星にこの手は届かない 前編 葦夜浪漫 肉を貫く時の感覚にはとうに慣れてしまった。ぜえぜえと荒い息が頭上で聞こえる。 「な、だ、誰だ......」 それには答えない。分かり切ったことを聞く奴は好きじゃない。自分を刺している時点で、何者かなんて察せるだろう。 ああ、それとも、どの「敵」からの刺客かと問うているのだろうか。それならばなおさら答える必要はない。余計なことは喋らないのが鉄則だ。どこで誰が聞いているか分からないのだから。 床に転がった男は、豪奢な衣装を血と埃に塗れさせたままこちらを見上げて、目を見開いた。その口からはとめどなく血が流れている。 「お、お前、知っているぞ。黒いフードに銀の仮面......死神だな......」 「............」 何も言わずにそれを見下ろした。男はやがて動かなくなり、ただの肉の塊になった。それを確認して窓枠に足をかける。二階ごときの高さでは容易に飛び降りられる。 標的の屋敷に程近い路地裏まで逃げて、ようやく足を緩めた。エドは自身のフードに手をかけ、呟く。 「買い換えようかなあ......」 その口調は先程の冷徹な刃と異なり、随分と気の抜けた声音だった。 (死神だなんて、縁起でもない) 縁起でもない商売をしているのはこちらだが、そこは置いておくとする。 暗殺者業は名が知られていればそれだけ依頼も増える。だがエドは別に今の仕事量で十分だし、逆に売れすぎれば敵まで多くなる。それは避けたかった。 フードを脱ぎ、ついで顔の上半分を覆っていた仮面を外す。そして近くの川に向かった。いつも洗濯女たちが服を洗うところだ。今更多少の汚れが増えたところで変わるまい。 多少血のついたフードつきのマントと手を洗い、それを絞って荷物に適当に放り込んでから宿に向かった。個室で寝られるくらいには稼げていて幸いだ。 「あら、おかえりなさい」 「ただいま、お嬢さんも早く寝なよ」 「やだわ、お嬢さんなんて!」 宿の女将に笑顔で応対して自分の部屋に向かう。ここも引き払わなければならない。顔を覚えられすぎるのも良くないからだ。 部屋に入り、マントを干したエドは荷物の中に入れていたパンを齧った。布に包んではいたものの、濡れたマントと一緒に入っていたので少し湿っている気がする。 「あー、失敗失敗......」 そうぼやくが、いつも横着してこうなっている。改善する気は今のところない。夜食を終えると、エドはベッドではなく、窓から離れた部屋の隅に腰を下ろした。いつ襲撃があるか分からない以上、ベッドは使う気になれない。生まれてから一度も寝た覚えのないそこは、「寝床」という感覚すらしなかった。 腰をまさぐり、ナイフがきちんとそこにあることを確認して目を閉じる。何者かが襲ってくれば、いつでも応戦できるようにその柄に手をかけながら。 しかし今日も自分を殺しにくる者は現れず、朝日が部屋に差し込むのに目を覚ました。 エドは寝起きが良く、起きるとすぐにてきぱきと動ける。乾いたマントを荷物に突っ込み、部屋を出た。一階のフロントでは女将が欠伸をしながら座っている。 「あら、お兄さん。早いわね」 「ああ。実は急に出て行かなきゃならなくなってね。残りの日数の代金はチップとしてとっといてくれ」 「そうなのかい? 随分急だね」 眉をひそめる女将に適当な返事をして、エドは宿を出た。あと一週間もすれば自分のことは綺麗さっぱり忘れてくれるだろう。 そろそろどこか落ち着いたねぐらを用意した方がいいかもしれない。そう思うこともあるが、定期的に居場所を変えなければ安心できないのだ。ずっとそうやって生きてきた。 この国ルトワールの首都に流れ着いたのは三か月ほど前だ。ルトワールを含め、この地域には小国が十数国固まっている。そこを点々としながら、仕事をして日銭を稼いでいた。 「今日は野宿かねえ」 新しい宿を探すのも面倒だ。この国には森林も多い。獲物には困らないだろう。たまには大自然を感じるのもいいかもしれない。何より、寝る時に空が見えると安心する。 両手をポケットに入れて行儀悪く道を歩く。大通りからは一つ外れた道だ。にわかに喧騒がこちらまで届いて路地の奥から大通りを見れば、何やらパレードをしているようだった。 「我らがルトワール騎士団万歳!」 「万歳!!」 皆が合唱している。 ルトワール騎士団。この国の王直属の騎士団だ。その内部は三つに分かれ、貴族の集まる白麗騎士団、平民から生る緑鋒騎士団。そして、更生した犯罪者ばかりを集めた黒狼騎士団。 (小耳に挟んだ程度だけど) 馬に引かれる車に乗った者たちは皆立派な鎧を着て誇らしげにしている。日陰者のエドは一生会いたくない者たちだ。暗殺者なんて見つかったら即お縄に決まっている。 それでもエドはしばらくそれを立ち止まって眺めていた。いかつい男が何人も通り過ぎ、やがて随分等身の低い者が視界に入る。あくまで他の者と比べれば、だが。 ブロンドの髪は緩く編まれている。 (女でも騎士団に入れるのか) 騎士といえば男のイメージがあったので、少々意外に思う。しかも騎士にしておくには勿体ないほどの美人だ。ただ嫋やかというよりは、どこか精悍な風情を感じさせる。恐らく式典服だろう、彼女が着ている真っ黒な衣装がますますその印象を強めていた。 その時だった。彼女がふいにこちらを見た、気がした。金色の輝きが路地裏に差し込む。エドはあくまで興味を失ったような顔をして、ふいと歩き出す。 「随分と盛大だ......日陰者には眩しすぎるな」 そう呟いて路地の、さらに奥の方へと向かった。恐らく二度と会わない女の気品ある姿は、猫背で暗い道を歩く自分とはあまりにもかけ離れていた。 「さて、次の仕事は、ロナード通りの......っと」 いつも、仕事にそう手間取ることはない。警備なんてほとんどザルのようなもので、すぐにかいくぐれる。だが今回の仕事は妙に手間取ってしまった。 やはり名前が売れたせいで、騎士団の連中が軒並み警護に駆り出されていたのだ。 それに加えて、どうやら本物の同業者も同じ相手を狙っていたらしい。それなら協力すればいいじゃないかと言われるだろうが、そうもいかない。どちらが先に殺すかで熾烈な争いがあった。 しかし何とか目標を殺し終えたエドは、思ったより汚してしまったマントに少々不機嫌になりつつ路地裏を駆けていた。近くでは捜索隊の連携の声が聞こえている。 揃いも揃って真っ黒な鎧は、まるでエドと同稼業の者のようだった。一様に人相も悪い。 人に何気なく聞いたところ、黒狼騎士団は刑期を終えた犯罪者の就職先として作られたらしい。そのため当然人々からの評判は芳しくなく、与えられる仕事も地味なものばかり。国王の警備などではなく、市井でちょこまかと動き回るドブネズミの捜索がせいぜいだと。 馬鹿にされていて、なおかつ荒くれものの集まりのはずなのに、彼らの動きは素晴らしいものだった。一度彼らがこちらの追撃の手を緩めたのは、どうやら同業者を捕まえたかららしい。その隙に逃げられたのだった。 (ご愁傷様) 更生施設にでも何でも入って、やり直すことだ。いっそのことその方が幸せになれるのかもしれない。本当に黒狼騎士団に入ったりなんかして。 行き止まりに辿り着いたエドは、たんっと地面を蹴って飛び上がる。人より少々身軽な体はこういう時に役に立つ。屋根の上によじ登り、さらに隣の家へと飛び移っていく。下でせせこましく動く黒い鎧たちが虫のように見えた。 それを嘲笑するかのように見下ろした時だ。ふいに剣芒が見え、咄嗟に腰のナイフを抜いた。 屋根の上に敵がいた。剣をナイフで受け止め、その膂力に驚く。下手をすればナイフが折れそうだ。 さらに驚いたのは、その剣を手にしているのがあの、見覚えのある女だということだった。数日前、パレードにいた女だ。 「そのフードと銀仮面、貴様が死神だな?」 「............」 答えない。だが相手もエドの特徴は知っているから、これは質問ではなく確認なのだろう。彼女はすうっと瞳を細め、一度力を抜いた。体力が尽きたのか知らないが、その隙に彼女の剣をかいくぐり懐に潜りこもうとする。だが彼女はばっと後ろに後ずさった。 (鎧を着てるやつの動きか!?) もっとも、彼女の鎧は他の者たちに比べて軽装に見えた。速度を重視する動きをするという点では、自分と同じだ。彼女の剣はエドのものより随分と立派だが。 「依頼を一度も失敗したことのない。その手に握られるナイフが、人には死神の鎌に見えるというが......」 そんな噂まで立っていたのか。これは小道具屋で二束三文で購入した代物だ。きちんと手入れはしているが、そんな大層なものではない。 「なるほど、その腕前は確かだな」 女はからりと笑った。緊迫した状況のはずなのに、神経をはりつめさせたままそんな顔をするなんて器用なものだと思う。 