空向こうの進学天使

冬大根のそぼろ煮



 ひとりの怖い男の話をしようと思う。
 容姿端麗、スポーツ万能、勉強もトップレベルに名を連ね、何一つ苦もなくこなせる、多すぎた才を持て余すこともなく使いこなす男の話である。夢見がちな小説家が書いた登場人物だと侮ってはいけない。男は確かに存在しているが、常人では決して届かぬ高みにいるからこそそんじょそこらの君たちでは現実感を持って僕を認識することなど酷といえよう。男もまた、それも無理なからんと受け止めるだけの度胸の広さを持ち合わせている。
 つまりは、この男こそ僕なのである。ついでにいえば羽も生えている。羽の形状など宗教画の天使でも思い浮かべればよろしい。数々の著名な画家が描き残した天使の如く立派な羽が僕の背中から生えているのだ。
 神はあろうことか僕というたかが人間一人をよほど愛したもうたらしい。平々凡々な者どもは不満を覚えるかもしれないが、神に文句をつけるのもまた趣があっていい。僕など神に文句の一つも言えないのだから困る。もっとも一番感謝すべきは両親かもしれないのだが、これまたそこらに転がっている石のような──いや、肉親の悪口は止めておこう。世界がどうあれ僕は生まれた瞬間から完璧なのだから、貶し貶されからは無関係でいていいのだ。
 そしてもう一人、この僕の扱いがとんでもなく上手い女がいる。こんな完璧な男、顎で使いたくなるのは分かるが、そこまで小悪でない。だがどうにもトロい。僕と比べれば大抵の人間はそうならざるを得ないものの、見るに耐えないと僕が思うのはこの女だけだ。何もないところで躓くような女を最たる僕がよく助けてやっている。僕は才能を己だけでなく他者のためにも使ってしまう人格者であるためこうして損をしてしまうのだが、足ることを知る良い機会でもある。
 さて、ここまでで何か疑問があるだろうか。とはいえ僕が並たるそれに応えてやる義務はないが、一応序章の締めとして教えてやろう。
 これは、僕がその女に裏切られるまでの話である。


 だいぶおどろおどろしく書いてしまったが、これを読んでいる平凡どもは安心してほしい。この話で登場するのは中学生の男女二人。以上である。片方がとんでもなく天上の人間であることを除けば、それ以上重厚にも軽薄にもなりようがないのである。
 平凡どもをわざわざ書くこともないので、女といえばさっきの女を指す。この程度で十分だ。これ以上を書いても君たちでは理解及ばぬだろうという優しい僕の配慮でもある。何せ僕は君たちのレベルが分からない。これは仮定的だが大学教授からすれば幼稚園児も大学生も知性はそう変わらぬだろう。大学教授は大学生に合わせてあげているが、僕は幼稚園児にも合わせようという懐を持ち合わせている男である。


