった。
 私は拳を強く握りしめてしまっていた。これは悲しみから来るものかもしれないし、怒りから来るものかもしれない。もはや自分では分からなかった。
 バスが客を乗せるために停車した。その一瞬をついて、杏ちゃんがにわかに立ち上がり、そのままの勢いでバスを降りて行った。
 その日から、杏ちゃんをバスで見ることはなくなった。

 今日で半年だ、と思った。
 スマホのカレンダーを見て、杏ちゃんがバスに乗って来なくなってからちょうど半年だと思った。
 左耳だけつけたイヤホンでは、RADWINPSの『なんでもないや』が流れていた。「夏休みのない八月のよう」って、野田洋次郎すごいなあ。
 夏休みはもうとっくに過ぎていて、バスの窓を通り過ぎる街路樹は、黄色や茶色に姿を変えていた。
 杏ちゃんは、高校へは行っているそうだ。だからまあ、単純に私に会いたくないということなのだろう。スマホでBGMの音量を上げる。
 ぽっかり空いた右隣の席を挟んで座っているヘッドホンは、何を聴いているんだろう。どうか、RADWINPSだけではあってほしくない。
 後悔はしていない。でも、会いたい。

「佐江さ、マジで髪切った方がいいよ」
 麗奈にそう言われたのが、十二月の半ば。月に一度通っていた美容院に、気付けば三か月行っていなかった。
「嘘、そんなに伸びてる?」
「伸びてるっていうか、何だろ、変かも」
「もっと言葉選んだ方がいいんじゃないの」
「いやごめん、でもその、あ、影山が、切れって」
「あー、そうだった、そう言われちゃ切るしかないか」
 麗奈の言葉はどこか言わされているみたいだったけど、気にしないことにして彼女に勧めてもらった美容院に行くことにした。
 美容院に行くには、高校に行く時とは逆方向のバスに乗る必要があった。
 普段とは反対側の歩道のバス停でバスを待ち、乗り込む。一番後ろの左側の席が空いていたので、平日の朝と同じようにそこに座る。
 座っている場所やバスの種類は同じでも、その景色は全く違うように見えた。不思議な感覚だった。
 二十分くらいして、口頭で伝えられたバス停の前で降車ボタンを押す。漢字だとこんななのか。
 美容院では、そう言えば通じると言われたので「外山麗奈さんと同じで」と言ったら、「あー、あのバレー部ショートねー」と言われ、いつもしてもらっているより少しお洒落な髪型にされた。「部活無ければもっと可愛くなるのにねー」と美容師さんが肩をマッサージしながら呟いたのを聞いて、これはまだ妥協点だったんだと思い知らされた。

