ないはずの

六宮



「なぁ、知ってるか?」
「何?」
生ぬるい汗がTシャツのシミになる。鳴りやまない蝉の声は、太陽がアスファルトを焦がす音なのだと裕太は思った。夏休み期間中にもかかわらず裕太とその兄、弘樹が小学校に行ってきたのは、今日が登校日だからである。学年単位で行われたプール大会で裕太はくたびれており、眠気と日の眩しさに目を細めていた。弘樹はお構いなしに話を続ける。
「噂だよ。四時四十四分に学校の北校舎の階段を二人で上ると、一段数が違ってるって話。正しいのは一段少なく数えた方で、ないはずの一段はそこで死んだ生徒の死体なんだってさ」
「へー」
「んだよ、もうちょいなんか言えよ」
「だって、怖くないし」
ありふれた学校の怪談話だ。その増えた一段というのは大体十三段目で、死体の主というのは生徒であったり先生であったりする。中にはその段で首を吊った人の呪いだという話もある。そんな話を聞くたび裕太は、階段で一体どうやって首を吊るのだろうと疑問に思うのだった。
「まあ、よくある話だよな。実はこれ、理屈で説明できるんだぜ。特別に教えてやるよ。いいか、途中までは二人とも同じように数えてるんだ。でも......になると  」
いつも遊んでいる仲間から聞いたのだろう、弘樹は得意げに弟に話して聞かせる。裕太は睡魔と必死に戦いながら兄の話を聞いていたのだが、相槌を打ちながらも、その実、彼が何を話しているのかほとんど頭に入ってこなかった。登校日提出の宿題を片付けるため、前の日に夜更かししたせいだろう。
「  で、実際に試してみようぜ。今日の四時四十四分」
「え、学校で階段数えるの?」
「違う違う。入れないだろ。俺らの家の階段!」
「あんなの二、三段じゃんか」
「それは玄関の前の段差だろー?二階に上がる階段だよ!さては聞いてなかったな?ま、いいや。帰ったら時間まで階段前で待機な」
重たい瞼が閉じてしまうのをこらえながら、裕太はぼんやりとする頭を縦に振った。

 二人の家は木造の一軒家である。手狭ではあるが、四人で暮らす分にはそこまで支障はない。かなり古いようで、どことなく暗い印象がする。床のワックスはとうに剥がれており、歩く度ぎしぎし鳴った。小さな中庭と縁側があるのだが、植えられた木には手入れが行き届いておらず、そこから見上げる空は随分狭いようだった。それでも、学校へは比較的近く、よく遊ぶ友人の家も近所にあることから、二人が不満を感じることはなかった。
 階段前の引き戸を開けると、埃っぽい匂いとともにひんやりとした空気が肌に触れた。窓が無いためか、他の場所に比べて薄暗く、空気が停滞している感じがする。先ほどまで裕太を襲っていた眠気は、どこかへ消え失せてしまった。二人して階段の前に腰を下ろす。膝を抱え込むようにして座り、訳もなく息を殺して時間まで待った。弘樹は、兄弟共用の携帯ゲーム機で時間を確認している。
「ね、お母さんに怒られないかな」
「何が?」
「だって、階段で遊ぶの禁止だったじゃんか」
「それは前の家の話だろ?それに、スーパーボールも使わないんだからノーカンだよ」
 数か月前までは、二世帯住宅で父方の祖父母と叔父と共に暮らしていた。二階が兄夫婦と兄弟の家、一階が祖父母と叔父の住まいである。同じ木造でもそちらは新築で、床板は温かな色合いをしており、よく日の当たる明るい雰囲気の家だった。玄関とは別で、屋内に階層を行き来するための階段があり、他の場所と比べて温度が低いことから、夏場は階段に腰かける祖父の姿をよく見かけた。そうでない時は、兄弟がそこで遊ぶこともあった。上からスーパーボールを弾ませ、下にいるもう一人がそれを受け止めるという他愛ないものだ。弘樹の落としたボールは、一段につき一回ずつ、いつもきっかり十四回弾んでから裕太の手の中に収まった。裕太はコツが上手くつかめず、スーパーボールはしばしばあらぬ方向へ飛んでいった。いくつかのボールは行方不明になり、拾い損ねたうちの一つで祖母が転倒してから、階段での遊びは禁止された。そのこともあって、引っ越してからも兄弟が階段に近づくことはないままだった。
「でもさ、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「どうやって二人で数えるの?一人ずつじゃないと上がれないよ」
我が家の階段は狭く、大人一人が通れる程度の幅しかなかった。いくら子供とはいえ、二人が並んで上がるのは無理がある。弘樹は少し考えると、立ち上がった。
「俺が二階から降りてくるから、お前は上がって来いよ。途中で入れ替わって最後まで数えるんだ」
そう言うと、軽やかに二階まで上がってく。その後ろ姿を見て、裕太は何故か不安になった。床板の木目がこちらを見つめている気がする。
「あと一分だぜ」

 結果から言うと、数は変わらなかった。二人でも一人ずつでも、上っても下っても、何度やってみても段数は十四段のままだった。気がつけば、そうしているうちに四時五十分を過ぎていた。「何かあるかも」という淡い期待が裏切られてがっかりする反面、「そんなものか」と納得に似た気持ちもあった。面白おかしく語られるだけで、理屈で説明できてしまう程度のものなのだ。緊張が解けたのか、一時は遠ざかっていた眠気が一気に裕太に襲いかかってくる。つられたようにあくびをする弘樹とともに、裕太はリビングで眠り込んでしまった。母親の妙子が保育園児の妹を連れて帰宅する六時過ぎまで二人はうたた寝していた。
 
 夕食の後、弘樹は妹の夏希にも同じ話を始めた。きゃっきゃと怖がる夏希に気を良くしたのか、口調や身振りがどんどんオーバーになっていく。裕太は、階段で遊んだことで母親に怒られやしないかとひやひやしていた。
「で、裕太が『この段で最後だ』って叫んだとき......俺の前には、まだもう一段残ってたんだよ!」
終いには話を盛る兄に裕太は半分呆れていたが、夏希の方は今にも泣きそうだ。
「うそだー!」
「嘘じゃねぇよ」
「だって、さっきもいつもとおんなじだったもん。なつき、いつもぴょんぴょんしながらかぞえるもん」
「だから、それは家の前の段差だって。俺が言ってんのはか・い・だ・ん!」
「こーら。夏希が可愛いからっていじめないの」
見かねたのか、皿を洗いながら話を聞いていた妙子が口をはさむ。もう全て洗い終わったようで、タオルで手をぬぐいつつ顔をこちらに向けている。
「いじめてないよ。面白い話してるんだってば」
「ひろくんが面白がってるんでしょ?あんまり適当なこと言って怖がらせないで。なっちゃん、ひろ兄ちゃんは妹をからかってるんだよ。お家に怖いモノなんてないからね」
「嘘じゃないって!な、裕太」
「いや、嘘じゃんか」
階段で遊んだことにお咎めはないようだが、妹に意地悪したら流石に怒られる。勝手に共犯者にされてはたまらない。裕太がじとりと見つめると、弘樹は不服そうに口を尖らせた。ちっとも反省してはいないようだ。そんな二人を見て、妙子は苦笑した。
「怖い話をしたいのもわかるけれどね。そもそも階段なんて増えようがないでしょう。うちは平屋なんだから」


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