「欲しい、な」 「......?」 彼女が何か小さく呟くが聞き取れなかった。だが一拍後、彼女が急に肉薄してくるのにナイフで応戦する、きいいい、と刃の側面同士が削れる音がした。 女の騎士なんて所詮お飾りだ。あの時自分は何となくそう考えていたが、考えを改める必要がありそうだ。この女は間違いなく強い。 剣戟の一撃一撃が正確無比で、一度でも体勢を崩せば確実な死が待っている。 「ッ」 彼女の剣がより一層早くなり、エドの腕を掠めた。ぱっと舞う鮮血。それに怯むことなく、女の腹を思いきり蹴った。エドを斬ったばかりで体勢を崩していた女は、それにあっさりと吹き飛ぶ。 その隙に逃げ出した。ここで騎士団とやり合ってもろくなことはない。むしろ仲間がくれば、完全に自分が不利になるのが目が見えている。 そう思ったところで、ふと不思議になった。あの女はエドを見つけた時点で皆に知らせればいいのにそうはしなかった。そうした方がきっと、こちらを捕らえられる確率があがるのに。 「変なやつ」 そうひとりごちながら、ぴょいぴょいと人の家の屋根を飛んでいく。腕の傷は浅いが出血は多く、頭の血が足りていないのを感じる。早く止血しなければならないだろう。 女はまっすぐにこちらを見ていた。きらきらと、その目は輝いてすらいた。 生きるか死ぬかのやり取りの場であんな顔をするのは、生粋の武人だ。 妙なやつと関わってしまった。そう思いながらも、歯ごたえのある敵と戦闘をできて嬉しく思っているのも事実だった。自分はいつも後ろから人を刺すばかりで、真向勝負の経験はあまりなかった。だが、一方的な殺戮よりも気分がいいのは確かだった。 酒を飲むのはあまり好きではない。だが酒屋というのは大体碌でもない仕事を斡旋する業務も兼任しており、それを受けるついでに飲むことがあった。 強くないので、周りの気配に注意を払えるよう最低限しか飲まないようにしている。だから、今まで酔いで失敗したことは一度もなかった。 そう、なかったのだ。 それなのに、隣に座った人間が酒を頼むまで、それが数日前に殺し合った相手だと気がつかなった。女があまりにも自然体だったからだ。 「エールをひとつ」 そう言った女に、咄嗟に腰に手をやろうとする。しかし女はそのエドの手を掴んで止めた。 「やめろ。ここはもう包囲されている。どうあがいても逃げられないぞ」 「ッ......」 女の目は凪いでいるようにも、波立っているようにも見えた。少なくともこちらへの殺意はないようだ、ということだけは分かる。捕まえる気はあるようだが。 「......あんたを人質に取って、逃げる、とか思わないわけ?」 「思わない。だって私は、キミに捕まるほど弱くない」 彼女は当然のようにそう言った。そしてそれは恐らく真実だろう。正面からやり合ってあれだけ互角だったのだ。捕らえたこの女に気を払いながら、他の者と交渉できる気はしない。つまり、大人しく捕らえられるしかないのだ。 エドはしぶとく、隙を見て逃げ出す算段を立て始める。きっとどこかに勝機はあるはずだ。 だが同時に、捕まることにどこかほっとしている自分がいた。 どこの国の自警団も、騎士団も、エドを捕まえることはできなかった。騎士団が外を走り回っている間に、エドは堂々と酒場で飲んだり、あるいは市場で果物を手に入れていた。頭の巡りが遅い連中に捕まりはしない。 エドの母親はしがない娼婦だった。堕胎をしくじってエドを産む羽目になった女は、子供をストレスのはけ口にした。だがある日客に薬を盛られ、完全にいかれてしまった。母が処分された時一緒に処分されかけ、慌てて娼館から逃げ出した。 そこからはしばらく路地裏で暮らしていた。冬は指先が凍り落ちるように寒く、夏は自分と同じように路上で寝ている者が腐っていった。エドは器用で足も速かったから、人からものを盗んで何とか生き延びていた。 転機が訪れたのは、財布を盗んだ相手の男に捕まってしまった時だった。随分と冷たい目をした男に殺されるかと思ったが、男はエドをしげしげと見て、使用人に言った。 「こいつは案外使えるかもしれないぞ」 彼は、とある男を殺してくれば見逃してやると言った。それどころか、一ヶ月は生きていくのに困らないくらいの金をくれると。 死にたくない一心でそれを引き受けた。もし逃げ出したりしても状況は好転しない。それならば、万が一殺せて金を貰う方にかけようと思った。 天は小さな子供に味方した。恐ろしいほど簡単に相手を殺すことができたのだ。長年の盗みで、証拠を残さないようにするのも慣れていた。 顔に血をつけたまま帰ってきたエドに、男は本当に金をくれた。そして言ったのだ。この仕事を続けてくれるなら、また金をやると。 しばらくはその男の元で人殺しをしていた。だがある時男は殺しとは別件で疑惑をかけられ、その国の騎士団に捕まってしまった。エドは再び根無し草になった。だが前と違うのは、殺しの技術を身に着けたということだった。 その国を出てからは、他の国で、誰が誰を恨んでいるという情報を情報屋から買っては自分を売り込んだ。その内売り込まなくても依頼が来るようになった。 初めて人を刺した時、何も思わなかった。人が人を、自分と同じ存在を殺すというのは多かれ少なかれ自己を殺すということに繋がるのに、だ。エドに天性の素質があるとすれば、それなのかもしれなかった。 それからはずっと同じ日々の繰り返しだった。人殺しが好きなわけではないけれど、こうしなければ生きていけないのだから仕方ない。生きるために殺して、殺して、殺して。 こうしてまで、自分が生きている理由は何だろうか。いつもそれを考えていた。自分の命は、他者のそれより本当に重いのか? 依頼が増えるようになってからは、標的が悪党の場合に限り受けていた。この前の男だって、奴隷市場のオーナーだ。けれど、相手の罪とエドは関係がない。 「夢」という言葉があるらしい。眠っている時に見るそれではなく、将来自分がなりたいものやしたいことを指す言葉だと。エドにはそれがなかった。 けれど、だからといって自殺なんて御免だ。その気持ちだけで依頼をこなす日々だった。 この女と戦った時が、最近で一番楽しい瞬間だった。自分の生をまざまざと感じた。そんな相手に捕まるのなら悪くないかもしれないと思った。 「......わかった」 エドは初めて、女に口をきいた。ごくりと飲みかけのエールを干す。 「俺を捕まえたいんだろ。捕まえればいいさ」 勿論隙があれば逃げはするだろうが。 女はそれにそうか! と元気よく頷く。 「俺はこれからどうなる?」 「キミは人を殺しているからな。恐らくは刑期が五年ほど。その後は観察処分になる」 「へえ、死刑じゃないんだ」 「この国には国王反逆罪を除いて死刑はないから」 それは幸いなのか。 マスターに釣りはいらないと言いながら札を一枚置く。女も同じように金を出した。気づけば、入り口の方からわらわらと騎士団の連中が入ってきている。 「どうせなら死刑でもよかったのになァ」 呟いて、それから自分の発言に驚いた。何となく疲れたとは思っていたが、死にたいとまで思っているとは思わなかった。 「それは駄目だ」 女はやけにはっきりと否定した。 「なんでだよ」 思わず突っ込むと、彼女は至極真面目な顔をして言った。 「キミは数年後我が騎士団にスカウトされるからな。死なれては困る」 「............ハア?」 思わず呆けた声が出るのも仕方がないだろう。 (我が? スカウト?) 「あんた、何様なわけ」 そう尋ねたエドに、女が瞬いて微笑む。威風堂々とした立ち姿は、王の風格すら感じられた。 「コーデリア・フォン・ロバーツ。黒狼騎士団団長だ」 彼女はばっと胸に手を当て、誇らしげにそう告げた。エドが?然としている内に、周りからは喝采があがる。それは黒狼騎士団団員らしき男たちのものだった。 「さすが我らが団長! かっこいいぜ」 「リアさんの名乗り、堂に入ってるよなあ」 元は犯罪者のはずの男たちは、女......コーデリアにひどく好意的なようだった。エドは何だか気勢が削がれて、椅子に深く凭れかかる。 「スカウトって、どういうこと......」 「キミが気に入ったのでな! 銀仮面の死神よ、刑期を終えた暁には是非我が騎士団に来てくれ」 「人殺しだぞ俺は」 そう言えば、彼女は凄絶に笑った。 「そんなの、私だって同じだ」 ここにいる者もな。 そう続けるコーデリアに言葉を失う。そして、やがては降参というように両手をあげた。 「まあ、長い刑期の間に、ゆっくり考えさせてもらいますよ」 この変人女はエドを気に入っているとか言っていたが、こちらはしがない暗殺者だ。五年も経てば興味も薄れるだろう。そもそも五年もの間この騎士団が存在しているか怪しい。だから適当にそんなことを言った。 手を縄で縛られたが抵抗する気も起きない。