CLEAR

あみの酸



 寒さの峠を越えて、風の冷たさも棘がなくなってきた三月上旬。卒業式を終え、写真を撮ったり笑い合ったりと騒がしい同級生たちの波を掻き分けて、生徒は一人の教師に「ちょっといいですか」と声をかけた。
 生徒が教師を呼び出した狭い教室は、外の喧噪とは隔たれていて静かだ。生徒はこの教室で、教師に数学の質問をしたこと、そして教師があまり綺麗でない黒板にチョークを走らせながら質問に答えてくれたことを思い出した。その頼りなさげな癖の数字も、神経質そうに整った図形も、生徒の脳裏にくっきりと焼き付いている。
 生徒はもう着る機会のなさそうなブレザーの襟を正して、目の前の教師を見つめた。
「先生、」
「はい」
「ずっと好きでした」
 教科書通りの告白はつまらなく思ったが、妥協した。生徒は美しい言葉を考え過ぎたあまりに、それらは全て陳腐だと捨ててしまっていたのだ。
 生徒は半歩前に踏み出して、腕を伸ばして教師の背中に回した。礼服の生地に触れてから包まれた肉体の存在感を得るまでの、ちょっとした距離を測って、多忙な教師が予想以上に痩せていることを初めて知る。息を肺一杯に吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。教師が喫煙者であることも初めて知る。そして生徒は腕を解いて一歩下がった。
 教師は目線を泳がせて黙っている。目の前の優等生の言動にどう対処するべきか迷っているようだ。生徒はそれを気にせず口を開いた。
「ずっと先生のことが好きでした。からかっているんじゃなく、本当です。恋をするために先生に勉強を教わっている訳じゃないのに、良くないなって思います。もしかしたら、四月一日になったら、生徒と先生じゃなくなってしまったら、良くなくなくなるかもしれません。だけど、そうしたらもうきっと先生のことは好きじゃありません」
 台本に書かれた台詞を言うように生徒は淀みなく話す。教師は言うべき台詞も隙も与えられなかった。
「今先生を好きだと思うのは、自分が生徒で先生が先生だからです。真面目に高校三年間勉強するだけじゃ嫌で、他の同級生みたいな恋愛をするのも嫌で。だから先生を好きになって、良くないなって背徳感を感じたり周りと違うんだって優越感に浸ったりするのが本当は好きでした。それを理解せずただ楽しく恋に恋していられるほど考え無しじゃありません。調子に乗って迷惑なのも気にせず先生と付き合おうとするほどバカでもありません」
 生徒が言葉を連ねているうちに、いつの間にか教師は生徒を真っ直ぐ見据えて黙っていた。
「でも、良くないからって、良くないことをしたいだけだからって、好きなのを止められるほど賢くはなれませんでした。ごめんなさい、好きです。先生と生徒だからだって分かってるけど、ちゃんと本気です。こんな恋愛感情はまがい物だって思っても、好きなのは嘘じゃないです。どう考えても矛盾してるし、最後の最後に隠し通せなくなって、自分でも頭悪いなって思います。でも、やっぱり、好き、なんです」
 流れるようだった台詞は段々と勢いを失い、生徒は寂しげな顔で俯いた。今までに考えたことと、今も湧き続ける感情が頭の中で渦巻いて、まるで迷子の子どものようだ。
 完全に言葉を止めた生徒と向き合い、教師は漸く口を開いた。
「ありがとう。君がちゃんと話してくれて良かったです」
 それだけだった。生徒の長台詞に対して、たった一行の台詞。
 生徒はそれを聞いて、顔を上げ、大きく息を吐いた。教師の言葉に安心したからなのか、不満があるからなのかは分からないが、硬く大人びた表情をしている。
「三月三十一日まで、それまでは生徒と先生なので、先生のことが好きです。お時間くださって、ありがとうございました」
 そう言って会釈をすると、生徒は狭い教室から去って行った。扉が閉まった瞬間、鼻をすする音が教師の耳に届いた。




 一人きりになった空き教室で、教師はしゃがみ込んで眉間に手を当てた。心臓の鼓動がうるさく響く。
「......びっくりした」
 教師にとって、あの生徒からあんな真剣に告白されるのは予想外だった。つい何と声をかけるべきか悩み過ぎて結局まともな返事にならなかった気がする。教師は自分の考え過ぎで臆病な性分を恨んだ。あの生徒は、同じように難しく考えても、それをちゃんとこちらに伝えてくれたと言うのに。でも自力で結論を出す力を持つ生徒に、自分があれこれ言ってやるのも野暮に感じた。
「四月一日になったら好きじゃなくなるんか」
 教師はそう独り言を残して教室を去った。


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