「アメリカに留学するかもしれない」
「え......高校?」
「詳しいことはまだ決まってないが」
 音楽室である。放課後である。二人で掃除をしていた。そういう不公平を許さぬ僕は女に押し付けられた掃除を共に片してあげていたのである。床を掃く女の背後で楽譜の詰まった段ボールを持ち上げる。こんなか弱い女に重いものを持たせる音楽室掃除を押し付けた奴は馬鹿な上に思いやりのかけらもない。
「へー......T校に行くのかと思ってた」
 T校とは僕らにとって一番近い高校である。中学三年生、僕らも進路を考えなければならない時期に差し掛かっていた。
「そのつもりだったが、このまま日本にいて飛べなくなるまえにと」
 僕の背中に生えた羽。どこまでも目立つ僕のシンボル。
「......」
「飛ぶのはけっこう体力がものをいう。今はまだ若いからいいが、大人はアスリート並の生活を続けなければすぐに筋肉落ちて飛べなくなる。人の体ってのは飛ぶようにはできてないからな。日本には僕のような病気の人は少ないからそういうトレーニングができる環境があまりにも少なすぎる」
 僕にとって背中の羽は羽でしかない。そも、僕を見て羽でしか語れないのはセンスがない。しかし余人からすれば、僕の羽は僕以上に語りたくなるものらしい。だから凡人なのだろうが、天が優劣をつけた結果なのだからこればかりは仕方ない。
 だが、凡人の期待に応えるのも優の役目なのである。羽が生えているのだから飛ぶべきだ、と言う資格は羽を持たないから有しているのであって、羽を持って生まれた僕はそれを言われる側に甘んじなければならない。
「......病気」
「欧米辺りはその分野がかなり発展しているらしい」
「それで留学?」
「そうだ。奨学金がほぼ出してもらえたり、あと母も僕が飛べなくなるのは寂しいと」
 振り返ると女は箒を握りしめて俯いていた。
「──留学、したいの?」
「そんなことはない。飛ぶことが別段好きであったりもしない。時勢的にも今後必要となることもないだろう」
 昔は偏見があった。それこそ目も当てられない歴史が何世紀にも繰り広げられた。今では大分落ち着いてきたものの翼人の人権運動は話題に事欠かない。僕にアメリカの養成所で勉強をしてみませんかと手紙をくれたのも、こっちではとても著名な方だったりする。
「......そ、それならそうと言うべきだよ。自分の人生なんだから、自分の好きにしないと後悔する......たぶん」
 遠慮がちに告げられたその言葉は何処か安堵するものでもあった。こういう心の安寧をもたらしてくれるのはいつだってこの女だ。段ボールを所定の位置に置いて、荷物をなくした僕に女はようやく目を向けた。
「親の重圧とか、ただちょっと羽が生えてるとか。それだけで普通の人生が送れないなんておかしいから......」
「......そうだな。もう一度、母とはよく話してみる。空を飛べたっていいことないしな」
 いっそ好きなように飛べればどこへだって行けるのだが。助走距離、高低差、勢い、横幅、障害物など飛ぶには幾つかの条件が必要だ。飛んで行くよりも自転車をこいだ方がよほど楽であるこのご時世、電柱だらけの町中を飛ぶことにメリットはないのである。
「遠慮しないでね。他人の苦労なんて見えないもんなんだから」
 憐れむような視線だって、この女だから許してやっているようなものだ。
「そうだな......僕の人生だ。母には留学はしないと言おう。どれだけ渋られようが、僕の好きにする」
 いっそのこと羽がなければ、僕はそこらの天才と同列だったかもしれない。
「そっか、頑張れ」
 片手を上げてガッツポーズする女。例のごとく掃除は全然進んでいないようだ。こんな掃除など手早く終わらせ、帰路たる住宅街を通り抜けたいのだが。
 今だけはこの時間も悪くないと思ってしまった。


 傍には小型ビデオカメラを持った同じクラスの女子が目を輝かせている。どういう流れか僕にも把握できてないが、話によると、卒業文集につけるDVDの撮影を行なっているらしい。そして、僕に空から学校を撮ってほしいのだと。
「ああいいよ。飛びながら撮ればいいのか」
「そうそう」
「かなりブレるだろうが」
「全っ然大丈夫。お願いしまーす」
 言いたいことだけ言ったその女子はクラスの段取りを決めるためにあっさりと立ち去っていく。
「......」
 僕の正面にいた女は黙ったままだ。なんなんだ。手にしたビデオカメラを覗き込む。レンズ越しで申し訳なさそうに女が口を開いた。
「......ごめん」
「ん?」
「わたし、止めたんだけど」
 その言葉は少し意外だった。女はクラスでもあまり目立たない方で、この前も流されるまま掃除を押し付けられていたはずだ。まるで僕のために止めてくれようとしたみたいじゃないか。
「大丈夫だ」
「嫌だったりめ、迷惑なら私から言っとくし......」
「気にするな。飛ぶぐらい」
「違う、違くて、無理して......答えなくたっていいんだよ......周囲の期待なんか。......君はずっと悩んでるのに」
「......」
「......」
 黙って顔を見つめ合う。無性に頬が熱い。なのに頭はすうっと一陣の風が通り抜けた感じがする。それでも心はやけに温かい。チグハグではあるが、一人の女によって巻き起こされたこの感情に思い当たるのは一つだけだ。
 どうやら僕はこの女に恋をしているらしい。
 恋だ。この僕が。どこにでもいるこの女に! 
 恋をしているのである!
 一大事だ。一大事ではあるが、どこかすとんと胸に落ちた。分かってしまった以上、納得しかない。僕があれこれ女を助けていたのも、進路を話そうと思ったのも、あれやこれやが理路整然とする素晴らしい結論だ。
「ほんとに大丈夫......?」
「平気だ。平気だが、そうやって気にかけてくれることが、僕は嬉しい......んだと思う」
 女も少し顔が赤かった。照れているのかもしれない。僕だって照れているのだからこの女が照れないのはおかしい。
 さて、これで失敗ができなくなった。