隣を歩く女は、もうエドが頷いたつもりなのかやけに上機嫌だった。 「俺まだなんも決めてないからな」 「勿論、分かっているとも!」 分かっていない。絶対分かっていない。 不快感に顔を歪めた。何が不快って、きっと自分はこの騎士団に入ることになる、そんな予感がしているからだった。 エドの縄を引っ張っている大男が話しかけてくる。 「諦めな。うちの団長は欲しいって思ったらすぐ引っ張ってきちまうんだ」 「そのよーで」 これから刑期中に受けなければならない罰と、その後に待っているものを考えて、大きな溜息をついた。けれど、これでやっと「終われる」という奇妙な安心感が身体を覆っていた。たとえその手が、既に一片の隙もなく赤く染まっていたとしても、だ。 結論から言えば、コーデリアが自分を諦めることはなかった。彼女は刑期中も何度も面会に来てはエドを口説いた。看守たちは「またか」という目で見ていたから、恐らく茶飯事なのだろう。 「俺なんて何の役にも立てませんって」 エドは何度目かの誘いをそう言って突っぱねた。 これから先、自分が何をして生きていくかなんて決めていない。しかし、自分が生きていくのは少なくとも明るい場所ではない。 騎士団の連中は皆楽しそうだった。自分があそこに混じることを考えると強烈な違和感で吐き気を催すほどだった。 しかしコーデリアの方も負けてはいなかった。それどころか、ついには刑期の直前にエドに首を縦に振らせてみせたのだ。あの予感通りになったわけだ。 「役に立てなかったらすぐお暇するからな」 そう言ったエドに、コーデリアはからりと笑った。 「それなら徹底的にしごくまでだから心配するな」 「いやそれは心配しかないんだが」 騎士団の修行なんて、碌なものじゃないということだけは分かる。 そうこうしている内に出所する日が決まった。五年も世話になった刑務所は、どこか愛着すら湧く。いや、汚い寝床、騒がしい囚人たち、不味い飯。思い返すのはそんなものばかりなのだが。 彼女はわざわざ迎えに来た。エドは生まれて初めて馬車に乗り、その安定性のない乗り心地に不安な気持ちになった。売られた牛か馬の気分だ。その日暮らしで生きてきた自分が、居場所を獲得しようとしている。そのことがどうにも落ち着かない。 「お前さん、名前はエド、だっけか。俺はマルコ。よろしくな」 馬車に同乗していた男が声をかけてくる。顔に大きな傷の入った、いかにも荒くれものといった姿の男は、しかし人の良さそうな笑顔だった。 「......ヨロシク」 軽く頷く。向かいに座ったコーデリアが、窓の外を見て言った。 「もうすぐ着くぞ」 窓から差し込む光が彼女の顔を照らしている。やはり、よく整っている。確か名前に「フォン」とついていた。恐らくは貴族なのだろう。それなのに、何故彼女が元犯罪者たちを従えているのか。 馬車が止まり、エドたちは地面に足をつける。初めての乗り物のせいで胃がひっくり返るかと思った。昔は馬車に乗っている者を羨んだこともあったが、そんな必要はなかったようだ。 「ここが私たちの屯所だ」 「へえ......。......ぼろいね」 堂々と紹介したコーデリアに対して率直な感想を漏らした。目の前の建物は大きさはあるが、苔むした石壁は幾度も補修した後が雑に残っているし、屋根は石と木が混在しているように見える。 「そうだな!」 コーデリアは頷き、マルコは「はっはっは」と笑った。立つとエドよりも数十センチも高くなり、威圧感が増す。 「まあ元罪人にはこれがお似合いってことだろうよ!」 「いや、笑い事なのか?」 分からなかったが、彼らが気にしていないなら別にいいのだろう。これは最早つい最近まで世話になっていた刑務所と同レベルだが。 屯所内に足を踏み入れたコーデリアはこちらを振り返った。 「さて、私は流石に戻らなくてはな。マルコ、後は頼めるか」 「はいよ~」 マルコが気の抜けた返事をする。そしてエドを見下ろして言った。 「さて、リアさんの言いつけだ。新入り、案内してやるよ。言っとくが、あまり友好的じゃないやつもいるから気をつけろよ」 「忠告か? 優しいな」 「揉め事起こすとリアさんにぶっ飛ばされんだ」 そう言いながら、マルコは屯所内を案内した。食堂、厨房、宿舎、図書室、畑。 「農民の真似事までしてるのか」 「うちは予算がないんだ。食い物は自分らで作らないと装備が揃わねえ」 それぞれの場所には何人かの団員がいた。反応はマルコのように気さくなものから、彼の言う通り非友好的なものまで様々だった。数にしておよそ三十数名。騎士団にしては随分と小規模だ。 エドに対し、一番激烈に反応したのはカンジという男だった。彼はマルコよりも背が高く、傍から見ればエドはまるで子供のようだろう。 「はッ、これが新入りか? 銀仮面の死神とか言われてたが、その細腕じゃ騎士は務まらねえだろうな」 がっと腕を掴まれたかと思えば唾を吐きかけられた。一応新品の服の袖が汚れたのに顔を顰める。マルコが「やめねえか!」と怒鳴った。 「リアさんの見立てだって言ってんだろうが」 「団長だって見込み違いすることもあるだろうが。おい、新入り。何か余計な真似したら殺すぞ」 ぐうっと顔を近づけて、白目の多い瞳に睨みつけられる。エドはへらりと笑ってみせた。 「例えば団長さんの寝首を掻こうとするとか?」 「てめえッ!」 「やめろって! 新入りもそんなこと口にしてたら皆に滅多打ちにされるぞ」 「冗談だって」 マルコはカンジを止めながら??りつけてくる。エドは掴まれていない方の手を挙げて降参の意を示した。揉め事を起こすとぶっ飛ばされるらしいから、今ここで刃物を持ちだすのはどう考えてもまずいだろう。 逆にエドに一番友好的だったのは、メロウという男だった。彼は体格もカンジとは真逆で、エドよりも貧相だった。 「うちのブレーンだ。少々情けねえやつだが、頭は切れる」 「情けないはひどいですよ、マルコさん......。エドさん、初めまして、メロウです」 大きめの丸眼鏡が彼の素朴さを助長している。あまりにも人畜無害な顔だ。とても元犯罪者には見えない。 「こいつは家族が貴族を殺しちまってな。連帯責任でぶちこまれたんだ」 エドの思考を読んだようにそう説明され納得した。それではさぞここに馴染むのに苦労しただろうなと想像する。騎士というよりも学者と言われた方がよほど似合う。 「ご家族が」 「ええ、父が......」 メロウは小さな声で言った。あまり追及されたくはないのだろう。 「ちなみに俺は酒場で喧嘩吹っ掛けてきたやつを伸したら、それが騎士団の連中でよ! 刑務所送りになったってわけだ。それで騎士になってるんだから何の冗談かって話だな」 マルコは鼻の下を擦りながら言った。 「俺はエド。殺人で放り込まれてた。よろしく」 エドは短くそう挨拶した。二人もどうせ、元から罪状は知っているのだろう。五年前にもしいれば、エド捜索に二人も参加している。 「今日の夜は新入りの歓迎会があるんだ。たらふく飲めるチャンスだぞ」 「金はないのに酒は飲むのか」 「細けえこた言うなって!」 ばしん、と背を叩かれ、そのあまりの威力に咳が出た。 一通り挨拶は済ませたと思ったが、まだ巡回に出ている者や、所用で空けている者もいるらしい。歓迎会なんて不要だ、と言いたかったが、マルコのあまりにもうきうきとした様子を見てやめた。 見回り、鍛錬、畑仕事。それから、読み書きの勉強。エドの生活は主にそれらで構成されることとなった。 娼婦であった母親には勿論学はなくそこから先は学校に通う暇なんてなかった。簡単な数字程度なら分かるという程度だ。指南役にはメロウがつき、彼は丁寧にエドの勉強をみた。 少しざらざらとした手触りの紙の上で、鋭いペン先を滑らす感覚は中々に楽しい。だがこれにメロウを付き合わせるのは申し訳なかった。 「悪いな、手間増やして」 勉強の間彼を拘束してしまうことを謝罪すれば、メロウはへにゃりと笑って首を横に振った。 「いえ! エドさんは呑み込みが早くてとっても楽しいです」 それに、とメロウは声を潜めて、内緒話でもするかのように言った。 「ぼく、本当は学校の先生になりたかったんです。だから、ちっとも手間じゃないですよ」 「......そうか」 エドは思う。自分が学校に行ったことがないから、分からないけれど。でも、彼は本当なら素晴らしい先生になれただろう、と。彼の教え方は的確で優しかった。 今日のノルマを終えたエドは、「このくらいなら読めると思います」と渡された本を片手に図書室を出た。その本は絵が多めのもので、子供が読むものらしい。ひとまず表紙の文字はすべて分かることが何だか嬉しかった。 夕日の差し込む廊下には、小さな埃が光の中を漂っているのが見える。木の床は歩く度にぎしぎしと音を立てた。ところどころ腐っているから、踏み抜かないように気をつけなければならない。 