ニュータウン

空目獏



 齢数年の少年にとって、その音は形容し難く母親を愉快にさせるばかりだった。熱弁の間中、真新しいキッチンから人参を刻む音が小気味良く響き吹き抜けを上がっていく。一段落したところで、ハンドタオルで指先を拭い、母は破顔して少年の前に屈んだ。少年はどことなくその仕草に先生を想起した。
「マア、とにかくこの街を気に入ったのね、好きに探検してきなさい」
たったの一言。もう、コンロに向き直った横顔で薄化粧の瞼がちかちかしている。生白い唇が「暑いわねえ」と小窓から刺さる直射日光を疎んで、独りごちた。どうせ信じていないのだろう──本当に聞こえたのに。少年は不機嫌になったが、母はかまうことなく続けた。
「そういえば、そろそろ始業式?心配ないでしょうけど、初日から遅刻しちゃだめよ」
少年が首肯すると同時にぱきょ、と音がして卵が割り落とされる。ついで慣れた手付きで計量カップに浄水器の水を注ぎ、フライパンにほうった。熱せられた雫がけたたましく跳ねる。すっかり白けた少年は、卵白が変性するのを眺めていた。
 小学三年生の夏、少年はこの街に越してきたばかりだ。友達と離れ、最初こそ寂しい思いをしていたが、夏休みが明けて地元の小学校に編入するまでに、いくぶん楽天さを取り戻していた。
この要因の一つが妖怪の鳴き声だ。
朝、東公園へ行くと、悲鳴とも威嚇とも、はたまた生物のものかもわからぬ音がするのである。母はせせら笑うだけで、父はその事実すら知らなかったものの、少年は夏休みの間に正体を突き止めようとひとり息巻いていた。が、とうとうかなわなかった。玄関の姿見に、新品の教科書とファイルが詰まったランドセルがもたれかかっている。
明日は九月一日だった。

 連日の快晴のせいか早朝らしからぬ陽射しのもと、少年は一人歩いていた。始業式の朝は先生と待ち合わせをすることになっている。定刻よりかなり早かったけれども、来客用玄関口で赤いランドセルに囲まれたポニーテールの女性が立って居るのが見えた。
「先生ーおはようございます」
「おはよう」
「先生、教室行かんの?」
「うん。皆先に上がっていてね」
バイバイと女子生徒を見送る度に視線を巡らせている。転校生を待っている様子だったが、躊躇っているうちに、三人の男子生徒が少年の脇をすり抜けていった。すれ違いざま、背中の辺りへ揃って視線が向けられて、少年は東京では珍しくなかった水色のランドセルをにわかに恨めしく思った。それでまた足を止めて、とうとう隣の植木の蝉の声に耳を傾けた。ジイジイジイとニ匹が弱々しく鳴いている。売れ残って、ふたりしか残っていないならそこでくっつけばいいのに、男同士だからだめかと取り留めのないことを考えて費やした。
じきに、シルバーの腕時計に注がれていた視線が少年を認めると、先生は小さく手を振った。少年が遠慮がちに手を振り返す。ふわりと慈しむような笑顔を向けてくるのが、教師というより保母のような気配をまとっていた。
「黒川君、おはよう」
「おはようございます」
先生は糸のように目を細める。控えめなベージュのアイシャドウが母のようにちらついた。
「早いね、迷わなかった?」
「一回来たので、だいじょうぶです」
「そ、えらいね、じゃあいこうか」
埃っぽい匂いのしない、リノリウム製の階段を上がりながら、先生は続けた。気温が徐々に上がっている。踊り場の窓の外で入道雲が流れ太陽が顔を出すと、汗と手摺の神経質な白さが気になった。
「今日の始業式は皆と一緒に受けてもらうけれど、その後に自己紹介もしてもらうからそのつもりでいてね」
「はい」
「新しいでしょ、校舎」
「先生、すごく好きなんだよね、ここ。綺麗で」
少年はまたはい、と答えた。

 「トーキョーから来たってほんま?」
指示通りに空席に座ると囁き声が飛んできた。すぐ右に、日焼けした男子生徒の顔がある。活発そうな子だった。しかし白い歯を晒す大仰な笑顔が、少年にはやや威圧的に映った。
「うん、田舎だけど」
「へーっ、トーキョーのどこ?」
「府中、ってところ」
なんそれえ、と浮いた声をあげて、彼は脳内で地図帳をめくった。フチュウ。漢字はどんなものだろう。少年はただ黙って黒板を見つめていた。連絡事項から離れた端のほうに、汚くて斜めった漢字が三文字並んでいる。黒川光。下の名前は祖母がつけてくれたものだった。転校初日のお喋りを注意するためだけに、そう呼ばれるような事態は避けたかった。
「ハイじゃあ、二人組作って」
「ひかる、組も」
先生の手を叩く音で意識を戻すと、授業は終盤にさしかかっていた。とくに友達のあてがなかったので、彼とペアを組んだ。議題は自分の趣味について。彼はすぐさま椅子を少年の方に向け、俺先ね、と語りだした。それを何人かの男子生徒がちらりと見、今度はその男子生徒同士で目配せをする。女子も同じようなもので、教室はにわかに騒がしくなった。
少しして、歓談をさえぎらぬよう、控えめに、ただし溌剌に努めた声色が教室の隅に投げかけられた。
「葛西くん、先生と組もうか」
このクラスは今日、少年を含め三十九人になった。二人組を作るとなればひとり余るのだ。
見ると、先生の歩み寄る先に男の子が俯いて座っていた。男の子は答えずにぼさぼさの前髪を弄っている。苦笑する先生の前で、鴉より淀んだ黒髪の房が伸びたり撓んだりしていた。
「よかったね」
「ほんまに」
男の子の隣と、そこから二列くらい離れた女子ふたりがコソリと喋った。
それがいやによく聴こえた。日はどんどん高くなっていた。
 間も無く、終業のチャイムが鳴って、放課後になった。午後休みだからとさっそく隣の子に遊びに誘われたが、先生に呼ばれているからと断った。教室で待機するように言われていたが、二十分経っても先生は戻らない。少年は待ちかねて廊下を彷徨い始めた。
四階では少年の上靴の音だけが響いている。白を基調とした校舎はがらんとして、病院のようだった。真新しいウォータークーラーは鏡みたいにピカピカに磨かれて陽光を反射している。ただ、ペダルを踏んでみても水は流れない。何度も繰り返し、少年は妙な感覚を感じて、しゃがんで覗き込んだ。
汚れた靴があった。葛西と書かれていた。