 バス停までの道を帰る途中、鏡やガラスがあれば気付かれないように何度もチラ見し自分の姿を確認した。周りに人がいないときは、頭を左右に揺らし、遅れてついてくる髪の毛に心がときめいた。まるで別人みたいだ。
 歩道沿いにショーウィンドウがないか見ていると、コンビニを発見し、財布にお釣りの五百円玉が入っていることを思い出した。そうだ、スイーツでも買って帰ろう。
 自動ドアに自分の顔が反射する一瞬も逃さず、ちょっとにやけて店へ入った。
「いらっしゃいませー」
 店員の声は、よく通った気持ちの良いものだった。私は他の売り場を躱し、スイーツの陳列棚に辿り着いた。
「お決まりのお客様こちらへどうぞー」
 店舗全体に響き渡り、レジの前にいなくとも聞き取れる声。熱心だなと思って、一瞥した。
 そこで私は、全部が分かったような気がした。
 期間限定のクリスマスロールケーキと、マウントレーニアを持ってレジに並ぶ。
「いらっしゃいませ、あ」
 さっきまで元気だった店員さんは、突然語尾を弱め、視線を落とした。
「久しぶり」
 半年と少しぶりに会った杏ちゃんは、眼鏡をコンタクトに変え、髪もベリーショートになっていた。でも、この私が見間違えるはずはなかった。
「似合ってるよ」
 私が言うと、杏ちゃんは小さな声で「ありがとう」と言った。
 目や髪型だけではない。青のストライプの制服も、「東」と書かれた胸元の名札も、「いらっしゃいませ」と言うときに少し上がる顎も、全部似合っていると思った。
「バイト、いつから始めたの」
「高校に上がってから、すぐ」
「そっか、凄いね」
「うん、大変だけどね」
 私は「そっか」と何度か繰り返して、「それが普通だよね」とため息をついた。
「みんなやってることで、みんなそれを気付かない振りして生きてて、それなのに私だけ勝手に動揺しちゃってさ、なんかさ、ごめんね」
 杏ちゃんは「謝らないで」と言ってくれた。
「でもやっぱり杏ちゃんは良い人だよ、私にとっては」
 私は杏ちゃんの目を見ず、誰にも聞こえないでいてほしいみたいに言葉を発した。
「お詫びと言っちゃなんだけど、いいもの見せてあげる」
 きょとんとする杏ちゃんの背後を指さし、私は「それ頂戴」と言った。
「三十三番、それが一番好きだから」
 杏ちゃんは一瞬目を丸くしたけど、すぐに振り返って私が指さしたものを手に取り、レジに通した。
「お会計、八三八円になります」
 私は財布の小銭を漁り、美容院のお釣りをオーバーしてしまっていたことに気付き、千円札を出す。
「私だって、こうなんだからね」
「確かにね」
 私たちは笑い合った。
「じゃあ、またね」
「うん」
 私はレジ袋を抱え、店を出た。すれ違いざまに別のお客さんが店に入っていき、杏ちゃんの元気な声がまた聞こえた。ポケットからオイルライターを取り出す。
 下手な期待はしたくないのに、彼女が「またね」と言わなかったことだけ、ほんの少し思い出した。


















東杏

 キャラクタというのは、裏表があるとか二面性が激しいとか、そういう次元の話ではない。
 それは、人間が社会的動物である以上ほとんど必ずと言っていいほど求められるものであるから、あって咎められることはあってはならない。むしろ他人と円滑な関係を築きたいなら必須とさえ言い切れる。
 例えば、学校や職場で友達と話すような話し方をしている奴は、「思慮分別が無い」と言われ嫌われる。反対に、友達と話すときに変にかしこまった話し方をすると、「自己主張が激しい」と言われ嫌われる。みんなそういう事態を避けるために、あくまで自然に「何か」を振る舞っているのだ。
 私はその存在を大いに受け入れている。自分が何かを演じることも、他人が何かを演じていることも、あって然るべきだと思っているから、それを見つけたとしても驚かないし傷つかない。まあ、そう考えられるようになるまでには少し時間がかかったけど。

 高校二年の春。朝。
 私は一年前と同じ時刻のバスに乗った。
 乗り込んだ瞬間に、佐江ちゃんと九条さんと目が合って、二人ともすぐに視線を落とした。
 私の「いつもの席」は一年経っても空いていた。
 左に「お早う」と言ってから、右を向いて「おはよー」と言う。二人からそれぞれオウム返しされる。
 私は、真っすぐ真ん中を見ている。

 だから、私はその存在をまるで大罪のように突きつけられたとき、相手の必死な顔をとても醜いと思った。こんな醜悪な面をよくも公衆の面前で曝け出せるなと感心し、蔑んだ。私が彼女を遠ざけるには十分すぎる理由だっただろう。
 でも、最早意に介することはなくなった。偶然とは言え彼女と再び出くわしたとき、彼女はその存在を受け入れつつあるようだった。そのことが私の彼女に対する評価を回復させたかと言えば、そうではない。むしろ逆だ。彼女はその存在を、まるで自らの苦悩の末に発見した爽やかな世界摂理のように扱っていたように見えた。その不遜な態度が癪に障った。今更その存在を見つけたり気付いたりするのは馬鹿のすることだからだ。彼女を馬鹿だと思うことで、彼女のことはもうどうでも良くなった。
 人間は皆、社会に求められるキャラクタを演じるべきで、それは当然のものとして社会に存在しているのだ。


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