角を曲がった時、廊下の向こうにコーデリアがいることに気がついた。そういえばここの廊下は団長室から近い。 彼女はこの団体の代表なだけあって、多忙な様子だった。それでも彼女は畑仕事をし、鍛錬も真剣に行う。血の気の多い団員たちが諍うと鉄拳を下し、夜は団員と共に食事を取る。皆が集まる大広間で片手間に仕事をしながら、馬鹿騒ぎに加わる。一ヶ月も暮らせば、彼女が皆に好かれる理由が分かった。彼女には人を惹きつけるカリスマが確かにあった。 しかし、ただでさえあれだけの美人だ。男の中に女一人で変な気を起こした奴はいやしないのか。ふと疑問に思ったエドはマルコに尋ねてみた。すると彼は、どこか誇らしげに胸を張った。 「いないわけないだろ。リアさんが騎士団長になりたての時、馬鹿なやつらが数人がかりで団長をどうこうしようとした事件があった」 「数人がかりか。それで?」 「決まってんだろ?」 マルコはその場で素振りをしてみせた。 「全員伸しちまったよ。ちなみに、まだこの騎士団に所属してるやつもいるぜ」 「放逐しなかったのか?」 「変な気を起こさないように、って厳命だけだったよ。ほんとにすげえだろ、あの人は」 何でも初期の面々はそれ以来、ますますコーデリアを尊敬するようになったらしい。 (とんでもない人だな、本当に) そっと彼女に近づく。窓の外をぼんやりと見つめるコーデリアは、少しだけ幼く見えた。 「お疲れ様です、リアさん」 「ああ、エドか。お疲れ」 コーデリアがこちらを振り返る。三つ編みがふわりと浮いた。金の瞳がじっとこちらを見る。コーデリアと自分の身長があまり変わらないので、余計に目力を感じるのかもしれない。 「お仕事、休憩中ですか?」 「そうだな。事務仕事ばかりは肩がこっていけない」 ぐる、と彼女が腕を回す。ぱきりと音がするのに、本当に疲れているらしいなと思った。 「肩でもお揉みしましょうか? 団長殿」 冗談めかしてそう言ってから、エドは急にさっきの話を思い出した。 (しまった) 何の気なしの発言だったが、下心ありきと思われやしないか。伸されるのは御免だ。 だが彼女はきょとんとした後からりと笑う。 「ありがとう、大丈夫だ」 「そ、うですか」 よかった、おかしな意味には取られなかったらしい。 まあ、この男所帯だ。騎士団の連中も彼女を尊敬はしていても、この程度のからかいはよくするのかもしれない。慣れているのだろう。コーデリアはまた窓の外を見る。 「今日も哨戒では特に事件はなかったらしい。酔っ払いの諍いが一件だけだ」 「そりゃ、平和なことで」 「ああ、何よりだ」 彼女の表情は凪いでいる。あの時、エド相手に向けたぎらぎらとした闘気はどこにも見当たらない。 「......貴方は、争いがほしい......とは思わないんですか?」 「ん?」 「人と剣を交えるのがお好きでしょう」 そう言えば、「勿論」と彼女は頷く。 「それならば、戦でも起こればいくらでもそうできる。それは望まないんですか?」 この一ヶ月で分かったのは、黒狼騎士団は元犯罪者の受け皿としての機能しかない、ほとんどお飾りの騎士団だということだった。あのパレードのように目立つことをするのは一年に一度くらいしかないと、メロウは言っていた。 他の騎士団の連中とも、二度ほど顔を合わせたが、あまりいけ好かなかった。彼らの所の団長とコーデリアは互角に渡り合えるだろうに。もし戦争のひとつでも起これば、彼女は瞬く間に武勲をあげるだろう。 今のこの状況が不満ではないのか。エドはそう聞きたかった。 彼女はエドの言葉に、すぐに首を横に振ってみせた。 「望まない。私の望みは、平和だ。戦いは好きだが争いは好きじゃない。私の剣は、あくまでも真っ当な武術勝負のためにある」 「......はは、じゃあ、俺に斬りかかってきた時もそうだったんです?」 「ああ、せっかく巷で噂の凄腕暗殺者だ。剣を交えてみたいと思うのは当然だろう?」 「私は運がよかった」と彼女は言った。 「キミを捕まえる作戦には、他の騎士団も参加していてね。彼らの逃走予測にない場所の警備をさせられていたんだ」 それはつまり、他の騎士団の失態を示している。だがだからこそ、コーデリアはエドを見つけることができた。 「身のこなしで分かった。この男はただものじゃないと。そして、仲間にしたい、ともね」 「......ハハ......」 流れるように相変わらず殺し文句を言ってくる騎士団長サマに、エドは乾いた笑いを漏らした。 「貴方、人誑しって言われません?」 この騎士団の連中は、全員彼女に誑し込まれたのだろう。「そうか?」とコーデリアは分かっていないように首を傾げた。 「私はただ、欲張りなだけだよ。いいものを見ると我慢ができなくなるんだ」 「だからそれが......ああもう、いいです」 「ふふ」 顔に手を当てると、コーデリアが笑った。いつもの勇ましい笑みではなく、どこか可愛げのある微笑みだった。しかしそれはすぐに隠れてしまう。 「そうだ、エド。来週、新しく騎士になった者たちの叙任式が執り行われる。キミにも参加してもらうよ」 「うえ、それって別の騎士団の奴らもいるやつです?」 「いるやつだな」 先程まで気分の良かったエドは、一転うげっと舌を出したのだった。 叙任式の日、初めて式典服に腕を通した。パレードの時に皆が着ていたものだ。祭事などの特別な時のみ用の衣装らしいそれは、何だか落ち着かなかった。 「なかなか似合ってるじゃねえか」 「あんたよりはな」 マルコに言い返せば、「なにおう」と彼が小突いてくる。フォーマルな衣装と荒くれの風貌が見事に?み合っていないのだから仕方がないだろう。 エドは細身で人相も悪いわけではないので、マルコよりは似合っている自信があった。 「エドさん、頑張ってくださいね!」 メロウは逆に服に着られている感じがある。童顔だから、子供が背伸びをしているように見えるのだ。カンジがこちらを見て舌打ちをするが、何も言ってはこない。 「団長は?」 その問いに答えたのはハウゼンだった。 彼は騎士団の中でも変わり者で、鍛錬や巡回、酒には興味がない。彼の興味はただひとつ、畑だった。屯所の畑は最早彼の所有物と言ってもよく、何かするのにも皆は彼の許可を取る。彼はいつも畑仕事をするために軽装なので、こうやって式典服を着ていると違和感があった。といっても中々の美丈夫なので様になってはいるのだが。 「団長は式典場に席があるからな。立ち見の俺らとは違うってわけよ。だから先に行ってんだ」 叙任式は、騎士団長がそれぞれの騎士団に配属された新入りに、正式に騎士を任じるものだ。騎士団長が騎士の肩に自分の剣を乗せ、それぞれ口上を述べるらしい。 「ほら、早く行けよエド。お前ももう入らなきゃいけねえんだぞ」 あくまで参加するだけの仲間たちとは違い、実際に叙任を受ける立場のエドは、また集合場所が違うらしい。きつい首元を緩めるように引っ張りながら、教えられた場所に向かった。 そこには既に他の騎士団の連中がいた。彼らはエドが輪に入ると一瞬こちらを見るが、直ぐに談笑に戻る。まるでエドなどいないかのように。 (今日日、子供でもこんなことはしないだろうさ) 彼らが黒狼騎士団を見下しているのは、この一ヶ月いただけのエドにもよく分かっている。どうせなら噛みついてくる奴でもいればいいのに、と不穏なことを考えている内に入場が始まった。最後尾をついて歩く。 そこは高い柱が四つ立った、円形の広場だった。すべてが白い石で作られている。 闇に紛れて生きてきたから、太陽の下で衆人環視に晒されるのは慣れていない。珍しく自分が緊張しているのを感じる。 「――我が緑鋒騎士団の名のもとにおいて、騎士の称号を授ける」 緑鋒騎士団の団長が、新入り騎士の肩に剣を置いて言った。これが終われば次はいよいよ自分の番だった。いけ好かない緑鋒の大頭は、一瞬だけこちらを見て、侮蔑するようにその口元を歪めた。そして彼と入れ替わりに、コーデリアが出てくる。緑鋒騎士団団長がわざとらしくマントを翻したせいでコーデリアがそれにぶつかりそうになるが、流石彼女はさりげない動きでそれを避けた。 エドは前に出る。威風堂々と立つ彼女の前に跪いて、彼女の靴に目を落とした。すると剣を抜く音、それから、自分の肩に乗る重みがある。 「我が黒狼騎士団の名のもとに、貴君に騎士の称号を授けよう」 コーデリアが朗々たる声で言った。 「......」 深々と頭を下げる。肩に乗る重みが消え、彼女の足先が元の席に向いてから立ち上がる。そして足早にその場から退散した。 これでエドは正真正銘の騎士になったわけだ。 (そういえば、つまらなかったら逃げる、なんて言ってたっけ) 長ったらしい国王の話を直立して聞きながら、エドは思う。 (結局、一瞬もつまんない時ってなかったなァ) それは自分に初めてできた、仲間と呼べる存在のお陰か、それとも。 