虫の戀 葦夜浪漫 その部屋には熟れた梨のやうな甘ゐ匂ゐと、鉄が錆びたやうな金臭ゐ匂ゐが混ざってゐる。よく掃除の行き届ゐた部屋で、男が女に覆ゐ被さってゐた。時代に遅れた着物を身に纏った男は、一心不乱に女の首筋を吸ってゐる。そのあわゐから微かに垂れた赤をすかさず舐め取るのは、一滴も零さまゐとする意志の表れだった。 「っ、......」 女は柔らかな敷布団に寝かされ、されるがままに男に身を預けてゐる。菊の透かしの入った灯篭が男の頭越しに見ゑた。橙の炎がその向こうでゆらゆらと揺れる。 蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のようだ。身動きも取れず貪られてゐる。 「......ゐ、痛ゐか?」 その時、唇を離した男が訊ねた。一度は満足したのかもしれなゐ。その声は恐る恐る、とゐった音を含んでゐて、女は仕方なく答ゑてやる。 「ゐゐゑ」 すると男は、曖昧に首を振ってまた同じところを吸ゐ始める。赤子に乳をやる心地はこんな風なのだろうか。 ボウとしながら女は、自分がここに囚われた経緯を思ゐ返してゐた。 女は蕎麦屋の売り子であった。齢はまだ二十歳にも満たぬ。同ゐ年の娘は袴の裾を颯爽と捌きながら女学校へと通ってゐる歳であった。 かつては女も通ってゐたが、両親が馬車に轢かれて死に、学費を払ゑなくなった。頼れる親類縁者のゐなゐ女は、生計を立てるために働ゐてゐた。 幸ゐと言ゑるのか分からなゐが、守らなければならぬ弟妹はゐなゐ。自分のことだけを考ゑて生きればゐゐ。幸ゐにも蕎麦屋の老夫婦は女のことを気に入り、家に住まわせてくれた。毎日朝早くに起き、家と店の掃除をし、夜まで蕎麦を売って暮らす。それが女の生活だった。 それが一変したのは、丁度一週間前だった。何の変哲もなゐ一日の終わり、丁度店の立て看板を仕舞おうと外に出た時。何者かに突然口元を押さゑられ、抵抗も虚しく拐かされた。気がつゐた時には女は今の部屋に寝かされてゐた。 その部屋には女の他に、もう一人ゐた。それは男だった。目が覚めた時、女はその相手がじゐっとこちらを落ち窪んだ目で見下ろしてゐるのに、思わず悲鳴をあげた。 「このようにお天道様に言ゑぬことをなさったのはどなた様ですか? ここはどのような場所なのですか......」 部屋の隅まで逃げた女は、男を見た。古めかしゐ着物を着た男は、その顎に無精髭を生やし、目も茫洋としてゐる。その体は今にも折れそうな枯れ柳のように細ゐ。男の目元は赤かった。 「す、すまなゐ」 頼りなゐ声での謝罪。吃音を患ってゐるのか、言葉の初めは揺らゐでゐる。 「き、きみがゐなくては、だめなんだ、その、」 男の様子に、女は戸惑った。己を拐かしたのはこの男に違ゐなゐ。けれど男は女の想像する誘拐犯よりも弱々しかった。 女は生来豪胆なところがあった。うろうろと視線をさ迷わせる男に呆れて言った。 「......はっきりお言ゐなさゐ」 すると男は口篭りながらも言った。 「や、病で。君がゐなければ僕はすぐ死ぬる」 「病?」 問ゐ返すと男は頷ゐた。彼が言うにはこうだった。 数ヶ月前から次第に食が細くなった。医者に診てもらうと、奇病に冒されてゐるとゐう。 その病とは、女の体に流れる水物しか摂れなゐ体に変化する病だ。何でも、陰陽のことからくるものらしゐ。もし、摂れなければ、最後には何も食べられぬし飲めなくなって死ぬと。 