ワンルーム・ランデブー(心理的瑕疵あり)

あみの酸



 狭く雑然としたワンルーム、現住人である佐依(さより)がスーパーから帰って玄関を開ける。男子大学生が一人で暮らす部屋は静まりかえっている筈だが  
「おかえり、さよくん」
 語尾にハートマークが付きそうな勢いで佐依を出迎えたのは、白装束と白い三角形の布を身につけ、黒髪を長く伸ばした半透明の女の子。
「なんだレイ子か。ただいま」
「なんだって何よ!」
 佐依は頬を膨らませた彼女に驚きもせず、彼女を避けてそそくさと買った食材を冷蔵庫に入れて手洗いとうがいを済ませた。
「ねえ、さよくん。今日が何の日かわかる?」
「知らん」
「さよくんのバカ! 今日は私たちが出会って三年半の記念日だよ!」
「半年を祝う意味がわかんねーよ。てかレイ子が勝手に出てきたんだろ」
「でもさよくんが私にレイ子って名付けてくれた大事な日なんだから」
 この幽霊然とした風貌のレイ子は、元気に話してはいるが正真正銘の幽霊だ。佐依の部屋にいる地縛霊であり、彼に恋する乙女である。
 大学一年生の佐依が同じ学部の女の子を部屋に連れて来た日にラップ音を響かせて女の子を追い出すと、幽霊が姿を現して「私以外の女の子を連れて来ないで!」と言ってきた。佐依は自分の住む家が事故物件だとは聞いていたが、スピリチュアルなことに一切関心がなかった彼はまさか本当に幽霊が出るとは思わず腰を抜かした。そんな彼の目の前で幽霊は頬を赤らめてモジモジとしている。
「驚かせちゃってごめんなさい。私、あなたのことが好きみたいなんです。さっき来てた子があなたの肩にもたれた瞬間、すごく嫌だなって思っちゃったの。そしたらピシッパシッて音がしちゃって......」
 見た目に反して幽霊らしからぬ話しぶりの彼女に、佐依は「なるほど、どうも」と返事をしてしまった。そのまま話し込んでいるうちに、彼女が生前の記憶がないから名前もないと言うので、佐依は幽霊の霊を取って「レイ子」と名付けた。レイ子は安直な名前にもとても喜んでいた。
 それ以来、レイ子は時々部屋で姿を現して佐依に話しかけるようになった。
「さよくん、記念日だから抱き締めて?」
「通り抜けるから無理だって」
「えーん、じゃあ抱いて?」
「いや、それも、通り抜けるから」
「いけず」
「できねんだって」
 ベッドにもたれて座る佐依の前で、レイ子は抱っこをせがむ子どものように腕を伸ばしている。三年半も経てばレイ子の存在にもアプローチにも慣れたもので、佐依は手をひらひらと振り、レイ子の腕を通り抜けさせた。幽霊は肉体を持たないから触れられないのである。
 するとレイ子は俯いて唇をきゅっと巻き込んだ。佐依は機嫌を損ねたかと思ったが、彼女はすぐに顔を上げてキラキラとした目で彼を見つめてきた。
「あのね、私さよくんのこともっと知りたいの。四年近く見てきてたくさん知ったけど、触ったらどんな感触なのかとか、そういうのはまだ知らない」
 佐依は黙って彼女の話を聞いている。
「あと、さよくんが見てる世界も知りたい。さよくんの背で視力でどんな景色が見えるのかとか。どこか痒いとか服の着心地はどうかとか。どれぐらいの音で雨が降ってることに気づくかとか。美味しいとか不味いとか。さよくんがどんな感覚で世界を見て、どんな風に世界を切り取ってるのか、その感覚も考えも丸ごと知りたい」
 レイ子はこの世にそれ以上楽しいことなどないかのようにそう話す。佐依の目には、うっとりとした、でも少しはにかんだ表情と、その向こうに微かに透ける自室の風景が映っている。
「じゃあさ、俺に取り憑いてみたら?」
「えっ?」
「レイ子が俺に取り憑いて俺の体動かしたらわかるんじゃね、レイ子の知りたいこと」
 今日の夕飯を思い付いたぐらいの気軽さで佐依は提案した。その言葉にレイ子は長いまつげで縁取られた目を大きく見開く。
「何それ天才! 取り憑いちゃっていいの?」
「うん」
「ほんと?」
「ヤベーことになったら嫌だからちょっとだけな」
「ありがとう! さよくん大好き!」
「はいはい」
「えっと、じゃあ、さよくんに取り憑いて納豆食べてみていい?」
「え、別にいいけど何で納豆?」
「実は私あのニオイがどうしても嫌いで、さよくんは納豆好きみたいだから言わなかったんだけど。でもさよくんの体なら納豆のニオイも平気で食べても美味しいってなると思うの」
「あー、なるほど? いいよ、それで」
「やった! じゃあ行くね」
「ん」
 そしてレイ子は緊張した面持ちの佐依の体に半透明の体を重ねた。佐依の体が一度ガクッと揺れると、彼は意識を失った。