自分と同じように直立しているだろうコーデリアの姿は、皆の頭に隠れて見えなかった。 「近頃、この近隣の国では何やら不穏な気配も漂っておる。皆、一層励むように」 国王の激励を聞き流しながら、エドはぼんやりと空を眺めていた。 その日の夜はやはり、盛大な宴が行われた。皆は祝いたいというよりはただ飲みたいだけなのだろう。安酒を大量に買い込んで、性質の悪い酔い方をしている。 「よぉエド歌おうぜ!」 「歌いません」 「おめえだけすかしたツラしてんなよ! 飲め飲め!」 押しつけられる酒に、仕方なくそれを飲み干す。すぐにアルコールが身体に回って、自分でもふわふわとしているのが分かった。飲ませてきたマルコは、それを見てげらげらと笑っている。 「おまえさん酒弱すぎだろう!」 「普通だ......がぶがぶ飲んでるあんたらが化け物なんだよ......」 一気に飲んだせいで視界がぐにゃりと歪みそうになる。マルコが新しい酒を用意しにいったのを見て、このままでは潰されると確信したエドは逃げることにした。元暗殺者のスキルを無駄に活かし、気配を殺して廊下に出る。屯所の門のところまでいけば、流石に喧騒は遠かった。 「はあ、......うぇえ......」 気持ちが悪い気がする。あんな酒を飲んだせいだ。安酒に慣れていないわけではないが、それにしたって酷いものだった。 柱に凭れかかり、ずるずると座りこんだ。空には星が幾千も浮かんでおり、酔った頭はそれを数え始める。 「ろくじゅ、......うん、何個までいったっけ」 昔もよく、こうしていた。 路地裏には、地面には腐ったものしかない。けれど上を見上げれば、ぴかぴか光る星や月があったから、なるべく上を見るようにしていた。暑さに舌を出した夜も、寒さに指がこおりつきそうな夜も、空を眺めていた。 「きゅうじゅうはち、」 もうすぐ百を目の前に、自分の行動の虚しさに笑えてきた時だった。すっとエドの前に影が差す。そして二つの星がそこにあった。 (百個、見つけた) 「あれ、団長?」 彼女はその星を一度瞼の奥に隠し、くすりと頬を緩めた。 「お前、酒が弱いんだな」 「皆が強すぎるんですって」 コーデリアも含めて。彼女もワクで、いくら飲んでも平気なのだ。それゆえ酒はそこまで好まないようで、いつも宴会でも嗜む程度だというのは見ていた。 「何してたんだ?」 彼女が隣に腰を下ろす。エドは素直に星を数えていたのだと答えた。 「楽しそうなことをしてたんだな」 「はは、これしかやることなかったし......」 「?」 「ネズミと蛆のたかった死体が転がってるような地面なんて、見たくないし」 ゆらゆらと頭が揺れる。普段は口にしないことを喋ってしまっているのが分かるが止められない。 「それより空見てる方が、いいじゃないですか」 「......そうだな」 コーデリアが静かに首肯する。酔っ払いを甘やかしすぎだ、と思った。路地裏でなんて彼女は寝たこともないのに。 「リアさんは、貴族様なんでしたっけ?」 「そうだ」 「そっか......」 貴族の生活なんて、エドには想像もつかない。けれど盗み見た彼女の表情は、決して明るい思い出を想起している顔ではなかった。 仲間から彼女の事情は聞いていた。巷では有名らしい。女癖の悪く悪名高い大臣に彼女の母が目をつけられ、彼女の父は陥れられた。彼女の母は夫の命と引き換えに大臣の第何夫人かになった。 元より騎士見習いだったコーデリアはその関係もあり、他の二つの騎士団には入れなかった。それどころか、何も罪を犯していないのに犯罪者の巣窟に落とされたのだ。だが彼女は挫けなかった。 前騎士団長は荒くれものたちを押さえるだけで精いっぱいで、黒狼はとても騎士団と呼べる存在ではなかった だが彼女は黒狼に入ると、「自分がやったほうが早い」と前の騎士団長を説得し、自分がその器に収まったのだ。前の騎士団長はやめたがっていたし、彼女は騎士団の中で誰よりも強かったから許された行いだった。 二十にも満たない少女が騎士団長になり、いくつの困難があったかなど、星の数と同じくらいだろう。それでもコーデリアは今日も自分の足で凛と立っている。不敵な笑みをその口元に浮かべて。 「......リアさん、俺、今日騎士になったじゃないですか」 「ああ」 「騎士ってのはやっぱり国を守るもので」 けど、とエドは笑って言った。 「俺とか、マルコとか、メロウとか、カンジ、ハウゼン......ここの奴は皆、あんたのために戦うんですよ」 「............」 コーデリアはそれに、金色の瞳を丸くした。 「......それは、私には勿体ない話だな」 「妥当でしょ」 コーデリアがいなければ、彼らは騎士団とは名ばかりの、荒れた生活を送り続けていただろう。そして自分もきっと、今も路地裏を血の付いたマントを翻しながら賭けていた。 これが重いというような女ではあるまい。今までも信じられない圧を跳ね返し生きてきたのだ。だから、自分勝手に彼女に情を押しつけても許される気がした。とんだ傲慢を、エドは口にする。 「あんたのためなら死んでもいいかなァ」 「ははっ、笑えない。死ぬ時は自分のために死ね」 「はいはい」 大分酔いは醒めてきていた。愛されている団長様をいつまでも独り占めしていては皆に怒られる。それは分かっていたが、「そろそろ戻りましょうか」という気にはならなかった。 「五十個まで数えたぞ」 空を見ていた彼女がこちらを見て笑った。 ルトワール国付近の情勢が悪化したのは、それから二年ほどしてからだった。小国群を取り合おうとする大国の動きに、もれなくこの国も巻き込まれたのだ。西の大国フレイザーと、東の大国オルベキア。それが両側からじりじりと小国群を攻めてきていた。小国群はフレイザーとオルベキア、どちらに着くか、あるいはどちらにもつかず消滅するかを決めなければならなかった。 ルトワールは未だどちらに着くかを決めあぐねていた。貴族連中の中には既にどちらかの国に亡命した者もいるらしい。市井の者も、次々と国境を越えている。だが小国群において中央にあるルトワールからは、どこに行こうと逃げられない可能性が高い。 下町を見回っていても、どんよりとした空気が立ち込めていた。こういう時は諍いも多い。数の多い緑鋒が真っ先に国境警備の任についたことで、街の警備の負担が大きくなった。 「ただいま戻りました~」 エドとハウゼンはペアでの巡回から戻る。他の団員たちも、忙しく走り回っている筈だ。入口で埃を落としながらハウゼンが文句を言う。彼は自慢の畑にあまり顔を出せなくなったのがそうとう効いているらしく、ここ最近はずっと機嫌が悪かった。 「まったく、白麗は何してんのかね......俺らより多い癖に」 「あいつらはお上品なとこしか守らないから。まあ、あそこも可哀想だよ。騎士団長が真っ先に亡命しちゃうなんてさ」 あまりの醜聞ゆえに市民に対して箝口令が敷かれているが、白麗騎士団の騎士団長ウバスは、情勢が危うくなったと見るやいち早く雲隠れしたのだ。今は副騎士団長のセイレムがその任に就いているが、混乱も大きかろう。 警備網には穴が多く、彼らの不始末までも、今は黒狼が引き受けていた。だがそもそも黒狼は民間人からの評判がすこぶる悪い。今日も何度石を投げられたことか。お陰で今日は手に傷を作ってしまった。一般人の攻撃を食らうなど情けない。 その時丁度、あわただしく廊下を歩いてきた人がこちらを見て止まる。 「おかえり、二人とも」 「団長」 「リアさん」 エドとハウゼンは同時に彼女を呼んだ。この騎士団で今一番忙しいだろう人だ。 コーデリアが近づいてきて、エドの手とハウゼンの額を見る。彼の腕にも、投石でできた傷があった。 「また随分とやられたな!」 「はは、皆の不安もでかくなってていけない。狼共がこの国攻めに乗じて自分たちを喰わないか、怖くてたまらないんでしょうよ」 エドは冷たい笑みを浮かべて言った。しかし特に彼らを憎む気持ちがあるわけではない。余裕がない時に人はどこまでも残酷になれるというのはよく知っている。 だが、コーデリアはどんどん悪化していく情勢の中でも決して余裕を失わなかった。忙しなく日々を送る中でも彼女は不敵な笑みを絶やさなかったし、団員への声掛けも頻繁になった。いつ寝ているのかと思うほどだ。 「団長はまたどっか行くんですか?」 コーデリアが頷く。そういえば屯所の前に馬車が止まっていた。 「ああ、そうだ。緊急集会らしい」 そしてエドとハウゼンを見たかと思うと、にっこりと笑った。 「よし、エド、私と来るか」 その言葉にエドは目を見開く。 一応副団長であるマルコはどうしたのか、と思ったが、そう言えば彼は一日前から腹を下して寝込んでいるのだった。絶対にここ最近の飲み過ぎが祟っている。叱ろうにも便所から出てこられないので叱りようがない。 