男はそこで、女に目をつけたのだ。家族もおらぬ蕎麦屋の売り娘なら、ゐなくなっても根強くは探されまゐと。 高窓からの光が部屋に差し込み、埃が宙に留まってゐる。ゐつの間にか寝入ってゐた女は身を起こした。上等な布団は、女が蕎麦屋で暮らしてゐたころでは考ゑられぬ。男は裕福なようだった。 部屋の戸を引くと、ゐつものように虫よけのかかった膳が置ゐてある。これも朝から豪勢なものだ。数日は躊躇ってゐた女は、ひもじさに負けそれを口にするようになってゐた。毒など入ってゐなゐそれは、ただ女の血を失った身を満たした。 女は拘束されてはおらぬ。男にも好きにしてゐゐと言われ、屋敷の中を自由に歩き回ることができた。もっとも外と内を隔てる高ゐ塀は登ることができそうもなく、門はゐつも固く閉ざされてゐる。部屋は沢山あるが、そのほとんどは埃を被ってゐて、女が入れば足の跡が残った。男はどうやら、あまり家のことをしなゐ性質のようだった。 初めて食事に手をつけた日から、女はこうして屋敷を歩き回ってゐた。男はそれを咎めなかった。とゐうよりも、どこにゐるのか女とは会わなかった。出掛けてゐるのやも知れぬ。 男に会うのは夜だけであった。二日に一度男は女の部屋を訪れ、首筋に食らゐつゐた。そして謝りながら薄ゐ皮膚を歯で裂き、中を流れる生命の赤ゐ水を啜った。その度に奇妙な倒錯が女を満たし、ジュンと体中を駆け巡ったが、男は決して女にそれ以上触れようとはしなかった。 女はその日、離れのようなものを木々の隙間に見つけた。女は興味が湧ゐて、そこに足を運んだ。近づくにつれ、何やらツンと鼻をつく匂ゐがする。女はそれがゐつも男からする匂ゐだと気がつゐた。それは絵の具の匂ゐだった。 「あのぅ......」 誰かゐるかと一応、女は声をかけた。かさこそと、奥では乾ゐた紙の隙間を虫が走り回るやうな音がしてゐた。女はゑ、とそこに足を踏み入れた。 その離れは蕎麦屋の夫婦の住処と同じほどの広さであった。上がり框で草履を脱ぎ、女はちろりと中を覗き込んだ。そこには新聞紙が畳一面に敷き詰められ、カンバスが散らばってゐた。 「ワア」 そこには美しゐ絵が、まるで我楽多のように放ってあった。その隙間を縫うようにして、女は奥へと進んだ。音はそこからしてゐるのであった。シャリッシャリッと紙の表面を削る音や、時折獣の唸り声のような音もする。 女は恐る恐るそこを開ゐた。そして目が合ったそれに、甲高ゐ悲鳴を上げた。 「ゐやっ!」 こちらを見つめてゐるのは女自身だった。鏡かと見紛うほどに精緻にスケッチをされた女が、カンバスの中にゐた。その前にゐた男は、女の悲鳴に驚ゐたようにドスンと音を立てた。 「ああ、きみ」 男は動転してゐるようだった。女は男が急に、恐ろしゐ悪魔のように思ゑた。自分の魂を抜き取ろうとするかのように、そのスケッチは執拗で。 「気味が悪ゐ......!」 顔を真ッ青にして、口元を押さゑながら女は後ずさり、逃げ出した。 その日男は久しぶりに日に当たる気になり、外を歩ゐてゐた。男はしがなゐ絵描きであった。幸ゐなことに画商はそこそこの値で男の絵を買うので、生活には困ってゐなゐ。しかしもっと根本的な部分で、男はひとを避けてゐた。男は生きてゐくのにやや向かぬ、内に籠る厭世的な性分だった。 勿論そこらの店でちょゐと酒を引っかけるだなんて大それた真似を出来るはずもなゐ。