 失敗など誰でもする。要は少ない試行回数で成功に持っていくのが大事なのだが、こればっかりはそうとも言ってられない。僕が失敗すればこの女は僕より気にするのが目に見えている。そういう負い目を背負わせるのは嫌なのだ。
 気合い入れて制服からジャージに着替える。どれも才能ある僕だが空を飛ぶことをこれだけ不安に思うことになるとは、これからの人生も捨てたもんじゃないことの証だ。校庭用のシューズに履き替えグラウンドに出ると、クラスメイトが既に集まっていた。手にはそれぞれ文字入りのパネルを持っている。クラスメイトが掲げたパネルを僕が撮影する段取りだ。
 クラスメイトが僕を見て口々に囃し立ててくる。
「お頑張れよ」
「翼人が飛ぶとこ初めて見るわ」
「あれ自転車?」
「校庭には坂道、ないからな」
 自転車を漕がなくては何も始まらない。やけに歓声が多かった。どうやら他のクラスや学年もやってきたらしい。首にかけたビデオカメラの再生ボタンを押す。並んだクラスメイトの中にはあの女の顔も見えた。クラス全体を覆う楽しそうな雰囲気からは一際浮いている。これは良くない。笑顔にしてやりたい、と思ったのは惚れてるからだ。
 自転車のサドルを握る。クラスメイトの方へ突っ切る。カシャ、カシャ、ペダルを漕いではスピードを上げる。
 翼を広げた。影が広がっていく地表を見ている余裕はない。ただひたすら上だけを見て、翼ではためく。風の抵抗を利用するのだ。背中が浮いて、全身が重力から切り離される。
 自転車を離して上へ。上へ。すでに全身が校舎より高い。麓の山まで見通せる。山の間でごちゃごちゃ家が建っている僕らの町。こう見ると広くも大きくもないただの田舎町だが、僕と女が生まれ育った大事な場所だ。
 上空の風に逆らってクラスメイトの上を横切る。
「飛んだ!」
「うわーっ!」
「すごいすごい」
「ほんとに」
「飛んでる!」
 グラウンドの全員が僕を見上げていた。すっかり小さくなってしまったクラスメイトの中であの女もいた。
「ふは、ははなんだその顔」
 目と口を思う存分広げてぽかーんと僕を見上げている。驚きすぎだ。だが思わず笑ってしまうほど気分がいい。ずっと助けているようで助けられていたのは僕の方だった。卒業して、一緒にT校に通って、とにかくやりたいことがまだまだある。このぐらいで一々驚いてくれるのだから退屈とは無縁になってしまうだろう。
 ざっとグラウンドを一回りした。地面が近づいていく。勢いを殺すために一層大きく羽ばたいた。土埃が舞い上がって、ふわりと着地する。よし、上手くいった。何年振りかの飛行も成功させて、好きな女には見直され、全員に感謝される。何もかもが良い出来だ。さすが僕。
 大層な話じゃなかった。背中に羽が生えていることなんて。着地で僕がこけてたってクラスのみんなは感謝してくれるだろう。それだけだ。それだけのことをやけに悩みすぎたのだ。