「そりゃ......構いませんけど」 「ええ、なんでエドだけなんですか」 ハウゼンがすぐに猛然と反抗する。しかしコーデリアが「額に傷がある者など連れて行けるか、さっさと手当てしろ」と言うと明らかにしおれた。 「そもそも王宮には興味などないだろう?」 「団長殿の警護役をしたかったんですよ、ハウゼンは」 「るっせえ!」 傷のできた手をどつかれ、エドは大袈裟に「いって!」と叫んだ。ハウゼンがフン、と鼻を鳴らしながら去る。しかし王宮か、と改めて服の汚れをはたいた。はたいてもどうにもならないような気もするが。 「こんなもんでいいですかね」 「構わん。行くぞ」 颯爽と歩き出すコーデリアに続く。先程まで巡回で多少なりとも疲弊していた筈なのに、彼女と歩いているとそれを忘れるようだった。しかし馬車に乗ると、やはりぶり返してくる。がたごとと多少過激な揺れにもすっかり慣れた。 窓の外を見ていたエドがふと前を見ると、コーデリアは書類を手に目を閉じていた。 「......!」 長い睫毛が影を落とす目の下には、うっすらとだが隈が見える。 (いや、そりゃそうだ) コーデリアがいかに強くても、人間なのだ。疲れない筈がない。しかし今まで一度も居眠りをする姿など見せなかったので、思わず驚いてしまった。 その手から書類が滑り落ちそうになるのを止める。そして、普段の毅然とした表情の抜けた顔を眺める。そこにいるのはただの可愛らしい娘のように見えた。 王宮で待っていたのは緑鋒騎士団団長エイミールと、騎士総長ジルトリ、常備軍参謀アルステラだった。彼らは一様に重い顔をしていた。何よりエイミールの様相は悪く、コーデリアですら一瞬言葉を失った。彼にはついこの前にはあったはずの片腕がなかった。明らかに顔も青く、椅子に座っているのもやっとといった風情だ。 緑鋒の首領の有様に、エドは今回招集された意味を既に悟った。それはコーデリアも同じだっただろう。 ついに侵攻が開始したのだ。 「我が国はまだどちらに着くかが決定していない。よって、それまでの間貴君らにも国境防衛を任せたい」 「はっ。......緑鋒の被害はどれほどでしょうか、エイミール殿」 コーデリアが尋ねると、エイミールはその口元を大きく歪めた。 白麗騎士団長ウバスほどではないが、このエイミールという男も黒狼をよく思ってはいなかった。だが彼の場合、生粋の武人であり、武を一度でも悪に使った者が許せないという彼なりの正義感からくる嫌悪のようだった。そのため、コーデリアとの仲はそう悪くはない。 「......四分の一は壊滅。四分の一は負傷で動けん」 それでは実質、半数になってしまったようなものではないか。緑鋒は数百人の規模だ。常備軍は数万の規模があり、そのほとんどが前線に出ている。コーデリアはついでアルステラを見やった。 「それで、常備軍は......」 「同じようなものです。半数がほぼ壊滅しております」 常備軍は農民と奴隷からなる軍隊だ。そうなるのもおかしくない。だが緑鋒の戦力半減は思わぬ痛手だった。 「分かりました。それではただちに準備を整え、向かいます。しかしどちらへ向かえばよろしいでしょうか?」 先程も言ったように、西と東から同時に侵攻を受けているのだ。騎士総長はそれに頷き、「オルベキアの方面に頼む」と言った。 「現在そちらの方が押されていますから」 アルステラが疲れた顔でそう言った。 「まあ、押されているのはどちらも同じですけれどね」 屯所に帰る馬車では、もうコーデリアが居眠りすることはなかった。現在の戦場の状況を書いた書類を一心不乱に読み込んでいる。その顔は真剣だった。 外はもう暗く、窓の外には何も見えない。今日は星や月も出ていないようだった。その中でコーデリアがふとそちらを、まるで何かが見えているかのように見る。その窓にはただ彼女自身の顔が映るだけだった。 「......平和とは、かくも儚い」 彼女は呟いた。 「昨日まであったものも明日にはなくなる」 「......リアさん」 「そのために剣を捨てろと言われたら捨てられるほどに、愛おしい日々だったのに」 彼女ははりつめた表情で呟いた。まったく瞳は潤んでいないのに、何故か「泣きそうだ」と思った。彼女の書類を押さえた手に、自分の手を重ねると、コーデリアははっとしたようにこちらを見た。 「大丈夫ですよ。属国になるなりなんなり、きっと何とかなって、またバカ騒ぎできます」 それに戦場でだって、皆といられると言えばいられるのだ。もっとも、能天気に笑ってはいられないだろうけれど。 この人が折れてしまいそうな気がして咄嗟に手を取った。コーデリアが折れる時は、黒狼が終わる時だ。それだけは避けなければと思った。それに、この時エドは、一人の男として、目の前の女を守らなければならなかったのだと思う。 コーデリアが、もう片方の手で、エドの手を押さえた。彼女の指先は冷たかったが、しばらくそうしていると熱が移る気がした。自分の熱ならばいくらでもやるから、この人が温かくあればいい、と思う。 その内馬車が屯所についた。お互いに手を離し、馬車から降りる。先に降りたコーデリアは、こちらを振り返り微笑んだ。 「ありがとう、エド」 それはいつものように毅然とした、強者の笑みだった。エドはほっとして、「ならよかった」と呟いたのだった。 屯所を発つ二日前、盛大な宴会をした。一日前では二日酔いで歩けない、なんてことになる可能性があるからだ。黒狼の面々はいつもよりも余計に騒ぎながら飲んでいた。きっと、自分たちを奮い立たせるためだ。 今日はとことん飲んでやろう。そう決めて、数十分も経たないうちには潰れていたが。 「......あー、回る......」 木の机に突っ伏すエドを、げらげらと笑いながらカンジが揺する。 「おいてめえ、何寝てんだ! もっと飲めや!」 カンジは新入りに厳しい典型的な身内びいきの男であったため、二年の内にすっかりその態度は緩んでいた。緩むまでには様々な苦労があったのだが、それはあえて語る必要もないだろう。 態度が緩和したといっても、元が粗雑な男だ。ぐっと頭を掴み持ち上げられ、口元に酒をあてがわれる。ぐう、と今日はほんの少しだけ高い酒がまた喉を焼いた。 「う、うん......」 「か、カンジさん、あんまりやっちゃ可哀想ですよ」 それを止めたのはメロウだった。見た目には弱々しいメロウで、実際の戦闘力も同じようなものなのだが、妙に肝が据わっている。カンジや他の、特に気性の荒い者にも怯えながらも苦言を呈すのだ。 「ああん? そういうてめえは飲んでねえのかよ」 ばっと手を離されて再び机に落ちる。カンジは今度はメロウに絡み始めた。その二人に、酒を持ったマルコが抱きつく。 「っはっは、飲んでるかあ~~!?」 「おいやめろって!」 「マルコさん、酔いすぎですよぉ」 メロウとカンジが勢いに呑まれた時、ハウゼンが出てきた。 「お前ら、ツマミできたぞ」 ハウゼンは自分の畑で育てた最後の野菜を厨房で料理していたらしい。美味しそうな匂いがするが頭が上がらない。 「エドはまーた潰れてんのか、ホントに弱いな」 うるさい、と言いたいが、呂律が回ったかは定かではなかった。その時自分の隣の椅子に誰かが座るのを感じる。 「その辺にしておいてやれ。二日酔いどころか三日酔いをされると困る」 流麗な声音を持つ者は、この騎士団には一人しかいない。エドの前にカンジが置いていた酒が取られる。 「代わりに私が飲もう」 「お、団長! 今日こそいけるとこまでいくか!?」 カンジの嬉しそうな声。 「はは、いけるところがあればいいんだが......」 机に突っ伏しながら彼女を見上げると、彼女は大きなジョッキの酒を一息で飲み干していた。よくそんなに飲めるものだ。ハウゼンが追加の酒とツマミをコーデリアの前に置く。彼女はツマミを口に入れ、「美味しいな」と素直に言った。 「どんどん飲んでくれよ」 「いいのか? お前らの分がなくなるかもしれないぞ」 「おっ、楽しみだねえ」 皆がわっと盛り上がる。団長がこう宣言するのは稀だ。それが逆に、異質さを示していた。 結局彼女は今日も潰れず、気づけば周りは死屍累々と化していた。 何だかんだと面倒見がいいハウゼンがみんなの介抱をしている。 意識こそ飛んでいなかったが動けなかったのでそれを眺めていた。するとやがて、目の前に誰かが来る。 「お前もベッドで寝な」 「う......」 その言葉と共にぐっと持ち上げられるが、さきほどのカンジと違ってその動作は優しい。髪を触る手つきもそうだった。わしゃわしゃと撫でられて、心地がいい。どうやらこれはコーデリアらしい、と思う。 「エドさん贔屓ですよね、団長って」 誰かが不満そうにそう言った。まだ息の根が止まっていない者がいたのだろう。彼女は「そうか?」と軽く返す。