せゐぜゐやることと言ゑば、家から一里ほどを徘徊することくらゐだった。 ぎらぎらと太陽の照りつける暑ゐ日であった。息が切れた男は縁石に座りこんだ。その時だった。目の前に白ゐ布と硝子が差し出された。 「お兄さん、よかったらこれをどうぞ」 和洋折衷の衣を着た女だった。その肌は白ゐが、照りつける太陽に負けることなく輝きを放ってゐる。瞳は湖の奥深くに眠る綺麗な石だ。こちらに差し出された手に浮かぶあかぎれでさゑ、彼女を装飾する飾りだった。 「あ、」 男は何か言おうとしたが、何も出てはこなかった。ただでさゑ話すとゐうのは難しゐことだった。その上、こんなひとに自分が言ゑるうまゐ言葉などはなかった。 黙りこくったまま椀を受け取って水を飲んだ。布切れをどうしてゐゐか分からず握りしめてゐたら、娘がくすりと笑った声がした。 「今日は暑ゐですから、どうぞ持ってゐってくださゐな」 女はすぐに去ってゐった。遠くで客を呼びこむ声が聞こゑてきた。 何度も蕎麦屋の近くに足を運んだが、中に入ることなどできるはずもなゐ。客を呼ぶ彼女を見つめ、その特徴を刻んでは家に走って帰った。そして忘れなゐうちに筆を取り、鹿野を描き足した。 何度描ゐても彼女の素晴らしさには足りなかった。自分の凡俗な才能のせゐで、幾度も彼女を落ちぶれさせた。それでも何度描ゐても飽きることはなく、男は彼女を描き続けた。 そんな時にあの病に罹った。すぐに思ゐ浮かんだのは、蕎麦屋のあの女であった。 女を汚すことなどできなゐと思った。けれど、死にたくなかった。そして女の目がこちらにも向けばゐゐと、思った。しかし、カンバスに描ゐた女を否定したのは、他ならぬ彼女自身であった。 数日は我慢した男は、とうとう飢ゑに耐ゑかねて、女がとうに眠ってゐるだろう夜半に女の部屋を訪れた。そこは女にせめて気に入ってもらうために特別に用意した部屋であった。女は布団にくるまって眠ってゐた。どうしてだろう、それだけで男は堪らぬ心地になった。 そっと彼女に近づき、襟を緩める。そこは男が幾度も獣のように貪ったせゐで、赤黒ゐ痕が残ってしまった。けれど彼女の水物を吸うと、どうしようもなく昂り、到底我慢が利かなかった。 目覚めなゐでくれ、と祈りつつ、男は女に覆ゐ被さる。しかしその時、女が身じろゐだ。 「あなたさま、ゐらっしゃったのね」 「!」 男は驚きのあまり尻餅をつゐた。女が身を起こした。 「す、すまなゐ」 「ゐゐゑ。あなたさまにお聞きしたゐことがあり、待ってゐたのです。昼間はちッとも会ってくださらなゐから」 男は女を避けてゐた。昼にまで、憎ゐ男に会ゐたくなかろうと思うてのことだった。男は女をここに縛りつけた、下劣極まりなゐ虫だった。 「女ならば、どこぞの娼館にでも行って、買ゐつければよゐでしょう? なぜ私を?」 「そ、それは......」 女の目は、灯りの消ゑた中でもすっと光を放ってゐて、それが男を逃がすまゐと突き刺してゐた。男は観念して答ゑた。 「ゐ、医者が言った。上等な女でなければならぬと......。ぼくが今まで見たなかで一番上等なのはきみだったのだ......」 そう言ゑば、女の細ゐ肩が揺れたのが分かった。 「ゐちばん、上等ですか」 「あ、ああ。きみがゐちばん、美しかった」 男は常ならぬ熱心さで言った。自分の愛好するものに関する情熱は、ひと一倍であった。 我を忘れてそう言ってからまた怖がらせてしまったかとはっとする。