赤信号を往く

スニラ



 爽やかな午前と言えば、今のことを指すのだろう。街路樹は青々と茂り、風はそれを奏でた。どこかで鳥が鳴く声も重なり、見れば、遠くで真っ白な飛行機が飛行機雲を描いている。柔らかな空色が世界を包み、暖かな陽の温もりが僕を包んでいる。しかし、だからと言って心地よさに満たされたりはしなかった。僕は空っぽな気持ちでぼんやりしながら立っていた。なぜか。ぼんやりながらも考える。すぐに思いつくのは、今さっき受けた試験が笑ってしまうほど分からなかったことだ。徹夜までしたのにあんなに分からないなんて、僕はなんて低脳なんだろうと思っているのかも知れない。僕が僕に対して失望をする気持ちが、今の僕を呆然とさせているのかもしれない。
 と、考える間に「パッポパッポ」と聞こえる。信号が青に変わったのだ。決して鳩ではない。大学前のスクランブル交差点の白い線と黒のアスファルトを踏み越え終えて、五歩ほど進んだ後、僕は僕が僕でないような気がしていることに気づいた。そしてそれほどにもショックを受けているのかもしれないという疑いが浮かんだ事実が不思議だった。一生のうちで考えれば些細な失敗であろうに、そしてそれをこうして分かっているのに、僕はこのような精神の状態になっている。それにすっかりあの試験を受けた大教室に置いてきてしまったのだろうか、沸き立つ感情というものを感じない。僕は今、僕の存在を疑っている。言葉にしてしまうと気恥ずかしいのだが、そういう考えが頭の中を占領してしまっている。なぜなのか。試験なんかが本当に原因なのだろうか。......もしかしたら違う原因があるのかもしれない。例えば睡眠不足だからとか、試験を終えて軽やかな同級生たちが颯爽と僕を後ろから追い抜いていくからとか、色々......あっ。そういえば、と思った。そういえば先週飼っていたハムスターが死んだ。キンクマハムスターのあぶりは僕が入学した年の五月から共に暮らした小さな命だ。ライチのような匂いがケージからすることと、ずっと餌をやっても出てこなかったことという二つの点が繋がって、先週の火曜日にようやくふわふわのウッドチップに埋もれた死体を見つけた。口を開けて眠るようなそれは冷たくて硬くて、一秒でも早く手を離したいと思いながら燃えるゴミの袋に入れた。火葬するにもそこに割けるお金はないし、土葬する場所もなかった。僕はあぶりが死んだことがショックで、あらぬ思考を巡らせているのかもしれない。そうして歩いているとまた信号に引っかかった。小さな横断歩道だ。大股で四歩すれば渡れるくらいで、しかもたいして車は通らない。僕は機械のように数日間死体に餌をやっていた愚かな僕を思い返した。周りを確認する。車が通る様子はなかった。僕は同時に赤信号が赤信号というだけで何も考えずに突っ立ている、呆けた僕を俯瞰で見た。
 衝動的というには勢いは無いし、反抗的というには些細だった。でも僕は赤信号を進んだ。悪いことをした気がしたがすぐに訂正する。「この行動は理に適っていて、頭を使って考えての行動である」と。
 そう考える間にまた赤信号に捕まった。今度は少し大きな横断歩道。何人かの人が向こう側にもこちら側でも待っている。車道を見ると一台通った後、それに続く車はなさそうだった。黒のプリウスは僕たちの目の前を通っていったが、実際その後に続く車はなかったし、その後もちろんみんなは赤が青に変わるのを待っていた。最初の一歩は思ったより簡単に踏み出せるものだった。しかし一歩目より二歩目、二歩目より三歩目を進むほど後悔の念が膨らむ。見られている、という意識が僕を俯かせた。脳みそがずんと重くなった気がする。僕のスニーカーのつま先のゴムには黒く擦ったような跡がついているし、パーカーは毛羽立って小さい毛玉が絡まっている。誰も僕のことを知らないから大丈夫だと言い聞かせても、どう思われているのかという恐怖はするりと入り込んでくる。目線が怖い。それでも僕が進んだのは、僕はこの行動の意義の分大きくなった気がしていたからだ。
 もうすぐ家に帰れるかという時、踏切にも捕まった。今日の僕を帰したくないヤツがいるのだろう。ここの踏切は待たせるのが長いくせに住宅街からスーパーやコンビニへいく最短経路だからよく使われる。そしてここが通れなくなった今、僕のような徒歩でぶらぶらしていた人間は自転車に囲まれることになる。
「トレイントレイン」
 近くで聞く警告音はそんな風に聞こえる。僕はそれを聞く度に昔壊れたアンパンマンキーボードがこんな甲高い音を出していたことを思い出す。眩しい今日のような日には余計に危機感を感じさせない警告を浴びながら、僕は目の前のバーを越えるかどうかを悩んでいた。色褪せ、すっかり風景に張り付いたバーは簡単に押し上げられそうなのにそれに触れる自分も、下をくぐって向こう側まで行く自分も、どう想像しても僕ではなかった。僕は赤い明滅を見上げながら考えに考えた結果、赤信号ではないからと理由をつけて電車が通り過ぎるのを大人しく待っていた。
 僕の家までに二車線道路を一度横断する必要がある。そして今日の僕は当然のようにここの信号にも捕まった。車はビュンビュン目の前を通っていく。信号は赤。もし赤でなかったとしてもきっと通れない。僕がゆっくりと進み始めると車はクラクションを鳴らしながらもギリギリのところで止まり、止まらないだろう様子の車が確認できたら手前で少し止まって避ける。それを繰り返してなんとか向こうに辿り着く。それはもはや妄想だった。ふと思う。僕はなぜ頑なに赤信号を渡ろうとしているのだ。危険だとわかってわざわざ進もうしている僕は、危険が予測できない動物と同じではないのだろうか。あるいはあまりに人らしすぎるのではないのだろうか。そんなことを考える間に赤信号は青になり、僕はわざわざ次の信号が赤になるまで待つ、なんてことはせずに家に帰った。  
 教室に入ってから試験開始までの時間や見られながら赤信号を渡った時間はいやに長かったのに、夜になるまではあっという間だった。よく考えないと思い出せないようなことで今日も簡単に時間がつぶれた。試験があったのが今日の朝だったなど嘘のように思える。ゴミを出しに行った。明日は木曜日で、燃えるゴミの日だ。きっと僕は明日起きられないだろうから、明日の自分のタスクをやってやる。溜まっていた三つのゴミ袋を抱えてゴミ捨て場の緑のネットに入れる。僕のゴミはすでにある何個かのゴミ袋に混じってただのゴミ袋の集合になった。その中の一つの中に、あぶりの死体が入っている。
「明日もいい日になるよね、あぶり」
 日が変わるまで人を撃ち殺す遊びをテレビ画面の前でしていた僕は予想通り床についてからは昼過ぎまで起きることはなかった。
 後日僕は、ダメだと思ったテストもギリギリで単位を貰えた。なんならその学期はフル単だった。新しいハムスターも買った。あふれと名付けたそれは一生懸命ケージを走り回っていて可愛かった。あふれは今日もぐるぐると回し車の中で走って、走り過ぎて車はあふれより速く走り、あふれはそれについていけずにぐるりと車の中で一周舞わされてから外に仰向けに投げ出された。あふれはすぐに起き上がって顔の毛を繕う。急いでくしくしと必死になっている様は弱ったらしくて僕はとても愛おしく、あぶりと同じくらい可愛がってやろうと思った。


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