そしてエドの肩に手を回し、立ち上がった。 「さあ、動かせそうな奴は部屋に返してやろう。地面に転がってるのは布をかけてやれ」 「はい!」と返事をしたのは多分ハウゼンだろう。 そのまま千鳥足で、自分をしっかりと支えるコーデリアに身を任せた。窓から差し込む月の光は冷たく白い。ぎい、とドアの開く音がして、エドはベッドに寝かされた。 明日からはもっと慌ただしくなる。今だけは、屯所の中は酷く静かだった。 エドを寝かせたコーデリアが、ぎしりとベッドの縁に腰をかけたのを感じた。彼女の指が、もう一度頭を撫でてくる。それが心地よくて、すり、とそれに頭を摺り寄せた。 「お前は子供みたいだな」 そう彼女が呟く。子供みたいとは失礼な。そう思いながらも、どこか納得している自分がいた。 エドの本質はきっと、路地裏で震えていた時から成長していない。ベッドで寝られるようになっても、暗殺者から騎士になっても、大人になんてなれやしない。けれど、コーデリアの声音はそれを咎めるものではなかった。 「いい夢を」 そう言った彼女はベッドから立ち、部屋を去っていく。ドアが完全に閉められた後、エドは閉じていた目をそっと開いて呟いた。 「ガキでも何でもいいですけど」 ただ、あの人を、この騎士団を守りたい。そう無謀に願っているエドは、どこまでも子供に違いない。そんなのは、星を取ろうと空に手を伸ばすようなものなのだから。 黒狼は表面上は盛大に首都から送り出された。 国境でのオルベキアとの戦闘は困難を極め、騎士団はその数を次第に減らしていくこととなった。 ぶち、と固いパンを噛みちぎる。食事と言うよりはただの栄養補給だ。オルベキアの大軍から身を隠しつつ移動する黒狼騎士団は、まるで騎士団から身を隠す犯罪者のようだった。しかし、実際に彼らがやっていることは威風堂々とした戦いとはかけ離れたものだった。 つまり、奇襲だ。 圧倒的な力の差。それに加え、オルベキアはそもそも騎士団ではなく、ただの軍隊だ。こちらが名乗りをあげている間に敵は槍を差し向けてくる。それならば相手の流儀に乗っとりましょう、と言い出したのはメロウだった。 この作戦に一番難色を示していたのは、この中で誰よりも騎士であるコーデリアだった。だが真向から相対すれば仲間を失うだけだというのは、幾度かの戦闘で既に分かっている。 元々黒狼の鎧は黒で、闇に紛れやすい。それを利用して、敵の野営地を荒らしては山中に引き上げるという行為を繰り返していた。 「次はいつだ?」 「あと二時間後だそうだ」 カンジが保存食の肉を口に放り込みながら言う。そして顔を顰めた。 「変な味付けだな」 食糧の備蓄も少なくなってきたので、敵の野営地から奪っているのだ。オルベキアの味には馴染みがない。 「少しメロウを休ませてくる」 エドは食事を終えるとそう言って立ち上がった。 今もっとも頭を働かせている男は、昼もほぼ寝ず作戦を考え続けてきた。ただでさえ体が強いわけではない彼は無理をし続け、咳が止まらなくなっている。真冬の行軍に、性質の悪い風邪を引いているのだろう。 天幕の中では、メロウはうつろな目で顔に地図を近づけていた。 「おいメロウ、そろそろ休みな。いい加減にしないと死ぬぞ」 「だ、大丈夫ですよ。僕だって騎士団の一人なんですから、このくらい」 そう言って微笑もうとしたのだろう彼は、こほ、と咳をする。あまりにも長引く咳のせいか、痰に血が混じっていた。 (ただの風邪ならいいんだが......) 肺の病なら、このままどんどん衰弱するかもしれない。エドも他の者も戦略を練ることができないわけではないが、やはりメロウには劣る。コーデリアもそれは同じで、随分と気を揉んでいた。 「死なないのが最優先だ。これ以上体調不良が続いたら地面に埋めてでも寝かせるからな」 そう軽口を叩けば、今度はメロウは本当におかしそうに笑った。 「それじゃ、ほんとの死人みたいですよ」 その頬はこけ、隈はひどい。彼の眼鏡は何度かの戦闘で破壊されてしまったため、別人のようにさえ見える。 「ただいま」 その時天幕の中にコーデリアが戻ってきた。負傷した仲間たちを激励して回っていたのだろう。 「団長! 次の作戦なんですが」 「ああ、悪いな」 「だんちょ、メロウに寝ろって言ってやってくださいよ」 エドがそう口を挟むと、彼女は頷いた。 「作戦を聞いたら寝かせる。メロウもいいな?」 彼は不満そうな顔をしながらも頷いた。団長の命令は絶対だからだ。 コーデリアは毅然と背を伸ばしてはいたが、今の状況は明らかに悪かった。 天幕の外に出ると、陰鬱な顔をした仲間がそこかしこに座っている。こんな時ムードメーカーのマルコがいてくれれば、と最初の襲撃で死んだ友を想った。 その巨躯を生かし仲間の数名を矢から守って死んだ彼の遺体は、埋葬することもできずにまだ放置されている。他の仲間のものも同じだ。 ハウゼンは利き腕を失くし、カンジは片目が見えなくなった。完全に五体満足な者は数少ない。 エドは元々暗殺者で、夜の闇に紛れての凶行は慣れている。そのお陰かまだどこも喪ってはいなかった。 いくら殺したのかも分からない。敵の各個の隊長さえ討てばその隊は一時撤退する。もう何十人もそうやって葬ってきた。下手をすれば、コーデリアよりも殺した数は多い。 ヒットアンドアウェイ。少数精鋭だからこそなせる技だ。 ――この手はまた新しい血に染まった。ただ前と違うのは、後ろに守るものがあることだ。 殺さなければ、明日自分の仲間が代わりに殺されるかもしれない。ある種の使命感がエドを駆り立てていた。 「団長も、次の襲撃は俺に任せて休んでていいんですよ」 「部下を働かせて寝こける上司がどこにいるんだ。私も行く」 コーデリアはきっぱりと言った。皆、どこもかしこも汚れていて、コーデリアも例外ではない。それでもその瞳だけは変わらず煌めいている。 「......まあ、そうですよね」 本当に人手が足りない。現在襲撃に参加できる人数は二十に満たず、残りは負傷兵と救護班だ。おまけに敵には、「敵に奇襲してくる部隊がいる」という情報が伝わっており、どんどん警備が厳しくなっている。彼女が休んでいられないというのも仕方のないことだった。 空は真っ暗で、星も月も見えない。天幕を出たエドは、上を見て「暗殺にはもってこいの夜だ」と呟いた。 野山に隠れるようになってからも定期的に常備軍や緑鋒騎士団と連絡を取っていたが、三か月を過ぎた頃にはその連絡系統もめちゃくちゃになっていた。そのため黒狼は、戦場で完全に孤立した状態だった。 数は既に五十を切り、そのほとんどが手負いであった。奇襲作戦はやはり効果がどんどん薄れてゆき、またメロウの死も失敗に大きく貢献した。 メロウが死んでいるのを見つけたのはエドだった。いつものように休ませにいこうとして天幕の中に入ると、彼は既に横になっていた。 (今日は珍しく休んでるな、感心だ) そう思ったエドは、布をかけてやろうと近づいて、彼の口元に血だまりがあることに気がついた。黒い鎧で分かりづらいが、彼の衣服にも血が飛んでいる。メロウの顔は紙のように白く、そして呼吸も脈もなかった。 コーデリアとメロウは普段から作戦会議のため、同じ天幕にいることが多かった。彼女の話では、メロウに最後に会った時、彼は変わらず戦略を練っていたという。コーデリアが奇襲に出た、その数時間の間に彼は一人で死んだのだ。 「......先生になりたかったのだと、言っていたよな」 コーデリアが確認してくるのに、「ええ」と頷く。 きっといい先生になった。もしこの戦いを生き抜いて帰ることができれば、武勲を評価されて、その道に進むこともできたかもしれない。夢物語であるそれを、しかし思わずにはいられなかった。 彼の遺体は他の回収できた遺体と共に丁重に弔われた。皆疲れているだろうに、墓を掘る作業は何も文句を言わずにやった。涙を流しながらする者さえいた。 黒狼の面々にとって、家族は騎士団の連中だけ、帰る場所もここだ。だから誰も逃げ出そうとはしなかった。それでも彼らは「帰りたい」と譫言のように呟いた。 エドも帰りたかった。皆と共に、あのぼろぼろの屯所に。 「エド、本国に戻れ」 そうコーデリアに言われたのは、メロウの死から数日後のことだった。その直前エドたち黒狼は、今までにない数の進軍を目撃していた。 「あの進軍を総長に伝えなければならない」 彼女の言うことはもっともだったが、「でも」と周りを見回す。 「皆を置いていけっていうんですか」 最早、大きな傷のないのはエドとコーデリアだけだった。エドがいなければ、もしもの時に負傷兵を守る手が足りない。それに。 (この人を置いていくなんて) コーデリアは鬼神の如き強さで敵を屠っていた。それでも、自分が彼女の元を離れることに不安を覚えた。だが彼女は「団長命令だ」ととっておきのカードを出してくる。そして笑って言った。 