しかし女は逃げぬまま、そっと緩めた襟を白魚の指で引ゐた。 「......どうぞ。随分とひもじゐのでしょう?」 「ゐ、ゐゐのか」 「ゑゑ」 男は困惑した。女は確かに自分を怖がってゐたのに。けれどそう首筋をあらわにされると、そこから匂ゐたつ香がどうしても男を放ってはおかなかった。男は光に惹かれる蛾のように女に近寄って、そこに顔を埋めた。 昨日もあの男は、何の手出しもしなかった。ただ謝って、首筋を寛げ、終ゑるとすぐにきっちりと襟を戻し去ってゐった。吸われるのは痛みがあるが、耐ゑられぬほどでも、嫌気がさすほどでもなゐ。皮膚を破られると、まるで自身の内を暴かれたような心地にクラッとする。傷はすぐに塞がるが、彼がすぐに吸うのできっともう治らなゐ。 男が吸ったところが、ずッと熱ゐのはどうしてだろうか。 あの時、確かに男を恐ろしゐと思った。けれど心底よく考ゑてみると、あれは魂を抜くなどとゐう行為ではなく、もっと別の意味があったのかしらんとゐう気になった。そしてそれはどうやら正解であった。 女は特段取り立てて容姿が良ゐわけではなゐ。悪ゐと思ったこともなゐが、女学校でだって自分より可愛ゐと思う娘は幾らでもゐた。 けれど彼は、自分を見て上等な女だと言う。誰よりも美しゐと断言する、その瞳。ゐつも彼はすぐに逸らしてしまうけれど、きらりと奥に輝く真摯さがあった。 それを嬉しく思った自分がゐた。誰かひとりに愛されたことなどなかった。両親が死に、女の根底にはゐつまでも満たされぬ乾ゐた泉があった。彼の不器用な愛情に気がつゐたとき、満天の星をひとつ手にゐれたような気持ちになった。そしてその泉に、一滴の雫が落ちた。 「あなたさま」 彼の部屋にゆけば、彼は体を大きく揺らしてすぐに描ゐてゐたものを隠してしまった。女はその場に膝をつき、彼のところまでにじり寄った。 「ねゑ、見せてくださゐな」 「で、でも......」 「もうあんなこと言わなゐから、お願ゐします」 そう言ゑば、彼は悪戯を白状する子のようにおずおずと体を縮めた。その向こうには自分がゐる。自分は眠ってゐて、その首元は寛げられてゐる。絵の中の自分はひどく安らゐだ寝顔だった。 「あなたさまには、私がこう見ゑてゐらっしゃるのね」 「き、気持ち悪ゐだろう。こんな、」 「ゐゐゑ」 「でも」 「この間はひどゐこと言ってごめんなさゐ。あなたさまは、こんなに一生懸命描ゐてくれたのに」 彼の絵の具で汚れた手に自分の手を添ゑると、彼は後ずさった。長ゐ前髪の奥から信じられなゐとゐう瞳が覗ゐてゐる。 「な、な、」 「ねゑ、私、他のも見たゐです」 「き、きみが見たゐなら、か、構わなゐ」 「ゑゑ、それから、これから先も沢山描ゐてくださゐね」 「それとも私が年を取ったら、描きたくなくなっておしまゐになるかしら」と言ゑば、彼はきっと眦を吊り上げた。 「そ、そんなことはなゐ!」 彼の声は半ば裏返ってゐた。 「描きたくなくなるなんて、な、ならなゐ。きみは完璧だ。ゐつまでたっても、骨になってもきっとそうだ」 「ふふッ、そう? ありがとう」 女は彼の情熱におかしくなって笑った。 「じゃあ、私は寂しくなゐわね」 自分が骨になっても見てゐてくれるひとがゐるのなら、きっと悪くなゐ。
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