「うわ......さよくんの体だ......」
 レイ子は薄く広い手をぐっぱと握ったり開いたりした。いつも眺めているだけだった佐依の手だ。骨張った体は頭で指示した通りに動き、乱視気味でブレた視界が広がり、薄手のスウェットがやや肌寒く感じる。ずっと知りたかった感覚に、レイ子は感動で肌を粟立たせた。
「さよくんの世界ってこんな感じなんだ」
 一頻り佐依の体を動かして遊んだ後、レイ子は一番の目的を果たすために冷蔵庫から買ったばかりの納豆を一パック取り出した。食卓に乗った箱には、どんなニオイが、どんな味が閉じ込められているのだろうか、彼女はワクワクしながらそのフィルムを剥がした。
「えっ、臭いんだけど」
 しかし期待を裏切るように、嗅覚を刺激する発酵したニオイは、彼女に不快感をもたらした。
「さよくんって臭いのが好きなのかな......でも、でも味は美味しいのかもしれない! さよくんが臭いの我慢してまで食べるぐらい美味しく感じちゃうかも!」
 レイ子は鼻が曲がりそうなのに耐えながら、納豆に醤油をかけて箸で持ち上げ、数粒を口に入れた。
「......!」
 しかし、口の中に広がったのは、さっきより強烈なニオイと、塩っぱいような苦いような味、豆のにちゃにちゃと柔らかい食感、そして纏わり付くような粘りだった。到底美味しいとは言えない味に、レイ子は顔を歪めた。
「全然美味しくない」

「うわっ、戻った?」
 佐依は食卓の前で目を覚ました。口には香ばしい大豆と醤油の風味が残っているが、他に体に異変はない。しかし  
「レイ子?」
 隣に座っているレイ子を見ると、彼女はボロボロと大粒の涙を流していた。
「どうしたんだよ、そんな泣いて」
「美味しくないの。納豆が全然美味しくない」
「泣くほど不味かったんか?」
 食べ物が不味すぎて泣くことがあるのかと佐依はレイ子をあやそうとしたが、彼女は首を横に振った。
「違うの。不味いから泣いてるんじゃない」
「じゃあ何でよ」
 レイ子は泣きじゃくったまま、とつとつと話し出した。
「私ね、さよくんの体になったら、さよくんが見てる世界全部知れると思ってたの」
「うん」
「だから、さよくんの鼻と舌なら、さよくんの世界の美味しい納豆を知れると思ったの」
「うん」
「でもね、全然美味しくなかった。さよくんの体なのに、ニオイも味も最悪だった」
「そっか」
「さよくんの体でも世界を見るのは私なの。さよくんが美味しいって感じるのと全く同じ味なのに同じ感じ方はできないの。さよくんの体を使っても、さよくんが感じたり考えたりする世界はわかんなかった」
「そっか」
「さよくんのこともっと知りたかったなあ。だって次の春にはさよくん卒業しちゃうから。この部屋から出て行っちゃうから。その前にさよくんのこと知り尽くして、思い出にして、見送りたかったから」
 佐依は初めて聞くレイ子の本音に驚いた。大学四年生で就職も決まっている彼は、来年の春に遠くへ引っ越す。地縛霊でこの部屋から離れられない彼女とはあと少しでお別れだ。寂しくはなるが、レイ子なら次の住人とも上手くやっていくんじゃないかと佐依は勝手に考えていた。
「泣き止めよ、レイ子」
 佐依はレイ子の頬に指を触れさせようとしたが、白い肌がある筈のそこに指がぶつかることはない。彼女は幽霊だから、その涙を拭うことも頭を撫でることも抱き締めることもできないのだ。
「俺もレイ子のこともっと知りたい。どんなニオイを美味しそうだと思うのか、姿見せない間はどうしてるのか、俺のことがどう見えてるのか。同じ感じ方はできないから言葉で教えて」
「えっと、ハヤシライスの日は美味しそうで好き。出てない間はさよくんのベッドに座って、さよくん眺めてる。さよくんのこと、いつもダルそうなのに几帳面で、意外と優しくて、押しに弱くて可愛いのが好き」
「あは、そか。ありがと」
 必死に泣き止もうとしながらも瞬きの度に雫を零すレイ子に佐依は胸が締め付けられた。心臓の痛みに自分が生きていることを実感する。佐依とレイ子の一番大きな違いだ。
「俺、死のうかな」
 言葉がするりと出た。
「え?」
「俺も死んで、この部屋の地縛霊になる。そしたら別れなんて気にしなくていいじゃん」
 迫る別れがレイ子を苦しめるのなら、その別れをなくせばいいと佐依は思った。もう辛くて思い詰められるなんてことになってほしくないと思った。この部屋を契約する時に不動産屋で聞いた話では、前の住人は自殺だったらしい。
「だめだよ、さよくん」
 しかし、レイ子ははっきりとした口調でそう言った。
その目から涙はもう流れていない。
「さよくんが死んで幽霊になっちゃったら、生きてた時の記憶はきっとなくなるよ。自分のことも私のことも覚えてない。そんなの寂しいよ。だから、生きて私のことを覚えてて。卒業して、仕事して、誰か好きな人と一緒に長生きして。それでたまに、忘れるまででいいから私のこと思い出してね」
 レイ子は宥めるように佐依に抱きついた。佐依にその温もりはわからないが、彼女がどんな風に自分を思ってくれているかは痛い程に伝わった。寂しさに耐えられていなかったのは自分の方だったと彼は悟る。
「なあレイ子」
「さよくん、何?」
「次ここに住むやつとも上手くやれよ」
「頑張るね」
「でも俺よりは仲よくならないで」
「それは心配しないでいいよ。私さよくんのこと本当に好きなの」
「......」
「今度はさよくんが泣いちゃうの? 泣き顔も可愛いけど泣かないでよ。また私も泣いちゃうから」
「ごめん、無理」
「もお、よしよし」






 数ヶ月後、佐依は部屋を出た。
 佐依は新しく入居したワンルームを見渡す。学生時代に住んでいた部屋より少し古いが少し広い。自分が見ている世界をレイ子に見せることはできないが、それでも彼は生きている。


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