「お前は足が速く、身を隠すのも上手い! 馬もいなくなった今、首都まで走っても五日はかかる。頼んだぞ」 その顔は、威厳に満ちていた。エドは、ぐ、と言葉に詰まり、最後には。 「......騎士団長の、仰せのままに」 そう言うしかなかった。 カンジがコーデリアの横に立って胸を張る。 「心配しなくても、お前がいなくったって大丈夫だ! 俺たちがついてるんだからな」 その言葉に、負傷した兵士たちからもおお、と声が上がった。それに、「頼みました」と俯いて言う。 本当はここにいたかったけれど、他の者が三日三晩走り抜けるとも思えなかったのだ。 野営地を出てからは、気絶するまで休まなかった。少しの間気を失っても、起きればまた走り出す。山合いを抜け、川を越え、草原を駆けた。 頭の中にはいつも仲間たちの顔があった。早く戻らなければ、という気持ちでいっぱいだった。援軍を願うことも考えていた。とにかく、エドは急いでいた。 大臣や総長に進軍のことを伝え、新たに策を練ってもらわなければならない。 早く、首都へ。 四日目、ようやく王宮の高い塔が見えた時、思わず安堵の笑みを零した。そして整わない呼吸のまま街中を駆け抜けた。周りなど何も見えなかった。 王宮の門の前まで来た時、自分の前に槍が差し向けられた。 「おい、そこの者、止まれ!」 門番たちだった。どうやらエドのことを不審人物だと思っているらしかった。 それも仕方がないのかもしれない。全身泥まみれで、顔もよく分からないような有様だっただろうから。 エドは一度呼吸を整え、今にも崩れそうな足を叱咤し、胸に手を当てた。 「私は黒狼騎士団所属のエドです! オルベキアの動向を報せに前線より帰還して参りました。どうぞ、お通し願いたい」 「黒狼の......?」 「はい」 所属を告げると、門番たちは顔を見合わせた。そして槍を収めた。 「通ってよし」 「ありがとうございます」 足を引きずるように歩き始める。「手伝おうか」と見かねたらしい門番が言うのに首を振った。彼らは同情の目をエドに向けていたが、エドが気がつくことはなかった。 ようやくジルトリとの面会を果たしたエドは、彼の言葉に呆然と立ち尽くすこととなった。 「............え?」 「......もう一度言う。つい十日前に既に終戦した。ルトワールはレイザーの属国となる」 レイザーの属国になるということは、この地を今度はレイザーの軍隊、騎士団も守るということだ。オルベキアとレイザーは正面衝突を避けているため、ただちにオルベキアは撤退するはずで。 つまり、あの大軍も今頃は帰郷しているということだ。 「それでは、オルベキアとの戦いも......」 「一時休戦だな。わざわざ伝えにきてくれてすまないが」 本国に危険が及ぶ可能性はなかったということだった。ジルトリは申し訳なさそうに言った。 「黒狼の功績は勿論聞き及んでいるし、どこかで生存しているかとも思っていた。だが、我々でさえも君たちがどこにいるか分からず、終戦を伝えられなかったのだ」 「じゃあ」 声は我ながら掠れていた。 「......じゃあ、もう、俺たちは帰れるんですか?」 「ああ」 ジルトリが頷いたのに、今度こそ床に崩れ落ちた。床が汚れるが、ジルトリは何も言わなかった。 (これで、終われる、のか) 皆で、数は少なくなってしまったけれど、またあそこに。 エドはジルトリを見上げて「お願いがあります」と言った。 「負傷兵が沢山いるんです。運ぶのを誰かに手伝ってほしいんですが......」 コーデリアたちは今もオルベキアに備え、隠密していることだろう。早く報せにいってやらないと。ジルトリは頷いた。 「相分かった。すぐに救護班を向かわせよう。君は休んでいくかね?」 「いや、俺も行きます」 エドはその言葉に首を横に振り、立ち上がった。仲間を放って自分だけ先に休むなんて許されない。 (リアさん、カンジ、ハウゼン......) コーデリアは怪我をしていないだろうか。カンジは無事か。ハウゼンはついこの前足を失くしたが、膿んではいないか。他の者も、もうすぐ助けが来るから何とか生き延びてくれ。 迎えの馬車でそう祈りつつ、地図で仲間がいる場所を示した後、泥のような眠りに落ちた。 一日と半日を過ぎた頃。エドはもうすぐ仲間の元へ辿りつくことに喜び勇み、馬車を降りた。そして、約束の場所に足を運んで、その場に立ち尽くした。 (......雪?) そこには白い雪がふわふわと舞っているように見えた。だが違う。それは少しだけ暖かくなってきたため湧いた羽虫だった。黒い鎧が整然と地面に並び、その上を雪のような虫が舞っていた。 「これ、は......」 救護班の面々が言葉をなくす。エドはそんなことはどうでもよくて、よろよろと彼らに近づいた。天幕は破壊され、焚き火は乱暴に消した後がある。黒い鎧を着た死体たちは綺麗に円形になるように並んでいた。まるで何かの儀式のように。 そしてその中央に、ひときわ無残な「それ」はあった。 それだけは黒い鎧を着ておらず、それどころか下の衣服すら、一糸まとわぬ状態だった。全身に血がこびりついている。その下半身の有様を見れば、何がここで行われたかなど、一目瞭然だった。 騎士団の者の手には縛られた跡があった。それを無理やりに千切ろうとしたのか、皆の手首は酷い有様だった。 仲間の命を盾に、非人道的な行いがされた。恐らく、そういうことだった。 飛び交う仲間の怒号と絶叫。その彼らに突きつけられた剣。それから、この人に触れる下卑た手。見ていないはずの光景がまざまざと脳裏に浮かび、吐きそうになって口を押さえた。 戦場で捕まった女がどうなるかなど、火を見るより明らかで。 前にも、集団で犯された挙句に死んだ女を見たことがある。快感などなく、ただ苦痛しかない行為の果てに女は苦悶の表情で息絶えていた。 エドは、コーデリアの手に自分の手を重ねた。 彼女の顔がどんな色に染まっているか、見る勇気はなかった。 「......エド殿。残念だが、生還者は」 ひとりひとり生存を確認してくれたらしい救護班の男が声をかけてくる。それに、そちらを見ないまま「すみませんが帰ってください」と言った。 「お手数をおかけしました。もう、大丈夫です......」 「......遺体を持って帰ろうか」 「大丈夫です、なんにも、しなくていいですから」 コーデリアの手を強く握ったまま言う。前と同じように彼女の手は冷たかったが、前と違うのはいくら熱を与えても温かくならないということだった。 救護班の男たちは暫く声をかけてきた。帰ろう、と幾度も言われたが、エドは「放っておいてください」と呟くばかりだった。 「しかし、こんな何もないところで」 「いいんです、もう」 死なせてください。 そう言うと、彼らはようやく帰っていった。 辺りは静かになった。エドはしばらくコーデリアの手を握っていたが思い立ち、仲間をひとりひとり見て回った。他の仲間も一緒だ。仲間の瞼をひとつひとつ下ろしていく。カンジ、ハウゼン。二人とも怒りに満ちた顔のまま舌を噛み切って死んでいた。 当然だ。我らの団長を、よりにもよって自分たちの目の前で辱められ、どうして怒らずにいられようか。その場にいたら、きっと、自分だって手を切り落としてでも拘束を抜け出すか、彼女の加瀬とならないように命を絶っていた。 もし、誰かがもっと早く終戦を知らせてくれていたら。もしオルベキアの軍に、もっと早くにレイザーの属国になったことが伝わっていれば。 すべて、もしもの話でしかなかった。エドの現実は目の前にあった。 「俺は......」 もう一度コーデリアのところに戻ってきたエドは、そこに座り込んだ。子供が癇癪を起こしたような体勢だった。周りにはまだ羽虫が舞っている。美しく、寂しい光景だった。 やがていくつもの夜が過ぎた。体は段々と動かなくなっていった。酷く腹が空いたような、寒いような気がしたが全てどうでもよかった。途中で座っているのもだるくなり、コーデリアの傍に寝転んだ。 嗅覚も触覚もなくなっても、目だけは最後まで見えた。エドは、ぼんやりと夜空を眺めた。そういえば、いつかもこうやって、この人の隣で星を見ていたことがあった。 「......いち、に」 大きな星から数えていく。空は雲一つなく美しく澄み渡っていた。月の光がさえざえと辺りを照らしている。エドは数字を口の中でもごもごと重ねていく。 「......あ、百個目、あった」 呟いた声は掠れていて、ほとんど聞き取れるものではなかった。でも構わない。どうせここに、答える者はいない。 それからもずっと星を数えた。地面にいいものは落ちていないのだから、エドは何も分からなくなるまでずっと、空を見ていた。
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