 通学路を自転車押して早歩きする。今日は良いことが色々あった。帰って親に言ってやりたいこともできた。そしてその前に女と話したい。
 住宅街の中で女の背を見つけた。声をかけると振り向く。いつもほぼ一緒に帰っていたくせに今日に限っては早く帰るのだから薄情ではある。礼を言われるのを気にして先に帰ったのだろうが、僕は遠慮なく言ってやる。
「今日はありがとうな」
「ん? うん......」
 歯切れは悪いがいつものことだ。二人で並んで歩く。自転車越しに存在を感じる。おかしい、いつもならこんなに意識しないのに。
「......狭いなぁ」
「何がだ」
 唐突だった。僕の自転車が邪魔だという話かと思ったがそうでもないらしい。女は僕じゃない周囲を見ていた。
「人が邪魔だし、上は電線だらけだし。なんかこんなに日本って狭かったんだな......って」
「そんなの、生まれた時からそうだっただろ」
 この町が変わったわけじゃない。T校なんて地元の高校に進学希望のくせして、今更町が嫌になったわけではないだろう。そうだ。そういえば、僕はこの女がT校に行くと口から聞いたわけではないことに思い当たる。
「──進学はどうするんだ。やはりT校か?」
「あー......うん。多分ね、家から一番近いし」
「だよな......そ、そうなら一緒に行けたら嬉しい......よな」
 ええい。もっとスマートに言えないのか僕。女の方を見れてさえいない。口ごもる癖が女から移ってきているのではないか。もっとすっぱりさっぱり──。
「あのさ、前はああ言ったけどやっぱ君は留学すべきだよ」
「......え?」
 思わず、聞き返しそうになった。見返した女は視線も合わせたくなさそうに俯いていた。深刻な表情で通学鞄を握りしめている。なんて顔でなんてことをいきなり言い出すんだ。言い出したのが女じゃなければ僕だってここまで驚きはしなかった。
「今日、はじめて君が飛ぶとこ見た」
「あ、あうん。どう、だった?」
 そこに自信なさげで僕が守ってやりたかった女の面影はない。淡々と冷静に話を進めようとする女と焦る僕。少なくとも僕の方がいつもの女のようだった。
「なんかすごいって思った。このまま日本にいて飛べなくなるのは勿体ないって。才能なんて君ならどこでも活かせるでしょ」
「ま、まてよ。なんでいきなりそんなことを......僕、たとえ飛べなくなったとしても」
 ここだ、と思った。ここしかないだろ。今言わなければ何のために生まれ落ちたのか分からない。仏だって首を捻る。口に想いを乗せるだけのことが何よりも困難だった。怖い気持ちを打ち消す勇気が必要だった。
「僕はお前のことが好きで......だから、一緒の高校に行けたらって......」
「──そ、」
 必死に捻り出した僕の言葉に、女が眉を寄せる。
「そんなつまんない、理由で?」
 諦念の拒絶だった。呆れていた。僕は呆れられていた。二の句が告げなくなった僕は、そんな僕自身に呆れてしまっていたのだと思う。
「なんかね、なんか......理解のつもりだったの。それが足引っ張ってただけだってようやく気付けたの」
 誰だ。そんなことを言ったやつ。今からでも遅くないから訂正してくれ。昨日までは僕に安堵を運んできたじゃないか。なにがあってどうなった。
 そこで気付いた。気付きたくなかったことだったから僕が見ないふりをしていただけで、きっかけなんてひとつしかないことを。羽ばたいた僕の姿。それがこの女のこの言葉をもたらしてしまった。
 飛んではいけなかったのだ。飛ぶべきじゃなかった。


 こうして僕は見事に振られたのである。裏切られた、と言うにはあまりに僕の主観が入りすぎているがまあそういうことである。
 女は実に良い女だ。今後どれほど容姿に優れ運動に優れ勉学に優れた者が現れようとも、この女に敵うはずがないのである。全てにおいて優れた僕がなぜこの女に振られたかなど透き通る硝子の如き明白だった。
 つまりは、僕が恋の前では平々凡々な人間に成り下がったというだけだ。
          (元ネタ『進学天使』九井涼子)


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