 靴箱には黒髪の男の子が立ちはだかっていて、
「隠したの?」
と少年の手元を見て言い放った。
今日初めて学校に来たのに、そんなはずないだろう。勇気を出して戻してやろうとしたが、かえって犯人と疑われる結果となったのを、少年は不服に思った。
「......違うよ、四階で見つけたから」
「ほんとに?」
不満げな少年を意に介さず、葛西は素直に喜んだ。教室での姿とは打って変って、人懐こそうな表情を見せる。
「なんでまだ学校にいるの?」
それはそっちもだ、と思ったが少年は口には出さなかった。
「先生を探しているから」
「ああ、先生だったら、南庭の駐車場に行ってた」
「そうなんだ、ありがとう」
少年は足早に去ろうとしたものの、葛西は案内するよ、と意外にも親切に振舞った。
 ついていくと、確かに先生の後ろ姿を見つけた。ただ誰かと話しているようだった。
多分他の先生じゃない、と葛西がぼそりと呟く。近づいてみよう、と言われるままに近くの車の裏に隠れた。耳慣れた声がした。
「光は大丈夫かな」
「大丈夫ですよ、いい子そう」
「それはねえ、だって私の子供だもの」
「うん、彩さんの子だもんね」
「早く大きくなって、いなくなって欲しい」
「うわ」
「旦那もさあ、単身赴任とかならないかな」
「あはは」
「だって沙織しか好きじゃないし」
「私もですよ」
「沙織と結婚したかったな」
「うん」
「ふふふ」
「かわいい」
「ねえ、」
くつくつと秘めた笑い声が少年の耳の中でずっと反響して、先生は、好きだとか綺麗だとか、校舎を褒めるみたいな調子で囁いていた。空は雲一つなく、背中がじりじりと熱い。
「どっか遊びに行く?」
黙りこんでいた葛西が唐突に言った。

 葛西と少年は東公園にいた。葛西は遊具で遊んでいる同級生たちに目もくれず、無言のまま茂みにずんずん入っていく。少年は茫然として、ただつたう汗をぬぐいながらその後をついていった。周りの草や木が自由に伸び切った、人の立ち入らないような場所まで来て、葛西は足を止めた。少年もちょうど気が付いたところだ。ここには来たことがあった。
「ここってさ、変な声するよね」
「人間なんかクソだよ」
二人はほぼ同時に喋った。少年は面食らったが、葛西はうわ言のように続けた。
「うちは親父が特にゴミ。姉もゴミ。医者が自分の子供虐待してんじゃねーよ、あいつの方がちょっと勉強できるからって何なんだよ。あの陽キャもいい子ぶってさあ、主犯格あいつなんだけど、気づけよまじで」
途中からあの妖怪の鳴き声が聞こえてくる。目の前からだった。
直射日光が少年を刺して、止めどなく汗が噴き出る。屈んだ葛西の背中と何か赤いものが陽炎のなかでぐにゃりと歪んでいく。
「どいつもこいつもさあ──お前もやる?」
どこか媚びるような、期待するような瞳が少年に向けられた。

 「びっくりしたのよ、ぐったりして帰ってきて。先生も探してた」
「熱中症でしょう、ここ、気温も高いし何より、日差しがひどい」
「明日から学校なんだから。寝てちゃんと直してよ」
スリッパの音を立てて、薄暗い自室から母が出ていった。枕元を見やると、時計は昼の三時を指していた。カーテンはすべて閉めてあり、エアコンのランプが灯っている。少年は再び目を閉じた。
 結局、あれが犬なのか猫なのか鼠なのかも少年には理解できなかった。わかったのは、転校先のクラスにいじめがあることや、その標的は動物を殺して鬱憤を晴らしていることや、母親の愛情が父親でも息子でもなく担任の女に注がれていること──つまりは、衛星都市から少し外れた、晴れやかで小綺麗なこの街が、今後暫くは少年を貶めるばかりだろうという予感だけだった。


さわらび128へ戻る
さわらびへ戻る
戻る